二章 新米教師の暗躍 その6
千利に連れてこられたのは空き教室だった。
ここは一般教室や特別教室から離れており、廊下ですら歩く者は滅多にいない。
室内には埃が溜まっており、特に机の板面は酷い有様だった。指を滑らせればもれなく埃が付いてくる。雑巾で拭けば真っ黒になること請け合いだ。
「なあ、ここのテレビって使えるのかな?」
「あの、それでは授業をサボっているだけになっちゃいますので……。そういえばホームルームの時にいませんでしたね。どこに行っていたんですか?」
ちょっと考えて、俺は出鱈目を言った。
「ああ、病院の検査があってな。それで遅れた」
「そうだったんですか。じゃあ、出席扱いにしておきますね」
思い付きの嘘をあっさりと信じる千利。簡単に詐欺とか怪しい勧誘に引っかかりそうで少し心配だ……。
本題に入る前に軽い世間話をする。といっても、昨日の進路の話だったので俺にとっては結構しんどかった。
しばらくすると授業開始のチャイムが鳴った。
千利は一度深呼吸をして表情を引き締めてから、口を開いた。
「暁也君。昨夜の件について、一つだけ質問させてください」
予想通りすぎる展開に、俺は内心で苦笑した。
「なんだ?」
「あなたは〝あっち側〟の人間なのですか?」
「……は?」
発現の意味がまるでわからなかった。しかし千利の纏っている鬼気迫る空気は、とても問いを発せるようなものではない。
彼女の目線は俺の目線を釘付けにし、糸で瞼を塗ったかのように瞬きすら許さない。
「どうなのですか、暁也君」
まるで室内の空気が一瞬にして極寒の地に変えてしまうかのような、凍てついた声。
無感情な顔には、いつものどこか抜けている千利の面影は一切ない。
もしも嘘をついて見抜かれたら……、考えただけでも背筋がゾッとした。
どうにか思考回路を酷使して、千利の問いの意図について考える。
かろうじてわかるのは、質問と昨夜俺がぶっ倒れたことが関係しているということだ。
とりあえず千利が見聞しているであろうことを整理してみる。
昨夜、千利は夜遅くに学校を出た。
そして車で廃港の近くを通りかかった際に、水晶が俺を背負って歩いているのを目撃したのだろう。
その時、水晶は俺を病院に運ばせるために何かしら説明した。あの出来事をそのまま話せるわけはないから、そこには多かれ少なかれ嘘が混じったはずだ。
きっとそこにヒントが隠れている。
では次に千利の質問について考えてみよう。
彼女は〝あっち側〟と意味深な単語を使っていた。直接言葉にするのを躊躇しているということだ。
なぜそこを伏せる必要があったのか?
情報不足で推測に頼るしかないが、これまで通り発言者に寄り添って考えていけば自ずと真意が見えてくるだろう。
千利は真面目で小心者だ。職業は教員。つくづく教員に向いてない性格だなとか思ったが、今回は関係無いので放置。
そんな彼女が伏せる単語とは何だろうか? 状況とセットにして考えてみよう。
俺は水晶に負ぶわれていた。
千利は彼女を見た時、どう思っただろうか?
俺は彼水晶を知らなかったが、千利は教員でしかも二年の授業を受け持っている。転校生とはいえ、あんな目立つ外見のヤツなら彼女が忘れているということはまず無いだろう。少なくとも愛古学園の生徒であることは分かったはずだ。
そしてこの場に水晶は呼び出されていない。つまり千利は水晶を呼び出して叱る、という考えには至らなかったわけだ。彼女の生真面目な性格から鑑みるに、他の教員に説教を任せはしない。自分が目にした不正は自分で正すという正義感が千利にはあるように思う。
つまり水晶には罪がなく、しかし俺に非があるという結論に至った可能性が高い。
……なんで?
そこで俺の思考が止まりかけた。だってさ、俺はただ気を失って水晶に負ぶわれてただけだぞ。心配こそされても、問い詰められるなんてことは考えにくい。
いや待て、焦るな。ここは逆転の発想だ。
なぜ俺が問い詰められているのかでは無く、なぜ彼女が問い詰めているのかという視点で考え直せ。
となるとキーワードはやはり〝あっち側〟だ。
これは一体どういう意味なのか。
単純に考えるならやはり場所だろう。お前は廃港の辺りに住んでいる人間なのかとか訊いてるんじゃないだろうか。
しかしそんなことで人を責めたりするだろうか。
そういえば愛古島では最近、誘拐事件が多発していると言っていたな。その発生場所があの周辺なのかもしれない。だから彼女はそれを注意するために呼び出した? ……いまいちぴんと来ないな。そうだとしたら、この場に水晶がいないとおかしいし、第一授業をサボらせてまですることじゃない。
千利にはこの質問を一刻も早く、誰もいない場所でする必要があったのだ。それぐらい彼女にとってこれは重大な問題だった。
もう一度、彼女の台詞を振り返ってみる必要がありそうだ。
『あなたは〝あっち側〟の人間なのですか?』
俺がどこか、別の場所に所属していると彼女は思っているのだ。
その理由はやはり水晶だろう。俺が彼女に負ぶわれている光景に千利は引っ掛かりを覚えたのだ。
絡まっていた糸が解けるのを感じた。
千利が知りうる水晶の情報をつまびらかに見ていけば、真相が分かるはずだ。
水晶は愛古学園の生徒だ。学年は二年生。
外見は銀髪紅眼で中学生、下手したら小学生と見間違うぐらいに小さい。
あとは成績とか素行などがあるのだろうが、それについて俺は詳しくは知らない。ただ屋上での一件から察するに、教師ウケはあまりよくなさそうだ。
それに水晶はどこか殺伐とした空気を醸し出している。まるで不良だ。
ここで一応の結論は出せる。水晶は不良の生徒だから、そっち側に行くなと千利は教師として俺に注意しようとしている。
だが彼女はそう言う部分で人を差別するような人間ではない。
となれば、後は彼女の容姿ぐらいしか情報は残らない。
ふともう一つの結論が、俺の頭に浮かんだ。
だけどさすがに、これはないんじゃないか? いやでも、一番意外性のある結論が真実であるケースも無いわけではないしなー……。
無茶苦茶で穴はあるが、矛盾は見当たらない。
ちらりと千利を見やる。彼女はじっと俺が口を開くのを待っている。答えないわけにはいかない雰囲気だ。
俺は意を決して言った。
「千利先生、俺はロリコンじゃないぞ!」
恥ずかしさで頭が真っ白になって、顔が熱くなった。
気まずい沈黙が流れる。
「……はい?」
なぜか千利の頭上には疑問符が浮かんでいる。
「あ、〝あっち側〟って、そういう意味だろ? その、俺はロリコンじゃないから別にあいつに手を出したりしてないからな!」
一気にまくし立てて、どうにか誤解を解こうとする。
しかし彼女は急にお腹を抱えて笑い出した。
「ああ、そうなんですね。よかったぁ」
「な、何笑ってんだよ! 結構、勇気を振り絞って言ったってのに!」
「い、いえ、その、すみません。あは、あはは!」
結局、答えは簡単なことだった。
教師が年頃の男女が深夜一緒にいるのを見て心配することといえば、不順異性交友と相場で決まっている。それを今回は千利がロリコンというある種デリケートなものを持ち込んだから複雑になったのだ。
その後、千利は肩で息しながらもう教室に帰っていいというお許しが出た。
彼女は最後まで笑い続けていた。