序章 後編
倉庫を出た水晶はドアを閉じ、倉庫へと足を向けた。
その際に太腿に備え付けていたナイフを抜き放つ。磨かれた刀身が、月光の光を受けてぬらりと光った。
今まで通り入り口のセキュリティパネルをハッキングし、ドアを開く。
ゴーグルをつけると、宙に紅いレーザーのようなものがいくつも伸び、それが絶えず動き回っているのが見えた。
目で追うように眺めていた水晶は、一度目を閉じた後に、おもむろに一歩踏み出した。
紅いレーザーが、水晶の爪先近くへ迫ってくる。
それを彼女は軽く跳ねて躱し、宙で一回転して着地する。まるで低空で高跳びのバーを越えたかのように。
それからも水晶は軽業師のような動きでレーザーの間をすり抜け、通路を進んでいった。
やがてゴーグルにはレーザーだけでなく、シューティングゲームの敵キャラみたいに他のものも次々と映されていた。中でも一番面積を占めていたのは建物の図面だ。そこには水晶の現在地も表示されており、そこから矢印が伸びていた。
彼女はレーザーを躱しながらも、矢印の先へ向かう。
その最終地点は、図面の中で唯一何も書かれていない虚無の場所だった。
だが水晶の眼前の壁には、あるはずがないドアが存在していた。
彼女は忍び足で近いていった。ドアにはノブや引き手は存在しない。
ドアの近くにはリーダーが取り付けられていた。先ほどまで見てきたものとは明らかに違う型で、コードをさせるようなところは存在しない。
水晶はドアに目を戻し、何度かノックする。安物の壺を叩いた時のように、発せられた音はよく響いた。
「……所詮は、急ごしらえの欠陥工事」
水晶は腰に下げていたポーチから、小さな金属製の箱を取り出す。開いたそれには小さな粘土と、スイッチがついたより小さなボックス型のものが入っていた。
粘土を彼女は壁に取り付け、通路の角の向こうまで駆け戻る。
壁越しに一度粘土が壁に張り付いていることを確認し、頭を引っ込める。
何度か深呼吸した後、水晶は手にしていたボックスのスイッチを押した。
角の向こうからポンッ!――とポップコーンが弾けた時みたいな音が鳴り、続けてパーンッと甲高い金属音が響いた。
水晶は耳を澄まして辺りの様子を確認した後、角の先の様子をそっと窺った。
ドアはまるで突風にでも吹かれたように、部屋の中に倒れていた。
水晶は足音を潜めて通路を進み、部屋の中へと入っていく。
中はがらんとしていて何もない。ただ一つ、階下へ続く階段を除いて。
彼女がいる場所は一階であり、それより階下となると当然地下になる。
階段の先は薄っすらとした照明があるのみで、不気味な雰囲気が漂っている。
しかし水晶はさして気にした風もなく、階段を下りていく。
コツ、コツという足音が間を置いて響く。
水晶は瞬きもせず、目を凝らして進行先を見やっていた。当然、音にも最大限気を払っている。
階段は一定の距離ごとに壁に突き当たり、踊り場を挟んで再び地下へと続いている。
長い長い時間が経った。階段が地下深くへ続いていたのもあるが、それ以上に水晶の慎重な足取りが原因だ。
彼女の細心の注意は杞憂に終わり、何事もなく階下に辿り着いた。
大きな鉄門扉が目の前にある。今までのものとは違い、頑丈さを求めたがゆえの無骨な両開きの扉。
いかにも重厚そうな、大きな南京錠が一つ、扉の取っ手を通して巻かれた鎖に取り付けられていた。
水晶はポーチから針金を取り出し、錠前の穴に差し込みカチャカチャと動かした。
ほどなくして、南京錠は重たげな音を立てて開錠音を鳴らした。落下するそれを彼女は軽々片手で受け止めて、そっと地面に置いた。
水晶はゴーグル越しに地上の方を見やる。グラス部分を白い円いアイコンが何度か表示された後、『No Abnormal Condition.』の文字が映った。
扉に視線を戻した水晶は取っ手に手をかけ、ゆっくりと開いていった。
ギィ……と鈍い音が響く。
開いた扉の先は、淡い緑の光が部屋を包んでいた。
光は部屋の中心にある、巨大な円柱状の容器から発されている。その中は緑色の液体で満たされていた。
容器の中は液体以外に何もない。時折、泡が立ち上っているだけだ。
水晶はしばし、眉をひそめて容器を見つめていた。
部屋の中を見回した水晶はふと、壁際にある一台のパソコンに目を留めた。
その前に行き、電源を入れる。音もなく画面が明るくなり、パスワード入力画面が映し出される。
それをハッキングによって突破し、メイン画面を表示させる。
並ぶアイコンの中、水晶は『Inanis Project』にカーソルを合わせて開く。
それは資料らしきファイルだった。細かな文字で綴られた英文の間にグラフや画像が、随所に差し込まれている。
スクロールし流し読みしていた水晶の手が、ピタリと止まる。
終盤の中の一文にある、一つの単語。彼女の目はそれを凝視していた。
唇が微かに動き、呟きが漏れる。
「……『Japan』」
それは今まさに、彼女が注視している単語だった。
○
月下の森の中。
梟の鳴き声のみが響く、静まり返った場所。
水晶は大木の割れて空洞となったそこに身を潜めていた。
辺りの様子を窺ってから、彼女は通信を繋ぐ。
「こちら水晶」
『状況を報告せよ』
「ラボを脱出した。空神はもう、運び出された後だった……」
『行方は?』
「おそらく、日本」
『やはりそうか……』
「やはり?」
水晶の反芻にしばし沈黙した後、相手は答えた。
『先刻、ラボから運び出されたブツの一つが船に積み込まれたという情報が入った』
「まさか……?」
『行先は日本の愛古島らしい』
「日本……」
水晶はぎゅっと唇を噛んで、月と真反対の方角――東の空を見やった。
『水晶。君に次の任務を与える』
「なに……?」
『愛古島へ向かい、空神の捜索を行え。見つけ次第、直ちに始末せよ』
「了解……」
『通信を終える』
宣言から間もなく通信は切れた。
水晶は空から地上へ視線を戻そうとして、ふと何かに気付いて南の空を見やった。
その目の先には、赤い星が一際明るく瞬いていた。