序章 前編
薄暗い空間の中、二人の人間がいる。
一人は高台の玉座に腰を掛け、もう一人は玉座の下に膝をついて座っている。
前者はきらびやかな衣装に身を包んだ、背の高い女性。
後者は黒いローブで身を包んでおり、フードを深々と被っている。人相はわからない。
女性が唇をきゅっと曲げ、笑みを浮かべて言った。
「長かったな」
ローブの人物が頭を垂れて言った。
「はい。ですがようやく、準備が整いました」
そのかしこまった声は、年若い女のものだった。
女性は夢心地な顔を上げ、蝋燭のほんのりした光を辺りに投げかけているシャンデリアを見やって言った。
「これでやっと、我が悲願を達成することができる」
「おめでとうございます」
一度うなずいた女性は、ローブの女を見下ろして優しげな声音で言葉をかける。
「そなた等の力があればこそ、ここまでたどり着くことができた。礼を言う」
「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」
「だがこの神を降臨させるにはもう一つ、鍵となるものを用意せねばならない」
「はっ、心得ております。ただいま調査させていますので、すぐにわかるかと……」
「しっ、失礼します!」
部屋に突如、一人の男が駆け込んできた。女と同じローブを着ているが、彼はフードを被っていない。皺ができ始めた顔が露わになっている。
男は息を切らし、汗を額に浮かべていた。
ローブの女が振り返って訊く。
「なんの用です?」
「命じていただいた調査が終わりましたので、結果を報告すべくこうして伺わせていただきました!」
「そうですか。では、報告を聞かせてください」
「かしこまりました!」
男は懐からタブレットを取り出し、それを見やりながら語った。
「対象の居場所は座標J―E、382番地点であります!」
「それって……」
はっと息を飲むローブの女に、微笑を浮かべた女性が言った。
「東洋の島国、日本の愛古島……。あなたにぴったりの場所ね」
「…………」
「あなたに新たな使命を与えるわ。愛古島に赴き、対象を確保して空神を目覚めさせなさい」
「ですが……」
ローブの女は床を見つめ、口をつぐんだ。
「できるわよね?」
女性は変わらぬ微笑で、彼女に問いかける。
ややあって、ローブの女はうなずいて答えた。
「……おまかせください。必ずや、ご期待に応えてみせます」
「期待してるわよ」
「ありがたきお言葉……」
ローブの女は胸に手をやり、女性に向かって最敬礼をした。
くすくすと、女性の笑い声がその空間に静かに響き渡っていた。
○
怪物の顎が覆ったがごとく、暗い闇の中。
地元に住む人々も滅多に近寄らない山の奥深く。
そこは人の手がまったく加えられておらず、曲がりくねった巨大な木々が根を這わせ、凸凹な地面を名もなき草が覆う。
ザザッ――微かな音が闇夜の中に響く。
足場の安定しないこの場所を一つの影が駆け抜けていた。平地と変わらず――否、どのような条件であっても常人では不可能な速さで。まるで風と一体となったかのように。
その者は全身を覆う黒いスーツを身に纏った、銀髪の少女だった。
背丈は低く、顔立ちは幼い。しかし浮かんでいる表情は年不相応に無機質だった。
少女は行く手に茂みを見つけ、そこに素早く転がり込んだ。
その茂みのすぐ近くに生えている木を登り、葉を多くつけた枝にしがみついて、少女はある方へと目を向けた。
不自然にも木々が円形にぽっかり切り開かれた場所。
そこにはこの手つかずの山には似つかわしくない、人工物が存在した。
上部に有機鉄線がつけられたフェンス。それに囲われるように、鉄骨鉄筋コンクリート造の建築物が存在した。外観は小さなオフィスビルを転々と建てたような感じだ。ガラス張りになっているところが随所にあるが、マジックミラーになっているのか外からは中の様子は窺えない。
そんな建物群の向こうに倉庫が六つ、ダイスの目のごとく規則的に建っていた。
少女はそれを視認した後、耳に取り付けていたワイヤレスヘッドセットの通信を繋いで口を開いた。
「こちら水晶。ラボを発見した」
少女――水晶の無機質な声に、通信相手が端的な口調で答える。
『ラボの様子は?』
「警備員が巡回している。ラボは消灯しているが、倉庫の方は明かりが点いている」
『ミッションをこなすのに、障害となるものは?』
「今のところ、特には見当たらない」
『では、速やかに遂行せよ』
「了解……」
水晶はヘッドセットの電源を切り、さらに木の上部へと昇っていく。
頂点に辿り着くなり、敷地に向かって高く跳躍。そのまま監視カメラの死角に着地して建物の影に身をひそめ、辺りを窺う。
誰からも気付かれていないのを確認した後、倉庫へ向かう。
倉庫のドアの前に立った水晶は、壁に取り付けられたセキュリティパネルに取り出した端末から伸びたコードを繋ぐ。彼女が端末を操作してすぐに、ドアが開きだした。それは水晶が一人通れるぐらいの隙間を残して停止する。
彼女はそっと中に忍び込み、頭につけていたゴーグルを装着する。
グラス部分に何かグラフのようなものや、数字が次々表示されては消えていく。
最後には『NO DATA』の文字を残し、景色以外には何も映らなくなった。
水晶は軽く肩を竦めてグラスを外し、倉庫を出た。
それから残りの倉庫にも同じように侵入し、ゴーグルをつけて内部を眺めやった。その度にグラスには何やら情報らしきものが表示されたものの、結局は『NO DATA』の文字だけが残った。
最後に残った、六つ目の倉庫。そこでも同様の結末に終わった。
水晶はヘッドセットの電源を入れ、通信先に向かって事務的な口調で言った。
「こちら水晶」
『状況を報告せよ』
「六つの倉庫全て確認したが、いずれからもヨルムガンドおよびその痕跡を発見することはできなかった」
『そうか。情報がブラフだったか、あるいはすでに全て持ち出されたうえで、痕跡を消されたか……』
しばしの沈黙を挟み、通信相手はふと『ん……?』と声を漏らして言った。
『水晶。ラボの中は調べたか?』
「マジックミラーになっていて、外から中を覗くこともできない。まだ立ち入ってもいないから、内部はブラックボックスの状態」
『ならば、中に潜入しての調査を命じる』
「……しかしあの建物では、予想されるヨルムガンドを収容できるスペースは……」
言いかけた水晶はふと口をつぐみ、足元を見やった。
「まさか――」
『ああ。建物の予想図面には、一階に不自然な空きスペースが存在する。もしかしたらそこから地下に下りることができるかもしれない』
「山の中に、わざわざそんなものを?」
『アイツ等は我々を欺くためなら、どんな手間や金のかかることでも行ってくる。水晶も今までの経験で理解しているのではないか?』
「……了解した。ラボへの潜入を開始する」
『ミッションの成功を祈っている』
その言葉を最後に通信が切られた。