二章 新米教師の暗躍 その14
「逃げるつもり?」
「……逆に訊くが、お前等は逃げないのか?」
水晶は答えようとしたが、急に思い直したのか黙り込んでしまった。
突然の沈黙に少し戸惑ったが、やがて彼女は何もなかったように話し始めた。
「そうしなきゃいけないみたい」
「みたい、か。引っかかる言い方だな」
「あの、もしかして今のは上層部からの通信だったんですか?」
千利の問いに水晶はうなずいた。そのやり取りで俺は事情を悟った。
「そういうことか。お前達が戦う理由は結局仕事のためかよ。トップエージェントってのも難儀な職業だな。同情するよ」
「……そうかも」
全ての謎が解け、興醒めになった俺はそのまま立ち去ろうとした。
だが突然どこからか現れたデブ猫が足元にじゃれついてきた。
「なんだよ、お前。邪魔だ」
足で追い払おうとするが、猫は意外にも俊敏な動作で躱して体を擦りつけてくる。
「あ、ツォンクル! お帰り」
千利に気付いたツォンクルとやらは、にゃおうとのんびりした鳴き声を上げて彼女の広げた腕の中に飛び込んだ。
「こんな夜更けに一匹だけで散歩させるとか、随分な放任主義だな」
千利はいつもの苦笑を浮かべてツォンクルの頭を撫でた。
「私とこの子は、ノラ気質なんですよ」
少し興味が湧いて、俺はつい質問して話を続けてしまう。
「ノラ……ねえ。公務員が?」
「私は以前は、水晶さんと同じ組織で研究員として勤めていたんです」
「以前はって……、今は違うのか?」
彼女は「はい」と返事をして、空神を指差した。
「その組織は化け物と対抗することを目的としていました。けれど、段々と耐えられなくなったんです」
「まあ、正義の組織とか絶対にブラックだろうからな」
俺の茶化しに千利は曖昧な笑みを浮かべた。
「だけど結局、今回の件でまた戻ってくることになったんです。この破壊と殺戮の世界に」
「今回の件、千利も何かやっていたのか?」
俺の問いに千利は唇を噛んだ。まるで自分には泣く資格が無いとでもいうように目の端に浮かぶ涙をせき止めている。
「暁也君は何度か蛇に襲われましたよね? あれは私がやったことなんです」
「ヨルムガンドってやつか?」
「はい。あれで意識を奪った人を廃港の倉庫に閉じ込めていたんです。オーディンを降臨させるためには多くの魂が必要だったので」
オーディンという名前には聞き覚えがあった。確か北欧神話にそんな神様がいたはずだ。
「空に浮かぶ神を降臨させないために必要だったんですよ。牽制とでも言いましょうか。こっちにも同等の神がいる。そっちが顕現させればこっちも容赦しないぞと」
「でも失敗したわけか」
「そうですね。まあ、上手くいくとは思っていませんでしたが」
ふわっと風が吹き、髪がなびいて千利の表情を隠した。
「誰も彼もが、自らの正義を貫こうとしている。その中で大切なものを守ろうとするのは並大抵のことじゃありません」
千利は猫を下ろし、膝を抱いて隣に腰を下ろした。そして空を仰ぎ、呟くように言った。
「虚空に浮かびし神よ、新生せし空虚なる神よ。汝の求める世界はいかなるものか?」
「聖書にでも出てきそうな言葉だな」
「いいえ。これは詩ですよ。新たな神話の最初の一説ぐらいにはなるかもしれません」
どうも投げやりだった。千利自身も、俺と同じで何もかも捨てようと思っているのかもしれない。
「これ以上、誰も傷つけたくない。そう思ったのに、こうしてまた同じ罪を重ね続ける」
彼女のいう罪というのがどれだけ重いものか俺には分からない。だからかけるべき言葉が見つからなかった。
「……ねえ、暁也君」
千利は俺に向き直り、視線を合わせてきた。
「一緒に逃げますか?」
何かの冗談かと思った。だが千利の顔には覇気が無く、嘘を吐く気力は残っていなさそうに見えた。
「逃げるって……、そんなことできるのか?」
「はい。ちょっと待っていてください」
千利は大きく息を吐いて目を瞑った。
そして聖書を暗唱するように畏まった声で詠う。
「八脚の馬よ、ここに顕現せよ。疾走の馬」
千利の足元が白く輝き出し、光が溢れ出す。あまりの眩しさに俺は腕で目を庇った。
しばらくすると馬のいななき声が間近から聞こえた。
恐る恐る腕を下ろすと、目の前に美しい白馬がいた。佇まいは勇ましく凛としており、鬣はこの世のものとは思えないぐらい艶やかで柔らかそうだ。しかし本当に目を引くのは脚だ。通常ある四本に加えて、腹の辺りからさらに四本生えている。計八本の脚。常識外の姿なのだがもう驚きは無く、素直にすごいなと思った。
「……なんだ、コイツ?」
「私の幻想解放です。ねえ、スレイプニル」
彼女が呼びかけて優しく首筋を撫でてやると、スレイプニルは目を細めてぺろりとその頬を舐めた。
「スレイプニルってあれだろ、オーディンとやらが騎乗してたっていう八脚の馬」
「はい。私みたいな未熟な幻想使いがオーディンを半現界であっても呼び出せたのは、眷属であるこの子を使役していたからでしょう」
「……千利、本当に逃げるつもり?」
非難するような目を向ける水晶。千利はそれを真っ向から受けても、顔色一つ変えることはなかった。あるいは変えられないのかもしれない。彼女は一人で、あまりにも多くのものを背負いすぎた。そのせいで乾いた笑みしか浮かべられないのだ。
「はい。もうこんな辛いことからはおさらばしたいんです。心が壊れてしまう前に」
千利は俺に手を伸ばした。
「行きましょう、暁也君。あんな怪物は人がどうこうできるものじゃありません。逃げたって誰も責められません。もしそんな人がいたら、私が守ってあげます」
迷うことはなかった。その手を取れば、俺はこの地獄から逃れることができる。
何があっても千利が守ってくれる。苦しまずに生きていけるのだ。
「暁也、それでいいの? 大切な人を失って、あなたは生きていけるの?」
水晶の言葉がバラの棘のように胸に刺さる。そう、あの怪物には他でも無い神楽耶姉が取り込まれている。
「俺にはどうしようもできないことだ。見捨てたって後悔は無い。それに遅かれ早かれ、人は死ぬものだろう」
自分の声のはずなのに耳に馴染まない。心が納得していない。間違ったことは何も言っていないはずなのに。
「この手を取ってください。安全な場所まであなたを連れて行ってあげます」
「暁也!」
あと一歩、あと一歩進めば千利の庇護を得られる。永遠の安息が手に入るんだ。
それなのに足が地面から離れない。体が他人のものになってしまったかのように言うことをきいてくれない。