平和と葛藤と馬鹿な女
あれから三日。真知は仕事で、アパートに置いてきぼりを食らった俺は、暇すぎて散歩に出掛けた。すると、前に真知のマンションで話したベンツのハードボイルドじいさんとたまたま会って、ラーメン屋で飯を奢ってやる事にした。
今日もじいさんは高そうなアランセーターに身を包んでいる。何をやっている人間なのかは定かではないけど、じいさんはあの別嬪の嬢ちゃんとはどうなんだと聞いて来た。
そんなじいさんを見ながら油の浮いた豚骨のスープを飲み込んだ。喉に突っかかって案外重かったそれに自分の老化を感じる。前はいくらでも食えた筈なのに。
軽い絶望を覚えたが、このラーメン屋のスープの味が濃すぎるという事で納得した。そうでもしないと悲しくなる。じいさんを目だけで見て、口を開いた。
「恋バナとか女子高生かよ」
「いいだろ?若いエキスを吸収しないとどんどん老化が早まるんだ」
そう言いつつ、じいさんはラーメンを上品に啜った。あ、俺、今じいさんにエキス吸われてる感じな訳?だから豚骨ラーメンが重たく感じるだけなのか?
良かった、老化じゃない。だが、じいさんが若くなる分俺が老けていくなんて理不尽な話だ。ただでさえ老け顔なのに。最近は年相応に見えると勝手に思っているけど。
無言の俺に痺れを切らしたのか、じいさんが水を飲み込んだ。ガラスのコップにぶつかる氷の寒々しい音は、店員の兄ちゃんの馬鹿でかい声に掻き消される。じいさんがコップを半ば乱暴に置いた。
「なあ、どうなんだ」
何故だか険しい表情。俺は箸を器の中に突っ込んで、頬杖をつく。
「じいさん、俺らの話聞いてどうすんだよ。オカズにでもすんのか?」
「馬鹿たれ。性欲なんぞもうほとんどないわ」
「マジで言ってんの?怖いんだけど」
それくらいの歳になると性欲もなくなるのか。じいさんの歳を知らない事はどうでも良くて、人間の進化というものの神秘に少々感動した。
ラーメン屋が死ぬほど似合わない上品なハードボイルドじいさんは、俺を睨んでくる。続きの催促が酷いな。
「同棲始めてから毎日ヤりまくり」
紳士の笑みを浮かべて、真っ赤な嘘を吐いた。その途端にじいさんが立ち上がる。
「馬鹿者!私はチューまでしか許しとらんぞ!」
「は!?」
なんでこの名前も知らないじいさんに許可を貰わなきゃいけないんだ。それ以前に、本人の許可さえないっつーの。じいさんは我に返ったようにわざとらしく咳払いしてから、再びソファーに腰を降ろした。
「大体、なんでお前は平日の昼間っからほっつき歩いとんのだ」
いや、その質問今更過ぎるだろ。
「怪我して休職中」
「そうか、で、あの別嬪の嬢ちゃんとはうまくいってんのか?」
「じいさんに心配されなくたってうまくいってるよ」
毎日朝飯作って、仕事の送り迎えをしている。それ以外やることがないのだ。テレビも漫画も飽きた。俺は暇をしているのが本当に体に合っていないらしい。早く仕事に戻りたい。金も入らなければ暇で気分は最悪なのだ。
そうか、とじいさんはラーメンを啜る。セーターに汁が跳ねているのは全く気にしていないようだったけど俺の方が気になってしまった。本物のアランセーターの値段の恐ろしさと言ったら言葉にならない。
「で、お前は何を悩んでいるんだ?」
麺を咀嚼しながらじいさんが言う。昔、飯食いながら話すなってお袋に言われた事を思い出した。確かに客観的に見ると気分が悪い。
悩んでる、か。ハードボイルドじいさんはエスパーだったようだ。真知には全く気付かれないのに、年配には誤魔化せないという事なんだろうか。
「別に、悩んでなんかねーし」
「何遠慮してんだ?言ってみろ」
言ってみろって、これは完全なる個人情報?だ。そんな込み入った話をできる訳がないだろうと言おうと思ったが、俺を見るじいさんの目があまりにも真剣だったから、小さく溜め息をついた。
「……じいさんが何者なのか教えてくれたら話すよ」
じいさんを真っ直ぐに見つめながらそう言った。侮れんな、とぼそりと言ったじいさんは続ける。
「昔は総理大臣をしていた」
「ブッ、」
思わず飲み込もうとしていた水を吹き出しそうになった。慌てて飲み込む。
「おい、笑えねー冗談止せよ」
真知と出会う以前の俺だったら多分、馬鹿野郎だとしか思わなかったと思うが、世の中って不思議なものなのだ。何せ、遠い存在だった筈の、テレビの中にいた政治家のおっさんは今じゃ俺の義理の父親なのだ。
じいさんの真剣な顔はあながち嘘では無さそうだった。どうやら本当らしい。貧乏人に何故金持ちが寄ってくるのか。元総理大臣は今、俺にラーメンを奢らせている真っ最中だ。
「で?何を悩んでいるんだ?」
「あのさ、」
「こっちの条件は果たしたぞ。今度はお前が条件を果たす番だ」
箸を置いたじいさんはテーブルに肘をついた。本格的に話を聞くつもりらしい。インテリと頭脳戦は当たり前に無理そうだから、仕方なく話す事にした。
でも、きちんと話すのは何だか気が引ける。
「……、…真知との約束、破らなきゃいけなくなるかも、みたいな?」
それだけ、とじいさんをちらりと見た。じいさんは目を瞑って頷いている。目を開いたと思ったら、とんでもない事を口にし始めた。
「それはお前が考える事だな」
「丸投げかよ!」
信じられない。自分から聞いといてそれかよ!?平然とラーメンを食い始めるじいさんに軽蔑の視線を送った。
「悩む程の事でもない。破ればよかろう、その約束とやらを」
「簡単に言うなよ。あいつ、絶対泣くし、」
そこまで言って、言うべきではないことを言ったと思って口を噤んだ。それをじいさんに悟られぬように、水を飲み込む。
「男には、女との約束を破ってでも、女を泣かせても、やらなきゃいけない事があったりするもんだ」
じいさんの独白がやけに沁みた。じいさんは器に口をつけてスープを飲み込んだ。次に置かれた容器は、綺麗に空っぽになっていた。一つ息をついて、じいさんが口を開く。
「私にはやらなきゃいけない事が多すぎた。思いは、誰にも負けない程あるのに、いつからか抱き締める事すらできなくなってしまってな。知っていたのに、どんな環境の中でどんな生活をして、どんな地獄で生きてきたのかも、知っていたのに、目を逸らしてしまった」
じいさんの体験談だろうか。ラーメン屋に不似合いな真面目な話で、笑えるような冗談でも飛ばしてやろうかと思ったけど、出来なかった。
「人と向き合うのに、学歴なんてものは全く役に立たないんだな。有名大学を卒業した私より、中卒のお前の方がよっぽど人と向き合う強さを持っている」
「……なんで俺が中卒だって知ってんだよ」
じいさんは俺を一度見てから、脱いだコートの胸元に手を突っ込んだ。そこから写真を出して、テーブルに置く。
「最後に会ったのは、私の妻の葬式の時だ。十年も前の話だからな、顔もきっと忘れられているだろう」
「っ、」
「可愛いだろう?私の孫だ」
写真の中にいたのは、今よりも随分と若いじいさんと、小さいガキだった。入学式と書かれた看板の隣で、有名私立の制服を着た、茶色いロングヘアーの赤い唇をした小さい女の子が、じいさんの頬にぴったりと頬をつけて、笑っている。
俺が見たことがない、俺の知らない真知。何年も前の、俺と出会う前の真知が、そこにいた。
「愛しているのに、助けてやることが出来なかった。愛しているのに、抱き締めてやる事さえ、出来なかった、私には」
「おい、じいさん、お前、」
じいさんがあまりにも泣きそうな声を出すものだから、焦ってそう言った。だけど、顔を上げたじいさんは笑っていた。
「私の孫の見る目は間違っていなかったようで安心したよ。ラーメン、美味かった。真知をよろしく頼む」
元総理大臣の、ハードボイルドなエロジジイが、真知の祖父。じいさんが俺を見ていたのは、真知を見ていたからだった。
じいさんはコートを持って席を立った。置き去りのままの写真の中で、真知が幸せそうに笑っている。じいさんだって、見てて恥ずかしいくらいにだらけた顔をして、笑っている。
不思議なものだ。真知を救えなかったという人間は、何故か俺に懺悔するのだ。
写真を掴んで、じいさんの背中に叫んだ。
「じいさん!」
慌てて立ち上がって、振り返ったじいさんに近付いて、その手に写真を握らせる。
「俺、安月給だしラーメンとかファミレスとかでしか奢れないけど、また奢ってやるから、今度は真知と三人で飯食おう」
「だが、」
「祖父として会いたくねーなら、俺の知り合いのエロジジイとしてでもいいから、会ってやってくれねーか?」
躊躇うように目を泳がせるじいさんは、もしかしたら怖いのかもしれない。真知に責められる事が、怖いのかもしれない。
そのじいさんの不安を消すのは、俺が知ってる残酷な事。
「真知、洗脳されてるから、誰が悪いだなんて思ってない、から、」
「っ、」
「本当に人殺しの菌があるって、思い込んでるから、仮にじいさんを覚えていたとしても、責めたりしないし、出来ない」
いつの間にか下がっていた視線を上げて、じいさんを見た。
「真知、菌が移るのを気にして、まだ俺に料理作れねーけど、消毒の癖もまだ完全に治ったって言えねーけど、まだ、笑えねーけど、」
じいさんはサチコと一緒だった。じいさんの目は泣きそうな程に潤んでいて、目を逸らしてしまいたくなる。でも、逸らしたら、じいさんの懺悔が、無駄になる気がして、じっと見た。
「でも、あいつ、俺と手繋げるようになったし、抱き締めたって暴れなくなったし、俺に触れるようになったよ」
「っ、そうか、」
「あいつ、ちゃんと俺を好きだって、言うようになった」
自分で言って泣きそうになるのは、どうしてなんだろうか。改めて考えたら、長い道程だったのだ。誰だって言える言葉を、誰だってできる事を、真知は出来なかった。
じいさんの目から溢れた涙は、真知の流す涙に似ていた。
「真知に会ってやってくれねーか?頼むよ」
じいさんに写真を握らせた手を握って、頭を下げた。酷く簡単だった。当たり前だった。俺は真知の為なら、簡単に頭を下げる人間なのだ。
ラーメン屋で泣いたじいさんも、涙を堪えながら頭を下げる俺も、どう考えたって真知が好きすぎた。一人の女が二人の男をここまでするなんて、あの女はどこまでも小悪魔だったらしい。
じいさんと俺は連絡先を交換して別れた。じいさんは運転手つきのベンツに乗り込んで、俺を見て笑う。あんなエロジジイと真知が似ているだなんて思った俺は馬鹿なのかもしれないけど、真知が笑ったらあんな顔をするのかと思うと、早く見たいと思った。
テーブルに戻ると、麺が伸びた食いかけの悲惨なラーメンが広がっていたが、俺はそれを食った。じいさんと同様に汁まで飲んで、支払いをして店を出た。
俺の奥さんの祖父は元総理大臣。中卒安月給、ついでに休職中の土木作業員には不似合い過ぎる家柄だった。
クリスマスムードの見慣れた地元の街の中で、ふと立ち止まった。じいさんに言った言葉が蘇る。
「オカズとか…ヤりまくりとか…」
猛烈な後悔が襲ってきて、白眼を剥きそうになった。最悪だ。真知の両親の仏壇の前でキスするよりももっと不道徳。祖父に言うべき言葉ではなかった。
思わず顔を手で覆う。耳に届くのは、近くのドラッグストアから流れる久保田利伸の『Missing』。切ないそれに似合わない俺の後悔が肥大し続けていた。
それを振り切って、近くのコンビニに入った。適当にストリート系のファッション雑誌を手に取る。あんな所に突っ立っていたら凍死するのがオチだ。
立ち読みする俺の隣にいるギャル男とギャルの高校生カップルが雑誌を見ながらイチャイチャしていて気が散る。
どこいくぅ?うーん、お前の中(語尾にハート三つ)みたいな気持ち悪い会話が聞きたくなくても耳に入ってくる。ホテル行けよ、と言いたい所だったが、俺の頭に浮かんでくるのは別の言葉だった。
『男には、女との約束を破ってでも、女を泣かせても、やらなきゃいけない事があったりするもんだ』
それは、祖父としてか。それとも男としてか。
真剣にそう考えていた俺の思考を途切れさせたのは、カップルのイチャイチャだった。
「きょたん大好きぃ」
「俺もゆんち大好きぃ」
キモい。どうしてこうも最近のカップルって馬鹿みたいなあだ名で呼び合うんだろう。俺だったらなんだろうか。とったん、とか?キモい以外に形容詞が見つからない。
時夫辺りからとったんと呼ばれている自分を想像して、ラーメンを吐き出しそうになる。雑誌を半ば乱雑に、派手な音を伴って閉じると、カップルが俺を見た。
「マジうるっさい」
俺の言葉に呆然とするカップルを尻目に、俺はその雑誌を買ってコンビニを出た。滞在時間1分、暇潰しにもなってない。
次はもう漫喫にでも行くしかねーかな、と思いながら溜め息をつくと、前からコンビニに入って来ようとした人と肩がぶつかった。
「あ、俊喜?」
その声に顔を上げると、見知った顔だった。ただ、明るかった髪は黒く染められていたけど。
「中野先輩」
お疲れ様です、と続けると、中野先輩が笑った。
「髪切った?かーわーいーいー」
「なんすかそれ」
中野先輩の素面とは思えないチャラさに圧倒されながらも苦笑いする。
「竜から聞いたけど、お前腹刺されたんだって?大丈夫かー?」
とてもじゃないけど心配されているとは思えない程乱暴に、黒いスタジャンの下に着たチェックシャツの上から腹をなで回された。若頭は口が軽いらしい。大丈夫ですよと言うと、中野先輩は俺の腹から手を離した。
「ちょっと煙草買ってくるから待ってて」
にっこりと笑われて、頷いた。
中野先輩がコンビニの中に入っていったから、俺は車止めに座り込む。雑誌を腹と脚の間に挟んだ。寒いと思いながら前を見ると、警察のテープが貼られた『noiseless』が道路の向こうにあった。
あれからすぐ、シュンの家代わりだったらしい『noiseless』にガサが入った。ガンコロが出てきたらしくシュンは無事にパクられた。
俺を殺そうとした本能の王様に少し姑息な手口を使いすぎたと思ったけど、普通に生きる為には仕方のない事だ。
中野先輩がコンビニから出てきて、俺に乳酸菌飲料のパックを手渡して来た。
「御馳走様です」
「いいえ、腹は大事にしないとね」
え、そっち?なんか、竜さんも中野先輩も履き違えてる気がするのは俺だけだろうか?俺は妊娠してる訳でもなければ、便秘な訳でもない。
中野先輩は煙草のフィルムと銀紙を取ってゴミ箱に入れると、俺の隣に座り込んだ。その途端、中野先輩の香水の匂いが辺りに充満する。
ドルガバのライトブルー、だったっけ。乳酸菌飲料のパックにストローを刺すと、中野先輩が煙草に火を付けた。清春の煙草と同じ、赤マル。
一口目の煙を吐き出した中野先輩の胸元には特徴的なチェーンとクロスのトップのネックレスがぶら下がっている。クロムハーツじゃん。その値段を頭の中で勝手に出したけど、乳酸菌飲料に口を付けた。
「どうしたんですか?こんな昼から」
「お前俺の事暇人って言いたいの?」
「違いますよ!」
慌ててそう言うと、中野先輩は嘘、と笑う。嘘が嘘に聞こえないからやめてほしい。
「この近くのクラブで今夜イベントやるから、それの準備してんの。煙草無くなったから買いに外出てきただけ」
オーガナイザーの羽振りはとてもいいらしい。中野先輩の横顔を見て一瞬自分もオーガナイザーになろうかと思ったがやめた。中野先輩はチャラ男だけど、俺が知っている先輩の中じゃ一番のインテリなのだ。馬鹿な俺には無理な話。
「そうっすか」
「俊喜来るなら話通しとくけど、ちょっと今夜顔出せば?」
「いや、今回もちょっと」
「お前最近付き合い悪くない?」
どうしたのお前、と中野先輩に心底心配された。最近俺は、先輩からの飲みの誘いも全て断っているのだ。すいません、と軽く頭を下げた。
「仕事復帰するまで禁酒してるんですよ。奥さんと同棲始めたんで夜遊び歩いてると悪いし、それに、」
「それに?」
「奥さんに夜は危ないから仕事復帰するまでは一人で出歩かないで欲しいって、夜間は外出禁止食らってます」
中野先輩が呆然としたように口をあんぐりと開けた。俺はそう言った時の真知を思い出してちょっとにやけてしまう。同棲を始めた日に申し訳なさそうに言われた事だ。
夜になって急にプリンが食いたくなって、一人でコンビニに買い物に行こうとした俺に、夜は危険ですので私もご一緒します、と言ってきたのだ。あーあ、可愛いですねー。
思い出しにやけをしていた俺を冷めた目で見た中野先輩が口を開いた。
「なにそれ、夜は俊喜が狼になっちゃう!って浮気でも心配されてんの?」
「いや、体の方ですよ、喧嘩とか?」
俺の返事に、中野先輩は真顔になる。
「俊喜に喧嘩で危ないとか言うなんて、お前の嫁さん何者?」
「普通の女ですよ。ちょっと変ですけど」
信じられない、と苦笑いされた。俺だって信じられない。女に夜が危ないからと言われる日が来るなんて思ってもみなかった。
中野先輩はぼんやりと煙草の煙を口から溢す。
「俊喜さ、嫁さんの両親に気に入られてる?」
「え?」
「いや、穂香の両親に挨拶に行ったんだけど、突っぱねられちった、俺」
お前みたいな男に娘はやれないって、と中野先輩は溜め息をついた。
「結婚するんすか?」
「いや、社会人になってから、と思ってんだけどさ、早いうちから付き合ってる事知ってもらっといた方がいいと思った訳。だからこの通り髪も黒くした訳なんだけど、俺じゃ駄目だって。」
こんな話、経験者の俊喜としか無理だからさ、と中野先輩が言った。確かに、結婚すると言って本当に書類まで提出したのは俺くらいだ。
「俊喜はどうだった?」
「いや、同意書書いて貰って、それだけでした。ただ、妊娠してるなら中絶費用出すから堕ろさせろとは言われましたけど」
「マジで?なんで?」
確かに相手も名乗り出てて結婚すると言っているにも関わらず娘を傷付けようとするのは何だかおかしい話だ。中野先輩の真面目な顔を見ていられなくて、俯いた。
「俺の奥さんお嬢様なんで、家柄とか。だから気に入られるもクソもなかったですよ。俺の身元全部調べられてて、金輪際関わらないでくれみたいな誓約書とか書きましたし、半分駆け落ち、」
「お嬢様がお前と結婚すんの!?」
「そっちすか!?」
わざわざ俺の言葉を遮ってまで中野先輩が言った事に突っ込むと、だってそうじゃん、と中野先輩が口を尖らせた。
「なあ、俺にだけ教えて、嫁さんの親何やってる人なの?」
「育ての親は、なんか…銀行の重役?」
「やば、何それ何それ!」
俺の腕を叩いて興奮した様子の中野先輩に言ってやりたかった。実の父親は元総裁候補、祖父は元総理大臣だと。俺だって気が遠くなりそうだ。今日の今日まで知らなかったんだから。
なんでそんな女が俺を選んだのかは訳が分からない。もっとも、結婚した時は半ば強引に頷かせただけなんだけど。
顔を上げると、二人のギャルがこっちを見ているのが目に入る。大きなゼブラ柄のキャリーバッグを持っているから、ここが地元じゃないのは一目瞭然だった。
ギャルに気付いたのか、中野先輩が手を振った。
「どうしたの?」
顔を見合わせた二人がこっちに寄ってきた。二人して黒いムートンブーツを履いて、ミニスカのワンピースにN3-B。大きく開いた胸元が寒そうだった。二人は俺達の前にしゃがみ込んだ。
「お兄さん達、ここが地元なの?」
その台詞にピンと来た。家出だ。夏休み明けに学校を辞めて、バイトもせずに遊び歩いていた女は、冬休みを迎える前に痺れを切らした親と喧嘩して家出してくる。それで、適当に男の家に転がり込もうという斬新かつ、金稼ぎに関しては人任せという何とも怖いアイディア。
中学の時、転校してきた奴がそういう類いの女に引っ掛かったから分かるだけなんだけど。
バッチバチの汚い付け睫を付けた目をしきりに瞬きさせて俺を見る片方の強めギャル。俺って絶対に強めギャルに好かれるのだ。茶髪が見事なプリンになっている。厚塗りしたファンデーションで隠しきれていないニキビが痛そう。
「そうだけど、」
「どっか遊びに行こうよ!」
どっかって、ホテルだろ。一発ヤったら彼女面して家に居座るクチだ。俺の言葉に返事をした強めギャルは谷間を寄せつつ俺の乳酸菌飲料を持った右手を軽く引っ張ってくる。
谷間が気になるのは男として当たり前だ。だが俺は、真知の谷間があるのかどうかの方がよっぽど気になるから、ギャルの手を離した。
「俺忙しいから無理」
「全然忙しそうじゃないじゃん!」
もう一人のフリフリ系が頬を膨らませる。確かに忙しくない。めちゃくちゃ暇だ。青みピンクのグロスが分離していて怖かったから苦笑いすると、中野先輩が俺の顔を覗き込んできた。
「俊喜、女に興味無くなったんだ?」
その言葉に絶句した。俺って端から見るとそんな風に見えてたのか。やばいな、これだと周りに真知にゾッコンだと思われてしまってめちゃめちゃダサい(事実だけど)。ちょっとは谷間とか覗き込んどいた方がいいって事か?
強めギャルが目を見開いた。
「えー!お兄さんゲイなの?」
「は!?」
「あたしが女を教えてあげよっか?イケメンでチャラそうなのに超可愛いんですけど!」
おいなんだこの勘違い女。誰か連れて行ってくれよ。俺は今じゃ硬派だ。
「なんでお前に女なんか教えてもらわなくちゃいけねーんだよ」
俺の手を掴もうとした強めギャルの頭を軽く叩くと、女が痛いと言う。いや、全然痛くしてないんだけど。フリフリ系が強めギャルの腕を掴んで笑った。
「超女慣れしてんじゃん!」
今の行動のどこが女慣れしてると判断する材料になったんだ!?おかしい、絶対におかしい。誰かこの二人をどこかに連れていけ。脳外科辺りに!
そう心の中で叫んでいると、中野先輩が俺の左手を掴んだ。そこにあるのは結婚指輪で、最初からそうしておけば良かったと思った。
「あのねー、彼、既婚者だから」
「キコンシャ?」
中野先輩にギャルが首を傾げた。駄目だ、既婚者の意味を理解してない。俺だって中三くらいまでそんな難しい言葉は知らなかったけど、高校受験の時の勉強で覚えた。ギャル達は俺とタメか一個下かそれくらいなのに分からないのか。
苦笑いした中野先輩が俺の左手を離す。
「結婚してんの、奥さんいるから、俺」
仕方なく言い換えてやると、強めギャルがにっこりと笑った。
「超興奮するんですけど!」
「今のどこが興奮材料?つーか今ので濡れたの?」
「だって人のモノ奪うのって超興奮するじゃん!」
どんな性癖?怖い、この子怖い。
心の中で生まれたての小鹿のような俺が震えたのと同時に、タイミング良くポケットの中のケータイが震えた。
乳酸菌飲料を置いてスタジャンのポケットからケータイを出すと、サブディスプレイには見た目だけ天使の小悪魔女の名前が表示されている。
強めギャルから目を離して、電話に出た。
「どうした?」
俺の最大限の優しい声は無意識に発動した。顔を見ると何故だかからかいたくなる分、電話では極力優しくしたいのだ。中野先輩からの強烈な視線を感じたが、放置。
「俊喜?」
「うん、どうした?」
確認するみたいな真知の声は、ギャル達の耳に響く声とは違って落ち着いている。安心した。
「お母さんが、醤油を買ってきて頂きたいと仰っています」
いや、お袋はそんな丁寧な言い方しないと思うけど。それ以前に俺はパシリか?まあ、真知を一人で外に出すなと言ったのは俺だから仕方がない。
「濃口?薄口?」
「濃口だそうです」
「マジか、じゃあ買ってく」
中野先輩が信じられないものを見たとでも言うような目で見てくるのが正直うざったい。自分でも分かってる。たまに苛めるし泣かせるけど、これだけ女を甘やかすのはどうかしてる。
「よろしくお願いいたします。お昼ご飯は召し上がりましたか?」
「召し上がりましたけど?」
そう言って、じいさんと小さい真知が一緒に写っている写真を思い出した。フリフリ系と強めギャルがこそこそと何かを話していて苛々したけど、電話の向こうに真知がいると思うとそれも増幅はしなかった。
「真知、」
「はい」
「……俺の知り合いのじいさんにお前の話したら、お前に会ってみたいって言ってんだけど、今度会ってくれねーか?」
それはお前の祖父だと言いたかったけど、言わなかった。俺がわざわざ思い出させる事じゃない。会って思い出してくれるのが、一番いいと思った。
「はい、私でよろしければお会いしたいです」
「そっか、分かった。ありがとうな」
いいえ、と言う真知にじゃあな、と言ったが、真知はなかなか電話を切らなかった。いつもの事だ。だから俺は、いつもと同じ台詞を言う。
「早く切れよ、馬鹿」
「貴方からお切りになって頂いて結構です」
「やだよ、お前が切れ」
「嫌です、貴方からどうぞ」
頑固な妻。
馬鹿みたいな恥ずかしい会話だと分かっていながらも毎回これを繰り返してしまうのは、どうしてなんだろう。
「じゃあお前の口の中の温度、」
とまで言うと電話が切れたと知らせる音が鳴り響く。俺に勝とうだなんて真知には早い(俺も色々負けてるけど)。中野先輩の方を見て、ここまで言うと切るんで、と言うと、苦笑いされた。
「お前、意外とラブラブじゃん」
「俺もそう思います」
待受の真知とのプリクラが中野先輩に見られないようにすぐにケータイを閉じて、ポケットに突っ込んだ。
「前はもっと淡泊ってか、あっさりしてなかったっけ?」
「……前からこんな感じ…ですよ…」
苦し紛れにそう言うと、中野先輩が爆笑し始める。突然変異!と叫ばれて逃げたくなった。小さく溜め息をつきながら乳酸菌飲料のストローに口を付けると、強めギャルが俺の顔を覗き込んできて笑う。
「奥さんの事、好き?」
「……まあまあ」
「それまあまあじゃなくて大好きじゃん!」
中野先輩の声がうざい。ヒーヒー言いながら笑う中野先輩の背中をフリフリ系が擦る。強めギャルが俺を上目遣いで見るから、それをじっと見た。
「奥さんどんな人?」
「不気味な小悪魔」
何それーと強めギャルが笑う。何それじゃなくて事実だから仕方ないだろ、と心の中で突っ込んだ。
「あたしの事も奥さんと同じくらい好きになってよ」
「無理」
「なんで?」
「奥さんで手いっぱいだから」
えー、と言いながら強めギャルが俺の左手を触ろうとしたから、左手で頬杖をついた。
「触んな」
左手は無理。真知に嵌めて貰った結婚指輪を触る権利を持ってるのは真知だけだ。触られたくない。
強めギャルが頬を膨らませる。乳酸菌飲料を持った俺の右手に手を重ねてきた。
「何?」
「家、泊めてよ。ホテルでもいい、相手するから」
あ、もう遠回しとかクソもないんだ。なんで俺ってナンパされるんだろう。そんなに軽そうに見えるんだろうか。強めギャルに紳士の笑みを浮かべて言った。
「お前に相手して貰う為にホテル代払う気になれないんですけど」
「酷い!」
俺の手ごと乳酸菌飲料を振り回す強めギャルが面倒臭い。パックから中身が出そうでヒヤヒヤする。
「いいじゃん!あんた超イケメンなんだもん!運命じゃん!」
「どこが運命?男なんてそこら辺にいんだから他当たれよ。俺は不倫なんて嫌だからな」
強めギャルの手を振り解くと、強めギャルが口を尖らせる。ダルい。
「あたし、あんたじゃないと嫌!」
「えー、俺は真知じゃないと嫌!」
強めギャルの口調を真似しつつそう言うと、駄々をこねるように強めギャルが立ち上がった。パンツ見えそう。予想は赤。
なんで媚びを売る女って小さく飛び跳ねるんだろう。強めギャルのミニワンピは簡単に捲れてパンツが見えた。この寒さでパンツ一枚とか相当の気合が入っていると窺える。予想通りの赤だった。
「はいはい、俊喜を好きなのは分かったから、もうお家帰りなさーい!」
笑うのをやめた中野先輩がフリフリ系の腕を払いつつ言う。フリフリ系も立ち上がる。裾が捲れていた。ハート柄。白地に赤のハート柄。絶句。
「ちょい、フリフリ、来いよ」
俺がフリフリに手招きすると、あたし?と首を傾げて俺の前に立った。強めギャルの文句を言う声が聞こえる。ミサトご指名とかマジない、だって。ミサトって言うんだ、フリフリ。
「お前胸くそ悪いモンみせてんじゃねーよ」
そう言いながらフリフリもといミサトのスカートを元に戻してやると、優男!という二人の声が見事に重なった。優男とかそういうのじゃなく、あんなの公害だろ。誰もお前らのパンツなんて見たくねーんだよ。
「早く帰れよ、マジで」
「家出してんの!帰れないの!」
親マジうるさいんだもん、と強めギャルが言って、俺は溜め息をついた。
「親がうぜーのは分かるけど、俺からしたらお前らだって十分うぜーの。一発かまして男の家に居座るなんて姑息な手使うくらいなら、デリでも行って自分で稼げよ」
「そうそう、ここら辺のデリならまだ身元確認緩いから、18じゃなくても働けるよー」
俺に続いて中野先輩がそう笑顔で言うと、二人はふて腐れたような顔をして去っていった。適当に男引っ掛けて寝る事は出来るのに、デリは嫌らしい。その違いが俺には全く分からなかった。
中野先輩が俺を横目で見る。
「お前って本当女にモテるよね」
「軽そうに見えるだけじゃないっすか?」
苦笑いしつつそう言った。
「顔に似合わず意外と優しかったりするから、女もお前に寄ってくるんだろうな」
「顔に似合わず、って」
俺ってただの老け顔じゃなかった訳?中野先輩がフィルターギリギリまで燃えた煙草をコンクリートで擦り消して、俺を見ながら前を指差した。
「そう、俊喜に会ったら言おうと思ってた本題を忘れてた」
中野先輩の指に従って前を見ると、俺が殺されそうになった『noiseless』。中野先輩がポツリと言う。
「一橋って奴、捕まったらしいけどクスリの売人については黙秘してるらしいよ?」
「そうなんですか」
「そう、別にそんなの俺にはどうでもいいんだけどさ、どうでもよく無くなっちゃった、っていうか、」
言葉を切った中野先輩が、俺の目の前に一つのケータイを出してきた。ミッキーのストラップが付いているケータイ。ペアの片割れなのか、ミッキーが目を瞑って誰かからのキスを待っている。滑稽。
「なんすか、これ。誰のですか?」
ケータイを受け取って開くと、待受はNEW ERAのキャップを被った男とギャルのプリクラだった。中野先輩は二本目の煙草に火を付ける。
「その男、俺のイベのスタッフだったの。でもクスリやってたみたいでね、面子丸潰れじゃん。この世界って信用第一だから。その男に何したかは想像付くだろうけど、」
「……怖、」
思わず顔を歪めてそう言うと、中野先輩が変な事言わない、と笑った。その笑顔でさえも怖いんですけど。
「まあ、そのケータイ出てきて、面白い番号が入ってたから、俊喜に渡したら面白い事になるかな、みたいな?」
「俺って何の係ですか、」
「俊喜ってそういうの得意分野じゃん」
中野先輩は口に煙草を銜えて、俺からケータイを取った。ボタンを何度か押して、俺に画面を見せる。誰かの電話番号だ。090から始まるケータイの番号。
「通称、ワルサー」
「拳銃?」
素でそう返した俺の頭を中野先輩が軽く叩いた。地味に痛い。煙を吐き出した中野先輩は、楽しそうに歯を見せる。綺麗にホワイトニングされていて眩しい。声を落として、中野先輩が言う。
「坂城興業御用達のクスリの売人なんだって」
「うっそ、」
「マジ、直属だよ?まあ、相当の馬鹿らしいから何回もパクられてるみたいだけど」
パケそのまま手渡しらしいからね、と中野先輩が吹き出した。
確かに笑える。クスリの売人がパケを手渡しなんて馬鹿っぽい。中野先輩から再びケータイを渡されて、落としそうになって慌てて受け取った。
「まあ、頭いい売人は矢崎組についてるから仕方ないよね」
「でもそれが一番利口じゃないですか?」
確かに、と中野先輩が頷く。
「で、その男からズルズル情報出てきちゃって、俺のイベのスタッフでそのワルサーからクスリ買ってやってたのはのべ八人。嫌になるよね、マジで。一橋とそいつも繋がってるかもだし?」
中野先輩の言葉を聞きながら、ケータイを覗いた。登録されている名前は確かにワルサー。何故拳銃?それで通称そのまま。
「で、こいつを俺にどうにかしろと?」
「そう、竜が俊喜に任せとけば大丈夫だって言うからさ。そいつムカつくから、一番簡単な方法でいいから、ムショぶちこんで?ほら、竜に頼んだら、ヤクザだから別の方法で落とし前つけちゃうっしょ?俺、別に殺して欲しいとかそんなんじゃないんだよ。ただ、」
そう言葉を切った中野先輩は、ぼんやりと宙を眺める。
「俺って、結構細かい事気になっちゃう奴でさ、なんでクスリになんて手出したのかなって、気になるんだよ」
俺はそれに黙って耳を傾けた。
「女にシモネタ仕込んで、もうウザいくらいにアンアン言わせたいだけだったのかもしれないし、ただ何となくってだけかもしれないし、クスリに手を出してまで忘れたい現実があったのかもしれないし、まあ、考えてる事なんて誰にもわかんねーじゃん?腹の中なんて見えないんだから」
「はい」
「俺、逃げるのって悪い事じゃないと思うんだ。誰だって逃げたい事くらいあるし、それから逃げなかったから偉い訳じゃない。そんな自己満足な生き方俺は嫌だし、」
「誰かの涙貰う為に生きてるんじゃねーし、」
そう、と俺の言葉に中野先輩が笑った。
「だけど、逃げる方向間違ったのかな、って」
別の逃げ道くらい、この世の中には腐る程用意されてるのだ。その他の方向に逃げる為にはクスリを買う以上の金だって必要かもしれないけど、クスリじゃなくたって良かった筈だった。
「俺らの周りは、いくらでも手に届く範囲にクスリって腐る程あったじゃん?でも俺らの周りの奴らは手を出さなかった。それって当たり前の事だけど、物凄く有り難い事だったんじゃねーのかな」
「……そうっすね、」
だって、俺達にはクスリ以外の逃げ場所があったのだ。クスリに手を出す人間にはなかった、現実から逃げる場所がいくつもあった。
「悪い事したらお咎め受けるのは当然なんだよ。それで反省したらいいだけの話なんだけどさ、そのワルサーってのは、パクられてんのに同じ事を繰り返してた訳じゃん。俺はそれがどうも、許せないっつーか」
ワルサーが駄目だったのは、それだった。いつもチャラチャラしてる中野先輩が言う真面目な話は、俺の考えている事と一緒だった。
それは中野先輩に世話になった俺なら当たり前の事なのかもしれないけど、同じ考えの人がいてくれるというのは、物凄い不思議な事で、それでいて有り難い事だった。
中野先輩が溜め息交じりに言う。
「別に俺がワルサー連れて警察行ってもいいんだけどさ、俺、どんな形だとしても今は警察と関わる訳にはいかないから」
中野先輩は苦笑いで左手を出した。穂香先輩、か。
「分かりました、やれる事はやってみます」
「ありがとう、ごめんね俊喜」
「いいえ、中野先輩、穂香先輩と頑張って下さい」
うん、と項垂れた中野先輩は、大きな溜め息をつく。
「男は気合、男は気合」
ブツブツとそう繰り返して、中野先輩は立ち上がった。
「イベ、今日と明日やってるから、嫁さんでも連れて来れば?一緒だったら夜出て大丈夫なんでしょ?」
「あー、はい、」
真知、ゲーセンが得意そうじゃないから、クラブも駄目そうだと思ったけどとりあえず頷いた。
「じゃあね、俊喜。それ片付いたら、なんか奢ってあげる」
「絶対っすよ」
「うん、絶対な?」
中野先輩はそのまま爽やかに去っていった。
最大規模の広域指定暴力団の若頭から褒められる俺って何?竜さんのチャラい笑顔が一瞬頭を過った。
風呂から上がると、真知が濡れた髪をそのままにテレビの前で正座していた。その右隣に座ってテレビを見ると、お笑い芸人がネタを披露していた。テレビの中から上がる笑い声とは対称的に、真知は無表情のまま。
あれから実家に帰って、暇だからと店の手伝いをしていた。残りのまかないを食って真知と二人でアパートに帰ってきて、真知を先に風呂にいれた。いつもの事だけど。
俺が実家から持ってきたテレビを、真知はよく観るようになった。朝はニュース、夜はお笑い番組。真知はお笑い番組が好きらしい。笑わないけど。
「髪、濡れたままだと風邪引くって言ってんだろ?」
そう言いつつ、真知の首にかかったタオルを頭に被せて半ば乱暴に髪を拭いてやると、申し訳ありません、と頭を下げられた。風呂上がり真知って軽く兵器だ。同棲してて手を出していない俺を褒めて欲しい。
「真知、お笑い好きだよな」
「はい、人を笑わそうと真剣に作られたネタを見ていると心が暖まります」
「そうっすか」
……そんなお笑いの見方もあったのか。ちょっと変わった真知の観点は面白い。
タオルを首にかけてやってから前髪を掻き上げてやると、たまたま上目遣いの真知と目が合った。初の上目遣い。口から心臓が出てきそうになる程に俺の何かが燃えた。
「か、髪、濡れたままだと風邪引くって、言ってんだろ」
何故か俺の口調を真似した真知が、俺の首にかかったタオルで髪を拭いてくれた。何この生物。触り方があまりにもおどおどとしていて、あんまり拭けてる感覚がしないのは放っておく。
こうしてると、闇医者に入院してた時の事を思い出す。今考えたら、あの頃の方がよっぽど初々しかった。どこかに触れてないと、真知も俺も不安だった。もう二度と触れなくなるんじゃないかと、本気で思っていた。
タオルの隙間から真知を見ると、真知と視線が絡まった。掴まえた。
「真知、太ももの、もう消えた?」
「え?」
真知が俺から手を離して、首を傾げた。俺はタオルを首にかけて前髪を掻き上げると、真知と同じように首を傾げる。
「太ももの内側の痣、消えた?」
「っ、なんで知ってるんですかっ?」
「は?」
目を見開いた真知に、思わず眉間にシワを寄せた。何を言ってんの、この子。
「知ってるも何も、俺が付けたんじゃん」
「え?」
本気で訳が分からなさそうな真知の顔を覗き込んで、言った。
「キスマーク、俺が付けたの忘れた?」
「き、きすまーく?」
「そう、スカートのあれだよ、」
視線を泳がせる真知が、何かを言いたそうに口をパクパクと動かす。
「だ、だって、あれはっ!」
「俺、吸ったじゃん?吸うと付くんだよ、その痣、」
「っ!」
驚いたように肩を揺らした真知に、思わず吹き出した。何こいつ、キスマークも知らなかったのか?
「お前、もしかしてどっかでぶつけたとでも思ってた?」
図星だ。真知が顔を赤くする。ザ・純粋。
「吸うと付くなんて、知らな、」
「だろーな。お前、馬鹿だな」
馬鹿で可愛いな、と口から滑り落ちそうになって口を閉じた。口元を手で覆って隠す真知の茶色い瞳が俺を見ないように左右を行き来している。
右手首を真知の口の前に出すと、真知が一瞬俺を見た。
「吸うと付くけど、一回やってみれば?」
「っ、」
「試せば納得するだろ?まあ、俺以外で試したら、俺怒るけどね」
ほら、と手首を出してやると、真知が口元を覆っていた手を離して、俺の腕を恐る恐る掴んだ。
「強めに吸うと付くから」
「す、吸う?」
「そう」
真知がキョロキョロしながら俺の手首に唇を付けた。それだけでぞわっとして、手首にした事を心底後悔した。
俺の体で一番、俺が感じる所。俺は真剣に馬鹿だったらしい。
「っ!」
真知が何を思ったのか舐めてきやがった。多分、あの時俺が吸う前に舐めたのでも思い出したんだろう。俺しか知らない女は全部俺の真似をしてくるのだ。
俺が思わず息を詰めると、真知が肩を揺らして俺を見てくる。
「……見んな、」
少し感じてしまった自分が恥ずかしい。隠れたい。真知から目を逸らすと、また舐められた。駄目だ、この女マジの天然小悪魔だ。
真知に視線を戻すと、真知が目を瞑って俺の手首に吸い付いた。少しだけチクッとしたと思ったら、唇が離れる。俺の手首を見た真知が一言。
「付きました」
「……ですよね」
からかってやろうと思って遊んだらこの様だ。翻弄されたのは俺の方だった。
怖いなんて言葉じゃ足りないくらい怖い。どっと疲れた。これだけの事でなんでこんなに疲れなきゃならないんだ。
酷く感心したように、真知が俺の手首を凝視している。それがどこか居心地が悪くて、真知から手首を離して見ると、キスマークがきちんと付いていた。
「これ、キスマークな。俺以外には付けるなよ?」
「何故ですか?」
真知は首を傾げた。それを聞いちゃいますか、君。
「これ、ただの独占欲だから。俺は真知のものだって言ってるようなモンだし」
な?と言うと、真知は俯いた。視線の先は多分、太ももだ。
「そう、俺の独占欲」
真知が俺を見た。
「キャー!俺が照れる!」
とふざけて気持ち悪い裏声を出しながら真知の顔を覗き込んで、赤い顔の真知に笑う。真知は予想通り視線を泳がせる。
「照れた?」
「照れてませんっ、」
「あっそ」
笑う顔とは正反対に、冷たく吐き捨てるようにそう言って、真知の唇に唇を重ねた。
柔らかいそれを確かめるように唇で挟むと、真知の手が恐る恐る俺の首を触る。目を閉じて、ひたすら真知の唇の感触だけを求めた。真知の首を手で撫でる以外は、どこも触らなかった。
触らなかった、というより、触れなかった。たった二人で、密室で、誰も入ってこないと保証されたアパートの一室で、俺の理性は崩れかけだった。
真知を待つと決めたから変な気分になりたくないのに、キスはしたい。俺の勝手な考えだった。
唇を離して目を開けたのは、真知とほぼ同時だった。鼻先が少し触れていて、唇は後少しで再び重なりそうな距離。
「キス、慣れた?」
「慣れません」
赤く染まる頬を撫でたら、熱かった。
「俺には慣れた?」
「もっと慣れませんっ」
もう結婚して八ヶ月なんですけどね、と思いつつ、昼間のギャル達を思い出した。あの汚い付け睫とは真逆の真知の天然の長い睫毛を見て、ぼんやりと放つ。
「お前って、やっぱり可愛いな」
「っ、」
顔も可愛いけど、反応も、気持ち悪い所も可愛いと思うのは、俺がこいつに惚れすぎてるからなんだろうか。
少し後退りして顔を隠した真知が、お世辞はいいです、と謙遜する。本当に自覚してないんだろうか。馬鹿な女。




