二章 新米教師の暗躍 その2
俺はまだ学校も始まっていないぐらい早い時刻に病院を後にした。
別に無遅刻無欠席を目標に掲げる真面目な学生というわけではない。すでに何度か自主休暇、もといズル休で欠席はしている。
ではなぜ今日は入院したにもかかわらず律儀に登校しているのかというと、普段の生活へ戻るためだ。
昨日という非日常を忘れるために、もっとも日常的とも呼べる行動を取っている。いつもは同じことの繰り返しで飽き飽きしている学校も、今日ばかりは感謝できる。
だが、唐突にそれは終わりを迎える。
正体不明の視線。それがどこからか俺に向けられている。
ここ最近ずっと続いているが、これは全く慣れない。
ところが今回はその視線の場所が何と無く分かった。
病院の中、待合室。そこに水晶が立って、じっとこちらを見ていた。
視線の質というか、感触? まあとにかく、水晶が遠目に送ってくるものには何かしら既視感があった。
俺は院内に取って返して隠れる水晶の首根っこをつかんだ。
「おい、何をしている?」
「別に」
とぼけようとしている水晶の顔をこちらに向かせて、目を合わせる。
「本当にか? まさか、ここ最近俺を付け回してるのは、お前じゃないだろうな?」
「……何のことやら」
どうやら素直に話すつもりは無いらしい。
ふと俺はマントの隙間から見慣れたものを目にした。
白を基調にしたセーラー服。カラーやスカーフは灰色。俺の通う学校の女子の制服だ。
なるほど、うちの生徒なら学校の中でも堂々とストーキングできるだろう。
それを直接指摘してやってもいいが、仕返しに少しおちょくってやることにする。
「なあ、水晶はどこの学校に通っているんだ?」
「どうして今、そんなこと聞く?」
「いいから、答えてみろよ」
彼女は真意を推し量るように俺の顔を見ていたが、こちらが辛抱強く待っているとやがて渋々と答えた。
「愛古島基地管轄海上自衛隊高等学校」
咄嗟に出てくる嘘にしては妙にピンポイントだ。
「じゃあ、これは何だ?」
俺は彼女のマントをつかみ、中の制服をさらけ出す。
「……これはその、コスプレ」
「ここはイベント会場でも秋葉でも無いぞ」
「人の趣味はそれぞれ」
認める気はないらしい。
「そういえばさ、昨日の昼食がすごい美味かったんだよ」
脈絡なく始めた話に水晶はきょとんとする。
「特にカツ丼のカツが肉厚で最高でさぁ」
「……暁也の昨日のお昼ご飯、姉さんの弁当だった……。あっ」
慌てて口を押える水晶。
「お前、案外ちょろいんだな」
「ち、ちがっ、そのっ。これは、ええと……」
取り繕おうとしているが、もう遅い。
「うちの制服を着て、俺の昼食を知っていた。この二つから所属校は愛古学園だと断定できる。かてて加えて、俺から逃げようとした。後ろめたいことがないなら、そんなことしないよな?」
「そ、そんなことない。それに、自衛隊高校の学生手帳も持ってるし」
ポケットを探り、水晶は生徒手帳を取り出す。その拍子に何か別の手帳が床に落ちた。
「ほら、これ」
彼女が取り出したのは、確かに海上自衛隊高等学校の正式な学生手帳だった。だがそれを無視して、俺は床に落ちた手帳を拾った。
「……愛古学園の学生手帳。名前は、えーっと……マリア・カポディストリアスか。二年A組、俺の隣のクラスだな」
「はうっ!?」
「チェックメイトだ。今までの状況証拠とこの物的証拠。そして現行犯。これ以上、何か言いたいことはあるか?」
水晶はしばらく何かを言おうと口を開閉させていたが、やがて降伏の意を表すように両手を上げた。
「……ない、降参」
「まったく……。どうしてこんなことをしたんだ?」
「仕事だから」
「仕事? 尾行をする職業なんて、探偵ぐらいしか思い付かないが……」
しかし彼女は首を横に振った。
「私がしていたのは、護衛」
「……そういえば、昨日はやけに絶妙なタイミングで登場したな」
「これは、あまり他の人に聞かれたくない。別の場所で話す」
○
愛古島は周囲が海に囲まれた小島だ。
だから本来なら、どこにいても潮の香りを楽しめるはずだ。だが実際は面積の大部分を住宅街とビル街が占めているため、生活臭が広く蔓延している。
そのため海の香りを楽しめる場所は、実は少ない。
愛古学園はその数少ない場所の一つだ。
海とはかなり距離があるが人口密度は低いし、高台にあるためか風は汚されることなく新鮮だ。
学校という生活内容が最悪な施設ではあるが、立地だけは最高だ。
特に屋上は空に近く、周囲に人はいない。解放感も相まって清々しい気分になれる。
というようなことを水晶に話すと、彼女はバッサリと一言。
「暁也はそういうキャラじゃない」
「……なぜ付き合いの浅いお前にそんなダメ出しをされねばならぬ?」
「ずっと護衛してたから」
そういえば俺が水晶を知るよりずっと前に、こいつは俺のことを知っているのか……。
ちなみに今の水晶はさすがにマントは纏っていない。それなりに常識とTPOはあるようで、少しほっとした。
「参考までに聞くが、お前の中で俺はどんなイメージなんだ?」
「根暗のボッチ。そういう意味では、解放感という部分だけは暁也らしいと言える」
……聞くんじゃなかった。
「それで、誰にも聞かれたくない話っていうのは?」
気分を変えるためにも話題を取り換える。
水晶は校内に続くドアをいじり始めた。
彼女の手には金庫に付いているような、四桁のダイヤル式の黒い物体が握られている。開閉と書かれていることから、そういう用途のものなんだろうなと分かる。
「こっち側から鍵はかけられないから。これでロックする」
「……女学生が日常的に持ち歩くものじゃないな。というか、そこまでする必要はあるのか?」
「念には念を。……でも、たまに自分でもナンバーを忘れて困ることもある」
笑い飛ばそうとしたが、さっきの一件を考えればあながち冗談でもないかもしれない。
「……今回の番号は?」
「一、二、二、四」
「なるほど、クリスマスか。それなら覚えやすい」
しかし俺もあまり記憶力は良い方じゃない。念のためにメモ帳に書いておく。
しっかり施錠されたことを確認すると、水晶は塔屋から離れていく。
金網の前に座って手招きしてきた。こっちに来いということらしい。
「随分な念の入りようだな」
俺は水晶の横に腰を下ろした。
「準備と用心はしすぎることはない」
「でも、俺に尾行はバレたよな?」
決まり悪そうに彼女はそっぽを向く。
「あれは偶然」
「いや、どう考えてもお前の準備不足だろう……」
きっと隠密行動とか苦手なタイプなんだろうな。
水晶は咳払いを一つして真剣な表情になった。どうやらここからが本題らしい。
「……私があなたを護衛していたのには、ある理由がある」
「そのせいで結構嫌な思いをしたけどな。事前に俺に報告とかできなかったのか?」
「杞憂で済むなら、それが一番」
彼女はマントの中から一枚の書類を取り出した。
「これは俺の健康診断書?」
「表向きの。そして、こっちが」
新しい書類は表紙の文字数が少なかった。だが俺にとってその一文は、暗号なんかより難解だった。
「……まったく読めないんだが」
タイトルらしきものはアルファベットで書かれているが、英語の成績が万年二の俺にはさっぱりだった。
「『Áss Megin』。古ノルド語」
英語以外だったらなおさら俺に分かるはずが無い。
「流暢に読み上げてもらったところ悪いが、俺の耳は日本語しか受け付けないんだ」
「……日本人は面倒くさい」
水晶は溜息を一つ吐いて解説してくれた。
「和音に直すと神力。神の持つ力」
「神様? それが俺の健康と何か関係があるのか」
一拍置いて、水晶はゆっくりと言った。
「暁也。これから私は突拍子も無い話を始める。今まで過ごしてきた世界の常識を根底から覆してしまうかもしれない、とんでもない理屈、理論。聞いたら最後、平穏な毎日を送ることはできなくなる。心の余裕は、安堵は二度と戻ってこない。それでも話す?」
チャイムが鳴った。ホームルームの予鈴だ。
今ここで話を打ち切って教室に戻れば、いつも通りの退屈な日常を過ごすことができるだろう。
彼女の言う、世界の常識とやらは守られる。
俺は二つを秤にかけなければならない。
今までの日常と、それを覆すであろう真実。
昨日、彼女の言う非日常を俺は既に体験している。天秤の上の二つを俺は身をもって経験していた。