知らない世界と愛のハナシ
歩いて清春の通っていた高校、いや、津田と菊地の通う高校に来た。最近車を使っていないけど、菊地とそんな至近距離にいる訳にはいかない。
校庭でどこかのクラスが体育の授業をやっているらしく、騒がしい声が聞こえる。ほんの一年前まで自分もこういう空間にいた事を思い出す。老けた、俺。確実に。
溜め息をつきながら、マウンテンパーカーのポケットからケータイを取り出した。
出した番号は津田。そのまま発信して、耳に当てる。空気で冷やされたデニムが冷たい。耳に届くメロディーコールはOASISの『Don't Look Back In Anger』。津田の変わらない趣味。
授業中だろうと思って出ない事を予想したけど、メロディーコールは途切れた。
「お疲れ様です、津田です」
そう言った津田の声の向こう側から怒鳴り声が聞こえた。普通に授業中に出るなよ。俺だって先輩からの着信しか取らなかった、とまで思って気付いた。津田にとっちゃ俺、先輩じゃん。
「授業中だろ?授業終わったら折り返して」
「え、あ、」
津田の言葉を最後まで聞かずにガチャ切りした。俺の記憶が正しければ、後10分で1限目が終わる。まあ、俺の通っていた高校とこの高校の授業時間が同じなら、の話だけど。
塀に寄り掛かると、黒猫に横切られた。うわ、不吉。先行き不安。と思いながらも黒猫の人権を、いや猫権?を守る為に目を瞑って13歩後退りしたりはしなかった。
所詮迷信は迷信でしかない。誰だ、黒猫が不吉なんて言ったのは。普通に可愛いし普通に猫だぞ。
寒い空気に白い息を吐きながら、俺は何度目か分からない程、キチガイだと言われても仕方がない程見た、Wikipediaの洗脳のページを開いた。中身はもう完全に暗記しているのに、何故か少し空いた時間に見てしまう癖がある。
多分、忘れない為だろう。真知が洗脳されて、まだ苦しめられてるという事実を忘れたくない。
別に解決策が載っている訳じゃない。ただ、どれだけ酷い事かという事は載っている。このページを書いた人に言いたいのは、洗脳を殺人と書いてくれた事への感謝だろう。
真知を洗脳した奴等は、真知を殺したと気付かない。
殺人罪に問われる事もなく、今もどこかで、いや、金持ちのインテリのみが通える学校でのうのうと普通に生きて、普通に高校生をやっているのだ。
それって凄く腹立つ。だけど、俺は顔も知らないような奴等が殺人を犯した事を俺は知っている。それだけで少しマシな気分になる。
人を殺してはいけない明確な理由なんてどこにもない。誰かの格言にも、一人殺したら殺人で百人殺したら英雄みたいなのがあった気がする。詳しい事は分からないけど。
でも人を殺すって、理由なんて分からないけど悪い事だし駄目な事だと思う。
誰だって分かっている。人殺しはいけません、レイプはいけません。それなのにそれをするのはどうしてなんだろう。
俺だって意味もなく反抗したかった時があったけど、やったのは煙草と酒と喧嘩くらいだ。本当に何がいけない事なのか、俺はよく知っていた。
俺は聖書とかキリスト教とかよく分からないけど、禁断の果実という名の林檎を食った奴は悪い奴らしい。
なんか林檎を食っただけで裸でいるのが恥ずかしくなってイチジクの葉で局部を隠したとかなんとか。俺は林檎を食っても食わなくても裸でいるのは恥ずかしい。
それにも誰かの格言がある。アダムとイブは自由になりたかったから禁断の果実を食べた訳じゃなくて、それが禁じられていたから食べたんだ、と。
もしかしたらそれが一番正しいというか、的を射ている気がする。
前に見たテレビで、物凄く頭のいい公立の高校に通う女子高生が出てきた。その学校には殆ど校則がないらしい。髪染めるのもパーマもピアスもいいそうだ。でも、そこに出てきた女子高生は皆黒髪だった。
そこに出てきたのはほんの学校の一部であって、それが全てじゃない。でも、許されているのに皆、染髪もパーマもピアスもしていなかったのだ。
それに比べて俺は、法律で未成年は煙草を吸うなとか酒を飲むなとか言われたからやったのだ。禁じられていたからこそやったのだ。
駄目だからやりたくなる、縛られているから抗いたくなるという事があるのは事実だ。だからといってそれを肯定するのは間違っている。
肯定したら、どこでだって殺人もレイプも起こる。それを許さなきゃいけなくなる。そんなのおかしい。
常識は常識として必要なのだ。ただ、誰の中にもある筈の常識をどう扱うかを個人に託すしかないのが現実。
洗脳のページを消した瞬間に映るのは真知とのプリクラ。400円で残せる思い出。
無表情の真知の頭に顎を乗せたノンフレームの眼鏡をかけた、自称東大卒のエリートサラリーマン風の俺。
婚姻届を出した日で、待受の俺と真知は止まっていた。その時の俺は、今の俺を想像もしてなかっただろう。
……振り返ったりするの、やめよう。そう思ってケータイを閉じようとした時、チャイムが鳴った。それとほぼ同時に、俺のケータイが震え出す。
画面に映るのは、『津田』の文字。すぐに電話に出た。
「悪いな、学校なのに」
「いいえ、全然大丈夫です!」
随分と元気な津田に少々苦笑いしていると、電話口が少し静かになる。教室を出たんだろうか。
「あのさ、津田」
「はい」
「菊地昭伸、今日学校に来てるか?」
「え、菊地……ですか?確か、来てますよ」
代わりますか?と言われて、それを断った。
「俺、今お前の高校の前にいんだけど、」
「え!?マジっすか!」
「大マジ」
津田が教室に戻ったのか、また向こう側が煩くなる。
「津田、校門まで菊地昭伸連れてきて」
「え?」
津田には、俺と菊地の接点なんて見当たらないだろう。確かに俺は津田の家に写真を確認しに行ったけど、菊地に刺されたなんて一言も言っていない。
津田は戸惑ったような声で、今すぐ連れていきますと言う。
「ごめんな、ありがとう」
そう言って電話を切った。さて、これからが問題だ。ケータイと一緒にマウンテンパーカーのポケットに両手を突っ込んで、姿勢を正す。
初対面の人間を刺しちゃうような超危険人物とご対面。
腹の中じゃ何を考えてるか分からないから、人って怖い。人を殺すような人間には見えなかった、と殺人事件の後に容疑者を知る人間がモザイクの向こう側からニュースで言う。
最初から人を殺すような人間なんていない。でも、その『人を殺すような人間には見えなかった』奴が、人を殺すような目をした瞬間を俺は見た。
誰もそんなの見たくない。俺が目撃者になりたいのは、真知の笑顔だけだ。
昇降口から津田と一緒に出てきた菊地が、俺を見て目を見開く。菊地の腕を津田がしっかりと掴んで連れてきた。津田は判断が早かった。要と清春と仲がよかったというのも納得。
あの日、菊地のダウンから見えた学ランのボタンが光っていた。津田も着たそれは、情報を錯乱させるのには持ってこいだ。まあ、俺の目が良くて顔が見えてしまった事が、菊地に辿り着く糸口であった事は確か。
俺が菊地に笑いかけてやると、菊地に目を逸らされた。菊地の背は津田と同じくらいだった。
「初めまして、菊地昭伸君。俺、緒方俊喜ってんだけど、知ってる?」
「……っ」
「知ってるよな?」
津田が状況を読めていないとでも言うような顔で、俺と菊地を交互に見てくる。菊地は目だけを俺に向けた。無言の肯定。
「俺を、知ってるよな?」
ポケットの中のケータイを少しだけ開くと、カチャリと音がする。それに、菊地が途端に怯えた目をした。
俺が矢崎組のちょっとした内通者だと知ってるからこその、目だ。ただケータイを開いただけなのに、菊地はその音を銃の音と勘違いしたのだ。
ポケットから手を抜こうとした俺に、津田が目を見開いて、菊地が目を閉じた。この二人、馬鹿だ。
「なんつって、」
惚けながら音の正体のケータイを出してやると津田が大きく息を吐いた。
「やめてくださいよ!俺、緒方さんが銃持ってて殺しの現場に立ち会う事になるんじゃないかと思いましたよ!」
「考えすぎだろ」
俺、そんな黒い人間じゃないんだけど。ケータイをポケットにしまう。菊地は俯いた。
「残念ながら、俺は丸腰だ。お前に落とし前つけにきた訳じゃねーからな」
「……じゃあ、何を」
「お前と話すために来た」
菊地は首を傾げたけど、すぐに納得したようだ。津田に手を離してやれと言うと、津田は菊地から手を離す。
「あの、菊地、緒方さんになんかしたんですか?」
「別になんもされてない」
津田が訝しげな表情で問いかけてきたそれに、平然と返した。
あまり美味いとは言えない熱いカフェラテを啜る俺の目の前で、菊地が氷の入ったアイスティーにガムシロを入れている。今ので三つ目だ。
あれから津田を学校に残してファミレスに場所を変えた。平日の午前中のファミレスに人は少ない。じいさんばあさんがポツリポツリといるそこは、前にサリナに清春の話を聞いた時と同じテーブルだった。
上座に座る菊地の背後の壁には、まだ煙草が消された跡が残っている。ファミレスに入ってきて真っ先に上座に座った菊地は、先輩との繋がりがないのかもしれない。
ここら辺の先輩との上下関係は昔っぽい。上座は先輩というのが鉄則で、当たり前なのだ。悪ガキでもそれくらいの常識は知っている。
まあ、俺が何も言わなかったのは、いざというときに逃げられたら困るからだ。菊地は頭が良さそうで実は悪いのかもしれない。
菊地は合計四つのガムシロを入れてから、ミルクを二つ入れてストローで中をかき混ぜた。砂糖にも溶ける限度というのがあるらしいが、そんな事は気にしていない様子。
コップのそこに透明のガムシロが未だ泳いでいたけど、菊地はそれを気にせずストローに口を付けた。味を想像するだけで喉が痛くなってくる。
「そんなに甘くしてどうするんだよ」
俺の問いに、菊地は目だけをこちらに向けた。
「糖分は頭の回転を助けるんだ、」
俺の事は先輩とは思っていないようだ。俺はカップを皿の上に乗せて、ソファーの背凭れに背を預ける。菊地が俯いた。
「シュンから逃げてくるなんて、やっぱりただ者じゃなかったんだ」
「……愛するものがいる奴は強いとか聞いた事ねーの?」
苦笑いしながらそう言った俺に菊地が顔を上げた。結婚指輪が見えるように左手で頬杖をついてやると、菊地が再び俯く。
「なんであの時、警察呼ばなかったの?」
菊地の小さな声がファミレスに流れる有線に掻き消されそうだった。菊地は俺が刺された後も、実は近くにいたのかもしれない。
「ご丁寧にナイフ抜いていきやがって、そのせいでこっちは出血多量で死にかけて、女泣かせてんだ。」
「……」
「警察呼んだって、お前はどうせ鑑別で済む。少年法なんて被害者からしたらクソみたいなもんなんだよ。だから呼ばなかった」
溜め息交じりに、そう言った。
「変わってるよね、あんた」
その言い草に少しだけ苛立ちを感じたが、それを飲み込んだ。ありがとうとか言えねーのかこいつ。まあ、ありがとうと言われるのは確実に間違ってるけど。
俺が黙っていると、菊地が口を開いた。
「話って、何の話をするの?」
「全部。最初から全部離せ」
人は腹の中じゃ何を考えてるか分からない。それは何度も俺が思った事だ。
シュンが同性愛者だった事を、俺は知らなかった。話さないと目に見えてこない事は沢山ある。百聞は一見にしかず、なんて言うけど、目に見えない事なんて腐る程ある。
何となくなんて事は一握りで、ほとんどの事柄にきっと理由がある。俺はそう、信じたかった。
「……どこから、話せばいいのかな、」
消えそうな声が、ぼんやりと漂う。
「俺は、あんたに何を話せばいいのかな。あんたは、何を知りたいの?」
ファミレスの暖房に温められた、菊地の前に置かれた白っぽいアイスミルクティーのコップがびっしりと汗をかいていた。菊地はそれを落とすようにコップに指を這わせる。その時に、菊地の手の甲にタトゥーが入っている事に初めて気が付いた。
ファンデーションか何かを塗っているのか、目を凝らさないと見えない程のそれ。彫られていたのは、時間だった。
『18:05』、タトゥーにするくらいなら、きっと菊地にとって特別な時間なんだろう。
「全部」
遅ればせながら返事をした俺に、菊地が自嘲するように笑った。
それが酷く、恐ろしいものに思えた。好青年が笑う、たったそれだけの事なのに、その笑顔は普通のものじゃないような感覚がした。
ストローに口を付けて甘ったるいものを飲み込んだ菊地が、小さく息をついてから話し始めた。
「全部の始まりは、俺が初めての挫折を経験した時、なのかな」
「挫折?」
「そう、お受験って言えば分かる?中学受験に失敗したんだ」
その言葉だけで、周りの空気が冷えたような気がした。
「俺の父は普通のサラリーマンで、母は主婦。ママ友ってやつと競う事しか楽しみがなかったような人間だった。小学校の高学年になった頃から授業料の高い進学塾に通わされて、でも俺はそこまで頭が良かった訳じゃない。塾の先生にも絶対に受からないと言われた難関の私立中学に、母に無理矢理受験させられた。」
『誰々君もそこ受けるって言うから』なんて言ってた気がする、と菊地が続ける。
責任転嫁。俺はそう思ってしまった。やりたくなかったらそう言えばいい話。でもそれが、意見が通るか通らないかは、各家庭によって違う。それは、分かっていたけど。
「まあ、さっき言った通り、落ちた。掠る事もなかった」
菊地を見ていられなくて、窓の外を見た。営業マンか何かのおっさんが歩きながら煙草に火を付けている。
「俺は公立の中学に通い始めた。新しい友達も出来たし、勉強もそこそこの成績だったし学校生活は楽しかった。でも、家は地獄だった。」
「…………」
「普通のサラリーマンの父の給料だけで俺を塾に通わせていたから、家は親戚からの借金地獄。母はママ友に見限られてひとりぼっち。空気がいつも重たかった。いつも俺を見ては母が罵ってくる。『どうして勉強が出来ないの』、『もっと勉強しなさい』って、」
俺はお袋に馬鹿だと言われた事は沢山あるけど、勉強しろと言われた事は一度もなかった。テストでとんでもない点数を取ったってお袋は少し怒るだけで、後は親父に文句を言っていた。政喜が馬鹿だからどうの、と。
お前だって馬鹿だろと思った事はここだけの話。俺の家は家族揃って馬鹿だった。その上勉強の大切さを知らない家族。菊地の家とは正反対だった。
「家ではそれ以外会話がなかった。ノイローゼ気味の母に、父は黙ってるだけ。俺は透明人間になりたかった」
「……そうか」
透明人間になりたいのか、と俺が聞いて、真知がそれがいいと言った事を思い出した。菊地は真知と同じ夢を持った事がある。
「ご飯が冷たかった。母親と喧嘩しながらも支え合って、何だかんだ仲がいいあんたには分からないかもしれないけど」
菊地の台詞に、俺は言い返してやりたかった。あんなクソババアと誰が仲良くするか、と。でも、言わなかった。そんな空気じゃない。
俺は冷たい飯なんて、食った事がなかった。
「湯気は出てるよ。毎日違うメニューで、俺の好物だってテーブルに並ぶ。でも、冷たいんだ。冷たくて、味がしなかった。感覚が失われる程、息が詰まる空間に俺がいたって事なのかな」
それを経験した事はあった。冷たくはなかったけど、味がしない飯。
鑑別所から帰ってきた時、家出して暫くしてから家に帰ってきた時に食ったお袋の飯は、息が詰まって味がしなかった。
俺の場合は、泣きそうで息が詰まっただけだ。マザコンじゃないけど、お袋の息子で良かったと心底思った時の味がしない飯だ。
俺は、菊地を見る事が出来なかった。育ってきた環境が余りにも正反対過ぎるのだ。俺は、菊地からしたら恵まれた環境の中にいた。
菊地がテーブルを爪で鳴らす。
「一つ上手くいかないと、全部上手くいかなくなる連鎖ってあると思うんだ。俺は知らず知らずのうちに友達の気に障る事を言っていたみたいで、中一の5月にはハブられた。完全無視されるだけだけど、透明人間になったから嬉しかった」
「…………」
「でも、あれだけ望んでいた事なのに、苦しくなってくるんだ。どこにいても息が詰まる。学校に行きたくないけど、家にもいたくない。気が付いたら、学校に行くふりをして家を出て、ゲームセンターに通うようになってた」
「ゲーセン?」
「そう。だって、俺には何もなかった。母からゲーム機は買って貰えなかったし、一緒に時間を潰してくれる友達もいない。ケータイの電源を切って、ゲーセンに日が暮れるまで入り浸るんだ。ゲーセンの爆音の音を耳を澄ませて聞いているだけで、3時間が1分くらいまで短く感じる」
悲しい時間の潰し方。どこからか氷とグラスがぶつかる音がして、寒気がした。
「最初は母も学校から連絡が来るから文句を言ってきたけど、俺はそれに何も返事をしなかった。無視して毎日ゲーセンに通った。そしたら、何も言われなくなって。」
「……うん、」
「そんな生活は夏休みを越えても続いた。中学一年の9月の始め、朝だった。俺はゲーセンで運命の出会いをした。シュンに出会ったんだ」
どん底の中のシュンは、どんな風に菊地の目に映ったんだろうか。前に池谷から聞いた、シュンが施設から抜け出した中二の夏の少しだけ後の話。
本当の本当に、始まった瞬間。
菊地に視線を戻すと、菊地は薄く笑っていた。どこを見ているのかは分からない。テーブルの上の何もない一点をじっと見つめて笑うその様は、不気味以外の何物でもなかった。
「シュンは話し掛けてきた。なんて言われたのかは分からないし、俺がそれになんて返したのかも覚えてない。なんでだか、分かる?」
俺は黙って首を横に振った。菊地の視界にそれが入っていたのかどうかは分からない。多分、俺の反応なんてどうでも良かったんじゃないだろうか。菊地は歯を見せて笑った。俺の事は見ていない。
「シュンの言葉に返事をした瞬間、思い出したんだ。俺が何ヵ月も誰とも口を聞いていなくて、自分の声を忘れていた事を」
「……っ、」
自分の声を忘れる。ゾッとした。
菊地が早口に話し出す。
「シュンは俺の中学の先輩だった。出会った瞬間から色んな事を話したんだ。生い立ち、痛み、喜び、全て話したし聞いた。話足りなくて、その日はシュンに招かれてシュンの家に泊まりに行く事にした。それが、昼を少し過ぎた頃。」
茹だるように暑い日で、と菊地が続ける。その時の情景がやけに焼き付いているらしく、菊地が話すそれは酷く正確で細かくて気持ち悪かった。
どうしてそんな一日の事を長い間覚えていられるのか不思議に思ったが、それは菊地がさっき言った『運命』と繋がるのかもしれない。理屈は、『運命』。なんて曖昧なものなんだろう。
そう思った時、菊地が俺の目を見た。俺を刺した時と同じ目。俺は心臓が止まるかと思った。軽くトラウマになっているのかもしれないし、真知が俺の真剣な目を見てたまに動けなくなる意味も分かった気がする。
心臓が鷲掴みにされて、金縛りと同じ症状が出るのだ。
叫びたいのに、叫んでるつもりなのに声が出ない。動きたいのに、動いてるつもりなのに動けない。呼吸をしたいのに、呼吸をしてるつもりなのに息が出来ない。
自分自身の中に響く心臓の音がやけに早くて、でかい。
「その日俺は、シュンにレイプされた」
菊地の声と被るのは、頭の中で鳴っているやけにでかい警報。徐々に音量をあげるそれが爆音になる直前、菊地が真顔になる。感情のないその顔からやっとの事で視線を逸らすと、現実に戻った気がした。
鼓動が収まるのは驚く程早かった。菊地はゆっくりと瞬きしながら笑う。
「怖くて痛くて悲鳴をあげたよ、助けてってね」
「そうか、」
「でも俺を助けてくれる人間なんてどこにもいない。それが密室じゃなかったとしても、俺を見る人間なんていない。俺は透明人間」
その場所がどれだけ孤独だったかなんて、考えなくたって分かった。
「妙な異物が俺の中を行ったり来たりしてるんだ、それって怖いし痛かったけど、」
俺は分からない。俺は異性愛者だから分からない。いや、男の相手をした事がないから分からないだけだ。言うならば男というのは基本的に性犯罪においてはほとんどが加害者側なのだ。
「俺はシュンと繋がってた。俺は一人じゃなかった。俺にはシュンがいる。そう思った」
絶望の中のシュン。それは、菊地にとっての救いだった。真知にとってのあの子供用の赤い傘と同等の威力を持っていたのだ。
菊地がうっとりと宙を眺める。それは、とてもじゃないけど自分が犯されているという忌々しい記憶を思い出している時の表情だとは思えなかった。
「何度目か分からない。もう始まってからどれだけ長い時間が流れたのか分からなかったけど、俺は初めて性的快感を知ったよ」
「……」
「何もかもが息が詰まる空間にだけいた俺が、その時自由になった」
自由になる瞬間なんて、俺は味わった事がない。それは多分、俺が自分で窮屈な空間にいると思っていても、ある程度の自由があったからだ。
「その時視界に入った時計の時間が、18:05。」
菊地は目の前に置かれていたウェットティッシュの袋を乱暴に破いて、それで手の甲を擦った。そこにハッキリと現れる、『18:05』。
後の事は、分かるよね?と菊地は言って、レイプの話は終わるのかと思ったが、菊地は更に早口で話始めた。
「もう凄いんだよ。波が迫ってくる。俺は悲鳴じゃない声を上げた。そしたらシュンが楽しそうに笑って動きながら俺を弄るんだ」
「菊地、」
「あんただって女と寝た事が沢山あるんだろ?分かるだろ?それがどれ程不思議で神秘的な事か分かるだろ?それで、シュンが……」
俺の制止を振り切った菊地は詳しい内容をひたすら話してくる。俺は正直、女と寝てて不思議だと思った事も神秘的だと思った事もない。俺が冷めているのだろうか。
菊地の話に耳を塞いでしまいたくなった。男同士の性行為の内容だから聞きたくなかった訳じゃなくて、レイプの内容を鮮明に、楽しそうに話す菊地を見ていたら頭がおかしくなりそうだった。
俺は間違ってるのか?レイプというのは合意がない上の性行為で、被害者にしたら気持ちよさもクソもない、思い出したくもない記憶として残っているのが普通だと思っていた。
でも、菊地にとっては違う。恍惚とした表情を浮かべた菊地を止めたかったが、止められなかった。喉が熱くて、言葉が出ない。
「性に従順というか、快楽に従順になったのかな、俺は。あの日の事は一生忘れない。俺とシュンはそれから一週間、家に引きこもった。ご飯を食べるか寝るかセックスするか、人間の三大欲求にとことん忠実に生きたんだ」
体液の匂いが部屋中に噎せ返る程するんだ、と菊地が言う。
「風呂にも入らなかった。それが一番美しくて、それが正しい事だからね。俺はずっと腹を下していたけど、それは俺達の行為が」
「……やめろ」
「素晴らしくて仕方なくて、」
「やめろ!」
俺が叫んだ声がファミレスに響いて、菊地の表情が凍り付いた。俺は喉が熱くて熱くてたまらなくて、先に店員が持ってきた水を一気飲みした。
空になったコップを乱暴にテーブルに置くと、二つがぶつかった派手な音がやけに頭の中で木霊する。
菊地が大きな溜め息をついた。
「……あんたに美しいセックスの話は分からなかったみたいだね、」
「……そうだな。生憎俺は美しいセックスなんてしたことねーからな」
そう返すと、菊地は俺にカワイソウな人だね、と言った。その顔は俺を軽蔑して見下しているように見えた。
「…で、美しいセックスの次は?」
帰ってしまいたかった。真知を抱き締めて、時夫達の顔を見て安心したかった。でも俺は、真知を泣かせたのだ。そこまでしてここに来たのに、目的を果たさないのは間違っている。菊地に続きを催促した。
菊地の顔から、笑顔が消える。
「さっき『一つ上手くいかないと全部上手くいかなくなる連鎖ってある』って言ったよね。その逆の現象が起きたんだ。」
それだけで俺は、全てを悟った。シュンと肉体関係を持った事で、シュンが菊地側に回るようになった。
行っていなかった学校にも、シュンの力で行けるようになった。多分、そういう事だ。
なのに菊地の表情がすぐれない事を不思議に思った。その意味は次の瞬間、明らかになる。
「でも、それは長くは続かなかった。俺が二年に進級するかしないかくらいの時に、俺がシュンの家に行ったら、シュンは、」
「…………」
「シュンは、他の男とセックスしてたっ、」
シュンに裏切られた。
「おかしいと思ってたんだ。シュンは俺を抱かなくなって、おかしいと思ってた。その上そんなの見て、苦しくて苦しくて仕方なかった」
レイプした男に、もう一度抱かれたいと思うやつはいるんだろうか。
「だって俺には、シュンしかいないのにっ」
悲痛な叫びが突き刺さって痛かった。耳から脳に向かって矢をぶっ刺されたような気分。自分の中にいる特別なたった一人が消える瞬間を思い出したのか、菊地は拳を握り締めて、テーブルを一発殴った。
手の甲に刻まれたデジタルの『18:05』止まったままの時間は、永遠に動かない。
「俺はシュンに言った。『前みたいに愛してくれ』って」
「…………」
「そしたらシュン、『アキを愛した事なんてない』って言うんだ。おかしいだろ!?だって俺達はあれだけ愛し合っていたのに!」
分からない。俺にはどうしても分からなかった。体から愛が始まるなんて、分からない。そう思った俺を悟ったのか、菊地が俺を睨んだ。
「心から繋ぐなんて、馬鹿馬鹿しい」
「……」
「体を繋ぐから心が繋がるんだ。体が深く繋がれば繋がるほど、心が繋がっていく。あんたの常識なんて、所詮綺麗事にしか過ぎない」
「……そうだな、」
別に納得した訳ではなかったが、納得したように返した。菊地は満足そうな表情を浮かべてから、元の表情に戻る。その瞬間が怖すぎて吐き気がした。
「だから、『どうしたら愛してくれるんだ』って聞いたんだ。そしたら、」
多分きっと、その懇願の答えが、ゴーサインだった。
「『桐原清二を殺したら愛してやる』って」
桐原清二は清春の親父さんだ。広域指定暴力団劉仁会矢崎組の元構成員、元舎弟頭。一族根絶やしを計画した人間。シュンはそれで両親を殺された生き残りだ。
シュンは親戚にヤクザがいたらしい。シュンの両親は真面目な人だったらしいが、そのヤクザのせいで被害を被った。池谷から昨日少しだけ聞いた話だ。
「だから殺したんだ。桐原清二は俺にあっさり殺されたよ。自分のしでかした事の重さくらい、分かってたんだろうね。抵抗もしなかった。ナイフを持った俺を見て笑ってた。」
「…………」
「『俺は謝らない。謝るつもりもない。俺は簡単に人を殺したけど今でも間違った事はしてなかったと言える。組織にいる以上、組織を守るのは当たり前の事だ』ってね。遺言だよ」
平然とそう言う菊地を、清春の前に連れていってやりたいと思った。あの馬鹿の親父さんはもっと馬鹿な事をしでかしたけど、こんなに平然と生きていなかった筈だ。
「そしたらシュンは俺を愛してくれた。幸せだった。シュンが桐原清春を芸術品だと言うのも気にならなかった。でも、シュンは俺に隠し事をしていた」
「シャブ、か」
「そう。いつも通り愛し合った次の朝、起きたら警察が来ていた。その後は何故か尿検査をさせられて、家宅捜索に付き合わされた。」
そしたらシュンは少年院に行っちゃった、と菊地が言った。
「手紙のやり取りをして幸せだった。シュンは中々出てこなくて、いつの間にか俺は高校受験を考える時期になっていた。その時、たまたま桐原清春がこの高校を受けるという話を小耳に挟んで、」
菊地は自分の着た学ランの襟を引っ張る。
「で、受けたのか?」
「そうだよ。ずっと見てた。シュンの代わりに」
そこまでする程の魅力が、シュンにあったんだろうか。菊地はそしたらさ、と続ける。
「桐原清春、富田さんの事を好きみたいで、笑っちゃうよね。人殺しの息子なのに。それで両親を殺しちゃうしさ、血は争えないって事なのかな」
頭を過ったのは、真知の養父の言葉。『連帯責任』。どこまでも世の中は集団行動。でもそれで動くのが人間なのかもしれない。誰かがやらなかったら全員やらせる、みたいな教師の脅しを俺は何度も聞いた事がある。
「清春をつけ回してたのか?」
「ううん、つけ回そうとしたけど一日目で桐原清春が気が付いたみたいで路地裏に入っていくから身の危険を感じてやめた。本職のヤクザの遺伝子なのかな?敏感だよね」
菊地は酷く感心した様子だった。
「じゃあ、なんで知ってるんだ、それ」
俺が指した『それ』を菊地はすぐに理解したらしい。話の流れからなのか何なのか、菊地は楽しそうだ。
「あの殺人事件はたまたま見たんだ。どこにだっているだろ?目撃者ってやつ。俺はシュンの傍にいるべき人間だからなのか、そういう特別な場面に居合わせる運命なんだ」
『運命』、か。乱用されるそれが特別なものだと、俺には思えなかった。菊地がテーブルに頬杖をついてぼんやりとした顔をする。コロコロ表情も声色も変わって気味が悪い。
「その時は俺と同類だなって思ったくらい。でも、」
「でも?」
「シュンが少年院から出てきて、少しした頃だった。リュウジが現れて、シュンはリュウジに惚れた。夢中になった。」
急に鋭くなった声。菊地の目はどこかを睨んでいた。
「調べてみて驚いたよ。リュウジと桐原が同一人物なんてね。シュンにそれを言ったけど、信じてもらえなかった」
その構図からすると、と頭を廻らせながら、俺は口を開く。
「じゃああの日は、清春…、リュウジを殺すつもりで富田紗英をつけてたのか?」
菊地はまた表情を変えた。柔らかく、俺に向かって笑う。
「俺がそんな単純な方法をとると思う?」
「は?」
「富田さんを殺そうと思った。そしたら桐原は一生苦しむし忘れない。人生を捨てる程に好きになった女が死ぬなんて、地獄だろ?」
声を上げて菊地が笑う。簡単に人を殺そうと思える程に人を愛するなんて、果たして美しい事なのか。俺はそうは思えなかった。
確かに人を好きになるって事は理屈じゃないと知っていたけど、その為だけに人を殺すのはどうかしている。
「そしたらあんたが来た。シュンとあんたの元カノとあんたが三人で写ったプリクラを見た事があったからすぐに分かったよ。あんたがシュンが一度怖いと言った緒方俊喜だとね。」
殺さなきゃいけないと一瞬で思ったよ、と菊地は目を瞑りながら言った。あの時の光景でも思い出しているんだろうか。
「俺が清春の親父さんの事件を追ってるとシュンに言ったのは、俺を完全に殺せていないと知って、シュンの力で殺そうと思ったからか?」
「そう、分かってるね。だってあんたは俺に刺されたという事を知っているし、俺の存在がバレるのも時間の問題だと思ってたからね。早く不安要素は取り除いた方がいいと思った」
それなら、どうして?俺の頭に浮かんだ疑問を口にする。
「なら、どうして俺に全部話したんだ?どうして、俺が生きてるのに殺さないんだ?富田紗英も清春も、どうして泳がせておくんだ?」
菊地は小さく息をつく。俺の問いに答える気はないようだけど、少し表情が違うような気がした。
「もしシュンよりも早くあんたに出会ってたら、あんたの事を好きになってたかもしれない。」
冗談でも聞きたくなかった。菊地から目を逸らして飲み込んだカフェラテは冷えてさっき以上に不味くなっている。もっとも、こんな話をした直後に何かを美味いと思える程強靭な心が俺にある訳がなかったけど。
菊地は静かに言った。
「これがあんたが知りたいと言った全てだよ」
その言葉に、俺は静かにカップを皿の上に戻した。聞きたい事が、確認したい事が山程あって混乱する。入り組んだそれは、言葉にする事を躊躇わせる。
「お前、清春の事件を知ってるのに、どうして警察に言わなかったんだ?」
菊地の手の甲の止まった時間を見ながら言った。菊地はそれに気付いたのか、手の甲を撫でた。
「……皮肉だよね。俺は世界で一番桐原が憎らしくて嫌いなんだ。でも、俺には桐原の気持ちが痛い程分かるんだ」
「……分かる?」
「俺達は世界で一番大事な存在の為に人を殺した同じ穴のムジナなんだ。だから、桐原を殺そうとなんて思わない」
菊地は拳を握り締めた。真っ白く染まるそこに止まる時計は、色を変えない。
「人を殺すのなんて、簡単なんだ。でも、染み付いて離れない。苦しいなんて思わないけど、時々フラッシュバックする。」
「その時の事が?」
「まあ、そうなのかな。感情なんかじゃなくて、感覚がね。人を殺したのが銃なら、どれだけ良かったんだろう。引き金を引くだけなら、どれだけ良かったのかって思ったりする」
刺殺故の、フラッシュバック。
「人を刺した感覚を手が覚えてる。忘れられないんだ、でも、後悔なんてしてない」
想像したくなかった。皮膚が破けて内臓に突き刺さる瞬間なんて、最悪だ。少しだけ、腹の傷が痛んだ気がする。
菊地の顔を見たら、菊地が笑った。その顔は、今日見た中で一番まともな顔だった。
「それでも、愛して欲しかったから」
シュンは菊地を殺した。哀れな加害者は、更なる加害者を生み出す。シュンを愛した加害者の欲求は酷く単純で純粋。
愛して欲しかった、それだけ。
でも単純だからって、純粋だからって、許していい事じゃないのだ。清春も菊地も、許されない事をした。
清春が奪った二つの命は、偶然の重なりでタマさんの小指を持っていった。
菊地が奪った一つの命、憎しみの連鎖の中で真知が血を流した。
奪ったものばかりが増えていく。
「でも俺、もうシュンに愛して欲しいとは思わない。あれだけ好きだったのに、その気持ちに間違いはない。なのに、シュンは、あんたの嫁みたいにはなってくれないって、分かったんだ」
「……真知?」
菊地は小さく頷いた。
「コンビニの、見てたんだ。あんたの嫁、迷いもせずに飛び出して行っただろ?ナイフ握り締めて許さないって叫んでただろ?俺がどれだけシュンを愛したって、シュンは俺を守ってなんてくれないんだ」
「それは、」
「『それは間違ってる』って?分かってるよ、愛に見返りなんて求めたらいけないんだ。でも、見返りは欲しいよ。あんたが嫁を愛するように、嫁はあんたを愛してる。それって凄い奇跡なんだよ。片思いなんて、もうウンザリだ」
俺はケータイを取り出した。菊地が静かに流す涙を視界に入れないようにしながら、リダイヤルを出す。
迷いはなかった。そこに表示された番号が常識的には間違いだと分かっていた。でも、発信ボタンを押して、ケータイを耳に当てた。
すぐに切れた発信音の後に続くのは、尊敬する人の声。小さく吐いた息が微かに震えていたけど、気にせずに口を開いた。
「タマさんお疲れ様です、俊喜です」
「おう」
「そこに清春いますか?代わって貰いたいんですけど」
俺の選択は、間違いだ。どう考えたっておかしい。分かってるのだ、そんな常識。
電話の向こうのタマさんが今代わる、と言った。
菊地が俺の出した名前に目を見開いた。電話口から何かを話している声が聞こえた後、清春の声がする。
「今代わりました。お疲れ様です」
顔が変わっても変わらない清春の声と話し方。清春とリュウジが同一人物だとシュンが気付かなかったのは、清春と話した事がないからだ。
「吐いた、今」
「え?」
「お前と高校で同じクラスだった菊地昭伸、覚えてるか?」
俺の言葉に、清春が言葉で頷いた。菊地の目から溢れる涙の量が、いつかの真知と重なった俺は馬鹿で、絶対に間違っている。
でも。
「菊地、お前の親父さん殺したって」
片方だけ知っているのは、フェアじゃない。
「は?」
「……わりいな。理由は知らねーんだけど、言ってきたから。お前が富田紗英の両親を殺した事も何故か知ってた」
菊地の事情を俺が話せる筈がない。菊地の見開かれた目が更に見開かれる。俺はそれに小さく笑って、清春の返事を待った。
「そうですか」
その声は意外にもあっさりしている。親父さんが殺されてもあんなに平気そうな顔をしていた清春は、全てを分かっていたのかもしれないと今になって思う。
親父さんがヤクザの時にどんな事をしたのかも、それが原因で殺されても仕方がなかった事も、清春は分かっていたんじゃないだろうか。
「菊地はお前の事を警察にチクらないって言ってるけど、お前はどうする?」
愛の形に正解とか不正解とか、ハッキリしたものは一つもない。でも、二人の愛は道徳的には間違っていた。
「チクる筈ないじゃないですか」
半分笑いが混じったような声で、清春が言った。俺は清春がそう言うと知っていた。
だからこそ俺は、人殺しの二人の行く末を勝手に決めたのだ。人殺しを肯定する訳じゃない。ただ、俺は調査書を見て判断する面接官じゃないのだ。
部外者の、第三者の俺だからこそきっと言わなきゃいけなかった。罪を償えと、言わなきゃいけなかった。でも、俺だって当たり前に持っている愛が、人殺しをさせる道具になるんだ。
二人が言ったのは、同じ事。
『後悔なんてしてない』、たったそれだけ。
その事実は、重かった。
「清春、富田紗英に会いに行け」
あれだけ愛したシュンにもう愛して欲しくないという菊地。まだ富田紗英を愛しているのに会いに行かない清春。
踏み出す直前の二人の未来を、俺に止める資格なんてなかった。二人が犯した大きな間違いは、間違いなんて言葉で済む程小さな事じゃない。
でも、俺は、誰かが言わなくても、そのうち二人は自首すると思った。いや、そう信じたかった。
誰だって間違いは犯す。でもその先の未来の事は誰にも分からない。人を殺したからといってまたそれをするとは限らない。俺は調査書を見て判断する事しか出来ない面接官じゃない。
だって、俺のこれは職業じゃない。確かに命という大きな損害があるけど、まだ償おうと思う段階までいっていない二人が誰かの助言で少年院に入ったとしても、意味がない。
いつか二人は、自分の未来を勝手に決める。
「お前らが、個人で決めるんだ。自分をどうにかできるのは、自分しかいねーんだから」
菊地を見て、電話口の清春にそう言った。菊地は真知であり清春だった。菊地が流す大粒の涙がテーブルに水玉模様を作り出す。
「……はい」
清春の真剣な声に、俺は何も言わずに電話を切った。
俺の判断は、模範解答でもなんでもない。正解かそうでないかと言われても分からない。
何の関係もない第三者の俺が秘密を隠す理由は、もがいているのを嘲笑う為じゃなく、もっと単純な理由だった。
二人の事情をそれぞれが知ったのに、第三者の俺が、全ての秘密を握って、そのまま握り潰す。それは、もう人に死なれたくない俺の我が儘だった。二人の意志を尊重するなんて、俺は馬鹿だ。
命は命で償うというこの国特有の法律がある。でもそれが一番犯罪者を楽にさせる方法だという事はあまり知られていない。
死刑囚は死をもって罪を償う。独房の中で自分が死ぬ事だけをひたすら考えるのだ。無期懲役とは違う、終わりだけを見据えた刑。
苦しめばいいと、思った。死をもって償うよりも苦しいのは、自分の未来を考える事だ。これは乗り越えるべき事じゃなく、一生背負っていくべき事なのだ。
それには当人の覚悟が必要だ。後悔してないという二人が、いつかは罪を償う気になる。
二人の常識を信じる俺の、ガキ臭い理屈。まだ人間は捨てたものじゃないと、思いたい。
人は目に見えない凶器を持っている。それは本来なら人を救う道具なのに、行きすぎるとただの凶器に変化するのだ。
言葉と愛。
目に見えなくて、でも綺麗なのに、その残酷さは計り知れない。
菊地を真っ直ぐ見て、言った。
「分かったな?この先の事は、俺は一切関与しない。自分の事なんだから、自分で決めろ」
「なんで、」
菊地は嗚咽を堪えながらそう言う。その返事は、言うべきじゃない。自分で分かってくれなかったら困る。
「お前が決めるまでは、何回でも話は聞いてやる。」
「なんでっ」
「死んだりしたら、許さねーからな」
俺が言えるのは、たったそれだけだった。菊地がそれに何を思ったのかは、分からない。菊地は声を上げて泣き出した。
ファミレスに響く男子高校生の泣き声は、とてもじゃないけど聞いていられるものではない。じいさんばあさんの視線をひしひしと感じていたが、俺は席を立たなかった。
俺が出した結論は、確実に正解じゃなかった。自分でも分かっていた。
でも、言葉にされなくても何となく分かってしまった。菊地が俺に全てを話したのは、シュンからの愛が欲しくなくなったからという理由だけではない事。
死のうとしてたからなんじゃないかと、俺は思ったのだ。
菊地は俺を殺そうとした人間で、真知が血を流す原因を作った人間なのに、俺は死なれたくないと思った。理由がどれだけ純粋でも、殺人は肯定するべきじゃないけど、死なれたら困る。
罪を償う覚悟を、生きながら決めて欲しかった。それ以上に、菊地が、酷く真知と重なった。
命の重さは、俺にとっての真知の涙より重たかった。俺が出した答えを真知はきっと否定しない。あいつが一番、分かっている筈だ。俺よりももっと、命の重たさを感じて生きてきたから。
両親の遺体を発見して、何度も死のうとした真知は、自分の命が重たくて重たくて仕方がなかったと言った。それでも、真知が捨てたがっていた命を繋ぎ止めた俺に、誰かを切り捨てる事なんて出来なかった。
たった一人の被害者が、別の被害者を加害者に変えた。被害者は加害者になる悲しい連鎖を馬鹿な俺は止めてやりたかった。
菊地は被害者なのだ。シュンに殺されて、清春の親父さんを殺した。
許される事じゃないけど、早くじゃなくていい。ゆっくりでいい。一生背負うという覚悟を決めた時、罪を償えばいい。
綺麗事だと分かっていた。
でもたまには綺麗事も必要なのかもしれないとも、思う。
清春は富田紗英を救う為に綺麗でいられる方法を選べなかった馬鹿だけど、一生を捨てる覚悟をした。それは間違っていた。一生を捨てる覚悟なんて、要らなかった。
本当に正しい事なんて分からないけど、俺は、一生背負っていく覚悟を決める方がよっぽど苦しいものだと思う。
俺はなけなしの野口英世で、菊地の分も会計を済ませてファミレスを出た。菊地と二人で、見慣れた地元の街を泥の中を這いずり回るようにゆっくりと歩いた。
菊地はいつまで経っても泣き止まなかった。外は暗くなっていて、ネオンが光り始めている。苦しそうに、静かに涙を流す菊地は、これからどれだけその涙を流すんだろう。ここにいない清春も、その涙を流さなければならない日が必ず来る。
「お前の好きな食べ物って、何?」
俺は泣きじゃくる菊地にそう聞いた。
「……っ、カレーライス、」
菊地が言った『冷たい飯』を、俺は味わいたくない。カレーの材料を買う俺に、菊地は気づかなかった。途中で家に向かって帰ろうとした菊地を引き留めて、菊地をついて来させた。
俺はケータイを開いた。データボックスを遡るとまだ残っていた、アイナとシュンと三人で撮ったプリクラが画面いっぱいに映る。
アイナのカチューシャで前髪を上げた金髪の俺が、舌を出している。その横でアイナがキメ顔でポーズをとっていて、シュンがにっこりと歯を見せて笑っていた。
シュンの裏にあった事、そこに菊地がいた事。このプリクラを見た中学二年の菊地を消す為にそのプリクラを消して、ケータイをしまった。
アパートまであと少し。曲がり角を曲がった瞬間に見えた光景に情けなくも泣きそうになったのは、俺がそれだけ張り詰めた場所にいたからなんだろうか。
俺の知らなかった別世界の話は、菊地にとってのノンフィクション。一気に熱くなった喉と一緒に足が止まる。
アパートの前で、真知がしゃがみこんでいた。その周りに座るのは、時夫達。膝に顔を埋める真知の背中を、ナミとタエと沙也加が擦っているのが街灯に当たって浮かび上がっていた。
「辛かったよな、」
俺は小さい声で呟いた。それは、菊地と真知に向けた言葉。
俺にある当たり前が、菊地と、以前の真知には用意されていなかった事を、改めて思い知ったからだ。
「俺はお前を、シュンみたいに恋愛感情で愛してやる事は出来ないし、たった一人の大事な奴にしてやる事も出来ないけど」
菊地は俺を見て、涙を溢す。
「お前がシュンと出会う前に、俺と出会えてたら良かったんじゃねーかって、思うよ」
「……俺も、」
俺の勝手な言葉に、菊地が嗚咽の隙間から同意した。どう足掻いたって過去は変えられない。でも、未来ならいくらでも変えられる。
「ごめんな、辛かったよな」
声は掠れた。俺は何に対して謝っているのかも分からないけど、菊地の収まりかけていた涙は、また制御不能なものになる。
「これからお前はもっと苦しいけど、俺、ここにいるから。ちゃんといるから。冷たい飯じゃない物食いたくなったら、来いよ」
「いいの?」
確認する菊地に笑った。
「いいよ。だってお前、清春と同じ、俺の後輩だろ?」
シュンがいなくたって、菊地はもう一人じゃない。肩を軽く叩いてやると、菊地が何度も頷きながら苦しそうに息をした。
「ついて来い、飯食っていけよ」
「っ、え?」
「残念ながら俺の作った飯だけどな」
俺は菊地よりも先に歩き出した。俺の存在に気付いた久人が声を出そうとするのを人差し指を出して止めると、久人が慌てて口を噤んだ。
真知の前に静かにしゃがみ込むと、カレーの材料が入ったビニールが音を立てる。
「いつからここで待ってた?」
俺の声に、真知が顔を上げた。周りの女三人が呆れた顔で俺を見る。
「昼過ぎから。もう俊喜君遅いんですけど!」
そう言い放った沙也加が空気を読んで、全員を引き連れて部屋に戻っていく。真知が小さく、遅い、と言った。
その頬に手を滑らせると、外を歩いてきた俺が冷たさを感じる程に冷たい。
「待たせてごめんな、」
「……人の感情を弄ぶ貴方は最悪です」
「……真知怖い」
俺から顔を背けた真知の頬に涙が流れた。俺がさっき拭えなかった、真知が隠そうとする涙。
「こっち向けよ」
「嫌です」
「泣いてるから?」
「泣いていません。顔面の調子が悪いんです」
なんだそれ。真知の頬を両手で挟んで無理矢理こっちを向かせると、真知が俺を睨んだ。威力は全くない。
「馬鹿女、不細工、」
「知ってますっ」
心にもない事を口にする俺に真知が顔を背けようとするのを許さず、そのまま顔を近付けた。今度は素直な気持ちを言う。
「可愛い」
「っ、だからお世辞は、」
「待っててくれて、ありがとうな」
抵抗をやめた真知に、触れるだけのクソみたいなキスをした。大体俺が真知にするキスはクソみたいで、最悪だ。どろどろに溶かされる。
唇を離して、真知の涙を拭った。空気に晒された俺の手は酷く冷たかったけど、少し赤くなった真知の頬と触れる手のひらだけは、どちらとも言えない混じりあった体温で中途半端にぬるい。
「迷惑ばっかりかけてごめんな」
「……それでも貴方が好きな私は馬鹿です」
「確実にそうだな」
そう笑って、二人で立ち上がった。真知は足が痺れていたようで足が覚束無い様子。真知の腕を掴んで支えてやりながら菊地の方を見ると、まだ立ち止まって泣いていた。
「早く来いよ」
菊地はゆっくりと歩いてくる。真知は菊地だと気付いていないのか、人様の目の前で接吻なんて、と焦ったような声を出す。
俺の目の前に立った菊地は俯いたまま。真知を見て、俺は口を開いた。
「真知に紹介しとく。俺の後輩の菊地昭伸」
「……え?」
真知が俺を見上げて困惑したような表情を浮かべる。そんな顔をされるのも、無理はない。俺が真知に苦笑いすると、真知は菊地を見た。
「……俊喜の妻の真知です」
真知の言葉に、菊地が崩れ落ちる。ごめんなさい、ごめんなさいと菊地が叫ぶ。俺の意味不明な思考を真知が瞬時に肯定したからなのか、何なのかは分からない。
でも、菊地を変えたのは確実に真知だった。
真知が菊地の前にしゃがみこんだ。
「……許しません。許せません。」
真知が言っているのは、俺を刺した事についてだ。真知は菊地が俺を刺した理由も、何も知らない。
「私は、俊喜のような人ではありませんから、許しません」
でも、と真知が一度言葉を切った。
「貴方は、今は俊喜のご友人ですからご挨拶します。初めまして」
記憶の改竄で本当の過去を知らない、笑えない女が何も言わない俺を信用する。あれだけ言っても信じなかった、今でもほとんどを信じてくれない女が、言葉もなく俺を信じた。
それに少し泣きそうになった。
狭いアパートのリビングにいるのは合計九人。皿が足りなくて、とりあえず適当な皿にカレーを装う。時夫と久人がキッチンで先に食い出したのを無視して、いつもの俺の席に座る菊地の前にカレーを出した。
スプーンを手渡したのにも関わらず、菊地は湯気が出るそれをじっと眺めていた。
「早く食えよ、冷めるぞ」
それだけ言って、俺はキッチンに戻った。時夫が何かを叫んだが聞こえなかった。長年一緒にいるけど、その雄叫びの意味も、何を言っているのかも分かった事がほとんどない。
「近所迷惑!」
怒鳴りながら時夫のケツに蹴りを入れると、時夫が俺を見る。
「俊喜の存在が近所迷惑!」
「んだコラ、やんのかテメー」
間を詰めた俺達を止める久人の髪の毛が目に入って痛かった。それは時夫も同じだったようで、時夫が悶絶する。俺よりもダメージが酷かったらしい。
久人は何故か俺に抱き付いてきた。
「感動したっ!久しぶりの俊喜のご飯に、久人は感動しましたっ!」
「なんで一人称が名前なんだよキモい」
「俺、…間違ったひさとんが大学に合格したから作ってくれたんだよねっ!嬉しい!でも、ひさとんが好きなのはハヤシライスだよっ?惜しいよっ?」
ひさとんって誰だよ。それより大学受かったのかよ。久人が勉強を頑張っていたのは知っているから、受かった事はめでたいと思う。でも、それ以前に。
「久人が大学生なんて世も末だな」
「……世も末って、何?」
「……、世紀末、的な」
久人の問いに苦し紛れに返事をして、久人の体を離した。正直に言うと意味があやふやだった(なんかどこかで聞いた事があるから使ってみた)。
俺は自分が矢田さん予備軍になってしまった事に、控えめに表現して酷く落ち込んだ。あんな大人になりたくない。
いや、でも。大学に受かったのに『世も末』の意味を知らない久人の方がよっぽど問題だし、そんな問題がありまくりの久人を合格させた大学も問題だ。
というより問題外。
そう思いつつ、俺はキッチンに残った二つのカレーを持ってリビングに戻った。真知が沙也加達にカレーを渡しているのを、仏壇で笑う俺の義理の両親が見ていた。
真知にカレーを手渡すと、真知の茶色い目と視線が交わる。ちゃんと俺を見ている事に安心して笑うと、真知が頬を赤らめた。
「照れんなよ」
「て、照れてなどっ」
「はいはい、緊張デスヨネ?」
俺が馬鹿にしたようにそう言うと、真知はテーブルにカレーを置いて、真っ赤な顔をしながらいただきますと言って食べ始めた。
「美味しいです」
毎日律儀に美味しいと言う真知に笑いながら、俺は真知の目の前のテーブルにカレーを置いて、胡座をかいて座った。
リビングの端でカレーを食べさせあっている悟と沙也加の写メを撮りまくるタエが視界に入ったけど、あの三人に何かを言っても無駄だから視界から除外した。
たまたま目に入った菊地の手の甲のタトゥーの時間は止まったまま。目に見えているそれは止まったままだけど、菊地の時間は動き始めている。
ナミが俺と菊地の間に割り込んできてテーブルに頬杖をつく。
「菊地!タトゥーなんでこの時間なの?つーかこの後ちょっとホテル行かない?」
なんて事言ってんだこの女!ここは出会いカフェじゃないのに、俺の行くところが出会いカフェに早変わりするのはどうしてなんだ。永遠の不思議。ナミが菊地に擦り寄るのを制止するように、ナミの頭を軽く叩いた。
「いった!」
「こいつ女に興味ねーからやめとけ」
「マジかー、可愛かったのに」
口を尖らせたナミはカレーを食べ始めた。なんて肉食獣だ。発情期のライオン。
菊地はまだ固まってカレーを眺めているだけだ。俺は頬杖をついてそれを見る。
「早く食えって、」
「……いただきます、」
菊地がカレーをスプーンで掬って、口に入れた。咀嚼しているのをじっと見ていると、菊地がスプーンを握り締めた。
俯いた菊地。カレーの上に水滴が落ちるのを見て、俺は視線を逸らした。
「美味しい、です」
「…そうか」
菊地が俺に敬語を使った事に驚いた。料理で人を泣かせた事が二度ある俺は、もうそろそろ料理人になった方がいいのかもしれない。
「温かい、です」
「出来立てだから当たり前だろーが」
照れ隠しにそう言って、俺はカレーを食べ始めた。出来立てでも冷たく感じる飯を食べてきた菊地の涙を見ていられなかった。
「人生で一番、幸せな夜ご飯、です」
いつか聞いた言葉と同じような台詞。真知を見て笑うと、真知が頬を赤らめた。真知の目は泳ぎ回っている筈なのに、俺はそれに捕らわれたままだった。
暫くして、皆揃って家に帰っていった。菊地は何度もまた来ていいのかとしつこく聞いてきて、俺はそれに何度も頷いてやった。
神経を使ったからか妙に眠くて先に風呂に入らせてもらったが、何故か目が覚めてしまった。テレビがつまらなくて適当に回すと、刑事ドラマがやっていた。
原作が面白いとか人気があるとかで、視聴率がいいらしいドラマ。流すように見ていると、真知が風呂から出てきた。
真知の顔を見て、ぼんやりと言う。
「なんか……目ぇ覚めた」
「もうじききっと眠くなりますよ」
「そうかな」
行儀よく正座した真知の濡れた髪をタオルで拭ってやっていると、程よく流れていた不審なBGMがピタリと止まる。
何となく、真知の肩に顎を乗せてテレビに目を向ける。
ドアを開いた先に、人が吊り下げられていた。それを呆然と女が見ている、という構図。
逮捕する前に首吊り自殺されたのか。そう思っていると、真知が目を見開いてそれを見ている事に数秒遅れて気付いた。
真知がいつか、見た映像。
慌てて真知の目を手で覆ってテレビのリモコンを掴んだけど、中々ボタンが押せない。やっとの事でテレビを消して、微かに震え始めた真知の体をそのまま後ろから抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫だ」
真知の目を覆った手のひらに真知の睫毛が触れたと思ったら、そこが微かに濡れる。
苦しみが消える事なんてない。真知が見た、親父さんとお袋さんの遺体は一生染み付いて消えない。今度からは、刑事ドラマも禁止だ。
「大丈夫だ、真知」
苦しみが苦しみじゃなくなる瞬間なんて、きっと一生来ない。荒くなる真知の息に喉が熱くなって、震える真知の手を握った。
「おとう、さん」
「うん」
「おかあ、さ、」
数える程しか聞いた事がない、真知が両親を呼ぶ声だった。どれだけの記憶が乗せられているのかと思った瞬間、息が詰まる。どうしようもなく何かをしてやりたいのに、俺は何もしてやれない。
「と、俊喜、」
それでも真知は、俺を呼んだ。目を覆っていた手を外して真知の前に回った。濡れる白い頬を撫でてから、再び抱き締めた。真知が俺のTシャツを弱い力で掴む。
「大丈夫、俺、ここにいるよ」
ずっといる。そう続けて、真知の髪を撫でた。気休めにしかならないと、知っていたけど。




