二章 新米教師の暗躍 その15
「ここにいらっしゃいましたか、暁也さん」
カツンとアスファルトを鳴らす下駄の音。
その音が瞬時に過去の記憶を呼び覚ます。
幼少の頃の話だ。
俺の挫折続きの人生はこの街のとある道場から始まった。そこでは薙刀を教えており、師範がとても厳しい人だった。
俺は稽古どころか着付けすら上手くできずに散々しごかれた。
一方、あいつの薙刀の腕は同年代の中ではずば抜けており、年上のヤツであっても構わず負かす腕前だった。師範直々に稽古を付けてもらっていた記憶がある。
次第に俺は面倒臭くなって道場から足が遠のいた。
それ以来、この下駄の音を聞くことは無くなった。トラウマとまでは行かなくても、二度と耳にしたくはなかった。幸い、下駄など履く人は夏祭りでも滅多にいない。だから今まですっかり忘れていたのだが……。
「……また道場通いでもするのか、望愛」
「戦場では上品な作法を守る武道など無意味です。どんな手段を講じてでも相手を殺すという信念が無ければ生き残ることすらできません」
「だったらその恰好は何だよ?」
望愛はいつかの日みたいに、白い白衣に黒い袴と道着を身に纏っていた。
「私の勝負服ですが、何か問題がございましたか?」
「別に。確か道場でその髪を一つ結びに変えるんだよな」
「そうでしたね。面など付けることはもう無いので、後は人を斬るだけです」
袋の紐を解き、薙刀を取り出す。
「切っ先は刃物じゃないんだな」
「あなた相手ならこれで十分です」
俺は踵を完全に返し望愛と正面から向かい合う。
そして息を整え、高らかに唱える。
「閃光の剣、俺と共に戦ってくれ!」
左手が目映く輝き、閃光の剣が俺の手に収まる。
「……戦うんですか、暁也君?」
振り返ることなく俺は答える。
「ああ。……ありがとうな千利、最高の反面教師だった」
わざわざ見ずとも、千利が微笑んだのが分かった。
「本気で行かせていただきます。暁也さんを殺すつもりで」
望愛は左手で薙刀を持ち、自由になった右手を宙に突き出す。
「我は死神の花嫁、冥界に座す者。生の半分は真っ赤な死に汚され、地上に寒々とした季節を強いた罪人。されど我はなお頬を綻ばせよう。それが妻の役目なのだから。この手に収まれ、冥界の柘榴」
漆黒の闇が彼女の手の上に表れ、真っ赤な柘榴を落とした。それをひと齧りした途端、彼女の身を禍々しい瘴気が覆った。さっき蛇を全滅させたカラクリもこれだ。
「ドーピングか?」
「正しい解釈です」
取り付く島もない。これ以上の無駄話をする気は無いようだ。
「俺はお前を倒し、神楽耶姉を奪った空神を倒す」
俺は望愛の喉先を狙うように剣を構えた。
「あなたの実力では不可能です。ここで止めさせていただきます――息の根を」
彼女は構えを取ることはなく、自然体で立っている。しかしどこにも隙が見当たらない。
互いに動くことはなく時間だけが経っていく。
合図は爆音と地響きだった。
安定しない大地を蹴り、相手に向かって駆ける。手に持った獲物は相手の方が圧倒的に長い。先手を打たなければこちらは瞬殺される。
しかし技術面では望愛の方が優勢だ。ならば残る手段は一つ、奇襲しかない。
俺は駆けていた最中に、地べたに転がっていた小石を相手の顔面に向かって思い切り蹴り上げた。
そして動きを止めることなくそのまま剣を振り抜く。
「――遅いですよ」
だがしかし、望愛はそれを事前に察知していたのか、易々(やすやす)と躱し上段から薙刀を振り下ろしてくる。
途中で攻撃を諦めて、倒れながら横に回避する。だが刀は途中で軌道を変えて胴を狙いにくる。成す術なくその一発をもらう。
「ぐぅっ……!?」
思わず横っ腹を押さえた俺の頭を彼女は薙刀で容赦なく叩きつける。
そして腹を突きまた胴を打ち抜き、体勢を崩した瞬間に剣先で足をすくわれる。
一方的な戦いに見ていられなくなったのだろう、水晶が音もなく望愛の背後に忍び寄りナイフの柄で後頭部を狙った。
完璧な不意打ちに見えたのだが、望愛は俺を切り伏せつつ跳ね上がる柄で死角の水晶の顎を打ち抜いた。
今まで加減されていたことを一撃で昏倒した水晶を見て知らしめられる。
おそらく手練れの彼女には手を抜く余裕が無かったのだろう。
そのせいで食らった一撃は今までの攻撃よりも重く、体力を根こそぎ奪っていった。
顔面がアスファルトに激突する。鼻が熱くなり鉄の臭いがした。
すぐに立ち上がらなくちゃいけないと思ったが、頭を固いもので押さえつけられる。めり込むようなそれはおそらく下駄の歯だ。
「これでお分かりになりましたか」
「……いや、全然。まだまだ俺はやれるぞ」
言い返すのは予想外だったのか、望愛の声が少し上ずる。
「あなたは私にすら勝てない弱者なんです。そんな方がどうやって空神に勝つとおっしゃるんですか?」
「……いな、にす?」
下駄の力が一瞬だけ緩む。きっと今の一言はうっかり口にしてしまった失言だ。そのせいで動揺し、僅かな隙が生まれた。
その瞬間に力を振り絞って顔を上げる。
バランスを崩しかけた望愛は慌てて後方に飛ぶ。
足がふらつきながらも、俺は立ち上がった。
「それが、怪物の名前か」
「どうして……」
一発も攻撃を受けていないはずの望愛がなぜか肩で息をしている。
やはり望愛を纏う邪悪な瘴気は、何らかのデメリットと引き換えにあの超人的な身体能力を与えているのだ。反吐が出る。
「どうして立ち上がるのですか? とっくに体力も気力も限界を迎えているはずです。それなのになぜ……」
「決まってんだろ」
うざいぐらいに垂れている鼻血を拭って、正眼の構えを取る。剣先はまったくぶれることなく、真っ直ぐに彼女の額を向いている。
「お前との約束を思い出しちまったからだ」
「私はあなたと約束などしていません」
拒絶するというよりも、激昂して俺の言葉を断ち切ろうとする望愛。
そんな彼女に、俺は静かに告げる。
「今度はお返しに、俺が望愛を助けてやる」
望愛が目を見開く。
「忘れたとは言わせないぞ、物忘れの激しい俺が憶えていたんだからな」
「そ、そんな約束なんてもうどうでもいいじゃないですか!」
叫ぶ彼女に俺は声をかぶせて怒鳴る。
「いいわけねえだろう! 約束を破られてキレていたのはテメエだろうが!」
「……もうどうでもいいって、言ってるんですよぉおっ!」
予告なしに間合いを詰めてくる望愛。上段の構えを取っており、一撃で終わらせるという意思で突撃してきている。隙だらけの最大の反撃のチャンス。
しかしそれを防いだり避けたりすることは俺にはできない。望愛の超人的な身体能力、その本気のスピードに俺は付いていくことができない。
だが見える。望愛の表情筋の動きさえ、今はしっかりと見ることができる。
目が超速に慣れてきたのだ。
虚空を貫く風切り音。
そして勝負は決した。
望愛の体が後方に吹っ飛ばされる。彼女の額を一筋の光線が打ったのだ。貫いたわけでは無いが、その痛みは尋常なものでは無いだろう。
そのまま受け身も取れずに望愛は倒れた。