ワルサーと女の体温
目覚ましが異常に大きな音を立てて鳴って、俺は布団から手を伸ばしてそれを止めた。一気に覚める頭と目。男の色々な事情を隠すように、真知に引っ付いていた体を少し離した。
腕の中の真知は少し眉間にシワを寄せて、小さく唸る。
「真知、起きろ。朝」
「んん、」
そう、起きない。同棲を始めてから分かった事だけど、真知は低血圧らしく朝が弱い。学校に遅刻した所も、店に遅刻したという話も聞いた事がなかったから分からなかった事だけど、起きるのに物凄く時間がかかる。
「真知、ほら、起きんの、」
「……いや、」
折角離した体にすり寄ってきて、俺の胸に顔を押し付けてくる。
「真知、起きろよ」
「……としき」
「ん?」
「としきの…におい」
いいにおい、と舌っ足らずに言った真知に絶句した。怖いこの子。起きてたら絶対に言わないだろ、これ。
「……ブルーベリー、…は、」
「…………」
「わたしのものよ」
どんな夢!?ブルーベリー争奪戦!?俺にさらにしがみついた真知が、衝撃的な一言を口にした。
「……ブルーベリーは、………渡さないわ」
まさかの俺がブルーベリー!?どれだけでかいブルーベリーな訳!?そりゃ争奪戦になるわ、と納得しつつ、真知の脇に手をやって、そのまま起き上がった。
必然的に真知も起き上がる。
「真知、ブルーベリーはいいから起きろ」
「…いやよ」
「朝は女王様かよ、」
「ブルーベリーは目にいいの、」
寝起きから常識を口にした真知は、まだ俺の胸に顔を埋めている。無理矢理頭を掴んで引き剥がすと、真知の唇にそのままキスした。
まだ何かをモゴモゴと話す真知の口に舌を突っ込んでゆっくり絡めると、真知が無意識に絡め返してくる。意識を繋ぐように絡めとっていくと、真知が俺の胸を押して、唇が離れた。
「おはよ、真知、」
目を白黒させる真知から離れてベッドから降りる。真知を強制的に起こすには、キスが一番手っ取り早い。一昨日から習得した技だ。
「早く準備しろよ?」
「え、あ、はい」
寝癖のついた髪を撫でてから寝室を出る。リビングでテレビを付けて、キッチンに足を運んだ。
軽く水で顔を洗ってから、朝飯の準備に取りかかる。真知がやっと我に返ったのか顔を赤くしながら洗面所に入っていった。
服を着替えて髪の毛も綺麗に内巻きにした真知がキッチンにやって来る。俺はフライパンから皿にベーコンと卵の炒め物を移して、真知に手渡した。
「今日は真知の好きなベーコンよ!」
俺の気持ち悪い裏声にも一切表情を変えない真知に心の中で舌打ちしながら、鈍臭そうにリビングに向かう真知の細い体から目を離した。
茶碗に飯をよそって、箸を二膳持ってその後を追う。リビングの端にある仏壇の上、遺影の中の二人に無言で朝の挨拶を済ませると、テーブルに茶碗を置いた。
真知に箸を手渡して、二人でほぼ同時に手を合わせた。
「いただきます」
「いただきます」
美味しいですと毎回律儀に言ってくれる真知に笑いながら、大根の漬け物に手を伸ばす。
「……あ、あの、」
「ん?」
漬け物を口に入れながら真知に返事をすると、真知が口を開いた。
「昨日、近藤さんからご連絡頂きました。第一志望の大学に見事合格なさったそうです」
「マジか」
確かセイヤ君と同じ大学に行くって言ってたっけな。大学生とかそれだけでインテリじゃねーか。
「つーかサチコ、まだセイヤ君と続いてんの?」
「はい、あ、昨日、セイヤさんと共にホテルに行くと仰っていました。それを恋のアドバイスをして下さった俊喜に言伝てするようにと頼まれていましたのに忘れていました、申し訳ありません」
「いや、別にそれは言わなくていいや。一生忘れてていいや、それ。」
サチコ、真知になんて事を話してるんだ。あいつ本物の馬鹿だ。わざわざ真知経由で俺に伝えるべき事なのか!?いや、俺はそうは思わない。大体、そんな話誰も聞きたくない。
小さく首を傾げた真知に、もう二度と思い出すなよ、と言って、飯を口に入れた。サチコも問題だけど、それを律儀に俺に言ってくる真知も問題だ。どうなってるんだ。
俺が早々と飯を食べ終えても、真知はまだ半分くらいしか食べていない。真知は食べるのが遅い。
この前俺が食べ終わった事に焦った真知が慌てて飯を掻き込んで喉に飯を詰まらせてから、真知に焦って食べるなと言ったら普通に食べるようになった。
誰よりも手間のかかる女。
テレビの中でニュースキャスターが連続通り魔事件について読み上げている。ニュースで取り上げられない犯罪者はこの世に腐る程いるのが現実だ。
まあ俺も、人の事を殴ったり蹴ったりした事があるのは事実で、犯罪者の末端の事に変わりはないのかもしれない。
俺は真知のものと並べて充電していた自分のケータイと、昨日中野先輩から受け取ったケータイを取った。
自分のケータイをテーブルに置くと、もう一つのケータイを開いた。昨日と同じ待受画面のNEW ERA君に心の中で手を合わせる。
中野先輩の下についたのが運の尽きだ。あの人の下じゃなかったら、クスリをやってもボコボコにされたりする事はなかっただろうに。中野先輩はドSだから、全部吐くまで監禁された事だろう。恐ろしくて涙が出そう。出ないけど。
真知が俺を見た。
「新しい物を買われたんですか?」
「いや、これは他人のケータイだから」
首を傾げた真知の口の端に醤油が付いていた。ティッシュを一枚取ってそれを拭いてやりながら、ワルサーの番号を出す。
顔を赤らめた真知からティッシュを取って、口の前で人差し指を立てた。
「ちょい、静かにしてろよ?」
真知は煩くしたりしないんだけど、一応予防線だ。真知が頷いたのを確認して、ワルサーに電話を繋いだ。
電話を耳に当てると、よく分からないパラパラか何かのメロディーコールが鳴り響く。趣味悪。思わず苦笑いした。
その瞬間、メロディーコールが途切れる。来た。
「よっす、ミキト!朝なんて珍しいじゃん!」
……テンション高い。それに馬鹿だな。そっちから先に名前言っちゃってるよ。まあ、その名前が嘘じゃない事がもっと馬鹿。
昨日のうちにデータを確認をして、持ち主の名前が芳田幹人だという事は確認済みだ。
データを一通り確認してる時に、どっかのサイトからダウンロードしたっぽいエロ動画と一緒に待受の女とのエロ動画が出てきた事には少々ビビったけど。
普通、彼女とそんな事するか?彼女じゃなかったとしても俺は絶対にしない。キモい。
と、考えていたが、気を取り直して口を開いた。
「いや、俺、ミキトのダチの……マキっつーんだけど」
真知を見て、そう言った。真知のマと、俊喜のキを足してマキ。それ以外の偽名が思い浮かばなかった。
「マジ?女みたいな名前だね、君」
「あー、まあ、よく言われる」
だよねー、と電話口からでも分かる気持ち悪さでワルサーが笑う。
「で?君も欲しいの?」
「まあ、ミキト今キマっちゃってて、楽しそうだし」
「やっぱりエス?それならテンハチでイチキューだけど」
覚醒剤、0.8グラムで19000円。まず相場を知らないから、安いのか高いのかはサッパリ分からない。でも日本人って、なんとか90円とか900円とか9000円とか好きだよな。頭の数で安く感じるのか何だかは知らないけど。
ワルサーの声が聞こえない真知は、俺が嘘の名前を言った事に首を傾げている。お嬢様がいる前でシャブの取引なんて、別世界にも程がある。
真知に小さく笑ってから、言った。
「俺、そっち関係何もやった事ないんだけど、最初からエスってどうなの?」
「んー全然大丈夫!ミキトから教えて貰っちゃって!ガンコロもあるけど」
なんで朝からこのテンションなのか不思議だ。生きてるの楽しそうだなとくだらない事を考えたけど、平然と返事をした。
「いや、ガンコロはいいや」
「あ、そう?じゃあ30分後に駅の西口の公衆電話で。俺、ラスタカラーのキャップ被ってるから」
「分かった」
毎度!なんて馬鹿でかい声が聞こえてきたと思ったら電話が切れた。絶対に会社勤めとか出来ないタイプの奴だ。取引先が切るのを待たずにガチャ切りしたら、即クビだ。
ケータイを閉じると、自分のケータイを開いた。繋げるのはマル暴池谷。坂城興業御用達らしいから、こっちでいいだろう。
ケータイを耳に当てると、すぐに呼び出し音が切れた。
「……なんだ」
「機嫌悪くね?」
「夜勤だったんだ、」
「あっそ」
デスクで一人寂しくコンビニ弁当を食らう池谷を想像したら一気に心が冷えた。御愁傷様、池谷。俺は真知と温かい飯を食ってるよ。幸せでごめん。
「で?用件はなんだ」
面倒臭そうに話す池谷の声に、俺は小さく笑った。
「おいおい、今から情報提供してやる奴にそんな事言っていいのか?」
「は?」
俺の言い草に池谷はカチンと来た事だろう。池谷の言葉が文句になる前に、俺は言った。
「ワルサーはラスタカラーのキャップ被ってるらしいぞ。職質かけて任同すれば一発だ」
「は?」
「それが面倒なら、今から30分後、駅の西口の公衆電話で坂城興業御用達のクスリの売人ワルサーとエス、テンハチのイチキューで取引する。パケ出した所を現逮したかったら30分後までに応援連れて西口周辺見張ってろ」
「ちょ、おま!」
電話の向こうで池谷が何かを怒鳴っている。きっと部下でも呼んでいるんだろう。
「でかした俊喜!現逮になったら指紋確認するからパケには絶対に触るなよ」
「了解」
こっちから電話を切ってやると、何だか楽しくなってきた。こんな単純な方法はワルサーにしか使えないだろうから、これで最初で最後だろう。
俺が何かの罪に問われたとしても池谷が揉み消してくれるだろうし、俺は気楽に行けばいい。
真知の頬が咀嚼と一緒に動いている。それを飲み込むと、真知は首を傾げた。
「くすり?」
「そう、違法薬物。覚醒剤」
「かっ、」
目を見開いた真知の頭を撫でて笑う。
「大丈夫、俺はやんねーよ。お前に誓うよ」
「……なら、安心しました」
眉を下げた真知は、ごちそうさまでした、と言って茶碗を片付け始める。俺も茶碗を片付けて、漬け物を冷蔵庫にしまった。
真知と二人仲良く歯を磨いてから、白いパーカーとワンウォッシュデニムと黒のスタジャンに身を包むと、時夫から前に貰ったグレーのNEW ERAのキャップを被った。一応ミキトのダチの設定だから趣味を合わせておこうと思う。
もしかしたら坂城興業に顔がバレているかもしれないから、黒縁のウェリントン型の伊達眼鏡をかけた。気休めにも何にもならないけど、一応、変装。
寝室から出ると真知がカーキのモッズコートを着こんでニュースを見ながら立っていた。その後ろ姿に抱きつくと、真知が手に持っていたリュックをドサッと床に落とす。驚きすぎ。
「そろそろ行くか」
「っ、はい」
真知は慌ててリュックを持って、テレビのリモコンを手に取った。テレビを消そうとする真知の手が、止まる。
テレビに映っているのはニュース。俺は真知の顔を覗き込んだ。
「どうした?」
「いえ、この方、総理大臣になられたんですね」
「ああ、そうだけど」
テレビの中にいる気難しそうな、顔が肩の上に乗っかっているだけに見える政治家。どんな生活をしたら首が無くなるまで太れるんだろう。
「この方、昔お父さんと仲良くなさっていて、ご飯もご馳走になった事があるんです。そうですか、この方が総理に、」
「え、」
絶句。現総理大臣が総理大臣になる前に真知と飯。
「どこで食ったの?」
「赤坂の料亭です」
……聞かなきゃ良かった。昔赤坂の料亭で飯を食っていた女が、今じゃ俺の作った安くて適当な男の料理を口にしている。
世の中、恐ろしい。
真知が支持率はいかがなんでしょうか、なんて言いながらテレビを消した。いや、君も俺の料理で大丈夫でしょうか。
もう終わった事をどうこうしようと思っても仕方ない。そう切り替えた俺は、真知の背中を押しながら玄関に向かった。
真知がナイキの、オールブラックのSWEET CLASSIC(真知があまりにも自分の物を買わなすぎるからこの前買ってやった)を履く横でいつもの黒のティンバーランドに足を入れる。
二人して立ち上がると、狭い玄関で視線がぶつかった。その時ようやく真知が俺が眼鏡をかけている事に気付いたらしく、眼鏡、と小さく呟く。
真知の紫色のマフラーに隠れた顎を出してやって、笑う。
「行ってきますのキスする?」
「っ、しませんっ」
真知が慌ててそう返すから更にからかいたくなるという事に真知はいつまで経っても気付かない。
「いや、お前の意見は聞いてねーし」
疑問を勝手に肯定にして、真知に軽くキスした。馬鹿みたいなリップノイズが静かな空間に響く。
真知に視線を合わせて笑うと、真知は視線を泳がせる。これ、いつになったら直るんだろう。
真知の手を引いて、家を出た。もっとからかっていたいところだけど、残念ながら時間がない。スタジャンのポケットの中には二つのケータイが入っている。
真知の左手に俺の右手を絡めて、ポケットに突っ込んだ。真知が家のドアの鍵を閉める。キーホルダーは中トロの握り寿司。俺もそれと同じのを付けているのは、清春に同棲祝いだと貰ったからだ。
清春のセンスを少し疑ったが、寿司は嫌いじゃないから黙って受け取った。清春は中トロが一番好きだという変な理由でそれを選んだそうだ。真知は気に入ってるらしい。理由は中トロが好きだから。単純。
真知と二人で、実家まで5分の道のりを歩き出す。どうでもいい話をしながら真知の横顔を見て、やっぱり悩んだ。
菊地に会うという事は、真知を泣かせる可能性を含んでいる訳で。最近真知を泣かせていない優秀な俺は、また真知を泣かせる事に恐怖感さえ覚えていた。
絶対許してくれない。もし俺が、真知に菊地に会いに行くと言われたら監禁してでも許さないと思う。だって、菊地は危険人物だ。
そう考えたら、俺は自分勝手だった。真知に会わないと約束したのに、会おうと思っている。会わないと何も終わらないし始まらないとも、思っている。
俺だって、死ぬのは怖い。やっと真知と普通になりかけてるのに、俺にはまだ幸せが待ってるのに、死ぬなんて嫌だ。
なのに、会わなかったら一生後悔するとも、思う。会って話を聞かないと、今度は清春の命が危ない。清春に内緒で富田紗英に矢崎組の見張りを付けているからまだ富田紗英は安全だけど、清春に秘密にしている以上、清春に見張りは付けられない。
何せよ、清春は驚くほどそういう類いのものに敏感なのだ。前にシュンから見せられた真知との写真でも、清春がカメラの方に目を向けている写真は何枚もあったのだ。
清春に何も言わずに見張りを付ける事は出来ない。清春はまだ、富田紗英に会っていないのだ。いつになったら踏ん切りがつくのかは分からないけど、俺はどうしても一度だけでいいから二人に会って欲しかった。
例え富田紗英が、会いに来たリュウジが清春だと知らなくても、清春は富田紗英だと分かっているから、会って欲しかった。
人を殺すのは、言葉だけじゃない。人を殺せるのも殺させるのも、言葉だけじゃないんだ。
実家の前について、真知の手を離した。第二関節のひび割れは痕が残っているものの、綺麗に治っている。
まだ透明の袋に物を入れて持ち歩く真知は、殺され続けているのだ。真知は、言葉に殺されたけど、人を殺すのはそれだけじゃなかった。
真知の頭に手を置くと、冷えたそれが俺の手を冷たくする。真知の茶色い目が太陽に当たって更に色素が抜ける。どうしようもなく笑わせたいのに、俺はこいつを泣かせる事しか出来ないんだろうか。
気が付いたらそのまま、真知を引き寄せて抱き締めていた。小さい頭に顎を乗せて、細い体を隙間なく抱き締める。前は暴れられてこんな事さえも出来なかったのに、真知は俺の背中に手を回してきた。
こうできるようになるまで、どれだけの時間がかかったのか考えるだけで、泣きたくなる。
「いかがされましたか?」
「っ、」
笑って欲しいなんて言ったら、駄目だ。真知に笑えない事を気付かせてしまう。
泣かせたくないのに、離れたくないのに、頭に過るのは、じいさんの言葉だった。
『男には、女との約束を破ってでも、女を泣かせても、やらなきゃいけない事があったりするもんだ』
じいさんのやらなきゃいけなかった事の代償は真知だった。そして、俺のやらなきゃいけない事の代償も、真知。
多分、この世に優先順位なんてない。一番大事なものが何かと聞かれたら、俺は真知だって答える。でも、世の中そう簡単じゃない。
真知が一番だから真知を選びたいのに、俺には大事なものがありすぎる。先輩、友達、後輩、人だって物だって、大事なものは数え切れないんだ。
真知の涙と、清春の命。どっちが重いかと言ったらやっぱり清春の命で、もし俺が何もしないで清春が死んだとしたら、また俺のせいだと思う。今度こそ、立ち直れなくなる。
でも、真知を泣かせたくない。矛盾ばかりが心を埋め尽くして、息が出来ない。
「どうされたんですか?」
「……、」
「俊喜?」
真知のくぐもった声に、微かに視界が滲んだ。
どれだけ好きだって、一つにはなれないのだ。心を繋げたって体を繋げたって、元々は別の人間で、もし一つの体の中に二人がいたとしたらこうして抱き締める事も出来ない。
一人の女にこれだけ長い間執着した事がない俺は、どこに気持ちを持っていけばいいのか分からなかった。
誰にも負けないと思う程の感情は、許容範囲を超えて溢れる程にあるのに、からかったり泣かせたり怒らせたり、妙な愛情表現しか出来ない。
今以上に、どろどろに甘やかしてやりたいのに、それが出来ない。
滲んだ視界を正常に戻すように、瞬きを繰り返す。小さく息をついて、笑った。
「なんでもない」
「え?」
真知の困惑する声に、体を離した。
「ちょっと離れたくなかった、なんてな」
「っ、」
「迎えに来るから、いい子で待ってろよ」
俺のたった一言で照れたように視線を泳がす真知の頭を軽く撫でて、背を向けた。やっぱり俺には、大事なものがありすぎる。
今だって、抱き締めていたくたって、中野先輩の頼みを果たさなければいけない。
溜め息をつきながら、駅に向かって足を進めた。駅までは徒歩5分、ワルサーとの待ち合わせまで、後5分。
少しだけ早歩きで駅まで歩くと、西口に複数並ぶ公衆電話の脇にしゃがみ込んだラスタカラーのキャップが見えた。
ワルサーがこっちを見ていないのを確認してから辺りを見渡すと、ワルサーのすぐ近くの公衆電話のボックスの中に池谷がいた。
マル暴だから面は割れているはずなのに、ワルサーは一切気付いていない様子。本物の馬鹿だったらしい。
あんな派手な色合いのキャップに負けない、センスもクソもないようなカラフルな服に身を包んだワルサーは異常に目立っている。完全なる悪目立ち。
近寄るの嫌だな、と少し思ったけど仕方がない。ワルサーの前にしゃがみこむと、ワルサーが俺を見た。日サロで焼いてるのか、黒光りする程に日焼けした、ただのおっさんだった。
ワルサーは汚い歯を見せて笑う。なんか口から変な匂いがした。
「君がマキ?」
「そう、そっちこそワルサー?」
「まあね、俺って目立つらしいからすぐに分かっただろ?」
それに軽く笑って頷く。ワルサーの言い方は確実に俺ってオーラあるから、みたいな言い方に聞こえたけど、そこまで馬鹿じゃない事を願う。
お前はただその派手な服装が目立っているだけでオーラがある訳じゃないんだという事を教えてやりたかったが、やめた。金輪際付き合いも無くなるし。
ワルサーは俺の顔をじっくりと見て口を開いた。
「思ってたより強面の兄ちゃんだったんだ」
「……それを言うならイケメンって言ってくんない?」
「ごめんごめん」
強面ってなんだよ。ふと矢田さんの顔が過って泣きたくなった。俺ってあんな感じの顔な訳?
「そりゃミキト、モテない筈だよな。マキみたいなの近くにいたら合コンやっても全員お持ち帰りされちゃいそうだし」
「褒めたって俺、ぴったりしか金持ってきてねーから買わないよ」
そんなんじゃないよ、とワルサーが言いながら立ち上がった。それと一緒に立ち上がると、ワルサーはあまり背が高くなかった。真知より少しでかいくらい。お袋と同じくらいの背だった。
「つーか、俺、マキとどっかで会った事ある気がする」
俺の顔を真剣に見て考え込むワルサーに、平静を装って、そうか?と適当に答えた。誰がお前なんかと会うか。
「まあいいや、はい、エス」
何を思ったのか、本当に馬鹿なのか、それともシャブのやりすぎで頭が可笑しくなっているのかは分からないけど、ワルサーはパケをそのままポケットから出す。
「ちょっと多く入ってるから」
初めて見た本物のパケに少し感動したけど、こんな粉で人生狂わせられるなんて馬鹿っぽいと思った。
「いいの?」
「最初だからサービス。気に入ったらまたよろしくね」
俺は辛うじて野口英世が一人いるかいないかくらいの財布をデニムのケツポケットから出す。
池谷早く現逮しろよ。俺、金持ってねーんだよ。そう思いながら財布のファスナーに手をかけた瞬間だった。
「お前、緒方俊喜!」
「確保!」
ワルサーの驚いたような声と池谷の怒鳴り声はほぼ同時だった。目を見開いたワルサーに小さく笑いながら、黙って財布をデニムのポケットにしまい直す。
物影から飛んできた若い警官二人に取り押さえられたワルサーは、俺を見て笑った。
「こんな事してタダで済むとでも思ってんのか!サツの真似事なんかしやがって!」
どこが真似事だ。警察がこんな馬鹿みたいな作戦使う訳ないだろ。それにとぼけるように言う。
「タダで済むと思ってるけど?お前、もう簡単にムショから出てこれないっしょ」
池谷の手で手錠をかけられたワルサーは、訳の分からない事を喚き始める。正直引いた。
「おかしいと思ったよ!パケ見せても顔色変えないおかしいガキだと思ったら緒方俊喜か!噂通りだな!」
「俺そんな奴知らねーけど」
シラを切ると、ワルサーが濁った目を見開いて、俺を馬鹿にするように笑う。
「結婚指輪見てピンと来たよ!やけに若いのに結婚してるガキ。命知らずなクソガキだな!度胸があれば生きていける程、世の中綺麗じゃねーぞ!」
「……ご忠告ありがとう」
「連行しろ」
俺の返事と池谷の声が重なった。俺のチャームポイントが結婚指輪になっている事に少々驚いた。キレたワルサーがその辺にパケをぶん投げたのを、池谷の部下が丁寧に拾う。警察って大変そう。
肩に手が乗ってその方を見ると、池谷が珍しく爽やかに笑っていた。まあ、爽やかというよりはキモいの方が正しい。
「お前、やっぱり刑事になってみねーか?」
「なんねーよ」
池谷の舌打ちに少しキレそうになったけど、ポケットからミキトのケータイを出して池谷に渡した。
「パケあるから要らないかもだけど、一応動かぬ証拠」
「は?ああ、」
池谷がそれを開きながら、俺を横目で睨む。
「この前、竜に俊喜は渡さないからって言われたぞ。お前、あっちからも勧誘されてんのか?」
「そんなんじゃねーよ」
「一つだけ言っておくけどな、あっちの方が羽振りはいいっちゃいいが、警察の方が将来安泰だぞ」
返事をするのが面倒で黙っていると、ワルサーが車に乗せられた。池谷がボソリと言う。
「お前、嫁さんの前で泣いて慰めて貰ってたらしいな」
慌てて池谷を見ると、池谷がニヤリと気持ち悪く笑った。
「沢田から聞いた」
あいつ、見てたのかよ!最悪だ。最悪な弱み握られた。池谷は俺の肩を力強く叩いてくる。
「とりあえず、お前も署に任同かけるからな。情報源からしっかり歌って貰うぞ」
「はいはい」
池谷のセルシオの後部座席に乗り込むと、部下らしき真面目そうな若い男が運転席に座っていた。池谷はドアを鼻唄を歌いながら閉じる。
前に止まった、ワルサーが暴れる後部座席に無理矢理乗り込んだ池谷のハゲ散らかった髪が見えたと思ったら、前の車と一緒に車が滑り出す。
朝の駅前は人で賑わっているのにも関わらず、こっちを見ている人間なんて一人もいない。それに少し安心した。
車内は無言だった。俺はやっぱり若い警官には好かれないようだ。昔からそうなんだ。何故か、若い奴から嫌われる。まあ、警察に好かれるのは例え若くてもおっさんでも嫌だけど。
出来る事なら、ミニスカポリスのコスプレをした真知に好かれたいものだ。男に好かれたって何も楽しくない。
ルームミラーに写った若い警官の目がチラリと俺を見た。
「緒方俊喜、って言ったか?」
「そうだけど」
男のワックスのついた短髪をぼんやりと眺めた。俺もそれくらいまで短くしようかな。
「結婚してるのか、嫁さんいくつだ」
「一個下」
「そうか」
会話終了。俺は背凭れに背を預けて目を瞑った。
ウザいくらいに頭の中で繰り返されていたのは、さっきのワルサーの台詞だった。
『度胸があれば生きていける程、世の中綺麗じゃねーぞ』
俺は命が惜しい。度胸なんてないし、世の中だって綺麗じゃない。ワルサーの言っている事は正論であってそうじゃない。人の欲望と言葉が渦巻く世界は、それはそれは汚い。俺は絶対にしたくないと思う何かをやっている人間がいる。綺麗な事が表面にあるなら、汚い事が裏面にある。
でも、汚いものが表面なら、裏面にあるのはとてつもなく純粋で綺麗な感情なんじゃないかとも、思う。
人を殺すという物凄く汚いものが表面なら、裏面にあるのは本当に単純で本当に純粋で綺麗なものなんじゃないだろうか。
美しさと醜さは紙一重で、表現の仕方は自由自在。真知の綺麗な顔に隠されているのは、とてもじゃないけど綺麗だとは言えないあの洗濯板みたいな左腕だ。
それと同時に浮かんだのは、お袋の台詞。
『まっちとはこれから一生付き合っていくんだから、』
俺にどうも引っ掛かっていたのはそれだった。真知と一生付き合っていくという、先にある時間の長さ。それは必ずしも保証されたものじゃないけど、それを成し遂げようと思う俺の心だけなら一生変わらないと保証出来る。
これからどうするのが、一番正しいんだろう。真知と清春、真知と菊地、清春と菊地。天秤にかけるのは、酷く面倒で、それでいて残酷だった。
綺麗って、なんなんだろう。憎悪も嫉妬もないなんて事はきっと有り得ない。この世は限りなく分別されていく。
知りたいか、知りたくないか。俺が選ぶべきなのはたったそれだけの事。なのに俺は、人生で一番悩んでいた。
大事な女が、一生一緒にいたい女がいるからこその贅沢な悩み。追いかけてやっと掴んだ女の手を自ら離すなんて事は、絶対に出来ない。俺は我が儘で傲慢。
全部と手を繋ぐ事は不可能なのに、出来る限り繋いでいたかった。だって菊地は、真知と同じ人間なんだ。
スタジャンの袖から覗いた右手首のキスマークは、真知が俺の傍にいるという事を証明している。それを撫でたら、ふと真知に会いたくなった。
俺が試しだと言って故意に付けさせたキスマーク。俺にとって迷惑の象徴だったそれは、付けた人間が違うだけでこれだけ愛しいものになる。
いつの間にか警察署に停まった車から降りると、初めて補導された時の記憶から全てが蘇ってきた。
ひたすらお袋に怒られて、俺が逆ギレする。時夫達と警察署でも暴れて沢田には何度も怒鳴られた。いつの間にか来るのが慣れた警察署も、乗るのに慣れたパトカーも、俺の記憶にある。最後の記憶には、迎えにきた真知がいた。
記憶は更新されていく。ころころ変わる俺の彼女が綺麗さっぱり消えた時、うまい具合に出会った真知に俺が惚れたのは、少しだけ真知が恐かったからかもしれない。
得体の知れないものに、俺は勝手に惹かれていった。この前、真知の棚にあった国語の教科書を見てみたら、『ひよこの眼』という物語が載っていた。作者は確か、山田詠美。
国語の教科書には珍しい恋愛もの。俺は人様の恋愛になんて興味はないから恋愛小説なんてものは読んだ事はない。その類いのものを初めて読んだけど、俺は相当な馬鹿だったらしく、妙な事を思った。
これは、俺と真知のもう一つの話なんじゃないか、と。
俺は真知の目が怖くて好きになったんだとその時思った。でも今は、違う。きっかけはきっと恐怖だったけど、今は違う。あの茶色い目が俺をみる度に、俺の感情が膨れ上がっていく。
三角関係とか不倫とか、そういうのとは別の意味でどろどろの恋愛。恋愛ド素人の俺が陥ったクソみたいな大恋愛。
そのラストが『ひよこの眼』と重ならない事を、俺はその瞬間に祈った。カミサマに気付いたら祈っていたのだ。
祈っただけで何かが変わる訳じゃないけど、神頼みしたくなる。いるかも分からない、すごい奴らしいそいつは、誰の頭の中にだって染み付いている。
何度目か分からない、裏口から警察署に入った瞬間に俺の腹は決まった。
祈っただけじゃ何も変わらない。全ては人の行動にあって、自分をどうにか出来るのは自分しかいない。
テレビで誰かが言っていた。悪い事があったらいい事があるという考え方は、仏教の考え方だそうだ。でもそれはきっと、悪い事があって、その上でいい事があるように行動したからそれがあったんじゃないだろうか。
祈る事しか出来ない場合が当然ある。でも、祈る事以外に何か出来る事があるのなら、俺はそれに賭けたいと思った。
取調室でミキトのケータイについて歌いながら、俺が頭の中で考えていたのは、真知を納得させる方法だった。
一生一緒にいるんだ。それでやっと始まった。俺が本当にしたい事は真知に菌がないと一生をかけて証明すること。それは真知の為じゃなく、俺の為。俺の惚れた女は、誰よりも面倒で手間がかかる。でもその面倒な女に心底溺れた俺が勝手にすると決めた事。
だから、真知を納得させて、俺は今の自分が出来る事をする。俺の前にあるのは、祈る事しか出来ない場合の話じゃない。
真知と出会う前、喧嘩でしか物を語れなかった俺だった。だけど今思えば、俺は真知を言葉で無理矢理捩じ伏せさせて納得させてここまで辿り着いたのだ。
真知を殺した言葉で、俺は真知を納得させてきた。俺の少ないボキャブラリーでも、インテリの真知を納得させる事が出来たのだ。
考えれば、絶対に浮かぶ筈だった。考える時間だけはかかるけど、真知を納得させる事は出来る。
先の事は、迎えてみないと分からない。
その事実を、いかに真知に納得させるかが重要だった。真知との約束を破ったとしてもこれから先も真知と一緒にいる為に必要だったのは、真知に秘密を作る事でもなく、真知に許可を貰う事でもなかった。
中学の頃、ただキレて暴れていただけだった取調室の中で、俺は真剣に考えていた。俺が今よりもっとガキだった頃は、誰かを納得させる方法なんて考えた事もなかった。
約束を破りたくない大事な女なんていなかった。元カノとは比べものにならないくらいに面倒な女に惚れた俺は、少しだけ成長したのかもしれない。
取調室に池谷と二人閉じ込められた2時間の間で俺が分かったのは、俺は聖徳太子にはなれないという当たり前の事だけだった。
同時に二つの事が出来るような人間だったら、どれだけよかったんだろう。まあ、そんな事が誰にでも出来たら、浮気も不倫も珍しいものじゃなくなる。それって物凄く怖い。
警察署の廊下、前を歩く池谷に向かって、口を開いた。
「分かったら、教えてくれよ」
池谷が立ち止まって振り返る。首を傾げて、眉間にシワを寄せられた。なんだその顔。
「何が?」
「ミキトがクスリやった理由」
見知らぬガキの事情なんて、きっと俺が知る必要のない事。ケータイのデータに入っていた彼女とのエロ動画で、彼女にAV並の言葉責めを食らわしていたミキトは、送信メールとリダイヤルだけから推測すると相当クスリに溺れていたようだ。
俺には分からない世界のハナシ。何となくって誰でもよく言う。俺だってよく言う。だけど、理屈ってある程度必要だ。志望動機しかり、犯行動機しかり。
何となく人を嫌いになってみたり、何となく援交してみたり、何となくクスリやってみたり、そんな適当な事がまかり通る程世の中は優しくないし、そんな世の中だったら誰だって苦労しない。
何となくで人生を棒に振れるなんて、俺には考えられなかった。だから、理由があると思いたい。
自分が基準なのは普通だけど、それだけが全てじゃない。知らない事を知るって、実は結構重要な事なんじゃないだろうか。学校の授業をほとんど聞いていなかった俺だけど、数式よりも漢字よりも、人の事を知るって重要。
池谷がそんな事を知ってどうするんだ、と溜め息交じりに言った。それに俺は、笑って返事をする。
「別になんもしねーよ。ただ、わかんねーから知りたい」
もし俺の親父が緒方政喜じゃなかったら、俺が踏み込んでいた世界だったかもしれない。親父が俺に色んな事を教える奴だったら、俺はきっとクスリが本当に駄目な事だという事を忘れていたかもしれない。
クスリと人殺しと盗みだけは絶対にするな、なんて親としては足りない誰だって分かる当たり前の教えだったのかもしれないけど、10歳の悪ガキの俺にそれだけを教え込んだ親父の言葉は残ってる。
池谷が苦笑いして言った。
「お前のその探求心を別のものに向けてたら凄い事になってたかもしれないのにな」
「黙れよ」
遠回しに馬鹿だと言いやがった。誰かこいつを傷害罪で逮捕しろ。俺のガラスのハートを傷付けやがった。
池谷がハゲ散らかった自身の頭を優しく撫でた。そのまま全部毛が抜け落ちればいいのに。
「ワルサーは一橋にもクスリを売っていたらしい」
「ふーん」
簡単過ぎる筋書き。ちらりと俺を見てから、言いづらそうに口を開く。
「……協力ありがとうな」
「……地球爆発したらお前のせいだからな」
「おま、人の感謝の気持ちをなんだと思ってるんだ!」
気持ち悪い池谷を放置して、俺は警察署を出た。池谷が後ろで何かを怒鳴っていたがそれも気にしない。
似合わない事を言われても、反応に困る。
池谷と最初に会ったのは、矢崎組の傘下の組のチンピラが殺された事件があった中二の頃だ。矢崎組の事務所に池谷が訪れていた時に俺もそこにいて、たまたま遭遇した。
中二の頃には警察署の常連だった俺は、池谷に知られていたらしい。池谷に最初に言われたのは、確か、『ヤクザになるのか?』だった気がする。
その時尖りまくっていた恥ずかしい俺は確か、お前には関係ない、と言った。でも、勝手に嫌いだった沢田と池谷とも、いつの間にか普通に話すようになっていた。
年月は、人を変える。人って不思議な生き物で、何度も喧嘩してぶつかった昔は敵だった奴が今じゃ友達だったりするのだ。
口から洩れる白い息は冷たい空気に融けて消えた。スタジャンのポケットからケータイを取り出して、電話をかける。
呼び出し音が途切れる。そこから聞こえた眠そうな女の声に、俺が発した声は思った以上に真剣だった。
それをすぐに察知したのか、女は寝ぼけた舌っ足らずな話し方から一転して、真面目な返事を返してくる。
女は、俺の予防線だった。
真知を離す気はない。他の男に渡すなんて考えた事もない。でも、俺は我が儘だから、真知が笑うと言うなら他の男に簡単に手渡せる。
俺は治安の悪いと言われるこの街で生まれ育ったけど、本気で殺されると思ったのは本当に最近の話だ。人っていつ死ぬか分からない。
真知の居ない世界に、俺は居ない。でも、俺の居ない世界に、真知は居て欲しかった。




