天国と夢の中の天使
「おう、お楽しみの所悪いな、クソガキ」
「いやマジで勘弁してくれません?ちょっと出てけよ」
無意味に爪楊枝を噛む癖は未だに直っていないらしい。羽塚が椅子に座り直した真知の隣に立つ。
「お前また変な事に首突っ込みやがったな?ガキの癖に二度もここに来やがって。勘弁しろよ」
「…すいません」
「お前、後数ミリ傷口がずれてたら死んでたぞ」
苦笑いしながら周りを見渡した。白い壁に大量の医療器具が並べられたそこは、前に来た時とは違う場所だということが分かった。
何ヵ月かに一回、足がつかないように場所を変える話は聞いた事がある。
羽塚がにやりと笑うと、汚い歯が見えた。
「お前、結婚したんだってな、この嬢ちゃんと」
「そうですけど」
「お前がエッチってうるさいとタマから聞いたからな、輸血は綺麗な血使ってやったから感謝しろよ」
「え、マジで」
そんな事言ったっけ?よく覚えていない。
「言ってたぞ、早く俺を突っ込んで腰振れよってな、」
タマさんの声が聞こえたと思ったら、タマさんが部屋に入ってきた。ボルドーのシャツにスキンヘッド、いかにもヤクザと言うような風貌。
早く俺を突っ込んで腰振れ、か。なんて下品な事を言ってたんだ俺は。顔を手で覆う。恥ずかしい。
「お前、清春を探ってたのか」
タマさんの真面目な声に、俺の頭が回り出す。最後に見た、あのガキのダウンの胸元が再生される。清春と同じ制服のボタンが焼き付いて離れなかった。
「俊喜お疲れちゃん、久しぶり」
顔を覆っていた手を退けると、矢崎組の若頭がドアから登場した。黒髪のパーマのかかった髪にスーツ。絶対にヤクザには見えない、甘い顔立ち。若頭の矢崎竜さん。俺の一個上だ。
「お疲れ様です」
その言葉ににっこりと笑う竜さんに後ろから抱き締められて入ってきたのは、好青年みたいな顔をした団栗眼の、ダークブラウンの髪のガキだった。そのガキは俺に頭を下げる。竜さんがガキの頭を撫でて、俺に苦笑いした。
「ごめんね、俊喜、こいつ、清春なんだ」
は?清春?この好青年みたいな顔をしたガキが?
「俊喜さん、本当にすいませんでした、俺のせいで、本当にっ、」
清春の声だった。妙に気が抜けて、俺は溜め息をつく。
「俺に謝る前に要に謝れよ」
どれだけ心配したと思ってるんだ。特に要は、ずっと清春を心配していた。
そして俺は、ずっと俺の中にあった言葉を、口にした。
「お前、富田紗英の親、殺しただろ」
顔を上げた清春が視線を泳がせて、頷く。俺の読みは、間違っちゃいなかったんだ。
まず、清春の部屋にはボコボコに殴られた女、サエがいた。それを俺は見ている。清春はサエに惚れていた。その上、サエが家庭内暴力を受けている事を知っていた。そして、清春は毎日、真知のマンションのエントランスでサエを待っていた。
次に、あの金持ち夫婦の事件。その夫婦はサエの両親だった。金持ちを殺したのに一切金品は盗まれていない。その理由は怨恨だ。
清春は、サエが好きだった。相当惚れ込んでいた。家庭内暴力で苦しむサエを救いたいと清春が思ったとしたら、どうする?
俺より少しは頭がいいって言っても、元々は血の気の多いガキだ。例え自分が犠牲になったとしても、最も単純にサエを救い出す方法は、一つしか浮かばない筈だ。
清春は、サエの両親を殺した。あのクリスマスイブの金持ち夫婦の殺人事件の犯人は、清春だ。
でも、どうしてそこで矢崎組が出てきたのか、全く分からない。
「紗英のケータイから、父親の番号を盗んで、脅しの電話を掛けました。全部知ってるって、広められたくなければ黙ってあの路地裏に二人揃って来い、と。それで、殺しました」
ポツリと、清春が呟いた。
「最初は、出頭する気だったんだよ。でも、タマさんと偶然会って、矢崎組の内情を知って、清春はこの道を選ぶしかなかったんだ」
ごめんね、と竜さんが俺に頭を下げた。
「俊喜がこんな事になるとは思ってなかったし、巻き込みたくなかったから言わなかった。言っておけば良かったね」
竜さんの謝罪に、首を横に振った。俺の頭に蘇る猛烈な後悔。清春を死んだ事にしなきゃいけない原因を作ったのは、俺だったからだ。
竜さんは静かに話始めた。あの12月の事件の裏で、矢崎組が清春を死んだ事にしなくてはならなかった理由を。
前に池谷から聞いた田代敬介に手を焼いていた時期がちょうどその頃だったらしい。その田代敬介の顧客の中の一人にいたのが、富田紗英の父親の富田祐次郎だった。
田代を捕まえた矢崎組は、顧客の中の一人、富田祐次郎に会うつもりだった。あの12月の事件の日、タマさんは富田祐次郎に会いに行こうとしていたのだ。その時たまたま、タマさんは清春と会ったらしい。
清春は富田紗英の両親を殺した直後だった。その話を聞いたタマさんは、清春を匿った。理由は、もっと他にある。
ヤクザ同士の縄張り争いが起こったのだ。矢崎組がみかじめ料を取っていた店を、矢崎組が敵対する関西に拠点を置く広域指定暴力団坂城興業のチンピラに荒らされた上に、組長が撃たれたのだ。ここだけは俺も知っていた。
組長が瀕死の重傷を負った矢崎組とそれを仕掛けた坂城興業は抗争寸前。矢崎組は、坂城興業にも、そして借金を踏み倒し寸前だった田代敬介にも落とし前をつけなければならなかったのだ。
だが、清春は田代敬介の顧客の富田祐次郎を殺してしまった。清春が自首したら、警察に無理矢理、矢崎組と清春の関係をこじつけられてガサに入られてしまう。落とし前をつける前に。
それが困りものだったのだ。警察には警察のルールがあるのと同じように、ヤクザにはヤクザのルールがある。
だから、清春を匿った。死んだ事にした。消し炭になるまで焼いた田代の遺体と清春の私物を一緒に置いたのだ。
「俺は後悔してません、紗英の親を殺した事も、死んだ事にした事も、」
清春の言葉に、苦しくなった。
「俺は、俺は後悔してる、」
「っ、」
「俺はあの時、清春があの女の親を殺すんじゃないかって、薄々気付いてた。なのに止めてやれなかった、」
清春の目が見開く。俺は自分をぶん殴ってやりたかった。清春の返事を鵜呑みにして安心した俺が馬鹿だった。あの時もっと強く引き留めていたら、あの時感じた妙な胸騒ぎを真剣に受け止めていたら、絶対にこんな事にはならなかった。
受け止める側で変わってしまう言葉の重さ。俺がもっと強く、重く清春に言って聞かせれば良かった。女を助ける方法は殺し以外にだっていくらでもあるんだと、言えば良かった。
「俺はガキだから、お前が富田紗英を守りたかったって気持ちは認めるよ、でも、他にも違う方法があったんじゃないのか?殺さなくたって、良かったんじゃないのか?」
「俊喜さん、」
「綺麗事言ってんだって、わかってんだよ、でも、」
例えば、清春のガキが生まれたとする。それで、人殺しのガキだってバレて、虐められたら?真知みたいなガキが増えたら?そしたら世の中どうなっちまうんだよ。
「ごめん、清春。ごめんな、」
俺のせいだ。頭を下げた。本当の死にたがりを、俺は知ってる。俺の隣にいる女の気持ち悪さを、不気味さを、俺は知ってる。
それは人を殺すという禁忌が作り上げた、人間が作った産物だ。もっとも、人間は人間にしか作れない。人間は人間に生かされて、人間は人間に殺される。
真知が俺の腕を掴んだ。その手が冷たくて、俺の目頭は熱くなってくる。真知に会わなかったら、一生分からなかった。人を殺すという本当の意味も、言葉の重さも、何もかも、俺は知らなかった。
傷が痛い。生きてて良かった。感情が入り雑じって、何が何だか分からない。
泣きたい。怒りたい。終わった事はどうしても取り戻せなくて、それがこれからの時間を作るから、何度振り返っても、生きるしかない。前を見て生きるしかないんだ。
「頭上げてください、俊喜さんは何も悪くありません、」
「俊喜、傷に障ります、」
二人の言葉に頭を上げると、清春を真っ直ぐに見た。
「これからの事は、お前が決めろ、でも、富田紗英に会いに行け」
「は?」
清春が首を傾げた。その後に自嘲するように笑う。
「無理ですよ、会うなんて、」
「俺、津田に富田紗英の事調べて貰ってた。富田紗英が毎晩どこにいるか知ってるか?」
清春の目がゆらりと揺れた。
「あの路地裏だ。毎晩そこにいる。富田紗英もお前を思ってるよ」
狂ってると、思う。事情を知らない奴からしたら、どう考えてもおかしいと思う。体裁はおしどり夫婦を気取っていた両親が無惨に殺された場所に、毎日足を運ぶ。思い出したくもない筈なのに、それを忘れないように、毎日思い出すんだ。
それが意味している事。富田紗英は両親の死を悼んでいない。むしろ、その逆だ。だって富田紗英は、両親に虐待を受けていたんだから。
清春が俯く。
「俺は、もう二度と紗英に会わないと決めたんです」
「それなら、桐原清春としてじゃなく、別の人間として会いに行け、一回だけでいいから」
誰だって失敗くらいする。清春は間違った選択をしてしまったけど、その報酬くらい、あったっていいじゃないか。
そう思う俺は、まだガキだ。清春に自首しろと言えない俺は、まだガキだ。
物事には何にでもルールがある。一般社会のルール、警察のルール、ヤクザのルール、オトナのルール、ガキのルール。
間違いを犯した者のルールからは逸脱するけど、タマさんのなくなった小指は確実に、清春が死ぬ代わりにタマさんがヤクザのルールに則った行動をしたという事を示していた。
後輩への不行き届き、落とし前。切り落とした小指は、タマさんをこの世界に留める理由になる。
「俺も、これからどうしろなんて言わないよ。清春くらい、組で養っていけるよ。だから清春、紗英ちゃんに会ってきな」
竜さんの言葉に、清春が小さく頷いた。竜さんはにっこりと笑って、俺のベッドに腰掛けた。
「俊喜も素人なのによくここまで調べたね。どう?矢崎組に入ってみない?今ならいい役職につかせてあげるよ?」
「遠慮しときます」
即答すると、竜さんが俺の腹を撫でた。
「まっちには俺のハニーの服を貸したよ。血塗れだったからね」
ハニーってなんだよ。相変わらずチャラチャラしてる竜さんに苦笑いする。真知の着ている白いプルオーバーパーカーは確かに真っ白で綺麗だった。
「すいません」
竜さんは首を傾げながら肩を竦める。やっぱりヤクザには見えない。
お洒落過ぎてイケメン過ぎるホストって感じだ。
「で?矢崎組に入ってみない?まっちはどう?俊喜のかっこいいスーツ姿とか見てみたくない?スーツでヤクザプレイとかしてみたくない?」
「ちょっとやめてくれません!?ヤクザプレイって何!?」
「あ、まだエッチしてないんだっけね」
「黙ってくれませんか」
大体、スーツくらい着たことあるし。俺の冷たい視線が届かないらしい竜さんは真知に笑いかけた。真知はそれを無表情で見ている。強いな、おい。
「まっち、旦那さんがヤクザとか相当かっこいいよ?どう?まっちからも俊喜に勧めてくれない?」
「頭、やめろ。政治家の娘だぞ」
タマさんの台詞に、竜さんがそうなの?と言う。待て、どうしてそこまで知ってるんだ?調べたのか?
真知は無表情で口を開く。
「俊喜の人生は俊喜が決める事ですので、私には何も言えません」
出た。放任主義。さっきまではピーピー泣いてた癖にこうだ。ツンデレ小悪魔にも程がある。
「ただ、毎日帰ってこられるのか分からないような危険な職業は避けていただきたいと、私は思っていますが」
真知が俺の結婚指輪を触りながらそう言った。俺が人を殺すとかいう理由よりも俺の命を取ったんだ。可愛い女。
「だそうです、という事でお断りします」
「でも俊喜、今日仕事は?」
「あ!」
忘れてた。ベッドから出ようと動くと、激痛。踞ると、真知が背中を擦ってきた。
「うっそ、心配しないで。時夫に連絡したから、これから二ヶ月休職することになってるから。産休で。妊婦さんは元の体型に戻すまでが大変だよね」
「いや、俺子供産まないんですけど」
「腹痛いんだからそういう事でいいじゃん」
「すいません誰ですか竜さんに連絡頼んだの誰ですか」
「俺が自主的に連絡したよ」
どうしてそんな事をしたんだ…!?竜さんの悪魔の笑みに脂汗をかきながら苦笑いする。竜さんはベッドから飛び降りた。
「ポチー、俺をハニーの所に連れてってー」
側近のポチさんを呼びながら部屋を出ていった。まるで嵐だ。八木なんかよりもよっぽどたちが悪い。
「とりあえず、お前はこれから二週間はここに入院だ」
本当なら一週間後に移動の話だったのに、と文句を言いながら羽塚が出ていく。それに続いてタマさんが出ていって、清春がポツンと立っていた。
堂々としている俺の記憶の中の清春とは比べ物にならないくらい、頼りないように見える。
「清春、座れよ」
「はい、すいません」
真知の隣にパイプ椅子を出した清春がそこに座った。それにしても、前の面影が一切ない顔。
「顔、整形したのか」
「はい、裏ルートでですけど」
闇外科医に、闇美容整形外科医もいるのか。最大規模のヤクザってのは恐ろしい。
真知に手伝って貰って体勢を戻すと、一息ついた。まるで介護されてるみたいだ。
「真知、話聞いてたら分かると思うけど、こいつ清春だって」
「なんですかその言い方」
苦笑いを浮かべる清春に、真知が富田紗英と同じマンションに住んでいる事を告げた。そこから徐々に繋がったという事も、富田紗英を尾行していたら知らないガキも富田紗英を尾行していて、そいつに刺されたという事も話す。
真知を見てから清春を見た。
「んで、まあ、俺の奥さんの真知」
「緒方真知です」
「あ、桐原清春、です」
丁寧に頭を下げる真知と、訳が分からなさそうに軽く頭は下げた清春。知らない奴同士がいつの間にか繋がってるって、意外と沢山ある事なのかもしれない。
「俊喜さん、いつ結婚したんですか」
「4月」
「そうじゃなくて、お子さんは?」
「え、いないけど」
な?と真知に言うと、真知は頷いた。清春が嘘だ、と呟く。いつもそう言われるけど、俺はそんなにどうしようもない男に見えるのか?
「タマさんから聞いてるかと思ってたけど聞いてなかったのか」
「いや、あんまり知り合いの話されると反応に困るんで、話さないでくれって頼んでたんですよ」
「そうか」
一言で止まる情報。今は組以外と外との繋がりを持たない清春が情報を得る手段は組でしかない。俺を見る二人組は似た者同士だ。妙な愛情表現とか、特に。
「まあ、お前ら同い年だし、な」
「あ、マジですか」
「マジだ」
清春が真知を見て、真知は小さく頭を下げた。
真知は依然として俺の左手を触っている。昨日まではあんなに触るのを躊躇っていたのに、この差はなんだ。
箍が外れたのは、俺も真知も一緒だった。今までの分を埋めるように、どこかはずっと触れたまま。真知が俺を見た。
「お母さんには私からご連絡しておきました、ご心配なさっていたので、後からご連絡をした方が宜しいかと、」
「あ?真知から元気だって言っといて」
「どこからどう見ても元気そうには見えません」
「心が元気なんだよバカヤロー」
真知の目が赤い。壁に掛けられた丸い時計の時間はもう朝の9時を過ぎていて、夜通し泣いていたという事が分かった。笑う事を知らない女の感情表現はいつも涙だ。
清春が俺と真知を交互に見て、苦笑いする。
「なんで敬語なんですか?そういうプレイ?」
なんですぐプレイに持っていくんだ?
「朝からやめようか清春ちゃん」
「すいません」
真知は聖にも敬語を遣う。年下だと言ってるのに、敬語。癖なのかもしれないが、人を対等に扱っているという証拠でもあるのかもしれない。
まあ、泣いて意識が錯乱してる時は敬語じゃないけど。俺は案外敬語じゃない方が好きだったりするけど、慣れたからどうでもよくなってきている。
VネックのロンTを着た清春の首もとに誰のものか分からないキスマークがついていた。人は簡単には変わらない。
俺はそれから目を逸らして言った。
「実は交際期間0日結婚」
「嘘、」
「清春が行方不明になってすぐに高校辞めて時夫のとこで仕事始めたからさ」
そうだったんですか、と清春が言って、少し笑った。それから俺は要や津田の話をした。要のケータイから勝手に津田に連絡して津田と知り合った事、要が真面目に高校に通っている事、それ以外にも、話した。
暫くしたら、時夫達が来て、ドンチャン騒ぎになった。羽塚に怒鳴られたりしたけど、見てて一番面白かったのは、悟と真知の神経衰弱対決だった。
結果は言うまでもない。元々俺達とは頭の作りが違う真知の圧勝だった。
俺と真知が神経衰弱をしたら、俺が勝った。真知の集中力を削ぐようなエロゲー台詞作戦を使ったからだ。
からかうのって面白い。久人がこの作戦を使っても、真知に何の効果もなかったのがまた面白いところなんだけどな。
気が付いたら眠りこけていたらしい俺が目覚めると、真知は俺の手を握ったままボーッとしていた。
周りは静まり返っている。皆帰ったのかもしれない。真知が俺の顔を覗き込んできた。
「お目覚めですか?」
「うん、ねみー、でも起きる」
「皆さんお帰りになられましたよ」
「そっか」
やっと二人になったって事か。そういや、今日は何も飯を食っていない。病人が着るような寝間着を着せられている腹を撫でると、いつもより凹んでいる気がした。
「腹、減った」
ポツリと呟いた声が部屋に響く。
「二、三日は断食だそうです」
「は!?」
「腹部を深く刺されていたそうですので、暫くは断食です」
嘘だ…。真知の無表情を見ながら絶望した。死んじゃうよ俺。マジで死んじゃうよ。
「死んじゃうだろ…」
その瞬間、真知が俺の手を握る力を強めた。
「縁起でもない事をおっしゃらないでください!私がどんな思いでここにいたか分かってらっしゃるんですか!?貴方が忘れろなんて言うからっ、もしかしたら本当に居なくなってしまうんじゃないかって、思っていたんですよ!」
真知の怒鳴り声に、息が詰まる。真知の目に涙が溜まる。
「本当にっ怖かったのに、もう誰かが死んでしまう所なんて、私の大事な人が死んでしまう所なんて見たくありません!」
そうだ。真知は親父さんとお袋さんの遺体の第一発見者だったんだ。首を吊って無惨な姿になった二人を、真知は覚えてる。忘れられるはずなんて、ないよな。
「もう、こんな思いは懲り懲りです!もし貴方が一人で尾行していたら、もう二度と会えなかったかもしれないんですよ!?なのに断食くらいで何なんですか!?馬鹿!貴方は馬鹿です!」
「ごめんって、もう言わないから、」
「そういう問題じゃありません!怖かったのに、本当に怖かったのにっ」
真知の目からぼろりと涙が溢れて、真知が俺の手を離した。そのまま椅子から立ち上がって、部屋の隅に俺に背を向けてしゃがみ込む。
「なんだよ、もう二度と言わねーからこっち来い」
「…だって、泣くと不細工、って」
鵜呑みにしてたのか。俺は溜め息をつきつつ、口を開く。
「そんなの気にしてたのかよ」
「気にするもん、好きな人に言われたら誰だって気にしますっ」
真知の口から出た『好きな人』に少し笑いそうになった。面倒臭い癖に、妙に可愛い所を挟んでくる女。
惚れた弱味、なんてのはよく言ったものだ。ベッドから上体を起こすと、傷口に痛みが走った。さっきからちょくちょく動くと痛いけど、麻酔はちゃんと効いてるのか?
ベッドの上に胡座をかいてスペースを開けると、そこを軽く叩く。
「嘘だよ、嘘に決まってんだろ、不細工なんて」
お前の顔が不細工になるのは変顔した時くらいだ、と言おうと思ったが、変顔を二度としてくれなくなるかもしれないからやめた。
「…可愛いよ、お前は可愛い」
「そんなお世辞を言って頂きたい訳じゃありません」
お世辞じゃないんだけど。俺の渾身の口説き文句は効かなかった。
「俺はお前が不細工でも好きだよ、だからこっち来い」
「………」
「追いかけたいのは山々なんですけど、生憎俺動けねーから、お前から来い」
真知が少し振り返ってこっちを見た。我が儘を言わない奴だと思っていたら、とんだ駄々っ子だったらしい。
「真知、もう5時間もかからないだろ?早く来いよ」
「……っ、」
「お前の男が呼んでるんだけど?」
真知は立ち上がって足早に近付いてきた。袖で乱暴に目を擦るものだから、目が若干心配だ。
ベッドを叩いてやると、靴を脱いで俺の前にぺたりと座り込んだ。ベッドが微かに揺れる。
「俺腹減ってるって言ったよな?」
「はい、」
「お前の事、キスだけで半分くらい食うから」
目を見開いた真知の後頭部を引き寄せて、唇を重ねた。がっつきすぎて、歯がぶつかってカチカチと音を鳴らす。そこに舌を滑り込ませたら、もう止まらなかった。
キスだけで食い尽くせる分まで食い尽くしたい。背中に腕を回すと、真知の手が俺の首もとを控えめに触る。
このまま首を絞められてもいい。こんな事を言ったら真知はまた怒るんだろうけど、今なら殺されてもいいと思った。真知の髪を逆さに撫でると、真知の手が俺の髪の襟足から入ってくる。それに鳥肌が立った。
このまま真知を食ってしまいたい。
そうキスに夢中になった瞬間、突然我に返った真知に引き剥がされて唇を拭かれるのは、理不尽な話だ。




