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!!!!  作者: 七瀬
第二章 誓約書
22/34

閃光ブラックアウト




それから俺と真知は、二人で真知の部屋に張り巡らされた透明のテーブルクロスをひたすら片付けた。ごみ袋三つ分にもなるそれに俺は苦笑いしたけど、真知はそれがなくなった部屋に少しだけ怯えている様子だった。


そして俺は初めて、真知の両親の顔を見た。それは直接ではなく、間接的に、だ。いつかの笑顔が切り取られた遺影。写真立ての中に入って二人仲良く笑っている写真だ。


ニュースに映っていた気難しそうな顔とは違う、幸せそうに笑う頑固そうな政治家。遠い遠い存在だったそいつは、今じゃ俺の義理の父親。その隣で高そうなスーツを着る薄化粧の女は、俺の義理の母親。


一番驚いたのは、二人ともずば抜けた容姿じゃなかったって事だ。真知は二人からそれぞれいい所の遺伝子だけを受け継いで生まれてきたらしい。悪い所は一切受け継がなかったそれは奇跡みたいなもんだ。


特に印象に残る顔ではない二人の顔で、唯一そうではなかった所がある。父親の赤い唇と、母親の茶色い髪と目だ。まるで真知のそれと同じだった。


もしこの二人が生きていたら、俺は二人になんと言われただろう。低学歴の馬鹿に娘は渡せない、なんて言われたのだろうか。それ以前に、二人が生きていたら俺と真知は一生出会わなかった事だろう。ただの偶然というのは時として大きな力を持っている。


だから世界って怖いと俺は思う。今あるものがもしかしたら全てなかったかもしれないんだ。俺が仏壇に向かって、真知と結婚させてもらいました、と言うと、真知はちょっと泣きそうな顔をした。


泣き虫女の頭を小突いて、軽くキスした。女の両親の顔の目の前でキスするという背徳感は病み付きになりそうだった。俺は多分変態だ。


気が付いたら外は真っ暗で、俺は明日から仕事だから帰る事にした。本当は帰りたくなんてないけど、正直俺は舞い上がっていて理性が利きそうにもない。真知に対して無理矢理を繰り返してきた(色んな事で)俺にとって、それだけは無理矢理するべきではない(当たり前)だと思った。


それに俺は徹夜で、一睡もしていないのだ。それで今日も理性と戦っていて眠れませんでした、なんて事になったら明日仕事に行けなくなる。貧乏人の悲しい理由。


まだまだ癖が抜けなくて消毒液を持ち出す真知は、それに気付く度に焦る。悲しい事だけど、それが俺を好きだという証明になってしまうから、よく分からない感情に苛まれた。


俺は真知がハンガーにかけたスタジャンを羽織って、玄関で黒いティンバーランドのブーツに足を入れた。真知が後ろに立っている。俺が立ち上がると、真知は玄関に置いてあった少し汚れたナイキのエアフォースを履く。


「じゃあな、ちゃんと飯食えよ?」


「はい」


真知の髪を撫でてから玄関のドアを開く。そこから出ると、冷たい風が一気に流れ込んできて、プルオーバーパーカー姿の真知は少し肩を上げた。


「明日の朝、俺を起こしに来いよ」


俺の言葉に、真知が首を傾げる。


「へ?はい」


「じゃあな?また明日」


俺を見上げる真知に軽くキスする。真知の唇は柔らかくて、抵抗されないとキスが癖になりそうだ。真知の手が俺の口に向かって伸びてきて、それを避ける。一日じゃ癖が抜けないのは当たり前か。


「駄目」


そう言うと、顔を赤くした真知が手を隠す。申し訳ありません、と呟いて顔を上げた。


「あの、下までお送りしてもよろしいですか?」


……小悪魔。心の中で小さく文句を言った。真知に顔を近付ける。


「俺と離れたくない?」


「っ、いえ、ただ外がどれくらい寒いのか気になるだけです」


「素直に離れたくないって言えよ」


真知は俺の視線から逃れるように視線を泳がせた。口をぎゅっと閉じた真知に笑うと、顔がもっと赤くなる。


「コート持ってこい、風邪引くから」


「っ、はい」


真知が鈍臭そうな走り方で部屋に戻っていく。慌てて戻ってきた真知はフードを被ったまま黒いPコートに袖を通しながら、スニーカーを履いた。


「鍵は閉めてけよ?」


「はい」


玄関のトレーから鍵を取った真知の手にある白いケータイに俺とのプリクラが貼ってある事に、俺は初めて気付いた。俺の前でケータイを出さないから気付かなかったけど、貼ってあったのか。


俺がちょっとにやけるのを堪えていると、真知が俺の目の前で止まった。俺が出口を開けてやると、真知が外に出る。フードを取りつつ鍵を閉める真知の後ろの髪が乱れていて、それに指を通す。すっかり冷たさを含んだ髪が俺の指を冷たくした。


ボブの髪の隙間から真っ白いうなじに光るネックレスのチェーンが見えて、噛みつきたくなる。そこからドロドロの血が出てくると思っていたら、撫でていた。真知が驚いて肩を揺らす。


「冷たかった?」


「はい、指輪が、」


すぐ冷える金属。真知がケータイと鍵をポケットに入れていて、俺はうなじのチェーンに薬指を引っ掛けた。首輪みたいだ。真知が驚いたように俺を見て、気が付いたら唇に唇を寄せていた。


もう外だって分かってるのに、俺は相当頭がおかしくなっているらしい。チェーンに指を絡めながら真知を引き寄せると、茶色い目と視線が交わる。軽く唇を合わせて、すぐに離れた。下手すると一生離したくなくなる。


箍が外れた俺の軽い暴走。何かとキスがしたい。今日だけで何回しただろうか。長い睫毛が風を扇ぐように動く。


右手で真知の左手を握って指を絡めた。細い指と指の間に自分の指を入れると、真知の指が俺の指の間に入って、それが異常な程に心臓を鳴らす。カサカサの手に、どうしようもなく泣きたくなる。幸せで泣きたくなる。


馬鹿じゃねーの、俺。


真知の目が自分の左手をじっと見ていた。俺と繋がった手。俺が左手をポケットに突っ込むと、真知が繋がった手を上にあげた。


「こ、恋人繋ぎ」


まるで新しい発見をしたかのように言う真知の顔は赤い。俺は呆れながら口を開く。


「どこでそんなの覚えたんだ?」


「ナミさんとタエさんにお借りした雑誌で、です」


ジャンプ二人組の影響力、それについて考えながら、真知の手を引いて歩き出す。やっと二人で歩いているような気がした。


ちょうど止まっていたエレベーターに乗り込むと、真知が一階のボタンを押して扉を閉める。壁に寄り掛かって真知と繋いだ手を引き寄せると、真知の腕が俺の腕にぴったりと貼り付いた。


片手で引き寄せられる軽い体。背は160あるかないかくらいだけど、体が細い。エレベーターが下がっていくのを感じながら、真知の頭に頭を乗せた。


「お前って体重何キロ?」


「…教えません」


ですよね。女って体重言うの嫌がるよな。何でだかは知らないけど。


「もっと太れよ。俺、真知がなんか食ってるの見るの、好きだよ」


真知が俺を見上げて顔を赤くした。視線がかち合って、真知が俯く。


「元々太らない体質なんです」


そう小さく呟いた声が聞こえた時、エレベーターが止まった。階はまだ一階じゃない。扉が勝手に開くと、そこには女がいた。黒髪のロングの、わりと綺麗な顔をした女。


真知がどうぞ、と言うと、その女が軽く会釈をして乗り込んでくる。紫色のダウンを着た女が俺達に背を向けた。


エレベーターが再び動きだして、女の後ろ姿から目を逸らす。真知を見ると、長い睫毛が瞬きと一緒に動いている。離れたくない、なんて馬鹿みたいに思った。


「なぁ、飯でも食いに行くか?」


「へ?」


「真知がファミレスで3000円以上食いきらないと帰れませんってゲームしよ」


一生食いきれなさそうだと思ってふざけてそう言うと、真知が勢いよく首を横に降った。無理です、と繰り返す。


「それに、ゲームというものにはお互いに目標点がなければいけません。俊喜が言うそれは私に対しての罰ゲームです」


頭の回転が早い。さすがインテリ。俺より一つ年下なのにこの違い。恐ろしい。


俺は苦笑いで誤魔化しつつ、繋いだ手をポケットの中に入れた。


「じゃあ俺は1000円分食うよ」


「それはゲームになっていません」


「ですよね」


真知から視線を逸らして頷いていると、エレベーターの扉が開いた。その向こう側はエントランスで、女が先に出ていった。


もうすぐ離れる時間です、とどこかから放送が流れそうで嫌だ。かといって離れたくないなんて言うのも嫌だ。シャイで恥ずかしがりの俺。


仕方なくエレベーターから降りると、女はマンションを出ていった。どこかで、見たことがあるような。


「あの、以前、話していたキヨハルさんの事を覚えておいでですか?」


真知の言葉に無言で頷く。


「あの方、キヨハルさんと毎朝待ち合わせしていた方です」


富田紗英。俺は暗闇に消えていった富田紗英の背中を目で追った。頭の中に浮かんだ台詞に、口を開く。



「真知、ちょっと尾行してみるか」


「へ?」


真知の手を引いて、マンションを出た。富田紗英を見失っても、追いかけられる自信がある。富田紗英の行き先は津田から聞いているから分かっているのだ。


ただ俺は富田紗英と話してみたかった。いや、聞いてみたかった事がある。俺の存在を富田紗英が覚えているとかいないとか、そんなのは関係ない。


清春の事さえ覚えていれば、それでいい。まあ、忘れるはずもないんだろうが。


富田紗英の黒髪に街灯の光が当たって艶めいていた。あの清春が惚れた女の髪、後ろ姿。それはやけに凛としているように見えた。親がいない人間の背中って、あんな風に見えるんだろうか。思い出せば真知も、あんな背中をしていたような気がする。


今じゃ小さい背中にしか見えないんだけど。


俺の体温が移って暖かくなった真知の手だけが熱い。それ以外が冷えている。普通に歩いているカップルのふりをして、富田紗英と微妙な距離を保ちながらついていった。ふと真知を見て笑う。


「真知、何食いたい?」


「へ?」


「飯、食いに行こうぜ」


真知が前を手で示す。いなくなっちゃう、ってか?俺は口に人差し指を立てて付けた。真知ってきっと尾行とかできないタイプだ。探偵も警察も向いていないだろう。


真知は視線を泳がせる。その手に絡めた指に込めた力を少しだけ強くして、笑った。


「俺は今めちゃくちゃラーメン食いてーな。豚骨か味噌」


「え、わ、私は味噌ラーメンがいいです」


さすがインテリ。話を合わせるのが早い。面倒臭い所はとことん面倒臭い癖に、こういうところで機転がきく。


「そんなの聞くと俺も味噌のがよくなってきたな」


コーンが入ってる方がいいとか、味噌バターが最高だとか、別に話したくもないラーメンの話を真知の白い頬を見ながら繰り出す。真知は俺に話を合わせてくれる。


どうでもいいはずの話に真知はついてくる。暗闇に浮かぶ白い頬が口の動きに合わせて動いている。


それを見ていた時、ふと妙な視線を感じた。後ろから突き刺すような視線。ポケットからケータイを取り出して、カメラを起動させた。インカメラにして後ろを映しても、何も映らない。


ケータイのカメラの画質が良くなかった事を今更思い出して、ケータイをしまった。高いわりには使えないポンコツ。


真知の耳に口を寄せる。


「つけられてる、かも」


「っ、」


「ちょっと止まって、」


二人同時に足を止めると、大きめの声を出す為に少し息を吸った。


「お前の唇、食っちゃいたい」


真知の顔が赤くなる。俺はあながち嘘ではないその台詞に暴れまわりたい気分になりながら、少し屈んで真知の唇に指で触れた。


あーあ、キスしたい。街中によくいる周りが一切見えていないカップルのふりをするのは、意外ときついものがある。これが真知じゃなかったらそんな事は全然思わなかったんだろうが。


「お前もっとこっち来いよ」


繋いだ手を引っ張ると真知がぐっと俺に近付いた。顔の距離が近い。キョロキョロと泳ぐ茶色い瞳。逸らしたくないと思いながらそれから逃げて、前髪の隙間から後ろを見た。


黒いダウンを着た、黒いパンツを穿いた男が立っていた。足元はダサい中学生が履くような少し汚れた運動靴。


「なぁ、食ってもいい?お前ごと全部」


素面だったら言えない、エロゲーに出てくるような台詞。俺達が立った曲がり角を曲がればすぐにラブホの通りだ。そこに連れ込んでやりたい気持ちを抑えていると、男の足が動いた。


とっさに富田紗英の方を見ると、富田紗英は俺達が立つ曲がり角の一本先を曲がっていく。消えた。


男がそれを走って追いかけていく。ビンゴだ。


真知の唇に軽くキスしてから、足早に男を追いかけ始めた。男は俺達をつけているんじゃなくて、富田紗英をつけている。男は何かを知っているのかもしれない。


曲がり角を曲がると、富田紗英が路地裏に入っていく。それを少し待った男の背中が路地裏に飲み込まれていった。


「ちょっとここで待ってろ」


真知にそう言って繋いだ手を離すと、路地裏に滑り込んだ。遠くに見えるピンク色のネオン。サリナの働いているファッションヘルスだ。


男の向こう側、富田紗英が路地裏を出て左折した。その後、富田紗英はすぐにまた左折するだろう。俺はそう思いながら、男の背中に問いかける。


「おい、兄ちゃんちょっと待てよ」


昨日会ったあのイケメンなエロジジイの真似だ。自分に似合わないそれに笑いそうになっていると、男が振り返った。路地裏の真ん中、届くネオンに背を向けた男はガキだった。


多分、俺と同い年か一個下か、そこら。純粋そうな澄んだ目が俺をじっと見る。


俺はガキとの距離を近付けながら、にっこりと笑う。


「お前、なんか知ってるだろ?」


「何をですか?」


ガキがやけに真面目な顔をした。窺っているような視線。


「富田紗英」


俺がそう言って立ち止まった瞬間、ガキの目が変わった。純粋そうな目がガラッと変わる。二重人格なんじゃないかと思うくらいの、睨み付けるような目。


でもそんなの、毎日ガラの悪いおっさん達と顔を合わせている俺にとっちゃガキのお遊びみたいなものだった。とぼけるように首を傾げて、俺は口を開いた。


「桐原清春」


その名前に、ガキが目を見開く。その瞬間だった。ガキが拳を握り締めて俺に走り寄ってくる。ろくに間も詰めずにガキが振りかぶった拳を見て、俺は間を詰めた。暫く喧嘩をしていない俺だけど、体は勝手に動いた。喧嘩なんかしたことが無さそうな好青年そうなガキの腕を掴む。


選択を間違った。そう思ったのは、俺の視界の隅にネオンの光を受けて煌めく銀色が見えた時だった。


やばい。でも時間はなかった。次の瞬間、その銀色は俺の腹に刺さる。その冷たさを感じた。腹の中が掻き回されているような気分。まるで自分が鍋の中のカレーにでもなったようだ。


それが腹から無理矢理、故意に抜かれる。俺が壁に寄り掛かって腹を押さえた瞬間に手を濡らす生暖かい液体。


ガキの手にあるのはサバイバルナイフだった。刃は俺の血に塗れたメタリックレッドに変わっている。目を見開いたガキのダウンの隙間から見えたのは、清春と同じ高校の学ランのボタン。ガキがナイフを持ったまま、俺を押し退けて来た方へと戻っていく。


「っ、待て!」


待て、そっちには真知がいる。痛いのか痛くないのか、暑いのか寒いのかでさえも分からない。俺は腹を押さえてガキを追った。


でもガキは右折していった。真知がいる方向とは逆。そう思った瞬間、俺はビルの壁に背をつけて崩れ落ちた。


腹を見たら血が大量に流れていた。今は11月で、今日は真知の誕生日で、冬なのに、額から汗が噴き出してくる。


やばい。本当にやばい。血が止まらない。掠り傷なんかじゃない。左腕の傷なんかと比べ物にならないくらいの血。これは刺し傷だ。


「いかがされました、…か?」


路地裏に顔を出した真知を見上げると、真知の目が大きく開く。走り寄ってきた真知が俺の前にぺたりと座り込んだ。


「なんで…?」


腹を押さえる俺の手に重ねられた真知の手は冷たかった。その白い手が血にまみれていく。俺はやけに荒い呼吸の隙間から無理矢理声を出した。


「知らねっ、っ、刺された、」


真知の目からぼろりと涙が溢れたと思ったら、真知の泣き叫ぶ声が届いた。真知が必死に俺の手の隙間から流れる血を止めようとするように手で押さえる。


「嫌だ、なんでっ、どうして血が止まらないのっ」


真知は俺の目の前にいるのに、耳元で聞こえているように感じた。距離感まで分からなくなっているらしい。


「今、今救急車をっ、」


血塗れの手をポケットに突っ込んだ真知がケータイを取り出す。白いケータイにべっとりと俺の血がついていた。


震える手でケータイを開いた真知の手を掴む。


「っ、駄目だ、救急車はっ、駄目だっ」


「なんでっ」


「あいつに、聞かなきゃ、いけない事がある、救急車は、駄目だ、」


だって、救急車なんか呼んだら、あのガキが警察に捕まる事になる。それじゃ駄目だ。あいつに話を聞かないといけない。あいつは何かを知っている。


清春の名前を出した時の目は、正常じゃなかった。異常だった。まるで手を洗っている時の真知と同じような目だったんだ。


涙目の真知が、震える声で言う。


「だって、血、止まらないっ、」


「真知、俺のケータイっ、スタジャン、左ポケットっ」


指示通りに俺のケータイを出した真知の手が震えている。


「電話帳っ、タマさん、俺が刺されたって、助けてって、言え」


震える手を動かして、真知はケータイを開いた。少しボタンを押して、ケータイを耳に当てる。


真知の目から涙が止まらない。俺の腹から流れる血も止まらない。でも俺にとっちゃ、血よりも涙の方が心配だった。泣きすぎだからだ。ドロドロと道路を濡らすように流れる血の匂いに吐き気がする。


いや、血の匂いに吐き気がしているのかも分からない。何に吐き気を催しているのか、分からない。


真知が耳に当てたケータイから微かに聞き覚えのある男の声が聞こえた。それに向かって真知が口を開く。


「あの、と、俊喜がっ、刺されて、た、助けて、助けてくださいっ」


誰だお前、というタマさんの声が俺にまで届く。


「俊喜の妻ですっ」


真知が叫ぶように言った。まさかこんな場面になって初めてそんな言葉が聞けるとは思っていなかった。俺は真知の手の上からケータイを握り締めて、自分の耳にそれを当てた。


「っ、俺の、奥さん、」


「俊喜か?」


「タマ、さん、すいませ、っ、早く、来てくださ、血、とまんねっ、死んじゃう、」


「分かった今行く、場所は?」


場所を告げた。サリナの働くファッションヘルスが見える、12月の金持ち夫婦の殺人事件が起きた路地裏の一本隣の路地裏。


切れた電話音が妙に頭に響く。目の前が霞んできて、真知の顔がぼやける。瞬きすると、真知が俺の腹を押さえて泣いているのが見えた。


「また、泣いて、んのか、泣き虫女、」


言葉を発する事がこんなに辛いと思った事はない。俺の土下座に泣く女が、俺が刺されて泣くのは当然なのかもしれない。


「今から、怖い兄ちゃん来るけどっ、俺の先輩だからっ、大丈夫、だからな、」


真知の涙をどうする事も出来ない。真知が何かを必死に言っているけど、その言葉が遠くに聞こえる。耳を澄ますのに、やけに自分の呼吸の音が大きくて聞こえない。


腹に心臓があるみたいだ。そこに意識が集中する。傷口が動いているように思えた。


見覚えのある黒いベンツが止まる。そこから出てきたタマさんのスキンヘッドが光った。


若頭の側近のポチさんに、ベンツの後部座席に乗せられた。真知の膝枕をこんなところで初めて体験するなんて馬鹿みたいな話だ。出来れば二人っきりの時が良かった。


「どうして、刺されたんだ、誰に、」


タマさんの声が木霊する。


「富田、紗英っ、清春っ、」


その時、俺の顔に水が落ちてきた。それに目を向けると、真知の泣き顔が見える。色んな感情と感覚がごちゃ混ぜになって煮込まれてるみたいな頭の中から、俺は笑う事を選択した。



「不細工、泣いてん、じゃねーよ」


「だってっ、置いていかないでっ、お願い、一人にしないでっ、」


置いていく?俺、死ぬのかな。死ぬなんて、嫌だ。


「置いていかれ、たくねーなら、逃がすなよ、」


「逃がさないっ、もう絶対に逃がさないって、誓う、」


逃がさないって言われたって、俺は逃げるのかもしれない。このまま、真知から逃げてしまうのかもしれない。嫌だ、そんなの嫌だ。逃げたくない。まだ、だってお前を幸せにしてない。


俺はふざけて笑った。


「まだ、真知とエッチしてねー、から」


「っ、そんなのっ、」


「あ?男にとってはな、重要なんだよ、…今ここで、するか?俺のジーンズ、脱がして、自分で突っ込め、よ」


頭の中でぐるぐる回る。親父、お袋、悟、時夫、久人、清春、矢田さん、豊橋さん、津田、八木、岩田、沢田、池谷。こんな時にも男の顔ばかりしか浮かばない。


それが消えたと思ったら、タワシと洗濯板が浮かんだ。血塗れのタワシと、真知の左腕の洗濯板みたいな傷痕。


やばい、このままだと死ぬ。警報がうるさいくらいに鳴り響いていた。


「俺、死ぬなら、お前の中で、死にたい、」


「やだっ、死なないでっ」


「早く、今なら、ヤクザの立会人が、ついてくる」


死にたくない。でも死ぬなら、お前の中で死にたい。そしたら俺の最期は、人生で一番幸せな瞬間になる。


嫌だと俺を揺する真知の白い頬にべったりと俺の血がついていた。それを拭うように手を伸ばすと、血はもっと広がる。俺の手にも、血がついていたらしい。


「なぁ、今の、面白かったか?」


「っ、」


「真知、笑って、俺に笑ってみろ」


でも俺って、紳士で、意外と純情なんだ。お前の中じゃなくても、お前が笑った所を見れるなら、きっとカミサマって奴の所に行ける。確か、極楽浄土、なんて名前だった。


タマさんが怒鳴る声がほんのりと聞こえた。お袋に殴られた記憶でさえも巡っている頭の中に浮かんだ言葉は、本当に一つだけだった。


今言わなかったら、二度と言えなくなる。俺が一度も言った事がない言葉が、すんなりと頭に浮かんだ。


離したくない。離れたくない。いなくなりたくない。俺は生きていたい。なぁ、どうして、世の中ってこんなに理不尽なんだろう。


人生に成功した誰かが、言っていた。明けない夜はない。それは真実だ。


誰にだって朝は来る。それがどんなに短い朝だったとしても、朝は来る。俺の朝は一日にも満たない短いものだったけど、俺には朝があった。確かに朝はあった。


真知と二度目のキスしたあの瞬間、長い夜は終わった。俺にとっても、真知にとっても、朝が来た。


なのに、俺は今こんなに血塗れで、真知はまた泣いている。


「泣くと、不細工、なんだよ、笑え、笑ってくれよ、」


頭に浮かぶ言葉を、中々口に出来ない。早く言わなくちゃいけないと分かっている時こそ、それは不可能な程に増幅する。言葉にしたら、もっと大きくなってしまうような気がするからかもしれない。


俺がその言葉を口にした時、本当に最初で最後になってしまうと思った。


今言わないと、二度と言えなくなるなんて馬鹿みたいな事を本気で思った。


「真知、愛してる」


真知が目を見開いたのが見える。溢れ出したら、止まらなかった。言わないと、後悔する。


「なぁ、愛してるよ、だから、」


だから、だから。


見たくもない未来を、俺は提案する。


「俺が死んだら、俺を忘れろ」


俺は案外、顔以外も親父に似ていたのかもしれない。現に今、奥さんを置いて死にそうになっている。でも俺は、親父とは違う。掴んだままでいないから、ちゃんと逃がしてやるから、一人にしない。


本当は死んでも、そんなの嫌だ。やっと手に入れたのに、やっと触れられたのに、俺は真知を手離さなきゃいけない。


嫌だけど、女の幸せを願うのが男だろう。自分が苦しくたって、女を幸せにしようと思うのが男だろう。なら、真知が結婚指輪を外したって、他の男と幸せになったって、いい。


俺じゃなくたても、真知は誰かに幸せにしてもらえる。


嫌だけど、そんな未来は、嫌だけど。


真知は俺に何かを言っている。聞こえない。


口の動きも、目が霞んで、見えない。


「早く、俺を、突っ込んで、腰、振れよ、」


その後は他の男に頼むんだから、死に際くらい、いい思いをしたって罰は当たらない。


「笑えよ、頼むから笑ってくれよ、」


お前の中で死にたいし、お前の笑顔を見ながら死にたいし、俺はどっちがしたいんだろう。


でも一番言いたいのは、俺の勝手な気持ちだった。


「愛してる、」


そう言って笑って、俺は目を閉じた。




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