匂いの感情
8月も下旬になり、夏休みも残すこと後一週間。バイトと飲み会ばかりで夏らしい事は一つもしていない俺だけど、今日という今日は夏恒例行事なのかもしれない。それを一緒に過ごす相手が毎年お袋だというのは、最悪以外の何物でもないけど、記憶を共有している唯一だから、しょうがない。
視界に入っている女物の洋服屋にお袋がいるのが見えて、小さく溜め息をついた。俺は壁に寄り掛かりながら、空調が整った涼しい百貨店内でぼうっとしている。
今日は朝からお袋に叩き起こされた。俺も今日だけはバイトの休みを取っているし、予定も入れていない。それくらい大事な日だ。お袋は定休日以外は開けている店を今日だけは必ず休んで閉める。毎年、今日だけは絶対に、お袋と俺は二人でいる。
お袋がいるのはカジュアルな服が置いてある店だった。チェックシャツやジーンズが並んでいる。お袋が着ているのはいつもここのものだったような気がする。よく覚えていないけど。
それにしてもよく目立つ金髪だ。お袋は何故か髪を染めるのが上手い。それは俺も遺伝(といえる代物なのかは分からないが)したけど、いい年こいて金髪のままなんて、どういう事なんだろう。
再び溜め息が落ちる。緩いサイズのダメージデニムの裾がブーツに引っ掛かって程好く弛んでいるのを眺めていると、黒いサンダルを履いた足とビビッドピンクのサンダルを履いた足が見えて、顔を上げた。
「お兄さん一人ですか?」
金髪と茶髪のギャルが立っていた。俺を見上げる二人の目にはカラコンが入っている。真ん中は透明になっていて、ちゃんと見える事も知っているけど、いつも不思議になる人工的に着色された目だ。
「超イケメン!」
二人が顔を見合わせてキャーキャー言い始めた声が頭に響いた。でも、悪い気はしなかった。男なら誰だってイケメンだと言われて不快になる奴はいない。
二人が動く度に薄いキャミワンピ越しの胸が揺れる。夏の女はなんでこんなに薄くて露出するような服を着ているんだろう。大きく開いた胸元から谷間が見えていた。
「あたし達二人なんですけど、良かったら遊びませんか?」
ビビッドピンクのサンダルの茶髪の方がピンク色の唇でにっこりと笑う。結構可愛い。ナンパしてくるくらいだからビッチに間違いはないけど。
俺が黙ったままでいると、金髪の方が口を開いた。肌の色よりも白いんじゃないかと思うくらいの唇の色だった。
「あたし達18なんですけど、お兄さんいくつですか?」
……年上だった。
「いくつに見える?」
「えー、ハタチくらい?大学生!」
俺はいつだって老けて見られる。まだピッチピチの17歳なんだけど、いつも実年齢より年上に見られてしまう。まあ、大学生に見えるという事は、少しインテリに見えるのかもしれない。それはいい事だ。
「俺まだ17だよ」
「えー絶対嘘でしょ」
「いや、マジ。高校生だし」
見えない、と二人が騒ぐ。なんだかすごい楽しそうで混じりたいけど、今日の気分はそうはならない。
「年下じゃん、やば!」
何がやばいんだ。俺の老け顔か。余計なお世話だ。ちょっと最近気になり始めたから傷付いた。
段々ギャルの声が煩くなってきて二人から視線を逸らす。お袋がいる店の隣の店が目に入った。化粧品やら美容品やら、香水が沢山並んでる店。ふっと過ったものを探そうと思い立って、ギャルに視線を戻した。
「お姉さん達には悪いけど、俺、オカーサンと一緒だから、今日はごめんな」
「えー、いいじゃん!どっか行こうよ!」
どっかってホテルだろ。ホテルしかねーだろ。揺れる二人の胸はいいと思うけど、俺には二人の胸より気になる事があるんだ。金髪のギャルの腕が俺の腕に絡まってきた。ムスクの匂いが鼻につく。あ、もう無理。
「また今度な」
「えー明日は?」
俺はこんなにモテモテだっただろうか。やっぱり好青年風の方がモテるんだろうか。短時間で急浮上したいくつもの疑問はそのままに、ギャルの腕をやんわりと外す。
「明日バイト終わったら空いてるから、それならいいよ」
「じゃあ連絡先教えて!」
二人が一斉にケータイを取り出した。ラインストーンでギラギラしているケータイだった。連絡先を交換すると、二人はバイバーイなんて言って去っていく。それに軽く手を振って、店に入った。さっき視界に入った化粧品の店。
女ばっかりいる店内に俺は浮いていたけど、一番奥の香水のコーナーに向かって一直線に歩いた。ガラスケースの中に所狭しと並んでいる香水の数は軽く100を超えていると思う。
テスターを一つ手に取って、匂いを嗅いだ。この中から探すのは根気が入りそうだ。
ムスク、ベリー、シトラス、グリーンノート。一つずつ確認していると鼻が馬鹿になってくる。コーヒー豆の入ったテスターを片手に片っ端から試していると、店員の女が近寄ってきた。
「彼女さんへのプレゼントですか?」
良かったら一緒にお探ししますよ、とお姉さんが続けて笑う。化粧は濃いけど結構な美人だった。
「いや、名前分かんない香水探してて」
「どんな香りですか?」
お姉さんから何かの匂いが香ったけど、鼻が馬鹿になっているせいかどんな匂いだか分からなかった。鼻がムズムズする。鼻を擦りながら、匂いを思い出す。
「アジアンっぽいお香みたいな、エスニックっぽいっていうか、ちょっと煙から出る匂いみたいな感じなんですけど」
それが、形容しがたい真知の匂い。あの匂いがどうしても気になっていたけど、中々時間がなくて確められないままだった。
「うーん、煙っぽい、ですか」
「そう、煙っぽい」
首を傾げるお姉さんの顔を見ていたら、後ろから凄い衝撃を感じて前につんのめった。
慌てて振り返ると、金髪が見えた。仁王立ちしたそいつは、俺を見上げて眉間にシワを寄せる。
「俊喜!いきなりいなくなるからびっくりしたじゃん」
「テメーがのろのろしてんのがわりーんだろ」
俺の文句に嫌な顔一つせず、お袋は手にした袋を見せてきた。
「服買っちゃった」
いつもなら俺が何かを発する度にクソガキと浴びせてくる癖に、上機嫌らしい。あっそ、と俺がお袋から目を逸らすと、お姉さんが笑った。
「彼女さんですか?」
……嘘みたいな台詞に鳥肌が立つのを感じていると、お袋が俺の腕に腕を絡ませて引っ付いてきた。俺がお袋よりも背が大きくなったのは、もう随分と前の話だけど、これは本気でいただけなかった。死にたくなった。
「そう彼女!」
「マジ気持ち悪いから離れろ!」
白いTシャツから出た俺の腕が鶏肉みたいな肌になっていた。まさに鳥肌。お袋の腕を離して、お姉さんを見る。
「これ、お袋」
「えー!凄くお若いお母様ですね!」
お袋がにっこりと笑う。恐ろしい。お姉さんのお世辞を思ってもない癖に謙遜するお袋を軽蔑の目で見ながら、コーヒー豆のテスターを棚に戻した。
調子に乗るという姿の正体はこういうものなのだと実感せざるをえなかった。四捨五入するともう40になるお袋の着たカラフルなチェックシャツが目に染みる。こんなババアが俺の彼女に見られるなんて、俺はそんなに老け顔なのか。少し泣きそうになった。心の中じゃ号泣していた。
「おいくつなんですか?」
「36!」
「えー全然見えないです!」
お姉さんやめてくれ。お袋をあんまり調子に乗らせないでくれ。俺は毎晩顔にパックをつけた幽霊みたいなお袋を見なくてはいけない事になる。前に夜中に便所に起きた時に偶然遭遇してしまったけど、チビるかと思ったくらいに恐ろしいのだ。
お姉さんとお袋の話は中々終わらなかった。結局、真知の香水は見付からないし散々だった。やっとの事で百貨店を出ると、家を出てから2時間以上が経っていた。家から徒歩数分の場所なのに、こんなに長い間滞在するなんて思っていなかった。
俺達はようやく今日の本当の行き先に行く事になった。大体、用事の前に買い物ってどういう事だとお袋に言うと、帰りは明日の買い出しだからと文句を言われた。話が長いから半分くらいは聞き流したが。
お袋の買い物袋を無理矢理持たされた俺は、お袋の後ろをのろのろと歩いていた。お袋の履いたニューバランスのスニーカーの底がチラチラと見えるだけの回数を意味もなく数えたが、途中で面倒になってやめた。
百貨店から徒歩15分、久人のお袋さんがやっている花屋に寄って花を買って、やっと親父の所に着いた。家からは徒歩10分で着くのに、とんだ時間の無駄だ。
「政喜!俊喜も来たよ!」
お袋の声が静かな墓場に響いた。別にお袋に言っていないだけでちょくちょく来てはいるんだけど、その事に関しては言わないでおこうと思った。
留年が決定した日にここで懺悔大会を一人で繰り広げた時は、隣の墓参りに来ていたヨボヨボのじいちゃんに全力で同情されて全力で慰められた。泣いてはないけど優しさが痛かった。
緒方と彫られた墓石の下には親父の骨しか埋まっていない。親父はトラックの運転手だった。俺が小四の時、長距離の仕事で夜道を走っていたら、反対車線を走っていたトレーラーに正面から突っ込まれて、死んだ。事故後の現場検証でトレーラー側にブレーキ痕がなかった事で相手側の過失が発覚した。誰も死に目に立ちあわせて貰えなかった。親父は即死だった。
行ってきますと言って家を出て行った親父は二度と帰ってこなかった。相手のトレーラーの運転手も即死で、責められる人間はもうどこにもいない。
遺体は見ていないけど、想像したら分かるだろう。お袋はそれを見たのに、今こうして俺の隣にいた。
親父が死んでも握っていた手から、お袋と俺と三人で写った家族写真が血塗れになって出てきたなんて、ドラマにも程がある。全部が全部出来過ぎて、嘘みたいに親父は俺とお袋を置いて消えた。
「政喜、俊喜馬鹿だから高校留年したよ。頭はあんたに似たね」
「黙れババア」
お袋に睨まれて目を逸らすと、お袋は黙って花を飾った。菊の花と丸い形の花、その他諸々。どうして墓に飾るのは菊の花なんだろうか。俺は花に詳しくないから分からないけど、生け花をやっていた真知に聞けば分かるかもしれない。
お袋の買い物袋を墓を囲む石の上に置くと、一つだけ生えていた小さい雑草を抜いた。
綺麗にされた墓は、毎日お袋がここに来ている証拠にも思える。お袋は何も言わないけど、大体分かる。お袋は親父がつけていた結婚指輪をネックレスにしてつけているくらいに親父をまだ好きなのだ。
もう親父が死んでから五年以上経つのに、お袋には男の一人もいない。影があった事すらない。いつまで経っても結婚指輪を外さないから男が寄り付かないんだろう。まあ、お袋がモテないだけだろうけど。
お袋はバッグの中から箱を取り出して、ライターと一緒に俺に手渡した。
「何?」
「線香、一束だけ火つけて」
矢田さんから貰ったんだ、とお袋が笑う。矢田さんは親父の先輩で、お袋の店の常連だ。
箱を開けると、深緑色の線香が数え切れないくらい入っている。白い紙で包まれた一束だけを手に取って、匂いを嗅いだ。みっともないからやめて!というお袋の声が耳をつんざく。
「いや、線香なんて今まであげた事なかったじゃん。珍しくって」
「馬鹿だねあんたは!今年で政喜がいっちまってから七年経つんだよ!計算くらい出来るようになりな!」
「うるせーな」
線香をのせるトレーの上は綺麗なままだ。坊さんが一回線香をあげたのを最後に、一度ものせていない。
お袋はバッグの中を再び漁り始めた。今度はなんだと思っていると、煙草の箱が出てきた。親父が好きだったショートホープのフィルムを剥がしたお袋は、中から煙草を出して口に銜えた。
俺は黙って、お袋から渡されたライターをつき出す。煙草の先で火を灯すと、煙草に火がついた。お袋がふかした分の煙を出すと、それが俺達を包んだ。蹲ってしまいたくなるくらい、懐かしい匂いだった。
ショートホープの煙を吐きながら、親父はいつも、口喧嘩を繰り返す俺とお袋を笑いながら眺めていた。こっちが恥ずかしくなるくらい、幸せそうな顔をして。俺とお袋がヒートアップすると、くだらない事を言って止めてくれていた。
短気なお袋とも俺とも全く性格が似ていない、いつもニコニコ笑っているような男だった。優しくて男らしくて、悔しいけど俺の憧れの男で居続けている。死人だから美化された訳でもなく、俺は生まれてから今までずっと、親父以上にかっこいい男を見つけられずにいる。
お袋は銜えた煙草をトレーの上に置いた。それを囲む墓石と同じ石の天井を避けて、煙は上に登っていく。
線香に火を付けると、どんどん先が白くなって、煙が淡く浮き上がる。
「あ、折角服買ったのに、線香臭くなるね」
「自業自得だなクソババア」
「黙りなクソガキ」
全部綺麗に白くなった線香を確認して、ライターをポケットに突っ込んで、線香を包んでいた白い紙を外す。そのゴミもポケットに突っ込んで、半分に分けた。
その半分をお袋に手渡して、お袋の隣にしゃがみこんだ。お袋が先に線香を煙草の上に被せるように乗せて、その上に俺も乗せた。煙草とは比べ物にならないくらいの大量の煙が上がる。
黙って目を瞑りながら、手を合わせた。その時、不本意に繋がってしまった事に気が付いて、目を開いた。
鳥肌が立つ。喉が詰まって、息ができなくなった。
全てが合致したらすっきりすると思っていたのに、こんなに辛い事だとは思っていなかった。
線香の匂いは、真知の匂いと同じだった。
俺がどこかで嗅いだ事がある匂いだと何度も思ったのにも関わらず、それを深くまで追求しようとしなかったのは、怖かったからだ。
正体不明の真知の匂いは、俺が奥の方に押し込んで触れないようにしていた記憶を蘇らせるものだった。香水なんかじゃなかった。
七年前。遺体の状態からなのか、一度も開く事がなかった棺桶が火葬するための扉の奥に消えた時、お袋はいきなり大きな一歩を踏み出した。その扉を開けようと、しがみついたのだ。
俺が見たお袋の背中は滲んでいた。大きすぎた存在が自分が知らない場所に連れて行かれる事に、心細くなって泣きそうになっていたからだ。棺桶は開かれなくても、その中に親父が入っているのだと分かっていたし、お袋は俺に、政喜は死んだと、はっきりと言った時のお袋の顔はいつもの顔だった。それなのに、燃やされる親父を追ったお袋の背中は、大きいのに、崩れてしまいそうだった。
馬鹿だ。あたしと俊喜を愛してたんじゃなかったの。あんたの根性は、あんたのあたし達への愛はそんな物だったの。
あたしが死ぬまであたしの事だけを愛すって言った癖に。あたしと俊喜を置いていくの。あんたは馬鹿だ。まだ俊喜はガキなのにあんたがいなくてどうすんだ。あんたが俊喜が生まれた時に流した涙は嘘だったの。
お袋は鼓膜が破れそうになるくらいの大声で叫んでいた。
葬式の間もずっと笑って、もうやんなっちゃうねぇなんて言っていたお袋が、初めて取り乱した。
嘘つき。嘘つき。そうお袋は銀色の扉を叩く。俺が突っ立っているその後ろで、親父の先輩や同級生や後輩達が号泣している中で、お袋は涙も混じらない声で怒鳴っていた。
お袋が扉を必死で叩いて、親父を連れ戻そうとしているみたいだった。その音がずっと俺の頭を揺らしていた。
火葬場の女二人に扉から引き離されたお袋がうわごとのように放った、俺以外の誰も知らない小さな声を、俺は死ぬまで忘れられないだろうと思う。
『政喜』って、たったそれだけ。親父の名前だった。
お袋が顔を隠した髪の隙間から、その頬に涙が流れたのが見えた。お袋が泣いた姿を俺が見たのは、あれが最初で最後だった。
俺は涙を流さないように必死で瞬きを繰り返していた。なんでだろう。俺は自分が思っていたよりもずっと孝行息子で、無意識に俺は泣くなって、絶対に泣いたら駄目だって、自分で自分に言い聞かせ続けていた。お袋が俺よりも辛い事を、俺はガキの癖に分かっていた。お袋の弱々しい声が、親父がいなくなったからこそ出た事が、何よりの証明だった。
俺が泣いたらお袋が泣けなくなると、必死で涙を堪えた。
その時ずっと香っていたのは、線香の匂いだった。
それは俺に、親父が死んだんだと、二度と親父は帰って来ないんだと、二度と会えないんだと、はっきりと自覚させた匂いだった。俺が知ってる匂いの中で、一番悲しい匂いだった。
匂いに喜怒哀楽も感情もクソもないのに、俺の中で一番悲しい匂い。俺の人生の中で一番悲しい記憶の中にある匂い。
真知はその匂いをずっと纏っていたのだ。どうして俺は、この匂いを忘れてたんだろう。




