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!!!!  作者: 七瀬
第三章 不可視
27/34

クソみたいな朝と警察署




「……き、すき、」


微かに聞こえた、掠れる声。


唇を伝う何かが離れて、それ以上に柔らかいものが触れた。それもすぐに離れて、訳も分からず寂しくなる。


次の瞬間に香ってきた強烈なイソジンの匂いに目を開けると、綺麗な女がいた。目よりも下をじっと見つめている女は、俺に気付かない。唇を擦る感触に、女の手を掴んで離した。


「っ!」


「…まち、なにしてんの」


寝起きの掠れた声が、やけに響く。目を見開いた真知が手を引っ込めようとするのを無視して、手元を見る。


と。


「なにやってんだよ」


イソジンを含ませたティッシュが、ベッドの上にころりと転がった。忙しなく泳ぐその目をじっと見つめると、自分の口からイソジンの匂いがする。やられた。


薄く笑うと、泳いでいた目が止まる。


「おはよ、真知」


「お、おはようございます」


「…なにやってんの?告白して、キスして、消毒?」


「っ、」


逃げようとする両手首を掴んで、ベッドに縫い付けた。そのまま跨がって、顔を近付ける。


「俺もお前が好き」


「っ、起きてたんですかっ」


「まあ、起きた、みたいな?」


真っ赤になった耳を舐めると、体が揺れる。


「っ、だ、だめ、」


「お前が悪いって分かってる?昨日あんだけキスしたのに全部なくなったじゃん」


軟骨を強めに噛んだら、真知から声が洩れた。


「痛いの好き?」


「好きじゃ、な、」


「でも俺の事は好きなんだろ?」


朝からぶちかますナルシスト発言に、自分で吐きそうになった。歯形がついた耳に軽くキスして、顔を見る。


上気した頬に笑いを噛み殺すと、唇を寄せる。赤い唇がそれから逃げる。


「駄目、折角消毒したのに、」


「でもお前は消毒してないんだろ?それって不公平じゃね?」


「っ、」


「俺はお前が好き、だから、お仕置き」


AVかよ、そう思いつつ、唇を重ねた。下唇をわざと痛みを感じるくらいに噛むと、真知の体が跳ねる。やっぱり痛いのが好きらしい。


でも俺はあんまり好きじゃないから、下唇を舐めてやると、震えられた。よく反応する体って、損だと思う。俺からしたら得でしかないけど。


唇を離して、一言。


「舌、出せよ」


真知は躊躇いながらも口を開いた。その先に見えた赤い舌に、目が犯される。ゆっくりと出てくる舌に、食い付いた。


「っ!」


もう最悪。キスを許されると、制御が利かなくなる。何回キスしたら、俺は満足するんだろう。足りない。全然足りない。


忘れろ、夢中になればいい。もう俺だけしか見えないような女になればいい。そんなの無理だけど、貪欲な俺はそう思い続けるしかない。


「あ、」


頭が燃えるように熱い。逃げられないのは俺で、囚われているのも俺だ。見えない呪縛に追い立てられる。


全部この女の物になればいい、なんて。


その瞬間、アラームが鳴った。煩いそれが耳をつんざいて、仕方なく唇を離す。


「…なんて顔してんだよ」


「っ、」


潤んだ目も、上気した頬も、口の端から溢れた唾液も、どうかしてる。頭に一気に熱が溜まって、起き上がった。


ぐちゃぐちゃにしたい。どう考えても頭がおかしいとしか思えない破壊願望に、真知から顔を背けた。


ぐちゃぐちゃにして、めちゃくちゃにして、壊してやりたい。理性も剥ぎ取って、全部壊れればいい。優しくしたいのに、優しく出来なくなる。


考えるなと思えば思うほど、それに苛まれる。頭の中で鳴る警報と被るアラームを止めると、部屋に静寂が漂った。


その静寂を破ったのは、真知だった。真知が起き上がったのか、衣擦れの音がする。


「あの、」


「……何?」


「す、好きにしていいなら、一つお願いが、あります」


真知に背中を向けた俺に、真知の表情は見えなかった。それを想像しないようにしながら、何?と返事をする。


「あの、だ、抱き締めて、いいですか、」


壊される。俺が壊す前に、真知に壊される。無意識の破壊神の声は、おどおどとしていた。


「許可なんて要らねーから好きにしろ」


好きにしてくれ、もう。勝手にしてくれ。一々そんな事を毎回聞かれてたら、俺がおかしくなる。


衣擦れの音と一緒に、気配が近付いてくる。恐る恐る、とでも言うように腹に回ってきた細い腕。背中に触れる柔らかい感触は、真知の頬だろうか。


真知の左手を握ると、結婚指輪が重なった。第二関節のひび割れが治りかけの手は、まだカサカサしている。


この女に背中から抱き付かれるなんて、俺は考えた事すらなかった。それは俺の努力の賜物なのかなんなのかはよく分からないけど、泣きたくなる。


「っ、我が儘を言って申し訳ありませんでした、」


すぐに、あっさり離れた真知が、ベッドを降りていく。無数の痛みを抱える女の背中が、やけに愛しい。愛しくて、苦しい。


風呂場の方に消えていく真知の背中に、小さく息をついた。その息が、震えている。


寝てる最中に、バレないように消毒するなんて、よっぽど菌を恐れている証拠で。それを想定に入れていなかった俺をぶん殴ってやりたかった。


でも、落ち込んでいる暇はなかった。真知が風呂に入っている間に、飯でも作っといてやろう。


俺はベッドから降りて、キッチンに向かった。下がってくる前髪を掻き上げると、真知の移り香。これじゃあ、本当に俺が真知のものだ。


風呂場の方からシャワーが流れる音がして、耳を塞ぎたくなる。考えたくもないのに邪な事ばかりが頭に浮かんで来るから、それを振り払うように、真知の両親の仏壇のある部屋に入った。


仏壇の前の座布団に座ると、供え物と一緒に煙草が置かれていた事に初めて気が付いた。親父さんが吸っていた煙草だろうか。フィルムさえ取られていない、水色のハイライト。


ソフトケースのそれを開けて、口に銜えた。蝋燭に火をつける為に置かれていたマッチで火をつけると、口に苦味が広がる。重たい。


肺に入れると、ぐらりと揺れるような気がした。


「……あんたらの娘、どうなってんだよ」


返ってくるはずもない返事を、無意味に待つ。もう一口煙草を吸い込んで、吐き出した。


「好きで、苦しくて、死んじまう、」


掠れた声が、部屋に響く。あの女に殺される。それなら本望だけど、そしたら真知はまた、閉じ籠もる。


「……なんつって、」


線香の代わりに煙草を立てて、部屋を出た。とりあえず、飯だ。真知は今日も、俺の実家で仕事をする。まだ真知はきっと、俺に料理を作れない。


腰で穿いた闇医者の寝間着は、真知が羽塚に持たされたものらしい。無意味に水色でストライプ。パジャマっ子も真っ青。


キッチンに入って、冷蔵庫を開けた。それを閉じて何となく冷凍庫を開けると、思わず笑った。


「可愛い女」


スイカバーが三つ、中に入っていた。


朝飯を食って真知と二人でマンションを出ると、太陽が眩しかった。今思えば二週間ぶりの太陽だ。なんだか病人っぽい自分に溜め息をつく。


特に何かを話した訳でもなく、何でもない話を繰り返していると、いつの間にか家についていた。何だか物凄く懐かしい感じがする。中学の時に家出をして帰ってきた時の感覚と酷く似ていた。


後家まで100メートル、というところに差し掛かった時、家の前に車が止まった。黒のセルシオの30後期。人の家の前に横付けするとはどういう了見だ。


「……車が止まりましたね」


「そうっすね」


真知が訝しげな表情で実況したものだから、それに頷いた。どこかで見た事があるような、と首を傾げながら真知の手を引いて歩く。まだ朝が早いからか、冬特有の透き通った空気が喉に突き刺さるようだった。


車はエンジンをかけたまま止まっている。降りる気はないらしいがガソリンが勿体ない。もっとも、冬に車の中にいてエンジンを消したら寒くて死ぬけどな。


「真知、先に中入ってろよ」


「え?」


紫色のマフラーに埋まった顎を出した真知が俺を見上げる。マフラーはナミとタエからの誕生日プレゼントらしい。


「あの車のやつ、多分俺の知り合い」


「あ、そうなんですか?では、先に入っています」


「おう」


と、手を離そうとして、引き寄せた。ただ手を離すだけなのに、名残惜しい。茶色い目が太陽を浴びて光っている。それを覗き込むように背を屈んで、軽くキスした。


離して小さく笑うと、真知の目が泳ぐ。


「まだ照れんの?慣れろよ」


「な、なななれませんっ」


盛大な吃り。距離を離そうとする真知を引き寄せて、耳元で言う。


「昨日の忘れた?」


「っ!」


顔を真っ赤にした真知に肩を押されて、あっさり離れた。真知は逃げるように家の中に入っていく。あーあ、面白い。


入口のドアが閉められたのを確認してから、車のトランクを軽く叩いた。


「誰っすか?店の前だと邪魔なんですけど」


そう言った時、助手席の窓が開く。そこを覗き込むと、真っ赤に充血した目と目があった。レッドアイ、なんて酒があったのを思い出した。ビールとトマトジュースだったような、そうじゃないような。


そこにいたのは池谷で、ハゲ散らかった頭に残る少ない髪の毛がエアコンの風でふわふわと揺れていた。


何年も前から同じ、蛍光グリーンのダサいウインドブレーカーが眩しい。仏頂面で俺を見る池谷が、世界の終わりを見たとでも言うような目をしている。


「……俊喜、俺への嫌みか?」


「池谷だと思わなかった、ごめん」


俺の新婚のイチャイチャは池谷には辛いものがあったらしい。素直に謝った。溜め息をついた池谷が、座席の背凭れに背を預ける。


「何回もこの車でここまで送ってきてやったの忘れたのか」


「昔の事なんていつまでも覚えてらんねーよ」


「薄情者!なんでお前の嫁さんがあんな可愛いお嬢さんなんだ!俺があの子の親だったらなぁ、お前になんて死んでもくれてやらねーよ!」


「朝からうるせーよ」


血走った目をくわっと開いていきなり怒鳴った池谷に冷静に突っ込むと、池谷がわざとらしく咳払いする。キモいんだよ、さっさと全部禿げろ。


「……警察署に来るんだろう、乗れ」


「え、いいの?」


「一応、怪我人だからな」


意外と優しい池谷に鳥肌を立たせながら、ちょっと待っててと言った。店のドアを開けると、お袋がこっちを見る。テーブルの上から椅子をおろして、腕を組む。


「…結構ピンピンしてんじゃないの?まあ、まっちに毎日様子聞いてたけど」


ニヤニヤと笑うお袋の視線から逃れるように舌打ちをすると、お袋の眉間にシワが寄った。ダルいからスルーする。


「まあな、あ、これからちょっと警察署行ってくるから」


「は!?またあんたなんかしたの!?」


「してねーよ!」


ちょっと用事、と言うと、お袋がふーん、と言った。一々ムカつくババアだと思ったけど、落ち着いて声を出した。


「その用事で、まあ、……真知の事一人で家から出さないでくんねーか?」


どう言っていいのか分からなくて、尻窄みになってしまった。お袋に頼み事をするなんて最悪だけど、お袋以外に頼める奴がいないから仕方ない。


するとお袋が、首を傾げて表情を窺ってくる。ウザい。


「別にいいけど。あんた、また変な事に首突っ込んでるんじゃないだろうね?」


「違う」


本当は突っ込んでるけど。いや、巻き込まれたに近いけど。


「そう、まっちが危ない目にあったら、承知しないからね!」


分かってるよ、と返事をして、家を出た。車の助手席に乗り込むと、昔嗅いだ記憶のある匂いに包まれる。


ルームミラーに引っ掛かっているマリファナの形のカーコロンは、前から変わっていないようだ。それにしても、池谷のメタボ腹は苦しそうだ。


「助かったよ、ガソリン代が浮く」


「…お前そんなに貧乏だと嫁さんに嫌われるぞ」


車を発進させながら池谷が放った台詞にはノーコメントでいる事にした。一応シートベルトを付けて、座席に凭れた。窓から見えるドブみたいな地元の街の朝は、案外爽やかに見える。


それから目を逸らして池谷の暑苦しい横顔を見ると、だいぶ疲れているように見えた。


「だいぶ疲れてんじゃん、事故ったりすんなよ?真知が泣く」


「お前はそんなに俺をいたぶりたいのか?……まあ、署にガキが詰め掛けてもう二日も寝てないからな、眠くて仕方ない。時夫には殴られるし最悪だよ」


「そりゃお疲れ様でございました」


他人事みたいに言いやがって、と池谷がブツブツ言う声がラジオのテンションの高い女の声に掻き消される。


「……一橋シュンは、養護施設で育ったが、中学二年の夏にそこを飛び出して、アパートに住んでいた。そして中学三年の9月にシャブと窃盗の常習で捕まった」


やっぱりクスリか。池谷の溜め息混じりの声は疲れを含んでいた。無言で頷く。


「おはよう逮捕って奴だ。朝、部屋に入っておはようするのはお前も知ってるだろ?」


「……俺、全部現行犯だから、おはよう逮捕は経験してない」


そうだったな、と池谷が思い出したように言った。誰がおはようされるか。腕を組むと、結婚指輪が光る。俺って、池谷からしたら嫌みな人間なんだろう。


その時、と池谷が続けて、そっちを見た。赤信号にぶつかって、車が止まる。


「その時、一橋シュンは人と一緒だった」


「ふーん」


女と一緒に夜を過ごしておはよう逮捕なんて、どんなドラマだ。女は号泣、シュンにどうして、と問いただしている様子が自然と頭に浮かんで、苦笑いした。


池谷が溜め息をつく音が聞こえた。


「男だ」


「は?」


「一橋シュンは、男と一緒にいた。全裸で二人で、ベッドに寝てたらしい」


思わず黙り込んだ。それに常識なんてないのだ。


ただ俺は異性愛者だから女が浮かんだだけで、同性愛者にとっては男。個人の違いでしかないけど、たったそれだけの事で、話は変わってしまう。


「シュンが、同性愛者、」


「そうだったらしい。お前は知らなかったのか?」


「知るかよ、たった一ヶ月遊び仲間だっただけだ」


多分、俺が知っていたのは、シュンのほんの一部だけだったんだろう。思えば、自己紹介くらいしかしていない気がする。俺が俊喜で、あいつがシュン。トイレの壁にスプレーで絵を描くシュンの好きなタイプなんて、知らなかった。


「一緒にいたのは一つ年下の少年だ。真面目そうな雰囲気だったらしい。一橋がシャブの常習犯だった事を知らなかったらしいし、尿検査でも薬物反応は出なかった。無罪放免。一橋は少年院に入って、少年は当たり前にお咎め無しだ。まあ、手紙のやり取りをする程の真剣交際だったようだけど」


「そっか、」


俺の知らないシュンと、俺の知らない愛のハナシ。乗せられる名前は同じなのに、相手の性別が違うだけで変わる世の中の不思議だ。


青信号に変わって、車が静かに滑り出す。


セクシャルマイノリティ、少数派は少数派でしかないという現実。窓の外に裏ビデオを扱っている店が入ったビルがある。その裏ビデオだって、開けてみなければ異性間か同性間かなんて分からない。


「その少年の名前は、菊地昭伸」


「は?」


「一橋と同じ中学の後輩で、一橋の恋人だ」


信じられなくて、池谷の横顔を見た。眠らないようにキシリトールの強いガムを口に入れて噛みだした池谷は、俺の視線に気付かなかった。


菊地昭伸、俺を刺したガキ。それがシュンの恋人。菊地が俺を刺したから、シュンは俺が地下に潜る事を知っていた?でも、どうして菊地が俺を刺す必要があったんだろうか。


それに、何故、富田紗英を追っていたんだろうか。


確かに、清春の名前を出した時の菊地の反応は異常だった。ろくに人を殴った事も無さそうな人間が、本能だけで拳を振り上げる瞬間を、俺は初めて目の当たりにしたのだ。


「俺が調べられた、というか、知っているのはそれだけだ。一橋がお前を敵視するような事柄は、警察資料からは全く出てこなかった」


「そうか」


じゃあ、警察なんか絡まないもっと個人的な所なのか?



何でだ?俺がシュンに何かを言ったとか?どうして富田紗英を追っていた菊地が、見ず知らずの俺を刺したんだ?


「ただ、」


池谷がそう言って、俺はそれを聞き返した。池谷はガムを噛み締めながら、ハンドルを切る。警察署の中に、車が吸い込まれていった。


「清春の親父がやった、一族根絶やしを知ってるよな?あれの生き残りが、一橋シュンだ。両親も親戚も清春の親父の計画で殺されていた」


意外すぎる繋がりで頭に浮かんだのは、呆気なさすぎる事。駐車場に車を止めた池谷に吐き出す。


「それって、警察の捜査ミス、って事なんじゃねーの?」


「………」


「清春の親父さんを殺したのはシュンだった。でも、その証拠が見付からなかった。その後にシュンはシャブで捕まって、清春の親父さんの事件に対しての言及がなかった。清春の親父さんが殺されたのはシュンが捕まる半年も前の話で、ガサ入った時にはもう、当たり前に凶器なんて残ってなかった。」


俺が口を閉じると、池谷が盛大に溜め息をついた。眉間に深く刻まれたシワが更に深くなる。


「……お前って、変に頭の回転だけはいいんだな。刑事にでもなったらどうだ?土木作業員よりもよっぽど給料は高いし、将来安泰だぞ」


ヤクザの次は刑事かよ。給料で少し心が揺れたけど、結局警察だって組織だ。池谷から目を逸らしつつ、シートベルトを外した。


「真知からいつ死ぬか分からない仕事についてほしくないって言われてるから、無理。」


池谷を見下すように紳士の笑みを向けると、池谷が冷めた目で俺を見た。


「……新婚はいいよな、お前朝帰りだもんな、ふざけんなよ」


「黙れよエロジジイ。次に朝帰りとか言ったらお前のデスクに襲撃しに行くからな。椅子にトリモチ塗りたくってやるからな。それかカレー塗っとくからな、漏らした的なノリで」


朝帰りって言ったって、こっちは手出そうとして泣かれてる訳だ。まあ、自業自得なんだけど。池谷はただかけていただけだったシートベルトを外す。腹が大きすぎて閉まらないらしい。


「そしたら公務執行妨害と器物損壊とストーカー行為で逮捕するからな」


「なんでストーカー?」


「デスクまで来るなんてよっぽどの執着心だろう。よってストーカーだ」


池谷と沢田の同類具合に溜め息をつきながら、車を降りた。


もし仮に、さっき池谷に言った事が事実だったとして、菊地はどうして富田紗英を追っていたんだろうか。


そこは普通、清春だ。親父さんを殺したなら、次は普通に清春なんじゃないだろうか。一家根絶やしを繰り返すなら、そうなる。大体、清春の家族は親父さんだけだったから、清春は天涯孤独の身だ。清春を殺れば、一家根絶やしは完成する。


でも、清春は今死んだ事になっている。それを知っているのは多分、俺を含めた矢崎組内通者と矢崎組の人間だけ。


それ以前に、清春と富田紗英の関係を菊地は知っていたのか?清春が富田紗英の両親を殺した事を菊地は知っていたのか?


どうして死んだ筈の清春が惚れた女を殺そうとする必要があるんだ。どう考えても、おかしい。


後ろから追ってきた池谷に追い越されると、警察署のドアが開いた。そのまま中に入ると、親の迎えを待つガキがソファーに座っている。


それにしても、結構な人数だ。これだけのガキが傷害で来たら、警察署が回らなくなるのも当たり前なような気がした。


睨み合うガキとガキの間に座るおっさんは、きっと酔っ払いで保護でもされたんだろうが、酔いが冷めたら最悪だろう。朝なのにまだ酔っ払うおっさんに手を合わせたい気分になっていると、ガキの一人と目が合った。


途端に視線を逸らされて、シュンの方の人間だと言う事は何となく理解した。派閥なんて作って敵対して、何が楽しいのかさっぱり分からない。俺は基本的に平和主義の紳士だから、分からない。


スタジャンのポケットに手を突っ込むと、ケータイが手に触れた。その待受画面の真知とのプリクラを思い出しながら、池谷の後に着いていく。


真知と居る時とそうでない時のギャップが激しすぎる。廊下さえも埋め尽くす、まだ事情聴取が終わっていないガキの列の間を歩いていると、気が遠くなりそうだった。


「緒方が大人しく出頭かよ」


ぼそりと小さく聞こえた声に、思わず反応した。出頭じゃねーよ、と思いつつ足を止めて振り返ると、廊下が途端に静まり返る。


「今の誰が言った?」


俺の言葉の返事はない。


「おい、誰だよ。今なら直接聞いてやるから言えよ」


「俊喜、やめろ」


池谷に肩を掴まれて、それを振り払った。



すると、一人のガキが手を上げる。


「俺だけど」


汚いまだらな茶髪の、ホスト系の格好をした細いガキだった。左の瞼が紫色に腫れている。そのガキの前に立つと、ガキは睨んできた。すっごい目。


「俺、派閥なんて知らねーんだけど」


そうにっこりと笑ってやると、胸ぐらを掴まれた。おお、威勢がいい。


「あんた、結婚したか何だか知らねーけど、腰抜けになったな!シラ切りやがって、馬鹿じゃねーの!?」


腰抜けって、俺は元々腰が入ってた訳じゃないんだけど。ダンサーじゃないし。そう心の中で突っ込みながら、ガキの手首を掴んだ。


「派閥なんて勝手にでっち上げられて迷惑してんのはこっちなんだよ」


「っ、」


「お前らのトップはどうした?こんだけの騒ぎ起こしといて出頭しねー方が馬鹿なんじゃねーの?」


ガキが手を離した拍子にスタジャンから真知の匂いが香る。不気味な線香は俺のオアシスの匂い。あ、俺めちゃくちゃ馬鹿っぽい。


「なんで敵視されてんのかさっぱり分からないんだけど、シュンはなんて言ってんだ?理由は?」


「………」


「口があるんだから有効活用しろよ。俺だって警察署で人を殴れる程若くねーし、話そうと思ってお前と向き合ってるんだけど」


スタジャンのポケットに手を戻すと、睨まれた。話にならなそうだ。


「じゃあ、シュンはどこにいんだよ」


首を傾げてそう聞くと、視線を逸らされる。もう埒があかない。ガキから目を逸らして、池谷の肩を押した。


「行こーぜ、ダルい」


理由もないシュンの適当そうな言葉を真に受けて喧嘩するガキに聞いた俺が馬鹿だった。


これだけのガキがいても、俺の知った顔が一つも見当たらないって事は、シュンの方のガキが緒方派を潰すという名分でそこら辺を引っ掻き回して歩いてるだけだったという事なのかもしれない。


目の覚める蛍光グリーンのウインドブレーカーの背中を追っていると、一つの部屋に通された。俺が時夫達と、随分前に先輩の派閥か何かに入っていた時に、解散式で使った部屋だ。


中にいたのは見知った顔が半分に知らない顔が半分。一触即発みたいな空気が流れる異様な空間の中で、悟がケータイゲームをする音だけが響いていた。


とりあえず久人の隣に腰を降ろすと、要が立ち上がった。おはようございます、なんて馬鹿デカイ声が耳をつんざく。要の顔には無数の痣があって、一対一の喧嘩じゃなかった事が窺えた。


久人が俺の耳元で何かを言っているけど、何を言ってるのか分からない。多分、腹へったと早口で言っていた。溜め息をついた久人が、テーブルを強く叩く。


「あのさー、なんでこんな空気になるのか分からないんだよね。女紹介してやるってずっと言ってんじゃん。仲良くしようよ」


「さぞおモテになるんだろうよ、久人君!イケメンボーイズの俺達が紹介しなくたって女の一人や二人いるんじゃねーの?な、脚フェチそうな君!」


「殺すぞ」


久人と時夫の冗談が一切通じなかったらしい。時夫曰く『脚フェチそうな君』がドスの効いた声を出す。


その隣にいた和製某有名ベーシストみたいな容姿をした奴がウザったく中指で俺を指差してきた。


「君ー、緒方?」


「まあ、そうかなぁー」


話し方を真似してみると、『脚フェチそうな君』に舌打ちされた。酷い。


「俺、彼女が妊婦なの、心配だから早く帰りたいの。早くその一橋って人呼んでよ」


悟がケータイの画面を見たままにそう言って、『脚フェチそうな君』の隣の某有名アクション俳優に物凄く似た奴が派手な音を立てて椅子から立ち上がる。煩い。


それに悟がにやりと笑った。嫌な予感がする。


「いいでしょ?ヤりまくりで妊娠」


「悟、お前ちょい黙れよ」


「チェン君は好きな体位とかある?」


「あのさ!やめろっつってんの!」


何がチェン君だ!失礼だろうが!そいつにじゃなく、某有名アクション俳優に失礼だろ!なんで下ネタで仲良くなろうとしてるんだ。サリナと同類じゃねーか。俺の制止に、悟は冷たい目でこっちを見た。なんだその目。



チェン君の隣にいたインテリっぽい奴が溜め息をついた。いつかの俺がかけていたようなノンフレームの眼鏡のブリッジをナチュラルに中指で上げる。なんか物凄く殴ってやりたい。


「まずさ、話し合いをしようよ」


「俺が来る前に話し合いを始めてて欲しかったんだけど」


殴りたいのを堪えて当たり前の事を言うと、インテリが少し目を見開いてわざとらしく驚いたような表情をした。


「ああ、それは悪かったね。だけどこちらの事情は一切口外出来ないんだ。ご了承を頼むよ」


「インテリ死ね!滅びろ!」


時夫が明らかに低能そうな言葉をインテリに浴びせる。それは愚弄と受け取ってもいいのかな、なんてインテリの台詞に苛々した。


「俺が聞きたいのは、なんでシュンが俺を敵視してんのかって事だけなんだけど。理由も知らないのに喧嘩売られるのって物凄く苛々すんだけど」


「緒方君、君は理由なんて気にしないような人だと思ってたけどそうじゃないんだね?」


「何お前、俺を馬鹿にしてんの?」


「そうじゃないんだ、ただ理由なんて後付けに過ぎない。シュンは本能で動くから」


なんだそれ。本能って動物か?本能で動くのはセックスの時だけにしなよ、と俺の心を読んだような台詞を悟が口にした。お前は黙れ。


「で?その本能が俊喜にムカついてるってか?悪いんだけどさ、俺、大学受験控えてんだわ、とりあえず帰っていい?」


久人が赤い髪を掻き上げた。自分に酔いまくってる顔をしている。大学というだけでインテリに聞こえるという勘違いをいい加減やめてほしい。俺も大学というだけでインテリだと思ってるけど。


「久人、大学はいいから話聞くぞ。なんかちょっと頭が良くて眼鏡かけてる淫乱な女とか紹介してくれませんか」


「……お前そんなに女に飢えてんの?」


真剣な表情でインテリを見つめてとんでもない事を聞き始めた時夫を苦笑いで見ると、軽蔑の眼差しを向けられた。


「新婚のお前に本気の女が出来ない俺の苦悩が分かるか?愛したいんだよ!体だけなんてもう嫌だ!」


「ここはお前の悩みをぶちまける場じゃねーんだよ!そんな話を初対面の奴の前でするんじゃねーよ!」


と言うと、時夫が椅子から立ち上がる。比較対象が出来て分かったけど、チェン君の背は低めだった。


「お前はいいよな!いつもと違うシャンプーとまっちの匂いプンプンさせやがって!さぞ熱い夜を過ごしたんだろうな!」


「は!?」


「燃えねーんだよ!言葉攻めしてもよだれ垂らされても、そこに愛がなかったら何も燃えねーんだよ!」


「頼むよ!お前とりあえず黙ってくれよ!」


と、怒鳴ると、時夫が金髪を乱しながらチクショーと叫んだ。そこまでなるまで話を聞かなかった俺が悪かった。すいません。


悟が時夫を慰めていた。昨日荒れてる感じだったのはそのせいなのか?そう思うと物凄く申し訳ない気分になる。


それ以上に、馬鹿ばかり集まって話にならない。溜め息をつきながら前髪を掻き上げると、確かに真知のシャンプーの匂いがした。俺ってとことん嫌みな奴だ。


「で、なんでシュンは出張ってこない訳?」


暫くピアスを入れていない左耳を触りながらインテリにそう投げかけると、憎たらしい程の胡散臭い笑みを浮かべられた。


「君との個人的な話し合いが必要だからだそうだ」


「ここまで大勢の人間を巻き込んでおいて個人的って、無責任過ぎるんじゃねーの?誰か死んでたらシャレになんねーぞ」


「緒方俊喜君が人の死を気にするなんて予想外だったな」


「俺をどんな人間だと思ってんだよ」


ふざけたように言ったインテリに本気で返すと、インテリは酷く愉しそうに笑った。


「君のお嫁さん、緒方真知さんと言ったね」


……なんでこいつが真知を知ってるんだ。そう思いつつ、そうだけど、と言った。自分でも驚くほどに無愛想な声だった。


頬杖をついたインテリが、俺をじっと見た。それに負けじと目を見ると、インテリに目を逸らされる。


「彼女は殆どと言ってもいい程、…二日に一度の割合で朝、君のお父さんのお墓参りに行っている。最低5分は手を合わせているらしい」


「は?」


「仕事を終えると、君のお母さんと二人で店の前の掃除をし、君の見舞いに行く。帰りは矢崎組の送りがついていて、途中で必ずアイスを買う。毎日違う矢崎組の送りの人間にスイカバーを奢っている」


「お前ら、真知をつけてたのか?」


心臓はバクバクと音を立てていた。それを感じさせないように、平静を装う。俺さえ知らない真知の生活が、初対面の人間に暴かれるなんて、気持ち悪い。


清春から付けられているという話も聞いていたけど、狙いが真知だとは思っていなかった。


俺の言葉に返事をしないインテリは表情一つ変えない。


「旧姓、月岡。……いや、長原?」


「っ、お前っ」


焦って立ち上がると、インテリが歯を見せてにっこりと笑う。なんでこいつが、真知の旧姓も、それ以前の名字まで知ってるんだ。


「君の唯一の弱点だからと思って調べてみたら、びっくりしたよ。君の嫁があの有名政治家の娘だったとは驚いた」


「ふざけんな、お前っ、」


「俊喜!やめろっ」


インテリに伸ばそうとした手を久人に止められた。その手を払って椅子に座ると、やけに派手な音が鳴る。


「何?月岡って、長原って?有名政治家?」


悟の声に、息が詰まった。お袋とサチコ以外に、真知の本当の事情を知っている人間は居なかった事を思い出した。表面だけは知っている要が黙り込んでいて、苦し紛れに、口を開いた。


「…なんでもない、」


言えない。まだ俺には、真知の事情を軽々しく口にできる程の度胸がない。お袋に話した時でさえ、怖かったのだ。真知の過ごした六年間を、口にするのが、怖い。


インテリが椅子に凭れて、首を傾げた。


「君の嫁は、人殺しの有名政治家の娘だもんね?そりゃ、誰にも言えないね?」


「黙れ」


「人殺しの娘だという事は、君のお母さんも知ってるのかな?」


「黙れって言ってんのが聞こえねーのか!」


怒鳴り声が、部屋に響いた。苦しくて、吐き気がする。真知は昨日だって怖いと震えた。今日の朝だって、俺を消毒した。まだそれに囚われて、生きてる。


過去は消えない。真知の親がした事なのに、それが永遠とついて回る。


握り締めた拳が震える。血だらけになるまでタワシで手を洗う女を、こういう人間が作ったのかと思うと、泣きたくなった。


「分かったら、シュンと話し合いをしてもらう。君の情報網ならシュンの居場所を突き止める事くらい容易いだろう。待ってるから、一人で来てくれ」


「っ、」


「『人殺しの有名政治家の娘が元不良と結婚』なんてマスコミに流したら面白い事になりそうだね?大事な大事なお姫様を、こちらに奪われたくなかったら、大人しくこちらに従ってもらう」


立ち上がった一派がぞろぞろと部屋を出ていった。


「俊喜」


「ごめん」


久人の声に、顔も見ないで謝った。


「ごめん、言えない、ごめん」


初めて『人殺しの菌が移る』と言った真知を思い出すと、怖くなる。あの怯えた目を、忘れられない。


土下座して離婚を申し込んだ真知が、俺の夢を見て起きたくないと言った瞬間が怖くて、仕方ない。俺の事を好きな癖に、菌を気にして離そうとする真知を見ると、苦しくなる。


もしかしたら、離してやった方が真知が楽になれるんじゃないかと、過ってしまう。でも、離したくない。気持ちが重なるなら、一緒にいたい。それはきっと、俺の我が儘だ。


「ごめん、まだ、口に出すのが怖いから、言えない」


あの六年間を口にしたくない。俺が飛び越えられない六年間が怖い。


怖いなんて、馬鹿みたいだ。情けない。でも、これが事実。


「分かった」


「っ、」


「俊喜が言えるようになったら、話したくなったら、言えよ。俊喜が気持ち悪く泣いても、黙って聞いてやるから」


時夫の言葉が、刺さる。それに同意する言葉を言う悟と久人に、安心した。幼馴染みの重さがのし掛かる。持つべきものは友だって、誰が言ったんだ。その通り過ぎて、笑えない。


「つーか、なんで仕掛けられたこっちがわざわざ出向かなきゃなんねーんだよ、だりーな。な?俊喜」


「……呼ばれてんの俺だけだし、」


「あ、そうだっけ?」


久人が惚けたように言って、震える息を吐き出した。いつか、真知が笑ったら、俺は事情を言えるようになるんだろうか。


それから警察署を出て、まずは沙也加に謝りに行った。沙也加が帰ってこないから心配した、と悟に言って二人がイチャイチャし始めたから、時夫達と早々と退散してきた。


時夫が仕事を思い出して帰っていって、要は単位が危ないらしく学校に行った。久人は受験勉強の為に家に帰って、俺は情報収集がてら髪を切りに行った。


店主が三個上の先輩で、恐ろしい程に情報を知っている。シュンの居場所は拍子抜けするくらいすぐに分かった。前に違法薬物の密売をしていて、ガサ入れされて潰れたクラブ。


人気を博したものもいつかは寂れる。その象徴とも言えるクラブの跡地に本拠地があるなんて、皮肉なものだ。


家のドアを開けた瞬間に聞こえた笑い声に、思わず眉をしかめた。煩い女の声だ。


その声の方を見ると、ナミとタエがいた。その前の席には真知がいる。


何やら盛り上がる三人の方に、矢田さんや豊橋さんに会釈しながら近寄って真知の隣の席に腰を降ろした。


「ただいま」


そう言うと、真知が俺を見る。


「あ、おかえりなさい。髪の毛、」


「うん、切ってきた」


結局少し軽くなっただけの髪に真知の視線を感じる。それを尻目にテーブルの上に広がるものを見ると、苦笑いした。


そこにあったのは、中学の卒業アルバムだった。俺の視線に気付いたのか、ナミが笑う。付け睫に囲まれた睫毛で瞳が見えなくて怖い。


「ずっと持ってくるの忘れてたからさ、持ってきたんだ。どうせ真知、俊喜に見せてって言えないだろうし、俊喜も見せなさそうだもんね」


「……昔の事なんて見て何が面白いんだよ」


俺の声は思った以上に疲れを含んでいた。タエがアルバムに並んだ個人写真の一点を指差す。


「真知、ほら見てこれ!真知に会うだいぶ前の俊喜だよ?」


真知の視線が俺から移る前に、そこを隠した。嫌だ、絶対に見られたくない。真知が俺の顔を見る。瞬きを繰り返して、口を開いた。


「あの、見えません」


「まあ、隠してるし」


真知に笑うと、真知が眉を下げた。なんでそんなに悲しそうな顔をするんだ?


「真知、見たいよね?好きな男の中学時代見たいよね?」


タエの声に、真知が小さく頷いた。見たいんだ、中学時代の俺を見たいんだ。


ナミの強い視線を感じたけど、手は離せなかった。だって、そうだろこれ。俺が真知と会ったのは好青年ヘアーになってからの事で、この写真みたいな俺を知らないんだから、見せられる筈もない。


真知が俺を見る。


「…見たいです」


「……今の俺と全然違うけど、いいっすか?」


「…はい」


真知の茶色い目にとことん弱い俺は、仕方なく手を離した。そこにいるのは、金髪パーマの緒方俊喜15歳。無表情でこっちを睨んでいた。


「ガラ悪っ!めっちゃチャラっ!」


「うるせーよ」


八木のプードルとは違う、控えめなパーマの金髪。中三の頃は先輩の頼みでサロンモデルとかいうのをやっていた。だから好き勝手弄られていたのだ。


黒い学ランを着た写真の中の俺と、今の俺を真知が見比べている。妙な気分。


「……真知より若い頃の俺、」


「…金髪だったんですか?」


「そう」


真知が写真を凝視していて、なんだか居心地が悪い。頬杖をついて真知の髪を適当に指に絡めていると、真知が顔を上げた。


「…少し、怖いですね」


「え、いや、あの、この頃から俺は紳士だからさ」


確かに黒髪より金髪の方が似合うのは確かなんだけど、金髪だと怖いのか。染める予定はないけど、もう一生金髪にはしないと心の中で誓った。


「この写真撮ったのって、中三になってからすぐじゃん?俊喜、鑑別出てきた後くらいだよね?」


ナミの声に、真知がそっちを見た。


「鑑別…?」


「そう、俊喜、クスリの売人ボコボコにして鑑別ぶちこまれたんだよ?別件で時夫も鑑別入って、二人で出てきたんだもんねー?」


「ちょ、ナミ!」


思わず制止すると、真知が俺を見る。それに苦笑いしたら、俯かれた。最悪。


今更隠す必要なくない?とタエが続ける。


「だって俊喜、高校辞めたのだって真知を悪く言った教師殴ったからなんでしょ?要が言ってたよ?」


「え?」


真知が目を見開いて俺を見るから、瞬時に目を逸らした。前に真知に学校を辞めた理由を聞かれた時に、面倒臭くなったからと言ったのだ。嘘だとバレる。


「…どうして?」


真知の言葉に不穏なムードが漂った。俺は真知の髪から手を離して、タエにデマ言うなよ、と笑いながら言う。タエは意味が分かったらしく、目を泳がせた。


言う訳ない。本当の事なんて、言える訳がない。青春っぽいし、馬鹿っぽいし、言える訳がない。いつも格好がつかないから、それくらい格好つけてもいい筈だ。


真知の手が、俺の腕を掴んだ。


「先生を殴ったんですか?」


「だから、違う。嘘だよ。要がデマ流したんだろ。俺は学校行くのが面倒で辞めたんだよ」


「本当の事を仰って下さい」


「本当にそうなんだよ。タエ、真知が本気にするから噂なんて確証ねーのに言うんじゃねーよ」


タエを見ると小さくごめん、と言われた。謝られたい訳じゃないけど、真知の前では絶対に言ってほしくなかった。


「っ、本当の事を仰って下さい!」


真知の感情的な声に、ほんの少しだけ店内が静かになる。


「本城さんが嘘を言うとは思いません」


少しボリュームが落とされた真知の強い声に、真知を見た。


「お前、俺より要を信じんの?」


「そうではなくて、学校で貴方の一番傍にいたのは本城さんです。あの方が貴方の事に関して嘘を言うとは思えないと言っているんです」


意外と真知は、学校での俺を見ていたらしい。確かに、要は嘘を言ったりしない。ナミがおどおどと泣きそうな顔で俺達を見る。なんでお前が泣きそうになるんだ。


「…本当の事を、仰って下さい」


消えそうな声に、心が千切れそうになる。渋々、口を開いた。


「別にお前の為じゃなくて、俺がムカついたから殴っただけだし」


「…っ、嘘ばっかりっ、」


「は?」


「貴方はいつもそうです!嘘ついて誤魔化して、だから自分を省みない傾向があると言っているんです!もっと自分の事を考えて下さい!どうして、私の事で、貴方の人生がっ、」


声を荒げた真知の声はどんどん小さくなって、顔を背けて俯かれた。何なんだよ、この可愛い動物。吠えてんのに全然怖くない。


「別にお前のせいじゃないって、」


「土下座、土下座したくせにっ、私の事で、土下座したくせにっ、なんでっ、」


「お前、まだそんな事気にしてんのかよ」


「そんな事じゃないですっ!重要な事です!」


「俺はいつも自分のしたいように生きてるんだよ。それにお前のせいもクソもあるか。何したっていいだろ、俺は真知が好きなんだから、……あ、」


静まり返った店内と、自分の発した台詞に気が付いて、口を噤んだ。真知が顔を真っ赤にしていて、ナミとタエが口をポカンと開けて俺を見ていた。


俺、今、公共の場で絶対に言っちゃいけない台詞を言った。最悪だ。でも、それよりも俺は真知の事が気になった。


「照れた?」


「っ、照れてません!」


「顔、赤いけど」


「…っ、」


真知が顔を手で覆って、更に楽しくなった。俺の最近の趣味は、真知をからかう事だ。多分、一生ものの趣味になる筈だ。面白くて仕方がない。


ナミとタエが叫び始めるのを尻目に、吐き捨てるように言う。


「いい加減慣れろよ」


と、真知の耳元に口を付けると。


「朝も言ったじゃん、忘れた?昨日の事」


「っ!」


離れようとするのを許さず二の腕を掴んで、続ける。


「真知の口の中の味、説明してあげよっか?」


「っ!」


腕を離した瞬間に真知がテーブルに突っ伏して、思わず笑いが飛び出した。真知って可愛い。面白い。耳まで真っ赤にした真知に笑いながら、叫んでる二人を放置して卒アルのページを捲った。


「ちょ、俊喜別人じゃん!ベタ惚れじゃん!」


「ちょっと口が滑っただけだからそんなんじゃないし」


「俊喜がデレるとか歴代の彼女達がなんて言うか、……あ、」


俺の睨みに気付いて、タエが口を噤んだ。歴代なんて言ったら、結構な人数がいたと思われる。まあ、本当の事なんだけど、サリナしか元カノがいないと思われてるから、何人いたのかなんて聞かれた事はないけど、隠したい。


真知は顔を手で扇いでいて、話を聞いていなかったらしい。それに胸を撫で下ろして、卒アルを見た。


クラスページだったのか、悟と時夫と久人と俺が四人でふざけて撮った写真が載っていた。こう見ると、自分が老けたように感じる。中指を立てて舌を出す中三の俺は、センタータンにピアスが開いていた。


それを覗き込んだナミが、うわ、と声を上げる。


「懐かしいね。俊喜そういやセンタータン開いてたね」


「そうそう、時夫がセンタータン開けたいって言ってたんだけどビビって中々開けないから、俊喜が見本で開けたんだっけね」


タエが時夫を指差した。相変わらず金髪の時夫が顎をしゃくっている。ムカつく顔だ。その唇のすぐ下には、ピアスがついている。


「そう、なのに時夫、センタータンやめてラブレット開けやがったんだよな。あの時はキレたけど、センタータンめちゃくちゃ痛かったし」


久人の凄い変顔を見ながらそう言うと、ナミが小さく吹き出した。


「一週間くらいゼリー食ってたもんね」


「そうだよ。食いたいモン食えないって最悪の気分だったし」


その原因のセンタータンも高校に入学してから校則に引っ掛かったのもあり、そこまで重要視してなかったから塞いだ。中学の頃は、何かとピアスが流行っていた。


久人は指にまでピアスを開けてたし、俺のピアスは少ない方だった。左耳に三個とセンタータンだけだったから、数えきれないくらい開けていた久人とは比べ物にならない。


「あ、あたしらだ!めちゃくちゃ若い!」


タエが指差す先に、セーラー服姿のナミとタエがウィンクしてポーズを取っていた。そこに一緒にいる悟が今じゃ考えられないくらいの酷い目付きでこっちを睨んでいる。沙也加と付き合う前の悟はただの暴れん坊だったのだ。男は女で変わるらしい。


「舌に…ピアスが、」


真知の声に顔を上げると、真知が写真の中の俺を見ていた。顔はまだ少し赤い。


「もう塞がったけどな、ほら」


真知に舌を出して見せると、物凄く感心された。真知が知らない頃の俺、真知を知らない頃の俺は、本当に真知とは真逆の世界にいたのだ。


「あー、これ!アケミ!この時ウケたよね!」


アケミなんて名前の女いたっけ?そう思いつつ、タエのウーロン茶の隣に置かれた水のコップを取って飲み込んだ。びっしりと水滴がついたコップで指先が濡れて、妙な不快感。


「アケミって誰?」


「マリコ先輩の後輩だよ!つーかこの写真マジやばいっしょ?」


ふとその写真を見て、ギョッとした。俺がそのアケミとかいうオレンジの髪の女の耳を舐めている写真だったからだ。恐る恐る真知を見ると、無表情でそれを見ていた。いつも無表情だけど、それよりももっと無表情だ。


「あれでしょ?マリコ先輩が『俊喜って舌にピアス開いてるから舐められると気持ちいい』とか噂流したんだよね?それで俊喜がマリコ先輩と別れた後にアケミがどっか舐めてってわざわざクラスまで来たんじゃん」


ナミが笑いながらそう言ったけど、何も覚えていない。ただ中学の思い出話をしているだけなのに、なんでこんなに話がエグいんだ。奥さんがいても話せる筈の話を出来ないなんて、この卒アルどうなってるんだ。


それ以前にマリコ、どんな最低な噂流してるんだ。この写真載せたのは誰だ。悪意を感じる。


「この時、俊喜二日酔いで学校来てて、いいよって言って耳舐めたんだっけね?時夫が写メって卒アルまで引っ張るとかどんだけって話だけど!」


時夫かよ。


もう一度真知を見ると、真知は俺に視線を向ける事なく黙って席を立った。厨房の暖簾を潜って行く。


「……時夫、明日処刑しに行こ」


無意識にそう言っていたらしい俺を見て、ナミが目を見開いた。お前は馬鹿か。


「あ!ごめん!え!?あたし、あああああああああ!」


髪を掻き乱すナミは本当にわざとじゃないらしい。それに、俺にナミを責める資格はない。俺の責任……。気が遠くなりそうだ。


「真知!ごめん違う!これ俊喜じゃない!別人!そっくりさんだよ!」


「……ナミ」


椅子から立ち上がって叫んだナミを制止するように名前を呼ぶと、ナミが泣きそうな顔で俺を睨んでから息を吸い込んだ。


「真知!確かに昔の俊喜はこんな感じだったけど!今は真知の耳しか舐めないよ!」


「何言ってんだお前!」


「あれもこれも全部、真知の為に修行してたんだよ!」


「やめろ!頼むからもうやめろ黙れ口を開くな!」


一息で言うと、ナミが顔を歪ませた。


「だってあたし…もう嫌!あたしもう嫌!なんであたしこんな馬鹿なの!?」


「ナミ、あんたの馬鹿は元々だよ」


「タエ、テメーもナミの事言えねーだろうが」


溜め息混じりにそう言うと、タエがだね、とやけに疲れた声を出した。溜め息をついて、項垂れた。


「俊喜の昔話って、友達のあたし達からしたら面白いけど、真知にとっちゃ最悪だよね。あたしら、真知の友達なのに、嫌な思いさせて最悪」


「……自業自得だし俺、」


別にお前らのせいじゃないし、と言って、重い腰を上げた。話が聞こえていたらしい(さっきのナミの叫び声が聞こえていない筈がないけど)矢田さんと豊橋さんに気の毒そうに見られて、小さく頭を下げた。なんて事だ。


厨房の暖簾を潜ると、お袋が冷たい眼差しを向けてきた。


「馬鹿じゃないのあんた。自分の行動に責任持ちなさい。それが自分の首絞めるんだからね」


「……真知は?」


お袋の正論に返す台詞が見付からなくてそう聞くと、お袋が盛大な溜め息をついた。


「トイレ。俊喜、昔の事は仕方ないけどさ、まっちとはこれから一生付き合っていくんだから、ちゃんと昔の事は昔の事で今は違うって安心させないと駄目だからね」


「…分かってるよ」


やっぱりお袋はお袋だ。


どれだけ馬鹿で口うるさいクソババアでも、ムカつく事実だけど大体正しい事を言う。お袋に早く行きな、と促されて、トイレの前に立った。


階段の脇、トイレのドアの曇りガラスの小窓からは何も見えない。見えたら見えたで問題だけど。


「真知?」


ドアに向かって問い掛けた。中から反応はない。


「……あれは昔の話で、今は違うから」


「分かっています」


聞こえた声は掠れていた。俺は真知を泣かせるか、怒らせるか、しかしていない気がする。こんなんじゃ、笑う者も笑わない。


途端に真知のいない未来を想像して、無性に怖くなった。白いドアの向こうがもし天国だったらなんて訳の分からない事が頭を過って、息が詰まる。


真知の居ない世界には、多分、俺も居ない。安っぽくて陳腐でクソみたいな事だけど、これは事実だ。


真知が居なくなったら寂しいし苦しい。生きてはいけるんだけど、どうしようもなく、孤独だと思う。


「出てこいよ」


「嫌です」


「泣いてんのか?」


「違います」


「もう不細工って言わねーから、出てこいよ」


俺の言葉への反応はなかった。中でトイレットペーパーが回る音と、鼻をかむ音がする。やっぱりドアの向こうはトイレだ。でも、それでも。


壁に背を付けて、しゃがみこんだ。目の前のドアから鼻を啜る音が忙しなく聞こえる。


「真知」


鼻を啜る音が止まる。多分それは、俺の声がどうしようもなく情けなかったからだ。


「寂しいから、出てこいよ」


からかったり、泣かせたり、怒らせたり、俺は好きな女をコントロール出来ない中学生で。ただ一緒にいたいだけなのに、妙な連中に付け回される原因を俺が持っていて、嫌になる。


「今は、駄目です」


ドアの向こうから聞こえる声が焼き付くように耳に染み付いた。


「今、貴方に会ったら、酷い罵声を浴びせそうなんです」


「いいよ、浴びせろよ。昨日みたいに怒ったりしないし、さっきみたいに口答えしたりしねーから、黙って聞くから」


「………」


「言えよ」


言ってくれ、と続けると、派手に鼻をかむ音が聞こえた。


「私は貴方の過去に意見する資格はありません、ですが、少し、」


「少し?」


「嫉妬、しました」


消えそうな声は、辛うじて俺の耳に届いて、押し潰されそうだった。


束縛されるのも嫉妬されるのも、俺は大嫌いだった筈なのに、真知にされると泣きたくなる。


今まで口にしてもらえなかった事だから、自分が気持ち悪いけど、嬉しくなった。


「男性と手を繋ぐのはお父さん以外貴方だけで、全部貴方が初めてなのに、貴方は私が初めてではありません」


「うん」


「ならせめて、私も貴方程に経験があれば良かったです。そしたら、こんな醜い感情に苛まれる事もなく、貴方の初めてが欲しいと思う事も無くなります」


ファーストキスの相手だって、一番最初に抱いた女だって、俺は覚えていない。それは俺にとって重要な事じゃなかった事だからだけど、でも俺は少なくとも、真知の初めての男で良かったと思ってる。


「…俺の初めて欲しいのか」


「……申し訳ありません」


謝られる事じゃない。俺は真知に散々初めてをぶちまけているのにも関わらず、真知はそれに気付かない。


プロポーズ、結婚指輪、その他諸々。カッコ悪いから絶対に口に出さないけど、真知は俺の初恋だった。


「貴方は今までに私以外の女性と向き合った事があります。私よりも先に貴方と出会っている人は沢山います。なのに、貴方はどうして私を選んだんですか、私は、」


「………」


「私はもっと早く貴方に出会いたかったっ」


爆発するように、真知がそう溢した。俺も会いたかったと言いたくても、言えなかった。喉が熱い。


でも、昔の事を悔やむ前に、今、真知に会いたい。ドアノブをじっと見ていて、気付いた。あの女は、本当の小悪魔だ。


ただ抜けてるだけなのか、故意なのか、そんなのはどうでもいい。俺がしゃがみこまなかったら絶対に気付かなかった事に、俺は気付いた。


ドアの鍵は、閉まっていなかった。ドアノブの上の小窓の向こうは、青だったのだ。


銀行に立て籠られたような気分でいたけど、俺が入る気になれば入れるのだ。どこまでも俺を振り回す女は、俺の初めてが欲しいと言う。何とも、可愛い我が儘。



立ち上がってドアを引いた。その先にいるのは、目を見開いて涙で頬を濡らした女で。


滑り込むように狭いトイレの中に入って、鍵を閉めた。小さい施錠の音が、やけに響く。壁に寄り掛かって立った真知は慌てて俯いて顔を隠して、前に俺が言った冗談をまだ気にしているらしい。


「真知って、何回泣いたら気が済むんだよ」


「っ、」


「なんで一人で泣くんだよ。俺の前で泣けばいいだろ」


しゃっくりを繰り返す真知の肩が揺れていた。それをぼんやりと眺めながら、ぽつりと溢す。


「もう初めては無理だけど、俺の最後になら、なれるよ」


「っ、ひっ、」


「だからお前も、俺を最初で最後にして」


俺の方が得をしているのは分かっていたけど、俺は欲張りで我が儘だから、真知の最初で最後の男になりたかったのだ。


真知は頷きながらしきりに涙を手で拭っている。可愛くて、どうしようもない。


「真知、俺、まだやった事ないこと、あるよ」


「っ、何っ?」


「トイレで接吻。俺の初めてが欲しいなら三秒以内に来い」


馬鹿でかい声で強引にカウントを開始すると、今まで隠していた顔をいとも簡単に俺に晒して、首に腕を回してきた。首を伸ばした真知の唇に指を当てて、止めた。


それに驚いて瞬きする真知が面白くて、思わず笑う。


「がっつきすぎ」


「っ、」


「そんなに俺の初めてが欲しいのか?お前、俺の初めての奥さんじゃん。お前は俺の彼女じゃねーんだから」


まあ、最後の奥さんでもあるんだけど、と続けて、真知の頬を両手で包んだ。ぼろりと大粒の涙が溢れ落ちて、それを親指で拭う。


「可愛いな、お前」


本音が口をついて溢れた。濡れた長い睫毛を震わせる真知に視線を逸らされる。


「っ、嘘だっ」


「いや、これはマジの話。なあ、こっち向けよ。俺の初めて欲しいんじゃねーのかよ」


腕を腰に回してやると真知が躊躇いながらもこっちを見た。色素の薄い茶色の目に脳が溶かされるような気がする俺は、相当頭がおかしくなっているのかもしれない。


「早く、がっついてみろよ」


「…目、閉じてください」


「無理。ほら、早く」


口を真知に近付けて催促するようにそう言うと、静かに重なった。全然がっつかれてないんですけど、と笑いそうになったけど、真知が目を閉じたから、俺もそれに従った。


ただ唇と唇をくっ付けるだけの行為に何の意味があるのかと真剣に考えていた時期があったけど、それは本気で相手を好きじゃなかったからなのかもしれない。


今は腐るくらいキスをしていて、特に今日なんか相当数繰り返しているのに、全く飽きない。真知が好きで、どうにかなるかもしれない。


ただ重ねただけの唇をどちらともなく離すと、真知に頬を撫でられた。そんな手付きどこで覚えてきたんだと聞きたいくらいにぞわっとしたけど、真知は今のキスだけで顔を真っ赤にしているから、覚えるもクソも無さそうだった。


「あの、消毒してもよろしいですか?」


「駄目、俺、朝の根に持ってるからな」


ふと、自分の台詞で朝のインテリが蘇ってきた。悪いけど、それを利用するのは俺だ。真知を上手い具合に引きずり出す方法の一部に、使わせてもらう。


「二人で一緒に住もうよ、真知」


「っ、」


「俺の初めて欲しいんだろ?」


不安にさせたくないから理由は言わない。真知が欲しいものを与えると言う名目で、俺の心配を完全に消したかった。


真知は俺の言葉に頷いた。真知が欲しがるのはもう二度と手に入らないものだらけだから、それに洩れた俺の中の数少ない初めてを提示すれば、真知は簡単に頷く。


理屈じゃない感情をコントロールするのは難しいけど、理屈がある事柄を頷かせるようにコントロールするのは容易い。


「近いうちに物件見に行くか、二人で」


「はい」


真知の返事に思わず笑うと、真知が視線を泳がせた。


「なあ、なんで照れんの?」


「照れてませんっ」


「照れてんじゃん」


笑う度に照れられても、こっちが恥ずかしい。真知に軽くキスして、髪を両手でぐしゃぐしゃにかき混ぜた。


指の間からすり抜けていくような痛み知らずの髪の毛がトイレの曇りガラスの向こうから入ってくる太陽に透けると、金髪に見える。


まるで卒アルの中の俺のそれと同じだった。


真知は意外と俺にベタ惚れで、単純だった。ここまで素直にさせるまで八ヶ月かかって、俺達はようやく普通の夫婦、いや、恋人同士になれたのかもしれない。


それなのに俺の前には問題が山積みだった。まずはシュンに会って話を聞かなきゃいけない。




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