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!!!!  作者: 七瀬
第二章 誓約書
18/34

血塗られた銀色の叫び




9月ももうすぐ終わる。俺はこの報告に正直なんと返事をすればいいのか分からなかった。どうしてかと言うと、そんな報告受けた事がなかったからだ。だって正直どうでもいい。


目の前にいる二人から目を逸らして窓の外を見ると、強い風で向かいのビルの窓が揺れているのが分かった。台風が上陸した。俺はさっき仕事を上がったばかりで、ここに着たのはたった5分前の事。


その時は風は強かったけど雨は降っていなかったのに、今、外はどしゃ降りだ。風で傘が引っくり返りながらも頑張って歩いているサラリーマンのおっさんはこれからソープにでも行くのだろうか。


でも今日は呼び込みの外国人の姉ちゃんは一人も通りに立っていない。そりゃそうだ。ふと、俺は重大な事実に気が付いた。


「傘忘れた…」


「あの、僕の話聞いてますか?」


聞いてるよ、聞いてる。心の中で返事をして、目の前の席に座る岩田を見た。水色のボタンダウンシャツにアーガイルチェックのカーディガンを着ている。お前はどこかのお坊っちゃまか。


その隣で岩田を凝視する八木は、グレーの変形パーカーを着ていた。相変わらずのプードルヘアーでムスク臭い。岩田は、もう一度言います、と言った。


「僕、サリナさんに男にして貰いました」


そう、これこそどうでもいい報告。どうしてお前の性事情を俺が知らなきゃいけないんだ。


まず俺は、岩田に呼び出された。どうしても聞いてもらいたい事がある、なんて言われたのだ。それでこのバーガーショップに来たら、八木が一人でいて相席しようってうるさいから相席した。それだけだ。


八木が顔をひきつらせながら言う。


「緒方、こいつ誰?」


「俺の後輩の岩田。元クラスメイトだからお前と同じ高校」


ええ!と八木が苦笑いした。でも岩田は真剣な表情をしている。前よりなよなよしてる感じが抜けて心なしか男らしくなった気がする。


「僕、サリナさんに男にして貰いました」


「それ三回目だぞ」


俺がそう突っ込む。どうでもいい。死ぬほどどうでもいい。そういうのは心の中に秘めておく物なのにどうしてわざわざ俺に言ってくるんだ?


八木が岩田の肩に手を置いた。


「岩田!良かったな!おめでとう!」


「ありがとうございます!」


厄介な二人が意気投合しやがった。二人はいきなり連絡先を交換する。



「ほら緒方!こういうのは同じ男として祝い合おうぜ!」


「あーそうだな、岩田おめでとう」


岩田は念願のあの文庫本の挿し絵のハードなSMプレイに挑戦したんだろうか。いや、でも嬉しいよ。俺は普通に嬉しい。だって岩田、学校のトイレでアレしてたくらいに飢えてたらしいからな。


岩田は勢いよくシェイクを飲み込んだ。凄い音が聞こえる。そんなに喉渇いてたのか。


「サリナさんとはそれっきりですけど、でも良かったです!二万円出しただけありました!」


「わざわざ店行ったのかよ!?」


「はい!」


おいおい、サリナ、店で本番ならまだしも高校生連れ込んだらまずいだろ。馬鹿な事ばっかりやってると摘発されるぞ?


岩田がうっとりとした表情で言う。


「あの、凄かったです」


「え、どんな感じ!?店ってソープ!?」


八木は相変わらず高校生で思春期だった。通路を挟んだ隣のテーブルの女がこっちを迷惑そうに見た。本当にすいません。


女と目が合って苦笑いすると、にっこりと笑顔を返された。怒ってないのか。俺は二人に視線を戻した。


「つーかお前らそういう話やめろよ。TPWを考えろ」


「それ言うならTPOだろ、緒方馬鹿だねー」


「え?TPO?」


八木の言葉を聞き返したが、無視された。タイム、ピープル、ホワイでTPWじゃないのか?あれ、なんだっけ?タイム、ピンチ、ワッツ?あ、TPOだから、タイム、ピンチ、オッケー?なんだそれ。時間がヤバくてオッケー!ってか?それただの遅刻魔じゃね?


タイム、プライス、オフィシャル。タイム、プライム、オーケストラ。タイム、プロジェクト、オマール海老。


頭の中がゴチャゴチャになったから考えるのをやめた。俺は日本人なんだから英語を使うのは間違ってたんだな。


八木が岩田の話を興味津々な様子で聞いている。八木は小学生の頃にシックスをセックスって元気に言うタイプだった事だろう。岩田はそれを聞いてウハウハしてるタイプだっただろう。


雑巾がけをしてる時にスカートを穿いてる女の後ろに並んでパンツを見ていた久人と同類だ。なんであの頃あそこまで女のパンツが気になったのかがよく分からない。


そう考えてしまった自分の老いを感じて少し凹んだ。わんぱく少年だったのにいつの間にかこんなにおっさんになったのか。


まだ18だけど、少し悲しくなってくる。


「え、緒方の元カノ!?」


いきなり自分の名前が出てきて八木を見ると、八木が岩田と俺を見比べていた。


「緒方、前に言ってたソープ嬢って、」


「正確に言うと、元ソープ嬢で現ヘルス嬢な、俺の元カノ」


八木が騒ぎ始めたけど面倒臭くて放置した。八木は多分ここの近所には住んでいないんだろう。ソープでこれだけ騒げる奴はここら辺にはいない。


俺は外を見てぼんやりと思った。傘持ってないけど早く帰りたい。この茶番から解放されたい。


俺は椅子から立ち上がって言った。


「俺、そろそろ帰るわ」


「え、帰っちゃうんですか?」


岩田が俺を見上げて言う。妙にサラサラで天使の輪がついた伸ばしっぱなしの髪はもうそろそろ真知の髪の長さに届きそうだ。


いきなり八木が顔の前で手を合わせた。


「なぁ緒方、車で俺を送ってって!帰れない!」


「俺今日車じゃねーし」


「なんで!?」


「事務所近いから歩いた方が早いしガソリン勿体ない」


ビンボーっぽい!という八木の声に溜め息をつきながら、岩田を見た。


「また暇あったら店来いよ、童貞卒業祝いに奢ってやる」


俺は紳士だった。どうでもいい事に違いはないけどめでたいっちゃめでたい事だから、祝うくらいはするのだ。まあ、うちの定食屋は全メニュー500円なんだけどな。


俺も一応一家の大黒柱、奥さんがいる身で無駄遣いは出来ないのだ。今のところ真知の生活費は出してないけど、いつかは俺の安月給で真知まで養う事になるんだから、そういう事もきちんと考えなきゃいけない。


岩田が目を輝かせて頷いた。俺は文句を垂れる八木を放置して店を出た。結局何も飲んでないし食ってもいないが、岩田が食ってたからそれでいいだろう。


店から出た途端に凄い雨と風が俺に直撃した。傘はないから、ここから徒歩5分の家に走って帰る事にした。コンビニで傘を買うという考えは一切ない。ボルドーのパーカーのフードを被って、勢いよく走り出した。


前の方から壊れた傘が飛んできたり、道に落ちていたビニール袋が顔に飛んできたり、色々なハプニングはあったけど俺は家のドアをやっとの事で開けた。


その途端に笑い声。俺を笑ったのは誰だと思って顔を上げると、常連客のおっさん達の中で明らかに浮いている二人組がいた。ナミとタエが笑っている。その視線の先は、二人の目の前に座る真知。


なんだよ、と思っていると、ナミとタエが俺を見た。ショートカットになったナミの顔は前に見た時とは違っている。女の化粧は怖い。


二人が真知を指差す。俺はフードを取って水が落ちてくるずぶ濡れの前髪を掻き上げると、真知の顔を後ろから覗き込んだ。


その途端に笑いが込み上げた。上瞼がひっくり返って粘膜の部分が見えている。白眼を剥いて、目以外はいつもの無表情の真知。変顔に磨きをかけているようだ。普段とは比べ物にならないくらいの不細工顔。


「真知、ただいま」


俺がそう言った途端に、真知のひっくり返っていた瞼が普通の状態に戻る。二重の瞼が瞬きをして、目が合う。


「あ、お帰りなさい」


なんでこの顔があの顔になれるんだ?真知の普段の顔を見て少し苦笑いしていると、真知が椅子から立ち上がった。


「どうなさったんですか?」


「傘忘れた」


服を着たままシャワーを浴びたような俺の姿を真知が見る。今タオルをお持ちします、と言って慌てて走り出そうとする真知の腕を引き留めた。


「すぐ風呂入るからいいよ」


と言うと、真知が俺の手を離して自分の着ているパーカーのポケットを漁り始める。どうせウェットティッシュだ。俺は真知から目を逸らして、ナミとタエを見た。


「お前らどうしたの?」


「台風で仕事になんないの!」


タエが頬を膨らませて言う。だからここに来たんだ、と言う二人の前には空っぽになったトレーと皿が並んでいた。皿に残る大根おろしから豆腐ハンバーグ定食だった事が分かる。


ここはただの定食屋でファミレスではない。若い奴が集まる場所ではないここには俺の知り合いがよく来るけど、家を教えた筈もないのに知り合いが訪れるというのも変な話だ。


真知が俺の手に無理矢理ウェットティッシュを持たせる。真知から香った線香の匂いは、俺の鼻を掠めた。そのウェットティッシュで真知の腕を触った手とは反対側の手を拭く。


俺の真知を誤魔化す技は段々上手くなっていっているのだ。日々成長、ってか?


「真知さぁ、今度一緒に買い物行こうよ。真知っていつも服シンプルじゃん、」


ナミが頬杖をつきながら言う。タエもそれに頷いた。うちらが選んであげるよ、と。


最近になって、真知は二人とよくメールをしているらしい。買い出しの時によく会うとは真知から聞いていたけど、メールするくらい仲良くなるとは思っていなかった。だって、真知と二人は似ても似つかないからな。


「お買い物ですか?」


「そう!だって真知、いつも服どこで買ってんの?折角可愛い顔してんだからさ、もっと可愛い服着れば?」


タエが首を傾げる真知に言った。真知はすかさずそのような事はありません、と謙遜する。いや、お前は本当に可愛いよ、と頭がおかしい俺は言いそうになった。


真知が俺を見上げる。それに首を傾げると、真知は厨房の暖簾の方を手で示した。


「体調を崩されますので、早くお風呂に入ってきた方がよろしいのではないでしょうか?明日もお仕事なのですから」


「はい」


俺は柄にもなく真面目に返事をしてしまった。真知が奥さんっぽい。一緒に住むようになったらこんな感じなのだろうか。毎日こんな感じなら、飲み会もほったらかして家に帰る。直帰する。


顔が無意識ににやけそうになるから、俺は厨房の暖簾を潜った。そこにいたお袋が俺の姿を見て眉間にシワを寄せる。


「あんた傘忘れたの?」


俺は黙って視線を逸らした。


「馬鹿だね本当に」


「うるせークソババア」


「黙れクソガキ」


俺達は無言で冷戦状態に入った。眉間にシワを寄せながら睨み合う。このクソババアと頭の中で繰り返していると、智子ちゃん御馳走様なーというおっさんの声が聞こえて、俺とお袋はほぼ同時に視線を逸らした。


馬鹿馬鹿って言いやがって。ならお前がもっと頭よくなるように生んでくれればよかったのに、と無理な注文を繰り返しながら、階段を上った。遺伝子的に考えて、それは無理すぎる注文なのを俺は知っている。


親父はまるっきり中卒なのだ。お袋も俺と同じく高校中退。救いようのない馬鹿家族だ。


俺はドアを開けると、パーカーを脱ぎながら洗面所に入った。パーカーの背中に葉っぱがついている事に気付いたのは、洗濯物のかごに投げた時だ。



俺は早々と風呂に入ってTシャツとスウェットに着替えると、飯を食う為に階段を下りた。真知は厨房で洗い物をしている。


真知の着た杢グレーのプルオーバーパーカーの袖に泡が跳ねている。俺はそれを見て、真知の袖に手を付けた。


「泡跳ねてるから腕捲れば?」


肩を揺らした真知が俺を見る。そっと俺の手から腕を逃がす真知は、俯いた。


「大丈夫です」


「そうか?」


真知がいいなら別にいいんだけど。頭に被せていたタオルを首に掛けながら真知の顔を覗き込む。


「なぁ、」


「はい」


「二人で暮らしてみませんか?」


俺の言葉に真知が目を見開く。無意識に出たそれに苦笑いしながら、言い訳の言葉を口にする。


「ほら、結婚してるしさ、別々に住んでるのもアレ…だろ?ゆっくりでいいから考えといて」


俺は真知の返事を聞かずに厨房を出た。すると、お袋がナミとタエと話している。どうせ若いとか言われて調子に乗ったんだろう。


案の定、聞こえてきたのはお袋のウザい謙遜の言葉だった。今日の風呂上がりのお袋はきっとパックをする事だろう。俺は夜中の暗い廊下でそれを見ないことを心の中で祈りながら、お袋のチェックシャツを着た背中に投げ掛ける。


「お袋!飯!」


その途端にお袋は俺を睨んだ。立ち上がって俺のケツに蹴りを入れてきた。


「いって!何すんだよクソババア!」


「あんたって奴は本当にどうしようもないね!皿に入れるだけなんだから自分で用意しな!そんなんだとまっちに捨てられるよ!」


その一言が突き刺さった。何も言えない。結構なショックを受けた俺は厨房に戻って、黙って味噌汁をよそった。今日はなめこと豆腐の味噌汁。真知はそんな俺を見ていたが、情けないから見ないで欲しかった。


女に捨てられるなんて冗談を真剣に受け止める俺をあまり見ないで欲しい。まるで今の俺は一年以上前にトイレでアレしていた岩田と同じような立ち位置にいるような気がした。


俺はトレーの上に豆腐ハンバーグ定食を作って客席に戻った。何となくナミとタエのテーブルに座る。お袋はそんな俺をにやつきながら見ていた。ぐれるぞクソババア。


お袋はそんな俺を見て笑うと、口を開いた。


「さ、あたしは可愛い娘の所に戻ろうかね」


「真知がお袋の娘になったのは俺が真知と結婚したからなんだからな」


「は?まっちとあたしはあんたがいなくたって出会ってましたけど?」


俺とお袋は再び冷戦状態に入ったが、厨房の方からお母さん、という真知の声がしてお袋ははぁいと気持ち悪い声をあげたから、冷戦は終わった。


お袋が勝ち誇ったような顔を俺に向けて厨房の方に去っていく。俺は割り箸を折りそうになるのを堪えて割った。割り箸を無駄にする訳にはいかない。俺は自分が思っていた以上に根っからの貧乏性だった。


「…いただきます」


俺の声は思った以上に怒りが込められていた。普通、ライバルってのは男だと思っていたけど、俺の敵は女だった。お袋だ。


それでもお袋から真知を離そうと思えないのは、真知がお袋をお母さんと呼ぶ時に嬉しそうにするからだ。まあ、無表情だからそんな雰囲気だとしか分からないんだけど、俺は真知が嬉しいと嬉しいのだ。恋する緒方俊喜は情けなかった。


ナミが口を開く。


「つーか俊喜のお母さんいつ見ても若いよね?ババアとか言っちゃ駄目でしょ」


「じゃあママって呼べってか?嫌だよ気持ち悪い」


やけになった俺に二人が苦笑いした。俺は豆腐ハンバーグに箸を突き立てる。それを見て二人が引いていたけど気にしない。そのまま豆腐ハンバーグを箸で切って口に入れた。


「俊喜ってさ、お母さんと全然似てないよね」


タエのグロスが剥げた唇がそう動く。


「俺は親父似」


「だよね」


でも性格はお母さんそっくりじゃん、と続けたタエを睨む。知ってるから言うんじゃねーよ。タエはごめんごめんと心のこもっていない謝罪をしてきた。心を込めろ。


外の風で窓がガタガタと音を立てている。窓の外はまだ雨が降り続いていた。ボーッと眺めていると、何かのチラシが窓に貼り付いて俺は心臓が止まりそうになった。


バクバクと心臓が音を立てて煩わしい。それを振り払うように飯を口の中に入れた。ナミとタエはほぼ同時に水を飲み込んでいる。この二人の異様なシンクロは双子も真っ青だ。マナカナしかり、タッチしかり。


ナミは付け睫を弄りながら俺を見た。痛そうで怖いからやめて欲しい。



「つーか俊喜、家泊めてよ」


「嫌だよ、久人ん家行けよ」


ナミの二重をくっきりさせるファイバーにブラウンのアイシャドーがついて黒くなっているのから視線を逸らしつつ、吐き捨てるように言った。


どうせ久人は今日も家にいるだろう。俺のケータイには暗号みたいなメールがこれでもかというくらいに送り付けられていた。受験のストレスでナーバスになっているらしい。ハワイハワイと気持ち悪いメールや、訳の分からない記号がついた計算式と、これの解き方教えて、とも打ってあった。


俺に分かる筈がない。愚弄されたと受け取って、メールを放置している。タエがにっこりと笑った。


「傘忘れたんだよね」


「馬鹿だなお前ら」


「俊喜に言われたくない」


頬を膨らませたナミに言われて、自分も傘を忘れていた事を思い出した。都合の悪いことを言われると困る。俺は飯に現実逃避した。


それから閉店ギリギリの時間まで二人は注文を繰り返していた。豆腐ハンバーグ定食ばかりが二人の腹の中に収められていく。二人の胃はどんな風になっているんだろうか。大食い選手権に出た方が良さそうだった。


「あーあ、まだ雨止んでないよー、病むー」


「勝手に病めよ」


タエがドアを開いて外を見ながら言うから俺がそう返すと、口を尖らせてきた。それに眉間にシワを寄せると、タエが鼻の穴を膨らませる。このやり取りに意味はあるのだろうか。絶対にない。


真知が俺の横に立って、背伸びして外を見る。タエはウェッジソールのパンプスのせいで背が高くなっているのだ。真知はそれより背が低いから仕方ない。元々、タエは背が高い方なんだけど。


「雨止みませんね」


「だな」


「真知とあたしとのその対応の違いは何?」


タエが振り返って苦笑いする。俺はそれを無視して真知の事を見た。


「今日泊まっていけば?」


「へ?」


真知は俺を見上げてすっとんきょうな声をあげたけど、よし決定な、と俺が勝手に決めた。外の雨の音は激しい。風速何メートルとか詳しい事は俺には分からないけど、風が物凄く強かった。


ナミが俺の腕を引っ張る。


「じゃああたしらも泊めてよ」


「狭いから真知だけで定員オーバー」


「嘘!?」


傘忘れたっていってんのにさ、とナミが俺の腕を引きちぎりそうな勢いで揺らす。痛いから離せよ。


「あの、私の傘で宜しければお貸ししますよ」


真知の言葉に二人が目を輝かせた。


「え、マジ?ありがとう!」


「いいえ」


真知は近くにある傘立てから傘を取った。いつもの子供用の赤い傘。それをナミが受け取る。ナミの爪についたラインストーンに電気の光が反射して俺の目に残像を残した。


タエが俺を見てニヤリと笑ってから真知を見る。なんだ今の顔。俺は最近人に馬鹿にされ過ぎている気がする。なんでだ?


「サンキュ、真知。今度、中学の卒アル持ってくるね!俊喜、マジガラ悪いから」


「余計な事すんな!」


俺がそう言うと、肩を竦めた二人が真知に笑ってから傘を開いた。またね、と言って、二人はあの小さい傘に二人で入って去っていく。


俺と中学の同級生だった二人は、通信制の高校に通いながら出会いカフェでバイト。苦労人の二人組の後ろ姿は消えていった。真知の赤い傘と一緒に。


「あの傘は、私の友達が貸してくれた傘なんです」


真知の台詞に、サチコの声がふと頭を過った。その友達は、おもちゃメーカーの社長の娘の湯野さん、かもしれない。俺は湯野って友達がどんな事をしたのかサチコから聞いていたからか、少し悲しくなった。


故意ではなくとも、湯野は真知に菌があると思わせてしまった人間だ。真知はそれを忘れて友達と言うから、悲しくなった。


雨の日に真知がいつもあの傘を差すのは、俺に会う以前に人から貰った最後の優しさだったからなのかもしれない。それはきっと、俺が真知に向けた何でもない優しさなんか到底届かないような、真知にとっての救いだったのかもしれない。


一人ぼっちの真知が受け取った、最後の優しさ。いくら記憶が改竄されようと、それは真知の中に残ったんだ。それ程に強い物だったんだ。


「もう何年も会っていません。あの傘は、最後に会った時に貸してくれたんです」


「そうか、そいつとはまた会えるのか?」


俺は何も知らないふりをして言った。真知から初めて聞いた友達の話。真知がまだ苦しいと思っていた時の話。それは俺の心を貫く程の威力を持っていた。


自分が人にされた酷い事を忘れた真知が覚えていた、優しさ。自分が辛いときに傍にいてくれた人は多分、一生忘れないんだ。


痛みよりも優しさは人の心に深く傷を付けるのかもしれない。それはいい意味でも、悪い意味でも。


人を傷付けた方の人間がそれを忘れるけど、傷つけられた方の人間はそれを忘れないとよく言う。


それと同じように、人に優しさを与えた人間はそれを忘れるかもしれないけど、与えられた方の人間は忘れないのかもしれない。


真知は傷つけられた記憶を消してしまったけど、湯野の優しさはちゃんと覚えていたんだから。


痛みと優しさのどっちが重いのかと言われたら、きっと痛みの方が重いんだろう。でも、その重さを背負った中に落ちてきた優しさは、その重さを遥かに超える。


ガキの頃に転んで怪我した時に泣かなかった俺に偉いと言った親父が俺の中にいつまでも残っているのと一緒。


真知の横顔は、いつになく悲しそうだった。


「分かりません。今、どこにいるのかも分からないんです」


それに俺はどんな返事を返せばいいのか分からない。真知はあの傘を差す度にいつ返せばいいのか迷っているんだろう。俺は自分の希望を口にした。


「そうか、また会えるといいな」


また真知と会って、友達になって欲しい。湯野がどんな風になっていたとしても、真知の痛みを分かっていた人間だから、俺は真知が湯野と一緒にいるのを見てみたいと思った。


「はい、また会いたいです」


真知の長い睫毛が揺れている。泣くのかもしれないと思ったけど、瞬きした真知の目から涙が零れる事はなかった。


綺麗な女。


俺は真知の横顔から暫く目が離せなかった。潤んでいるのを隠すかのように瞬きを繰り返す真知の瞼の裏側にある記憶を、俺も見たかった。


俺が知らない真知の痛みは、真知も忘れてしまったけど、俺はそれさえも欲しかった。俺はただの欲張りだ。真知の全部を包んで飲み込んで、一生離れなくなればいいと真剣に思う。


真知はいつになったら俺に触るだろう。俺を信じるんだろう。


真知の笑った顔を想像すら出来ない俺は、それの一番最初の目撃者になりたかった。



夜9時、俺はリビングでくだらないバラエティー番組のオープニングがテレビから流れるのを見ながら、ケータイを耳に当てていた。


「で、その女に二股かけられてたんですよ!酷くないですか!?こっち本気なのに!」


「お前ちょっと声でかい」


俺の言葉に、電話の向こうにいる津田がすいません、と言う。麦茶を飲み込んで、テレビのチャンネルを変える。すると、何やらエロいドラマのワンシーンに切り替わって、笑いそうになった。AV並みのキスをこの時間に流していいのか?


テレビ局の心配をしながら、津田の話を整理した。彼女が出来たんだけど、その女に彼氏がいて、自分が浮気相手だったという話。


最初は清春の話してた筈なのに、いつから恋愛の話になったんだ?多分、清春が学校でもイケイケだったって話からだとは思うが、それも定かではない。


「で?お前はその女とどうなりたいんだ?まだ好きなんだろ?」


「…はい、まだ、馬鹿ですよね」


「そうだな、馬鹿だな」


ドラマから違うチャンネルに変えると、ドキュメンタリー番組がやっていた。俺はそれを見てリモコンを置く。ドラマもバラエティーも正直好きじゃない。テレビの中でグレーのフサフサの毛が生えた可愛すぎるペンギンが歩いている。


「馬鹿だって分かってるんですけど、やっぱり好きなんですよ」


津田の声がちょっと揺れている。おい、泣くなよ。女が泣いてるのはどうしていいのか分からなくなるけど、男に泣かれるともっと困る。


「女は何つってんだよ」


「彼氏と別れて俺とちゃんと付き合う、って」


馬鹿だなと、思う。津田は馬鹿だ。それでも好きなんて馬鹿以外の何物でもない。二股かける女なんて、信用出来ない。


「緒方さんは二股かけた事とかないんですか?」


「あるわけねーだろ馬鹿たれ」


そんなの常識だ。相手は一人いたら十分なんだ。愛を与えるなんて事はしてなかったけどな、女をそこまで好きじゃなかったし。


テレビで大人のペンギンが身を寄せあっている。皇帝ペンギンだ。黄色いグラデーションの腹が綺麗。


津田が溜め息をついたのが聞こえた。俺は口を開く。


「お前が好きって思うなら、もう一回信じてやれば?それからじゃねーの?」


俺なら絶対そんなの無理だけどな。浮気された事ないし、まず浮気されるまで長い間付き合った事がない。


今、真知とこんなに続いてるのが不思議なくらいだ。夫婦らしい事は一つもしていないけど、俺の初めての本気は結構な力を持っているらしい。


「そうですね、そうしてみます」


「おう、頑張れよ」


「やっぱり緒方さんに相談して良かったです。結婚してる人はやっぱり安定感が違いますよね」


おい、俺のどこが安定してるように見えるんだ?それがサッパリ分からなかった。まだ安定なんて程遠い。俺は真知を追いかけ回してるだけなんだけど。


大体、今日はなんて日なんだ。俺はお客様相談室でもないし、心理カウンセラーでもないし、恋愛専門家でもない。むしろ心理カウンセラーだったら真知ととっくにラブラブしているはずだし、恋愛においては素人だ。なのにどうしてこんな相談ばっかりされるんだ?


テレビに視線を移すと、ペンギンが腹で氷の上を滑っていた。冷たそうだし痛そう。あれだけ腹で地面を這いずり回ってるというのに、ペンギンの腹は真っ白だ。氷しかない場所は、土で汚れるような場所もないらしい。


その時アザラシが映って、俺の心は鷲掴みにされた。めっちゃ可愛い。黒目がちの目が俺をじっと見ている。


「緒方さん本当にありがとうございます。今から電話してみます」


「おう、二回目はないからなってちゃんと言えよ」


「はい!失礼します」


俺はどこかの面接官か?またな、と津田に言って電話を切った。


富田紗英は、相変わらず学年一の優等生だそうだ。今回のテストもぶっちぎりで一位だったらしい。部活はやっていないけど、学級委員をやっているらしい。教室には最後まで残っている。


清春が好きになった女は、清春とは別世界に生きる女。全く統合する筈のないものを追いかけてしまう気持ちは分からなくもない。でも、調べるには骨がいる。


二人の関係をきちんと把握していた人間は当人以外誰もいないから、俺の記憶と真知の記憶を頼りにするしかない。聖や学、あの時一緒にいた後輩達に清春が焼死体となって発見されました、なんて事は言えない。要にバレない為の予防線を張り巡らせながら調べるのは、案外難しい。


矢崎組にいる先輩に聞こうかと思ったけど、それはやめておいた。電話で聞くような話ではない上に、事務所に行ったら行ったで情報の流れが早いからすぐにバレる。


そしたら今までの苦労が全て無駄になる。


本当は誰かを調べるなんて事はしたくなかった。人にはプライバシーってものがある。人には知られたくない事が、いくらでもある。


殺されるかもしれないと言われたって、俺は、それでも清春に会って言いたい事があった。


俺は富田紗英について、一つだけ有力な情報を掴んだんだ。それを清春が知ったら、救われる。


開きっぱなしだったケータイから、消せない電話番号を出した。清春の番号。何度かけたって繋がる筈のない不必要な物のそれを、俺は消せなかった。消したら消える、当たり前だけど、清春の存在でさえも消してしまうような気がした。


清春の番号を消すことで、清春が俺の後輩だった事も、清春が確かに存在していた事も、消えてしまう。


死んでない筈だ。今、どこにいる?何をして、何を考えてるんだ?


テレビから流れる女のナレーションの声。その方を見ると、子供のペンギンが吹雪の中に立っていた。グレーの毛に白い雪が被さっている。素っ裸で雪の中に立つなんて相当の根性が必要だろうと思う。ドMも真っ青だ。


それ以前に、ペンギンと人間の毛の量も寒さの感じ方も違う。


太陽と地球は俺が想像できないくらいに離れているのに、太陽の暖かさは地球にちゃんと届いている。でも人間は近くにいないと分からない。太陽と地球にも、人間と人間にも、人間とペンギンにも、別の基準が存在する。


俺みたいな馬鹿な人間じゃ到底行けないような遠い所にある氷の帝国の映像が、テレビの画面越しに俺に繋がる。不思議な話だ。


婦女暴行、監禁殺人、強盗殺人、強姦致死、振り込め詐欺、俺には全く関係のない所で、今この瞬間もそれは起こっている。どっかの芸能人が結婚しました、なんて明るいニュースと一緒に飛び込んでくるそれの重さは、多分、俺には分からないものなんだろうと思う。


人間の先祖を辿ると、皆一人の女に繋がるらしい。それは俺が何となく聞き流していた英語の授業で習った事だ。俺はそれを聞いてとんだビッチだなと思ったけど、そんな話ではなく、皆一人の母ちゃんから生まれたから仲良くしようなって事なんじゃないかと思う。


でも人間は厄介な事に全員まるで性格が違う。考えている事も違う。それは永遠にどうにもならない事だ。別の意見がなかったら、戦争も起こらなければ殺人事件も起きない。戦争や殺人を肯定する訳じゃないけど、平和の上に平和が成り立つんじゃなく、乱れに乱れた後に平和が成り立つんだ。要するにゴム無しセックス(その後に子供が生まれるから)。


人間の歴史は人間が作る。そこにいた人間の性格が違うからこそ今がある。統合する筈のない人間達。


それは俺と真知であって、清春と富田紗英でもある。別の場所で生まれて、別の人生を歩いてきた二人がたまたま出会っただけ。こんな事を言ったらとんでもなくちっぽけな風に聞こえるけど、俺は運命なんて信じない主義だ。


一人のビッチから生まれた全世界の人間はこれだけ増えました。増えたが故に殺し合うし、体を繋げちゃったりする訳で、それはいい事ですか悪い事ですかと聞かれたら俺には分からない。


だって俺は現在進行形で生きている。きっと、俺が一度死んで蘇って、カミサマって奴に等しい存在になったらその正解が分かるようになるんだと思うけど、俺はそこまでして分かりたいとは思わない。


俺は全世界の人間の母親なんていうビッチな女の息子じゃなくて、しがない定食屋を営む金髪クソババアの息子だから、毎日食い繋ぐだけで精一杯だ。


カミサマなんかになれやしないし、なりたいとも思わない。


テレビの画面の向こうは真っ白な地面に真っ青な空だった。台風で酷いこことはまるで真逆。それが世界のどこかにあるというのは、救いなのか、それとも残酷なのか。


不幸な人間がいて、幸せな人間がいて当たり前。俺は今平和にドキュメンタリー番組を見ちゃったりしてて、どこかで誰かが殺されてるのも当たり前。


全部の悲しみを一つ一つ俺が憂いる事は不可能だ。そんな中途半端な事をしたら、同情するなら金をくれって言われちまう。俺は金なんて持ってないから、目に映るものを忘れないでいる事しか出来ない。


「あんた何一人でぼんやりしてんの?」


慌てて顔を上げると、鳥肌が立った。お袋がパックをしているお化け顔がそこにあったのだ。タンクトップにピンクのスウェットのお袋はその真っ白な顔で平然と俺の向かいに腰を下ろした。


「びっくりさせんなクソババア!ユーレイかと思っただろうが!」


思わず怒鳴った。お袋は白いパックに寄ったシワを手でならしていて、俺を見て目付きを鋭くする。


「は?ユーレイ?まだあんたそんなの信じてんの?」


「信じてねーよ!お前の顔がお化けみたいだっつってんだよ!」


「言ったねクソガキ」


「本当の事だろクソババア」


俺達は再び冷戦状態に入った。お袋はパックを気にしながらも睨んでくるから、俺も負けじと睨んだ。


その時、ドアが開く音がして、冷戦は終了する。真知が来たと思ってリビングのドアの方を見たが、そこにいたのは真知じゃなかった。


お袋のピンクのスウェットの上下を着た、パックの女。正確に言えばパックを付けた真知だった。真知はポケットからあの透明のテーブルクロスのような物を出しながら平然と歩いてくる。


幻覚かと思って瞬きしたけど幻覚なんかじゃなかった。叫びたい気分になった。そんな俺を尻目に、お袋が口元のパックを押さえながら口を開く。


「まっちに一枚あげたの!まっちどう?」


なんて事してくれてんだクソババア!心の中で文句を言った。


「いい香りがします」


真知は口を動かさないように腹話術みたいに話す。手にしていたテーブルクロスを広げて俺の隣の座布団の上に乗せて座ろうとしている。


俺はすかさずそのテーブルクロスを引っ張った。俺にとって衝撃的なパック姿よりもそっちの方が重要だったらしい。反射的行動。


真知はそのまま座ろうとしたものだから、斜めになったテーブルクロスのせいでバランスを崩す。そのままテーブルクロスを真知の下から引き抜くと、真知が座布団の上に着地した。


真知は慌ててテーブルクロスに手を伸ばしてくる。テーブルクロスを若い男女が奪い合う異様な光景。


「それ返してください」


「嫌だ」


真知が両手で引っ張るよりも俺の片手の力の方が強かったらしい。真知は俺の力に負けてバランスを崩した。俺の胡座をかいた右足の太ももに顔から突っ込んだ。


「あ!真知ごめん!」


俺はテーブルクロスを真知に届かないように投げると、真知が慌てて起き上がった。パックが少しずれている。


パックが白いからか、真知の赤い唇が余計に際立っていた。真知は黙って鼻を押さえる。


「ごめん、痛かったよな!?鼻折れた?大丈夫か!?」


「まっち大丈夫!?俊喜!あんた相手は女の子なんだから加減しなさいよ!」


お袋の言葉に分かってるよ、と心の中で叫んだ。俺はテンパって真知の肩を掴むと、真知の鼻を押さえる手を退かした。真知の目が涙目で俺まで泣きたくなる(自業自得だけど)。


鼻のパックをめくると、鼻は少し赤くなっていたけど折れている様子はなかった。真知の鼻を優しく触ると、真知が少し後ろに逃げる。


「痛い?」


俺がそう言った瞬間、真知の鼻からたらりと赤い物が流れた。


「ああああああ!」


俺は思わず叫んだ。真知の下睫毛が涙で濡れていて、パックを慌てて外す。真知の鼻の穴を人差し指で塞ぐと、お袋がパックに付いた血を見て叫ぶ。


「ああああああ!」


叫び方が一緒なのが腹が立って仕方ないが、今はそれどころじゃない。真知は頑張って俺の腕をつかんで離そうとしてくるけど、真知の鼻からは俺の人差し指を真っ赤にするくらいの血が流れている。


「お袋!お袋ティッシュ!ティッシュ持ってきて!」


お袋が慌ててティッシュを持ってきた。それを数枚引き抜いて、真知の鼻に当てる。


「真知ごめんな、本当にごめんな!わざとじゃねーから!マジでわざとじゃない!」


「あの、離れ、て」


「本当にごめんな!痛いよな!?ごめん!」


ティッシュはすぐに赤くなる。俺はその場で土下座したくなった。女に鼻血を出させるなんて俺はどんな男だ。ドメスティックバイオレンス男では決してないのに、俺は今人生で一番やっちゃいけない事をしてしまった。


お袋が次のティッシュをスタンバイしていて、それを受け取る。真知の鼻にティッシュを当てる俺の手は真知の血で赤くなっていた。俺って本当に最低。


「まっち大丈夫!?」


お袋の声に真知が頷きながらも、離れてと俺に言う。俺はそれを無視して、真知の後頭部に手を回して少し上を向かせるように固定した。


お袋が俺を睨みつつ真知の腕を擦っている。睨まれなくたって、俺は事の重大さを理解してるっつーの。心の中で号泣だ。


俺は崖から転げ落ちる夢を見て慌てて目を覚ました。あの独特のマジの浮遊感はなんなんだろうか。ジェットコースターに乗った時に落ちる時のような浮遊感を体を上下させなくても再現する夢は怖い。


あれから鼻血が止まった真知をベッドに寝かせて、俺は真知の寝顔を見ていた。だけどいつの間にか寝てしまっていたらしい。テーブルに伏せて寝ていたからか首がバキバキと音を立てる。


さっきお袋が真知の様子を見に来て、寝顔が可愛いと言ってニヤニヤしていた。可愛いというのは同意するけど、スッピンでにやつく顔はお化け以外の何物でもない。キモいと素直な気持ちを伝えたら冷戦に入ったけど、いつの間にか俺まで寝てたのか。


時計を見ると夜中の2時。丑三つ時ってやつだ。幽霊が沢山出るらしい時間。まあ、さっきお袋のパック姿というお化けを見たから特に怖いことはないんだけど。


ベッドを見ると、真知はいなかった。便所か?朝からまた仕事があるのを思い出すと、途端に喉が渇く。そう言えば、さっき怒鳴ったり叫んだり謝ったりで喉が渇いていたんだった。


俺は肩を伸ばしながら立ち上がった。


その時、ドアの向こうからお袋の声が聞こえた。夜中の癖に結構な声のボリュームだ。だからお袋は嫌なんだ。どうせ便所で真知と会ってテンションでも上がったんだろう。お袋はそういう面倒臭いババアなのだ。


寝ぼけ目を擦ってドアを開けると、洗面所の明かりがついているのが見えた。


「まっち、駄目だよこんな事しちゃ!まっちに菌なんてないんだよ?」


お袋の声に一気に目が覚める。洗面所を覗き込もうとすると、俺の足が何かを蹴った。それを辿ると、タワシがあった。俺は首を傾げた。なんでタワシ?


「俊喜!」


お袋の声に顔を上げると、お袋の拳が飛んできた。やばいと思ったが距離は思った以上に詰められていて、避ける暇もなくそれが俺の顎の骨にしっかりと入った。洗面所の壁に背中がぶつかる。


「いてーな!いきなりなんだよ!」


怒鳴りながらお袋を見たら、お袋は凄い剣幕で俺のTシャツの胸ぐらを掴んだ。


「あんた、なんでまっちの事ちゃんと見ててやらないのっ!」


「は?つーか離せよ」


胸ぐらを掴まれた手を無理矢理外すと、再びお袋の拳が飛んできたから、その拳を掴んだ。俺だって二度同じ手には引っ掛からない。



お袋はそれを払って、俺を睨む。


「あんたまっちが好きなんでしょ?だからお嫁さんにしたんでしょ?あたしだって好きだよまっちの事!」


「いきなりなんだよ、顎いてーんだけど」


俺がお袋から視線を逸らすと、真知がいるのが目に入った。お袋は振り返って真知の肩を掴む。


「まっち、菌なんてないんだよ?」


何なんだよ、人の事いきなり殴っといて状況がさっぱり掴めない。真知は黙って立ち竦んでいて、お袋がどうしてこんなに必死になっているのかも分からない。


流しっぱなしの水がお袋の声と混じる。それを止めようとして蛇口に手を伸ばした瞬間、鳥肌が立った。


真っ白い洗面台に血が飛び散っていた。慌てて見た真知の手は血だらけで、血まみれで真っ赤だった。


「まっち、駄目、もう駄目だよ、こんなの駄目だって、」


お袋の声が震えている。ゆっくりとしゃがんでさっき蹴ったタワシを掴んだ。手が心なしか震えているような気がする。それを流しっぱなしの水にかざす。


すると、水がオレンジ色になった。真知はこのタワシで手を洗っていたのか?思わず洗面台にタワシを落としてしまった。排水口の金属とタワシの金具がぶつかって小さく音を立てる。


だって、これは手を洗う程綺麗な物なんかじゃない。流しを洗う為のタワシで、俺はお袋が何回もそれで排水口の淵に溜まった汚れを擦っているのを見たことがある。


洗面台に置かれた真知の肌色のゴム手袋を恐る恐る手に取った。


それをひっくり返すと、パリパリと赤黒いカスが落ちてくる。真っ白い洗面台に広がる薄い赤と赤黒いカス。かさぶただった。中は不気味なオレンジ色をしていた。赤黒い血とゴム手袋の肌色が混じった色。血でマーブル模様が描かれている。


「真知、」


このゴム手袋から考えると、真知が血だらけになるまで手を洗ったのは今だけじゃない。真知はずっと手を隠してたのか?


ゴム手袋が肌色になったから俺は真知の手の傷の様子を全然見ていなかったんだ。でも、いつからだ?真知の手はいつからこんなに血まみれになったんだ?


「まっち、菌なんてないんだよ?そんなの嘘なの!」


お袋が真知の肩を掴んで揺らす。真知はお袋の顔を無表情で見ていた。目が血走っている。前と同じ目。


「真知、俺を信じろって、痛いなら痛いって言えって、言ったよな?」


カラカラに乾いた喉で声を作ったら、声が震えた。真知の口が壊れた人形みたいにパクパクと動く。


「違うんです、ちょっと汚れてたので、」


「手洗いまくって消毒しまくってずっと手袋つける奴の手がどうやったら汚れるんだよ」


俺の言葉に真知が肩を揺らした。どうしてここまで手を洗ったんだ。もしお袋が気付かなかったら、真知はずっと血まみれになるまで毎日手を洗い続けていたのか?


「真知、どうしてここまで手を洗ったんだ?」


「だから、汚れていただけで、」


「俺は馬鹿だから、ちゃんと言ってくれないとわかんねーよ」


真知が黙り込んで、お袋が俯く。俺は真知の背中に言う。


「真知、いつからここまで手洗うようになったんだ?」


「……、お父さんの、命日の後から、です」


そんなの、もう三ヶ月も前の話だ。三ヶ月間毎日こうしてたって事か?それで平然としてたって事か?


「なんで、ここまで手を洗ったんだ?」


「…………」


「真知、言えよ。ちゃんと言ってくれ」


「……………」


「俺は知りたいよ、お前がなに考えてるのか知りたい」


真知の背中だけをずっと見ていた。こんな小さい背中がどうしてここまで自分を追い込むのか、俺には分からなかった。


分かりたくても分からないのに、知りたくても知らないのに、俺は真知から逃げられない。こんなのフェアじゃないって思ってる。好きとも言われなくて、触れたら離されて消毒されて、こんな事なら、他の適当な女といた方がいいって、思ってるよ俺は。


でも、俺は真知と出逢う前に戻りたくない。俺はやっぱり真知が良かった。何回不気味な女だって思っても、何回気持ち悪い女だって思っても、何回異常な女だって思っても、何回壊れた女だって思っても、俺は真知が好きだ。


その向こうにある真知の怯えた目を見た瞬間から、俺は真知から逃げられなくなった。逃げたくもないし、逃げられたくもない。掴めるものなら、掴みたい。


「信じ、たかった、から、」


真知の声は揺れていた。



「おがた、せんぱ、信じたかった、から、」


「俺?」


「でも、私、本当に、菌、ある、から、」


真知がしゃっくりの途中に声を紡ぐ。お袋が真知を抱き締めた。


「緒方せんぱ、言う事、本当に、したかった、です」


「っ、」


「でも、綺麗に、ならないっ、私、綺麗になら、な、」


「もういい、」


真知の頭を引き寄せて、そのまま抱き締めた。いつもと違う、うちのシャンプーの匂いがする。


「もういい、お前が信じる菌、そんなのないけど、お前が信じてるなら俺に移せ、俺に移していいよ」


「嫌だ、」


真知がお袋を離して、俺まで離した。


「だって、人殺しちゃう!本当にあるの!本当に人殺すの!」


真知が金切り声を上げる。いつもの冷静さから一変するそれは、俺の耳をつんざく。真知がその場に崩れ落ちた。床に座り込んで、真っ赤な手で耳を塞ぐ。


お袋が暴れる真知を必死で抱き締めて、真知が移るから離してと叫んでいる。


俺は、何を言えばいいんだろう。菌がないって本当の事を言えばいい?それとも、お前には菌があるよって嘘を言えばいい?


立ち竦む俺の頭の中で木霊していたのは、真知の声だった。真知が俺の嘘の笑顔を見破った時の言葉がずっと反芻している。ぐるぐる回っている。


その瞬間、俺の頭に浮かんだのは、もっと不確かなもの。俺が間違ってた。今すぐどうにかなるものじゃないなんて分かってたのに、俺はいつの間にか今すぐにどうにかしようと思ってしまっていた。


今じゃなくていいんだ。いつかでいい。すぐじゃなくたっていい。


俺は洗面所を出た。慌てて部屋に入って、誰にも見付からないように隠した俺の本気を、棚の奥から引きずり出す。


プロポーズは玄関、雰囲気もクソもなかった。だからこそちゃんとこれだけは色々考えて渡そうと思ってたけど、もういい。


結局誰だって皆ボロボロだろ。その時だけ見繕ったって、結局中身が一緒なら気にしなくていいのかもしれない。


「移るからっ、離して!」


洗面所に戻ると、お袋を離そうとする真知の頬が手の血のせいで赤く染まっていた。後ろからお袋を離して、真知の前に座り込んだ。


横からお袋が俺を見ているけど、そんなの関係ない。死ぬほど嫌だけど、今は気にしてる場合じゃない。


「真知」


しゃっくりを繰り返して苦しそうに呼吸する真知の目が俺を見た。その目はまるで威嚇している猫みたいだった。茶色い目はどこまでも澄んでいる。


俺は真知の前で、本気の箱を開いた。真知に見えるように開いた箱の中にあるのは、同じデザインでサイズが違う二つのプラチナの指輪。俺が買った結婚指輪。


私服で買いにいくのが恥ずかしくてわざわざスーツを着て買いに行った結婚指輪。


真知が目を見開いた。その目から涙が一滴の大粒の涙が溢れ落ちる。


「遅くなってごめんな、順番もめちゃくちゃでごめん」


「駄目です、そんなのっ」


「左手出して」


真知は涙を流しながら耳を塞いだ。首を横に振って駄目だ駄目だと繰り返す。


「真知、頼むよ」


「だってっ、結婚指輪なんて、高いしっ触るしっ」


「これだけは俺に嵌めさせてくれよ」


真知が前髪の隙間から俺を見る。過呼吸気味の真知の苦しそうな息がやけに頭に響いた。真知の目から流れる涙に誰かが触れる事は不可能で、それがお袋でも、勿論俺でも、絶対に無理だった。


真知がとんでもなく遠い場所にいるような気がしたのは、初めてだった。手を伸ばせば触れられるのに、真知の目はそれを拒んでいる。


「真知、俺はここにいるよ」


俺がそう言った相手は、俺自身だった。真知はここにいるって、安心したかった。このまま消えてしまうと思った。


俺は今までに何度思っただろうか。頭が足りない馬鹿で、いつも後になってからじゃないと気付けない。真知を信じさせようとした俺が真知にさせたのは、結局真知を追い込んで傷付ける事でしかなかった。


それでも離せないのは、俺が自分勝手だからだ。真知を一人にしたら、真知が望み通り死んでしまう。俺が死にたい真知を死なせたくないだけで、俺が真知に死なれたら困るだけで、真知の感情は一切無視。


真知の感情を俺が受け入れたなら、俺は真知を殺さなければいけなくなる。真知に殺してと言われたって、俺は真知の首なんか絞められないし、ナイフだって向けられない。


真知が死んだ後に俺が追えばいい話だ。でも、俺はそんな不確かな誰も見たことがない死後の世界なんて信じられない。俺が真知と一緒にいたいのは、今ここにある現実。


「真知、左手」


真知の真っ赤な手を、お袋が握った。その瞬間、真知はその手を離す。それでもお袋は真知の顔を見る。


「まっち、俊喜との指輪要らない?」


お袋の単刀直入過ぎる質問に真知は何も言わなかった。俺はもしここで要らないって言われたらどうすんだクソババアとお袋に心の中で言った。


たださっきよりも真知の涙の量が増した気がする。そんなに泣いたら、身体中の水分が全部出てしまうんじゃないかと少し心配になった。俺は足りない頭から無理矢理絞り出した言葉を紡ぐ。


「外したかったら勝手に外していいから、今だけでいいから嵌めさせて、後は捨てたって何したっていいから」


真知が何かを言いたそうに口をパクパクと動かす。


「っ、しょ、どくはっ?」


「消毒?」


「触ったら、消毒、して、くれ、ますか、」


もし俺が頷いたら、真知は指輪を嵌めさせてくれるんだろうか。


「ちゃん、とっ、私が見てる前で、」


「するって言ったら、触ってもいいのか?」


真知は小さく頷いた。


「じゃあ、消毒する」


左手出して、と俺が言うと、真知は恐る恐る血まみれになった左手を出してくる。初めて会った時に目に焼き付いた第二関節のひび割れは、周りが赤くなったせいか埋もれて目立たなくなっていた。


俺は真知の手にそっと触った。何ヵ月も触っていなくて見てもなかった真知の素手は、血まみれで熱そうに見えるのが嘘みたいに冷たい。


どうせ俺が強く握った所で真知が痛いと言わない事は分かっていたのに、俺は全力で優しく触った。だから少し手が震えるのもそのせいだ。


ケースの土台から指輪を取って、真知の左手の薬指に嵌めた。第二関節で軽く引っ掛かったそれを押し込むと、ぴったりと指に絡まる。二度と外れないとでもいうように真っ赤な手に浮いていた。血の海の中に浮く銀色の金属。


真知は顔を歪めてまだ泣いていた。何を思ってるのかなんて、俺には分からない。俺まで、泣きたくなった。それを必死で飲み込んで、真知の目をじっと見た。


「真知も俺に嵌めてくれる?」


「っ、」


「大丈夫、消毒する」


真知が土台から俺の指輪を取った。真知の手は異常なくらいに震えている。その異常な女を好きな俺は、それ以上に異常なんだろう。


左手を出すと、真知は俺の手に極力触らないように指輪を持ち直して、薬指に嵌めた。


真知の手によって結婚指輪が嵌められた、たったそれだけの事で、二度と戻りたくないと思った。ところどころ真知の血で赤くなった指輪を見て、こいつしかいないって、俺の頭が命令してくる。


「手洗うの禁止なんて言わないから、手洗うのは15分までにしような」


「っ、」


「な?真知、15分までな、」


「っ、はい、」


お袋が俺の顔を見て小さく笑った。お袋も俺も、似てる。特に、真知が好きな所なんかはそっくりかもしれない。最悪以外の何物でもないけど。


それから落ち着いた真知をベッドに寝かせて、真知がぐっすりと眠るまでお袋と二人で見ていた。気が付いたら、明け方の4時だったけど、目も頭も冴えていて眠れる気がしなかった。


それはお袋も同じようで、お袋は真知の頬についた血を濡れタオルで拭いながら口を開く。


「まっち、今までにさっきみたいな事とかあったの?」


「まあ、今日程酷くはないけど、何回か」


「そう」


お袋はベッドの脇に胡座をかいた。真知の髪を撫でたお袋が俺を見て、笑う。


「今日はちょっとびっくりしたな」


「だろーな」


真知の顔を見て、俺はぼんやりと言った。俺は真知の取り乱す所を初めて見た時、どう思っただろうか。びっくりする暇さえなかった。どうにかしないとって思っていた気がする。


「まっちって、不思議な子だよね」


ポツリとお袋が言った。何かを思い出すように宙を見てから、俺を見る。


「前にね、たまたまカレンダー見て、明日が政喜との結婚記念日だなって思い出した事があったの」


「うん、」


「まあ、婚姻届を提出したのって、あんたができたって分かった次の日なの。だからその日はあんたができたって分かった日だったからさ、まっちに言ったんだ」


お袋は真知の前髪を流しながら、小さく笑った。


「今日は、俊喜がお腹にいるって分かった日なんだよーって、」


そしたらまっち、なんて言ったと思う?とお袋が続けた。


「……いや、分かんない」


真知の思考回路なんて、俺にはサッパリ分からないのだ。正直にそう言うと、お袋があんたは本当に馬鹿だね、と俺を馬鹿にする。


「んだとクソババア。ならもっといい遺伝子提供しろよな」


「あー、はいはい、でね、まっちに、」


俺の話はスルーか、と思ったが、真知の話の方が気になったから口を噤んだ。


「『おめでとうございます』って、言われた」


「…………」


「『今日はお母さんが、智子さんからお母さんになった日なんですね』って、『おめでとうございます』ってさ」


やっぱり、俺に真知が考えている事は分からなかった。お袋が笑いながら言う。


「あの時は嬉しかったんだけど、今じゃあんな馬鹿息子だからねってまっちに言ったの、でもね、」


「うん、」


「『緒方先輩が生まれて無事に育って良かったですね』って、『私も嬉しいです』ってさ」


やっぱり、この女は馬鹿だ。妙な愛情表現といい、俺の存在価値は真知の中で確立されていたらしい。


「まあ、あたしもいるんだし、俊喜、まっちを離すんじゃないよ?」


「…余計なお世話だ」


ベッドに頬杖をついたら、頬に指輪が当たった。冷たかったそれはすぐに俺の体温に混じっていく。


「まっちって、笑ったらどんな顔するのかな」


「さあな、」


「見てみたいね」


俺は心の中でお袋に頷いた。今、言葉を口にしたら泣いてしまいそうだった。自分が情けなくて、なのに真知がいて良かったって思ってる。


真知は俺をどのくらい好きなんだろうか?結婚してから五ヶ月、もうすぐ半年。妻の気持ちを知らない哀れな夫の俺は、真知の長い睫毛をじっと見ていた。




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