5.5年前(1)
5年前、シャルロッテはリンド家の邸宅へ戻るふりをして中には入らず、そのまま遁走した。
自分のことをまるで放火犯だと決めつけてかかるリンド家の面々にはうんざりしていたし、この家にやって来てからの約2年の月日を思い返しても、いい思い出は何一つなかった。
シャルロッテに関していい思い出が何一つないのは、リンド家にとっても同じはずだ。
だったらもう、ここを離れてひとりで自由に生きよう。
養子の斡旋をしてくれたマクロード公爵夫人にだけは少しだけ申し訳ない気もするけれど…わたしのことを守ってくれようとしていたのはわかっているけれど…母親ならどうして娘を手放すようなことをしたのか。どうして手元に置いて守ろうとしてくれなかたのか。
「みんな大っ嫌いよ」
シャルロッテはそうつぶやくと、リンド家の郵便受けに放火の疑いが晴れたことが書かれている手紙をそっと差し入れ、ここまで送ってくれた若い警備兵がもうその場を立ち去ったのを入念に確認したのち門を出た。
リンド家の自分の部屋から持ち出したいものも何もなかった。
シャルロッテは手ぶらで鼻歌を歌いながら、大通りを王都とは反対方向へ歩いて行った。
グゥっとお腹が鳴ったことでまだ夕飯を食べていなかったことに気づき、早くも少し後悔したけれど、自由になった喜びと期待のほうが大きかった。
15歳が世間では子供扱いされる年齢であることを、このときのシャルロッテはまだよく理解していなかった――。
「17歳には見えないけどねえ…幼く見えるだけっていう君の言葉を信用してあげてもいいけど、どっちにしろ身元保証人は必要なんだよ。身寄りがないって言っても、これまで育ててくれた大人や施設はあるんだろう?そこへ頼むなりして保証人を連れてこないかぎり、君を雇うことはできない。ここは家出娘を保護する慈善団体じゃないからね」
「まずその身だしなみをどうにかしてくれないか。自分が臭っていることに気づいていないのかい?体を洗っていないんだろう?早くおうちに帰りなさい」
ロゼッタを離れ、その隣町で職を探したが、現実は甘くなかった。
どう見てもまだ子供、薄汚れている、お腹をすかせている――そんなシャルロッテを受け入れる雇い主などいるはずもなく、リンド家から遁走してわずか数日で、シャルロッテはすっかりストリートチルドレンになってしまった。
ベッドとお風呂と温かいスープが恋しい……。髪を櫛できれいに梳かしたい…。
「ひとりで自由に生きる」だなんて、どうしてそれが可能だと思ってしまったのかしら。
帰ろうか…どこへ?……帰る場所なんてもうどこにもないのに。
途方に暮れて立ち尽くしていたときに、馬車の窓から声をかけられた。
「お嬢さん、どうしました。迷子にでもなったんですか」
シャルロッテが見上げると、そこには穏やかな笑みを浮かべる中年夫婦がいた。
とりあえずコクリと頷いてみると「まあ、それは大変、さあお乗りなさい」と女性のほうが大げさに言い、薄汚いシャルロッテを馬車に乗せてくれた。
「家族で旅をしていたんですが、手違いでわたしだけ置いて行かれてしまって……困っていたところなんです」
「旅はどちらまで?」
「えっと……ずっと南のほうまで?」
適当なことを言っていることがバレバレなはずなのに、メローズ夫人は鷹揚に頷きながら
「ということは、リリーズ貿易港あたりかしら」
と助け船を出してくれた。
リリーズ貿易港がどこにあるのかすらよくわからなかったシャルロッテだったが、ここは乗っかるしかないと判断して、話を合わせることにした。
「あ、はい。そうです、そうでした!そこです」
「あら、偶然私たちの目的地もリリーズ貿易港なのよ。ご家族の元まで連れて行ってあげるわ。遠慮しなくていいのよ、ひとり増えたところでどうってことはないもの、ね、あなた、いいわよね?」
「ああ、そうしよう。君、名前は?」
メローズ夫婦はよほどのお人好しなのか、シャルロッテのグダグダな嘘をまるっと信じ切り、その日の夜は同じ宿に泊めてくれさえした。しかも新しい服まで買ってくれるという好待遇で。
数日ぶりの温かい食事とお風呂を満喫しながら、
「こんないい人たちに出会えるだなんて、すごくラッキーだわ!」
と内心ほくそ笑みながら、貿易港に着いたあとはどうしようかと考えるシャルロッテだった。
だがしかし、そんなうまい話はそうそうあるものではない。
翌朝、リリーズ貿易港へ向けて出発した。
途中のカシム村に着くのが夕方であればそこでもう一泊して明日リリーズ貿易港に到着、カシムにもう少し早い時間に着けばそこで小休憩をとって一気に今日中にリリーズ貿易港へ、という計画らしい。
旅の道中、馬車の中でメローズ夫人はシャルロッテに紙とペンを手渡し、シャルロッテの綴りを教えてほしいだの、ちなみにメローズの綴りはね、だのと言いながらシャルロッテに文字を書かせた。
「とてもきれいな読みやすい字ね」
満足げに微笑んだメローズ夫人は次に、ゲームをしましょうと言い出して、頭の体操のようなちょっとした足し算や掛け算、数字の法則のような問題を出し、シャルロッテはそれに苦労することもなくサクサクと解答していった。
これにもメローズ夫人は大いに満足したらしい。
「シャルロッテさんは頭の回転がはやいのね。すごいわあ。学校でしっかり勉強しているのね」
メローズ夫人がシャルロッテを誉めそやす言葉はなぜかわざとらしい。
戸惑いながら「はあ、まあ…」と曖昧な返事しかできなかった。
文字の読み書きや、この程度の計算、学校教育をきちんと受けている同年代の子供なら誰だってできるはずなのに…。
なんだろう、ヘンな感じ。
妙な違和感を感じて、それが何かわかりかけている気がしてぐるぐる考えていたシャルロッテの顔めがけて、メローズ夫人は不意に手を伸ばし、許可なくメガネを外した。
「お顔をよく見せてちょうだい。あら!あなたメガネをしていなほうが断然素敵よ。視力が悪いの?」
「あっ、えーっと…左目だけが悪くて、そのメガネは左側は視力矯正のレンズが入っていて、右側はただのガラスなんです」
メガネを返してもらい、かけなおそうとしたとき未来視が始まった。
今のこの状況と同じように、シャルロッテよりも少し幼い少女と一緒に馬車に乗っているメローズ夫婦。
馬車から降りて路地へ入り、ひとりの男と合流したところに背の高い金髪の女傑が長剣片手に現れ少女を抱えて大人たちから引き離した。
ここまでだとどちらが悪者かよくわからなかったが、騎士団の制服を着た人たちがメローズ夫婦と男を拘束したことで、どちらが正義かハッキリした。
「そっか。…なるほど」
数秒動かなくなった後に不可解なつぶやきを発したシャルロッテの様子にメローズ夫人は一瞬警戒するような目でシャルロッテのことを見つめたが、
「左目だけ矯正レンズで右目はガラスだと、左右の目の大きさがかわってヘンに見えます…よね?」
そう聞かれると、警戒の色を解いた。
「あら、そうでもないわよ。メガネをしないほうが素敵だけど、目が悪いのなら仕方ないわね。メガネをかけたシャルロッテさんも十分かわいらしいわ」
「ありがとうございます」と言って、照れて俯くフリをしながら、シャルロッテの頭の中は、とりあえず上手くごまかせたことへの安堵と、この状況からどう逃げ出すことができるのだろうかという不安で大混乱状態だった。
ヤバイ、猛烈にヤバイ。
この人たちは、わたしを売り飛ばす気なんだわ!さっきの読み書きや簡単な計算ができるか確認していたのは、わたしを少しでも高く売るためなんだわ。
ああ、わたしはなんて馬鹿なのかしら。学校であれだけ「お菓子や食べ物をあげるからと言われても、知らない人についていかないように」「家族のもとへ送ってあげるというのは騙しの常套句です」と習っていたはずなのに!
そんなわざとらしい言葉に騙される馬鹿がいまどきどこいるの?って思っていたけど、いるわ、ここに。大馬鹿なシャルロッテが。
逃げないと。この二人をどうにか出し抜いて逃げないと!
一度そう気づいてしまうと、メローズ夫人の香水のニオイも、真っ赤な口紅の厚化粧も、全てに嫌悪感を抱いたが、幸いなことに感情を表に出さずに無表情で居続ける技を身に着けているシャルロッテは、メローズ夫婦に逃亡の算段をしていることを気取られないまま、目的地のリリーズ貿易港の一歩手前にあるカシム村に到着したのだった。