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!!!!  作者: 七瀬
第一章 常套句
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サチコと八木




6月って響きだけで家を出たくなくなる日本人は、多分俺だけじゃない筈だ。じめっとして肌がベタつく。雨になんて濡れたらもっとだ。


雨なんて空から落ちてくるただの水。それでも水道水と成分が違うのか、そのままにしておくとベタベタする。ただでさえ曇り空に気分は落ちて苛々しているのに、人をもっと苛々させる。ただ一つ俺が言えるのは、6月に禁煙を始めるのは間違いなく失敗に終わる、という事だけだ。


この星には、雨が降らなくて砂漠になった場所がある。雨が降らないせいで作物が出来上がらなくて栄養失調の人間ばかりが住む国がある。雨よ降れとカミサマに願う国だってある。まあ、雨よ降れなんて歌ってるのは日本人だった気がするけど。


でもそれは遠い場所の話。俺には俺の苛々と不快感がある。自分勝手と言われたらそうかもしれないが、結局皆自分勝手だ。自分勝手に生きて、自分勝手に死ぬ。


今の俺だってそうだ。皆が教室で大人しく授業を受けている時間なのに、学校の洋式便所の前にしゃがみ込んで、便器を抱えていた。


トイレットペーパーを目に当てると、水がトイレットペーパーに模様をつくる。情けなくて言葉にならない、俺の勝手な涙。


便器の中から香るアルコールと胃液が混じった匂いが鼻をつんとさせる。ガンガンと痛む頭に、吐いたせいで突っ張る首の筋肉に、より一層、生気が奪われる。耳に残る爆音のクラブミュージックが今も鼓膜を揺らしているような気がした。体も心も悲鳴を上げている。


昨日、居酒屋のバイト終わりにケータイを覗くと、最近イベントのオーガナイザーをやりはじめた中野先輩からの連絡が入っていた。イベントやってるから来ないか、なんてメール。バイトで疲れていて面倒だったけど、家に帰ったってクソババアと顔を合わせて口論になるか、風呂に入って寝るだけだったし、先輩に言われたら断れない。疑問文であってそうでない。完全に命令文に入れ替わってしまうのが、先輩からのハテナだ。


制服でないのが不幸中の幸いだった。未だにサドルが見付からない自転車は俺の家の前に止まったままで、徒歩だった。


マル暴の池谷に被害届代わりの連絡を入れたけど、あいつは所詮マル暴だ。暴力団以外の話には興味がない。少年課の沢田にも連絡したが結局あいつもあいつで、俺のサドルになんて興味はないらしい。お前の尻の穴を狙ってる奴がいるんじゃないか、なんて冗談に聞こえない下ネタを酒で焼けた声で俺に飛ばした。


黙ってろクソジジイなんて言ったら公務執行妨害で逮捕すると言われた。沢田だって好青年に対しての猥褻罪の罪になるぞと言おうと思ったけど、時間の無駄だからそのまま電話を切った。


俺の愛しのサドルは誰も相手にしてくれなかった。遠人愛って奴は本物らしい。いつも自転車についていた時はあんなにも当たり前だったのに、離れてみたら物凄く大事なものだったと気が付いた。


まあ、サドルの話はどうでも良くないけど、どうでもいいという事にしておく。俺はすぐ近くのクラブへと足を運んで、先輩のいるVIPルームに顔を出した。それからが地獄の始まりだった。


とにかく酒を飲ませられた。滅多に酔わない俺が気持ち悪さしか残らないくらいまで飲まされたのだ。凄い飲むね、なんて先輩が連れた女の一人が驚いていたのを覚えているが、俺だって好きで飲んでいる訳じゃない。


クラブを出たのは朝の7時。重たい体を引き摺って家に帰って、お袋の怒号が飛んでくる前に、風呂に入って学校に出てきた。


気持ち悪さが和らいでいたにも関わらず、吐き気が我慢出来なくなったのは1限目の終わり頃、今から10分前の事だ。少し咳をしたら喉元まで戻ってきたから、慌てて教室を飛び出した。まるで妊娠している女の悪阻。教師の怒号をそのままにトイレに駆け込んで、今に至る。


トイレットペーパーで口を拭って便器の中に放り投げた。大きく溜め息をつくと、意外とスッキリした事に気が付く。これからは妊娠している女には誠心誠意親切にしようと心に誓った。


水を流すボタンを押そうとした時、先程からの違いに首を傾げた。確か俺がこのトイレに入ってきた時、もう一つ、俺の隣のトイレに誰かが入っていた。俺がゲーゲーしてる最中に聞こえていたのは、カチカチとボタンを押す音。


今のケータイはあそこまで大きな音を立てない。ゲーム機か何かをゲーマーが授業をサボって弄っているみたいな早い音だったのだ。


今はそれは聞こえない。でも俺とは違う呼吸の音が聞こえるから誰かがいるのは確かだ。


便器に水を流して、個室を出た。正面で行儀よく等間隔で並んだ小便用のトイレから視線を右に移すと、水道がある。そのすぐ傍、俺がさっき入っていたトイレの隣の個室はドアが閉まっていた。


水道に手を翳して軽く手を洗った。そのまま手に水を溜めて、口を濯ぐ。やっぱり、吐いた後の口の中の味はなんとも言えない。気持ち悪い。


濡れた口元をシャツの袖口で拭うと、手をスラックスで拭いた。センサー式の水道なのはいいけど、なんで手を拭く紙まで置いてくれないんだろう。男がハンカチを持ち歩いてるなんて紳士以外有り得ない。俺は紳士の癖に、たまたまいつもハンカチを持っていない。


目の前の鏡の中の自分と目があった。白いシャツの胸元から黒いロンTが見えている。だいぶ見慣れた黒髪だけど、最初先輩には俺だと気付いて貰えなかった。そして一言、『好青年になったな』と言われた。


黒染めしてから数え切れない程言われた台詞だった。でも自分でもそう思う。黒髪になってから喧嘩を吹っ掛けられる回数が格段に減った。だからいつも運動不足。それでもいいと思う。


吐いたせいで痛む首を押さえながら首を回していると、ある違和感を抱く。それは、個室から聞こえる呼吸の音だ。明らかに正常な呼吸ではなかった。


その合間に少し呻き声のような声も小さく聞こえてくる。もしかしたら、凄い腹痛に悩まされているのかもしれない。


「おい、大丈夫か?」


反射的に、ドアに向かって投げかけた。自分が思っていた以上に紳士だったのかもしれない。苦しんでいる人を放って置けない。もうこれは戦隊物のヒーローになった方がいいのかもしれない。寄ってくるのは人妻だけだろうが。でも、ドアの向こうは何も話さないし何も反応しない。


心配になってきた。俺の声に反応出来ない程に苦しんでいるのかもしれない。軽くドアを叩いたけど、それにも反応はない。


水道の台の上に飛び乗った。ここからなら、辛うじて個室の中が見える。便所を覗かれるのは嫌かもしれない。というか絶対に俺は嫌だけど、万が一という事もある。中三の時、俺と二人で毎日猛勉強をしていた時夫が腹痛で布団から出れなくなった時があった。時夫は勉強から来るストレスで虫垂炎を起こしていたのだ。


もしかしたらそうなのかもしれない。時夫はまだ軽かったけど手術をした。危ないかもしれない。水道の台の上で立ち上がって、個室を覗き込んだ。


「おい、だいじょ……」


思わず固まった。思考停止。でも、俺の脳は視界から入ってくる状況を意図せずとも読み取っていく。


まず、そこにいるのは男だった。ここは男子便所だから当たり前だ。ついでに俺の前の席のフケが凄い岩田だった。


次に、岩田はイヤホンをしていた。便座に座って目を瞑って天井を見上げている。


そして最後に、奴はある物を握って上下に手を動かしていた。


静かに水道の台の上から床に降りた。そのまま便所を出る。それ以外の道は選べなかった。それ以外なかった。


あのイヤホンから流れていたのは多分エロビデオから流れてくるような女の声だろう。岩田が目を瞑ったまま頭の中で見ているのは、いや、想像しているのは、前に見た文庫本の挿し絵で赤い紐で縛られていたあの絵の女だろうか。


とにかく、その目を瞑った先にいるのが真知でない事を願った。何故だかは分からない。多分、俺が知っている女の中で一番美人だからだろう。岩田が真知の存在に気付いているのかどうかは別として。


見てはいけない物を見てしまった。同じ男だが、いや、同じ男だからこそ、そんなシーンは見たくなかった。さっきまで重く燃えるように痛かった頭が段々冷めていく。頭痛が収まるのは嬉しいけど、こんな収まり方は二度と御免だ。


ちょうどチャイムが鳴った。教室に入ると、黒板にはさっきまでやっていた元素記号が羅列している。やっと現実世界に戻ってきた気がして、溜め息をついた。


「緒方さん!」


走り寄ってくるのは優多と誠司。優多は煩かったギャ男、誠司はそれといつも一緒にいるギャル男だった。この前の文化祭の黒板が俺が書いたものだとあっさりバレて、優多と誠司はよく俺についてくるようになった。


でも飾り付けに関しては誰も分からないまま。真知がやったと俺は言いたかったけど、真知が何も言わない以上、俺の口から何かを言うのは間違っている気がした。


優多が首を傾げて口を開く。


「大丈夫っすか?」


「何が?」


「緒方さん、めっちゃ酒臭いですよ」


鏡なんか見なくても分かった。顔が引き攣った。


なんで俺は気付かなかったんだろう。あれだけ飲めば酒臭くなるのも当たり前だ。それを忘れて学校に来るなんてどうかしていた。お袋に怒られるのが嫌で足早に学校に来てしまったのが間違いだった。今日の俺は間違いだらけだ。


「そんなに臭い?」


「結構、臭いです」


苦笑いの誠司がだらしなく首に下がったネクタイを弄りながら言った。頭はまた痛くなってきた。


「そんなに飲んだんですか?」


「……朝の7時まで」


掃除用具入れのロッカーに凭れかかる。最悪だ。どう考えても分かった筈なのに何をやってるんだ。こんなの単位どころじゃなくてまた謹慎になりかねない。次に謹慎を食らったら退学になってしまう。


お袋が怖いというのもあるけど、案外授業を割り切れば学校はそこまで悪いところじゃないという事に今更気が付いた。まるでぬるま湯に浸かっているみたいな場所だけど、悪くない。


「それさっきじゃないですか」


「そうだね…」


少し上手くなった優多の髪の毛のセットから視線を逸らした。真知は俺の席の隣で行儀よく座っている。真知が眺める窓の外は雨が降っていた。真知の着た白いシャツは、俺のシャツよりも白いように思えた。


「吉川もちょっと心配してましたよ」


誠司が言った台詞に、吉川の顔を浮かべた。吉川は、さっきの理科の教師。あいつに心配されるなんて俺も末期だ。高校だと理科は化学やら生物やら分かれるらしいがよく分からない。俺にとっては全部理科だ。数学と算数の違いがよく分からない俺、プライスレス。


そういえば朝、真知に挨拶した時、真知が首を傾げていた。酒臭かったのかもしれない。今日は教師と近寄らない方がいい。近寄らないでおこうと、強く心に決めた。


「宅飲みですか?」


優多はやけに俺を知りたがる。少し丈が短かった緑のチェックのスラックスは、俺と同じくらいのサイズ感のものに変わっていた。髪の毛はV系なのに肌は地黒で小麦色、スラックスは軽くストリート系のサイズ。アンバランス過ぎるけど、もしかしたらこれが流行りになるのかもしれない。ないかもしれないけど。限りなくないだろうけど。


「いいや、クラブ」


クラブの名前を告げると、誠司が目を見開いた。


「俺もいましたよ!会いませんでしたね」


寝不足なのにテンションは高い。さすがギャル男。俺もよくギャル男の定義は分かっていないけど、どこからがギャル男なんだろう。いくら誠司でも、あんな人混みなら見付けるのも不可能だろう。まあ、俺はあそこには似合わない好青年ヘアーの紳士だから目立つと思うけど。


「俺、VIPから一歩も出てないからじゃん?」


「え?スゲー」


誠司が目を輝かせる。何がすごいのか全く理解できない。俺は何もすごくない。


「別に俺が凄い訳じゃなくて、あのイベントのオーガナイザーが俺の先輩だから呼び出されただけで、ただの酒飲み係だし」


「それでも凄いっすよ!緒方さんやっぱり顔広いんですね」


「たまたまだから、たまたま先輩が有名人になだけだから」


本当にたまたまだ。別に顔も広い訳じゃない。むしろ顔は小さめサイズだ。お袋が母子手帳を見せながら俺に言ってきた。何が伝えたかったのかは分からないし、ぶっちゃけどうでもいい。


「緒方さん本当に尊敬します」


「うっそー!嬉しいー」


軽々しく尊敬されても困ると思いつつも、誠司を見習って少しテンション高めに発した声に二人が苦笑いした。酒と胃液でやられた喉が作るテンション高めの声は思っていた以上に聞けたものではなかったらしい。


「まだ酔ってます?」


「酔ってねーよ。全部出してきた」


二人から視線を逸らすと、俺の背後で岩田がゆらゆらとこちらを窺っていた。あいつも俺とは別の物を出してきたらしい。俺は教室の後ろのドアの所に立っていて、優多と誠司は出入口を塞いでいる。どうやら岩田は教室に入りたいようだけど、俺達のせいで入れないみたいだ。


おどおどとしている岩田は俺を見ない。邪魔なら邪魔だと言えばいいと思う。待っている間が時間の無駄だ。でも、世の中俺のような人間ばかりじゃない。


「優多、誠司、邪魔になってる」


「あ、はい」


二人が少しずれると、岩田は二人に何も言わずにそそくさと席に戻っていく。俺の前を通過した時に、なんとも言えない匂いが鼻を掠めた。油の匂いというか、汗をかいて乾いた後のデニムの異様な匂いに似ている。要するに臭かった。


「あいつ、いつも本読んでますよね」


「それかゲームな」


二人の口調は、どこか岩田を咎めているようで、気まずくなる。本を読んでいる事の何が悪いのか、ゲームをしている事の何が悪いのか、俺には分からない。好きな事を好きなようにして、何がいけないんだろう。


岩田の文庫本がアニメの官能小説だということも、岩田のゲームがアイドルを振りまくるゲームだということも俺は後ろから見ていて知っていた。人間観察は一番暇潰しになるけど、自分の意外なお人好し具合を後悔していた。


虫垂炎を疑って心配になって覗いた先の個室の中の岩田の姿が頭に蘇る。俺も馬鹿だ。なんであんなに心配したりしたんだ。


今回の事で岩田の童貞説は事実になった。でも俺は岩田が少し心配になった。普通、学校でするだろうか。どれだけ溜まっていたんだろう。悲しくて虚しくなってくる。


「あいつ臭くなかったですか?フケ凄いし髪油っぽいし、風呂入ってなさそうですよね」


人は人の悪口が好きだ。だけど俺はそれを聞いていてあまりいい気分はしない。好きじゃない。


「やめろよ。色々あんだろ、人には」


そうだ。学校で一人でするくらい溜まっていたのだ。色々あるんだ。衝撃的過ぎて頭に刻まれてしまった個室の岩田を消すように溜め息をついた。


「緒方さんかっこいいです」


「それは日頃からもっと言えよ?」


笑いながら冗談を言うと、二人が笑った。俺は自分で思っているよりもずっと平和主義者だった。争い事は得意じゃない。自分を悪く言われるのは嫌だし、人を悪く言いたくもない。


ちょうどチャイムが鳴って、二人が席に走っていく。腹の中を埋め尽くしていた酒が全部出た事で腹がスカスカだったから、ゆっくりと席に戻った。腹にどの内臓に入るのかどうかは分からないけど、腹にしか行き場所がない。


席につくと、真知は教科書を開いて読んでいた。サラサラの髪の毛が教科書に落ちている。真知の背景の窓の向こうの空は灰色で暗いけど、真知の髪はいつも通りに綺麗な茶色だった。


アルビノというのが世の中にはあるらしい。ウサギがそれらしい。アルビノの人間はウサギみたいに真っ白だそうだ。髪の毛も睫毛も、何もかもが。もし真知がアルビノだったら、今よりももっと儚く見えるんだろうか。


色があるのに真っ白に見える真知は、本当に真っ白になったら色が無くなってしまうように思う。


まるで透明人間。俺にとって、真知は教室の透明人間だった。誰も真知に気付かない。真知は幽霊じゃない。ちゃんと命があって生きてるのに、透明だった。ちゃんと触れるのか、一瞬疑ってかかってしまうくらい。


ぼんやりとしていると、小野木が教室に入ってきた。社会の教師だ。グレーのダブルの背広がヤクザみたいに見える。矢崎組の運転手も小野木みたいだった事を思い出した。


俺にはそんなヤクザよりも、もっと見たい物がある。小野木から視線を逸らした。


「真知、腹減った」


「そうですか」


真知が俺の方を見た。無意味に真知に話し掛けるのが好きだ。真知が口を動かしているところを見ると安心する。ちゃんと生きてると思えるから。


真知は何も話さないと、どこかに飾られたマネキンみたいに見える。マネキンになるには少し背が低いかもしれないから、人形かもしれない。


そういえば俺は、真知が笑った所を見た事がなかった気がする。


「真知」


にっこりと笑うと、真知は俺から目を逸らした。


「別に笑いたくない時に笑うのはどうかと思います。不自然です。笑うならもっときちんと笑ったらどうですか」


凄い洞察力だ。吐いた後の俺はそんなに顔面蒼白だったんだろうか。スッキリしているけど、体の重さは変わっていないのがその証拠なのかもしれない。


それでも、見てみたい。出来るだけ机の上で体勢を低くして真知の顔を覗き込んだ。


「真知、笑って」


「笑えません」


真知との視線は交わらない。真っ直ぐ前を見たままの横顔に、首を傾げる。


「なんで?」


「特に楽しくないからです」


じゃあ真知はいつになったら笑うんだろう。日常の中にも、些細に笑える事はいっぱいある。今黒板の前でふんぞり返っている小野木の咳払いが絶妙に胡散臭いとか。それに笑わないなら、真知はお笑いの審査員にでもなれるんじゃないだろうか。まあ、真知は俺の前で一度も笑った事がないから、きっとどんなに面白いネタを持ったお笑い芸人が笑わせようとしても無理だと思うけど。


俺がお笑い芸人を超えるような面白いネタを持ってるのかといえば、そうじゃないんだけど。


「なぁ、真知って笑ったらどんな顔すんの?」


「笑った顔です」


俺の質問が悪かった。苦笑いしながら真知の横顔を眺めている俺の耳に、程よく賑やかな教室に教師の声が一回り大きく聞こえた。教師は大きくてよく通る声の人間ばかりなのは教室が静まり返る場面が少ないからかもしれない。もしかしたら、採用試験の時点で声が小さかったらなれないとか、そんな決まりもあるのかもしれないとくだらない事を思う。


真知の、第一ボタンまできっちりと閉めているワイシャツの襟ぐりには少しまだ余裕があった。痩せすぎだ。


「笑った顔にも色々あるじゃん。可愛いとか嬉しそうとか」


「それはその時の感情にもよります」


確かに。真知のとんでもなく早い切り返しに頭を下げたい気分になる。机の上に乗せられた真知の手にはやっぱりゴム手袋が装着されていた。もう梅雨だというのに第二関節はひび割れて血が滲んでいる。きっちりボタンが閉められた長袖のワイシャツから出る手は驚く程白いのに、そこに血が滲んでいて目立っていた。


手を洗いまくる真知を思い出して、あの血走った目がぐるぐると頭の中で回っている。あれは見間違えか、否か。


真知の目線を追うように前を見ると、小野木が教科書を覗きながら何かを話している。黒板に書かれている白い文字は俺でも知っているような歴史上の人物の名前。


未来だけ生きていくなんて無理で、振り返って、今を生きて、そうじゃないと未来にいけない。そんなの、世の中の当たり前。


でもたまに、嫌になる時がある。人間は同じ間違いを繰り返す。当たり前だと言われたらそうだけど、なんだか受け入れたくない。知っていて間違いを犯すのと、知らないで間違いを犯すのとでは雲泥の差だ。


ほら、だから間違いだって言っただろ、なんて他の誰かに間違いを指摘される時が俺に訪れるのだとしたら、ブチ切れると思う。


誰かが作り上げたものの上に生きてるのは、分かってるけど。


例えば、もし日本が貧しい国だったとして、それが誰かの間違いのせいだったりして、そしたら皆がそいつを責める。俺みたいな凡人と、国を抱えた人間の責任の重さはまるで違う。間違えたっていいだなんて綺麗事は、凡人にしか通用しない凡人の為の言葉だったりするんじゃないだろうか。



まあ、俺は国を抱える気なんて一切ないから、一生凡人で羽伸ばして生きていけばいいから全く関係ない。


無責任だと言われたらそうだ。それ以外は当てはまらない。でも、無責任に生きる事は間違っていない。俺の理想論に過ぎないけど、自分のしたい事の為だけに生きられる未来が、俺にはちゃんと用意されている筈だ。


間違いだなんて言わせない。そのつもりで俺は生きたいけど、人生にずっこけっぱなし。説得力はまるでない。


真面目にノートを取る優多の背中が視界に入る。あれから、優多はめっきり静かになった。あの馬鹿みたいな騒ぎ声は、優多が作っていたものなんじゃないかと思う程の変わりっぷりだった。


キャラとか大変そうだなぁ、と思う俺は能天気なんだろう。今までの人生で、大して自分を作らなくても、俺の周りには誰かがいてくれた。


その時、ふと視線を感じた。その方向を見ると、中途半端なギャルが俺を見ていた。遠くからでも分かる、マスカラが塗られ過ぎたぶっとい睫毛に囲まれた黒いカラコンの目と視線が絡む。黒染めしたのか色落ちして少し赤みの増した疎らに染まる汚い髪の毛は俺のものとそっくりだった。


頬杖をつきながら女から視線を逸らさない。クラスの連中からはトモミ、なんて呼ばれていた気がする。


女は顔を赤らめて俺から目を逸らした。何の用だよ、と思ったけど、すぐに興味がなくなって、真知も相手にしてくれそうにないからと突っ伏して目を閉じる。


現実逃避もいいところだ。散々俺は酒を飲んだのに(自分の意志じゃないし現実逃避もクソも無かったんだけど)、まだ現実逃避しようとしている。学校に来たら勉強勉強進路将来。永遠と続く無限ループをぐるぐる回って逃げ出せなくなる。


これが教師の手口なら、なんて悲惨なんだ。俺だって将来くらい考えている。でも馬鹿だから勉強は出来ない。ここにいて神経を削ぐくらいなら、寝た方が時間を有効活用できる。


なんせ、今日は寝ていないんだ。首も痛いし、頭も痛いし、寝れば治るだろう。


ふと目を覚ました。頭を上げて肩を伸ばすと、バキバキと肩が鳴る。俺の目の前には本棚があった。ここは図書室だ。


あれから何度も教師に起こされて、それが煩わしくなって図書室に来た。机の上に置きっぱなしになっていた広辞苑を興味も無いのにパラパラと読んでいたらいつの間にか寝ていたらしい。傍らには広辞苑が開いたままで置いてある。


そのページを覗いた。哀韻、なんて難しい言葉が目に飛び込んでくる。文字からして俺とは関係が無さそうなくらいに、ちょっと悲しそうな響き。人生にまで無縁そうだ。分厚く紙が重なっているにも関わらず、文字は小さい。


これだけの字の小ささで、これだけの量の言葉が羅列しているのは正直、これだけのものが何かを形容する為に存在しているという意味で、何かの名称で、色んなものが世に溢れている事を訴えてくるようで、気持ち悪い。そのページをめくって、適当にパラパラといじってみる。


俺に関係のある言葉は無さそうだった。聞いたこともないような言葉が隙間もないくらいに紙を埋め尽くしていて、俺はページを捲るのをやめる。


「暗涙」


俺の独り言は空気に混じってすぐに消えた。どうも俺の目は節穴らしい。自分に関係ないような言葉ばかりが目に入る。


暗涙、人知れず流す涙。心の中で泣く涙。


欠伸して涙が出たり、吐く時に目に涙が滲んだ事は沢山あるけど、俺が最後に悲しくて泣いたのはいつだっただろうか。たいぶ前の事だったように思う。


涙に負の感情ばかりがあるとは思えないけど、俺にとっての涙は暗いイメージがあった。暗涙なんて、暗いものと暗いものの掛け合わせ。文字からして悲しさを纏っているように思えた。


字は他の言葉と一緒のサイズなのに俺の目には妙に大きなものに見える。言葉にどれだけの重さがあるなんて分からないけど、サイズを分けて欲しいと思った。あたかも平然と並ぶ文字の羅列の中の一つにこれが入っているのは、間違っているような気がする。


平等は、こんな些細な所にも表れている。でも、本当の平等というのはどういうものなんだろう。同じ教室に同じように机を並べて同じ話を聞いていても、全員が違う。クラスで大声で好きな事を話せる人間も、何も話さずに一人でいる人間もいる。何かが誰かの心に刺さったり、刺さらないで受け流されたりしてしまう。何もかもが人間は違う。平等の正体は、俺にはサッパリ分からなかった。


広辞苑をそのままに、椅子から立ち上がった。壁に下がった丸い時計を見ると、もう昼飯の時間だった。


図書室を出ると、廊下に人が出ていた。その中に、八木がいる。プードルみたいなくるくるの髪が揺れている。逃げようかな、と頭に過った刹那、八木と目が合った。



「緒方!緒方だ!」


八木の大きな声が廊下に響いて、視線が俺に集中する。八木が走り寄ってきたから、逃げるように階段を登り始めた。八木に絡まれると面倒臭い。


「緒方ぁー待ってー」


サチコレベルの語尾の伸ばしは聞くに堪えない。女の声で再生されるならまだしも、声変りが終わった男の声だなんて、本当に無理だ。怠い。ただでさえ二日酔いで、いつも耳に響く八木の声がもっと大きな声に感じた。頭に響くからやめて欲しい。


その時、後ろから抱き付かれた。香ってくるムスクの匂いに吐きそうになる。


「緒方!捕まえた!」


「離せ、頼むから離して」


無理矢理八木の手を払うと、スラックスのポケットに手を突っ込んで振り向かずに歩き出す。八木は俺の隣にぴったりとくっついて来た。八木の纏うムスクに吐き気が蘇ってくる。


「緒方!おはよ!また図書室でサボり?」


「声の音量落とせ!うるせぇ!」


耳元で叫ぶみたいな八木の声に怒鳴ると、自分の声でさえも頭に響いた。最悪。


「緒方めっちゃ酒臭い」


「分かってるから言わなくてもいいんじゃね」


八木が首に引っかけたヘッドフォンからシャカシャカと音漏れしている。目を三日月型にして笑う八木の顔を一瞥して、溜め息をついた。


「時夫ちゃんもそうだけどさ、緒方ってなんでこの高校来たの?」


「今更それ聞く?」


「え、駄目だった?」


不思議をいっぱい詰め込んだみたいな顔をしている八木から目を逸らして、階段の最後の段を登った。


「だって、緒方も時夫ちゃんもこの真面目な校風に似合わない」


何が真面目な校風に似合わない、だ。俺はどこからどう見ても好青年だ。廊下には沢山の人がいた。キャーキャー何が楽しいのかサッパリ分からないけど、皆が騒いでいる。静か過ぎる授業中とは大違いだ。


「だって緒方くらい酒臭い人いないじゃん」


「今日はたまたまです」


えーそうなの、と八木が続けた。皆、酒臭いって煩い。俺だって好きで酒臭くなった訳じゃない。


一応先輩の八木と歩いているからか、視線が俺達に集まる。赤いネクタイが八木の胸元で揺れている。俺は留年生だけど赤いネクタイしか持っていないから、ブレザーを着るとき以外はネクタイをしないようにしている。


目立つのが嫌いだからだ。


「緒方って目立つよね」


「お前が目立ってるだけじゃん」


そんなプードルみたいな頭してるから目立つんだ。八木は個性が強すぎる。教室のドアの所に、要がいるのが見えた。相変わらずの金髪は黒髪の中に物凄く目立っていた。


俺の腕に腕を絡めてこようとする八木から距離を取っていると、要が俺の方を見る。


「俊喜さんおはようございます」


俺に向かって律儀に頭を下げる要の肩を軽く叩きながら教室に入ると、優多の騒ぎ声が耳をつんざく。授業中は静かになったけど、休み時間はこれでもかって程に煩い。でも前よりマシだ。黙って席につく。


「緒方B組だったんだ!」


八木が目を輝かせながら俺を見て、顔を歪めるしかなかった。八木にクラス教えちまった。ついにやってしまった。


俺の後ろからついてきた要は八木を見ようともしない。俺が要に注意してからというもの、要は八木を完全無視するようになったのだ。何が要にそうさせるのかは分からないけど、多分八木の事を生理的に受け付けないんだと思う。要はそういう奴だ。俺には理解できない。


「俊喜さん、今日は焼きそばパン無かったんで蒸しパンです」


机の上に蒸しパンとイチゴ牛乳が置かれる。そうだよ、俺はもう焼きそばパンに飽きていた。やっと別のものが食える。


隣の席を見たけど、真知はいつもの如くいなかった。真知は昼飯の時間には、いつも姿を消すのだ。どこで飯を食っているんだろう。


イチゴ牛乳のパックにストローを刺した。八木と要は、どこからか持ってきた椅子に座る。要の手にはコロッケパンが握られていて、何と無く要が焼きそばパンを俺に買ってくる意味が分かった気がした。


要はソース味が好きらしい。それはそれでいいけど、俺にお前の趣味を押し付けないで欲しい。蒸しパンがいいです。毎日蒸しパンが出てくれば俺は何も文句は言いません。


スラックスのポケットに入っている財布を取り出して、500円を要の前に置いた。驚いたように顔を上げられた。


「こんなにしませんよ」


「手間賃も込みだから。いつもごめんな」


すみません、と要が言いながら、それをポケットにしまった。いや、500円しか出せない貧しい俺の方がすみません。できれば毎日蒸しパンでお願いします。


「ねー、緒方」


八木が俺の机に頬杖をつく。八木の奥二重の目は、俺の目の奥まで見るみたいに鋭い。


「サチコがさ、ラブホ街でおっさんみたいなのと歩いてるの見たんだけど、サチコって援交でもしてんのかな」


「は?」


援助交際、と八木は言う。興味津々という様子ではない。ぼんやりと虚空を見ている。サチコが援交。この街ではよくある事だけど、いけない事はいけない事だ。


「セイヤ君って言ってた、常連かな」


八木の台詞にピンと来た。それはもう、すぐに、光の速度で。


「それ、サチコの彼氏。援助交際ではない」


「え!?まさかのオヤジ好き!?」


「お前煩いから一回黙れ」


八木の声はこの煩い教室でも十分響く。うんざりしつつ、イチゴ牛乳のストローに口をつけた。甘い味が口に広がって、サチコの甘い香水の匂いを思い出した。


「オヤジじゃなくて、サチコの彼氏は一個上だよ。この高校の三年」


「嘘!?」


「嘘じゃねーよ。俺、学校で見たし」


あんなのが一個上、と苦笑いする八木に、要が言う。


「あんたこそ、なんてラブホ街にいたんだよ。そのサチコが好きなのかよ」


「違う違う!俺は部活帰りにたまたま見たの!サチコは確かに巨乳だけど俺は微乳派」


「お前の女の趣味なんて聞いてねーよ」


焦る八木に突っ込むと、八木が大袈裟に溜め息をついた。なんだよ、溜め息つきたいのはこっちだバカヤロー。お前はいちいち煩いんだよ。


八木は机の上に突っ伏した。プードル頭が机を陣取っていている。蒸しパンの袋を開ける。ほんの少しだけ出たカスを八木の髪に絡めて美味しく仕上げてあげようかと思ったけど、やめた。それはいじめだ。


「俺、サチコと中学一緒なの」


「あっそ。初耳」


何その返事!酷い!と八木が喚いてるのを尻目に、蒸しパンを頬張った。そう、このしっとり。俺が求めていたしっとりはこんな所にあった。さすが蒸しパンだ。


「いいから続けろ、俊喜さんが聞いてくれるって言ってるんだから、煩わせるな」


「全然理解出来ない!どうしてあんなそっけない返事からそこまで分析できるの!?」


要の俺至上主義はどうにもならないのだろうか。八木が顔を上げて要に吠える。要はぱっちり二重の目を最大限に冷たくして八木を見ていた。要、八木は一応先輩です。


「いいから早く話せよ」


「あ、うん、サチコって、転校生だった訳よ。中二の頭に転校してきたんだ」


「へー」


「サチコって元々はお嬢様らしいんだよね、親の会社が倒産して、今までいた私立から俺が行ってた公立の中学に転校してきたらしい。一時期すげー噂になったんだ」


あの巨乳サチコが元お嬢様。確かに分からないでもない。あの特有のダサさと世間知らずな感じは、庶民的ではないような気がする。


「だから?」


「え、だから援交するまで生活が苦しくなったのかなって、心配になった」


こいつは本当に馬鹿なんだろうか。援助交際は底辺の人間だけがするものだと勘違いしている。


「八木、お前が思ってる程、女って単純じゃねーと思うよ」


「え、」


「援交っていうのは、マジで金がない人間がやるだけじゃなくてさ、ちょっとブランド物のバッグ欲しいとか、欲求不満とか、そういうのでやっちゃったりもすんだよ」


そうなの!?と八木は叫んだ。


「まあ俺の周りでは、だけど。性病のリスクがあるなんて事よりも、金の為になるならそれでいいと思ってる奴もいんの」


「男は体売っても尻の穴を売る覚悟が無ければそこまで金にならないけど、女は腹括ればいくらでも稼げるんだ。なんせ、時給何百円とかそこらで何時間も働くよりも、一発ヤれば一気に万単位で金が入ってくるからな。一番楽に金稼げるから、一回援交すると抜け出せなくなる」


俺に補足してくれた要に頷くと、八木がポカンと俺達を見る。


「二人とも、なんでこの高校来たの?」


「なんでその質問をするのですか、八木くん」


俺はともかく、要は俺の後についてきただけだ。要以外は馬鹿で少年院にいるから受験どころではなかったけど。清春はここよりも頭のいい高校に行ったから論外だ。蒸しパンをイチゴ牛乳で流し込んでから、八木を見る。


「それに、メジャーに春を売れる時期は限られてるからな。ババアになってもコアな客は付くだろうが、普通に考えて若い頃に比べれば金も取れなくなる。売れるうちに売っとけって事だろ」


俺の言葉に、八木が苦笑いした。だから、頬杖をついて八木に笑う。


「ゲイ専門のソープなら知ってるけど、お前も紹介してやろうか?」


「いい!マジで遠慮しとく!」


慌てて顔の前で手を振る八木を見て、要が笑った。からかいがいがあるとか、そんな事を思っているんだろう。


「つーか、なんで二人ともそんなにアウトローな感じな訳?」


八木の言葉を聞いて、心の中で溜め息をついた。アウトローってなんだよ。すると、要が咀嚼していたコロッケパンを飲み込んでから口を開いた。


「俊喜さんはめちゃくちゃ詳しいよ」


「なんで?」


「俊喜さんの元カノの一人に、現役ソープ嬢いるから」


「嘘ぉ!?ソープ嬢!?」


八木が叫んだ声に、教室が静まり返る。それに気付いた八木が口を噤んだ。八木を出来る限り優しい目で微笑み、見つめている事しかできない。


「静かにしろよ。うるせーから。昼間からソープとかやめて。卑猥なんですけど」


「え、ごめん」


視線を泳がす八木から目を逸らして、蒸しパンを齧った。なんで八木はこんなに煩いんだろう。高校でソープと叫んでしまうのは明らかにおかしいし場違いだ。八木は人の目から逃げるように身を縮め、声の音量を下げる。


「その人いくつ?」


「ハタチ」


半年前の事だ。八木と女の話をした事がなかったから言っていなかったけど、その頃、八木と俺はクラスメイトだったのに。もう21になったのかどうかは知らないけど、俺と付き合っていた時はハタチだった。八木が周囲に視線を泳がせてから、更に声を潜める。


「どうやって出会うの?」


「普通に?」


「緒方の普通の基準が分からないんだけど!」


「普通は普通だよ」


嘘だろ、と八木が遠くを見た。何が嘘だ。真実だよ。


「何個か質問しても良いですか」


「なんすか」


「やっぱりソープ嬢ってアッチの方凄いの?」


その八木の台詞に、要が吹き出して笑い始める。まさに爆笑。要がそこまで笑うのは久々に見た気がする。腹を抱えて笑う要にブツブツと文句を言いながら八木は少し顔を赤くした。自分で聞いといてその顔をするなんて面白すぎて、笑ってしまった。


「自分で試してみればいいじゃん」


「いや、そこまでじゃないけど!気になるじゃん!」


「ハハハ、マジでそれ聞くか?」


ヒーヒー言いながら要が八木を指差す。八木は居心地が悪そうに顔を隠した。


「ずっと聞きたかったんだけど、緒方って経験人数何人いんの?」


「は?」


思わず素っ頓狂な声を出してしまう。要はまだ爆笑している。教室にはほぼそれだけが響いていた。八木は指をぱっくりと開いて、その隙間から俺を見る。呆れた。


「そんなの数えるかよ。数えてる奴いたらただの馬鹿だろ」


「え、そうなの!?」


「そうだよ。経験した人数なんてステイタスにも何にもなんねーし、数えてる奴はただの変態じゃん。お前、もしかして数えてんの?」


「数えてないです」


数えていたんだと悟った。八木の即答は嘘を隠す為の道具にも似ている。八木は正直過ぎて笑える。


「まあ、サチコのセイヤ君はただの彼氏だから安心しろ」


「うん、緒方に相談して良かったよ」


今のは相談だったのだろうか。ただの噂話にしか俺には聞こえなかったんだけど。要の笑いは止まらない。よっぽどツボに入ったらしい。


「ハハハ、マジ八木って八木じゃん」


「いや、意味が分からない!ちょっともう笑うのやめてくんね!?恥ずかしいんだけど!?」


「恥ずかしい事を聞いたのはお前だからな」


俺がそう言うと、八木が耳まで真っ赤にした。なんか八木って若い。自分の老化を感じざるをえなかった。


要が笑いすぎて口からコロッケパンの破片を吐き出した。それが俺の机に付着する。


「ちょ、要きたねーよ!」


「ハハ、すみませ、ハハハ」


笑いすぎて全然反省していなさそうな要の金髪を叩くと、痛いと言いながらも笑っていた。八木はまだ顔を隠している。年下に笑われて恥ずかしがる八木は本当に馬鹿だ。


八木と要から視線を逸らすと、真知が教室に入ってくるのが見えた。人と人の間、机と机の間を縫うように歩く真知は誰にもぶつからない。まるで、すり抜けるみたいだった。


俺の隣の席に腰を降ろした真知の手には弁当箱があった。自分で弁当を作っているのだろうか。どんなの作ってるんだろう、と俺が思っている間に真知は弁当箱をリュックにしまって、教科書の用意を始めた。


要は毎日のように俺と昼飯を食っている癖に、真知の存在には気付いていない。要は綺麗な女には敏感な筈だけど、全く気付いている素振りすら見せない。要の目に、真知が見えていないんじゃないかと思う程に。


真知は俺を一切見なかった。俺が話し掛けるまで絶対に真知は俺を見ないし、真知は俺に話し掛けたりしない。それはまるで、俺の周りにいる人間とは正反対だった。


真知から目を逸らして、二人を見た。言い合いする二人はプードルとホストみたいでアンバランスだったけど、案外いいコンビなのかもしれない。


少し開いた窓から入ってくる風に真知の匂いがのって鼻を掠めた。ゴム手袋の意味も、真知の香水の名前も、俺は未だに知らない。


聞けない。何度も聞こうとしたけど、踏み込めない。


バイト先の居酒屋を出ると、雨が降っていた。学校からここに来る時には辛うじて降っていなかったけど、ついに降り始めたらしい。雨の特有の匂いに少し苛立ちを感じながら、手にしていた透明のコンビニ傘を開いた。


屋根のある裏口から一歩前に出ると、傘に雨が叩き付けられるように落ちてきた。豪雨だ。早く帰りたい。寝たい。今日で何度目なのかも分からない溜め息をつきながら、家に向かって歩き始めた。


時夫の家の方が近いけど、雨が降っていると遊ぶ気も失せる。まあ、時夫の家に行くとしたって、遊ぶもクソもなくただグダグダと時間を潰す以外にする事はない。


長年一緒だとそういうものだ。今更、皆が揃って耳を貸すような秘密はない。長年一緒にいるが故の距離感が出来る。それの居心地の良さは言葉にする必要もない。ただグダグダしているだけで時間を潰せるのは最高に幸せな事なのかもしれない。


いつもの道に出たけど、何だかいつものルートで帰る気になれなかった。いつもの道の方が近いことは確かなんだけど、あそこは車の通りが多い。この豪雨の中じゃ、水溜まりに入った車に雨をかけられる事も考えられる。


緑のチェックのスラックスをぼんやりと眺めて、俺はいつもと違う道を選択した。人通りも車の通りも少ない道。制服が汚れたりするとクリーニングが面倒で、金もかかる。


真っ黒い空に、通りのネオンが浮かんでいる。道路に薄く張った雨の膜にブーツが音を立ててぶつかった。


ただ地面に水があるというだけなのに、ブーツの底にまだ乾いていない糊がついているみたいだ。もしくはガムかそこら。地面とブーツの底が離れるまでに、いつもより時間がかかる気がする。


曲がり角に沿って歩くと、こっちの方面は真知のマンションの方向だった事を思い出した。あれから何度か送ったけど、一度も部屋には上がっていない。


それは勿論、真知が上がっていくか聞かないからだ。上がって行ってもいいか聞くなんて、俺にはできない。手を出したいですと言っているような気がして無理だ。そんなつもりはないけど、どんな部屋に住んでいるのか見てみたいけど、真知は俺を部屋に呼んでくれない。どこまでも、真知は読めない。


ふと、視界に赤い傘が目に入った。小さい子ども用の傘だ。でもそれを差しているのは大人だった。細いジーンズを穿いた細い脚が伸びていて、その形から女だという事が分かる。


踏切の前にただ突っ立っていた。動こうともしない。踏切はとっくに開いているのに、全く動こうとしていない。


女が履いたナイキの白いエアフォースが暗闇の中にやけに目立つ。俺はその踏切を越えないと家に辿り着けない。女の横を通ろうとした時、音を立てながら踏切が閉まった。


それに足を止めると、電車が俺と女の前を通過した。梅雨特有の籠るような空気が一瞬消える。電車が切った風が俺に当たるのと一緒に、あの匂いが俺を包んだ。


真知の、あの意味不明な匂い。俺がどこかで嗅いだ事のあるような気がする匂い。


思わず女の方を見た。傘で女の顔は窺えなかった。俺の前で踏切が開いたけど、動かなかった。女も、動かなかった。


「真知?」


ほぼ願望だけで呼んだ俺の声に、女が肩を揺らした。赤い傘から顔を出したのは、不用意に目が合ったら心臓が鳴るくらいのドーリーフェイス。真知だった。前から走ってきた自転車を避けながら、真知に近寄る。


「こんな所で何やってんの?」


何故か、真知に話し掛ける時の俺の声は最大限に優しくなる。真知に目を逸らされたけど、何回もこんな対応をされているから慣れてしまった。子供用の傘の柄を掴む真知の手は、やっぱりゴム手袋に包まれている。


「買い物に行く途中です」


普通、買い物に行こうとする人間が、こんな豪雨の中で開いた踏切の前にじっと立っているだろうか。良く見たら真知の立っている足元は、小さい傘の開いている分だけ乾いていた。


それだけ長い間ずっと立っているのに、買い物の途中なのだろうか。真知の第二関節の血と傘の色はそっくりだった。


「こんな遅い時間に一人じゃあぶねーぞ」


なんで買い物の途中なのにずっとここにいるのかは、聞かなかった。真知の顔を覗き込みながら、小さく笑う。ここら辺は真知の住むマンションが近いけど、ソープやヤクザの事務所、ラブホが立ち並ぶ土地なのだ。俺はここが地元だけど、あまり治安がいいとは言えない。


「俺が買い物付き合おうか?」


俺の言葉に、真知が首を横に振った。


「いいえ、何を買おうとしていたのか忘れてしまったので、もう帰ります」


「そうか」


何時間も踏切の前に立って思い出そうとしていたのだろうか。どれだけ真面目で几帳面なんだ。真知は頑固な所があると思っていたが、そこまで頑固だとは思わなかった。


「じゃあ、送っていくよ」


「いいえ、大丈夫です。すぐ近くですから。お心遣いありがとうございます」


真知は背中を向けて歩き始めた。真知が遠退いて、近くの街灯に照らされて、はっきりと見えた。


真知のいた地面は乾いていた。でも、豪雨のせいですぐに水浸しになる。他と変わらない地面になったそこを眺めていたら、ここと同じように真知が消えてしまうような気がした。


「真知!」


俺の声に、真知が振り返った。俺が唯一知っている事。真知は、俺の声を絶対に無視しない。真知が着ているのは大きめのサイズの無地の白いプルオーバーのパーカーだった。足元のエアフォースと同じ、真っ白。


真知の髪は、いつもより外が暗いせいか、明るさはあまり目立たなかった。


「送っていく」


「結構です。数分で着きます」


「その数分が命取りなんだよ」


真知の無表情に笑みを浮かべる。たまに思う。俺が笑えば真知も笑うんじゃないかって。俺の笑いが真知にも伝染するんじゃないかって。でも、真知の将来はお笑いの審査員だ。別に面白いギャグを持っている訳ではない俺の笑いが移るとは到底思えないけど。


黙っている真知の横を、マンションに向かって歩き出す。立ち止まったままの真知を振り返って見た。


「俺の後ろを歩いてたんじゃ、送っていく意味ないんですけど、真知さん」


「……でも、」


「俺、バイトで疲れてるからさ、早く帰ろうぜ。真知を家まで送らないと、不安で寝れない」


俺が前を向くと、水浸しの道路に不規則な足音がした。足音というのは間違っていると思えるくらいの、水が弾ける音だったんだけど。


「申し訳ありません」


「別にいいよ」


俺の隣に並んだ真知は不思議だ。あんまり優しくない俺にさえも、優しくさせる能力を持っている。俺の中で真知は、優しくするのが当たり前になっていた。というよりも、俺が真知に優しくする以外出来ないだけだけど。


まるで真知は、先輩の彼女みたいだった。先輩の彼女なら、俺は必ず優しくしなきゃいけない。俺がどれだけ意志に逆らおうとした所でどうにかなる問題じゃない。


まあ、俺が真知に意地悪しようと思った事は無いから、意志に逆らおうとはしていないし、むしろ従順なんだけど。


「真知は地元ここじゃないよな?」


「はい」


雨の音に紛れる真知の声に聞き耳を立てる。真知の地元がここじゃない事は分かっていた。だって普通、こんな女がいたら噂くらいにはなるだろう。ソープやAVのスカウトマンがうじゃうじゃといるこの土地で、真知が普通に渡り歩いて来られたとは思えない。


正直、真知はソープやAVのスカウトマンじゃ躊躇って声もかけられないと思う。俺にはスカウトの世界の事はよく分からないけど、真知はモデルのスカウトマンがやっと声をかけられるくらいのレベルだ。


「じゃあ、高校からこっちに来たのか?」


「はい」


「地元どこ?」


何気無く言ったその言葉に、真知が口を噤んだ。聞いちゃいけない事でも聞いたらしい、とすぐに察知して、慌てて言葉を繋げる。


「いや、別に言いたくないなら言わなくていいよ」


「はい」


言いたくないのか。人には踏み込まれたくない部分が誰にでもあるから、しょうがない。一人で納得するしかなかった。真知から個人情報を聞き出す事ほど難しい事はこの世に存在しないのかもしれない。これじゃあ、探偵だってお手上げだろう。


足を地面に付ける度に、ティンバーランドの黒いブーツに水が跳ねる。俺のスラックスとは酷く対称的な真知の細いブラックジーンズが真知の細い脚を余計に際立たせていた。


「飯食った?」


「はい」


俺の腹が減っているが故の、くだらない話。それに真知の体は、飯を食っているのも疑わしいくらいに細い。元カノが本屋で立ち読みしていたギャル雑誌の中で笑うギャルモデルと同じくらいの細さだ。


「何食ったの?」


「カジキマグロとご飯とお味噌汁です」


まるでお袋が作る飯と同じだった。飯を食っているという事は、あそこに立っていたのはどれくらいの時間だろう。8時半過ぎには、居酒屋に訪れるサラリーマンが持つ傘から水が滴っていた記憶がある。今は11時過ぎで、軽く二時間半以上はあそこにいたのだと導き出す。


頭の中で単純計算したけど、それを口にすることはしなかった。真知が買い物の途中と言ったなら、本当に買い物の途中だったのだ。俺は真知を信じる。仮に嘘だったとしても、そこを探っても、きっと何も出てこない。


雨で遮られているのか、雨の匂いに負けているのか、はたまた空気を籠らせる傘のせいなのか、真知のいつもの匂いは薄いように感じた。渾身の質問を、用意した。


「真知ってさ、香水とかつけてる?」


「……へ?」


俺が真知の顔を覗き込んだのと同時に、真知が顔を上げた。大きな二重の目の中にある茶色い瞳は、その中に俺がいるんじゃないかと錯覚させる。真知は無表情だけど、最近少しずつ感情が読めるようになってきた。意味が分からない、とでも言うようなそれに、俺はゆっくりと繰り返す。


「だから、香水。真知、いつも同じ匂いするじゃん」


黙り込んだ真知に今すぐ謝りたくなった。たった一つの年の差でも、俺はそれを重んじる中で生きてきた。答えを、強制しているみたいだ。今のは少しセクハラ紛いだった気がする。苦笑いしながら真知から目を逸らすと、視界の隅で、真知が頷くのが見えた。


「はい、香水です」


「やっぱり?」


でも、どこかで嗅いだような記憶があるのはどうしてだろうか。元カノか誰かが同じのを付けてたのかもしれない。


「なんて名前?」


「はい?」


「香水の名前」


名前を聞いたら分かるかもしれない。どこかで突っ掛かっていたその匂いは、ずっと気になっていたのだ。漸く、すっきりするかもしれない。


そう思って聞いただけだったのだけど。真知は再び閉口してしまう。今更引き下がれず、黙って答えを待った。


「……忘れてしまいました」


「ああ、そっか」


「昔、人から頂いたもので……、アトマイザーに容れているので」


人から貰った。なるほど、彼氏、だろうか。何だか少し、嫉妬した。真知が昔に貰ってずっと付けている程いい男だったのかもしれない。俺に嫉妬する権利はないえど。


「真知って彼氏いんの?」


ぽろりと、口から溢れた。今まで聞かなかった事だ。多分、俺が今まで、どうしてか避け続けていた質問だったように思う。妙に心臓が痛くて、真知の顔を確認できなかった。


「いません」


「そっか」


不意に安心して笑いそうになったのはほんの一瞬。待てよ、と違う方向に流れて行ってしまいそうになる思考を止める。そしたら真知は元彼を引き摺ってずっと同じ香水をつけている事になる。その男って、どんな男だ。こんな女を放っておくなんて、どんなを神経してる男なんだ。


真知の元彼を勝手に想像する。真知とタメだったとしたら俺より年下だ。真知には清楚っぽい男が似合うような気もするが、こんな匂いの香水を渡すような男だから案外クスリ漬けの男なのかもしれない。


真知の匂いは、少しお香っぽい。火で燃やして香ってくるような、ちょっと煙に近い、鼻にツンとくるような匂いがする。


清楚な男はこんな香水は絶対に選ばないだろう。もっとエスニックな感じの、真知に似合わない感じの男がつけるような匂いだ。


真知の元彼をぐるぐると想像していると、気が付けばもう真知の住むマンションの前だった。


真知が俺に頭を下げる。


「わざわざありがとうございました」


「いや、いいよ。風邪引くから早く中に入れ」


「はい、ありがとうございました」


「おう、また明日な」


真知は背筋を伸ばして、俺に背中を向けた。細い体が子供用の傘の中にすっぽりと収まっている。赤い傘を見ながら、真知がマンションに入っていく所をじっと眺めていた。


赤い傘、か。大体真知の持ち物は透明か黒だ。ペンケース代わりのビニール袋、手に付けたゴム手袋は透明。いつものシンプルなリュックは黒だ。


私服があんなにシンプルでラフだとは思わなかったが、真知に白は似合っていた。でも、真知が赤を持つとは思っていなかった。なんで子供用の傘なのかも気になったけど、買い間違えたとか簡単な理由なのかもしれない。


赤が好きなんだろうか。そういえば、そんな些細な質問だってした試しがなかった。


真知の後ろ姿がマンションに消えていく。一つ溜め息をついて、空っぽになった腹を擦って家への道を歩き出した。


明日も学校だ。早く家に帰って飯食って風呂に入って寝たい。スラックスのポケットに手を突っ込みながら、大きく欠伸をした。




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