乞いの末路
爆音で流れる、New Orderの『Blue Monday』。カウンターで酒を受け取って、ソファーにもたれかかってぐったりとした要の所に戻る。
隣で酔っ払った名前も知らない女が要の服を脱がしにかかっていた。要と女が座るソファーの前のソファーに腰を降ろす。久々に先輩からの呼び出しじゃない飲み会だけど、この雰囲気は嫌だ。頭が痛くなってくる。
今日は3連勤の最終日で、仕事が終わってから要と久人と待ち合わせをしてここのクラブに来た。適当に合流した女三人と一緒に飲んでいたけど、要が早々と潰れた。
久人は女とトイレだ。久人も落ち着けばいいのに、と思いながら俺は酒の入ったグラスをテーブルに置いた。青いLEDが飛び交う中で、ダメージデニムのカバーオールのポケットからケータイを二つ取り出す。
隣にいる女は俺に腕を絡ませてきた。肩が剥き出しのベアトップのワンピースを着た女。
「ケータイ二個持ち?」
「いいや?違う」
俺のケータイと、もう一つは真知のケータイ。今日ここに来る前に契約してきたのだ。俺名義だけど、真知に持たせる為に買ったケータイだ。
俺の電話番号とアドレスのデータを移す。ついでにお袋のも入れておいた。後は真知本人にやってもらった方がいいだろう。ポケットにケータイを二つ戻していると、要と女が視界に入った。
要がついに女を押し倒してキスし始めた。見たくもないんだけど、女には感謝しないといけない。テーブルの上に置かれた要のケータイを素知らぬ顔で拝借する。ごめんな、要。そう謝っても、俺はきっと今から最低な事をするつもりで、誰に咎められたとしても、それをしない方向には歩かない。
確か、清春と同じ高校の奴の名前は津田だった筈だ。俺は自分の記憶力の良さに苦笑いしながら、要のケータイの電話帳を開いた。た、ち、つ、津田。
お、あった。それに電話を繋げようとすると、俺の隣にいた女が、腕に胸を押し付けてきた。女の顔を見ると、唇を寄せてくるから、できるだけ優しく引き剥がした。
その途端に女は口を尖らせる。
「えー、俊喜君」
「俺、奥さんいるからそういうの駄目」
「知ってるよ。でもさ、今日くらいはいいじゃん」
「マジで無理。ちょい離れろ」
女を無理矢理離したら、ソファーから立ち上がってふて腐れたようにどこかに行ってしまった。まあ、そういうのが無理ならこういう所に来なければいいだけなのかもしれないけど、男と女だからそういう空気にならなければいけないなんて面倒臭い。
そっと、要のケータイから津田に電話を繋げた。
通話の音量は最大にして、片耳を手で塞ぐ。まだ電話口からは発信音しか聞こえないけど、繋がった時の為に慌ててフロアを出た。
少し静かな地上に続く階段には何人か人がいる。それに構うことなく、電話口に意識を集中させた。電話に出るの遅いんだよ。何の為の連絡道具なんだ。
と、思った時、ブツリと音を立てて発信音が鳴りやんだ。電話口の向こうから騒がしい声が聞こえる。
「もしもし要?どしたー?」
元気な声だと素直に思ってしまった自分の年を感じて苦笑いした。要じゃないんだけど、と、口を開く。
「津田、だよな?」
「……そうだけど、あんたは?」
いきなり声が低くなった。心なしか電話口の向こうが静かになった気がする。
「要の一応、先輩?緒方俊喜ってんだけど」
「え!?お、」
「名前出すな」
あ、すみません、という弱々しい声が聞こえた。足元のブーツの踵を床にぶつけながら、今どこにいる?と訊ねれば、津田はここからすぐ近くのアパートの名前を告げる。
都合がつくなら出来るだけ早い方がいい。
「急に勝手な事言って悪いんだけど、今からちょっと会えない?」
「え、あ、はい。大丈夫です」
「誰かと一緒にいるんだろ?煙草買うとか適当に言って一人で出てこいよ。場所は……」
ちょうどこのクラブと津田のいるアパートの中間地点の公園の名前を出した。困惑したような声が触って、無意識に首を傾げてしまった。
「今から行きます、けど。あの、一つ聞いてもいいですか?」
「何?」
「俺、なんかしました?殴られたりします?」
俺はどれだけ乱暴者に思われているんだろう。目を閉じて、小さく息を吐いた。
「ちげーよ。とりあえず出てこい。カバーオール着てる紳士がいたら俺だから」
「え、あ、はい、大丈夫です。顔知ってます」
俺はお前の顔知らないんだけど、とは言わなかった。5分後に公園で会う約束をして電話を切った。発信履歴を消して、フロアに戻る。まさか俺が、勝手に要のケータイを使う事になるとは思わなかった。
ソファーには女と今にも始めそうな雰囲気の要。さっきと同じ場所にケータイを戻して、要に避妊しないなんて過ちを犯さないようにコンドームを置いて、再びフロアを出た。どうせ今日は久人持ちだ。久人が持ってくれなかったとしても、借りという事でどうにかなる。
さっきの階段を登って地下から地上に上がる。ドアを開けたら、真っ黒い空に浮かぶ安っぽい電飾が俺を迎えた。
津田と待ち合わせした公園は、歩いてすぐ。
公園について、中のベンチに腰を降ろす。ホームレスの家が建ち並んでいるそこは空気が少し冷たく感じた。今日は珍しく雨が降っていない。蒸し暑くもなく寒くもない6月の空気に、意味もなくカバーオールの捲った袖を弄った。
中に着た黒いTシャツの上から腹を掻いていると、やけに挙動不審なガキが公園に入ってきた。
サロン系と言えばいいのだろうか?目元が隠れるようなパーマのかかった黒髪。細身の黒いパンツにダンガリーシャツ。足元はVANSの黒のオールドスクール。俺の周りにはいないタイプ。
俺を見て慌てて頭を下げた。津田だったらしい。清春と同じ高校でよくつるんでたらしい、要の知り合いの津田。
「座れよ」
「失礼します」
津田は俺の隣に腰を降ろした。なんて礼儀正しいガキなんだ。何となく要と仲良くしてる理由が分かった気がする。要も礼儀正しいし、類は友を呼ぶ、ってやつなのかもしれない。まあ、清春とは全然違うけど。
津田の目は俺の顔をチラチラと見ていた。そんなに見られると気分悪い。
「どうも初めまして、俺が緒方俊喜」
「初めまして、津田和成です」
土下座しそうな勢いで頭を下げるものだからたじろいでしまった。かしこまられ過ぎてもどうしていいのか分からなくなる。
俺は早速、本題に入る前の前置きに入った。
「まず、津田が俺と会った事は誰にも秘密だ。勿論、要にも言うな。これから話す事は俺達二人だけの秘密だ。それが守れなければ、これからの話をお前に話す事は出来ない」
津田は訳がわからなそうな顔をした。無理もない。俺だって初対面の奴にこんな事を言われても困る。津田は躊躇いながらも頷いた。
それに少し安心した。俺にとっての最後の切り札の津田。俺は本題に入る事にした。
「津田は、サエって女を知ってるか?」
「……サエ?」
津田は首を傾げた。無理か、と肩を落とした。俺はあれから一ヶ月、サエの事を調べていた。サエが清春と同じ高校だったという事は真知から聞いて分かった。真知は二人を見てるから、制服で分かったんだろう。
でも、それ以外は全く分からなかったのだ。同じ高校だったはずの津田が考えるなんて、何も情報は出てこないのかもしれない。
分かってるのは家と学校だけ。会った事があると言っても、ボコボコに殴られた姿だけ。真知が言うサエと清春が言うサエ。俺が会ったサエと、清春が迎えに行っていたサエ。
まずそれを同一人物だと裏付ける必要があった。思い返してみれば清春の部屋にあった女物の制服は確実に清春の学校の物だった。でも、サエなんて名前はどこにでもいる名前なんだ。
こんなまどろっこしい事を警察がやっていると思うと、少し警察を尊敬する気になる。好きではないのは確かだけど。
「サエって、桐原清春の彼女の事ですか?」
「は?彼女?」
俺は津田の顔を見た。津田は、清春の事は知ってますよね、と俺に確認してくる。俺は頷いた。サエと清春は大っぴらに付き合ってたのか?
「いや、彼女かどうかは分からないんですけど、清春が、」
「清春がどうしたんだ?」
俺がよっぽどの剣幕だったんだろう、津田が少し驚いたような顔をした。でもそれからすぐに思い出すように上を向く。
「一年前、だったと思うんですけど、清春が学校に遅刻してきた時があったんですよ。それまでほとんど遅刻なんてしてこなかったから、結構記憶に残ってて、」
「うん、」
「清春、教室に入ってきた途端に電話し始めたんですよ。その時の電話で清春がサエ、って言ってました。その後、すぐに教室出ていっちゃって、まあ、来てすぐに帰っちゃったんですよね」
来てすぐに帰る?サエに呼び出されたのか?
「清春が女の名前を言うなんて滅多にない事だったんですよ。だから彼女じゃないかって結構話題になって。その日ちょうど、同じクラスのサエって子が休みで、その子と付き合ってんじゃないかって話になって。でも結局なんの関係も無さそうだし、その子じゃないって事になったんですけどね」
同じクラスのサエ。俺は頭の中で復唱した。
「それから清春からサエの話は聞いたのか?」
「はい、聞いたんですけど、清春は何も言わなくて。だから清春の謎の彼女のサエは迷宮入り、みたいな」
「その同じクラスのサエって女はどういう奴なんだ?」
「清春とは住む世界が違いますよ。学年一の優等生です。黒髪ストレートロングのクールな美人です。ああ、その子それから一週間以上休んでました。風邪こじらせて入院したとかなんとか。」
決まった、と思った。
俺が見たサエは、清春と同じクラスのサエだ。一年くらい前なら、俺が清春の家に行った時と重なる。ボコボコに殴られたあの状態から回復するにはそれくらいはかかるだろう。
「あ、緒方さん12月の事件覚えてますか?夫婦が殺されたやつ。あれで殺された夫婦、富田さんの両親なんですよ」
「富田?」
「あ、富田紗英っていうんですよ、さっき言った優等生」
俺は胃の中の物を全部出してしまいたいような気分になった。そしたら、俺の頭の中に浮かんでいる事までも俺の中から出ていってくれるんじゃないか、なんて思った。
繋がって欲しかったのか、繋がって欲しくなかったのか。サエは、富田紗英。俺が見たサエと、真知が見たサエは完全に同一人物だった。二つは12月の事件で繋がったのだ。
俺の頭の中に浮かんでいた事。辻褄が全てぴったりと嵌まる。全部が噛み合うのだ。
時計は時計回りにしか回らない。反時計回りを繰り返す時計なんて気持ち悪い以外の何物でもない。でも俺は、時間が戻ればいいと真剣に思った。
後悔は後悔でしかない。先に俺に伝えに来てはくれないのだ。
揺れる均衡と衝突の嵐は、いつだってこの街で起こっていた。性欲と暴力が剥き出しのこの街は、微妙なバランスを保ちながら成立していた。
俺は津田を見た。津田はやけに真剣な顔をしている。
「その、富田紗英の事、調べてもらえるか?」
「へ?」
「要にも誰にも秘密だぞ、実はな、」
俺は清春が焼死体で発見された事を話した。俺が立てた仮説の事はごっそり抜かして沢田から聞いた事だけを話す。津田の顔はどんどん沈んでいった。
「それは、本当の事なんですか?」
「ああ、警察の少年課の沢田っておっさんに調べてもらったから確かだ。要には言ってない」
そうですか、と津田が俯いた。津田から香ったのは近頃人気の香水の匂いと同じだった。
「俺、調べてみます。富田さんの事」
「ごめんな、ありがとう。」
俺と津田は連絡先を交換した。津田は大物と知り合いになってしまったとかどうのと俺を過大評価していた。なんで俺を有名人呼ばわりするんだろうか。普通の人間でしかないのに。
津田と別れて、俺は家に帰った。もう日付をとっくに超えていて、さっさと風呂に入って、アラームをかけて寝た。
今日は休みだけど、俺には用事がある。
俺は6時に目を覚まして、適当に朝飯を食って家を出た。ジープに乗り込んで、真知のマンションの前に車を停める。
もう二度と着ないと思っていたスーツに身を包んだ俺は、マンションの入口の方をずっと見ていた。今日は、真知の親父さんの命日。真知は今日、仕事を休んでいる。
真知に直接聞いた訳じゃないけど、分かっていた。真知は今日、墓参りに行く。結婚してからもその話は伏せていた、というか話していなかったけど、俺は娘を貰った身。親父さんに挨拶する必要がある。
昨日真知を送ってきた時も、真知は何も言っていなかった。俺も聞けなかった。だからこうして真知を待ち伏せして、一緒に行こうという作戦を立てたのだ。我ながら女々しくて嫌になる。
灰色だった空からポツポツと雨が降ってきた。フロントガラスは雨を弾いて水玉模様を描く。待ち伏せを開始して早一時間。車内に広がる静寂を鬱陶しく感じてきた頃、マンションから真知が出てきた。
黒のジャケットと九分丈のパンツのセットアップ。白いシャツを第一ボタンまで閉めて、Vivienneのショルダーバッグに黒いウイングチップを履いている。なのに傘は、子供用の赤い傘。
俺は助手席の窓を開けて真知を呼んだ。
「真知!」
こっちを見た真知は驚いたように目を見開いた。鈍臭そうな走り方で車に走り寄ってくる。
「どうされたんですか?」
「いや、今日あれだし、送っていってやるよ、」
なんと言っていいのか分からなくて適当に返事をした。真知は躊躇うように視線を泳がせる。
「でも、」
「いいから、雨降ってるし、」
な?と、言うと、真知は渋々頷いた。バッグ漁る真知の手にはまたあの透明のテーブルクロス。
「とりあえず、濡れるから早く乗れよ。後で消毒するから」
「でも、」
「風邪ひかれても困るんだよ」
真知が頷いて助手席に乗り込んだ。窓を閉めると、真知の線香の匂いがむわっと車内に広がる。俺はスーツのポケットから白いケータイを取り出した。真知の為に買ったケータイ。それを差し出すと、真知は首を傾げた。
「お前のケータイ。俺とお袋の番号は登録してある。使い方分かるか?」
「分かりますが、」
「俺名義だけど、昨日契約してきた。ケータイないと不便だし、持ってて」
真知の肌色のゴム手袋に包まれた手の上に置くと、真知がそのままじっとそれを見ていた。
「用事、あってもなくてもいいから、いつでも電話してこい」
俺が笑うと、真知が俺の顔を見る。
「それは、どのような時に?」
「あれだよ、一人で寂しいとか、…声聞きたいとか、まあ、そんな感じだ」
一緒に住んじゃえば要らないんだけどな、と俺が言うと、真知が声が聞きたい時、と復唱した。いや、それがあるのは俺だけかもしれないけども。恥ずかしいからそこを復唱しないで欲しい。自分で言ってて恥ずかしかったんだからな。
俺は真知から視線を逸らして、エンジンをかけた。昨日真知をここまで送ってからガソリンは入れておいたから、燃料は満タンだ。
「とりあえず車動かすから、道説明して」
「はい、」
カーラジオから流れる女の声に真知の声が混じった。俺はそれが嫌でCDに切り替える。途端に流れ始めるのはPay money To my Painのアルバム、『after you wake up』の中に入っている『The answer is not in the TV』。
真知は英語がペラペラだから、俺は聴いてるだけじゃ全英詞で何を言ってるのか分からないけど、真知はきっと分かるだろう。
車を発進させて、真知の説明を聞きながら道を走らせる。真知は道の説明以外は黙っていた。それも無理はないと思った。親父さんの命日だし、三日後はお袋さんの命日でもある。考える事はいくらでもあるだろう。
暫く走らせると、車は俺が来た事がないような高級住宅街に入っていった。大きな家が沢山建ち並んでいて、苦笑いする。別世界。
この近くに墓があるのだろうか。そう思っていると、真知が声を上げた。
「あの、ここで大丈夫です。あの角で止まってください」
「え?墓は?」
そう言いながらも、所定の場所に車を止めた。真知は俯いた。
「お墓には行きません、送っていただきありがとうございました。お先にお帰りになっていて下さい」
「墓には行かねーの?じゃあ真知はこれからどこに行く訳?」
首を傾げると、真知が黙り込んだ。俺はこれに弱い。何も聞けなくなる。夫婦なのに、どこまで踏み込んでいいのか分からないのだ。
「俺はこれからお前が行く所に一緒に行っちゃ駄目なのか?」
「駄目です!絶対にっ!」
真知がいきなり顔をあげて叫ぶように言ったものだから、俺は驚いた。どうして、と喉まで出かかったが、故意に声を止める。俺達の間にはまだ、壁があって領域がある。
真知は俺の過去を知らないし、俺は真知の過去を見たことがない。
「じゃあ、ここで待ってる」
「っ、」
「だから、行ってこい」
真知は頷いて、車を出ていった。いつの間にか本降りになった雨は、まるで滝のようだった。水圧の強いシャワーみたいに地面に水が叩き付けられている音がする。
真知の差した赤い子供用の傘が、高級住宅街に浮いていた。俺が車のエンジンを止める頃、サイドミラーに映っていた真知の後ろ姿が角を曲がって消えていく。
「行っちゃった、」
俺の虚しい独り言が外の雨の音に掻き消された。真知はどこに行くんだろう。俺は本当に行かなくて良かったんだろうか。ぐるぐると頭の中に不安が渦巻いていたが、真知はケータイをバッグの中に入れていた。それが少しだけ救いだった。
真知は俺に来るなと言った。それも叫ぶように。どうして俺が行っちゃいけないんだろう。
知りたい事を教えてくれない真知。知りたいのに知りたいと言えない俺。これじゃどこまでも平行線を辿るままだ。
俺は溜め息をついて、ケータイを開いた。特に意味もなくケータイをサイトに繋いだ。散々読んだ、Wikipediaの洗脳のページ。丸々暗記してるのに何度も読む俺は自分でも引くくらいキチガイだった。
それをぼんやりと眺めながら、思った。心を殺される。
頭に浮かんだのは真知と清春だった。お互い全く知らないのに、俺で繋がった二人の事。真知は、今どこにいるんだろう。清春も、どこにいるんだ。
世の中は俺には分からない事だらけだ。車の前を横切っていくフェラーリが買えるようになる職業も分からない。それに少し苛ついた。どうしたらそんな車が買えるんだ。俺が買ったら一生ローンに悩まされるだろう。
苛々したりぼんやりしたり、ケータイの画面とにらめっこを続けて早一時間。真知は全く戻ってくる気配がない。
ケータイに電話していいような場所にいるのかも分からないし、俺はどうすればいいのか分からなくなった。どこにいるのか、誰といるのか分かっていたら心配なんてしないけど、何も分かっていないのだ。
可愛いから連れ去られたんじゃないか、なんてノロケにも似た事が思い浮かんだ。俺はもうそろそろ頭がおかしくなるのかもしれない。それかもう頭がおかしいのかもしれない。真知に突き放され過ぎなんだ、俺は。
「はぁ、」
車のエンジンをつけて、車を端に寄せた。真知は細いからギリギリ乗り込めるくらいのスペースを開けて止めると、エンジンを止めてキーを抜く。
後部座席を見たら、傘がなかった。絶望。家を出る時に雨が降っていなかったから傘なんて持ってきてなかったんだ。俺はどれだけボケてるんだ。梅雨に傘を持っていないなんて俺は馬鹿だ。
溜め息をつきつつ、車を降りた。来るなと言われたけど、心配なものは心配なんだ。
俺は一瞬でずぶ濡れになった。とりあえず、真知が消えた角に向かって走る。前髪を掻き上げて角を曲がると、真知が見えた。
俺は思わず足を止める。真知は傘を畳んで、地面に手をつけて、土下座をしていたのだ。真知が何かを叫んでいて、女の声が聞こえる。でも何を言ってるのかは、雨のせいで聞こえなかった。
俺は真知に気付かれないようにゆっくりと近付いた。段々声が大きく聞こえてくる。
「あんたなんか死ねばいい!」
俺が知らない女の声。真知は土下座して動かなかった。
「腕は切ったの?線路には飛び込んだの?去年だって死ねって言ったじゃない!なんで生きてるの?」
「申し訳ありません。全て試しましたが死ねませんでした」
女の叫び声にかかる真知の叫び声。死ねませんでした、なんて、真知が言った。
『線路』、『全て試した』。俺は頭の中に記憶が蘇った。一年前、踏切の前で真知は傘を差してずっと立っていた。真知はあそこに飛び込むつもりで立っていたのか?もし俺があの道を通らなかったら、真知は線路に飛び込んで死んでいたのか?
何時間もあそこに立って踏切に飛び込もうとする気分はどんな気分だったんだろう。何本も何本も電車を見送って、また駄目だ、また駄目だって、真知は思っていたのか?
「早く死んでよ!パパを返して!」
「っ、」
俺は忘れていた。俺の記憶にあった今日は、真知の親父さんの命日だってだけだ。でも、今日は真知の親父さんが殺した議員の命日でもあるんだ。
真知は、その議員の家族に会いに来たんだ。いや、謝罪と言った方が、正しいんだろう。
「申し訳ありません、今日こそ、死にますから、」
その真知の一言に、俺は走り出した。あの願い事と同じ台詞だったからだ。絶対死なせない。絶対に、死なせたくない。
「真知、」
真知の隣にしゃがみこむと、真知が俺を見上げた。その目が見開く。
「誰よ、この男」
女の声に俺は女を見た。使用人か誰だか知らないけど傘を差して貰う真知や俺と同世代くらいの女。目の覚めるようなグリーンのワンピースを着た派手な女だった。
とても父親の死を悼んでいるようには見えない。まあ、年月が経っているから薄れていくものなのかもしれないが。
「真知の夫だけど」
俺がそう言うと、女は目を見開いた。真知を見る。
「あんた、結婚したの?あんた自分の事分かってる?あんた、人殺しの娘なのよ?人殺し、」
女の言葉の途中で、真知の耳を塞いだ。このままだと、真知が本当に死ぬかもしれない。俺が辛うじて繋いだ真知が、途切れてしまうかもしれない。
「あんただって死ねばいい!この女と一緒に死ねば?この女の父親のせいでこの家がどうなったか分かってるの?」
本当に死ねと言われるのは、結構心にずしりと来るものだった。これを何千回も言われた真知があの願い事を書いたのも無理はないと思った。
俺に込み上げたのは、限度を超えた悲しみが連れてきた怒りだった。俺の背中には人殺しって言葉が何回もぶつかる。家がどうの、という金持ちの台詞は、俺はどうだっていい。金持ちにとってそれが一番大事なんだろうが、俺にはそんなの分からない。
俺は振り返った。女を見ると、女が口を噤んだ。俺はごちゃごちゃになる頭の中に浮かんだ言葉を言う為に口を開いた。
「確かに真知の親父はお前の親父を殺した。理由は何だか俺には分からないけど、それはどんな事をしたって変えられない事実だよ。お前がどうしてここまで真知を責めるのかは、お前が親父を好きだったからなのか家柄の事が気になるからなのか、そんなのはどうでもいい」
「っ、」
「でも、真知の親父だって死んだんだ。真知の親父の事は真知の親父本人の問題で、真知には何も関係ない。真知の親父の責任は真知の親父が死んだ事で全部なくなったんだよ。」
俺は夢中だった。何から言えばいいのか分からなかった。頭の中はごちゃごちゃなのに、喉が勝手に声を作るんだ。
「許せないのは分かる。俺だって親父を殺した奴の事なんか許せない。真知はお前に許してくれなんて言ったのか?」
「言ってない、けど、」
女が俺から目を逸らした。
「許せる筈がないのは真知だってわかってんだよ。お前が真知を責めるのは間違ってる。だって真知の親父は死んだんだ。なくなった命はお前の親父と同じ重さだよ。なくなった命はなくなった命でしかないんだ」
「っ、」
「真知の親父がした事を許せなんて言わねーよ。でも、なくなった命を悼む事は出来るだろ?なくなった命は同じ重さなんだから、」
俺達を包むのは、雨の音だけだった。真知の耳を塞いでいた両手を取って、俺は雨の中で正座する。
「お前がそうやって真知に死ねって繰り返して、もし真知が死んだら、俺はお前に死ねって言うよ。毎日ここに来てお前に死んでくれって頼むよ。お前がやってる事はそういう事なんだよ。お前だって、真知の事を殺そうとしてるだろ?」
女は何も言わなかった。俺は地面に手を付けて、そのまま頭を下げた。俺の人生で初めての、土下座。
「部外者の俺が口突っ込むのは間違ってるけど、でも、真知の事をもう責めないで欲しい」
真知が俺のスーツを引っ張って、叫んだ。嫌だって、真知が言う。土下座なんてしないでという真知の声が聞こえたけど、俺は頭を上げる訳にはいかなかった。
「真知にもう死ねって言わないで欲しい。俺は真知に死なれたら困る。勝手な事を言ってるって分かってる。でも、頼む。」
「…馬鹿じゃないの?」
女の声が聞こえたと思ったら、足音が聞こえた。それが遠ざかっていく。真知は俺の体を揺らして叫んでいた。
「嫌だ、頭上げて、なんでそんなにするのっ、私の事でそんなにしないで、」
俺は黙っていた。遠くの方でドアが閉まった音がする。
「嫌だ、土下座なんてしないで、お願い、緒方先輩、やめてっ、」
「俊喜だろ、真知、」
「っ、」
俺が頭を上げると、真知は真っ赤な目で俺を見上げた。雨で濡れて額に貼り付いた前髪から水滴が垂れている。それを掻き上げてやると、真知が俺の手を払った。
「どうして来たの、どうして私の事なんかで土下座なんてするのっ?駄目だよそんなの、そんなの嫌だ、」
泣き叫ぶ真知の声が辺りに広がる。滝みたいな雨に打たれる俺達は、ドラマで見るようなシーンとは違ってグシャグシャで汚かった。
俺はスーツのジャケットを脱ぎながら真知に笑った。
「俺の頭なんて軽いよ、お前の為ならいくらでも頭くらい下げてやる」
ジャケットを真知の頭にかけて、抱き締める。真知は俺の事を離そうとしたけど、俺はその力を超える力で抱き締めた。
子供みたいに泣きじゃくりながら、移るから、と真知が言う。さっきまで、自分が死ねと言われても泣いてなかった癖に、だから俺は真知を嫌いになれない。
「俺の土下座くらいで泣くなよ」
好きだとも、嫌いだとも言わない女は、俺の土下座で泣くらしい。細い体はじっとりと濡れているのに、俺の首もとに当たる額は驚く程熱かった。
あれ、熱い?
俺は真知の体を離して、額に額を当てた。熱い。真知の口から洩れる息が俺の口に当たる。イソジンの匂い。俺を離そうとする手にはいつもより力が籠っていない気がする。
「真知、熱ある?」
「離れて、菌、移る、」
真知の赤い目は、俺の目をぼんやりと見ていた。焦点が定まっていない。嘘だろ?熱出した?
うちの店の駐車場、いつもの場所に車を止めると、真知の子供用の傘を掴んで運転席を出た。助手席でぐったりする真知を抱き上げて、車のドアを閉める。
傘を差す暇もなく店に向かって走った。あれから真知を慌てて車に戻ったのだ。それから家まで戻ってきたけど雨はまだ止む様子がない。
真知が弱い力で俺の肩を押す。
「移る、移る」
「ちょっとお前黙ってろ」
店のドアを開けると、いつもの常連の顔が見えた。お袋が驚いた顔でこっちを見る。
「どうしたの?」
「真知が熱出した」
俺はすぐそばの傘立てに傘を置くと、真知の背中を擦った。
「移る、移る」
「移らねーから、」
熱出してまで何を気にしてるんだこいつ。その異常さに俺は泣きそうになる。お袋が言った。
「昨日からちょっと具合悪そうだったからね、あんたそれなのに雨の中で何やってたの?」
「は?」
俺は昨日最後に会ったのに真知の体調の異変に気付かなかったのか。それに真知は具合が悪くても、いるだけで具合が悪くなりそうなあの場所に行ったのか。
お袋は真知の背中を擦りながら俺を見上げた。
「とりあえず、まっち上に運んで!」
先に厨房の暖簾を潜ったお袋を追いかける。階段を上って真知の靴を脱がせてから俺も靴を脱いで玄関に入った。お袋はリビングの奥に走っていく。
すぐ側の洗面所に真知をおろすと、真知はふらっとぐらついてその場に座り込んだ。俺もそれを追いかけて座り込むと、真知の顔を覗き込んだ。いつもは真っ白い頬が上気して赤くなっている。
リビングからお風呂、とお袋の声が聞こえた。
「真知、風呂入れる?」
真知が小さく頷いたから、頭から被った俺のジャケットを取ってやる。真知のジャケットを脱がせてシャツのボタンに手をかけると、真知が俺の腕を掴んだ。
我に返った。俺は今何をしようとしてた?服脱がせようとしてたよな?真知の顔はさっきよりも赤くなる。
「……すいませんでした」
俺はそのまま洗面所を出てドアを閉めた。
お袋が着替えを持ってやって来る。
「あんたちょっとでかい図体してんだから退きな!」
慌てて避けると、お袋が素早く洗面所の中に入ってドアを閉めた。なんだよあれ、俺をそんなにケダモノ扱いしたいのか?まあ、服脱がせようとしたのは俺だけど。
とりあえずシャツを脱いで廊下に置いておいた。部屋に戻ってスーツのパンツを脱ぐと、スウェットを履く。辛うじて中の下着の方のパンツは濡れていなかった。
リビングに行って部屋干しされた洗濯物の中から乾いたタオルを取って頭を拭いていると、お袋が洗面所から出てきた。
お袋は俺を見て言った。
「ちょっと買い物行ってくるから店番頼むよ」
「分かった」
「風呂覗いたりすんじゃないよ!」
「分かってるよ!」
一言多いババアだ。お袋はドアを出ていった。俺はその辺のTシャツを掴んで、廊下に出る。閉まった洗面所のドアの向こうから聞こえるシャワーの音に耳を塞ぎたくなった。こんな風に思うのは初めてだ。俺はウブな中学生のガキか?
部屋に放置していたスーツのパンツから車の鍵を取り出してテーブルの上に投げた。シャワーの音を聞かないようにして、ブーツを履くと玄関を出る。
階段を下りながらTシャツを着ると、暖簾を潜った。誰もいない厨房。お袋は本当に買い物に行ったようだ。
とりあえず客席の方に出ると、豊橋さんが俺を見た。ニヤニヤしていて正直キモい。口には出さないけど。
「お前まっちと雨の中で何してたんだ?」
別に何もしてないです、と俺が言うと、豊橋さんはもっとニヤニヤした。そのバカ面が弁護士だと思うと、この国の弁護士のあり方を疑うしかなくなる。
暫くしてお袋が戻ってきた。お袋は暖簾を潜って階段を上っていく。その手にあった袋に絶句した。前に元カノに付き合わされた下着屋の袋だったからだ。
あの中に真知がこれから着る下着が!?俺はとりあえず黙った。豊橋さんはそんな俺に首を傾げたけど、俺は目を閉じた。想像したら負けだ、緒方俊喜。
それから約30分後、お袋が戻ってきた。お袋は俺を見て、顎で指示する。
「まっち、あんたの部屋のベッドに寝かせたからね。あんたも風呂入ってきな」
俺は頷いて上に戻った。俺の家には俺のベッドしかベッドがないのだ。お袋は布団に寝てる。
さっさと風呂に入って上半身裸のまま部屋に来ると、真知がおろおろとしていた。少し風呂に入ったら元気になったのかもしれない。でも寝ろよ。
真知はお袋の寝間着のピンクのスウェットの上下を着ていた。着る人でここまで印象が変わるのか。あのババアが着てると意味もなくイライラするだけだが、真知が着てると全くイライラしない。ピンク着てるのを見たことがなかったから新鮮。
「おい、寝てろよ」
「え、あの、だって、」
俺のベッドに無理矢理座らせると、真知の前にしゃがみこんで見上げた。顔はさっきと同様に赤かった。真知が今にも立ち上がりそうだから、しっかりと両足を押さえ付ける。細い足。
「寝ような?お前が気にしてるのは消毒か?お前には消毒する必要なんてないんだ。菌なんてないんだよ」
「でも、」
「いいから寝る。今すぐに横にならないと添い寝するからな。ダミ声で子守唄歌うからな」
俺がそう言うと、真知は渋々ベッドに横になった。ごめんなさい真知さん、俺に添い寝されるのが嫌なのか、ダミ声で子守唄歌われるのが嫌なのか、どっちか言って欲しいです。まあ、多分前者だろう。真知、俺に触るの嫌なんだもんな。悲しい。
真知が俺を見る。黒い枕の上に黒いタオルにくるまれた氷枕。散らばる茶色い髪が妙に明るく感じた。
「寝れそう?」
「いや、あの、匂いが、」
匂いってなんだ?無臭な筈なんだけど、臭かったのか?俺は変な汗をかきそうになりつつ、慌てて真知に聞く。
「男臭い?汗臭い?加齢臭?」
「いや、あの、おが、と、俊喜の匂いが、」
「俺の匂い?」
そりゃするだろ。だって俺のベッドだもんな。俺は勝手に納得しながら首を傾げた。だから何なんだ?
「あの、緊張して寝れません」
思わず、ふっ、と吹き出してしまった。真知の言い方が面白かった。緊張する、って。
「それってドキドキの間違いじゃないスか?真知さん、」
「え、」
真知の顔が赤くなった。あーあ、可愛い可愛い。馬鹿っぽいからこんな事言わないけど。
なんかこういうの青春っぽい。俺はそう思ったが、そう思った自分の老いを感じた。まだ18なのに。エイティーン。
真知は顔を手で隠した。ゴム手袋は嵌められている。
「真知はいつゴム手袋外すんだ?」
「お風呂の時と、手を洗う時です」
それじゃあほぼずっとつけてるのか。俺はゴム手袋になりたいと思った。…自分が気持ち悪い。俺はずっと気になっていた事を、聞いた。返事が分かっているから、ずっと聞きたくても聞けなかった事。
「真知はなんでゴム手袋付けてるんだ?お前には菌なんてないんだよ、さっきも言ったけど、」
真知は顔を覆っていた手を外して、俺を視界に入れた。
「あるんですよ、菌があるんです」
どうして、こうなってしまったんだろう。真知は真剣な顔をしている。嘘で言ってるんじゃなくて、本気で言ってるんだ。俺は真知が自分を傷付けるのを分かってて、俺も傷付くのが分かっていたのに、なんで聞いたんだろう。
「お前はいつになったら俺だけを信じてくれる?」
少し、声が震えた。馬鹿みたいに、泣いてしまいそうだった。俺が思ってた事。真知が俺だけを信じたら、真知の第二関節のひび割れも綺麗になくなって、真知は笑うようになるのかもしれない。
真知は困惑したように眉を寄せた。俺はそれに笑った。
「なんてな、いいよ、お前のペースで」
こういうのは無理矢理するもんじゃない。俺が真知にかける逆洗脳は、真知を元々の真知に戻す為のものだから、荒療治はよくない。
真知の髪を撫でようと思ったけど、やめた。俺が触れる度に、真知は消毒する。きっとその度に、自分に菌があると思い込ませてしまう。
キスしたいとか触りたいとか、そういう感情が自分から沸き上がってくるのは、真知が初めてだった。だから、もっと大事にしなきゃいけない。
「真知、俺の親父の話、お袋から聞いた?」
「はい」
俺は真知に自分の話をした。思えば、初めて真知と過ごす夜だったのだ。だから、自分の話をした。そしたら真知も、少しだけ話してくれた。
昔学校の英語のスピーチを失敗した事。縄跳びが下手くそだった事。球技が苦手で、走るのが遅い事。跳び箱ができない事。ハードルを全部倒した経験がある事。
そして、自分の両親の話。
「お父さんは、たまに料理を作ってくれたんですけど、とても下手だったんです」
「そうか」
「お母さんは、クラシックが好きで、よくオーケストラの演奏を一緒に聴きに行きました」
俺とは別世界の話だったけど、真知にとっても俺の話は別世界だったんだろう。真知は寝る直前に少し悲しそうな顔をした。




