二章 新米教師の暗躍 その7
夜になるとこの世の光をすべて集めたかのように目映く輝く街、ラスベガス。
この街はカジノなどのギャンブル施設や、シティグループをはじめとした大企業が集う場所として有名だ。
また千九百八十年のホテルラッシュにより、この街は異様にホテルが多い。その理由として、一定規模以上のカジノは客室が二百以上のホテルにしか認可されないためだ。
必然的に深夜のホテルのバーでは、今日の勝負の結果を語り合う紳士淑女が集う。
ここフリージア・ラスベガスのバーにもそんな客達が店内で戦果を自慢し、あるいは愚痴を零している。中には純粋にワインやカクテルの味を楽しんでいる者も少数だがいる。
スピーカーから流れる曲が陽気なジャズからゆったりしたボサノバに変わった時、一人の男が来店した。
肌が白く、髭が綺麗に剃られている。灰色の瞳は思慮深さを感じさせ、ワックスでセットされた金髪はだらしなくならない程度に遊ばせている。
品格あるストライプスーツに、鏡のように磨きこまれたブラウンシューズ。どこを見ても隙が無かった。
歩幅は一定で、動きに無駄が無い。そのため店内の客は彼を見てロボットみたいなヤツだなという感想を抱いた。
男はカウンター席に座りマスターを呼んで、カルーア・ミルクを注文した。隣に座っていた女は見た目とのギャップに思わずくすりと笑ってしまった。
その女は男の耳にピアスを見つける。アクセサリー類に詳しい彼女は、一目でそれがフェイクピアスであることを見抜いた。
つくづく人は見かけによらないものだと思い、女は勘定を済ませて店を出た。
男は出されたカルーアミルクを口に含み、音楽に耳を澄ませて目を閉じた。まるで敬虔な信者が神に祈りを捧げているようだという印象をマスターは受けた。
周囲の者は気付いていない。男が口を閉じつつも、僅かに動かしていることに。
奥歯にセットされた小型の装置とフェイクピアスに偽装した機器を用いて、誰かと会話していることに。
「任務は順調か?」
『まずまず』
「例の男は?」
『尾行は失敗。現在は独断で彼に接触し、護衛を続行している』
「まあ、いいだろう。ターゲットはどうだ?」
『尻尾はつかんだ。もう一度襲撃があれば、発生源を辿ってアジトの場所を特定できる』
「よし。では次の指示を与える。男を連れてカフェ・アルフヘイムに向かえ」
『了解』
「これで通信を追える。何か質問は?」
『シスターの様子は?』
「変わりない。他には?」
『カルーア・ミルクは美味しい?』
「……これで通信を終える」
男は目を開き、小さく溜息を吐いた。
そしてマスターにお代わりを頼む。
おしゃべり好きのマスターは、男に当店の味はいかがかと洒落たジョークを交えながら訊いた。
味はまずまずだが店の雰囲気が堅苦しくなくていい、また近いうちに来るよと男は答えて新しいカップを傾けた。
脳が蕩けるような甘みが、彼の口中を満たした。
○
望愛を捕まえることができたのは昼休みになってからだった。
それも探すのを諦めて、昼食を取るために屋上に上がった時にたまたま見つけたのだ。運の勝利だった。
俺は付いてきていた水晶に悪いが隠れてくれと言い、一人で彼女にこっそり近付く。
「転校早々ぼっち飯とは、勇気があるな」
「あっ、暁也さん!?」
ぎょっと振り向く望愛。狙ってやったこととはいえ、ここまで驚いてくれるとこっちがびっくりしそうになる。
「お前は知らないかもしれないが、日本の学生事情は厳しいんだぞ。スタートダッシュに失敗すると、あっという間にぼっち街道まっしぐらだ。体育で組む相手はいなくなるし、特に学園祭はきついな。お一人様確定だ。放課後までいるのが辛くなって途中退場するのは、なかなか心が折れるぞ」
「……経験者は語る、という感じですね」
望愛の表情は暗く、声は硬い。
「なんだ、クラスには馴染めなかったのか?」
「いいえ。皆さん優しくしてくださるので、特に居心地の悪さは感じていません」
「絶賛孤立中の俺には、眩しすぎて直視できないな」
ジェスチャーを交えて冗談を飛ばすと、ようやく少し笑ってくれた。
「でも、ちゃんとクラスの方とお話しできていたじゃないですか」
「最低限のコミュニケーションは取っているが、友人がいるかどうかは話が別だ。俺の心は熊本城並みに難攻不落だからな」
「私にも、攻め落とすことはできませんか?」
「そうだな……。その弁当のミートボールをくれたら開城しないこともない」
意外と呆気ないですね、と苦笑して彼女はそれを箸で挟んだ。
「だけど俺、今日は弁当じゃなくてパンなんだよな。購買に箸を借りに行くのも面倒くさいし、仕方ないけど手で摘まむしか……」
思案する俺の前にミートボールが付き出された。
「……おい、望愛。これは何の真似だ?」
望愛は頬を朱に染めながら、震える手で箸を持っている。ミートボールが落ちてもいいよう、手でお皿を作っているのが何ともいじらしい。
「えっと、その……。はしたないかもしれませんが、こうすれば暁也さんのお手を汚さず食べていただけるのでは、と」
「でもこれ、お前の箸だぞ?」
「そ、そうですけど……。暁也さんなら、いいですよ」
さっきまで望愛が使っていた箸。作法のしっかりした彼女のことだから舐め箸みたいな汚い食べ方はしていないはずだが、それでも少し唇に触れたりしているはずだ。
ごくりと喉が鳴ってしまう。
まあ、でもいいよな? だってこうして本人から差し出してきているんだし。
心臓を高鳴らせて俺がミートボールに口を近づけた刹那。
「だったら割り箸を使えばいい」
うなじに固くてちくちくする感触。
振り返るまでもない。水晶だ。
大方、彼女が割りばしでうなじをつついてきたのだろう。まったく、隠れてろって言ったのに。
「……あなたは、昨夜の」
「水晶。愛古学園の二年生」
今日の望愛は警戒を越えて、初っ端から臨戦状態の目で水晶を睨みつけている。まあ、昨夜の仕打ちを考えれば至極当然の反応だ。
「暁也さん。どうしてこちらの方が、ここに?」
「そりゃ、この学校の生徒だからだろう」
「私が訊いているのは、そういうことではありません」
望愛のキレ方は怒鳴ったり暴れたりするでも無い、比較的静かなものだ。その代わり、一度へそを曲げたらなかなか機嫌は元に戻らない。
そして辛いのが、彼女は怒ると饒舌になり、相手の心を折るようにひたすら弱い所を突いていくのだ。そのせいで小さい頃、俺は何度か彼女に泣かされたことがある。
「水晶さん、でしたか? その方は私を囮にしたんですよ、命を危険に晒したんですよ。おまけに自分の本当の身分を名乗ろうともしない、怪しい方なんです。一緒にいるなんて、神経がどうかしているとしか思えません」
「私は愛古学園の学生。生徒手帳も持っている」
そう言って彼女はポケットから愛古学園の生徒手帳を取り出した。その拍子に何かを地面に落とした。水晶は慌ててそれを拾おうとしたが、その前に望愛が横から掻っ攫う。
「東京大学の生徒手帳ですね。文学部の二年。キャロライン・ハウエル・ボールドウィンさんですか。お初目にかかります」
読み上げてから俺にも見せてくれた。確かにそこには望愛の呼んだ内容がそのまま書かれていた。ちゃんと水晶の顔写真も貼られている。
「……どの写真でも不愛想だな、お前の表情」
「証明写真とはそういうもの」
俺は場を和ませるつもりで言ったのだが、結果的に望愛の怒りにさらに油を注いでしまったようだ。眉間に皺が寄っている。
「そうですか。暁也さんは私よりもそこの方が大事なんですね」
「そんなことは言ってないだろ」
「だって、暁也さんは少しも私の心配をしてくださらなかったじゃないですか。昨日あんなに酷い目に会ったのに、助けてくれなかった。だけどその方は身を挺して庇った。死地に頼まれずとも自ら飛び込みましたよね」
何も言い返せない、全て事実なのだから。ただ黙って俯いているしかない。
望愛は静かに歩き去っていく。
角を曲がる直前に、彼女はぽつりと言った。
「暁也さんが悪いんですからね」