熱量と駄菓子屋のガキ
7月に入って梅雨が明けると一気に暑くなった。夏休みを数日後に控えている。学校はいつも通りの通常授業だ。
担任の山崎から言われたけど、俺の遅刻回数はたったの10回らしい。授業はサボりで点々と出てないものもあるらしい。でも、去年とは比べ物にならないくらいの回数だ。単位だけなら、来年は進級出来そうだとか、面白くなさそうな顔で言われた。
と、嬉しい事は沢山あるが、今喜べるような気分ではなかった。何より、暑いのだ。暑くって思考回路が狂って、何もする気が起きない。
今、俺のクラスの授業はプールの時間。エアコンがついている教室は施錠されて入れない上に、エアコンをつけられない。だから俺はこうして一番涼しそうな階段に逃げ込んで座り込んでいるけど、暑い。
廊下にはエアコンがついていない。最悪だ。何とか冷気を感じたくて階段にいるのけど、日が当たらないというだけでサッパリ涼しくはない。
窓は全開なのにも関わらず、無風のせいでその意味を為していない。もっとも、風があったとしても熱風なのだろうが。
シャツなんてものはとてもじゃないけど着ていられない。黒いTシャツ姿で壁に背中を付けているだけなのに、じっとりと汗が滲み出てくる。Tシャツが背中に張り付いてきて、背中がTシャツなのかTシャツが背中なのか、俺と服の境目がどこなのかすらよく分からない。
視界に入ってきた前髪を掻き上げるのも面倒だ。動きたくない。腕時計を見ると、まださっき見た時から5分しか経っていなかった。
とことん暇な時、早く時間が過ぎればいいと思えば思う程、なかなか時間は過ぎない。去年はサチコの巨乳が見たいという時夫の付き合いでプールサイドにいたから、それに比べたら今の方が暑さはマシだった。
冷たいプールに入りたい。でもそれは無理な話だ。それも全部自分のせい。プールに入れない俺が単位を取る為のレポートは、今年も俺の夏休みを台無しにしようとどこかでほくそ笑んでいるのかもしれない。
自業自得。去年、お袋に言われた台詞だ。分かっているんだけど、分かりたくもない。どうしようもない。俺のせいかもしれないけど、全部がそうだとも言い難い。
溜め息をつきつつ、ゆっくりと立ち上がった。授業で使っているかもしれないけど、目標は理科室だ。あそこはここから一番近い、エアコンがついている場所だ。行ってみる価値だけはある。
階段を一階まで降りて、右折するとそれがある。理科室、とプレートがついたそこは授業の時以外は施錠されているけど、足元にある意味不明な小さな扉はいつも開いているのだ。
しかも準備室は何故か上の階にあるから、物音を立てても教師が入ってくる心配はないし、エアコンだってつけ放題だ。
環境に悪いのは承知の上だけど、そろそろ体を冷やさないと俺に命の危険が迫っている。地球温暖化は本当に人間の心の余裕も奪っていく恐ろしいものだ。生まれたての小鹿みたいな俺が震えている。理科室のドアに耳をつけると、誰かがいるような音は聞こえなかった。
ラッキーだと、一人笑いそうになりつつ、足元にある意味不明な小さい扉を開けて、理科室の中に滑り込んだ。涼しい空気が俺を一気に包んで、後ろ手に扉を閉める。
あれ、まだエアコンは付けてないのに、どうしてこんなに涼しいんだろう。そう思いながら室内を見渡すと、信じられない光景が広がっていた。
あろうことか、真知が男と一緒にいたのだ。それに少しばかりショックを受けながら、真知の傍らにいる男を尻目に口を開いた。
「真知」
見慣れた真知の背中に声をかけると、真知が振り返る。しゃがんだままの俺の姿を真知は見えないだろうから、視界の邪魔をする前髪を掻き上げながら立ち上がった。
真知の茶色いストレートロングが真知の動きと一緒に揺れる。漂ってきそうな真知の匂いは俺の所までは届かなくて、それが香る範囲内に入って、椅子に腰を降ろした。
「真知が男と一緒なんて珍しいな」
「これは男性ではありません」
真知は手にしていた肝臓を男の腹に戻す。こう言うと真知が猟奇的な殺人鬼に聞こえるが断じて違う。真知が一緒にいるのは、人体模型だ。
真知は俺の目を見てから、人体模型の股間を指差した。それに苦笑い。確かに男の象徴は付いてないけど、いや、ついてなくて当たり前だ。誰もそんなの見たい奴はいない。
「女?」
「いえ、骨盤の大きさから男性だという事が分かりますので性転換手術を受けたものだと思われます」
真知はたまに面白い事を言う。人体模型に対してそこまで分析するとは、研究者になった方がいいのかもしれないとも思う。
「女になりたかった男なんだな」
「そういう事になります」
真知が座っている椅子とは机を隔てて正面にいる俺に見向きもせずに、真知は人体模型の大腸を触った。綺麗な女が綺麗とも汚いとも言えないものを触っている様は妙だ。
真知の捲りもしていない白いシャツは、袖口のボタンまできっちりと閉められている。そこから伸びる手にはゴム手袋。暑いのに、余計に熱が籠りそうだ。
血の滲んでいる第二関節は痛々しい。真知の第二関節はいつになったら完治するんだろう。
真知の髪が真知の肩を滑る。寝癖の一つもついていない茶色のストレート。高校生の女が寝癖付けたまま登校するなんて有り得ないけど、あまりにも綺麗過ぎる。
「真知はプール入らねーの?」
真知が無言で頷いた。真知の水着姿を想像しそうになって真知から視線を逸らした。セクハラも大概にしろ、俺。
真知は汗だくの俺と違って真っ白い顔をしていた。こんな涼しい所に俺が来る前からいたから当たり前なのかもしれない。でも真知は7月に入って暑さが目立ってきてからも一切汗をかいていなかった。いつも涼しい顔で、真っ白い生気がないような肌をしている。
「緒方先輩は、」
真知の声に視線を戻すと、真知はゴム手袋の指の先を弄っていた。真知から名前を呼ばれるなんて珍しい。
「ん?」
俺から出た声は、自分でも気持ち悪いくらい優しかった。男とか女とかガキとか関係なく、俺は真知以外の人間にこんな声を出した事があっただろうか。絶対にない。
「緒方先輩は、プールに入らないんですか?」
「あー、まあな」
思わず苦笑いすると、真知が顔を上げた。その真知に見せるように、Tシャツの袖を左肩まで捲り上げる。
「こんなの、物騒だろ?」
出した左腕には、肩の少し下、筋肉で盛り上がる上を両断するように斜めについた傷が残っている。グラフの目盛りみたいに縫い痕が、何回見ても変わらない。
それを真知が見てから、俺の目を見た。
「どうされたんですか?」
「切っちゃって」
中三の頃、ちょっと矢崎組の問題に首を突っ込んでいた時にちょうど問題のチンピラを捕まえたのが俺で、そのチンピラに抵抗されて、ザックリと切れた。パックリいったのだ。俺は鑑別を出た後だったし、普通の病院に行く訳にも行かず(理由を聞かれたら警察沙汰にされるからだ)、矢崎組御用達のモグリの医者に治療して貰った。
その医者が元解剖医だか何だか知らないが、男(主にヤクザ)ばかり相手にしてるもんだから治療が荒いのなんの。二年経っても縫い痕が残っている。もしかしたら一生残るかもしれない。
別に刺青を入れている訳でもないのに、プールには入れない。首を突っ込んだのは俺だし、自業自得以外の何物でもないけど。
「痛かったですか?」
Tシャツの袖を下ろしながら真知の声に答えようとしたら、真知は今までにないくらい俺を真剣に見ていて、首を傾げてしまった。真知は何かを言葉にしたいのか口をパクパクと動かす。赤い唇が音もなく動いていて、まるで呪われた人形がひとりでに動くような、そんな奇妙なものに見えた。
「血の量はどれくらい出ましたか?」
「え?」
「目の前は霞みましたか?痛みは?気分はどのような気分でしたか?傷の深さはどれくらいでしたか?」
「真知?」
俺が名前を呼ぶと、真知は我に返ったように口を噤んで、俯いた。真知がこんなに饒舌なのは初めて見た。質問が多すぎてどこから答えていいのか分からない。
大体、真知はなんでこんな事を聞くんだろう。でも、熱心に聞いてくるんだから、興味のある事なのかもしれない。
「まあ、……傷は痛かった。血はドバドバ出たし、結構傷も深かった。何センチとか細かい事は知らないけど」
真知のつむじに向かって、俺は覚えている限りの情報を口にした。でも正直その瞬間は驚いたし、今までに見た事がない血の量にビビったりもしたけど、次の瞬間にはチンピラの腹に右フックを入れていたから、そこまでの痛みでは無かったのかもしれない。
痛みを感じたのはチンピラが地面に踞ってからだ。記憶の中の話でしかない。
真知の髪が机に乗りそうになった瞬間、真知は顔を上げた。机に触れなかった真知の髪は、真知の胸元に行儀良く下がっていた。
真知が俺の傷にあれだけの質問を投げ掛けて来たのは、こんな傷がついてる奴はそう多くは無いからだと、思う。
それでも、黙り込む真知と俺を、理科室を包む異様な雰囲気。意味不明な独特の、ホラー映画か何かで幽霊目線の映像の中にいるような気分になる。
ただでさえ、理科室には命の塊みたいな謎の圧迫感が張り詰めている気がする。ふと思い浮かんだ豚の目の解剖を思い出して、それを振り払うように、笑った。
「真知はなんでプールに入らねーの?」
真知は一瞬俺の目を見てから、視線を泳がせる。これも聞いてはいけない質問だったらしい。何が駄目なのか、俺にはサッパリ分からないような些細な事を、真知は隠す。
誰にも言いたくない事の一つや二つはある。秘密だってある。それは重々承知の上だけど、真知にはそれが多すぎるような気もした。
でも俺は真知にそれを何故だとは聞けない。聞く権利がない。真知が拒んでいるなら、無理に聞き出す事は出来ない。
「あ、真知サボりか。意外と非行癖があんのか」
俺が苦し紛れに吐いた台詞に、真知は小さく頷いた。俺と真知の微妙過ぎる距離感は、手を伸ばして触ってみたくても躊躇う。二人でいる事も多いけど、俺と真知は友達なんて間柄じゃない。俺達の関係にのせられるのは、良くてクラスメイト。もしかしたら、学校が同じ人、でも危ういかもしれない。
俺と真知は、いや、俺は真知を知らなすぎる。
何を知ればその人を知った事になるのかなんて、今まで考えたようと思った試しもなかったような事を真面目に考えた。
とりあえず、当たり障りの無さそうな質問を投げ掛けるしかないのかもしれない。俺が真知を知りたいのなら。
頬杖をついて、真知を見た。
「真知は人体模型が好きなのか?」
「はい」
顔を上げた真知が小さく返事をする。人体模型が好きってどんな女だよ、と俺は思ったけど、好きなものは人それぞれだ。どこが好きなのか分からないけど、理由はいい。好きなら好きでいい。意味が分からなくて不気味だけど。
「んじゃ、理科も好き?」
「はい。理科は料理に似ています」
どの辺が料理に似ているのか、俺には全く分からない。俺にとっての理科は、そこまでのインパクトがない。俺が好きな教科は国語だ。教科書読んでいれば文句を言われないから。
質問が思い浮かばなくて、真知の顔をただじっと見ていると、視線が交わった。真知の茶色い目が俺の目を見ていて、俺は反射的に真知に顔を近付ける。癖、なんて言い方をしたらただの軟派な男に成り下がるんだろうが、でも実際はそうだった。
女と二人、密室。
真知の赤い唇にふと視線をやる。どんな味と感触がすんのかな、と思いながら真知の目を見た。掻き上げた筈の前髪が前に下がってきて、俺の視界を邪魔する。真知の顎に手を伸ばそうとした瞬間、真知に目を逸らされた。
このタイミングで視線を逸らす女も珍しい。黙ってさっきの体勢に戻った。今真知に逃げられていなかったら、確実にキスしていただろう。今のは、キスをするタイミングだった。
「真知、腹減った」
「そうですか」
そっけない返事。真知の目は、キスする直前の女の目とは全然違った。そりゃ、そうか。真知には香水の男がいる。他の男に靡かなくて当たり前なのかもしれない。
あの髪に触ったらどんな触り心地なんだろう。綺麗な色の地毛。真知の後ろの窓の向こうは裏庭だった。誰かが草むしりをサボっているのか、空き家の庭みたいに草が生い茂っている。草を刈ったら死体でも出てきそうだ。
「緒方先輩は昼食に何を召し上がりたいですか?」
「蒸しパン」
真知に笑うと、また俺の目線から逃げられる。白い頬がなんかの饅頭みたいだった。食ったらどんな味がするのか想像する俺は危険思想の持ち主なのかもしれない。
左手首の腕時計を見ると、ちょうどチャイムが鳴った。やっとプールも終わったのか。二人でもう少しいたかった。キスしようとしたけど、それはなかった事にして、もっと知りたかった。
真知が立ち上がったから、それに続いた。真知がエアコンのスイッチを消すと、控えめに鳴っていた空気が流し出される音が止まる。真知があの意味不明な足元の扉に歩いていくのに黙ってついていった。スラックスのポケットに手を入れると、ケータイが手に当たっる。
扉の目の前で、真知がくるりと振り返ってこちらを向く。
「お先にどうぞ」
「え、真知先に出ていいよ」
そう言うと、真知は俯いてプリーツスカートを軽く握り締めた。一瞬で自分が間違った事に気づいて、苦笑いするしかなかった。この扉は四つん這いにならないと出られない。俺はともかく、真知はスカートだ。こっち側に俺がいたら、中身が見えてしまう可能性がある。
俺も気が利かない野郎だ。いや、ちょっと見たいけど。ちょっとというよりかなり見たいけど。パンツに興味はあるけど、デリカシーがない。
「じゃあ俺、先に出ます」
「お手数をかけまして申し訳ありません」
いや、俺がごめんなさい。無意識にセクハラしてました。言葉にならない事を心の中で叫びながらしゃがみ込んで、扉を潜った。
廊下に顔が出た途端、むわっと熱気が俺を包んだ。やな感じ。廊下の床は中途半端に冷たくて手に細かいゴミがつく。扉を潜り終えて、振り返った。
「真知ドーゾ」
「はい、」
扉の傍らでしゃがみ込んでいると、真知が出てきた。真知の前に手を差し出すと、真知が俺の顔を見る。まだ潜り抜ける途中で上半身しか見えていない真知が異様に可愛い。俺は変態か。
「手、ドーゾ」
「……結構です」
あ、そう?と何も気にしていない風に俺は手を引っ込めたが、少々ショックを受けた。真知は無表情な分、言葉が冷たく感じる。
真知が出てきて、立ち上がった。俺の隣の真知はスカートとハイソックスのゴミを払っている。膝より少し上くらいの模範的長さのスカートは、多分この学校で一番長いスカートだ。
屈んで開きっぱなしだった足元の扉を閉めた。
「申し訳ありません」
「いいよ」
真知の胸元の青いネクタイがゆらゆらと揺れる。少しずつ騒がしくなってきた校舎内に迷ってしまうみたいに。だから懲りずに、真知に手を差し出した。
「手、繋ごうぜ」
「……結構です」
だよな、そうだよな。手持ち無沙汰になった手をスラックスのポケットに突っ込んだ。真知が迷子になってしまいそうだと思って、手を繋ごうと思った俺が馬鹿でした。ごめんなさい。自分で自分の心を傷付けた俺は自分を馬鹿にして笑うしかない。なんて虚しいんだ。
「あれぇ?緒方ぁ?」
後ろから聞こえた声に振り返った。ツインテールの首を傾け、巨乳女が俺を見つめていた。
「あ、サチコ」
「では、私はこれで失礼します」
真知は俺に頭を下げると、背中を向けて歩いていってしまう。おいサチコ!テメーのせいで真知が先に行っちゃっただろ!血走った目で見ないように気をつけて首ごとサチコに視線を動かせば、サチコは首を傾げながら真知の後ろ姿を見ていた。
「緒方の彼女?」
「違う。クラスメイトの真知」
サチコが俺の方を向いて首を傾げる。相変わらずのツインテールが一緒に揺れた。
「真知?」
「そう、月岡真知」
するとサチコが目を見開いて視線を泳がせた。
「サチコ、真知を知ってんのか?」
「え、ううん、知らない」
首を横に振ったサチコから甘い香水の匂いがする。空きっ腹で気持ち悪さも感じるような腹に匂いが響いて吐きそうだ。俺は匂いに敏感でデリケートだから。
「緒方、あの子と一緒にいたのぉ?」
「うん。プール入れないから二人でサボり」
「そっかぁ」
サチコは真知が消えた方をじっと見ていた。
「お前、やっぱり真知を知ってんだろ」
「え、知らないよぉ」
サチコは俺ににっこりと笑顔を見せる。嘘をついてるようには見えなかったけど、あまり腑に落ちなかった。ふーんと一言返事をする。
「緒方ぁ」
「何?」
「あの子と仲良くしてね」
言われると思っていなかった言葉に首を傾げたけど、サチコは素知らぬ顔で真知が消えた方を依然として見つめている。そこには、真知の道筋が残っているように思えた。
「何があっても、守ってあげて」
「は?」
「緒方にはそれが出来るでしょ?」
サチコが俺を見上げた。サチコの目が今までに見た事がない程に真剣で、反射的にサチコの肩を掴んだ。
「お前、やっぱり何か知ってんの?」
「違うよぉ。美人な子だから、あの子逃したら緒方が可哀想だと思っただけだよぉ」
俺の腕を払いながら、サチコが笑う。それはもう、先程の真剣さをどっかに吹っ飛ばしてしまったのかと思うくらいの、屈託のない笑みで。余計なお世話だ。そんな事を思いながら溜め息をついた。
ふとサチコの胸元に目をやると、ワイシャツから白い下着が丸見えだった。
「おいサチコ、下着透けてんぞ」
「わざとだよぉ?」
「お前はセイヤ君の前でだけ下着透けさせてろ」
「そんな事は分かってるよぉ」
分かってるならどうして下着を透けさせて俺の前に現れたんだ。それが矛盾っていうものなのだと言ってやりたかったけど、サチコは面倒臭い。背中を向けて歩き出したら、サチコがついてくる。
「ねぇねぇ緒方ぁ!セイヤ君との話、聞いてくれるぅ?」
「聞かねーよ」
「でねでね!」
「結局話すのかよ!」
聞かないって言ってんのに!疑問文が疑問文じゃないだろ。最初から有無を言わさずに話すつもりなら最初から聞いてくるなよ。サチコの胸元に下がる赤いネクタイが、胸の分だけ浮いて腹に着地していない様をぼんやりと見ながら、階段を上り始めた。
「この前初めてホテルに泊まったのぉ」
「あー良かったな」
「ベッドの上が鏡になってて豪華だったぁ」
それホテルはホテルだけどラブホだろ。やる為の場所だろ。そこが豪華ってどういう事だよ。その前に俺はそんな話は聞きたくない。
「おい、エッチの話は聞かねーぞ」
「え、なんでぇ?」
「話すつもりだったのか!?」
そんなの普通は男に話さないだろ。サチコから見た俺は女友達的なポジションなんだろうか。やめてほしい。女になりたい男に対しての偏見はないけど、自分が男だという事実から逸脱しようと思った事はない。
別にセックスの話をされたっていいけど、相手がセイヤ君だと思うと聞きたくない。セイヤ君が俺の一個上だという事は分かっているけど、想像するとサチコが援交しているようにしか思えない。ああもう俺は頭に情景を思い浮かべてしまっている。消したい。忌々しい。
「でねぇ、セイヤ君がねぇ」
「頼むからエッチの話だけはやめろ。それ以外ならいくらでも聞いてやるからお願いします」
「えぇ、そう?」
なんで、とでも言いたげなサチコに、倒れてしまいそうになった。改めて思う。女は怖い。セックスの内容まで人に話そうとするのか。怖い以外の何物でもない。俺は人に話されて困るような事はしてないけど、自分とあった出来事が、自分とは面識のない人間との間で話されていると思うと嫌な気分になる。
「じゃあセイヤ君とアニメのDVD観た話ならいい?」
「うん、いいよ」
別に興味もクソもないけど、セックスの話されるよりは全然マシだ。それにサチコの話は長い。セイヤ君が来てくれたらサチコもさっさといなくなってくれるんだろうが、こういう時に限ってセイヤ君は現れてくれない。俺のヒーローにはなってくれない。
「あのねぇセイヤ君が『萌えぇぇぇ』って」
「へー」
適当にサチコの言葉に相槌を打つ。今までの人生で俺が一度も言った事がない漢字と平仮名の組み合わせだ。
サチコの深みも何もないノロケ話の捌け口が俺であって、それ以上でも以下でもない。サチコの長い話は教室に帰っても続いた。二年を連れてきてしまった俺は、ちらちら見られまくって気分が悪かった。サチコが教室に帰っていったのは、昼休みが終わってからだった。
俺の隣にいた要はサチコの巨乳を見て落とそうと口説き始めたが、見た目おっさんのオタクセイヤ君一筋のサチコには、ホスト系イケメンチャラ男の要の口説き文句はサッパリ通じていなかった。
俺がサチコだったら絶対に要を選ぶと思ったけど、セイヤ君にはサチコしか分からない良さがあるんだろう。サチコの話を延々と聞かされている俺にも、セイヤ君の良さはいまいち分からないままだけど。
放課後、便所から教室に帰ってくると、真知が机を運ぼうとしていた所だった。
まだ人がいなくなった直後なのか、教室はゴミだらけだ。真知は机を床で引き摺る事なく、持ち上げて運んでいる。机の中は教科書が詰められていて重いだろうが、真知は絶対に引き摺ったりしない。真面目だ。
俺もその横で黙って机を運び始める。真知の真似をして、ちゃんと持ち上げた。無駄に多い教科書がパンパンに詰まっている机は結構ズシリと重い。これを毎日やる真知は、大した根性だと思う。
黙々と机を運ぶ真知を見て、ずっと不思議に想っていた事を訊ねる。
「真知はなんで教室掃除すんの?」
「人の役に立ちたいからです」
こんな純粋な人間もまだ存在していたのか。大体の人間が見返りを求めて何かをする中で、真知は自己犠牲を厭わず、それを誰にも知られないようにしたままだ。
「でも誰も真知がやったって知らねーじゃん」
「それがいいんです」
「え、なんで?」
「目立つ事が嫌いだからです」
正直、真知は目立つ以前の問題だった。前に真知が一日だけ学校を休んだ時がある。まだ梅雨の事だ。その日はたまたま俺のバイトが休みで、俺は真知の代わりに一人で教室掃除をした(自分でも頭がおかしくなったんじゃないかと疑ったけど、暇だったからだ)。
教卓の上に置いてある出席簿を暇潰しがてらに見たら、真知はきっちり出席した事になっていたのだ。まるで、透明人間。俺にとっちゃ真知がいるかいないかは結構に重要な話なのだけど、担任の山崎でさえ真知がいない事を知らなかった。
こんなの、普通、有り得るだろうか?
遅刻して授業中に静かに教室に入ってきた奴が休み時間になって、あれ、来てたの?なんて言われるのは何回も見た事があるけど、朝からいないのに気付かれないなんてよっぽどだ。
欠課がなくなる事になるからいい事なのかもしれない。でも、席は一つポツンと空いている筈なのに、どうして誰も気付かないんだろう。
真知が次の机を運ぼうと、俺に背中を向ける。
「真知は透明人間になりたいのか?」
「……はい。それが一番いいですね」
変わってる女、というより、悲しい女。透明人間になりたいと思う人間は、童貞で女に飢えた男くらいだと思っていた。高校入学したての頃に時夫と二人で進路指導室にぶちこまれた時に没収品箱の中にあったエロ漫画はそんな内容だった気がする。
ふと思い立って、口を開いた。
「真知、アイス食いに行かない?」
「はい?」
真知が振り返った。持ち上げていた机を降ろして、笑う。
「たまには息抜きしようぜ。俺が奢ってやるから」
財布の中はいつも金欠だからアイスくらいしか奢れないけど。ただ俺が今アイスを食べたい気分なだけというのもここだけの話。真知は辺りを見渡して躊躇うように口を開く。
「でも、」
「アイス食って戻ってきたら掃除の続きすりゃいいだろ?」
問答無用で教室のドアに向かって歩き出した。真知の足音が聞こえない。踵を返すと、真知は困ったように視線を泳がせている。
「真知がついてこなくてもアイス買ってきてやるけど、帰ってくる間にアイス溶けるだろ?」
「え、あの、」
「いいから、来いよ」
真知は小さく頷いて、走り寄ってきた。なんかちょっと鈍臭そうな走り方だ。それに少し笑いながら、一緒に教室を出た。ぬるい空気に包まれたけど、俺の斜め後ろを歩く真知の気配がするからそこまで不快でもない。
俺が踵を引き摺って廊下を歩く音と、真知の足音が不揃いに聞こえる。歩幅を少し小さくすると、真知と足音が重なった。階段を降りながら、真知に投げ掛ける。
「真知は何味のアイスが好き?」
「バニラです」
「へー、俺、スイカバーが好き」
「……スイカバーとは、なんですか?」
信じられない台詞に、思わず足を止めた。
「真知、スイカバー知らねーの?」
「はい」
真知は無表情で返事をする。おいおい、スイカバー知らない女子高生って普通いるか?苦笑いしながら再び足を動かす。
あれか?今は何かとオシャレっぽい言い方するから、ウォーターメロンバーとか言うのか?いや、それそのままだろ。自分で自分に突っ込みつつ、真知の方を見た。無表情は、俺がどんな顔をしたって変わらない。
「んじゃ、真知も俺と一緒にスイカバーな」
「はい」
「俺ビンボーだからハーゲンダッツとか高いの買えないから」
確かにハーゲンダッツは美味いけど、俺には高い。禁煙してから金は浮くものの、何故か毎月5000円で生活している。ケータイ代は抜きで、だけど。節約してどうするんだと思うけど、貯金はないよりはあった方がいい。
「いえ、代金はお支払いします」
「いいよ。スイカバーなら」
前を向き直した。踊り場にある窓から見える空が青くて夏を主張しているように感じた。夏だからと言って何か楽しみがある訳でもないけど、学校がなくなるだけで有り難い。
気温なのか、単なる俺の気分からなのかなんだか知らないけど、冬の空よりも夏の空の青さの方が濃い気がする。
階段の最後の一段を降りて、下駄箱に向かう。下駄箱を開くと、いつものブーツ。ローファーはこの前、余所見して歩いていたら犬のウンコを踏んだから捨てた。片付けてくれ、飼い主。
上履きを脱いでブーツを床に落とすと、ごつっと音がした。ブーツに足を入れる俺の横で、真知が黒いローファーに足を入れる。
上履きを下駄箱に突っ込んで、真知と二人で昇降口を出た。
サッカー部や野球部が汗をかいて練習しているのを遠目で眺める。サッカーや野球なんて授業以外でやった事はない。
小学生の頃は俺もミニバスのチームに入っていたがすぐに辞めた。理由はコーチのカツラが気になってバスケに集中出来ずに久人と二人で笑っていたからだ。在籍期間はたったの三日。お袋に怒られた。
ふと、真知に視線を向けた。
「真知って昔、習い事やってた?」
「はい。ピアノと英会話とお花を少し」
英会話か。だから前にあんなに英語の発音が流暢だったんだとやっと繋がった。それにしても。
「お花って?」
「華道……生け花です。お花を生けます」
「ああ、それね」
生け花って金持ちのババアがやるイメージしか俺には無かった。ガキもやるパターンもあるのか。俺の周りで生け花なんて上品な習い事していた女はいなかった。
校門を出て、そのまま左折。行き先は俺がガキの頃から通っている駄菓子屋。ここから徒歩3分。中学の時も学校をサボって溜まり場にしていた場所だった。
まだ熱い太陽の光を俺の黒いTシャツが吸収する。髪も黒いから暑い。だから黒髪は嫌いなんだ。
真知は黙って俺についてくる。次の曲がり角を右折するとすぐそこだ。スナックとキャバクラが立ち並ぶそこに居座るボロい駄菓子屋。
駄菓子屋の敷地内にある自販機の前で、ガキが二人立っているのが見えた。中学生くらいの金髪のガキ。こんなに暑いのに二人揃ってプーマのジャージの上下を着ている。見ているだけで暑い。
ガキから目を逸らそうとした時、ガキ手元がはっきりと目に入った。自販機の小銭を入れる所に、レシートを詰め込んでいる。ソワソワしている割には、僅か3メートル後ろにいる俺達の存在に気付いていない。
「おばちゃん!金飲み込まれた!」
ガキが言った台詞にピンときて、歩幅を大きくして近寄り、ガキの首根っこを掴んだ。
「おいクソガキ、何やってんだ」
ガキが明らかに焦った顔をする。自販機に金飲み込まれたふりして小遣い稼ぎだとすぐに分かった。たったの数百円なのに、このくらいの時代は悪知恵ばっかり働くよな、と思って、自分の老化をまた感じる羽目になる。
「はいよー、何?」
店からババアが出てきた。何年経っても変わらない派手な格好。関西のおばちゃんみたいなレオパード柄のTシャツに赤いパンツ。大仏みたいなパンチパーマ。
「おいババア、こいつら自販機にイタズラしてたぞ」
「ええ?」
ババアが俺の顔をじっと見て、驚いた顔をする。
「あんた……もしかして、俊喜?いつからそんな好青年になったの」
「いや黙れよ」
ババアにピシャリと突っ込みを入れつつ、逃げようとするガキの首に手を回した。ガキの付けるココナッツとムスクの香水の匂いが化合して、鼻に害が及ぼされる。
「つーかマジ離せよ」
「離さねーよ離したくねーよ」
ガキのナメた口に苛々しながら腕に力を込めた。
「ババア、こいつら自販機にレシート詰め込んでんぞ」
「え、嘘!?」
ババアが自販機に視線をやる。ガキは俺の腕から抜けようとするが、無理矢理抑え込んだ。
「よし、事情聴取だ。中に入れ」
暴れるガキを無理矢理引き連れて駄菓子屋の中に入った。俺は振り返って真知を呼ぶ。
「真知」
「はい」
真知がついてくるのを確認して、ガキを逃げられないように駄菓子屋の奥に詰め込んだ。
駄菓子屋のババアも焦ったように中に入ってくる。奥のテレビからは二時間サスペンスが流れていた。
ババアが奥の引き戸、駄菓子屋とババアの自宅を隔てる引き戸を開いたので、そこにガキをいれる。ガキの一人、オレンジと紺のジャージの方が俺に向かって口を開いた。
「ちょ、お前!俺達にこんな事していいと思ってんのかよ!」
「思ってる」
ガキの声が思いの外大きくて耳がキンキンする。取り敢えず座れ、と畳に上がらせた。胡座をかこうとする二人に呆れて、溜め息をついた。
「正座しろ。悪い事したんだから正座が当たり前だろ」
お袋からこういう教育を受けてきた。何とも単純な教育だが、正座に慣れてない俺にとっては痺れるし苦痛以外の何物でもなかった記憶がある。一番いい罰だ。
振り返ると、ババアと真知が立っている。俺は畳に上がって胡座をかいた。渋々と正座した二人組を見てから、ババアを見上げる。
「どうする?」
「ええ、どうするって」
ババアが困ったような顔をした。どうせババアも二時間サスペンスに夢中で気付かなかったんだろう。ババアは昔からサスペンス好きだ。
ガキを見る。緑と紺のジャージの方はポケットに手を突っ込んでいた。
「お前、俺達にこんな事していいと思ってんのかよ!」
「それさっきも聞いた」
俺は真知と平和にアイスを買いにきただけなんだけど、何をやってんだろう。緑と紺のジャージのガキがポケットに突っ込んだ手がモゾモゾと動いている。
「おい、ポケットからそのまま手出せ」
「は?」
「どうせメリケンだろ、出せよ早く」
ガキが渋々と出した手にはやっぱりメリケンサックがはめられていた。これで俺の事を殴って逃走しようと思っていた訳か。二人組の顔を下から見上げた。開けたてなのか金属アレルギーなのか、鼻ピアスの部分が真っ赤になっている。
「ポケットの中の物、全部出せよ」
「は?無理だけど」
威勢ばっかりはいいらしい。やってる事は物凄く小さいけど。なんでこんな事をしようと思うんだか、意味は全く分からない。頬杖をついて、面白い事が浮かんで笑った。
「知ってるか?パクられて鑑別まで行くとパンツの中まで調べられる」
「は?」
「お前らが出さないって言うなら、俺がパンツの中まで調べてやってもいいんだぞ?勿論、穴の中までキッチリ調べるからな」
焦ったオレンジと紺のジャージの方が声を張り上げた。
「俺達にはバックがいるんだぞ!お前俺達にこんな事していいと思ってんのかよ!」
「は?」
今の流れからバックなんて言われると、下ネタの方にしか思えないのは俺だけだろうか。いや、俺だけじゃない筈だ。健全な思春期の男は下ネタの方に考える筈だ。
「ここら辺じゃ最強だ!お前なんかすぐにボコボコにされんぞ!」
思っても見なかった脅しが出た。もう少し根性のある奴等かと思っていたがとんでもない根性なしだったらしい。まさかのバックを出す作戦。ただのイタズラなのに。
ちょっと笑いそうになるのを堪えて、平然と開いた。
「誰それ、名前言ってみ?」
もしかしたら知り合いかもしれない。まあ、俺の知り合いにこんなガキを匿う人間はいないと思うけど。
「緒方俊喜さんだ!お前なんかボコボコにやられて東京湾に沈められるぞ!」
俺は黙ってババアの方を向いた。ババアは軽く瞬きしながらガキを呆れた顔で見ている。
「緒方俊喜って、こいつだけど」
ババアの言葉に驚いた二人組を見て、呆れて物も言えなくなった。ちょっと待て、俺ってどれだけ残酷な人間になってんだ?どう考えてもおかしいだろ。
「東京湾って、ヤクザ映画の見すぎだろ」
俺はこんなに心が優しい人間なのに酷い。誰がそんな事をするような人間だと言ったんだろう。有り得ない。今日もハンカチを持っていないけど、俺は間違いなくこの星に生まれた唯一の紳士だ。
「嘘だろ、だってこんな爽やか系」
「何言ってんだ。俺は生まれながらにして爽やか系な好青年だ。それに最強でもないし勝手にヤバい人みたいな言い方するな」
早くポケットの中の物全部出せ、と急かすと、渋々二人はポケットの中の物を出した。
財布にケータイに煙草にライター、メリケンサックにバタフライナイフ。物騒な物ばっかり持ってやがる。財布を開くと、律儀にも学生証が入っていた。
「原牧涼太、辻井元樹」
学生証の写真は黒髪だった。学年は中二。俺が卒業した北中の生徒だ。まさか後輩に俺の名前を使われているとは思わなかった。そこまで喧嘩が強い訳じゃないのに。
二人の財布の中は空っぽ同然。俺よりも金欠だった。一円玉と十円玉がコロコロと何個か転がっているだけ。
「お前ら何回自販機にイタズラした?」
「……今回が初めてです」
「嘘付くな。何回かやってんだろ」
答えてるのはオレンジの方、涼太だけ。緑の方の元樹は一切答えていない。元樹の顔を覗き込むと、元樹は涙目だった。
「五回目です」
「どこで?全部ここか?」
「ここは二回目で、後は……」
元樹が涙混じりの声で言ったのは、ここから10分くらいの場所にあるボケじいさんがやってる煙草屋の前の自販機。
元樹がポロポロ涙を流し始めると、涼太まで泣き始めた。なんで泣くんだ。途端に俺は、どうしていいのか分からなくなる。
でも、泣いてるからといってお咎めなし、なんて事は出来ない。
「お前ら中二だろ?何も悪い事してない人生の先輩騙して金巻き上げんのは辞めろよ。恐喝とは訳が違うんだよ、こういうのは」
「俺、親が厳しくて……家出してて、警察だけは勘弁して下さい」
元樹が泣きながらそう言って、溜め息をつく。これって何の罪になるんだろう。一応、詐欺と自販機への器物損壊になるのかもしれない。でもこれで警察が動くかどうかと言ったら、動かない。このドブみたいな街には他にも片付けなきゃいけないことが山積みだ。
でもここで警察は動かないなんて言ったら、こいつらは反省もせずにこれを続けるだろう。
「警察に世話になりたくないなら悪い事するんじゃねーよ」
「ごめんなさい」
素直に泣いて謝れる二人は羨ましい。中二の時の俺よりもよっぽど大人だった。涼太がしゃっくりを上げながら口を開く。
「遊んで金無くなっても俺の親はもう金くれないし、もう」
俺の親はもう金くれない、で分かった。育児放棄されている訳ではないんだろう。ただ愛想を尽かされた。家に帰って来いの合図だ。
「何でも親のせいにするんじゃねーよ、男なんだから。いつまでも親に頼ってられる訳じゃねーんだぞ」
「じゃあ緒方さんは金ない時どうしてたんですか?」
「金無くなるまで遊ぶのが馬鹿だっつってんの、俺は」
噛み付いて来る涼太にそう言うと、黙り込んでしまった。涼太から目を逸らしてバタフライナイフを手に取る。ナイフを弄りながら小さく息を吐いた。
「金の計算して遊べ。金は簡単に無くなるモンだけど、金作るのは難しいんだよ。親が稼いだ金なんだから感謝して使え。煙草吸うのもこんな刃物買うのもいいけど、これをお前が買う為の金を稼ぐ為に親は汗水垂らして働いてんだ。一人ででかくなったような顔するな」
俺はお袋があの定食屋を守りながら必死に金を稼いでいるのを知っている。反抗もするし迷惑もかけるし、お袋の存在が面倒な時もあるけど、俺はお袋の苦労を知っているし感謝している。
手を振って刃の部分を出すと、窓から入ってきた光が当たって光った。こんなの持ってどうするんだ。人を殺す訳でもないのに。
元樹が身を乗り出す。
「俺だって好きで」
「『俺だって好きで生まれてきたんじゃねぇ』ってか?」
俺が睨むと、元樹は縮こまって口を噤んだ。
「俺だって好きで生まれてきたんじゃねーよ?親は誰だって選べねーよ。でもな、そうやってお前が今『好きで生まれてきたんじゃねぇ』って言えるのも、お前がお前のお袋から生まれて、今生きてるから言える事なんだよ」
「だって、」
「元樹の親がどれだけ厳しいのかなんて俺は知らねーし、涼太の親の性格も知らねーよ?でも親は親だ。厳しくされたってネグレクトされたって、お前を産む為に母親が腹痛めてお前を産んだんだ。愛は途切れたって愛は確実にあるんだよ」
元樹の頬は涙で濡れていた。俺も無性に泣きたくなった。俺はお袋に迷惑こそかけてるけど、俺は物心がついてからお袋の前でだけは絶対に泣かなかった。いや、泣けなかった。
俺の男のプライドなんて言ったら格好がつくかもしれないが、俺はただ意地の張り合いをしているだけだ。お袋は俺の前では絶対に泣かない。だから俺も泣かない。俺にとって涙は重いものだった。
「親が嫌いでもいい、俺もお袋なんて嫌いだよ。金稼げるようになったら好きに生きりゃいいんだ。我慢出来ないなら一人でどうにかしようとしないで誰かに頼れ。大人はお前らの親だけじゃねーんだから」
説教なんて、俺が出来る話じゃない。警察に捕まったり留年したり、二人よりも俺の方がガキだった。でも分かっていない事は誰かが教えなきゃいけない。
部屋には、サスペンスドラマの安っぽいエンディングと、二人の鼻を啜る音が響いている。湿っぽいのはあんまり好きじゃない。
ナイフの刃をしまって畳の上に置く。ババアの方に振り返ると、ババアが腕を組んで眉を下げていた。情けない顔、と思いながら、口を開く。
「ババア、俺は真知とアイス買いにきただけなんだけど」
ババアの隣に立っている真知をちらりと見てからババアに視線を移すと、ババアが真知の方を見て驚いた顔をした。
「俊喜……あんたこんな美人の彼女出来たの……」
「彼女じゃなくて後輩だよ」
彼女だったら良かったけどな、と言いそうになって、言わなかった。部屋の入口に脱ぎ捨ててあるブーツに足を入れた。呆然とするババアに律儀にも深々と頭を下げる真知。ババアの異常に濃い口紅を見ながら吐き捨てるように言った。
「ババアも年取ったな」
「はぁ!?」
ババアが俺を見て明らかに怒ったような顔をした。見慣れた顔だ。
「昔の気合はどこいったんだよ。気張れよ。ババアがガキにナメられてどうすんだ」
「……あんたが一番あたしの事ナメてるじゃないか」
「誰がテメーみたいなしわくちゃババアなんかナメるかよ」
ババアは俺を睨んだが、すぐに目を閉じて溜め息をついた。俺の隣をすり抜けて、畳の上に転がるバタフライナイフを手に取る。
「これは没収。今回だけは許してやるから、もう二度とこんな事するんじゃないよ」
ババアは昔っから肝心な所が甘い。でも、許してやるのは悪い事じゃない。失敗くらい誰にだってある。ただ涼太と元樹は、その失敗に人を巻き込んでしまったから、いけなかったんだ。
二人は素直にババアに謝った。何度も何度も、しゃっくりの隙間から声を出す。
「いい加減泣き止めよ。綺麗な姉ちゃんの前でいつまでもメソメソしてんじゃねーよ」
俺の声に二人が顔を上げた。俺は真知を親指でさして、アイスの入った冷凍庫を開ける。マイナスの世界の冷気が俺の顔にかかる。
「綺麗なんて滅相もございません」
真知の謙遜を聞き流した。その顔で可愛くないとか綺麗じゃないと言われても、全く説得力がない。スイカバーを4つ手に取った。
「おいババア、今回はババアの奢りな」
「ふざけんじゃないよ!ちゃんと金は払いな!」
なんで俺にはこんなに厳しいんだろう。世の中の冷たさに途方に暮れそうになった。
冷凍庫の透明の蓋を閉じてスイカバーをその上に置くと、俺は仕方なくスラックスのケツのポケットから財布を取り出した。
それを開くと、今日は珍しく野口英世が一人だけ滞在している。俺は小銭の入ったファスナーを開ける事なく、俺の今月最後の英世をババアに手渡した。
「釣りは要らない」
財布をポケットに戻しつつ、本当は諭吉で言った方が格好がつくな、とこっそり一人で落ち込んだ。生憎それでも俺の財布には諭吉がいない。スイカバーを真知に一つ、涼太と元樹にも一つずつ手渡した。
「これは俺がバイトして稼いだ金で買ったスイカバーだからな。泣いた分の水分を補うと思って心して食べるんだな。俺の金から、お前らがババアを騙して取ろうとした金も払った。だからお前らは俺に今1000円の借金をしたんだ、分かるな?」
「いや、あんたのスイカバーの金も入ってるよ」
「ババアは黙れ」
ババアを軽く睨むと肩を竦められる。ガキの頃から知ってるババアだからか、睨みは全く効かない。まるでお袋をもう少し年を取らせたみたいで気持ち悪い。
スイカバーを握る二人に視線を移す。そんなに握ったら溶けるだろ。
「だから、お前らは中学を卒業して働ける年になったら、自分で金を稼いで俺にちゃんと金を返せ。二人で折半して500円ずつだ。どれだけ遅くなっても俺は忘れないからな。俺が死ぬまでに絶対に返せ」
「なんて細かい男なんだ、ねぇ、お嬢さん」
「ババアは黙れ」
真知がババアに頷いていない事を確認してから、涼太と元樹に視線を戻した。
「分かったな?お前らがバックに出すような緒方俊喜って奴はただのビンボーな高校生だ。今後、俺の名前を出して誰かを脅したらお前ら二人ともぶっ飛ばすからな」
「ごめんなさい」
「すみませんでした」
頭を下げた二人のまだらに染まった金髪を見ながら、俺は笑う。チャラチャラしてる要よりもよっぽどいい男だ。
「お前らが本当に困った時にはちゃんと助けてやるから、俺を呼んでいい。適当に近くにあるコンビニでたむろしてる兄ちゃんに俺の名前出したら、俺がどこにいるか教えてくれるから」
二人が頷くのを確認して、スイカバーの袋を開けた。二人の肩がまだ揺れている。
「真知、戻ろ」
「はい」
静かな駄菓子屋を出た。いつもはガキが騒いでいる煩い駄菓子屋だけど、やっぱり駄菓子屋は煩いくらいがちょうどいい。あんなしわくちゃのババアがいる場所が静かなんて、まるで幽霊屋敷だ。お化け屋敷。
少しだけ涼しくなったような外の空気を感じつつ、自販機の横のゴミ箱にスイカバーの袋を捨てた。一口かじると、いつもの味がする。
真知はぼんやりと俺を見上げていた。
「真知も食えよ」
「あの、代金をお支払します」
「いいって、これ最終的には涼太と元樹が俺達に買った事になるんだから、いいんだよ」
な?と真知の顔を覗き込むと、真知が躊躇いながらも小さく頷いた。
「いただきます」
「ドーゾ」
真知が袋を開ける。ゴム手袋をつけてるからか、何か毒物の検査でもしているみたいに見える。真知はスイカバーを出してからしばらくそれを眺めていたが、口に入れた。
「美味いですか真知さん」
「美味しいです」
真知は相変わらずの無表情。美味いなら少しくらい笑ってほしい。将来の最強お笑い審査員は、なかなか俺の前で笑ってくれなかった。
真知が咀嚼する度にすべすべの白い頬が動いて可愛かった。スイカバーを頬張りつつ真知を見ていると、違和感を抱く。
どちらともなく学校への道を歩き始めても、その違和感の正体は分からない。首を傾げてよく記憶を巡らせてみると、分かった。
俺は真知が何かを食べている所を見たことがなかった。だから真知が妙に浮世離れして見えていたのかもしれない。
ものを食べるシーンを一切作らないでハードボイルドを表現したドラマなんてのもあったらしいけど、人は何かを食ってる時が一番人間らしいし、一番隙がある気がする。
誰かが何かを食べているのを見て何かを思った事はなかったけど、真知は可愛かった。それは見たことがなかったからかもしれないし、俺が単なる変態だからかもしれない。真相は闇の中だ。




