1.家族の記憶
シャルロッテは長い間、自分には両親も兄弟もいない天涯孤独な孤児であると思っていた。
……いや、そう思い込まされてきた。
あなたには肉親は一人もいません。
孤児の支援に熱心なマクロード公爵夫人のご厚意で里親を紹介してもらい、支度金や養育費などあなたにかかるお金は全てマクロード公爵家から出ているのですよ。
毎年あなたのお誕生日プレゼントも欠かさないお優しい公爵夫人に感謝しなくてはね。
まだ幼かった頃、「わたしの本当の家族はどこにいるの?」と周りの大人たちに聞くと、杓子定規にそのように言い聞かされてきた。
しかしシャルロッテには、断片的ながらも確かに、両親と弟と自分の4人家族で暮らしていたときの記憶が残っていた。
いつだったか、「そんなことない。わたしには家族がいたはずよ」と訴えたときに、大人たちは少し困った顔をした。
「今はもう、いらっしゃらないんですよ」
シャルロッテはそれを「家族は全員わたしを残して死んだんだ」と思っていた。
確かに、父親が死んだ記憶ならおぼろげながらある。しかし、母親と弟が同じく他界したという記憶が全くない。
そして、どういうわけか2、3年おきに里親がかわり、その度にシャルロッテの名字も変わるのだ。
里親の家族とあまり馴染めなかったかったというのが理由ではなかったはずだ。
実の親子のように関係が良好だった家もあったにもかかわらず、そこも2年でお別れしなくてはならなくなった時には、涙、涙の惜別で、そうと決めたマクロード公爵夫人を恨んだものだった。
こんなに頻繁に里親が変わるのなら、いっそ名前はそのままでいいのに、毎回きちんと養子の手続きをとって名字がかわる。
おかげでシャルロッテは、自分の最初の――本当の家族と暮らしていたときの家名をいつの間にか忘れていた。
それを思い出させてくれたのは、口さがない大人たちだ。
何も理解できていないような素振りをすれば、浅慮な大人たちは子どもの前でも平気でいろいろな噂話をする。お酒が入っていると尚のことそれはエスカレートする。
「にしても、あのマクロード公爵夫人、後妻になってもう6年ほど経つか?相変わらず美人だよなあ」
「前の旦那の…えーっとバルト男爵だったか?が落馬事故で死んで、そのあとすぐ娘も病死したんだろう?そのたった半年後にマクロード公爵の後妻におさまったって、なんだかおかしくないか?」
「オンナは怖いからなー」
ワイングラス片手にどっと笑う下品な大人たちが話す内容など、興味もなければ理解もできません、という顔をして、もちろん大人たちには一切視線を向けず、シャルロッテはデザートのケーキを夢中で食べているように振舞った。
心臓はドキドキと早鐘を打ち、息遣いも荒くなりそうになるのをどうにかこらえてケーキを食べ終え、笑顔で大人たちに「おやすみなさい」と頭を下げて退室した。
自室に入るや否や顔をゆがませてベッドに倒れこみ、声を押し殺しながら泣いた。
11歳の冬、シャルロッテは自分の最初の名前を6年ぶりに思い出したと同時に、マクロード公爵夫人が自分の母親であることにも気づいたのだった。
シャルロッテ・バルト。
そうだ、そうだった。
5歳の誕生日のときに両親に、あとどれぐらい大きくなったら社交界デビューできるのかと、ませたことを聞き、スカートの両側をつまんで持ち上げ、片足を後ろに引いて膝を少し曲げながら
「『シャルロッテ・バルトともうします』ってするのよね?」
と得意げに言って両親を笑わせた。
わたしは……すでに死んだことになっているの?
「シャルロッテ」は女の子にはよくある名前で珍しくはない。
まだ生きていることを隠すために、名字を何度も変えながら経歴がわからないようにしているのだとしたら、短期間で里親がかわり続けていることも合点がいく。
なぜそんなことを――それに関しては、思い当たることがあった。
己の左目が映す未来に起きることを予知するかのような光景。
それは何の前触れも、遠慮もなく、突然飛び込んでくるのだ。
いつから見えるようになったのかは、わからない。おそらく生まれつきだ。
「今日は雨が降るよ」「バケツがひっくり返りそうだから気を付けてね」
そんなかわいいことを言っているうちは「勘のいい子」で片づけられていたが、5歳のあの誕生日の直後、シャルロッテは父親の死を予知してしまったのだ。
その日は朝からシャルロッテが「今日はお仕事に行かないで」と言って父親の足にしがみついて離れず、両親を困らせていた。
「シャルロッテ、今日はどうしたの?お父様はお仕事に行かなければならないのよ?」
「帰ってきたらシャルロッテが眠くなるまで父さんと遊ぼう。それで許してくれないか」
父親は戸惑いながらシャルロッテの頭をなでた。
シャルロッテは仕方なく手を離すと、父親を見上げて言った。
「お父様、それなら約束して。今日はぜったいにお馬に乗っちゃダメ。約束よ?ダメだからね?」
シャルロッテの必死の懇願に、父親は破顔しながら「わかったわかった。約束する」と笑って答え、家を後にした。
しかし父娘の約束は果たされず、バルト男爵は思いもよらぬ落馬事故により30歳と言う若さでこの世を去った。
もう二度と目を開けぬ最愛の夫の亡骸を前に、母親は呆然としながらシャルロッテに問うた。
「……なぜ、お父様が馬の事故に遭うって知っていたの?」
「あのね、見えたの。こっちの目にたまにうつるの。お父様に朝のご挨拶をしたときに、お父様がお馬から落ちるのが見えたから、乗ったらダメって言ったのに、お父様ったら約束をやぶったのね。お父様のお怪我が治ったら『次はちゃんと約束まもってね』ってシャルロッテが叱ってあげる」
父親の死をまだよく理解していないシャルロッテを抱きしめながら、母親はただただ涙を流し続けた。
10年前のこのやりとりを、いまだに昨日のことのように鮮明に覚えているマクロード公爵夫人とは違い、15歳になったシャルロッテのこのあたりの記憶は曖昧だ。
ただ、父親の死を予知し、その通りに父親が亡くなった――ということだけを覚えていた。
その後、『己の左目は死を予言する忌まわしい能力がある』という密やかな自覚を抱きつつ、それを周囲には悟られまいと努力しながら目まぐるしく変化する生活環境に翻弄されてきた。
母親であるマクロード公爵夫人とは、よその家の養子になってから顔を合わせた記憶がない。
それでも毎年、誕生日には手書きのカードとともにプレゼントが届き、学校への入学や里親がかわるような節目にも便りをもらっている。
いまシャルロッテがかけている特殊な眼鏡も、マクロード公爵夫人からの贈り物だ。
左目のレンズは、わざと物がぼやけて見えるようになっている。
この眼鏡をかけていれば、左目の未来視能力が発揮されることはない。
15歳という今の年齢であれば、公爵夫人からそんな特注の眼鏡が届いたら、なぜ自分の左目の能力のことを知っているのだと、相当な違和感を抱き混乱したにちがいない。
しかし、シャルロッテのこれまでの「養子人生」の辿れる限りの記憶を辿っても、いつも当たり前のように眼鏡をかけていた。
おそらく、病死したことにされ、母と別れて経歴をごまかすための新たな人生を歩む出発地点で眼鏡を受け取ったのだろう。
学校や人込みでは必ずこの眼鏡をかけるようにしている。
それでも万が一を恐れて、シャルロッテは常にうつむきがちだった。
転校生は大きな眼鏡をかけていて、親しい付き合いを拒否するかのように常にうつむいて誰とも目を合わせようとしない暗い性格の子。
シャルロッテはどこへ行っても、そういうレッテルを貼られてしまう。
だから、イルザが昨晩嫌味っぽく言った「お姉さまには友達がいない」というのは事実だった。
イルザのような取り巻き連中なんて、わたしには必要ない。
あんなの友達じゃないわ。
でも……心を許せるような友達が…左目の秘密を打ち明けることのできる友達が欲しい。
そう思ってしまうシャルロッテだった。