一章 銀髪赤眼の少女 その8
厄日という言葉はきっと、今日という日のために生まれたのだろう。
三者面談でぼろ糞に言われ、携帯端末が壊れて、ダメ押しとばかりに街中で怪物に襲われている。
夢ならば今すぐにでも覚めてほしいと思うぐらい、最悪の状況が重なっている。
だからもうこれ以上、悪いことなんて起きない。
そう確信していた。
だけどそれは大きな間違いだった。
まさかと思った――だが、それは紛れもない現実。
望愛はヨルムガンド――毒蛇の群れに突き飛ばされていた。彼女は成す術もなく、その中心に尻餅をつく。
その流れはテレビの向こうの光景のように自然すぎて、俺は認識はしても感情に情報が染み込むまで短くはない時間を要した。
ヨルムガンドは望愛の姿を認めると、一斉に襲い掛かった。
「い、いやぁああああっ!」
悲鳴を耳にして、ようやく俺の意識と現実のズレが修正された。
正気を取り戻した望愛は恐怖に顔を歪め、頭を抑えた。ヨルムガンドは彼女に噛みついて、体を巻き付けて、また歯を突き立てる。少しでも噛みつける面積を広げるため、服を破くヤツまでいた。
「て、テメェッ! 何してんだよ!?」
俺は水晶の胸ぐらをつかんだ。小柄な少女の体は僅かに宙に持ち上がった。
「……何、って?」
彼女は要領を得ないといった様子で首を傾げる。
「なんで望愛を突き飛ばした!? 襲われるって、分かってただろうが!」
ヨルムガンドに噛まれている望愛を顎でしゃくって、俺は問い詰める。
だが水晶は顔色一つ変えずに、覇気の無い紅い瞳で見上げてくるだけだった。
「……手を、放して。早くしないと、あの子が死ぬ……」
死ぬという単語にかっと頭に血が上り、ますます手に力が入る。
水晶はしばらくして、俺の手にそっと手を重ねた。
「放して、でないと痛くする……」
「どうにかしろよ、お前のせいで、お前の……、ぐっ!?」
ふいに手に強い苦痛を覚える。骨が砕けちまうんじゃないかってぐらいの凄まじい圧力。
激痛によって握力を失った俺の手から水晶は逃れる。
「安心して、すぐに痛みは治まる……」
何か言っていたようだが、痛みでそれどころでは無い。
水晶は手を抑えてうずくまる俺を睥睨し、だがすぐに視線を切って離れていった。
彼女の向かう先はヨルムガンドの群れ。神話上で巨人と互角に渡り合った戦神トールを死に至らせた猛毒を持つ蛇。そいつ等が何十匹もいるのだ、そこを死地と呼んでも過言ではないだろう。
だが彼女の歩みはいつものように淀みなく、軽やかだ。恐怖や躊躇といったものは微塵も感じられない。
「……この辺りの、これで全部。あとはたくさん、殺すだけ」
ヨルムガンドは接近者に気付き、望愛を噛むのをやめる。彼等はたった一人で近付いてくる少女を警戒して、様子を窺っていた。
水晶は歩みを止めて、腰につるしているナイフを引き抜いた。
それを目にしたヨルムガンドの一匹が、彼女目掛けて跳ねた。先手必勝、やられる前にやる。理に適った行動だが、それが彼の死を早める結果になった。
唐突に風切り音がして、ぷすっという軽い音が響いた。
一瞬後に、水晶に飛び掛かっていたヨルムガンドが地に落ちる。
ヤツの後頭部には小型のナイフが突き刺さっていた。
状況から察するに、何者かがヨルムガンドの背後からナイフを投げて刺殺したのだ。
俺とヨルムガンド共はその何者かがいるはずの方向へ視線を向ける。
果たしてその者は、最小限の足音を立ててこちらに歩いてきていた。
「……え?」
思わず俺は間抜けな声を出してしまった。
「……うん、これで全部。見回ってきたし、問題なし」
ナイフが飛来してきた先にいたのは、漆黒のマントを羽織った銀髪紅眼の小柄な体躯。そう、水晶と全く同じ容姿の少女だ。
「ターゲットが集まってくれたから、今回は楽ちん……」
また別の方向から、同じ声質の声が聞こえてくる。
やはりそこには水晶の姿があった。鏡像のごとく、頭のてっぺんから足の爪先まで何もかも同じだ。
彼女達は身をかがめて腕をクロスさせ、両手に持ったナイフを構えた。
「トップエージェント――水晶。任務を遂行する」
全く同じ声が重なり、開戦を宣言した。
水晶と彼女に似た少女達に囲まれたヨルムガンドは、互いの背を預けて周囲の敵に向かって飛び掛かった。
ヨルムガンドが先に歯を突き立てるか、水晶のナイフがヤツ等を切り裂くか。二つに一つの勝負。
対決は一瞬で終わった。
途中まで目で追えていた水晶の姿が一瞬にして掠れて、消えた。
気が付くと彼女達は背を向けていた。ついさっきまでお互いの顔を見るようにして立っていたのだが、何があったのだろうか?
その謎はヨルムガンドの無残な死骸を目にした時に解けた。ヤツ等の体は、細切れにされていた。そして水晶のナイフは、真っ赤な血で汚れている。
水晶達は瞬く間にヨルムガンドを切り刻んでしまったのだ。
当の彼女達は息を乱した様子も無く、平然とナイフに付着した血を拭っている。
ナイフをマントの中に仕舞った水晶が汚れを落とすように手を叩いた。すると彼女に似た少女達は徐々に色が薄くなり、半透明になったと思ったら消えていた。おそらくアニメとかで見るような影分身だったのだろう。
「任務完了。だけど黒幕が、まだ……ふぁあ」
無表情を崩して、大欠伸。さっきまでの殺伐とした空気は弛緩していた。
蛇達には再生や不死のイメージがあったが、ただの一匹もぴくりと動かな……?
死骸に混じったしっぽが一本、ピクリと動いた。
そしてたちまちの内に、切れ目から何かが生えてくる。それは一瞬の内に伸びていき、元の蛇の姿に戻った。
背を向けている水晶はヨルムガンドの復活に気付いていない。
何かを考える前に、脚が動いていた。
ヨルムガンドはするすると地を這い、水晶に飛び掛かる機を窺っていた。
水晶は走ってくる俺に気付き、顔を上げた。俺は背後のヨルムガンドの存在を知らせようとしたが、そんな暇すらヤツは与えてくれない。
あっという間に距離を詰めて、ヨルムガンドは飛び掛かろうとしていた。
「やめろぉおおおおっ!」
俺は喉を枯らさんばかりに叫び、手を伸ばした。
突如、パチパチという火花が弾けるような音がして、白い光がどこからか発せられた。それはあっという間に視界を覆った。
そこで俺の意識は途切れた。