一章 銀髪赤眼の少女 その1
夢……そう、これはきっと夢だ。
眠りの世界を揺蕩う意識が見せる、夢。
でもこれはまったくの作りものじゃない。
ずっと昔、子供の頃。
俺が実際に過ごした時間、そのものだった。
誰にも見つからないと思って、みっともなく泣いていた。
そこは広い原っぱにどっしり根を下ろした大木の下。だだっ広いことだけが取り柄の、公園の中心。
家から遠いせいだろう、ここで知り合いに会ったことは今までなかった。
なのにアイツはやってきた。俺を見つけても驚かず、むしろわざわざ合いに来たという感じだった。
白衣に黒い袴の、道着姿の少女。
背丈が俺より低いのに大人びて見えるのは、佇まいが凛としているからだろう。
「諦めるのですか?」
開口一番にそう訊いてきた。
前置きも飾り気も無ければ、説明も主語もない問い。
だが当事者である俺にとっては、その直球な質問が一番やりにくかった。逃げることも誤魔化すこともできない。
俺は涙を拭ってそっぽを向き、ぼそりと呟くように言った。
「……諦めるんじゃない。嫌になったからやめるだけだ」
きっと責められるって覚悟していた。
けれども彼女は予想に反して何も言わなかった。ただ傍に寄ってきて、俺の隣に腰を下ろしただけ。
しびれを切らして俺は自分から訊ねた。
「……お前、何しに来たんだよ」
「気晴らしです」
「気晴らし?」
「はい。暁也さんと一緒です」
再び静寂が訪れる。
少女の方から、何かを言う気配はない。
結局沈黙に耐えられなくなった俺がまた口を開いた。
「……練習が嫌になったんだ」
「というと?」
「辛いし、失敗したら痛いし、汗臭いし。おまけに何でわざわざあんな動きにくい服装で運動なんてしなきゃいけないんだ。バカじゃねーの」
しばらく沈黙が続いた。
さすがに真面目に稽古に取り組んでいるこいつに愚痴を言ったのはマズかったかなと不安になった時、彼女は言った。
「暁也さんはすごいですね」
皮肉かと思ったが、彼女は真剣な顔をしていた。
「すごいって……何がだ?」
予想外の言葉に困惑していると、彼女は俺の肩に頭を乗せてきた。子供ながら、女の子の温もりと柔らかさにドキッとする。
「自分の本音がそこまで言えることですよ。私は薙刀こそ好きですが、その理由は誰にも言えません」
「言ってたじゃないか。心身の鍛錬になるから好きだって」
しかし彼女は首を横に振った。その際に髪が鼻に触れた。ラベンダーの甘く爽やかな香りがした。
「違います。私は魔法少女に憧れているだけです」
「魔法少女って、あの戦う女子のアニメか?」
「はい!」
さっきとは打って変わって、彼女はテンションマックスになる。その変貌っぷりこそが、まさに魔法少女の変身のようだった。
「魔法少女ってかっこいいんですよ! ただの魔法使いやヒーローと違って、魔法が使えて強くて、可愛くてかっこいいんです! だから薙刀をやって強くなって、可愛くなって、いつか魔法少女になりたいんです!!」
何かの決めポーズらしいものを見せられる。運動神経がよく、かつ彼女自身が可愛いのでとても様になっていた。
だがそれを素直に伝えられないのが、ガキのガキたる所以だ。
「まあ、及第点だな」
「……暁也さん、これの元ネタって知ってますか?」
「知らないな」
その頃の俺は魔法少女よりも戦隊や仮面のライダー好きのごく普通のガキだった。
「じゃあ、採点のしようが無いじゃないですか」
「まあ、そうだな……」
ばっさりと否定される。だけど腹は立たなかった。彼女がすごいヤツだと認めていたからかもしれない。
俺は幹に体を預けて足を投げ出し、木漏れ日を見上げて言った。
「あーあ、お前が父さんだったらよかったのに」
「私、女の子ですよ」
魔法少女に憧れていた彼女は、女子であるということに強くこだわっていた。だからか武道女子にありがちな男っぽさというものがこいつにはなく、普段は清楚なお嬢様でさえあった。
「じゃあ、お母さん」
「私はまだ少女です」
ついでに、おままごとでもママ役を引き受けている所も見たことがない。まだ子供なのに年齢にもうるさかった。
「どうして私を父上や母上にしたがるんですか?」
「だってお前が親だったら、薙刀をやめるのを説得するの楽そうだし」
するすると言葉が出てくる。誰にも打ち明けられない本音が、彼女の前だと気負いなしに言えた。それはきっと少女も同じだったのだろう。俺の前ではいつものように優等生を演じることはなかった。
「わたしは暁也さんとこうして、同年代の子供になれてよかったなと思いますよ」
「なんだそれ」
かしこまった物言いに、俺は思わず吹き出していた。
少女はなぜか頬をほんのり赤らめて言った。
「……だって、その……。…………」
「ま、なんだっていいけどさ」
俺は跳ねるように立ち上がり、少女の方を見やって言った。
「なあ、遊ぼうぜ」
「遊び……ですか?」
「ああ。何もしないでぼんやりとしてたら、時間がもったいないだろ?」
「わたしはこうして暁也さんと一緒にいられたら、何もしないでいても楽しいですよ」
「んー……。望愛は何かやりたいことってないのか?」
「え、えっと……」
少女――望愛は顔を伏せて、もじもじとしだした。
「なんでもいいんだぜ。かけっこでも、鬼ごっこでも、だるまさんが転んだでも」
「暁也さんは走りたいのですか……?」
「ははは。ちょっと体動かしたい気分ってだけだ。望愛がやりたいことがあるなら、それでいいぜ」
「じゃ、じゃあ、それなら……」
望愛は少しためらっていたが、やがて両の拳をぎゅっと握って言った。
「ま、魔法少女ごっこがしたい……です」
「……魔法少女ごっこ?」
「は、はい。……暁也さんがいやなら、いいですけど」
「いやじゃないけど……。どうやるんだ?」
「名称通り、役になりきって遊ぶんです」
「ふーん。まあ、いいけど」
「それじゃあ、暁也さんが魔物役で――」
「それは断る」
子供心に悪役は嫌だというこだわりはあった。
その後、長い論争とじゃんけん十回対決の末に俺は悪役を押し付けられた。
ちなみに俺は望愛とのじゃんけんで勝てたことは一度もない。
夕暮れまでたっぷり遊んで帰路に就く。
「そういやお前、今日は塾もあるんじゃなかったか?」
「電話で腹痛で休みますって言っておきました」
こういう嘘を望愛は何度かついていたが、バレて叱られているところは見たことない。皆、こいつを心の底から信頼していたからだ。
「いいのかよ、そんなの」
「はい。暁也さんと遊んでる方が、楽しいですから」
真っ直ぐに目を見て言われる。また心臓がドキドキと鳴りだした。
「……変なヤツ」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、何も」
どんな本音を言える気安い相手でも、今回ばかりは気恥ずかしくて伝えることができそうになかった。
「……もうそろそろ、家に着いちゃいますね」
「ああ、そうだな」
「いっそのこと、一緒の家に住めればいいんですけど……」
「無茶苦茶なことを言うな。家っていうのは、家族じゃないと一緒に住めないんだ」
だが望愛は納得がいかないというように唇を噛んでいた。
「変です」
「変って、何が?」
「好きな場所に家を建てることができるなら、好きな家に住む権利があってもいいじゃないですか」
「別に皆が皆、好きな場所に家を建てられるわけじゃないさ。ほら、公園とか学校の中に家は一軒もないだろ?」
「そうですけど、でも……」
望愛は変に頑固なところがあって、一度言ったことはなかなか曲げようとしない。どうにか納得させようと俺は懸命に思案し、閃いた言葉をよく考えもせずに口に出していた。
「じゃあ、俺とお前は今から家族だ」
「えっ……?」
望愛はしばしきょとんとしていたが、やがて瞳をキラキラ輝かせて俺の手を取りぎゅっと握ってきた。
「本当ですか? 本当に、本当ですか?」
「も、もちろんだ」
「それなら、一緒の家に住めますね!」
この時俺は、口は禍の元という言葉の意味を身をもって学習した。
「いや、それは無理だけど……」
「でも、家族ですよね?」
不思議そうに尋ねられても、どうしようもない。言葉は魔法ではなく、幻想を生み出すことはできても現実を自在に変える力は有していない。
俺は脳の思考回路をフル稼働させて、望愛を納得させられる言い訳を捻り出した。
「……えっとだな、よく聞いてくれ。俺とお前は確かに家族だ。でもそれは、普通の家族じゃないんだ」
「禅問答みたいですね」
意味はよく分からなかったが、とりあえずうなずいておく。
「ああ。俺達はこの世界で一番すごい家族なんだ。つまりこの地球のどこにいても繋がってる、最強の家族なんだ」
「すみません、要約をお願いできますか?」
やっかいなことに、子供に効果てきめんの一番とか最強というマジックワードは彼女には通用しなかった。そのせいで俺は働き終えた脳に再び鞭打つことになった。
「だからさ、この広い世界こそ、俺達のマイホームだったんだよ!」
どこぞの調査班ならすぐに真に受けてくれるんだろうが、彼女は首を捻りっぱなしだ。かくいう俺も無理があるなーとは思っていた。
しかし結局は望愛も子供であり、夢を見るロマンチストだったわけで。
最終的には手を合わせてうっとりと目を細めてくれた。
「それ、素敵ですね」
「あ、ああ。そうだろ」
個人的にはなんで我が家のはずの敷地に、こんなに大量の他人が住みついているんだろうか――とか疑問もあったが、彼女はそんな野暮なことは言わなかった。
「私達はたとえ地球のどこにいても、ずっと一緒の家にいるってことですね。それって、すごいです!」
「ははは……、そうだな」
いつツッコミを入れられるかとヒヤヒヤしっぱなしだったが、どうにかこの場は誤魔化せたようだ。
「それじゃあ、今日からさよならは言いません。お休みなさい、暁也さん」
「お、おう。お休み、望愛」
上機嫌で帰っていく望愛の背中を見ている内に、自分の言ったこともあながち悪くはなかったんじゃないかと思い始めた。
それ以来、二人きりになる度にこの話を持ち出されてむずがゆい思いをするなどこの時の俺は考えもしなかった。