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!!!!  作者: 七瀬
第三章 不可視
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廻る世界の中心




留年初日、俺は廊下で山崎に呼ばれるのを待っていた。制服に染み付いた煙草の匂いがするのを感じながら、溜め息をついた。


その前日は夜中に帰ってきたのに、お袋に髪を黒く染められたせいで全く眠れなかった。黒染めの液が飛び散って駄目になった8000円のTシャツの末路を思いながら、俺は落ちてくる瞼と格闘していた。


ドアの向こうから、山崎の声が聞こえる。酷くカッコつけていた。馬鹿じゃねーの。俺はこんなに眠いのに、と訳の分からない文句を心の中で放った。


視界に入る前髪の黒さに苛立ちを感じた。アッシュブラウンがここまで黒くなるとは思わなかったし、黒髪が自分に似合わないと知っていたからこその苛立ち。


緒方、入れ、という山崎の声が聞こえた。命令口調きたよ。眠い目を擦ったら、少しだけ目の前がすっきりした。山崎に言われた通りに教室に入ると、真新しい制服を着たガキ共が俺を見てみぬふりをする。


山崎が自己紹介しろ、と言ってきた。俺は面倒だと思いながら、簡単な自己紹介をした。緒方俊喜、もう少しで17歳、趣味は折り紙、特技はミカンを腐らせる事です。


自己紹介でもなんでもなかった。ちょっとウケを狙ってみたけど、笑う奴は誰もいなかった。正直恥ずかしかったし苛ついた。


お前何言ってんの、みたいな視線を浴びせてくる山崎をじっと見つめる。すぐに逸らされて、お前の席はあそこだ、と一つだけポツンとある空席を指差した山崎に、俺は言った。


山崎、肩でヤマザキ春のパン祭りしてるけど、具体的にどの辺が祭りな訳?


お袋に朝飯を作って貰えなかった俺がなけなしの金で買ったコンビニのパンについていたヤマザキ春のパン祭りシール。それを山崎をからかうつもりで肩にこっそり貼ってやったのだ。山崎が肩を見て、顔を真っ赤にして怒り始めた。


俺はさっきから笑いたくて仕方がなかったのだ。山崎がカッコつけてるのに、肩にはヤマザキ春のパン祭り。


お前は教師をナメてるのか!という山崎の台詞に、堪えていた笑いは爆発した。山崎を指差しながら腹を抱えて笑う俺に、山崎はまだ怒鳴る。


山崎はそのシールを剥がして床に捨てた。おいおい、俺との友情の証をどうしてくれんだよ、もっと大事にしろよ、というと、山崎は俺の胸ぐらを掴んだが、それでも笑いは止まらなかった。


その日、俺は人生で何度目か分からないが職員会議にかけられた。ヤマザキ春のパン祭りなだけに、山崎は小さい事を祭りにする。


そんな俺を、真知が見ていたなんて、知らなかった。『簡単に笑える人』、俺にとっての当たり前を、真知はそう言ったのだ。


真知じゃなきゃ駄目な理由なんて、一つもなかった。ただ、好きなだけだった。その明確な理由さえも分からない。


不気味で面倒で気持ち悪い、ぶっ壊れた異常な女。今思えば、わざわざそんな女を俺が選んだ訳じゃない。俺はただ見つけただけで、好きになっただけで、俺を選んだのは真知の方だった。


菌が移ると俺に落ちた涙をこびりついた汚れを取るような手つきで拭いた女を抱き締めた事は、俺の意志だったけど。


俺が作ったチャーハンを食べる真知の白い頬が動く。真知の仕事が休みでゆったりとした朝、静かなリビングに響くのは、ニュースだった。


誰かが殺されました。交通事故が起きました。そこに取り上げられなかった事が無数にこの世の中に存在していて、当たり前に空気中をさ迷っている。


全部出したら、キリがない。全てを知る事は叶わない。真知の心の底で思う感情を、俺は知る事が出来ない。


俺の視線に気が付いたのか、真知が俺を見た。


「……何か?」


「ん?なんでもない」


そう笑うと、真知が俯く。


「ご用がないのなら、見ないでください」


「なんで?」


「緊張して、…ご飯のお味が分かりません」


スプーンを握る手の力を強めたのか、真知の手の甲は更に白く染まる。第二関節のひび割れのなくなった手を見ながらぼんやりと口を開いた。


「いいじゃん、俺が見たいんだから」


「っ、」


真知が顔を上げて、視線が絡まった。茶色い目を見た瞬間から、俺の心の中がどろどろに溶けていく。何回好きだと言ったら、全部の思いが伝えきれるのかなんて分からなかった。


「俺は真知が一番大事だよ」


テレビから流れるニュースキャスターの声よりも、俺の声の方が少しばかり大きかった。朝、チャーハンを食らいながら言う台詞ではない事は、言った後に気付いた。溢れ出た事実は、俺を無視し続ける。


真知の目が小さく揺れる。一気に赤くなった頬に手を伸ばして触れて、撫でた。熱い。


「ごめんな」


溢れた謝罪に、真知が微かに首を傾げた。


「ごめん、俺の一番大事な女はお前だけど、俺が大事なのはお前だけじゃない」


浮気っぽい男の言う台詞と似ていたが、そうではない。何を言いたいのか分からない、とでも言うような顔をする真知に次の言葉を発しようとした瞬間、この部屋に越してきてから初めて、呼び鈴が鳴った。


真知の髪を軽く撫でてから、ドアの方へと向かった。外から聞こえる騒がしい声に一つだけ深呼吸してから、ドアを開ける。


「おはよ、わざわざごめんな」


そう言うとそこにいたギャル三人が一気に部屋になだれ込んできて、その後ろの男三人も続いて部屋に入ってきた。


「寒い!早く入れてよ!妊婦を寒がらせるなんて俊喜君マジサイテー」


沙也加がムートンブーツを脱いで部屋に上がる。それに続くナミとタエが寒いとしきりに繰り返した。短いスカート履いてて寒がるなら、そんなのやめろ。


スニーカーを脱ぎながら俺にニヤニヤする久人と時夫が顔を見合わせて言う。


「愛の巣とかマジエッチだよな」


「黙れ」


朝から変な想像をする二人に冷たく言ったけど、二人は全く気にしていない様子。リビングの方から、真知おはよ!なんて沙也加の声が聞こえてきた。


沙也加と真知はちょくちょく会っているらしいが、俺はそこに遭遇した事はない。


最後に入ってきた悟が後ろ手にドアを閉めて、お邪魔します、と言った。常識があるのはこいつだけらしい。


スニーカーを脱いだ悟が俺を見た。


「話ついた?」


俺はそれに首を横に振る。悟と二人リビングに向かうと、コートを脱いですっかりくつろぎモードに入った五人が騒いでいた。うるさい。


沙也加の隣に座った悟をちらりと見てから、空になった皿の前の空席に座る。真知はギャル三人と話をしていた。タエと目があって、頷いた。


昨日電話したのは、タエだった。タエと俺の仲は小学生から続いていて、タエがナミよりも理解力に長けているのは知っていた。タエがこれだけの人数を引き連れて来るとは思っていなかったけど、助かった。


タエから目を逸らして、真知を見た。首もとに光る俺があげたネックレスのチェーンが、俺を責めているみたいだった。



いつかの真知の持った紙袋の中に滑り落ちていったそいつは、俺の知らない、真知が家に引きこもった日々を知っている。


「真知」


俺の声に、真知がこっちを見た。空気を読んだ六人が、一斉に口を噤む。静かになったリビングで、俺は揺れていた。


こんなに俺が悩むのは、怖いからだろう。俺が張った、真知を引き留める為の予防線は、俺の所に引き留めておく為のものじゃない。


真知をこの世に引き留めておく為の、だ。


ナイフに怯まない真知を見てから、万が一俺が死んだら、真知が追いかけてくるんじゃないかと思っていた。それはどうしても嫌だった。


だってまだ真知は、笑っていない。


小さく息をついて、真知を真っ直ぐに見た。


「ごめん、俺、菊地に会ってくる」


「…え?」


しきりに視線を泳がす真知は、状況を読めていないようだった。


「だって、約束、」


「うん、した。お前と菊地に会いに行かないって約束した。だけど、約束、破らなくちゃいけなくなっちまった。」


ごめん、と続けると、真知が言った。


「貴方は、何も分かっていませんっ」


そうかもしれない。いや、確実にそうだ。俺が分かっているのは、ほんの一部に過ぎない。


「貴方が、あの方に刺された時、私が、どんな気持ちだったか、なんてっ」


怖かったと、真知はあの時しきりに言っていた。血塗れの俺が、膝の上で弱っていく。それを真知は、経験したのだ。


「血、止まらないしっ、呼んでも返事をしてくださらないしっ、心臓、止まるしっ、」


「……、」


「怖かったのに、」


そう言った真知の目が潤んでいるのが見えたけど、すぐに俯かれてしまって見えなくなった。


「私が離そうとしても離してくれなかったのに、私が掴んだら離そうとするなんて、貴方は、」


「うん、狡いな。でも俺、今は離そうと思ってないよ」


「っ、嘘!逃がすなって、私に言う癖に、貴方は私を簡単にっ、……っ、」


真知の本心は、途切れた。俯いた真知の肩が震えている。呼吸を整えるような真知の息遣いがリビングに響いた。


真知から見た俺は、そんな奴だったんだろうか。フラフラしているように見えたんだろうか。徐々に明らかになった俺の昔の事で散々怒らせて泣かせて嫉妬させて、そう思われても仕方がなかったのかもしれない。


「なんでっ、傍にいるの、」


前にも聞いた台詞だった。こんなに好きなのにどうしてこんな近くにいるの、と、真知は前にも言った。


好きだから近くにいる。好きだから傍にいる。未来の事なんて分からないけど、俺の思いだけは絶対に変わらないと誓える。


時夫達がいるのも構わず、俺は言った。


「俺の大事な女はお前だけだけど、俺の大事な奴はお前だけじゃない。俺は清春だって、大事なんだよ」


「……っ、」


「あいつは確かに女ったらしだけど、好きな女の為なら人生捨てるような馬鹿だけど、でも俺の後輩なんだ。俺には、清春を菊地から守る義務がある」


お前だけが大事だと、お前以外要らないと、そう言えるのはドラマの中の話だけだ。人は誰だって、どんな形だったとしても色んな人間と関わって生きていく。


もし世界に、俺と真知しか居なかったとしたら、俺は真知以外要らないと言えるけど、そんな世界寂しすぎる。


俺に真知がいるように、真知には俺がいる。俺に時夫達のような友達がいるように、真知にもタエやナミや沙也加やサチコがいる。


清春にだって、富田紗英がいる。シュンにだって、菊地がいる。


俺は真知とは別の場所で違う人生を生きてきた。真知だって、俺とは別の場所で違う人生を生きてきた。会う筈もなかった俺達がたまたま出会ったのは、今まで生きてきた全部があるからだ。


俺がお袋に学校を辞める事を許して貰えなかったのも、真知が踏切に飛び込めなかったのも全部、今に繋がってる。


俺は一人で生きてきた訳じゃない。お袋に産んで貰って飯食わせて貰ってここまででかくなって、色んな人間と関わってぶつかって、俺という人間が出来たのだ。


「私は多分、」


真知が言葉を切った。しゃっくりをする真知は、泣いている。でも俺に泣き顔は見せなかった。


「俊喜がそういう方だから、そういう方だと知っていたから、惹かれたんだと、思います」


「……口説くのおせーんだよ」


思わず小さく笑いながらそう言うと、真知が涙を拭う。


「もし私が、貴方より先に貴方を口説いていたとして、貴方はその場合でも、私を、好きに、なってくれましたか?」


何言ってんだ、この女。


「本当に馬鹿だな」


「っ、」


「お前に口説かれる前に、俺はお前を好きになってるよ」


真知から嗚咽が溢れた。俺はテーブルに頬杖をつきつつ、真知の茶色い髪を見た。誰だってこんな女に口説かれたら落ちる。でも俺は口説かれる前に、もう好きになってる。


だって俺は馬鹿なんだ。小悪魔女の無意識の策略に引きずり込まれた上に溺れるなんて、馬鹿以外の何者でもない。


「だって俺、物好きだし、お前トロいし」


「っ、そうですね、」


そこで肯定するなよ。どこまでも冗談の通じない女に、俺はようやく説得の糸口が見えてきた気がした。


「真知、お前は俺よりも頭いいんだから分かるよな」


真知は馬鹿だけどインテリなのだ。


「俺は別に、お前に秘密にして菊地に会いに行ったって良かったんだよ。でも、俺は真知にちゃんと言っただろ?」


「はい、」


「なら、俺の言いたい事分かるよな?」


俺は絶対に真知の所に戻ってくると決めたから言ったのだ。ただ、万が一の事があった時の為にタエ達を呼んだのは事実。


だけど、それは真知がせっかく休みなのに一人で留守番が可哀想だったなんて適当に真知に解釈してもらえればそれでいい。


真知が頷いた。さすがインテリ、話が早い。


「一生かけて証明してやるって言っただろ?」


「っ、はい」


「俺は俺の為にここに戻って来るんだからな。お前の為じゃなくて、俺がお前と一生一緒にいたいから戻って来るんだからな」


真知に手を伸ばして、頭に手を乗せた。


「俺がまた菊地に刺されるなんて決まった訳じゃないだろ?先の事は何もわかんねーから」


「はい」


「でも、俺が一生お前と一緒にいたいと思うのは、ずっと変わらないって誓ってやる。俺が死ぬまでそれは変わらない、絶対に」


もう二度と、約束を破ったりしない。俺はそう決めた。


その時、確実に真知のものとは違う鼻を啜る音が複数聞こえて、真知から目を逸らした。すると、悟以外の五人が啜り泣いていた。


「っ、感動したよぉ」


ナミとタエが良かったね、と言って真知に抱き付く。久人が泣きながら何かを叫んだが聞き取れなかった。


「俊喜、俊喜大きくなったな……女を口説くなんて……それも奥さん……感動した」


「テメーは黙れ」


時夫に冷たくそう言うと、悟が呟いた。


「俊喜がデレた」


「やめろそういうのなんか恥ずかしい」


「俊喜が照れた」


ウザい程に実況する悟を無視して、寝室に向かった。クローゼットから迷彩柄のマウンテンパーカーを取ると、ダークグレーのカレッジスウェットの上から着てファスナーを上まで上げた。


財布をダメージデニムのケツポケットに入れて、寝室を出る。リビングを通り過ぎ玄関に向かった。久人と一緒に叫ぶ沙也加の声が煩い以外の何物でもなかったけど、俺はリビングの六人に言った。


「真知をよろしくな」


それに返ってきた煩い声に少し安心しながらブーツに足を入れた時、リビングの空気が動く。振り返ると真知が、俺に向かって走ってきた。


目は真っ赤だけど、泣いてはいない。真知は俺の服を控えめに掴んだ。


「私も一緒に行ってはいけませんか」


返事はしなかった。危ないから駄目だと言ったら真知に心配をかけるし、ただ駄目だと言ったらどうしてと聞かれた時に困る。


真知が俺の服を掴む力を強めた。何となくは、分かったようだ。


「私、根に持つタイプなんです」


いきなりどんなカミングアウトだ?真知の左手を握って撫でてやると、真知がそれにも少し力を入れた。


「貴方が刺された時に、貴方に言われた事は、忘れていません」


俺を一瞬だけ見上げた真知は、再び俯いた。


「……帰って来なかったら、一生忘れてあげませんからね」


酷く掠れた声が頭にダイレクトに刺さる。たまに物凄い爆弾を仕掛けてくる泣き虫女に、喉が熱くなった。


いつから、俺の世界の中心がこいつになったんだろう。顔を背けた真知の頬に涙が流れるのが見えたけど、何も言わなかった。


自分勝手な俺の為に真知が流した涙を、俺は清春の命と天秤にかけた。重かったのは、後輩の命だった。女を泣かせても、男にはやらなきゃいけない事がある。


「うん、いい子で待ってろよ、真知」


そう言って、玄関を出た。


帰ってくるに決まってる。相手はただナイフを持ってるかもしれないだけだ。


そして何より、俺はまだ真知とヤってない。いやこれ本当、男にとって重要だろ。


それより、俺はまだ真知が笑った所を見てない。そんなんじゃ、死んでも死にきれない。




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