不透明だったリアル
夜中を通り越して、明け方になった。真知が寝ているのを見ていたら一睡も出来なかった。もう、今日は真知の誕生日だ。
目はやけに冴えていて、一切眠れる気がしない。何故なら、真知の唇が首に当たったままだからだ。たまに匂いを嗅ぐように鼻を寄せられるし、いつもじゃ考えられないくらいに体が密着している。
真知の首の下に伸ばした腕を曲げて背中を撫でると、首にキスされた。まさに今の俺はされるがまま。
真知に首に腕を絡められる。左腕が首に触れて鳥肌が立った。今まで女に首に腕を絡めてこられた時には感じなかったような感覚。悲しい触り心地というか、泣きたくなる。
枕にも透明のテーブルクロスに包まれているせいか耳がくっついて居心地が悪い。そう思っていると、真知が首に歯を立てて噛んできた。痛くはないけど、背中が急に寒くなったような気がする。
真知は一回も起きないでずっと熟睡していた。
首を何回も噛む真知は満足したのか、そこから腕を離した。その手がTシャツの背中に入ってくる。
「おいおい、駄目だろこれ、」
夢の中の俺とどんな事やってるんだ?真知の体を少し離して顔を覗き込むと、普通に寝ていた。これが起きてる時にしてくれるならいいんだけど、世の中そんな簡単にはいかない。
すると、真知の閉じられた瞼の向こうの目がごろごろと動いているのが見えた。睫毛が揺れたと思ったら、しがみついてくる。
首の匂いを嗅いでいるらしく、控えめな息が当たるから厄介だ。理性との戦いなんて、俺、したことあったっけ?
その瞬間、真知がいきなりベッドから転げ落ちた。奥のクローゼットの扉まで後退りした真知は、ぐしゃぐしゃの髪の毛のままで俺を見た。真知は目を擦っていて、ベッドは一気に冷えたような気がする。
起き上がってベッドの上に胡座をかくと、真知が目を見開きながら口を開いた。
「っ、なんで?」
「ごめん、家、鍵開いてた。大丈夫、何もしてないから」
真知が目をキョロキョロ動かしている。床にぺたりと座り込んでいる真知と俺の距離は3メートル。真知は俺から極力自分を離すようにクローゼットの扉に背中を張り付けている。
「ごめん、離婚届出してきてない」
「っ、では私が今日提出して参ります」
その言葉の意味を、真知は知っているのだろうか。自分で気付いているのだろうか。
俺は足りない頭を無理矢理回転させてカマをかける事にした。真知の方に手を差し出して、口を開く。
「じゃあ真知、握手しよう」
「へ?」
「今までありがとうの握手、ほら」
真知は目を見開きながら首を横に振った。俺は首を傾げる。
「嫌だ?なんで?」
「緒方先輩が嫌いだからです」
「俺の事が嫌いだから握手しないんだな?理由はそれだけだな?」
「はい」
かかった、と思った。俺は確かに馬鹿だけど、ナメられちゃ困る。だって長い間、真知の行動を見て死ぬほど考えてきたんだ。
昨日の真知は、俺が部屋に入る前にファブリーズをしていた。それが、何よりの証拠だ。
「触れるだろ真知、俺の事が嫌いなら」
真知がもっと後退りした。膝を最大限に自分に引き寄せて、首を横に振る。
「お前、菌が移るから俺に触らなかったんだよな?今なら嫌いだから菌移ってもいいだろ?」
「っ、」
「ほら真知、握手」
真知が首を横に振る。違う違う、と真知が耳を手で塞いだ。
「真知?俺の事嫌いだろ?触れるだろ?」
「嫌いっ、嫌いっ、」
「そうだろ?だから別れるんだよな?なら、最後に握手しよう。今、素手なんだから」
「っ、」
真知はどんどん縮こまっていく。髪の毛を掴んで耳を塞いで、涙をボロボロ流している。
「真知、握手、ほら」
「出来、ませんっ、」
「なんで?」
真知は過呼吸になっていく。追い詰めてるのは分かってるんだ。でも、いつかは絶対にしなきゃいけない事なんだ。真知の本音を聞き出すには、こうしなきゃいけなかった。
「嫌い、だもん」
「じゃあ握手しよう」
「嫌だっ、」
こんなのきっと真知にとっては拷問に近い。今泣いている真知は確実に俺に泣かされているのに、俺は更に泣かせる事しか出来ない。
「なんでお前は俺と離婚したいんだ?」
「嫌い、だからっ、」
「嫌いならなんで俺と離れたいんだ?」
「っ、嫌いだもん、本当に嫌いだからっ、」
頑固で馬鹿な女。俺の心に刺さる『嫌い』で苦しい。
「真知が俺と離れたいのも、触りたくないのも、別の理由があるからなんじゃねーの?」
「違うっ、嫌いだもん、」
俺が真知に近寄ろうと動くと、真知の肩が揺れた。まるで暴力男にビビる女だ。俺はまたベッドの上に胡座をかき直して、真知に言う。
「俺は真知にいくら触っても、人を殺したりしねーよ。だって、お前に人殺しの菌なんて無いんだから」
「っ、」
「俺が人を殺さないのはお前の為じゃない。俺の為だよ。俺は親父に薬と窃盗と人殺しだけはすんなって言われてんだ。だからお前の為じゃなくて、親父との約束を守るために殺さないんだよ。お前と出会う前から、俺はそう決めて生きてるんだ」
真知のいつも綺麗に整った髪がぐしゃぐしゃに絡まって崩れている。真知の目からひっきりなしに流れる涙が窓から入ってくる光に照らされて頬をベトベトに濡らしているのが見えた。
「真知、俺を好きなら好きって言ってみろ」
「っ、嫌いだもん、」
「お前が好きって言ったって、俺は人を殺したりしねーよ」
「本当に嫌いっ、なのっ!」
「お前がいくら俺を嫌いだって言ったって、俺はもうお前から離れらんねーんだよ!」
俺が思わず荒げてしまった声に、真知が息を詰めたのが分かった。怒鳴るなんてしたくなかったけど、止まらなかった。
「俺はお前が好きで、どんだけ距離が離れたってお前から逃げられねーんだよ!俺はお前が好きなんだよ!」
「っ、」
「教えてくれよ、お前が俺をどう思ってるのか教えてくれよ。俺の事とか考えないで、ちゃんと自分の気持ち言えよ」
どうしたらいいのか、分からない。言ってる事とやってる事が真逆で、どっちが本当なのか、分からない。
「もうわかんねーよ、俺、こんなに女の事好きになったの初めてで、それがお前で、もうわかんねーんだよ」
ちゃんと言ってくれないと分からない。俺だって、拒否され続けて、拒絶され続けて平気だった訳じゃない。いきなり離婚と言われたって、真知が俺の土下座に泣いた時があったんだから、受け入れられる筈がない。
寝室には、静寂が漂っていた。真知のしゃっくりの音だけが、やけに響いている。
「どして、私なんかを好きになってくれたんですかっ、」
「理由なんてねーよ、でも理屈が欲しいならいくらでも言ってやる。全部だよ」
「っ、」
「不気味な所も気持ち悪い所も面倒臭い所も、全部。お前が自分の物がないって言うからだけじゃなくて、俺がお前を好きだから結婚しようって言った」
真知が目を見開いて、口をパクパクと動かす。
「わた、わたしは、緒方せんぱ、好きって言ってもらえるほど、綺麗じゃな、」
「……うん」
知ってるよ、そんなの。真知は呼吸を整えて、口を開いた。
「緒方先輩が、初めて教室に来たとき、山崎先生にイタズラして、笑ってて、こんなに簡単に楽しそうに笑える人なんだって、おもって、気が付いたら、目で追ってて、」
「うん」
「それでたまたまあの日、先輩が来て私に気付いて、優しくしてくれて、」
でもあの日俺が普通に学校に行ってたら、絶対に俺は気付けていなかった。
「私、わかってたのに、勝手にっ、」
真知がそこで口を噤んだ。その先の言葉を俺は聞きたいのに、真知は言ってくれない。
「…私の、友達、赤い傘を貸してくれたアミちゃん、お父さんを刺したんです、」
「うん、知ってた」
「っ、知ってて、私と結婚したのっ?」
「そうだよ」
「私に菌があるって分かってたのにっ?」
真知の茶色い目が、太陽の光を浴びて透ける。消えそうだって思った。真知は太陽に照らされると透けて、消えそうだと俺は何回思っただろうか。
「なんでっ?」
「好きだから」
「っ、だって、」
「お前に菌なんて無い、俺が言ってる事は嘘じゃない」
真知の目からボロボロ涙が流れる。俺は真知を泣かせてばっかりだ。真知から目を逸らして、棚の上の財布を取ると中を開いた。
ずっと持ってたけど、真知の物かもしれないと思ってからずっと見れなかった物。悲しい願い事の紙を奥のポケットから引っ張り出して、真知の方に見せた。
真知の目が見開く。
「これ、真知のだろ?入学した時に廊下に落ちてた」
「っ、」
「真知のかもしれないと思って、ずっと持ってた。今でもこう、思ってるのか?今日こそ死ねますようにって、思ってる?」
真知の顔が歪む。
縮こまる真知の体はバッグの中に詰めて持って歩けるんじゃないかと思うくらいに小さく感じた。俺は紙を無意識に握り締めていた。
「わたしはっ、最低だからっ、死にたいのに、怖くて、腕を切っても血が出るだけで、電車に飛び込む勇気もなくて、薬を飲んでも、吐くしっ、ベランダから飛び降りようとしても、足が竦んでっ」
「うん」
「死ねばいいって、自分でも思うのにっ、叔母さんから迷惑だから死ぬなって、これ以上家柄を汚すなって、私、どうすればいいのっ?」
真知が初めて話す、死についての話。真知が迷った、真知の一番辛い話。真知の口から聞くのが一番リアルで、俺の心に突き刺さった。
「命が重たくて重たくて、仕方がなかったっ」
溢すようにそう言った真知が、頭を抱える。
「命なんてっ、私なんて要らないのにっ、」
聞きたくなかった。喉が熱い。
「学校やめてから、ずっと家にいて、でも浮かぶの、先輩の事だけっで、」
「うん、」
「久しぶりに家出て、死のうって、一日中歩いててっ、そしたら、お母さんを見てっ、」
「俺のお袋?」
俺の言葉に真知は小さく頷いた。
「先輩に、笑い方似てて、気が付いたら追いかけててっ、そしたら、食堂に、バイト募集見てっ、次の日気が付いたら、履歴書を持って、前に立ってて、」
「うん、」
「駄目だっておもったのに、帰ろうっておもったのに、お母さん、出てきてっ、」
真知の肩が苦しそうに上下する。抱き締めてやりたいのに、真知はこんなに遠い。俺が手を伸ばしたら、きっと俺を振り払う。
「私、緒方せんぱ、っ、……怖くて、緒方先輩が私のもの、なんて、怖くて、」
「っ、」
「怖いのに、私、先輩、他の人のものになるの、嫌だっ、でも、いつかせんぱ、に菌が移る前にっ、早く離れたいって、」
やっと言った。やっと、我が儘を言った。真知の本音に泣きたくなった。
「俺は、真知が好きだから、真知に触りたいよ」
俺の声は、震えていた。
「真知は、俺に触りたくない?」
「だって、菌、移るっ」
「移るも何も、そんなのねーよ」
どうして逃げなかったんだろうって、思うんだ。まだ真知がその言葉を違うって突っぱねられていた頃に、どうして真知は逃げる道を選べなかったんだろうって、思う。
逃げたって、よかったんだ。
嫌な事から逃げる事は案外難しい。嫌な事と立ち向かう事が美徳のようになっているこの世の中は、どう考えたって間違っていた。逃げるべきだった。
だって、金よりも地位よりも周りの目よりも、将来よりも、命って重いだろ?ずる賢いと思われたって、いいんだ。生きてる事が何よりも重要で、その先の事は、逃げた後に考えればいい。
生きていれさえいれば、なんだってできるんだ。
戦争に行った経験のあるじいちゃんがテレビで言ってた、『一人を殺したら自分の心が死んでいく』って言葉は本当に深い。俺はその悲惨さとか苦しみなんてのをきっとこれっぽっちもわかっちゃいないんだと思うけど、俺は思う。
真知が自分を傷付ける度に、俺の心が死んでいく。殺される。
真知の愛情は、遠回し過ぎて面倒臭い。
「真知、お前が俺に触れないと、俺達一生始まらねーよ」
「っ、」
「俺は真知と始めたいよ。お前を幸せにする保証は残念ながら出来ないけど、頑張るよ」
真知の目から音を立てるように涙が落ちて、それに笑った。
「ちゃんとここで待っててやるから、菌なんて無いんだから、こっちに来い」
「っ、で、でも、」
「俺に触ってみろ、俺に本当の気持ち言ってみろ。お前に菌が無いって、俺が一生かけて証明してやる」
俺と真知の距離はたったの3メートル。
俺と真知がたまたま出会って、たまたまお互いを好きになったって、それだけの話だ。
簡単にまとめてしまうならそんな安っぽい話だ。でも俺にとっちゃ人生をかけたギャンブルみたいなもんだった。
気持ちを知らないのにひたすら追いかけて、不気味で気持ち悪い真知の行動を必死で考えて、やっと本音を聞いたのに、俺はまだお預けを食らって、まだ気持ちを聞いていない。
離婚しようと、嫌いとまで言われても諦めなかった俺の事を褒めて欲しいくらいだ。
たった3メートルの距離を縮める為に真知が使った時間は5時間だった。
ずっと涙を溢しながら、俺を目指してじりじり近寄ってくる真知が考えていた事を俺が知る事は出来ないけど、それが前向きな事だったらいいと願うばかりだ。
ベッドの傍までやっと辿りついた真知は、俺に手を伸ばすのを躊躇った。かれこれもう30分が経つ。
「来いよ、ほら」
真知が俺を見上げて、ゆっくりとベッドに乗っかってきた。俺の前でぺたりと座り込んだ真知は俯いて、涙を手の甲で拭う。
「ゴム手袋は、駄目ですか?」
「禁止」
「消毒は?」
「禁止に決まってんだろ」
真知が自分の手を見つめる。第二関節に血が滲んだ、カサカサの手。よく見た事はなかったけど、綺麗な形の爪をしていた。
「触ってどーぞ?」
顔を上げた真知がゆっくりと躊躇うように俺の頬に向かって、恐る恐る手を伸ばしてくる。こんなに触れる事を躊躇う女は、こいつ以外にいるんだろうか。
一度指先が触れて、すぐに離れる。その後、俺の頬を滑った左手に冷たい金属の感触。
真知が俺の頬を撫でて、それに笑って言う。
「そんなに泣いて、脱水症状起こしても知らねーぞ?」
「っ、好きです」
いきなり言われた一言に、俺の視界は早くも滲んだ。泣きじゃくる真知が、苦しそうに続ける。
「好きです、ごめんなさい、好きっ」
「うん」
「ごめんなさい、好きでごめんなさい」
真知の手に俺の体温が移っていく。俺は頬を撫でる手に自分の手を重ねた。
「好きじゃなかったら、困る」
「っ、はい、」
今まで生きてきた中で、一番幸せだと思った。笑ったら、目から涙が溢れたのが分かる。泣くなんて情けないけど、滅多に泣かないんだからいいよな。
真知が俺の顔を見て泣くから、真知の頬に流れる涙を手で拭った。
「真知より先に俺が幸せになっちった」
そう言って笑うと、真知はまた涙を流す。
「今日から真知は生まれ変わるんだよ、誕生日おめでとう、真知」
「っ、ひっ、」
「生まれてきてくれてありがとうな」
ぐしゃぐしゃの髪に指を通してやると、いつもの綺麗なストレートに戻った。真知は苦しそうに息をする。
生まれてきて、俺に会うまで生きててくれてありがとう。そんなの恥ずかしくて言わないけど、俺はお前に会いたかった。会えてよかった。
真知と視線が交わった。恐る恐る伸びてきた腕を首に回されて、引き寄せられる。俺の唇を真知が指で触って、そのままゆっくり、唇同士がぶつかった。
すぐに離れて笑ったら、真知の白い頬が赤くなった。
「どうですか真知さん、二度目のキスの感想は」
「っ、ノーコメントでお願いします」
「はは、マジで?」
俺はそう言って、真知の腰と後頭部に手を回す。そのまま引き寄せて、赤い唇に食い付いた。
真知が目を瞑っているのを見て安心しながら、俺はその長い睫毛を見ていた。このまま軽く噛んだら血が出てきて噛みちぎってしまうんじゃないかと思うくらいに唇は柔らかくて、涙の味がする。
それを舐めたら真知が微かに揺れて、面白くなって舌を捩じ込んだ。真知の舌が熱くて、このまま俺が溶けそうだと馬鹿みたいに思いながら、真知の口の中をなめ尽くす。
イソジンの味がしない真知の味がするそれは、俺を壊すには十分の威力を持っていた。真知の眉間にシワが寄って、俺の胸を押し出したけど、それに構わず真知の舌を啜る。
別にキスに夢中になっても文句は言われない筈だ。だって俺は結婚してから7ヶ月も我慢を続けてきたんだ。そんなの中学生のカップルも真っ青だ。
初めてキスした男が病み付きになったようなクソみたいなキス。真知の頬に触れると、口の端からどっちのものか分からない唾液が流れていたのが分かる。
こんなの考えただけで鳥肌が立つのに、今それの最中だなんて信じられなかった。俺と真知の唾液が混じるなんて、昨日ここに来た時の俺には全く想像がつかなかっただろう。
一度離してからまたキスしようとしたら、真知が荒い息を繰り返していた。顎に流れる唾液を拭ってやると、真知が苦しそうに呼吸をする。
「っ、頭が、」
頭?と俺が聞くと、真知が小さく呟いた。
「あたまがあつい、」
唾液で光る赤い唇を見ていられなくて、そのまま抱き締める。真知からはあまり線香の匂いがしなかった。俺の匂いが移ったのか、最初から一つだったような感覚に陥る。
「緒方先輩」
「俊喜な、今度から俊喜って呼ばなかったら返事しないから」
真知の頭に顎を乗せると、真知が俺のTシャツの首もとを掴んだ。
「俊喜、」
「はいよ」
「一緒にいて、いいですか」
「そうじゃなきゃ困る」
真知が俺から離れる。真っ赤に充血した目が、俺を見つめた。
「私と結婚してください」
今それかよ。俺は笑いながら真知の髪を撫でた。
「うん、いいよ。もう絶対に逃がすなよ?」
「本当にいいんですか」
「いいよ、だから逃がさないって誓えよ」
真っ赤になった目の縁をなぞって、目の下を引っ張ると不細工な顔になった。綺麗な顔が台無し。
「逃がしません」
クソみたいな俺の初恋は、やっと実った。頬から手を離すと、真知が顔を赤くして言う。
「もう一回、していいですか」
「何を?」
「せ、接吻です」
接吻っていつの時代の言い方だよ。真面目な顔をして真っ赤になって照れる真知に笑いながら真知の唇を触った。柔らかくて、しっとりしてる。その間に中指を押し込むと、閉じられた歯をノックした。
ゆっくり開いたそれの中に中指を突っ込むと、舌に触れる。
「舐めて」
俺にいつから指を舐めてもらうのが好きなんて性癖ができたのかは分からない。変態以外の何物でもない。そう思う俺を尻目に、真知は恐る恐るそれを舐めた。
暫くご無沙汰していた女に酔ってるのかもしれない。いや、真知だから酔ってるのかも。
視線をキョロキョロと泳がせながら俺の指を食う女の目玉を舐めたい。俺はいつの間にか変態に早変わりしていた。
真知の口から中指を引き抜くと、唾液の糸がプツリと切れる。世界で一番エロい映像。真知が顔を更に赤くした。
「接吻したいんじゃないんですか?」
「し、したくありませんっ」
「へー、俺はしたいけどね」
接吻?とふざけて笑うと、真知が顔を背けた。髪の隙間から見えた耳が赤い。素直なのか素直じゃないのか。真知が顔を向けた方の肩に頭を乗せると、目が合う。
「許可なんて要らねーからさっさとしろ」
真知は静かに俺の唇に自分のそれを重ねた。首に手を這わせた瞬間に肩が揺れて、唇が離れる。
それを追いかけようとした瞬間、真知の腹が鳴った音がした。真知はさっきとは比べ物にならないくらいに顔を赤くする。
そういや真知も俺も、昨日の夜から食べ物を口にしていなかった。
「飯食うか」
「…はい、」
真知が俺からそそくさと離れてベッドを降りる。自分がTシャツ姿だった事に今更気付いたのか、慌てて振り返って俺を見た。
「もう腕切るのはやめろよ?」
「腕を切っても、死ねませんから」
大丈夫ですと真知が続けて、俺はベッドから真知を見上げた。
「俺が痛いからやめろよ?お前は俺と一緒に天寿を全うするんだからな」
「…生きてていいんですか?」
首を傾げた真知の左腕を掴む。
「俺の事逃がさないって誓ったばっかりだろ?緒方さん」
「っ、はい」
よし、と俺が笑うと、真知は泣きそうな顔をした。
「今日は泣きすぎだからもう泣くの禁止な?」
そう言ってベッドから降りると、真知を連れてリビングに出た。テーブルの上に散乱する婚姻届と離婚届。結局俺らの愛情表現は真逆だったらしくて何よりだ。
「あの、何が召し上がりたいですか?」
振り返ると真知が俺を見上げている。ちっちゃい頭にでっかい目。
「作ってくれんの?」
「はい」
嘘、マジか。夢にまで見た真知の手料理。ちょっとにやけそうになりながら、何でもいいよ、と言った。
「では、少々お待ちください」
俺の手から簡単にすり抜けていった真知がキッチンに向かって走って、立ち止まる。真知が振り返った。
「あの、」
「ん?」
「料理の時だけは、手袋を付けてはいけませんか?」
目が泳がせて、真知は手を隠した。
「なんで?」
「あの、血が不衛生ですし、それに、食べ物なので、怖い、です」
怖い?首を傾げると、真知が言った。
「おが、と俊喜のお体に入るもの、なので、き、菌が、」
植え付けられたものは、思い込んだものは、そんな簡単にどうこうなることではない。いくら菌が無いって言ったって、真知にはそれを信じる確かなものがない。
俺の言った事は、これからの、未来の事でしかないから。まだ見れないものだからだ。
俺が真知に近寄ると、真知は癖なのか少し後退りしようとしたけど、立ち止まった。真知の顔を覗き込んで顔を近付けて、笑う。
「つっても俺、もうお前の唾液飲んでるんだけど?」
「っ、」
真知の顔が真っ赤に染まる。舌を出して見せるともっと赤くなった。可愛い反応。頭に手を乗せると、肩が揺れる。
「まあ、ゆっくり慣れていけばいいよ。手の傷治ったら作って」
「でも、今は?」
「ああ、俺が作ってやるよ」
真知が驚いたように瞬きする。
「料理出来るんですか?」
「いや、簡単なのしか作れないけど」
一応定食屋のクソババアの息子だからな。それに中学の頃にお袋と大喧嘩して悟の家に泊まりっきりだった事がある。悟は料理が出来ないから、ずっと俺が作っていた。家出した理由が反抗期の恥ずかしい親子喧嘩という理由だけに、真知には言わないけど。
真知の髪をくしゃくしゃに撫でると、真知がぎゅっと目を瞑った。
「まあ、俺が作ってやるから、真知はその間に誕生日プレゼントの中身を見て、手を軽く洗って、それを塗るんだな」
「塗る?」
「そう、塗る。」
真知の髪から手を離して、俺はキッチンに入った。
「冷蔵庫の中、勝手に使うからな」
「はい」
一人暮らしには大きすぎる冷蔵庫の中を開けると、うどんと豚肉と使いかけの野菜が少し入っている。寂しい冷蔵庫の中身だけど、真知がちゃんと食ってる事が窺えて安心した。
冷蔵庫から適当に材料を出して、カウンターの向こうの真知を見ると、真知はテーブルの上の婚姻届を見ていた。俯いた真知の目から涙が溢れたのが見えたけど、俺の目が良すぎたという事で気にしない事にした。
手を洗ってからまな板を出すと、IHの上に乗る大きな鍋の中には真っ白いマグカップが水に浸かったままになっているのが見えた。そういや昨日俺にお茶淹れるって言ってたな。まずはカップの熱湯消毒から入った訳だ。
袋の中から財布を出した真知がまた泣いている。その中から出てくる傷薬を見て、また泣く。今日は泣くの禁止って言ったばっかりなのに、馬鹿野郎だな。
でも、無音の空間に響く真知の啜り泣く音は、悲しくなかった。だって真知、ちゃんと俺が好きらしいから、もういい。
俺は焼きうどんを作りつつ、真知が笑わないかずっと見ていたけど、笑わなかった。今度の俺は笑わせる方法を考えなきゃいけないらしい。手間ばっかりかけさせる面倒臭い女。まあ、好きだから仕方ない話なんだけど。
ちょうど出来上がった焼きうどんに、IHを切る。IHなんて初めて使ったけどなんて快適なんだ。
手を洗いに来た真知が俺に頭を下げる。
「本当にありがとうございます」
「いいえ、安物ですいません。言っとくけど結婚指輪も安物だからな」
「そんな事ありません、おが、と、とと俊喜が働いたお金で、あの、」
真知がまた泣きそうな顔をしたから、唇に軽くキスした。真知の涙が止まった代わりに、顔が赤くなる。
「飯出来たから早く手洗えよ?軽くだからな。30秒な」
「はい」
手を洗い始めた様子を横目で見つつ冷蔵庫の隣の棚に入っている皿を二つ出すと、真知が小さく声をあげた。
「消毒、」
「もうそれ禁止な」
泡まみれの手を早く流すように顎で促すと、真知が手の泡を水で流した。俺が見ていると分かっていないからか、もう一度ハンドソープに手を伸ばす真知に言う。
「石鹸は一回まで」
「っ、はい」
こんなんじゃ俺はまるで姑みたいだ。嫁にネチネチ言う姑。姑なんて嫌だけどこうするしかないから仕方ない。
焼きうどんをフライパンから皿に移して持ち上げると、キッチンを出た。真知が箸を持って追いかけてくる。床を滑らないように慎重に歩いていると、真知が俺の手元を見てくる。
「そんな凄いもんじゃねーからあんまり見んな」
綺麗になった白いテーブルに皿を置いて胡座をかいて座った。真知は俺の前に正座して座る。俺に箸を渡すと、真知は皿をじっと見た。自分が見られてる訳でもないのに、無意味に照れるんですけど。
「早く食えよ」
「え、はい、いただきます」
丁寧に手を合わせた真知が焼きうどんを口に入れた。それを見てやっぱり真知が食べ物を食べてる所を見るのが一番好きだと実感する。生きてるみたい、つってな。生きてるけど。
「どーですか?」
「美味しいです」
馬鹿な女はまた目から涙を溢した。美味しいです、と繰り返しながら流す涙が焼きうどんに落ちていく。
「人生で一番幸せな朝ご飯です」
俺はそれに返事をしなかった。それがどんどん更新されていく事を、俺は心の中で願っていたからだ。誰にかは分からない。もしかしたらカミサマって奴にかもしれない。
でも、全て願った訳じゃない。真知を幸せにする方法を、少しばかり考えていた。




