表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
!!!!  作者: 七瀬
第三章 不可視
26/34

正体とクラス写真




扉の前で振り返った。羽塚が銜えている爪楊枝の一部が唾液で濃い茶色になっている。隣で真知が俺を見上げてきて、仕方なく口を開く。


「どうもお世話になりました」


「二度と来んなよ、クソガキ」


「言われなくたってもう二度と来ねーよ」


俺のその言葉に羽塚が笑う。くたくたの白衣についたカレーのシミを一瞥してから、真知の手を引いて歩き出した。


あれからきっかり二週間が経った。俺の尋常じゃない生命力のお陰で完全とは言わないけど傷口も結構良くなって、見事退院。


ずっと地下にいたせいで、外の空気が新鮮に感じた。真っ黒い空とネオンは二週間前と全く変わっていない。真知の手を引きながら、ぼんやりと辺りを眺めた。


地元はいつもと変わらないのに、どこか違って見えた。これが生きてる素晴らしさを感じてるって事なんだろうか。


繋いだ手をポケットに入れると、真知が俺の方に引き寄せられる。


「退院出来て良かったです」


「うん、でもよ、これから一ヶ月以上仕事出来ないから暇なんだよな、」


「…治す事に集中してください。お酒はまだ駄目ですからね」


別に俺も好きで酒飲んでる訳じゃ無いんだけどな。少し夫婦っぽい会話ににやけそうになりながら真知を見ると、視線が交わった。


「お車の方は、多摩美さんがお店の方まで運んで下さいましたよ」


「タマさんが?」


「はい」


真知のマンションに置きっぱなしだった車を俺がすっかり忘れていた事は揺るぎない事実だった。タマさんに後で連絡入れないと、と思っていると、ふとたった二週間前の出来事が頭の中で蘇る。


やばいと思う瞬間って、全部スローモーションで記憶されるのはどうしてなんだろう。焼き付いたそれを逃がさない為なのかもしれないけど、ドラマじゃないんだから困る。


大体俺は、ドラマでスローモーションのシーンが入ると無意味に苛々するタイプだ。そこを重要視しているのはスローモーションにされなくたって分かる。男と女がキスする瞬間しかり、弾丸が肩を貫通して血が吹き出る瞬間しかり。


誰だって重要なシーンくらい分かる。スローモーションはその感動を増幅させる為のものだという事は分かるけど、刺される瞬間のスローモーションなんて実際に自分が経験したら忌々しくて思い出したくもない。


頭に過るのは、俺を刺したガキの学ランのボタン。清春や津田と同じ高校のものだ。矢崎組が雇ったガキではないと、タマさんが言っていた。


足を止めると、真知も一緒に足を止めた。


「いかがされましたか?」


「ちょっと待って、」


確証はないけど、一応、だ。スタジャンのポケットからケータイを取り出して、リダイヤルを探すと、すぐに見付かった。ケータイを耳に当てると、途端にメロディーコールが鳴り出す。


OASISの『Don't Look Back In Anger』。趣味丸出しのそれはすぐに途切れた。


「もしもし津田です」


「おう、久しぶり」


お久しぶりです、という声の向こうに騒がしい声が聞こえた。津田は誰かと一緒にいる率が高い。俺は早速本題に入る為に口を開いた。


「お前今どこにいる?」


「家ですよ」


家か。タイミングが良くて良かった。


「今から行っても大丈夫か?」


「え!?あ、はい!大丈夫ですけど、ダチ来てますよ」


津田の驚いた声は真知にも届いたらしい。真知がこっちに目を向けた。それに笑うと、真知の目が泳ぐ。訳が分からないけど照れてるらしい。何でだ?


「ああ、大丈夫、用が済んだらすぐ帰る」


「いや、長居してもらっていいんですけど、秘密じゃなかったんですか?俺と知り合いだって事」


さすが俺よりも偏差値の高い高校に通っているだけある。俺はすっかりそんな事は忘れていたけど、津田は覚えていたのか。真知の口から白い息が溢れるのを見ながら、返事をする。


「ああ、もうそれ大丈夫、それより家どこ?」


「はい、場所は…」


津田から告げられたのは、ここから歩いて15分くらいのマンションの名前だった。


「分かった、今から15分くらいで着くと思うから下降りて待ってて」


「はい」


津田の返事を聞いて電話を切ると、真知が首を傾げた。


「どこかお出かけですか?」


「ん?真知も一緒に来いよ」


ケータイをしまって歩き出すと、冷たい風が剥き出しになった耳に突き刺さるように感じた。真知が俺を見上げる。上目遣いをしない所が真知らしい。多分、真知に上目遣いでもされたら死ぬだろう。馬鹿みたいだけどそんな気がする。


「これからどちらへ?」


「んー、一応、俺の切り札」


津田は俺が頑張って手に入れた切り札だ。誰も繋がってるとは思わない俺のもう一人の後輩。


腹が減ったと思いながら、さっきケータイで見た時間を思い出した。午後7時過ぎ。昼にあんまり美味くない羽塚が作った卵粥を食ってから何も食べていない。


津田の家にカップ麺でもないかなと思いつつ、息を吐いた。11月の終わりの空気は冷たい。近くのお好み焼き屋から香ってきたソースの匂いに腹が鳴りそう。


「俺、ペヤング食いてーな」


「…ペヤングとは何ですか?」


真知の言葉に苦笑いした。ペヤングを知らない17歳。人生の損は再び。


「インスタントの焼きそば」


「そうなんですか」


ぺやんぐ、と真知が小さく呟いた。料理を作れる元お嬢様は、インスタント食品を知らない。とりあえず片っ端からカップ麺について話してやると、真知は興味深そうに頷いて話を聞いていた。どうでもいい話なのに、クソ真面目な女の興味はそそられるらしい。


そんなどうでもいい話をしていると、津田のマンションに着いた。ネイビーのダッフルコートを身に纏った津田が肩を竦めながら煙草を吸って立っている。


俺達に気付いたのか、津田が煙草を地面に落として靴で擦り消した。まだまだ長い煙草が勿体ない。貧乏性が再び顔を出す。


「奥さんも一緒だったんですか」


津田が真知をチラチラ見ながら頭を軽く下げた。真知が丁寧に頭を下げる。


「まあ、散歩がてら、みたいな?」


「そうなんですか、あ、こっちです」


すぐあるエレベーターに乗り込んだ津田が押したのは四階のボタンだった。わりと前から建っているマンションのエレベーターの中は妙な匂いがする。


津田からほんのり煙草の匂いがして、辺りに充満した。それよりも真知の線香の匂いの方が強かったけど。


エレベーターから降りるとすぐの部屋のドアを津田が開けた。先に通されて、ブーツを脱ぎながら、お邪魔します、と言うと、真知と声が重なった。夫婦が段々似てくるってこういう事なのかもしれない。


「さ、入ってください」


津田の後を追うと、津田が一つの部屋のドアを開けた。途端に騒がしい声が聞こえて、津田が中に入っていく。


「カズどこ行ってたの?」


「ちょっとお前らスペース開けて、人来るから」


「は?カズ、充電器貸して」


中から聞こえる声は男と女の声が混じっている。俺がドアから顔を覗かせると途端に声が止まって静まり返った。


「どーも、お邪魔します」


俺の声は静かな部屋に響く。女三人、津田を含めた男三人の計六人が部屋にいた。その中の金髪の男が目を見開く。


「緒方さん!?」


俺ってやっぱり有名人?慌ててスペースを空ける男女に苦笑いしながら、真知の手を引っ張って部屋の中に入った。


赤いローテーブルの上の灰皿に乗る吸い殻の銘柄は様々。どこかのバンドのポスターが貼られた、わりと小綺麗な部屋だった。津田っぽい部屋。


「カズ、緒方さんと知り合いだったのかよ!?」


津田が苦笑いで頷いているのを尻目に、俺は床に胡座をかいて座った。真知が俺の隣に正座して座る。


ベッドの上に座るギャル三人がこっちをチラチラ見ていて居心地が悪い。俺の前に座った津田が、煙草の箱を手渡してきた。アメリカンスピリット、俺が前に吸ってた煙草。


「差し入れです」


「マジか、ありがとう」


もう禁煙してるんだけど、と思いながらとりあえず煙草を口に銜えた。津田に火をつけて貰って吸い込むと、口の中に一気に苦味が広がる。肺に入れて吐き出すと、少しくらっとした。


真知を見ると、真知が俺を凝視していた。


「お煙草、お吸いになられていたんですか」


「前はな。今は吸ってない」


もう一度吸い込むと、灰皿に灰を落とした。カスみたいな細かい灰が誰かの吸い殻の上に落ちる。津田が目を見開いた。


「え、禁煙してたんですか?」


「バカヤロー。もう一年半も前の話だ」


視線を感じてその方を見ると、真知はまだ俺を見ている。それに笑うと、真知が目を逸らした。


「真知も吸う?」


俺が真知の口元にフィルターを近付けると、真知が躊躇いながら口を開いた。あ、駄目だ。真知が煙草吸うのってなんかめちゃくちゃエロい気がする。


真知がゆっくり口を開く瞬間は、心臓が押し潰されそうになるくらいに、エロい。俺からしたらAV以上の威力。


真知から煙草を離して、灰皿で揉み消した。勿体ないけど、煙草は副流煙の方が体に悪いらしいから吸わないなら早く消した方がいいだろう。


「嘘、吸おうとすんなよ。未成年だろ」


「貴方だって未成年ですよ」


「……頼むから非行に走るな」


頷いた真知から目を逸らすと、津田がこっちをボーッと見ていた。なんだよ、と俺が言うと、我に返ったように肩を揺らす。


「絵になりますよね、なんか」


「は?」


「こう、あの、まあ、」


津田が何を言いたいのかさっぱり理解できない。周りを見渡すと皆津田と同じようにこっちを見ていた。気持ち悪い。


そういえば、俺はこんな事をする為にここに来たんじゃなかった。本題に入ろうと口を開く。


「津田、お前さ、学校の写真とか持ってないか?」


津田が学校?と首を傾げる。


「クラス写真とかさ、とりあえず色んな人が写ってる写真ないか?」


「ああ、多分ありますよ」


津田がゴソゴソと棚を漁り始めると、隣の真知がリュックを膝の上に乗せて抱えた。背負ったままだったのか。


真知が抱き締めるOUTDOORのリュックは俺が買ってやったものだ。黒地にシルバーの宇宙柄。それに乗った真知の顔が白い。


真知の視線の先には、壁にかけられたデジタル時計があった。瞬きと同時に動く長い睫毛は茶色。


「あ、あった!これで大丈夫ですか?」


津田から渡された冊子をペラペラと捲る。全クラスの集合写真が載った冊子のようだ。去年のですけど、と言う津田の声が耳に届く。


「ああ、全然大丈夫、」


去年のなら、三年のページは見る必要がない。俺を刺したガキは普通に制服を着ていたから、まだ在学している筈だ。まあ、今年入学した一年だったら元も子もないなんだけど。


一年のページから目を通していく。履歴書の写真のように顔がはっきり写っている訳じゃないから分かりづらい。男の顔を一つずつ確認する。


「あの、申し訳ありませんがお水を頂いてもよろしいでしょうか?」


真知の突然の声に顔を上げた。真知は津田をじっと見ていて、津田は少し顔を赤くしながら視線を泳がせている。照れるな殴るぞ。心の中で文句を言った。


「どうした?喉渇いたのか?」


「いいえ、俊喜のお薬の時間ですので」


真知が俺を見てからリュックのファスナーを開ける。中からごっそりと出てきたのは、羽塚に渡されたであろう飲み薬の袋だった。飲みたくなくて俺が放置していたそれを真知はきちんと持って帰って来ていたのか。


飲みたくない。俺は本当に薬が嫌いなんだ。喉に突っ掛かりそうなあの感じがおぞましい。


「あ、じゃあどうぞ」


津田は棚の傍に置いてある小さい冷蔵庫からペットボトルの水を取り出した。水出すな!固まっていると、真知がそれを受け取る。


袋から紙を出した真知は、それに目を通している。用量が書いてあるんだろう。


「いや、俺もう元気だから薬いらない」


「駄目です。羽塚先生から必ず飲ませるようにと指示を受けています」


真知の目が紙から俺に移る。羽塚のクソ。真知に言うなんて卑怯だ。


「いや、本当にいいから、マジで元気だから、心配いらないし」


「これは痛み止めと化膿止めだそうです。飲まなくて後で痛くなって悶え苦しむのは貴方ですよ」


真知の目が本気で怖い。それでも俺は飲みたくない。絶対に嫌だ。真知が袋から錠剤を出す。それを見ただけで頭が痛くなってくる。


津田が煙草に火を付けながら首を傾げた。


「緒方さん、どこか悪いんですか?」


「……悪いのは頭くらいかな」


「冗談はお止めになって早く手を出してください」


真知が錠剤を押し出すように持っていて、溜め息をついた。


「あの、勘弁して?もう二週間もそれ飲んだんだけど」


羽塚の拷問とも言えるあの視線に仕方なく飲んでいたというのに、俺はこれからもそれを飲み続けなければいけないというのか?おかしいだろ。人生で一番薬飲んでますけど?


真知が俺を真っ直ぐに見て、口を開く。


「お願いです、飲んでください」


「いや、あの、」


「……飲んでくださらないなら離婚しましょう」


「飲みます」


即答して手を出した。だって仕方ないだろ。完全に惚れた弱味に付け込まれているけど、反抗できない。


コロコロと真知の手によって手に落とされる錠剤に苦笑いした。いつまで薬と付き合わなきゃいけないんだ。こんなんじゃドラッグジャンキーになっちまう。



津田が口から煙を吐き出しながら言う。


「緒方さん、マジでどこか悪いんですか?」


「あ?ちょっと怪我しただけだよ」


真知にキャップを開けて貰って渡されたペットボトルの水を口に含んで、薬を一気に流し込んだ。喉に詰まりそうで、慌てて水を飲み込む。もうゲッソリ。


「怪我!?どこですか!?」


津田のやけに大きい声が頭に響く。答えるのも面倒になる。でも俺は紳士だから返事をした。


「腹だよ腹。妊娠した」


「え、おめでとうございます!って緒方さん男!」


「今のノリツッコミ良かったぞ」


真知からキャップを受け取ってペットボトルを閉めると、水は半分くらいまで減っていた。尋常じゃない薬との攻防が見てとれるそれをテーブルの上に置く。


そういう事じゃないっすよ、と吠える津田を尻目に、再び冊子に目を通した。ページを捲ると、津田の隣にいる前の清春の顔が目に入る。


どっちかって言うと、この頃の顔の方が老けて見える。二週間の間、毎日見舞いに訪れた清春の今の顔は完全に好青年顔で、年相応に思えた。


三列目、一番後ろの列の右端にいる清春とほぼ対角線上、一列目の左端にいる、一番離れた所に立つ女は富田紗英だった。確かに、こんな遠くに離れていたんじゃ津田が別世界の人間だと言うのにも頷ける。


ただの偶然は、人の人生を狂わせる力を持っているらしい。


その時、視界に入った顔を凝視した。前から二列目の左から三番目、純粋そうに澄んだ目をしたあのガキが写っていたからだ。


俺を刺したのは確かにこのガキだ。絶対にそうだ。楽しそうに笑うガキの顔は、無表情で写る清春と富田紗英とは全然違っていた。


なんでこんなガキが、富田紗英を尾行していたんだろうか。清春と富田紗英が別世界の人間だとしたら、富田紗英とこのガキだって別世界の人間だと、何となく思った。


このガキの目が、あんな目になる。睨むようなあの目には、確実に憎悪と狂気が感じられた。人間は腹の中じゃ何を考えてるのか分かったもんじゃない。


それに、普通サバイバルナイフ持ち歩くか?護身用なのかもしれないけど、誰かに狙われるような人間には到底思えない。


この地域の治安がいくら悪いと言っても、ぶつかり合ってるのはヤクザ同士と悪ガキ同士だけなのだ。好青年には無関係の話。


なんで見ず知らずの俺を刺す必要があったんだろうか。ただ俺は、二人の名前を言っただけだ。


ご丁寧にナイフ抜きやがって、そのせいでこっちは出血多量で大変だったんだ。あの時の表情からは考えられない笑顔を浮かべるガキの写真を見つめた。


いつかの切り取られた一瞬。思い出になってしまったのは、切り取られた瞬間から。遠い昔の誰かが当たり前のようにそこに存在しているから、写真はいつ見ても俺を不思議な気分にさせる。


そのガキを指差して、津田を見た。津田が写真を覗き込んでくる。


「こいつ誰?なんて名前?」


「え、こいつですか?菊地昭伸ですよ」


キクチアキノブ、菊地昭伸。頭の中で復唱した。真知が写真を見て、俯く。真知もこいつの顔を覚えていたのか。


「こいつって、どんな奴?」


「え?普通ですよ。クラスで目立ってる訳でもなく、ごく普通です。優等生寄り、ですけど、」


優等生寄りか。どうしてこうも清春の周辺には優等生がうじゃうじゃいるんだ。清春とはどう考えても相容れなさそうな人間ばかりが取り巻いている。津田や要は別として、だけど。


「でもいきなり菊地なんて、どうしたんですか?」


「え?いや、色々あんだよ」


何故、が渦巻く。どこで二人と菊地が関わったのか全く分からない。学年一の優等生と清春が繋がった事でさえも不思議だったのに、菊地もその中に存在する。


「菊地昭伸、ね」


俺は馬鹿なんだ。謎解きは得意じゃない。考えたって分かる筈もない。


「こいつ、お前とまだ同じクラスなのか?」


「同じですよ、三年間クラス変わらないんで」


「そっか」


膝に肱を乗せて頬杖をついた。クラスの中に二人も人を刺した事がある奴がいたという事実を津田が知ったら、どんな反応をするんだろうか。普通に見える奴が普通じゃないなんて、ニュースでもよくある話。『人を殺すような人には見えなかった』なんて、モザイク付きで誰かが話す。


もっとも、人を殺すような人に見えてたなら、それもそれでおかしいんだけど。


二人の中心にいるのが、富田紗英。あの少し狂った女。遺族が後の加害者と恋に落ちるなんて、ドラマにも程がある。いや、もしかしたら富田紗英も加害者に当たるのかもしれない。


両親への復讐を、言葉もなく清春にさせた。被害者は加害者になる。


顔を上げると、津田の視線がずっと真知を追っていた事に気が付いた。その真知は津田の視線に気付く事なく、俺の薬をリュックに押し込んでいる。


真知が気付いたのは、俺の視線の方が先だった。俺が少し笑うと、真知が顔を赤らめる。忙しなく動く目玉は俺を見ようとはしなかった。


「真知さん、なんでいつも照れんの?」


「照れてなんかいません」


「照れてんじゃん、顔赤いですけど」


「赤くありません」


真知はリュックを抱き締めて、そこに顔を埋めた。すいません、耳まで赤くなってますけど。津田を無表情で見ると、津田の顔が真っ青になった。


「すいませんでした」


「分かればいいけど?」


俺って独占欲が強いのかもしれない。見られるのも嫌だ。そのうち監禁とかしそうで自分が怖い。するつもりないけど、と思いながら真知の髪をグシャグシャにかき混ぜる。小さい頭。


津田が恐る恐る俺の表情を窺ってくるから、俺は放った。


「津田、腹へった。ペヤングねーの?」


「え?ありますよ」


「作って」


津田は煙草を消して慌てて部屋を出ていった。あの、という男の声が聞こえて顔を上げると、さっきの金髪が俺を上目遣いで見ている。


「カズは、緒方さん派なんですか?」


「は?俺派?」


思わず聞き返した。


「一橋さん派と緒方さん派があるじゃないですか、この辺が地元の人間って大体派閥に分かれてますよね」


一橋?聞いた事があるような、ないような。大体、俺に派閥みたいなものがあるはずがない。ただのしがない土木作業員に派閥なんてあるわけがない。


「何その派閥って。誰がそんなの言ってんだ?一橋って誰だよ」


「え、一橋さんを知らないんですか?一橋シュンさんですよ」


その言葉に、やっと思い出した。確かシュンは一橋なんて名字をしていた。中三の夏休みに遊んでいたごっついBボーイ。そういや、だいぶ前に少年院を出てきたと聞いていた。


「なんでシュンと俺?もう三年以上会ってないけど」


そうだ。少年院を出てきたとは聞いたけど、シュンは俺に会いに来ていない。こっちから会いに行く義理もないからそのまま放置していた。


それにシュンと俺は、普通に遊び仲間だった。派閥なんて、そんな敵対するような間柄じゃない。


シュンはともかく、俺は派閥なんて名前のチームは作っていない。まず、チームを組むなんて事はしない。


俺は組織があまり好きじゃない。ヤクザしかり、学校しかり、ああいうのには必ず規則が存在する。落とし前やら、謹慎やら、面倒臭い事が沢山あるから、それに所属したいとは思わないのだ。


確かに俺は矢崎組に片足を突っ込んでいるし、警察とも繋がっている。でも、所属している訳ではない。


派閥なんて初耳だ。俺にそんなのがあったのか。


「一橋さん派の人間が広めてますよ。緒方さん派と敵対してるって」


「なんだそれ」


くだらない、と金髪の台詞を一蹴した。金髪は俺の表情を窺うように上目遣いを続けている。男がそういう顔してるのを見るのが、世界で一番嫌いだ。情けないのも結構だし、強気なのも結構なんだけど、人の顔色を窺う男以上にダサいものはない。


男なら情けなくても強気でも自分を持て、と俺は思うけど、それは結構な男女差別になるのかもしれない。ジェンダーってやつだ。男はこうであれ、女はこうであれ。


差別なんてあるなら、男も女も無くなればいいと思うけど、それは不可能な事は事実。男と女がいないと、ガキは生まれない。その当たり前でさえも、同性愛者にとっては差別に近いものがあるのかもしれない。


俺の知らない愛のハナシ。金髪は俺の知らない派閥なんてものを知っている訳で、自分が見てる世界ってとんでもなく狭い場所だと言う事が分かる。


「で、お前はその一橋派ってやつに所属してる訳?」


俺の言葉に、金髪が勢いよく首を横に振った。そのまま遠心力なんてやつで首が取れそうだ。知恵の輪でも遠心力を使うものがある。この世にある力は無限。


「いや、俺はここ地元じゃないんで!」


「高みの見物、ってか?」


「いやいやいやいや、そんなんじゃないですよ!」


どう考えても焦りすぎだろ。少し伸びたのか生え際が黒い。髪を染めて厄介なのはそれだ。金と手間ばかりかかる。


「二週間前くらいからですよ、そういう話が出たの、」


ミニスカを穿いたギャルの一人が、上目遣いでそう言った。なんだ、この上目遣いを乱用する軍団は。


でも、それより。


「二週間前…?」


真知が俺の代わりに呟いた。


二週間前と言ったら、俺が菊地昭伸に刺された日だ。絶対におかしい。俺が地下に潜っている間、そんな話題がこの街に上がっていた。


それが、俺にその話題を制御させない事が狙いだったとしたら?シュンは俺が刺されて地下に潜っていると知っていたのか?俺がいない事を利用されているじゃないか。


「つーか、その派閥ってやつ、俺の方って誰がいる訳?」


金髪に聞いた。俺が組んでいる訳でもないし集めた訳でもないのに、どうして派閥ができるんだ。おかしい話だ。


「緒方さん派に名前が上がっているのは、藤枝時夫さん、麻生久人さん、曽根崎悟さん、それに本城要、桐原清春、鵜原亮平、鶴巻鉄也、大和田聖、米澤学とか…主要メンバーとされてるのはそこら辺ですかね」


「へー」


呆れながら苦笑いした。何故、時夫と久人と悟のリーダーが俺なんだ。絶対におかしいだろ。そんな話が時夫と久人の耳に入ったら大変な事になる。


それにしても、見知った名前がつらつらとよく上がるものだ。大体清春なんて、もう死んだ事になってると思うんだけど。


金髪がテーブルに置かれていたスナック菓子を一つ手にとって、口を開いた。


「緒方さん派のバックは、劉仁会矢崎組だって言われてます」


「バック!?」


何それ!?俺のバックが矢崎組って絶対におかしいだろ。おかしい事だらけだろ。確かに関わりはあるけど、矢崎組にバックについて貰える程の人間じゃないんだけど、俺。


俺の大きな声に肩を揺らした金髪に苦笑いして、シュンの方は?と聞いてみる。


「坂城興業です」


どうしてこうもうまい具合に抗争が巻き起こったヤクザがバックについていて、それでガキの俺達が小競り合いしなきゃならないんだ。


ガキが派閥を組んでどうするんだ。何を争うんだ。


「で?俺とシュンは何を争ってる訳?公園にあるブランコの所有権か?」


「え、いや、」


金髪の言葉の前に、スタジャンのポケットに入った俺のケータイが震えだした。こんな時に誰だ。サブディスプレイを見ると、『池谷』の文字。


舌打ちを一つして、通話ボタンを押した。金髪がひっ、と肩を揺らす。俺はキレたりしていない。


ケータイを耳に当てて、声を出した。


「あんだよ」


「あんだよ、じゃねーよ!お前、変な噂回ってるぞ!派閥!」


噂だと分かっている所は、さすがに付き合いが長いだけある。溜め息をついた。


「俺も今聞いたんだよ。マル暴が出てくんな。少年課の仕事だろ?」


バックにヤクザがついていると噂が回っているとはいえ、ガキ同士の小競り合いにマル暴が出てくるのはおかしい。


「少年課はてんてこ舞いなんだよ!昨日辺りから傷害のガキがひっきりなしだ!沢田もそっちについてる。今は要が来てるんだよ」


「要が?」


「あいつが来たせいで署の中滅茶滅茶になっちまっただろ!?お前自分の二世作ってどうするんだ!きっちり教育しとけ!」


池谷の怒鳴り声にケータイから耳を少し離すと、真知と目があった。真知まで怒鳴り声が届いていたらしい。電話口の池谷はブツブツ文句を言っている。


要が警察なんて、どんな事になってるんだよ。池谷が大きく息をついた音がして、ケータイを耳に当てた。


「要はな、一橋の方に喧嘩売られたらしいぞ?要は暴れてるだけで何も言わないが、一橋派のガキによると噂が出たのは二週間前だって話じゃないか。お前はその間何してたんだ?なんで止めなかったんだ!」


「病院にいて情報入って来なかったんだよ」


「病院!?お前何やってたんだ!」


「うるせーよ!こっちだって知らねーガキに腹刺されて死にそうになったんだよ!」


思わず怒鳴ると、真知の肩が揺れた。自分の声が傷に響くし、真知にはビビられるし、ああもう最悪。


頭を撫でてやりながら部屋を見渡すと、全員が目を見開いて俺を見ていた。ペヤング片手に部屋に戻ってきた津田は頭をドアにぶつけたらしく派手な音が響く。


池谷が、刺されたのか、とうわごとのように呟く。俺は息を落ち着かせてから口を開いた。


「そうだよ。なんで刺されたのか分からなかったけど、俺も操作されてたんだろうな」


「お前、だから気を付けろって言っただろ?傷の具合はどうなんだ?」


いきなり心配モードに入った池谷。真知が俺を見るから、笑った。もう真知の前では絶対に怒鳴らない。


「愛の力で無事に回復しつつあるけど?」


「お前俺に喧嘩売ってんのか?」


新婚の一撃は嫁さんに逃げられた池谷に大きなダメージを与えたらしい。俺の本格的な新婚生活はこれからだから、池谷にはこれからこんな思いを沢山してもらう事になるのかもしれない。池谷ごめんな幸せでごめん。


「あ、おい!今時夫と久人と悟が入ってきた」


「代われよ」


「分かってる!おい、時夫!久人!悟!」


電話の向こうで時夫の怒鳴り声がした。どうなってんだよ。ガチャガチャと音を立てていて、その間にガキの怒鳴り声が聞きたくなくても入ってくる。


ボソボソと話す声が聞こえて、風を切るような音が聞こえた。


「久人だけど、これどうなってんだよ。なんでお前がリーダーなの!?」


「やっぱりそこ?」


「決まってんだろ!なんで俺達のリーダーが俊喜なの!?上下関係なくない!?てか俺がリーダーになりたい!リーダーってなんかかっこよくね?てか腹どうよ!?」


一気に問いかけられてどこから返事をしていいのか分からない。苦笑いしながら、お前らは知らなかったのか、と聞いた。


「知らなかったも何も、さっき急に喧嘩売られたんだよ。一橋がどうのって緒方派がどうの、つってさ。情報何も入ってきてなかったんだ。この二週間だって俺は平和に合コンを繰り返し、あ、おい!」


「俊喜?悟だけど」


電話が代わったらしい。向こうで久人が俺の話、と言う声が聞こえたけど、悟が別にその話どうでもいいや、と一蹴した。


「俺にも何も情報入ってきてないよ。こっちに何も情報が入ってきてないって事は、もしかしたら地元じゃない奴経由でやっとこっちに回ってきたのかもしれない」


なんでそこを経由する必要があったんだろう。俺が地下から上がってくるのを見計らってたのか?


「俊喜が刺されたのも、地下に潜るのも、あっちに筒抜けだったのかもしれない。はめられたのかも、俺ら」


俺が無言でいると、悟の気の抜けた声が届いた。


「ねぇどうすんの俺、また沙也加に怒られるじゃん。沙也加、妊娠してから怒り方がお母さんになってきて怖いんだよね。俊喜も一緒に謝って」


「分かった。沙也加には俺も一緒に謝る」


「うん、ねぇ俊喜、」


悟の声に耳を澄ませると、悟が小さく息を吐いた音がした。


「8月にファミレスで俊喜が池谷に殺されるかもって言われてたじゃん。俺、絶対にそんな事ないと思ってたよ。でも、こんな風になったじゃん、俺、俊喜の事ちゃんと止めておけば良かったって、思ってて、」


「悟のせいじゃねーよ」


「うん、でもさ、なんかお父さんになると、命って大事だなって思う訳。だから、その一橋って奴に気を付けて、病み上がりなんだから。もう俊喜にはまっちだっているんだから、昔みたいに好き勝手できる訳じゃないんだよ」


悟は日に日にまともな事を言うようになってきた。沙也加の妊娠からぴったり禁煙した悟は、まだガキは生まれてないけどもう親父になりつつある。


「分かってるよ」


そう言って、真知を見た。真知が小さく首を傾げると、俺の頭に真知の泣き顔が戻ってきた。もう、泣かせる訳にはいかないもんな。


「とりあえず、俺は俺なりに動いてみるから、ちゃんと反省したふりしろよ」


「俺は分かってるけど、時夫がめちゃくちゃキレてんの。どうすんの、あ、今、時夫が看板壊した。傷害に器物破損に、池谷に殴りかかったから公務執行妨害」


冷静に実況するなよ。


「時夫も悟と久人でどうにかして。今要もいるってさ、暴れてるらしいからそれもどうにかしてやって」


「えー、分かった。池谷に代わる?」


「いいや、面倒だし。明日の朝にでもそっち行くから。外でてまた喧嘩になったらアレだし、朝まで粘って警察にいろよ」


分かった、という悟の返事を聞いてから電話を切った。なんでこんな面倒な事になってるんだ。


「沢田さん、ですか?」


「いや、マル暴の方。池谷」


真知の声にそう返事をすると、マル暴?と真知が訳が分からないとでもいうような顔をした。そうですよね。


「組織犯罪対策っつーの?暴力団専門の刑事、みたいな」


俺のボキャブラリーの少なさ。テーブルに置かれたペヤングは特大サイズだった。俺の前に腰を降ろした津田がマル暴、と呟く。


「緒方さん、マル暴とも繋がってるんですか」


「まあ、成り行き」


ペヤングの蓋を開けると、綺麗にソースが混じっていた。津田さすがだ。割り箸で混ぜていると、シュンの顔が思い浮かんだ。



少年院に入った人間が、必ずしも反省して更生して帰ってくるとは限らない。逆に悪くなって帰ってきたりするものだ。周りの奴に影響されていく。悪い奴には、もっと上がいる。


でも、どうしてシュンが俺と敵対しなきゃいけないんだ。シュンとは仲が良かった筈だし、一緒にいたのは中三の夏休みのたった一ヶ月の間だけ。それに、少年院から出たシュンが鑑別止まりの俺に突っかかって来るなんてどうもおかしい。


別に鑑別や少年院に入ったからどうの、なんて話は理由になんてならないけど、俺達はやらかした事の重さが違う。まあ、俺はシュンが何をやらかして少年院に入ったのか知らないというのが事実だ。


シュンは俺が結婚したという事を知ってるのだろうか。俺はまだ18だけど、結婚して犯罪を犯すと成人と同じ扱いになるらしい。もし俺が刺されていなかったとして、シュンと喧嘩になっていたとしたら、俺はもしかしたら刑務所にぶちこまれてしまうのかもしれない。


たかが喧嘩で刑務所なんて最悪だけど、前にやらかした事は消えないから、初犯になんてなれっこないのだ。それが厄介な事だ。一応一家の大黒柱の俺は、捕まる訳にはいかない。


「あーあ、」


なんでこんな面倒臭いんだ。訳も分からず有名人になっちゃったりして、勝手に派閥を作られた俺の悲しい話。涙無しじゃ語れない壮絶なセンチメンタルストーリーだ。あれ、センチメンタルの意味ってなんだっけ?


首を傾げていると、手元に視線を感じた。真知がペヤングを凝視している。腹が減ってるのかもしれない。真知は俺と違って今日一日仕事をしている。なんだか俺はヒモ男みたいだ。嫌だそんなの。


真知の口元に箸で掬った焼きそばを持っていくと、目があった。


「食えよ」


視線を泳がせてから恐る恐る口を開いた真知の口の中に、箸を突っ込んで食べさせる。咀嚼する真知を見てにやけそうになった。やっぱり飯食ってるのが一番好き。


「美味いですか」


「美味しいです」


「そうか、良かったな」


そう言って焼きそばを食べようとすると、真知に手を掴まれた。俺の手を掴んだ真知の手は、第二関節のひび割れが治りかけている。口元寸前で止まった箸を、真知は見ていた。


「どうした、またか?」


俺の言葉に、我に返ったように俺の顔を見た真知が手を離した。真知からなかなか癖が抜けないのだ。


ふとした瞬間に真知は、俺と触れる事を極端に怖がる。キスの最中、腕を掴んだ瞬間、俺の髪を洗っている最中、それ以上にも沢山ある。ただ同じ箸を使っただけという、間接的な事でさえも、怖がったりするのだ。


「っ、申し訳ありません」


何も考えずに食べてしまいました、と真知が続ける。見えないものに怯える六年間は、そんな簡単に消えるものじゃない。真知の目がキョロキョロと泳いでいた。


「いいよ、ゆっくりな?まだ怖いよな。無理させてごめんな」


「すいませ、」


「いいって、」


真知の手が震えているのから目を逸らして焼きそばを食べた。不気味な女だと、思う。でもこれが真知の愛情表現で間違いなくて、なんて残酷で悲しいんだろうと、いつも思う。


俺は、真知に無理をさせている。分かってる。真知が俺に菌が移るという事に怯えているのは、分かってる。でも、ちゃんと触って関わって、菌がないって証明してやらないといけない。


俺が死ぬ時に、本当に菌がなかったと真知に教えてやる為にも、今から普通にならないといけなかった。


俺達の間に事情は腐る程にあった。乗り越えなきゃいけない事も山程あって、その上今は、派閥なんて面倒臭い話題が上がっている。


まずは明日になってからだ。警察署に行って、事情を確認しないといけない。俺の知らないところで俺の名前が出ていて、俺の知らない理由で争いになっている。最悪。


真知の震える手を何となく、成り行きのように握ると、少しずつ震えが止まってくる。でも、まだ震えたままだ。テーブルの上に食べかけのペヤングを置くと、津田が俺を見ていた。


「なんだよ」


「いや、緒方さん、奥さんには優しいんですね」


『には』ってなんだ、『には』って。


「何いってんだ、俺はお前にだって優しいだろうが。俺は紳士だぞ」


「いや、奥さんと一緒にいる所は初めて見たんで、あの、はい」


津田の歯切れの悪い話し方に若干苛立ちを感じつつ、さっきの金髪を見た。


「で?俺とシュンは何を争ってんの?」


「いや、それが、理由が何も上がってないんですよ、ただ敵対してるってだけで、」


ガキの敵対は案外適当。理屈は要らないらしい。そんな事で喧嘩になるなんて、この地域のガキもどうかしている。


そう思いながら、真知の手の震えが止まるのを待っていた。



この会話を繰り返して何回目だろうか。真知はいつになく強い目付きで俺を見上げている。いつも俺と目が合うと視線を泳がせる癖に、今は絶対に逸らしたりしない。溜め息をつきながら、口を開いた。


「早く帰れ」


「嫌です」


真知の即答は、さっきから変わらない。絶対に否定。俺達は早々と津田のマンションを出て、真知のマンションの前まで来た。それが、10分程前の事だ。


その10分間、俺達はずっとこの会話を繰り返している。真知が俺を送っていくと言って聞かないのだ。


俺は腕を組んで、真知の強い目から目を逸らした。強情過ぎるんだよ、この女。


「さっきの話聞いてただろ?派閥なんてのがあんだってさ。今、時夫も久人も悟も要も、喧嘩して警察署にいるんだよ。真知の顔があっちにバレてたら危ないだろ?分かってんの?」


「それなら尚更、貴方を送って行かなければなりません」


今の話で、なんで尚更なんて思うんだよ。溜め息を再びついても、真知の目は強いままだ。


「お前さ、こんな夜に一人で歩いて、あっちの派閥?の奴に見つかったらどうすんの?冗談抜きで犯されるぞ」


「私の事は構いません」


自分の事に無頓着過ぎる。頭に血が上って仕方がない。


「じゃあ、俺以外の奴にキスされてもお前は正常でいられんのかよ、あ?俺以外に舌突っ込まれて口の中舐め回されてもいいって言うのかよ。言っとくけどな、離してって言われて黙ってキスやめてくれるような紳士は俺以外なかなかいないんだからな?分かってんのかお前」


「っ、」


真知が黙り込んだ。少し言い過ぎた気もするけど、仕方ない。真知と繋がった手を、真知が強く握るのが分かった。


「男ナメるなよ。お前の力なんかな、男には敵わねーよ。そういうのもっと自覚しろよ」


「別に!私はどうなっても構いません」


話にならなくて苛々する。無理矢理真知と繋いだ手を引き寄せると、真知はすんなり俺の方に引き寄せられた。こんな細い癖に、本当に馬鹿な女。


依然として俺を見上げる真知に顔を近付けて、極力冷めた目で見つめた。


「お前俺が他の女とキスしてていいのかよ?俺が他の女のものになって平気でいられんのかよ?俺が他の女とセックスしててもいいのかよ?」


「っ、」


「お前がいいって言うなら、今すぐそこら辺の女引っかけてきてお前の目の前でキスしてイチャイチャしてやるよ。それでもいいのかって聞いてんだ、答えろ」


真知の目に薄く涙の膜が張る。完全に言い過ぎた。でも、今更引き返せない。


「………嫌、です」


小さい声で、真知が呟くようにそう言った。少し安心した。ここでまた意地を張られて、別にいいですなんて言われたら、俺はショックで号泣していただろう。


真知が俺から目を逸らす。また、俺が泣かせた。最悪だ。できる限りの優しい声で、俺は言う。


「そうだろ?なら自分の事はどうでもいいなんて二度と言うな。お前が良くても、俺は嫌なんだよ。もっと自分を大事にしろよ」


「っ、ごめんなさい」


ただの一般常識を教えるだけなのに、泣かせられるまで言われないと分からないなんて、真知はどれだけ理解力が足りないんだ。俯いた真知のつむじが目に入る。


頭を撫でると、外の空気に冷やされた真知の髪が冷たかった。あんまり外にいると、風邪を引くかもしれない。


「俺も強く言ってごめんな、ほら、早く帰れ」


頭から手を離すと、真知が涙の溜まった目で俺を睨んだ。可愛いのか怖いのかどっちかにしてくれ。まあ、真知の睨みなんて全く怖くないのが正直な所。


「嫌です、送っていきます」


「真知、今までの話ちゃんと聞いてたか?」


思わず苦笑いした。真知は、聞いていました、と返事をする。聞いてたなら分かると思うんだけど、それは俺が間違ってるのか?


「なんで俺がお前に送られなきゃいけないんだよ」


「危険だからです。心配だからです。」


俺のどこが危険?何を心配するんだ?浮気か?そんなの心配されなくたってしねーよ!と心の中で叫ぶ。真剣な表情の真知の下睫毛に涙が引っ掛かっていた。


「お前が一人でほっつき歩いてた方がよっぽど危険で心配だっつーの、」


「ご心配には及びません。私は大丈夫です」


「だから!もっと自分を大事にしろって今言ったばっかりだろ?お前さ、結構鈍臭いんだから大丈夫な訳がないだろ。走るの遅いくせに」


真知のコンプレックスを突いたそれに、少しやってしまったと思ったが、真知は眉間にシワを寄せた。


「っ、脚力は関係ありません!」


「関係あるだろ、大有りだろ、」


向き合って勝てないなら逃げるのが確実に勝てる方法だと言っても過言ではない。逃げるが勝ち、なんて格言か何かもあった気がする。


「大丈夫です!私は貴方くらい守れます!」


「なんで俺がお前に守られる事になってんだ!?」


思わず突っ込むと、守ります、と繰り返す。何こいつ、戦国武将?戦国武将の生まれ変わりとかそんな感じ?こんな鈍臭い戦国武将いたのか?


「だから、派閥の話聞いてただろ?危ないんだって、」


「だから私も貴方を一人で帰す訳にはいかないと言ってるんです」


何故俺?首を傾げると、真知の手に込められた力が少しだけ強くなった。


「貴方は病み上がりです。腹部を狙われたら傷が開いてしまう可能性があります」


「大丈夫だよそんなんどうにかするし、」


「では、その大丈夫だと言う根拠は何ですか?具体策を教えてください」


俺は黙り込んだ。確かに具体策なんてものは考えていなかった。インテリ怖い。真知が俺から目を逸らす。


「怖いって、言ったのに、忘れたならもう知らないっ、もういいです、馬鹿!」


本物のインテリに馬鹿って言われると言い返せないのはどうしてなんだろう。もういいと言いながらも手を離さない真知は俺から顔を背けた。


睫毛が小刻みに震えているのが見えて、泣くのを堪えている事が分かった。本当にすぐに泣く。


「忘れてねーよ」


「貴方はいつも私をからかってっ、笑ってるくせにっ、離れないって言ったのにっ、馬鹿!」


「もう馬鹿って言うなよ」


後頭部を掴んで無理矢理顔を向けさせると、目から涙が溢れた。


「泣くなよ、真知」


「泣いてませんっ、」


「泣いてんじゃん、泣き虫」


俯く真知の髪をぐしゃぐしゃに撫でて、なんでこんなに真知が好きなのか考えようとして、やめた。なんだか馬鹿っぽいから。


「離れたくないならそう言えよ」


すぐ泣く女なんて面倒臭くて嫌いだったのに。人って変わるものだ。真知を抱き寄せて、頭に頬を乗せた。線香の匂いがする。公共の場で女を抱き締めるなんて、俺も相当頭がイっているらしい。


真知が俺の胸を押した。それを封じ込めるように、背中に手を回す。


「離れて下さいっ、」


「うん、待てよ。もうちょっと」


なんか、安心する。あんまり暴れないから、安心する。線香の匂いなんて物騒な匂いなのに、安心する。俺、実は真知に守られてたのかもしれない。俺が死ななかったのは、真知がいたからかもしれない。


夜通し泣いていた真知の涙に引き寄せられて戻ってきたのかもしれない。だって俺、真知が泣いてるのを他の人間に見られるのが心底嫌いだから。


「離れたくなくなるからっ、早く離れて下さいっ、」


「ん?もう良くね?離れなくていいじゃん」


離れたくないなら、離れなくていい。無責任だけど、お互い同じならもうそれでいい気がした。俺は言った。


「今日泊まってく」


何かするとかしないとか、そんなの関係ない。一緒にいるって結構な奇跡に近いと思う。もしかしたら俺も真知も、会う前にどっかで死んでたかもしれなくて、でも今生きて一緒にいるって、凄い確率だと、思う。


こんな事を思う自分に寒気がした。真知の体を離すと、視線が交わる。


「今日はここにいて、明日の朝俺ん家行けば良くね?そしたら真知は俺の事送っていけるじゃん」


「あ、そうですね、」


「ですよね、」


納得したらしい真知の手を引いて、マンションに入った。最初から泊まるって道を選んでおけばよかった。まあ、下心のない紳士な俺がこの選択を選択肢の中に入れていなかったのは事実。


だって、泊まるなんて言ったら、する事一つしかなくね!?よって俺はそんな下心が一切無かったから考え付かなかったのだ。待つ男、緒方俊喜。


邪な事を出来るだけ考えないようにしながら、エレベーターに乗り込んだ。寝れる。俺は今余裕で寝れる。そう暗示をかけつつ、真知の何も考えていなさそうな横顔を見ていた。


例えば今目の前にいるのがお袋だったとしたら、俺は多分吐血する。来るなと叫ぶ。でも、今の場合は、別の意味で来るなと叫びたい。


ベッドに胡座をかいた俺の前に膝をついている真知は、俺の濡れた髪をタオルで拭いている。この二週間ずっと思っていたけど、苦しい。これはきつい。


どうして目の前に真知の胸元が来るんだ。体勢的に仕方がないというのは重々承知しているけど、別に真知が下着姿とかそんな訳ではないけど、気になるんだよ!来るな!頼むから来るな!紳士な俺が家出しちまうだろうが!


「いかがされましたか?」


「何もしてません」


頭上から聞こえる真知の声にそう返すと、真知が俺の前にぺたりと座り込んだ。腕捲りしたパーカーの袖から覗くリストカットの痕にはだいぶ慣れたけど、見るたびに押し潰されそうになる。


「髪の毛、伸びましたね」


「あー、そうかも」


前に切ったのは三ヶ月前もだった気がする。目にかかる前髪が邪魔以外の何物でもない。もうそろそろ、短く切ってみようかとふと思った。


中学の頃からほとんど長さが変わっていなくて、いい加減飽きた。バッサリいこうかな。


「明日切りに行くかな、俺ニートで暇だし」


「貴方の場合はニートではなく休職です」


どっかのクソガキのせいで暇をもて余すしかない貧乏人。いや、でもそれ以上に問題なのは。


「まさかの産休だからな。しかも俺が産む方の立場だからな、妊婦だからな」


「おめでとうございます」


「なんでそんな他人事?」


苦笑いすると、真知が元気なお子さんを産んでくださいね、と言う。ごめんなんか泣きそうだからやめて下さい。


不意に真知と視線が交わって、黙り込んだ。変な気分にならないように、頭の中で時夫の腹踊りをひたすら思い浮かべる。


「あの、」


「ん?」


「明日、警察署に、行かれるんですよね?」


黙って頷くと、真知が俺の顔を覗き込んできた。


「菊地さんに、お会いになるんですか?」


「え?」


なんで?首を傾げると、真知が唾を飲み込んだのか喉が動く。


「それだけは、やめてください。気になってしまうのは分かりますが、もしかしたら、次は、」


真知が口を噤んで、頭を下げた。真知が言おうとして言わなかった言葉は、分かってる。殺されるかもしれない、だ。


「もう、お願いですから、これ以上はやめてください」


「真知、」


「貴方は自分を省みない傾向があります。誰かの事を考えすぎています。それをやめて欲しいとは言いませんから、せめて私の気持ちを考えてください。これは単なる私の我が儘でしかありませんが、これ以外の我が儘は言いませんから、お願いします」


自分を省みないって、そっちこそそうだろと言いたかったけど、言わなかった。はっきりとした我が儘の提示に、息が詰まる。わざわざ頭を下げられて言われるそれは、我が儘なのか、否か。


別に明日会いに行こうと思っていた訳ではないけど、俺は菊地に話を聞くべきだと思っていた。清春にはもう会ったし、生きていると分かった。だけど、菊地のあの目が妙に気になる。


どうして、富田紗英をつけていたのかも、気になる。でも、真知が俺に頭を下げている。その頭に手を乗せて、撫でた。


「分かった、会わないから」


「本当ですか?」


「うん、約束する」


真知が頭を上げて、少し震える息を吐いた。また泣きそうになってたのかよ。茶色い目が瞬きしていて、長い睫毛が音を立てるように動いている。


「泣くなよ、もう心配かけないから」


「泣いてません」


「泣いてんじゃん、馬鹿」


俯こうとする真知の前髪を掻き上げると、潤んだ目と目が合った。泣いてるし、普通に。目を逸らした真知の顔に顔を近付けると、真知の目が泳ぐ。


「お前そんな泣いてどうすんだよ、そんなに俺の事好きですか」


「違いますっ!」


即答。ついでに顔も背けられた。


「えー、好きじゃねーのかよ、俺泣いちゃうけど」


「勝手に泣いて下さい」


「え、マジで泣くけど」


そう言いながら真知の顔を覗き込むと、真知に肩を押された。ベッドに倒れ込んだ衝撃が少し腹に響く。


「いって!」


「あ、ごめんなさい!」


俺の腹を擦ろうと伸ばした真知の手を掴んで、自分の方に引き寄せた。真知の両肘が顔の両脇につく。完全に俺が真知に押し倒されてるような体勢だ。


顔の近さに目を見開いた真知が起き上がろうとするのを、後頭部を掴んで引き止める。真知の目を真っ直ぐに見た。唇がもうすぐ触れそうな程に近付いているのを気にせず、口を開く。


「俺の事嫌いですか?」


「っ、」


真知が逃げようと身を引くから、顔の横の細い腕を掴んだ。


「言えよ」


左手首の傷の凸凹を撫でると、真知が無表情でゆっくりと口を開いた。やけに扇情的で、目が離せなくなる。


「嫌いじゃ、ない」


「そうじゃねーだろ?」


「……あいし、」


「そっちはまだ駄目」


真知が口を噤んだ。駄目だ。この状態で言われたら、もう無理。紳士の俺が家出する。真知の視線から逃れるように目を逸らした。


「つーか、一緒に住むか?」


「はい?」


「ここは家賃高そうだから無理だけど、そこら辺のアパート借りて二人で住むか?そしたら、ずっと一緒だけど」


貯金額を頭に思い浮かべると、敷金礼金は余裕で払えるくらいあるはずだ。貧乏性は意外と役立った。真知の前髪を軽く掴んで、視線を戻す。


「俺とずっと一緒は嫌とか、言っちゃう?」


「いや、あの、だって、」


視線を泳がせる真知に、にやりと笑った。


「あ、もしかしてアッチの心配してんのか?真知のエッチ」


「違いますっ!」


真知の顔が一気に赤くなる。それに構わず、すぐ傍の唇に唇を重ねた。一瞬で離したが、距離は僅か、だ。


「『好きにしていいよ?』」


自分の思っている事を言ったのは確かだったけど、催促するように、真知の目を見る。それが、微かに揺れた。


「好きに、」


「駄目」


「っ、」


意外と従順。復唱しようとしたそれを遮って、真知の髪を耳にかける。


「今は一応病み上がりだから、したくても出来ないわけね、俺」


「……何をするんですか?」


「……俺に言わせる?」


苦笑いすると、その意味を悟ったらしい。真知が目を見開いて、逸らした。めちゃめちゃ純粋じゃねーか。笑いを噛み殺しながら、真知の腰に手を回す。細い腰だこと。


「だってさ、夢中になりすぎて傷開いて死んだら、マジで大変なことになるじゃん?」


「む、夢中?」


「そう、夢中。だから、」


言葉を切って、目を見つめた。


「俺に触られてもいいと思ったら、言って」


「っ、」


「これだけは急がないから、無理矢理はしたくないし、待っててやるよ。俺、紳士だし?」


本当は、もう限界だったりする。本当は、欲しくて欲しくて仕方ない。でも、まだ触れる事を時々怖がる真知に強制することが出来る程、酷い人間にはなれない。


「俺とのガキが欲しくなったら言えよ。いつでも付き合ってやるから」


真知の目は揺れながらも、逃げない。恐る恐る、真知の手が俺の髪を掻き上げた。赤い唇に指を這わせると、動きが止まった。


「キス、しろ」


「っ、」


「好きにしていいから」


瞼が、震えながらも静かに伏せられる。その視線の先にあるのはきっと、俺の唇。指を耳元に滑らせると、真知の肩がびくりと揺れた。


この女の焦らしは、多分無意識。早くと思えば思うほど、僅かな距離を縮める為の時間が長く感じる。


「…早くしろよ」


そう言った次の瞬間、震える唇が着地した。触れるか触れないかをキープするそれがもどかしくて、後頭部を掴んで引き寄せた。


ぐちゃりと音を立てるように重なる。真知の唇が熱くて、それが角度を変えて深められた。


たった二週間でキスを教え込まれた真知は、恐る恐る舌を突っ込んでくる。それを迎え入れてやると、舌と舌がぶつかった。口の中で鳴った音に頭を犯される。


ぎこちなく口の中をまさぐる真知のキスが下手くそ過ぎて、欲情した。俺って変態かもしれない。


俺のキスを再現しようとしているのか、真知に舌を啜られた。これはいつも適当に気分でやってたけど、案外いいものだったらしい。頭が熱くなる。キスが下手くそ過ぎて、もどかしい。


息継ぎの時に出る真知の声が、理性を切り離し始める。真知の舌の先を軽く噛みながら唾液を飲み込むと、真知の体がそれに反応した。


それでも無我夢中の真知は多分、怖がっていた。


ふとした瞬間に我に返った自分に気付く事を、恐れている。真知が俺の前髪を掴んだ手も、頬に当たる手も、洩れる息も、震えている。


あやすように髪に指を絡めたのと同時に、飲み込めなかったどちらともない唾液が口の端から溢れた。空気で瞬時に冷やされたそれに鳥肌が立つ。


キスで融かされると思った。もし俺がこの女の中に融けてしまえたら、怯えるこいつを一生見なくて済むのかもしれない。


異常な程に震える女の中に、融けてしまいたい。


絡められた舌がゆっくりと引き抜かれて、唇が離れた。荒れる呼吸を繰り返す真知の潤んだ目でさえ、俺の物になればいい。俺がこの女の物なら、この女の全部を俺の物にしたい。


前言撤回、俺はもう待てない。


細い腰を掴んで横に投げた。仰向けになった真知に跨がって、腕を掴む。見開いた真知の目を見る俺の目は、さぞオカシクなっている事だろう。


真知が体を捩って逃げようとするのを、顔を近付ける事で止めた。


「……誰が逃がすかよ」


「っ、」


吸い込まれるように唇を重ねて、隙間もない程に真知の呼吸を奪っていく。頭の中で警報が鳴っている。これ以上したら、もう戻れなくなる。そう分かってるのに、止められない。


パーカーの裾から、手を突っ込んだ。頬と同じ感触が、手のひらに伝わってくる。交わったままの真知の目がゆらりと揺れた。


それに構わず唇を離して、首筋に舌を滑らせる。


「っ、あ、と、俊喜、」


「あ?」


耳を舐めると、真知の体が可哀想なくらいに反応した。耳が弱いらしい。舌を突っ込むと、逃げようとする。


「っ、……っ、っ!」


「我慢するくらいなら出せば?」


「っ、な、…っ!なに、」


「声」


唾液がぐちゃぐちゃと音を立てる。ただ少し、少し欲しかっただけだ。なのに。


「っ、…っ!」


反応しながらも声を堪える真知の首筋に、くっきりと筋が浮かぶ。もう、無理だ。


唇に軽くキスを落として、顔を見下げた。さっきのキスのせいか、赤みが増した、艶っぽい唇から息が洩れる。


それを見ながら笑う。いい眺め。極限まで潤んだ目に、心は痛まなかった。もっと泣けばいいと、加虐心が疼く。


「離れて、」


「無理」


腹を撫でていた手で胸を包んだ瞬間、真知の目尻から涙がぼろりと溢れた。


「俊喜、」


肩を弱い力で押される。震える手が、真知の口を隠す。


「怖い」


「っ、」


「移っちゃう、怖い、嫌だ、俊喜怖いっ、」


震える声と一緒に俺を見る目が、酷く怯えていた。


服から慌てて手を引き抜くと、真知の体を起こす。震えるそれを止めるように、抱き締めた。俺、最悪。



「ごめん」


「怖いっ、俊喜に移るっ、やだ、」


俺が怖いのか、菌が怖いのか、分からない。でも、俺が怖がらせた事に間違いはなくて、弱い力で離そうとするのを振り切るように、きつく抱き締めた。


「大丈夫、俺が悪かった、ごめんな」


「もう離れないとっ、離れないと移るよっ、」


「移らねーよ、ごめんな、怖がらせてごめん」


背中を擦ると、真知の嗚咽が聞こえた。それがぐさりと突き刺さる。泣かせたのは俺で、あれだけもっと泣けばいいと思ったのに、泣かれたら苦しいなんて、俺は身勝手だ。


「も、移る、移ったら、どうすればいいっ?」


「移らないから、大丈夫だから。怖いよな、ごめんな」


怖がらせた。真知を怯えさせたのは、きっと俺で。無理矢理、事に及ぼうとした俺は、馬鹿だ。


「ごめんなさ、ごめんなさいっ」


「いいよ、待ってるって言ったのに、ごめんな」


震える、細い体が縮こまる。音が聞こえる荒い呼吸に、泣きたくなった。自業自得、それでも、飛び越えられない六年が、苦しい。


「私に、近寄らない方がいいっ」


「嫌だ」


「本当に移るんだよっ、移るのっ!」


消えない六年間の苦しみの全てを真知は消してしまった。残ったのはありもしない菌を信じる事だけで、そこに浮かぶのはきっと、俺への恋愛感情と、菌への恐怖。


「お前がいい」


お前がいい、掠れた俺の声だけを、真知の耳に送り込んだ。情けなくて、どうしようもない。


飛び越えたいのに、飛び越えられない。触れたいのに、やっと触れられたのに、怖がらせる事しかできない。


「好きっ、なのに、なんで、こんな近くにいるのっ、」


真知の台詞は、絶対に間違っていた。遠ざける理由が、逆で、間違ってる。


「好きなら、俺を離すな」


「っ、でもっ」


「俺は絶対に逃げないから、お前も俺から逃げるなよ。俺を逃がすんじゃねーよ」


感情だけは、痛いくらい重なってる筈なのに、洗脳はそれを遮る。真知の震える手が、俺のTシャツの胸元を掴んだ。


「そう、逃がすなよ。俺もお前を逃がさない」


「っ、」


「誰が逃がすかよ、馬鹿」


どうしても、欲しい。喉から手が出る程欲しいのに、届きそうもない。それを掴むにはもっと時間がかかる。


真知の笑顔が、欲しい。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ