沢田とサリナと岩田
頬の横でケータイが震えた。俺はそれを寝ぼけ目のまま掴んだ。中を見てみたらメール。しかも出会い系の迷惑メールときた。最悪の目覚め。
ガンガンと痛む頭を押さえながらベッドから起き上がった。時計を見たら朝の9時。
昨日の夜、中野先輩にイベントに呼ばれて顔を出した。穂香先輩とよりを戻したらしい中野先輩の機嫌は今までにないくらいに良かった。5月でも五月病をぶっ飛ばすくらいの機嫌の良さ。
どうして看護の専門学校に通う清楚な穂香先輩が、チャラ男の中野先輩と付き合うのか未だに理解が出来ない。穂香先輩がいるせいか、中野先輩の周りを取り巻いていた超絶スタイルの女達は綺麗さっぱり消えていた。穂香先輩に女達の事をチクるぞと言いたかったけど、苦笑いでやめた。何故なら俺は紳士だからだ。
俺はいつもの如く飲まされ、二日酔い地獄だ。俺が一回だけでも急性アルコール中毒にでもなればこんな仕打ちを受けなくて済むようになるんだろうか。
朝の6時過ぎに家に帰ってきて風呂に入ってベッドに入ったのだけど、全く眠れなかったらしい。5連勤明けの休みにしちゃ早い目覚め。最悪。
のそのそとベッドから降りた。ケータイをチャコールグレーのスウェットのポケットに突っ込んで部屋を出る。リビングのテレビからニュースが流れていた。電気代の無駄だとか宣うクソババアは人に厳しく自分に甘い。
それをスルーして玄関でブーツに足を入れた。ドアを開けて階段を下り始めると、寝癖のついた前髪が下がってきて掻き上げる。
白いTシャツについた糸屑をその辺に捨てて、その奥の暖簾を潜った。そこにあったのは俺のオアシス(と真剣に思っている俺はついに頭がおかしくなったらしい)。
厨房に一人、真知は洗い物をしていた。俺に気付いていないらしい黒いパーカー姿の真知の背後に回って、頭に頬を乗せる。線香の匂い。真知の腹に手を回した。細い腹だな。
「おはよう、真知」
「おはようございます、離れてください」
泡まみれのゴム手袋を手に嵌めた真知は俺を無理矢理離せないらしい。今度から洗い物してる時を狙おうかな。
真知の肩に顎を乗せると、真知がチラリとこっちを見た。視線がかち合った瞬間に逸らされる。キョロキョロと動く目は居心地が悪そうだった。
俺は真知の顔を覗き込んで、顔を近付ける。
「おはようのキスって知ってるか?」
「……知りません」
「じゃあ今知ってみる?俺も知らないから教えて?」
エロゲーばりの台詞。俺は寝ぼけながら酔っ払ってるのかもしれない。真知の頬は少しピンクになった。生きてるみたいだ。生きてるけどな。
5月になって、結婚して一ヶ月が経とうとしている。まだ真知は笑わない。これじゃあまるで真知観察日記だ。新婚のラブラブライフには到底届かない。何せ、キスはまだ一回だけ。
真知が照れている。俺はそれににっこりと笑った。でもその瞬間、気付いた。俺は相当酒臭い。
「酔っていらっしゃるんですか?」
「酔ってたらどうする?」
真知の左耳にサイドの髪をかけて、耳朶に軽く噛み付いた。真知の肩が揺れる。驚いてるみたいで面白い。歯で挟んだ耳朶を少し舐めると、真知が横にずれて俺から離れた。
「ちょ、朝食をご用意いたしますので、お座りになっていて下さい」
耳まで真っ赤にした真知が泡まみれのゴム手袋を慌てて外す。俺は面白くなって壁際に真知を追い込んだ。小さい真知は俺の包囲網に閉じ込められる。
「照れた?恥ずかしかった?」
「そんな事はありません」
それでも顔は真っ赤なまま。真知の首に引っ掛かってパーカーの中に隠された俺があげたネックレスのチェーンが見えて、それを引っ張り出すように首に軽く触れたら、肩が揺れる。
出てきた黒い石のついたネックレス。真知は意外と俺が好きらしい。真知が俺の腕を潜って逃げた。
「ちょ、」
真知はパーカーのフロントポケットからイソジンの小さいボトルを出すと、それをティッシュに付けて俺の口に押し付ける。イソジンの匂いが広がる。肌色のゴム手袋に包まれる手を握ると、真知の顔が一層赤くなった。手が口から離れる。
「早く席に着いて下さい!」
ちょっと感情的になった真知の頭を撫でて、俺は仕方なく厨房と客席を隔てる暖簾を潜った。背中にぶつかったと思われるウェットティッシュは放置。
見えた光景に少し驚いた。いつもの強面の常連客の中に浮かぶ女。その隣の微妙な色合いのチェックシャツを着た男は縮こまっていて、その目の前にいるおっさんは女と仲良く話している。そのどれもが俺の顔見知り。だけど接点が無さすぎる相席。
常連客に挨拶しつつ、俺は女の目の前、おっさんの隣の席に腰を下ろした。頬杖をついて、おっさんを見る。
「なんでこの組合せ?」
俺の言葉に、おっさんはにっこりと笑った。誰が朝一番にお前の笑顔が見たいんだ?俺は出来れば真知の笑顔が見たかったんだけど、と言おうと思ったがやめた。また公務執行妨害で逮捕とか言われそうだ。
心が繊細(そんな風には全く見えない)な少年課の刑事の沢田。ボサボサ頭にビール腹はいつまで経っても変わらないらしい。
「俊喜、おはよう」
酒やけした声。気分が悪くて沢田から目を逸らした。すると目の前の女が身を乗り出して俺の垂れ下がる前髪を掴んだ。手にした小花柄のシュシュで前髪を結ばれる。俺は面倒でなすがままになっていた。それを見て俺に笑うのは、俺の元カノでヘルス嬢のサリナ。
今にもキスしてきそうなサリナの顔を押し退けると、俺は一番気になっていた奴を見た。縮こまる岩田。どきついSMプレイの挿し絵が入った文庫本と学校のトイレでアレした岩田。
岩田はあれから一ヶ月に一回のペースでここに訪れる。俺がアドバイスしたせいか、ベタベタだった髪は綺麗に洗うようになったようだ。プロアクティブを使い始めたらしく肌が少し綺麗になっている。
俺に一々メールで報告を寄越すちょっと変な性癖の持ち主の岩田は、サリナの巨乳が気になっているらしい。目のやり場に困っているようだ。
「それにしてもお前のお袋さんの飯は美味いな」
「お前は何しに来たんだ」
沢田の笑顔がうざったい。そう思っているとお袋がドアから入ってきた。またなんかしたの、とでも言うような顔に、俺とお袋は暫しの冷戦タイムに入る。
その冷戦タイムを終わらせたのは沢田だった。
「どうも、飯美味かったですよ」
「ありがとうございます、で?本人が来たところでもう一度聞きますけど、また馬鹿息子が何か?」
「いやいや、今日はお祝いに」
お祝い?沢田は俺に視線を寄越した。
「お前、結婚したそうじゃないか。電話しようと思ってたんだけど、こういうのは直接の方がいいだろ?」
「どうせ冷やかしに来ただけだろ、ご祝儀持ってこいよ」
「恐喝で連れていくぞコノヤロー」
俺の可愛い冗談が通じない。まあ半分本音だけど。相変わらずすぐにパクろうとする、この絡みがだるい。お袋は俺の頭を叩いて厨房に入っていった。クソババア、と心の中で叫ぶ。
何かが手に触れた、と思ったらサリナが俺の手を握っていた。
「ねぇあたし、俊喜に会いたいなーと思ってきたの!今日の夜とかお店来てよ」
「おい沢田、ここに未成年をヘルスに連れ込もうとしてるヘルス嬢がいるぞ、逮捕しろ」
沢田は苦笑いで俺を見た。おっさん故に女に弱い沢田。こんなおっさんにはなりたくないもんだ。ひどい俊喜、とサリナが言って、俺はサリナの手を剥がす。
「沢田の話聞いてなかった?俺結婚したんだよ、人の物になっちゃった訳だ、分かるだろ?」
「いいじゃん!ヘルスは浮気じゃないよ!」
溜め息をつきながら椅子の背凭れに寄りかかった。浮気とかそういう問題じゃなくて夫婦間の関係の問題だろうが。するといきなり沢田が身を乗り出して俺の顔を覗き込んで来る。
「俊喜、酒臭いぞ、飲んだだろ?」
俺は黙って沢田の顔から顔を背ける。なんで今日に限って沢田がいるんだ。それ以前に、沢田が結婚祝いだなんて事でここに来るとは思えなかった。
俺は沢田に視線を戻す。
「本題入れよ、清春の事だろ?」
沢田が苦い顔をした。図星。清春が居なくなってから四ヶ月が経って、情報は何一つ掴めていなかった。俺が要に沢田に調べてもらうように言ったのはこの前の事。
少年課の沢田は何か知っていると思ったからそう言ったのだけど、沢田の表情は苦いまま。俺がわざわざ要を使ったのにも関わらず俺に会いに来るって事は、要には言えない話なんだろう。
「いい話じゃないんだな」
俺がそう言うと、沢田は溜め息をついた。事情聴取する時の前と同じそれ。サリナがキヨちゃんまだ見つかってないの、と言う。
沢田は声を潜めて話始めた。
「一ヶ月以上前か、静岡の方でな、焼死体が発見された」
飯の前に、寝起きにはそぐわない話だということは何となく分かってしまった。俺はそれを想像しないように、サリナが食った後の皿の上を見る。残った茶色いタレに小さい玉ねぎの破片が浮いている。
「指紋も顔も全く分からない。消し炭…、くらいまで焼かれていたらしい。遺留品にあったケータイの持ち主は…、財布の中に入っていた身分証は…、」
清春だった、と続くんだと思う。沢田は水を飲み込んだ。グラスと氷がぶつかる音は、こんな場面には似合わない程に爽やかだった。
「犯人は?」
沢田は黙って首を振る。
「遺留品だけで清春と断定されたって事か…」
清春が誰かにそんな消し炭にされるまで恨まれるか?確かに清春の女関係は乱れていた。男がいるとかいないとか関係なく、清春はまさに『来るもの拒まず去るもの追わず』だった。
そう考えたら清春に女を取られた男の因縁だと考えてもおかしくないけど、清春に集まってくるのは軽い女ばかりだったのだ。清春に寝てもらうくらいの女の中にそこまで清春に依存する奴がいるとは考えられない。
「鮮やかなもんで、プロの仕業じゃないかって噂になったらしいぞ」
「清春がヤクザに殺されたってか?」
な訳あるかよ。清春は矢崎組と俺経由で繋がってたのに。
「キヨハル…?」
その声に顔を上げると、トレーを持った真知が首を傾げていた。眉間にシワを寄せて、何かを考えているようだ。それをじっと見ていると、真知は我に返ったように俺の前にトレーを置いた。しょうが焼き定食。
「申し訳ありません、盗み聞きするつもりはありませんでした、たまたま耳に入ってしまって」
「いや、いいんだけど、真知、清春の事知ってるのか?」
俺が真知に聞くと、真知が再び考え始める。二重の目がゆっくりと瞬きを繰り返しているのを見ていると、沢田が俺の腕をつついてきた。
「こんな別嬪さん、バイトにでも入ったのか?」
「……俺の奥さんだよ」
俺の言葉に沢田が目を見開いた。俺には勿体無い女だってか?分かってるよそんなの。
「初めまして、少年課の沢田です。どうぞよろしく」
真知はご丁寧に頭を下げる。真知です、と一言の自己紹介。沢田はニヤニヤしながら俺の腕をつつく。うざい。
真知は岩田とサリナにもご丁寧に挨拶して、また考えるように眉間にシワを寄せた。立ったままの真知を俺の膝にでも座らせようと思ったが、どうせ暴れられるだろうと思ってやめた。沢田にニヤニヤされるのも鬱陶しいしな。
「あ、」
真知が思い出したように俺の顔を見た。
「私の住むマンションのエントランスに立っていた方が、キヨハルと呼ばれていました」
「は?誰に?」
「黒髪のロングヘアーの綺麗な女子高生…、です」
黒髪のロングの綺麗な女子高生?俺が首を傾げると、真知は前で両手を振る。
「あの、おが…、と、俊喜がおっしゃっているキヨハルさんとは別の方だと思います、余計な事を言ってしまい申し訳ありません」
踵を返そうとした真知のパーカーの袖を引っ張って引き止める。俺はケータイを開いて慌てて清春の画像を探した。
カーソルで画面を流しまくってやっと見付かった、清春の画像。清春達の中学の卒業式の後にたまたま会って飲み会をした時の写真。
「こいつじゃなかった?」
真知に画面を見せると、真知の目が微かに見開いた。
「この人です、毎朝、女の子をエントランスで待っていました」
さっき真知が言っていた黒髪のロングの綺麗な女子高生を清春が毎朝迎えに行ってたっていうのか?清春が女を迎えに行ってたなんて毎朝嵐になってもおかしくないくらいの非常事態だ。
清春が惚れ込んだ女。誰だ?そう思った時、俺の頭に一年前の記憶が蘇った。清春の家にいたボコボコに顔を殴られた、家庭内暴力を受けている女。
あの女の髪は確かに黒髪だった。黒髪の綺麗なストレートロング。
「その女の名前は?」
「いえ、分かりませんが、ごみ捨て場で一度お話したことがあります」
ビー玉みたいな目をなさった方でした、と真知が言う。俺は記憶を巡らせた。
清春にゼリーを食わせてもらって、『サエ』って、清春に呼ばれてる女だった。
「その女、サエって呼ばれてなかったか?」
真知は少し考えてから頷いた。多分そうだと思います、と続ける。
「いつもエントランスにいらっしゃったので、冬辺りから姿は見えなくなりましたが」
「そうか、」
家庭内暴力を受けている女と清春。サエと清春。女が清春が失踪した件に関係してるのか?俺が見たサエと真知が見たサエは、同一人物なのか?
俺は正直、清春が誰かに殺されたなんて思えなかった。死体がでて清春と断定されていたとしても、それは遺留品が身元を決めたとしか言いようがない。
「清春に女か」
沢田の声は酷く困惑しているようだった。俺は沢田を見て言う。
「要達には言うなよ、それ」
「分かってるよ」
溜め息をつきつつ、沢田が言った。厨房からお袋の声がして真知は慌てて厨房に戻っていく。
「この話は俺でどうにかするから警察は黙ってろよ」
「まあ、その件に関してはうちの管轄じゃないからな」
朝から胸くその悪い話だ。俺は黙ってしょうが焼きに箸をつけた。サリナに結ばれた前髪のせいでやけに視界はすっきりしていたが、俺の頭の中はごちゃごちゃしている。
焼死体、家庭内暴力を受けている女。顔が原型を留めていなかった女は、本当はどんな顔をしているんだろう。毎日迎えにいく清春は、よっぽどその女に惚れ込んでいたって事になる。
あの清春が夢中になる女、か。
しょうが焼きを口に入れたが、重たかった。二日酔いに胸くその悪い話で、今日はどれだけ最悪な朝なんだ。
サリナが煙草に火を付けながら言った。
「キヨちゃん、死んでないよね?」
「死ぬわけねーだろ、あいつが」
ただ俺がそう思いたいだけなんだけど。
「その、…歯の治療痕とかは、」
岩田がぼそりと言って、沢田は首を横に振った。
「残念ながら口の中までグチャグチャにされてから燃やされたらしい」
「それは…、身代わり、なんじゃありませんか?本当の清春さんはどこかにいて、生きていて、何らかの事情があって死んだ事にしたのではありませんか?」
岩田は綺麗になり始めた頬を手で擦る。岩田に黙って合意した。清春がそこまでのヘマをやらかすとは思えないのは事実なんだけど、そう考えるのが一番近いのかもしれない。
いきなりサリナが岩田の腕に腕を絡ませた。
「ねぇ君さ、うちの店来ない?今日とかあたしシフト入ってるよ」
「おいサリナ今どんな話してたか聞いてたか?清春はお前のお気に入りだろ?」
「だってキヨちゃんの悪い話なんて聞きたくないもん、ねー、君!」
サリナは俺を見て口を尖らせてから岩田に笑いかける。
サリナは胸を岩田の腕に押し付けていて、岩田の顔が真っ赤に染まった。女を知らないウブな岩田。
「ねぇ君、名前は?」
「い、岩田、です」
いやそこ普通ファーストネーム言わね?と呆れながら見ていると、サリナが俺を見てにやりと笑った。
「俊喜、嫉妬した?」
「誰がするかよ、おい沢田、ヘルス嬢が高校生を店に連れ込もうとしてるぞ。逮捕しろ」
沢田を見ると、苦笑いだけ。俺は決めた。絶対に沢田みたいなおっさんにだけはならない。
サリナの胸攻撃で岩田の顔はどんどん赤くなる。人の顔ってこういう風に赤くなっていくのか。
「おいサリナ、岩田から離れろ。こいつはウブなんだから」
「それがいいんじゃん!あたしが全部教えてあげようか?」
サリナは朝から営業中だった。生まれながらのヘルス嬢。岩田に特殊な性癖があると言ってやろうかと思ったがやめた。サリナが燃え上がるだけだ。
にっこりと笑いながら岩田を見るサリナに溜め息をつくと、サリナが頬を膨らませた。
「ねー、俊喜、店来てよ!言ったでしょ?お金はあたしが出してあげる!だから本番!」
「おい沢田、店で本番行為しようとしてるヘルス嬢がいるぞ。逮捕しろ」
沢田はまた苦笑い。俺のサドルも探さない(俺は結構根に持つタイプ)上に、法律で禁止されている事を平然としようとするヘルス嬢に何も言わないとはどんな警察だ。もっとしっかりしろよ。
俺はしょうが焼きを口に入れてから飯を入れた。なんてどぎつい朝。朝からサリナの話を聞いてると胸焼けする。
サリナがもう、と叫んで口を尖らせる。
「俊喜エッチ上手でしょ?お店来てよー」
朝の9時過ぎ、店は静まり返った。そのタイミングで俺の目の前にグラスに入った麦茶が置かれる。慌てて顔を上げると、真知がいた。
俺は無表情の真知を見て固まった。なんて最悪なタイミングなんだ。元カノと嫁の鉢合わせ、なんて事はさっきもあったし別にいい。元カノの暴露が最悪だったのだ。なんでヘルス嬢はこんなにおおっぴらなんだろう。
「あ、俊喜のお嫁さん!ねー、俊喜エッチ上手だよねー?」
「………」
サリナの余計な言葉。サリナを本気で殴ってやりたくなった。これがサリナの人と仲良くなる手段らしいが、どれだけ生々しい会話なんだ。俺は死にたくなった。
困惑する沢田と、能天気なサリナの声。岩田でさえも俺を見ている。どうして最悪な日というのはとことん最悪なんだろう。さっきまで真知とイチャイチャしてて幸せだったのに、幸せは長くは続かないなんて誰かが言っていたが、こんなに短い幸せだったなんて思わなかった。真知が黙って店を出ていった。
俺は妙な汗をかいている。本気で何かをしなくてはいけない時に動けないというのは本当の事だ。俺は横断歩道を渡っている最中にトラックが突っ込んで来たとしたら逃げられないタイプの人間だったらしい。
お袋に頭を叩かれて、慌てて立ち上がった。お袋の顔は今までに見た顔の中で一番キレていた。妙な汗が増す。
「あんたお嫁さん貰ってまで何してんの!」
「いやこれは真知と会う前の話!…です」
お袋の顔が怖すぎて尻窄みになってしまった。本気で怒ったお袋はこの世で一番恐ろしいのだ。俺は恥ずかしさとサリナへの怒りで線路に飛び込んでしまいたい気分になった。
でもそれを堪えて店を出た。まずは真知に説明しないといけない。
真知の背中はすぐに見えた。黒い大きめのサイズのパーカーにワンウォッシュの細いジーンズ、ナイキの真っ白なエアフォース。
「真知!」
俺の声に真知が一度足を止めたけど、また歩き出した。俺はそれを慌てて追いかける。
「あのさ、違う!いや、あのな?サリナとは真知と会う前に付き合ってて、」
「そうですか」
「サリナは、こう…デリカシーがないっつーか、な?」
その途端、真知はいきなり足を止めた。顔を覗き込もうとしたら顔を背けられた。
「私はあなたの過去にはいませんので、口出しする権利はありません。先にお帰りになっていて下さい。私はただ醤油を買う為に外に出てきただけですので」
「え、あ、一緒に行こうか?」
「結構です」
真知が歩いていってしまった。小さく溜め息をつく。そうだ、真知が俺の事に嫉妬する訳がないよな。凹みつつ、家へ帰ろうとした。
でも、これが惚れた弱味って奴なんだろうか。真知が気になって振り返った。俺ばっかり追いかけてる微妙な新婚生活は、もう俺の癖じゃないけど、当たり前になっていたのだ。
俺に背中を向けて歩く真知は、顔を拭いていた。まるで、涙を拭くみたいに。
結婚しようと言った日からずっと思っていた事がある。それは真知が酷く不器用だということだ。手先とかそんなんじゃなくて、心が、といえばいいのだろうか。愛情表現が分かりづらい。
じっと真知の背中を見ていたら、その肩が少し揺れているのが分かった。泣いてる。
俺は真知の事を追った。早歩きする真知と俺の距離はどんどん縮まる。ブーツが少し重たく感じたけど、俺が真知に引っ張られる力の方が強かった。
好きだなんて言ってもらえないのに、すぐに離れさせられるのに、この女から俺の心は離れない。離すつもりもないんだけど。
真知の腕を掴むと、真知が振り返った。涙に濡れた無表情。慌てて手を離されて、パーカーのフロントポケットからウェットティッシュが出てくる。
こんな時に、俺の心は殺される。これが真知の愛情表現だと知ってるから、殺される。こんな残酷で悲しい愛情表現をする奴が、愛情表現をしながら自分で自分を傷付ける奴が、こいつ以外この世に存在するんだろうか。
俺の手をウェットティッシュで拭く真知に、俺はなんと言えばいいんだろう。確かに俺は昔サリナとやったけど、今はお前以外に欲情しないよ、なんてセクハラ紛いの事実を述べればいいんだろうか。それとも、好きだよなんてこの汚い街角で愛の言葉を囁けばいいんだろうか。
馬鹿な俺は大事な女を泣き止ませる言葉を知らなかった。何せ、大事な女なんてものを持ったのは、真知が最初で最後なんだ。
真知は俯いて涙を隠す。俺の手を拭く肌色のゴム手袋に包まれた手は、酷く冷たかった。
「嫉妬した?」
俺の声は、少し揺れた。わざわざふざけた台詞を選んだのに、それにそぐわない声だった。
「…そんな資格、私にはありません」
「なんで?俺って今、真知の物だろ?」
真知が顔を上げた。赤く充血した目に浮かぶ茶色い瞳が俺を捉える。
「俺はお前の所有物。お前が認めなくても、法律的にお前は俺の物で、俺はお前の物なんだよ」
結婚したんだから、と俺が続けると、真知の下睫毛に引っ掛かっていた大粒の涙が音を立てるようにこぼれ落ちた。
俺の手を拭いていた真知の手が涙を拭う。
「っ、ごめんなさい、ごめんなさ、」
「なんで真知が謝るんだよ、ごめんな、俺、馬鹿でごめんな」
うわごとのように真知がごめんなさいと繰り返す。なんで真知が俺に謝るのか、全然分からなかった。ただ物凄く荒い息が苦しそうで、俺は黙って真知を抱き締めて背中を擦った。
しゃっくりを繰り返す真知は俺の事を離す余裕がないくらいに苦しそうだった。真知の細い体が壊れそうだと思った。通りを歩いていく中学生くらいの、学校にも行ってなさそうなガキが俺達を興味津々に見ている。
そりゃそうだ。Tシャツにスウェット姿で、前髪をちょんまげに結んだ俺は白昼堂々と女を抱き締めていても全然格好がついていないだろう。
真知はしゃっくりと荒い息の合間にごめんなさいと繰り返す。俺はサリナに結ばれた前髪をほどいて、シュシュをスウェットのポケットにしまった。
そして俺はついに口にした。
「好きだよ」
色ボケも大概にした方がいいのかもしれない。でも、謝るよりもこの言葉の方が確かだと思ったのだ。
暫くして真知が俺から離れた。真知の目は真っ赤になっていてじっと見ていたら逸らされた。二人で醤油を買いに行った。
真知はほとんど毎日、うちの店で働いている。そこまで給料は高くないのにどうして働くんだと聞いたら、家にいると腐りそうだからですと訳の分からない事を言われた。
消毒するなんて言って真知を誤魔化して、二人で仲良く手を繋いで家に戻ると、サリナがにこにこと笑っていて正直殴ってやろうかと思ったが、やめた。サリナは女だし、俺が悪かったのだ。
沢田はまだ居座っていた。仕事に戻れよ。まあ沢田の仕事はほとんど夜だから暇なんだろうが、この街には学校にも行かずにふらついているガキが山程いる。まあ、俺も中学の頃はそのガキの中にいたから沢田が外を彷徨いていると憂鬱極まりなかったんだけど。
「お前、ガキいないのに結婚したらしいな」
沢田の声に、隣で冷めた飯を食っていた俺は顔を上げた。さっき真知を追いかけていったから、朝飯が途中だったのだ。
沢田の真面目な顔から視線を逸らした。どうして皆同じ事を聞くんだ。俺はそんなにどうしようもない男に見えるのか?
「そうだけど」
「ならなんで結婚したんだ?お前が結婚する前に特定の女がいたなんて話は聞いてないぞ?」
「なんでそんな事しってんだよ。最近の警察は女まで調べるのか?」
「お前の噂は調べなくたって耳に入ってくるんだよ」
俺は苦笑いしながら味噌汁を啜った。地元怖い。沢田がどこか遠くを見てしみじみと溜め息をついた。
「会う度に女を変えてたお前が、結婚か…」
「それ真知に言ったら警察署めちゃくちゃにしに行くから。特にお前のデスク」
「そしたら器物損壊で逮捕するからな」
俺の時ばっかりこういう事言いやがって。まずはサリナをどうにかしろ。サリナはまだ岩田にしがみついていた。岩田の顔は真っ赤を通り越して赤黒くなっている。
「そういえば、マル暴の池谷が結婚おめでとうと言ってたぞ」
「あいつ嫁さんに逃げられたんだろ?縁起悪いから聞かなかった事にする」
お前なんでそれ、と沢田が言ったから、俺は紳士的に笑って見せた。
「ガキの地元ネットワークナメんなよ。なんでも筒抜けだ。」
沢田は苦笑いして煙草に火を付ける。どいつもこいつもスパスパいい気分だよな。テーブルに乗った灰皿はサリナと沢田の吸い殻で底が見えなくなっていた。
いつの間にか立派な非喫煙者になっていた俺は、その吸い殻が放つ独特の臭気があまり好きではなかった。
俺は麦茶を飲み込んでからサリナに言った。
「もう岩田離してやれよ、岩田の股間が爆発する」
これはふざけて言ったんじゃない。本気で言った。サリナは俺を見てにっこりと笑う。
「岩田君、これからあたしの家においで?」
「おい、ここはただの定食屋で出会いカフェじゃねーんだぞ」
俺の言葉に、だって出してあげないと可哀想、なんぞとAV並みの台詞を吐いたサリナ。おい、多分それだけで岩田が爆発するぞ。股間だけじゃなくて岩田自体が爆発する。
俺が半ば呆れていると、サリナは岩田の分の料金まで置いて、岩田を引き連れて店を出ていった。サリナはもう二度と来んな。
空になった二つの席にある空の皿。あいつらは一体何時間ここにいたんだろうか。迷惑以外の何物でもない。
休みの日といっても真知は仕事で、俺は何一つやる事がなかった。朝飯を食い終わったら食い終わったで、お袋に店の前の花壇の雑草を抜くように言われた。
仕方なくさっさと緩いサイズのダメージデニムにTシャツにグレーと黒のチェックのネルシャツに着替えて外に出ると、沢田までついてきやがった。
「沢田さっさと警察に帰れよ」
「今帰るんだよ」
沢田にあっそ、と言ってしゃがみこんだ。花壇に生えた小さい雑草を抜くと沢田が言った。
「お前の嫁さん、なんでゴム手袋付けてるんだ?」
思わず顔を上げてしまった。お袋には事前に説明していたし、今まで真知のゴム手袋について俺に聞いてきた人間も気付いた人間もいなかったのだ。
警察って奴はだから好きじゃないんだ。俺は沢田に事情を言おうか迷った。もしかしたら洗脳をどうにかしてくれるような医者を知ってるかもしれないと思ったからだ。
でも、真知を医者に預けてどうする?そしたら俺も、ただの人殺しになってしまうのかもしれない。俺はそんな事の為に真知と結婚したんじゃない。俺が真知を洗脳から解放してやる為に結婚したんだ。
俺は花壇の脇にへばりついた誰かの吐き捨てた、踏まれて真っ黒くなったガムを見ながら言った。
「色々な事情」
そうか、と沢田が溜め息をつく。
「お前には勿体ない礼儀正しい別嬪さんだな」
「うるせーよ」
俺が沢田を睨むと、沢田は気持ち悪くにやりと笑った。鳥肌。
「お前、ちゃんと大事にして幸せにしてやるんだぞ?」
「余計なお世話だ」
沢田の去っていく背中を見ていた。昔は随分と大きな背中だと思っていたけど、今じゃただの寂れたおっさんの背中にしか見えない。沢田によく世話になっていた頃は、俺も恥ずかしいやつだった。
喧嘩をするのも酒を飲むのも、とりあえず法律に違反する事が大好きで、俺もあの頃は若かった。楽しかったは楽しかったけど、もう二度と戻りたくない。
急に昔の事を思い出したら一気に老け込んだ気がする。俺は目の前の雑草に集中する事にした。
花壇の脇に点々とあるガムは踏まれて真っ黒くなって、地面に貼り付いている。ガムはわざわざ捨てないといけないから面倒だ。俺は高校を辞めてから一度もガムを口にしていない。
何故ならいつもガムを食っていた誠司と優多と毎日会う事が無くなったからだ。あいつらは無事に進級して高校二年になったらしい。ちょくちょくメールを寄越して来るけど、相変わらず二人でつるんでいるようだ。
要も普通に進級した。要は岩田とつるんでいるらしいから驚きだ。優多と誠司ともよく四人で一緒にいるらしいが、あの要が岩田とつるむとは俺の想定外だった。
『隠れた情熱に惚れた』とかキモい事を言っていたが、俺はあまり聞きたくなかったからスルーした。要は時々男に対して物凄い口説き文句を言ったりする。女にモテるせいで女に使わないから男に使うんだろうが、勘違いするからやめてほしい。
八木達も無事に進級して高校三年。サチコはあの高校から国立を目指すそうだ。何せ、セイヤ君を追いかけるらしい。セイヤ君はただの動けるオタクではなく、動けるインテリオタクだったのだ。人は見た目じゃ分からない。だけど、なんでセイヤ君はあの高校にいたんだろうか。
リレーの時もプレッシャーで腹を壊してたくらいだから、きっと高校受験の時もプレッシャーで腹を壊したんだろうと思う。別にセイヤ君なんかどうでもいいんだけど。
人の人生は俺の人生とは全然違う。この不景気の中で高校を卒業しないとどこにも就職できないと言われているが、実際この街、俺の地元には高校を卒業したって就職できなくてニートをやっている人も沢山いる。
それで、高校を中退したって時夫や俺のように給料がいいとは言えないが働いてる奴もいる。まあ、ヤクザに流れてしまう人も少なくない。
ほとんど矢崎組がここを仕切っているとはいえ、ここはヤクザの激戦区だ。ヤクザになるなら就職先はいくらでもある。でも、この街のニートが全員ヤクザになったとしたら、ヤクザだらけの街になるんだろう。
すれ違うほとんどの人間が拳銃を持って歩いてるかもしれないなんて、恐ろしい事この上ない。ヤクザがずっと拳銃を持ち歩いているのかどうかは、俺も本職のヤクザになった先輩には怖くて聞けないけど。
暫く雑草を抜いていると、小さい子どもの二人分の足が視界に入った。綺麗に磨かれたローファーと、真っ赤なコンバースのオールスター。
誰だかは分かってる。俺が顔を上げると、二人はにっこりと笑った。有名私立の制服をきたイチゴと、普通の私服のナガレ。近所の凸凹幼馴染みコンビ。まだ10歳。
イチゴが首を傾げて笑う。三つ編みが揺れた。
「俊喜今日はニート?」
「ちげーよ、今日は仕事が休み」
どうして今のガキは絶望的な職業の名前ばかり覚えるんだろうか。俺はこんな世の中嫌だと思った。俺がこいつらくらいの頃はブタメン食ってゲーセンで何も考えずにスロットしてた気がする。
ナガレは、なんだ、とつまらなそうに言った。いや、俺はお前の遊び道具じゃないんだけど。
イチゴが俺の横にしゃがみこんだ。パンツ見えるぞ、と注意したらエッチ、と言われた。今日は朝からエッチエッチと言われまくっている気がするんだけど俺の勘違いだろうか。
「ねー俊喜ー、私といつ結婚してくれるの?」
俺の周りの女は大体俺を口説く。俺はそんなにモテるのか。
「お前も分かってんだろ?法律で重婚っつーのは禁止されてんだよ。俺だってお前と結婚しようと思ってたけどな、結婚しちまったからな、」
「知ってる、真知ちゃんでしょ?あの綺麗なお姉さん。俊喜とは違って頭がいいの」
「お前今なんつった?俺超インテリだからな、お前が知らない事沢山知ってるからな」
イチゴは俺を馬鹿にしたような目で見た。可愛い顔してる癖にそんな性格だと男引っ掛からないぞ、と言ったら、相手によって変わるんだよと恐ろしい事を言ってきやがった。
「真知ちゃんにいつ指輪あげるの?」
ナガレが鼻くそをほじりながら言う。予想通り俺のネルシャツにカサカサの鼻くそを飛ばしてきた。最悪。
でも俺はナガレに気付かされた事は事実だった。俺、まだ真知に指輪買ってなかった。最悪だ。どうして忘れてたんだろう。
イチゴが俺の顔を覗き込む。
「俊喜は真知ちゃんにどれだけしつこく言い寄ったの?」
「俺でも傷付くから少し言葉考えような」
俺の繊細なガラスのハートに傷がついた。賠償金は800円くらいで済みそうだけどな。
イチゴが俺のネルシャツを掴んだ。破れる!俺は少し泣きそうになった。最近のガキの言葉は辛辣過ぎる。
「俊喜は私といつ結婚すんの!?」
「お前俺と不倫するつもりか?」
「うん、人生経験、大事だよ」
誰だよ不倫が大事なんて言ったのは。ドラマの観すぎか?昼ドラか?俺は溜め息をつきながら二人を見た。この純粋そうな目をした二人が俺を傷付けているなんて信じられない。セイヤ君しかりこの二人しかり、人は見た目じゃ分からないもんだ。
「じゃあ俊喜、俺とも結婚しよ」
信じられない事を口走るナガレに俺は苦笑いした。こいつは本当に10歳?というか、私立のイチゴとのレベルの差が激しすぎる。
「俊喜、性転換手術受けてよ。そしたら結婚出来るよ」
「そこまでして俺と結婚したい理由はなんだ?」
「下僕にしたら面白そう」
俺はナガレの将来を少し考えてしまった。それ以前に俺はどうしてナガレにそう思わせてしまったのかが分からないけど。
俺は話を変える事にした。
「お前ら学校は?」
「サボり」
返事が物凄く早い。学校行けよ、とちょっとまともな事を俺は言った。
「俊喜に言われたくない」
ですよね。俺は自分が悪い手本になってしまったという事をちょっと反省した。サボりは気分転換だから悪い事ではないと俺は思っているんだけど。
「真知ちゃんに英語教えて貰おうと思って来たら、俊喜が地面を這いずり回ってた」
「その言い方やめろ」
イチゴにすかさず言うと、イチゴは愉しそうに笑った。ガキがこんな笑い方していいのかよ。
呆れながらもとりあえず二人を店まで連れていった。店に入るとすぐのテーブルを真知が拭いている。
俺の知らない間に二人と顔見知りになったのか、真知は丁寧に頭を下げた。真知の腰の低さは少々おかしい。
「真知に英語教えて欲しいんだと、」
「英語ですか?」
真知は少し首を傾げたけど、すぐに二人を座らせた。俺は厨房の奥の、階段の脇の棚の中に腹いせに雑草を投げた。それを見ていたらしいお袋の怒号が聞こえて肩を揺らすと、真知が無表情で、はは、といった。
笑った、と俺は思っている。多分真知はそれで笑えていると思っていると思うから、俺はちょっと嬉しくなった。単純だと言われても関係ない。
真知はお袋に言ってオレンジジュースを二つのグラスに注いでいた。俺が無料じゃ飲めないものを、あの二人は無料で飲めるのか。
真知と二人で客席の方に戻ると、イチゴが教科書とノートを開いていた。さすがは有名私立に通うだけあって、勉強への意欲はあるようだ。
真知がイチゴの隣に腰を降ろして、俺はその前に座った。ナガレがオレンジジュースを飲んでいてじっと見ていると、口移しならあげるよ、と言われた。
「おい、マジで口移しするぞ?いいのか?お前のファーストキスが俺だぞ?まあ俺はいいんだけどな」
俺は大人の余裕(虚栄心)を見せた。ナガレはにやりと笑う。
「俊喜が最後にキスしたの誰?」
「え、真知」
すると目の前の真知がいきなり大きな音を立てた。椅子が動いたようだ。真知が真っ赤な顔をして俺を見ている。なんだ?俺は今変な事を言ったか?
「申し訳ありませんでした。どうぞ、会話を続けてください」
俺から顔を背けた真知に首を傾げて、俺はナガレを見た。
「って事はさ、俊喜と俺がキスしたら、真知ちゃんと俺が間接キスする事になるよね?」
「え、嫌だなそれ。じゃあオレンジジュースいらねーや」
でしょ?とナガレが言って、オレンジジュースを飲む。イチゴが俺を見て、呆れた顔をした。なんだその顔は。
「俊喜、独占欲強いんだ?」
「は?」
イチゴが俺を馬鹿にするように肩を竦めた。昔はあんなに可愛かったのに、段々憎たらしいガキになりやがって、と思いつつ、俺はナガレの頬を見ていた。
真知の英語力は日本人のものじゃなかった。ラジオDJの女が日本語の途中に流暢な英語を挟んで話しているのを聴いているよりも、よっぽど自然に聞こえる。
イチゴが真知を見上げて言った。
「真知ちゃんって、どこかに留学とかしてたの?」
「初等部の二年生の時に一年間、イギリスに留学していました」
まさかの海外留学の経験者。しかもそんなガキの時に一人で海外?俺は海外に行った経験すらない。俺は真知がイギリスにいる頃、何をしていただろうか。どうせブタメン食ってゲーセンでスロットしてたんだろうな。
真知はあの事件以前の事は少し話す。俺は真知に過去の話を聞こうとは思えなかった。多分真知の記憶は俺が思っているよりも悲惨な事だと思うからだ。
思い出させるのが、怖かった。
「ですので、少しイギリス英語になってしまう部分があると思います。分からない所があったら言ってください」
真知がイチゴに言った。イギリス英語ってなんだ?俺は、英語はファックとかラブとか基本的な事しか分からない。正直、スペルもあやふやなくらいだ。それでも、きっとこれから海外に行くことはない(行けない)からいいと思う。
真知の綺麗に内巻きにされたボブを見た。茶色い髪は窓から入ってきた太陽の光に透けてもっと明るさを増していた。
「この単語の意味はご存知ですか?」
真知は誰にでも敬語を使う。俺にもずっと敬語だ。敬語じゃなかったのは、取り乱した時くらいだっただろうか。
敬語じゃなくなればいいんだけど、真知の癖なのかもしれない。世の中には不思議な癖もあるものだ。
真知の赤い唇が動くのを目が勝手に追ってしまう。欲求不満もいいところだと思いながら、俺は考えた。清春の事を。
家庭内暴力を受けていた女と真知が見た女。真知のマンションのエントランス。遺留品だけで断定された焼死体。誰にも何も言わずに姿を消した清春。
一年前の、清春の部屋に行った時。俺が感じた妙な胸騒ぎ。清春があの女を見る目は、確実に俺が知っている清春じゃなかった。
真知のマンション、か。俺が見た真知のマンションを場面毎に繰り返していく。この前迎えに行った時、昨日送っていった時、時系列に並ばないぐちゃぐちゃの場面の中に、あった。
あのマンションはテレビの画面に映っていた。なんでテレビに映っていた?
やっと俺は思い出した。あのマンションに住んでいた金持ちの夫婦が殺されてたんだ。
去年の12月、雪が降ったクリスマスイブ。場所は確か、矢崎組の事務所の近くの路地裏。金持ちを殺したのに、金品は一切盗まれていなかったらしい変な殺人事件。犯人はまだ捕まっていなかったはず。
俺は妙な感じがした。歯車が噛み合ったような、そんな感覚。すっきりする筈なのに、何故か気持ち悪い。
俺はイチゴと一緒に教科書を覗き込む真知を呼んだ。
「真知、」
「はい」
真知はいつもの無表情で俺を見た。俺はこんな事が本当にあるのかと疑いたくなった。だって、そうだろ?
「お前、12月の殺人事件覚えてるか?」
「はい、マスコミがとても騒いでいた事件ですよね」
俺は視線をどこに定めていいのか分からなかった。何となく行き着いたのは、真知の手。
「あれの被害者って、お前の住んでるマンションの住人だったよな?」
肯定の返事が聞こえた。俺の意識は段々遠くなっていく。頭の中に浮かぶ言葉を言おうか言わないか迷った。聞くなって、聞いたらダメだって、俺の中で警報が鳴る。
それでも、これはもしも、の話だ。俺は知らなきゃいけない。
「その被害者の夫婦って、さっき言ってた黒髪の女の両親なんじゃないのか?」
俺の声は案外普通の声だった。真知の目はゆっくりと考えるように瞬きをした。長い睫毛が頬に影を落とす。
頼む、違うって言ってくれ。俺は心の中で真知に念じた。俺はそんなの味わった事がないけど、死刑執行直前の気分というのはこんな気分なんだと思った。心臓の音だけがドカドカなっていて、その音がやけに大きくて、喉がカラカラに渇いていく。
「はい、そうですよ」
真知の声がやけに遠くの方に聞こえた。俺は、偶然ってやつの恐ろしさを感じていた。
俺と清春は、先輩と後輩という間柄だった。俺と真知は、一応夫婦。そして真知と黒髪の女は、同じマンションに住んでいた。
全く知らない赤の他人同士の真知と清春の接点は、俺以上にあったのだ。それは間接的でしかないけど、真知は表面だけを知っていた。
黒髪の女を迎えに来ていた清春を、真知は見ている。清春の近くにいた二人のサエ。それが、同一人物、だったとしたら。




