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!!!!  作者: 七瀬
第二章 誓約書
14/34

同意書とプリクラ




真知と結婚すると決めてから一週間が経った。俺は初めて買ったスーツに身を包んで、真知のマンションの前に停めた車の中にいた。


中野先輩から安く譲ってもらったジープに染み付いた煙草の臭いを消す為にファブリーズを振り撒く。後部座席にファブリーズを投げると、置いてあった豊橋さんに借りた会社員風のバッグにぶつかった音がした。


じっとしていられなくて待ち合わせの20分前にここに着いてしまった。緊張で吐きそうで髪を掻きむしりたくなったけど、インテリ風にセットした髪が崩れるから我慢する。


足元の黒い革靴を見たら、家を出る前にお袋に上から下まで見られて、ホストにでもなるのかと言われた事を思い出した。いや、違う。ちゃんと白いシャツだし黒いスーツに黒とグレーのネクタイだし、髪の毛だってインテリ風にしてきた。なのに失礼なババアだ。


一応もっとインテリに見えるように伊達眼鏡も買ったけどどうするべきだろうか。かけるべきか、かけないべきか、それとも今ここで捨てるべきか。


俺はとりあえず眼鏡をかけてみる事にした。ホストっぽく見えるならやり過ぎくらいがインテリ風に見えるのかもしれない。


胸ポケットからノンフレームの眼鏡を出した。俺が絶対に買わないような伊達眼鏡。伊達眼鏡もミラーグラスも持ってるけど、さすがにノンフレームはなかった。


黙って眼鏡をかけた。ルームミラーで見るとエリートサラリーマン風になっている。後は真知の反応を見てからだ。


落ち着かなくて叫びたくなった。吐きそう。俺の人生で一番の緊張。でも、真知に見られたら情けなくて死にたくなるから口を閉じた。


緒方俊喜、大ピンチ。後部座席のバッグの中に入っている紙が物凄く重いような気がする。俺の感覚だと100トンくらいだ。


車が重みで後ろに傾くかもしれない。それ以前に車が壊れるよな。一人で納得しながらマンションの方を見ると、真知がマンションから出てきてキョロキョロと辺りを見回していた。


シャツの襟だけ白い、長袖の黒のワンピース姿。綺麗に内巻きにされたボブが風に揺れている。真知は俺にまだ気付いてないみたいだった。助手席側の窓を開けて、運転席から身を乗り出す。


「真知!」


俺がそう呼ぶと、真知がこっちを見た。相変わらずの無表情。少し首を傾げながら車に近付いてくる。


「おはよ、乗って」


「おはようございます」


真知は肩からかけていたVivienneのバッグの中を漁り始めた。その中から出てきたのは透明のテーブルクロスみたいなもの。


車のドアを開けて、助手席にそれを敷いている。分かってはいたけど、積み重ねられたものは一朝一夕でどうにかなる程、簡単なものじゃない。


真知は俺が何を言おうと、自分を菌だと思う事をやめないし、自分の心を傷付ける事もやめようとしない。まあ、真知にとっては無意識に近いのかもしれないけど。


俺は真知が敷いていたそれを掴んで後部座席に投げた。真知が顔を上げる。少し化粧をしてるみたいで、いつもより大人っぽかった。


「あの、」


「あれは駄目」


「でも、」


「分かった分かった、後で消毒な。絶対するからとりあえず乗れよ」


俺が真知を納得させる為に覚えた事。消毒なんてしないけど、とりあえず言う。な?、と言うと、真知が渋々頷いて車に乗り込んだ。それを見ながら窓を閉める。


真知がシートベルトを付ける。目を伏せていて、マスカラが塗られた睫毛が頬に影を落としていた。ただでさえ長い睫毛はもっと長くなっていて、いつもは真っ直ぐな睫毛が少しカールしている。


それをじっと見ていると、真知が俺を見てから辺りを見回す。


「車、持っていらっしゃったのですか?」


「免許取ったから先輩に安く譲ってもらった」


「そうなんですか」


真知のいつも血色の悪い頬は、ピンク色のチークで隠されていた。透明のグロスが塗られた赤い唇から目が離せなくなっていると、その唇が動く。


「あの、緒方先輩、」


慌てて顔を上げると、真知が居心地が悪そうに俯いた。


「変ですか?」


「は?」


俺が首を傾げると、お化粧、と真知が小さく呟く。


「叔母に、お化粧は女性のたしなみだと教えられまして、お化粧をしないと怒られてしまうんです」


「いやいや、全然変じゃない。可愛い」


自分の言った言葉に苦笑いした。俺はホストか?朝から口説いてどうする。


真知が膝の上のバッグを握ったのが分かった。真知の顔なら、こんな事言われ慣れてそうだけど、そうじゃないらしい。


車内に流れる異様な空気を変えようと、苦し紛れに口を開いた。


「俺、インテリに見える?設定は東大卒のエリートサラリーマンなんだけど」


馬鹿っぽい台詞。思わず心の中で号泣した。こんな台詞を言う俺は一生本物のインテリにはなれないみたいだ。


顔を上げた真知が、すぐに俯いた。やっぱり俺はホスト止まりなのか?


「緒方先輩、視力が悪かったのですか?」


「え、あ、これは伊達眼鏡。インテリに見えるように変装」


俺の目はしっかり2.0だ。勉強してないからとかそんな理由じゃなくて遺伝だ。そう、遺伝。異論は認めない。あ、ちょっと今のインテリ風だったな。


俺はある事が気になって、助手席のシートの背凭れに肘をついて真知の顔を覗き込んだ。


「真知、俺の名前は?」


真知は少し顔を遠ざけながら、緒方先輩ですと小さく言う。


「フルネームは?」


「緒方俊喜先輩です」


「そうだな、じゃあ名前言ってみて」


「緒方先輩、」


苦笑いが出た。真面目な顔をして真知に顔を近付けると、真知が後ろに逃げる。お前はこれから緒方になるっていうのに、俺を名字で呼んでどうする。


「下の名前、」


「俊喜先輩」


普通、夫婦で『先輩』って呼ぶか?


「先輩は要らない、『俊喜』」


「と、」


口を噤んだ真知が俺から視線を逸らした。あ、アイシャドーも塗ってる、と思いながら真知に言う。


「お前の叔母さんに結婚するって言って会うのに、名字じゃおかしいだろ?」


「っ、」


「俊喜って、呼んで」


俺の目線はいつの間にか真知の唇を捉えていた。真知から香る線香の匂いが車内に広がる煙草の臭いを掻き消す。


「と、俊喜、」


真知の唇の隙間から舌が見えて、頭の中がそれに犯された。目を見ると、茶色い瞳が俺を見ている。もう、危ない、かも。


再び真知の唇を見て、顔を傾けて近寄る。イソジンの匂いが鼻について、もう無理だと思った。塞ぎたい。


その瞬間、ゴツンと大きな音が鳴った。


ハッと我に返ると、真知が頭を窓にぶつけていた。痛むのか、真知がそこを押さえて目を瞑っている。


キスから逃げられたのはショックだけど、真知の頭の方が心配になった。俺は真知から距離を離すと、真知の頭を撫でる。


「大丈夫?ごめんな、」


真知は俺の手を離した。バッグからウェットティッシュの袋を取り出して俺に渡す。俺はそれを後部座席に投げた。


「あ、」


真知の声を無視して、斜めに流された前髪の上にキスする。俺の初めての純粋過ぎる額の上のキス。海外の映画で外国人がやるよりももっと、胡散臭いキス。


俺と真知はあの日以来、唇を合わせるキスをしていない。


唇を離して真知の顔を見ると、真知が身を乗り出して俺の唇にワンピースの袖を押し付けてきた。


「ちょ、真知、」


無理矢理真知の手を剥がす。真知の手には肌色のゴム手袋がつけられていた。真知が俺の手を振り払って、後部座席に手を伸ばす。


「真知、分かってる、後で消毒だよな、分かったから、」


俺がそう言うと、真知が俺を見上げた。


「本当にちゃんと消毒してくださるんですか?」


「うん、消毒する」


「私の目の前で消毒してくださるんですか?」


俺がすると言うと、助手席に座り直して俯く。


「いつもはぐらかして消毒してくださらない癖に、」


これが本物のインテリの真知と本物の馬鹿の俺の違いって奴だ。俺は苦笑いしながら真知の頭を撫でた。真知は俺を見る。


「だからっ、」


「大丈夫、ちゃんと消毒しますよ、」


な?といつもの如く無理矢理納得させて、俺は一息ついた。頭の方じゃ真知の方が一枚上手だけど、扱いなら俺の方が一枚上手だ。


真知から地図を受け取って、俺は車を発進させた。その瞬間から緊張が最高潮になって吐きそうだったのはここだけの話。


車から降りると、俺はその場に吐いてしまいたい気分になった。


おい、嘘だろ?それなりの覚悟でここに来たけど、これは嘘だ。俺の勘違いだ。


「でっけー門……」


目の前にあるのは、巨大な門だった。表札には月岡。両親が死んだ後に真知が引き取られた叔母夫婦の家、というものらしい。想像を超えるそれに俺は白眼を剥きそうになった。


確か旦那は銀行のなんとか(うろ覚え)っていう役職だとか言っていた。俺はただの銀行員だと思っていたけど違うらしい。今思えば昔社会の授業で聞いたような役職だった気がするけど、俺の興味のない事への記憶力は果てしなく信用できないからどうなのかは分からない。


叔母は真知のお袋さんの姉のようだ。だから、名字が違う。


役所で聞いたところ、未成年の結婚には両親の同意書が必要らしい。それに、真知の養父母に無断で結婚する訳にもいかないという事は、馬鹿な俺でも知っている常識だ。


だから今日は結婚の話と、同意書を書いてもらいにここに来たけど。どうして俺は親父に、こういう事の色々を聞いておかなかったんだろうと心底後悔している。


俺を見て、真知が首を傾げた。


「そうでしょうか?」


やばい、真知のこれは素だ。真知は嫌みを言うような女じゃない。でもこれは絶対におかしい。俺は身の程知らずだったって事なのか?俺はこんな家に住んでたお嬢様に結婚を申し込んだって事なのか?


しがない定食屋を営むお袋に育てられた俺とは比べ物にならない家柄だ。


最終学歴は中卒、現在の月収は当然の事ながらこの家の家主の月収に比べたらカスみたいな俺が真知と本当に結婚できるのか?


反対されたら、どうしよう。


手にした会社員風のバッグを強く握り締めた。落ち着こう俺。まずは落ち着く所から始めよう。そう思っている時点で俺はもう落着けていないし落ち着ける気配もない。


隣の真知は、少し暗い顔をしていた。一族の恥、なんて言われていたのだ。会うのもきっと、というか絶対に嫌だろう。それを洗脳されて記憶がない真知が覚えてくれているのかは、分からないけど。


真知に事前に連絡を取って貰って、養父母とも揃ってる今日に決めた。真知の心情を予測できていながら急ぐ俺も頭がおかしいのかもしれないけど、もうしょうがない。せめて、ちゃっちゃと終わらせて帰ろう。



意を決して、インターホンを鳴らした。この際どうでもいい。結婚さえ許してくれれば、それだけで十分だ。


すると、インターホンから女の声がした。これが叔母か?女がなんて言ったのかは頭が真っ白で聞こえなかったが、俺は少ないボキャブラリーを駆使して言葉を作った。


「緒方です」


おい俺!どこがボキャブラリーの駆使!?全然駆使してない!今の自己紹介!


心の中でダラダラと汗をかいていたが、インターホンの女は分かったらしい。今から奥様にお伝えします、少々お待ちください、と言われて、絶句した。


家政婦かよ。そんなの現実でもあった話なんだな。てっきりエロゲーの中だけの話かと思ってた。


「真知、」


そう言った俺の声は案外普通の声だった。真知を見ると、真知は俺を見上げている。


「手、繋ぎませんか」


「……繋ぎません」


ですよね。苦笑いしながら前を向くと、白い門が開いた。そこに立っていたのは、スーツを着たひっつめ髪の気難しそうな若い女。こういう家にいる女ってもっとセクシーな姉ちゃんかと思ってたけど違うらしい。


女が深々と頭を下げた。


「真知さんおかえりなさいませ」


叫びたくなった。だけど隣の真知は少し頭を下げただけで平然としている。頭を上げた女に上から下まで舐めるように見られた。


「どうぞ」


女に促されて足を動かし始める。俺は何故、女の親に挨拶しにいく男が緊張するのかやっと分かった気がする。


女とイロイロしちゃったから親と会うのが気まずい、という訳じゃない。大体俺は真知とキスしかしてない(しかも一回だけ)。


いきなりまだ16の娘と結婚させてくださいと言うのは、さすがに緊張する。門から少し歩くと家が見えてきた。白い大きな家。何人住んでるんだよと前を歩いてる女に聞きたくなったが我慢した。


家のドアを女に開けて貰って家の中に入ると、靴を脱ぐ所がなかった。まさかの欧米式。横を見ると壁に油絵みたいな、高そうな額縁に入った絵が掛けられていた。傍には何だか分からない観葉植物が置いてある。


真知の履いた黒いパンプスの音が小さく鳴った。よく見たらソールが赤い。俺でも知ってる有名なブランドの靴。


いつも真知が履いているナイキのエアフォースとは全然違う。それ以前に真知がその靴を持っていた事に驚いた。


「こちらです」


玄関からすぐの大きなドアが女の手によって開けられる。その向こうの上座のソファーに座っていたおっさんが立ち上がった。眼鏡をかけた、シャツの上にニットベストを着たおっさん。テレビの中の金持ちのおっさんの私服は本物だったのかと思いながら頭を下げた。


これから結婚する女の身内にこんな事を思うのはおかしいかもしれないが、正直サチコの話からだと悪い印象しかない。


頭を上げると、その隣にネイビーのワンピースを着た厚化粧のババアが立っていた。これが叔母か。化粧は女のたしなみとか真知に宣ったらしいが、お前の化粧はたしなみじゃなくてお絵描きだと俺は言いたかったが、にっこりと笑って見せた。俳優になろうかな。


「緒方さんですか。どうぞ座って下さい」


俺は傍らにいるさっきの気難しそうな女に紙袋を手渡した。真知を迎えに行く前に千疋屋で買ったイチゴ。俺にとっちゃ全然つまらない物ではないが、つまらないものですが、と言いながら渡した。


「あら、わざわざありがとうございます」


「いえいえ」


絶対に食えよ。食わなかったらこの家にブルトーザーで突っ込んでやる。と心の中で思いながらにっこりと笑う厚化粧のババアに笑った。


おっさんがソファーに座ったのを確認してから、ソファーに座る。おっさんが真知を見て、笑う。


「真知さんは席を外して貰えるかな?」


「は?」


「……はい、分かりました」


俺は思わず普段の口調が出てしまって焦ったが誰も気付いてないみたいだから平常心を装った。真知は部屋を出ていく。


ドアが閉められて、真知の背中が見えなくなった。俺は前に向き直すと、テーブルに置かれた紅茶が湯気を立てている。ストロベリーティーだ。匂いが。


家には物怖じしたが、おっさんに対してはそうでもなかった。人相の悪いおっさんばかり普段から見ているせいか、おっさんはどこにでもいる課長に見える。


おっさんは紅茶を一口飲むと、俺を見た。おっさんの目にはさぞインテリ風な男が見えている事だろう。


「真知さんから話は聞きました。同意書ですね」


俺は少しばかり驚いた。真知さんを僕にください!と土下座する練習もしてきたのにも関わらず、意外な程にあっさりとしていたからだ。


「……はい、」


戸惑いながらそう返事をして、会社員風のバッグから同意書を取り出した。それをテーブルの上に出す。


おっさんはそれを見てから俺に視線を戻した。ババアも俺を見ている。居心地が悪い。


「これを書く前に一つだけ確認しておきたい事があります。これはこちらの家柄に関わる問題なんだけど」


ババアがにっこりと笑って言った。さっきから気になっていたが、胡散臭い笑顔だ。貼り付けられたみたいで恐ろしい。真知には似ても似つかない。このババアの妹、真知の母親はさぞ美人だったんだろう。突然変異並みに。


「なんでしょうか?」


俺もババアの真似をして胡散臭い笑顔を浮かべた。


「真知さんにも確認したんだけど、真知さんは妊娠していないのよね?」


「はい」


いきなりなんて事を聞き出すんだ。はしたないわ!と心の中で裏声を出していると、おっさんが溜め息をついた。俺はそれで視線をおっさんに移す。


「いずれ分かる事だ。今言っても変わらないと思うのだがね。妊娠しているんだろう」


「はい?」


なんで肯定から入るんだ?普通疑問から入るだろう。おっさんが気難しそうな女に手を出すと、茶封筒が女からおっさんに手渡された。茶封筒から紙を取り出したおっさんが俺に視線を寄越した。


「君の事は少し調べさせて貰ったんだ」


「は?」


おっさんは資料を見ながら口を開く。


「君はまだ18になったばかりか。4月10日生まれ、血液型はRh+のA型の緒方俊喜君」


「は?なんで、」


「実家は母親が定食屋を営んでいるのか。君の父親は君が10歳の時に他界、現在は母親と実家で二人暮らしで土木の仕事をしている」


俺は思わず口を噤んだ。なんで俺の個人情報がこんな知らないおっさんに知られてるんだ?調べたとは言っていたけど。


「最終学歴は中卒。真知さんが通っていた高校で友人と殴り合いの喧嘩をして二回謹慎になっている。高校を退学になった原因は複数の教師への暴力行為」


「………」


「中学二年の時に傷害で鑑別所に入っているね。それ以外にも傷害事件を起こして何度も補導されているらしい。その他にも飲酒喫煙」


俺は完全に見くびっていた。ナメていた。家柄を気にして真知を排除したこの家に俺の事を調べられる事は、想定外だった。


俺は馬鹿か。バレちゃいけない事が沢山あるはずなのに。


「相当な武闘派で有名人だそうだね。広域指定暴力団劉仁会矢崎組のスカウトもあった程に。暴力団との繋がりも多少なりともあるようだ」


これは如何なものかね、とおっさんが溜め息混じりに言った。俺が言える事は何もなかった。


「女泣かせとしても有名なようだね。18にして付き合った女性の人数は20人以上いるらしいじゃないか。その他に一夜限りの関係があった女性もいるみたいだが」


「それは、」


それは好きだと言われたから断るのが面倒で付き合っていただけだ、なんて本当の事を言ったら、俺はどう思われるんだろう。


口を噤むと、おっさんがソファーの背凭れに背を預けた。


「だから、真知さんが妊娠していたっておかしくないだろう」


俺の目の前で笑ったおっさんを見て、吐きそうになった。自分の事が知られていたからとか、そんなことじゃない。


「あんたは、真知が俺みたいな男に簡単に抱かれるような女だと思ってるのか?」


俺がそう言いながらおっさんを見ると、おっさんは首を傾げた。この際、敬語なんてどうでもいい。こんな奴に、敬語なんて使う必要ない。怒りが込み上げたけど、堪える。頭がいい奴には冷静に向き合わないと馬鹿にされる。


「あんただって真知がどんな事言われて生活してきたかくらい分かってるんじゃないのか?」


「知っているよ、だから何だと言うんだ?」


平然と、別に特別な事を言われたとも思ってないように、おっさんは言った。その横でババアは呑気に紅茶を飲んでいる。なんて奴等なんだ。


「真知さんが結婚してこちらの籍から外れてくれる事はとても有り難い事なんだけど、まだハタチにもなっていないのに妊娠して結婚するなんて事があったら、世間体が良くない」


「………」


「だから私はそうならそうとハッキリ言って欲しいんだ。中絶費用ならいくらでも出す」


「あんた最低だな」


おっさんが途端に真面目な顔をした。それを気にせず、俺はネクタイを緩めて眼鏡を外す。やってられない。少しでも良く思われようとした俺が馬鹿だった。


大体俺は、取り繕う事が苦手なんだ。


眼鏡をテーブルに投げると、小さく音が鳴った。


「最低なのはどっちだ?総裁選を控えてライバルを殺すなんて事をした長原さんの方が最低だとは思わないか?長原さんの家だけでなく私の家までを汚されたんだ」


「俺があんたらを最低だって言ってんのはそれだよ」


俺は溜め息をついて心を鎮める。吐いた息が怒りで震えていた。


「あんたらは家柄家柄って言ってるけど、その真知の親父に殺されたっていう奴の命の事はどうでもいいのかよ。真知の親父さんとお袋さんの命はどうでもいいのかよ。俺は命の大切さなんて多分これっぽっちも分かっちゃいないけど、残された奴の気持ちくらい分かる。真知が残されてどれだけ辛かったかくらい分かる。それにただ、真知の親父が事件を起こしたってだけで真知には何の関係もない。血が繋がってたって事以外は、何の関係もないだろ」


一息で言った。俺が言える、本当の事。渦中の中にいる人間は盲目過ぎる。客観的に見たら誰だって分かる事が見えなくなるんだ。


おっさんは小さく笑った。それに眉間にシワが寄るのが分かる。


「君はだから不良と言われるんだ」


「は?」


「小学生の頃に習わなかったか?『連帯責任』」


同罪だよ、とおっさんが吐き捨てるように言う。


もう俺が何を言っても無駄な気がした。もう何も届かない。自分が一番正しいと思い込んでいる。


「君は暴力団との繋がりがあるね、結婚相手に真知さんを選んだのは金かな?中絶費用もその他の金もいくらでも出してやるが、この家との関わりを一切無くしていただきたい」


おっさんが気難しそうな女に再び手を出すと、女はおっさんに紙を渡した。それをテーブルの上に出される。


誓約書、と書いてあった。家の出入り禁止、真知がこの家の人間だと口外する事の禁止、この家が俺を通じて暴力団に金を流す事を口外する事の禁止、その他諸々。


女の手によって、紙の上にペンが乗せられた。高そうな万年筆。真知のフィルムを巻いたペンとは比べ物にならない、0が四つつくような万年筆だった。


俺はムカついて署名の欄におもむろに名前を書いた。緒方俊喜と相変わらずの汚い字で書くと、目の前に朱肉が差し出された。


「拇印で構わないから捺して貰えるかな」


おっさんの声を無視して、朱肉に人差し指を付けた。まるで警察の取調室だ。何度も書いた上申書を思い出す。


まあ、警察で付ける拇印は赤い朱肉で付けない。黒いインクみたいなものだったけどな。


拇印を押すと、紙をおっさんにつきだした。


「テメーらの端金なんて一銭も要らねーよ。こっちからお前らとの付き合いなんて願い下げだ。そっちからこんなもの用意してくれてて助かったよ」


「そうか」


「さっさと同意書書いてくれねーか?こんな所、空気が汚くて一秒でも早く帰りたい」


俺の言葉に愉快そうに笑ったおっさんはババアと二人で同意書にサインをする。テーブルの上に置かれた紅茶はとっくに冷めているようだ。飲む気になれないからどうでもいいけど。


同意書を確認してバッグにしまうと、俺はすぐにソファーから立ち上がった。おっさんとババアを見て、吐き捨てる。


「金でなんでもできると思ったら大間違いなんだよ。貧乏人ナメんな」


テーブルに投げたままだった眼鏡を掴んでドアの方を見ると、女がドアを開ける。俺は黙って部屋を出た。


胸くそ悪い。バッグを掴んだ手が震える。俺が買ったあの高い千疋屋のイチゴを返せと叫びたくなった。あんな奴等の胃の中に入るくらいなら、腐ってジャムみたいになったとしてもお袋に食べられた方がまだマシだ。


溜め息をついてから周りを見渡すと真知はいなかった。てっきりここに立っているのかと思ってたのに。


「真知さんは自室にいらっしゃると思います。今ご案内します」


声に振り返ると、いつの間にか部屋から出たのか、気難しそうな女が立っていた。女が黙って歩き始めたから、俺はそれについていく。


何故か音を立てないパンプス。ひっつめ髪は団子にされていて、風に一切揺れなかった。


家の玄関を出たことが気になったが、サチコの言っていた『離れ』を思い出して何も言わなかった。


女は黙っている。別にどうでもいい。俺とは話が合わなそうだ。



「真知さんとのお付き合いはいつ頃から?」


聞こえてきた女の声に少し驚いたが、俺は溜め息混じりに返事をした。


「一年前」


「そうですか」


会話終了。俺は手にしていた眼鏡をかけ直す。まあ、一年と言ってもクラスメイトの期間だけどな。ポケットに片手を突っ込んで女についていくが、女の足はまだ止まらなかった。


さっき女は『自室』と言ったけど、こんなに離れている場所にある離れのどこが自室なのか俺に教えて欲しい。金持ちの言う事は俺には分からない。


「あの、」


女の声が聞こえて耳を澄ました。


「旦那様にあんな啖呵を切ってしまって、本当にお金は入ってきませんがよろしいのですか?」


「よろしいもクソもねーよ。あんな奴の金で飯食うくらいなら毎日鮭茶漬け生活の方がマシだ」


返事をしつつ足元の革靴を見る。意外と値が張ったこの靴ももう二度と履くことはないんだろう。一度履いただけで放置するなんて俺も金持ちの端くれなのかもしれない。


「ならば、どうして真知さんとご結婚なさるのですか?」


「……俺がそんなに金目当てで結婚するような男に見えるのか?」


「いえ、沢山の女性とお付き合いしてきたにもかかわらず、どうして真知さんなのかと、」


女と付き合ってきたっていっても、皆適当だったんだけどな。そう付け加えようと思ったが、女の背中はやけに寂しそうな背中をしていてやめた。気難しいなら気難しいなりに苦労をしてきたのかもしれない。


「好きだから。俺はガキだから初恋の女を大事にしたかっただけだ」


結婚が女を大事にする事なのかそうじゃないのかと言ったら、俺には分からないけど、俺の気持ちが生半可じゃない事は確かだ。


まあ、正気でない事も確かだ。付き合ってもいない女に結婚を申し込むなんて、俺も頭がおかしくなったんだ。


それに真知から、きちんと気持ちを聞いた訳じゃない。真知が俺を好きなのかは、正直よく分からない。


女が足を止めて俺を見た。眼鏡の向こうの目はひっつめ髪のせいかつり上がっている。


「あなたのような殿方もいらっしゃるんですね」


「殿方っていつの時代の話だよ」


俺が笑うと、女はまた歩き始めた。切り替えの早い女だ。


「金銭を要求しない方なんて珍しいです」


「あんたいつもどういう男に引っ掛かってんだよ」


苦笑いでそういうと、女は何も返事をしなかった。もしかしたら物凄く男運が悪いのかもしれない。


「あんたにもいい男が現れるって、頑張れよ」


女はいきなり足を止めた。女の背中から視線を上げると、白い家がある。一階建ての屋根まで白い家。


「……こちらです」


俺の言葉への返事は無いらしい。折角励ましてやったのになんて女だ。


女がドアを開けようとして、俺は慌てて、待てと言った。ネクタイを締め直していると女が振り返る。


「好きな女に心配させるのは男のする事じゃねーよ。あんたも覚えておきな。金欲しいって言ってくるような男はこっちから願い下げだって言ってやれ」


女に笑いながらそう言うと、女は返事もせずにノックしてドアを開けた。ネクタイが元通りになっているのを確認してから女が開いたドアを覗く。


玄関には真知のパンプスが一つ。真っ白くて妙に光る床に首を傾げると、女が部屋の方に手を伸ばす。


「真知さんはその扉の向こうにいらっしゃると思います」


「はいよ」


女は俺に一礼して、ポツリと言った。ありがとうございます、と。


「何が?」


「殿方からの貴重なご意見、参考にさせていただきます」


だから殿方っていつの時代の話だよ。俺はそう言ったが、女は黙ってドアを閉めた。変な女。


俺は溜め息を一つつくと女がさっき指し示していたドアに向かって声をかけた。


「真知?」


ドアの向こうから水の音がする。でも真知の返事はない。革靴を脱いで家に片足を上げる。


「っ!」


滑りそうになった。いきなりの出来事で心臓がバクバクと音を鳴らしている。危なかった。なんとか耐えたけど、もう少しで倒れていた所だった。


慎重にもう片方の靴を脱いで足元を見ると、俺は絶句した。


真っ白い床には、さっき真知が俺の車の座席に敷こうとした透明のテーブルクロスのような薄いプラスチックが敷き詰められていたのだ。端を透明のテープで床に固定されている。


足元から視線を上げると、真っ白いドア。向こう側から聞こえる水が流れる音。


俺はドアノブを掴んで、すぐに手を離した。ドアノブにも、その透明のテーブルクロスが巻き付けられていた。


もう一度ドアノブを掴んでドアを開ける。水の音がダイレクトに耳に届いた。


部屋の中の匂いは無臭。真っ白い部屋だった。壁も床もカーテンも家具も全部、真っ白。ただ、白い勉強机の上に置かれた参考書の山と、棚の上に置かれた薬品のビンにだけ色がある。


そして、全部にあの透明のテーブルクロス。まるで無菌室みたいだった。よくテレビや映画の中で見るような病院の無菌室。限りなく透明と白だけの空間。


俺は無意識に息を殺してしまった。部屋に流れる水の音は規則的なものと不規則的なものが交互に繰り返されている。


この音は、どこかで聞いた事があった。そうだ、文化祭の飾りつけをした後、真知を教室で待っていた時に聞いた音。


俺はバッグを近くのテーブルの上に置くと、慌てて水の音がする方に足を動かした。足が滑りそうになりながら進んだ部屋の奥にある別の部屋への入口に手を引っかけてその奥を見た。


真っ白いベッドの上には透明のテーブルクロスがかかっている。すぐ傍の流しに、真知の背中が見えた。


茶色い髪の毛が真知の動きと一緒に揺れている。真知の腕を後ろから掴むと、真知が慌てて振り返った。真知の目は、あの日見た時と同じ、血走った目。


真知に手を振り払われる。真知は俺から視線を逸らして、びしょ濡れの手のまま、傍らのテーブルの上に置かれたバッグを漁り始めた。あの時と同じ、真っ赤な手。


その腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。真知は今にも泣きそうな顔で、俺の手を振り払う。


「お前、なんでそんなに手を洗うんだ?手の傷、痛いだろ?」


「……痛みなんて、ありません」


その言葉に、俺は真知の手を無理矢理掴んでベッドに押し倒した。真知は痛みに顔を歪める。


真知の手は冷たかった。俺の手から逃げようと動く手は、少し震えている。


「痛いだろ?」


「っ、離して、くださ、」


「痛いって言えよ、」


苦しくて、声が震えた。息が詰まりそうな無菌室、手の洗いすぎで真っ赤になった冷たい手、第二関節の無くならないひび割れ。全部、真知が自分が菌を持っていると思っている証拠。


真知の髪が白いベッドに広がる。白い肌はそのままベッドに融けそうだった。ワンピースの長い袖は水で少し湿っている。


「頼むから、痛いって言えよ、」


「っ、」


「痛いって言ってくれよ、」


痛みを認めてくれないと、離せない。真知が洗脳されて忘れた痛みを思い出してくれないと、真知に菌がない事を思い出してくれないと、真知はこのまま自分を傷付け続ける。


真知の痛みに歪む顔を見ている俺の顔もきっとそんな顔なんだと思う。こんな事したくない。痛がってる好きな女の顔を見るなんて、全然楽しくない。苦しい。


流しっぱなしの水の音に混じる、真知の喉から出る息の詰まる音。俺はごめん、ごめんと心の中で真知に謝りながら、手を離さない。


「っ、緒方、せんぱ、」


「俊喜」


「っ、と、俊喜、」


痛いって言ってくれ。自分で自分を傷付けてる事に気付け。頼むから、気付いてくれ。俺は手に力を込めた。痛いって言え。真知の手に俺の体温が移って、融ける前に。


真知の目が俺の目を見た。潤んだ目。泣かせたのは、俺だ。


「なんで、っ、私と結婚してくれるんですか?」


「痛いって言ったら、教えてやるよ」


痛いんだよ。お前が気付かないから、俺が痛い。


「離れないと、移りますっ、」


「お前に菌なんてない」


「っ、」


「言っただろ?お前は俺だけ信じればいい。だから、今は痛いって言えばいいんだ」


眉間に寄ったシワも、綺麗な二重の目も、俺だけを信じればいい。それだけでいい。俺をどう思ってるかなんてどうでもいい。口にしてくれなくていい。


「痛い、です、」


半ば無理矢理言わせたその台詞に、俺は手から力を抜いた。そのまま、真知の指に自分のそれを絡める。


真知はそれを離そうとするが、俺はベッドに手を縫い付けるようにして離さなかった。


「もう手洗うの禁止」


真知は俺を見たまま何も言わなかった。俺はそれに何も言わなかった。だって、真知がここで頷かない事を分かっていた。真知の積み重ねてきた六年間は、俺と過ごした一年間より重い事を分かっていたから。


それから少し経って、真知は一粒だけ目尻から涙を流した。何を思ったのかは分からない。ただ、痛いって気付いて泣いてくれたならそれだけでいい。


真知の家から出たその足で区役所に行って、婚姻届を提出した。真知は緒方真知になった。たった一度のキスで結婚する男女は俺ら以外にこの国にいるんだろうか。多分いないだろうと思う。


真知と二人で俺の家に帰ると、お袋が真知の手を取った。肌色のゴム手袋に包まれた真知の手をお袋が握って、にっこりと笑う。


「あたしが今日からまっちのお母さんだよ」


「っ、」


「はい、お母さんって呼んでみて?ママでもいいけど!」


俺はお袋を冷めた目で見つめた。ママってなんだよ。気持ち悪い。でもお袋は真知を見て笑っている。


「お、おかあ、さん」


真知が小さく言った。


お袋が真知を抱き締める。俺が簡単には触れない真知を、お袋は平気で抱き締めるからそれにちょっと嫉妬の視線を送ると、お袋にウインクされた。鳥肌が立った。


「おめでとうまっち!」


「おじさん感動したぞ!」


店内の客が一気に歓声を上げる。矢田さんは泣いていた。口には出さないけど物凄く不気味だからやめて欲しい。


「それにしても俊喜は困った奴だな、こんな美人さんを嫁に貰ったのにホストになんて転職しやがって」


「違うんですけど!真知の親に挨拶に行ってただけなんですけど!」


俺はとっさに突っ込んだ。言っていたのは矢田さんだ。どいつもこいつもホストって言いやがって。俺は半分キレながらニヤニヤするお袋を睨んだ。


真知の背はお袋より少し高かった。まあ今日の真知はヒールを履いているからなんだけど。


「せっかく婚姻届出してきたんだし、写真でも撮ってきたらどうだ?」


矢田さんがそう言うと、お袋は真知から離れた。俺を見上げて、お袋は笑う。機嫌が良くてうざったい事この上ない。


「ああ、そうだね、プリクラでも撮ってきたら?」


……なんでプリクラ?まあ、安いからいいけどさ。真知は首を傾げていた。もしかしたらプリクラも知らないのかもしれない。


「よし、じゃあ行ってくるわ」


「へ?」


俺の言葉に、真知が俺を見た。俺はそれに笑って、入ったばかりの家を出る。外はさっきと同様真っ暗だったから、後ろから真知がついてくるのを確認して、手を差し出した。



「手、繋ごう」


「……繋ぎません、」


真知がそう言うのは分かっていたが、俺はその手を取る。真知が離そうとするから、自分の方に引き寄せた。


「後で消毒するから、な?」


今日だけでこの言葉を何回言っただろうか。真知は躊躇いながらも頷いた。小さくて細くて冷たい手と、まるで親子が繋ぐような繋ぎ方で繋ぐ。ゴム手袋の感触がして、やっぱり、素手の方がいいと思った。


俺は元々手を繋ぐのなんて嫌いだったのに、真知とは手を繋ぎたいと思う。それが不思議な話だ。拒まれるのを知っているのに。俺は実はドMだったのかもしれない。


俺が歩き出すと、真知もついてきた。ゲーセンまでは徒歩3分。


曲がり角を曲がると、見知った顔が前から歩いてきた。男一人に女二人。男が俺を見て目を見開く。真っ赤な髪の、久人だった。


「俊喜!ホストになったのか!?」


「そのネタもう飽きたんだけど」


俺が吐き捨てるように言うと、久人は真知を見てにっこりと笑う。


「まっち、こんばんはー」


「こんばんは」


あれ、なんで久人が真知を知ってるんだ?確かに結婚する事は飲み会かなんかで話した気がするけど、真知本人に会ったなんて聞いてない。


俺の心の中を知ってか知らずか、久人はパーカーのポケットから出した飴を真知に差し出しつつ、俺を見る。


「この前俊喜が仕事でいなかった時に悟と沙也加と三人で飯食いに行ったからさー、ね、まっち!飴ちゃんあげる」


「あ、ありがとうございます、」


真知が丁寧に頭を下げて、いいのいいの!と久人が言っている横で並ぶ女二人。出会いカフェで働くナミとタエだった。ワンピースと銀魂、ジャンプ二人組。化粧が変わっているから全然分からなかった。


「俊喜、マジで結婚したんだ…」


ナミがずり下がったパーカーから剥き出しになった肩を掻きながら苦笑いして言う。パーカーの下のスパンコールだらけのタイトなワンピースの丈は物凄く短かった。相変わらず寒そうな格好。


「言っとくけどデキ婚じゃねーからな」


「うっそ、マジで?俊喜が?」


タエが眉間にシワを寄せて言う。真知を見てからにっこりと笑って、再び俺を見た。真剣な顔をするものだから、二重幅がなくなっていて怖い。


「超美人じゃん」


「一個下」


タエは小花柄のオールインワンを着ていた。昔の金髪はどこにいったのか、落ち着いた茶髪だった。金髪の頃の方が年相応だった気がする。今は大人っぽく見えて、俺と同い年に見えない。


タエはもう一度真知を見る。こんな化粧の濃いケバい女に見られているのにも関わらず、真知は相変わらずの無表情。


「えー、あたしと唇交換して欲しい」


「無理だろそれ」


タエが俺を見て頬を膨らませる。ナミは真知に勝手に自己紹介を始めていた。


「あたし俊喜の友達!ナミ!仲良くしてね」


「真知です、よろしくお願いいたします」


超敬語!とナミが笑っている隣でタエまで自己紹介を始める。さっきまで頬を膨らませていた癖に、訳の分からない女。


途端に久人が俺のスーツを掴んだ。久人の顔を見ると凄い形相をしている。


「今二人に店に来いって言われてんの!指名しろって言われてんの!金出せって!」


「行けばいいじゃん」


俺は久人に平然と言った。久人の家は中々裕福な家庭だし、金にはいつも余裕がある。小学生の頃から、悟と久人はいつもブタメンを二個買いしていた(俺と時夫は一個)。


久人はばつの悪そうな顔をして俺に顔を近付けた。


「いや、昨日パチンコで全部無くなったんだよねそれが」


「お前馬鹿だろ」


言えばいいじゃん、と俺が言うと、久人は溜め息をついた。


「だよな、」


久人は何を悩んでいるんだか、顎に手をつけてわざとらしい考えるような仕草をする。馬鹿な癖に仕草ばっかりインテリ気取りやがって。すると久人はいきなり顔を上げた。


「そういや、悟がこの前まっちを見て爆笑してたけどあれ何?待受の女!とか言ってた」


「悟が爆笑…?待受の女…?」


そんなのよっぽどだろ、と思ったが、俺はふと思い出した。真知とのツーショットの待受を悟に見られたんだった。


だからといって真知を見て爆笑するなんて失礼極まりない奴だ。俺は溜め息をつきながら、そうか、と久人に一言返事をした。


真知を見ると、ナミとタエに絡まれて大変そうだった。俺が真知の手を軽く引っ張ると、真知が顔を上げる。


「行こ、」


俺の言葉にナミとタエがギャーギャー騒ぎ始める。なんで初対面なのにそんなに煩いんだ?お前ら煩い、と俺が言うと、二人が同じような表情をして口を開いた。


「だって、俊喜が結婚するなんて気になるじゃん!」


見事に二人はハモった。イエーイなんて二人がハイタッチしてるのに呆れた。この二人の結束力は意味不明過ぎて理解したくない。


その途端に久人が何かを叫んで走り去って行く。声が大きすぎて聞こえなかった。二人は慌てて久人を追いかけていってしまった。


嵐(アイドルじゃなくて気候の方)みたいだった。


真知は三人が消えた方を見ている。俺が歩き出すと、真知も続いて歩き出した。ゲーセンは目と鼻の先。サチコとセイヤ君が出てきたゲーセンだ。そう言えばサチコとはあれから全然会っていないが、まだセイヤ君とよろしくやってるんだろうか。


俺がゲーセンを指差して真知に視線を移した。


「ゲーセン。ゲームセンター。入った事ある?」


「いいえ、ありません」


ゲーセンに入った事がない女なんていたのか。女は何だかんだゲーセンに入りたがる(主にプリクラ)のに、真知は本当に珍しい。


ゲーセンに入った途端に耳に飛び込んでくる騒がしい声と爆音の音楽に真知が眉間にシワを寄せる。やっぱり真知はお嬢様だったんだと実感する。不信感丸出しの感じは、テレビでよく見る誰かが演じたお嬢様みたいに上品だった。


真知はクラシックとかが好きなんだろうか。俺もちょっと聴いてみようかな。


どこかから俊喜、なんて声が聞こえてきて視線を向けると、中学の時の同級生の三人が俺に手を振っていた。マツとマレとシゲ。三人の所に行こうと思ったけど、三人は煙草を持っていたからやめた。手を軽く振る。


「結婚おめでとー!」


三人の大きいはずの声も小さくしか耳に届かなかった。誰からそんなの聞いたんだ、と思ったけど俺は三人に笑って、真知の手を引いてプリクラのコーナーの方に足を進めた。


真知は物珍しそうにキョロキョロと辺りを見渡している。俺が真知の頭に頭を軽くぶつけると、真知がこっちを向いた。


「どの機械がいい?」


顎で複数並んだプリクラの機械を示すと、真知の目はそれを追うようにそれを順番に眺めていた。どれも女の顔が全面に出たカーテンがぶら下がっている。パステル系の色、紫と黒、赤と黒、と機械によってイメージは違うらしいけど、大きくカーテンにプリントされた女の顔はどれも化粧が濃い。


真知は首を傾げて俺を見る。真知の口がパクパクと動いていた。多分周囲の音の煩さで聞こえないだけで、口はどれでもいいと言っている。


俺は思わず苦笑いした。女は皆この機械じゃなきゃ嫌だとか言うものだと思っていた。これだとどうのこうの、と俺は元カノ全員に説明されたが全然覚えていない。


そのお気に入りの機械に人が並んでいたとしても、女は並びたがる。うまく写らないと別の機械でも撮りたがるのだ。どれでもいいと俺は思っていたけど、実際どれでもいいと言われたら困るものなんだと実感した。


大体、プリクラを知らない奴が機械に拘れる訳がなかったんだな。こんなに沢山の機械があってどれを選べばいいのか分からない。


俺は大量生産だとか消費者の選択の自由だとかそんな難しい事はよく分からないけど、沢山あっていいものと沢山なくていいものがあるという事が分かった気がした。


「真知、あの写真の女の中で可愛いと思う女を一人選べ」


真知の耳元でそう言うと、真知は早かった。一番手前の機械のカーテンにプリントされている決め顔の女を手で示す。指を差さない所が真知らしいと思っていると、真知が、ずっと可愛いと思っていました、と言った。


長いナチュラルな付け睫を付けた目の大きい女。黒いカラコンの入った目がこっちをじっと見ている。俺は正直真知の方が可愛いと思ったけど、馬鹿っぽいから言わなかった。


真知の手を引っ張って、そのカーテンを捲る。真知を先に中に入れて、俺も続いた。


すると機械が話始めて、真知が軽く後ずさる。真知はグリーンの後ろの壁に頭をぶつけた。


「ちょ、大丈夫!?」


「あ、はい、少々驚いてしまいました」


今日真知は何回頭をぶつけてるんだ。頭を擦る真知を見てちょっと鈍臭い所も可愛いと思ったけど、言いそうになったから口を噤んだ。


真知と繋いだ手を離したくなくて、パンツの後ろのポケットから出した長財布を真知の前に出した。


「これ、ファスナー開けて400円出して」


「え、あ、はい、」


真知がファスナーを開けると、俺の寂しい財布の中身が露になる。真知は多分そんな事は気にしていないんだろうが俺は結構気になった。


レシートが入った奥のポケットには、俺が拾ったあの悲しい願い事の紙がまだ入っている。真知が書いた、あの願い。真知は、俺がそれを持っている事を知らない。


400円を取り出した真知は、カメラのレンズをちらりと見てから、口を開いた。


「あの、プリクラというのは、一体なんの事なのでしょうか?」


「あー、写真?シール?かな、」


そこに金入れて、と俺が言って、真知に機械に金を入れさせている間に口でファスナーを閉めて財布をポケットに戻した。


機械が話始めて真知はまた眉間にシワを寄せる。目の写り方、全体の写り方。俺が適当に画面を弄っていると、真知がそれを覗き込んできた。


「背景、どれがいい?」


真知は画面に恐る恐る触れる。真知が選んだのは白い背景と黒い背景。俺はもう一つグレーの背景を選ぶと、画面から離れた。


「真知、あのレンズ見ろよ?」


「え、あ、」


機械から流れる女の声が耳に響く。俺は真知の頭に頭を乗せてレンズを見た。カシャ、なんて音が聞こえて、一瞬が切り取られる。


画面を見ると、無表情の真知と俺。眼鏡をかけている俺は俺じゃないみたいだった。レンズの向こうの目が黒く強調されて少し大きくなっている。


「目が…」


真知の声に少し笑った。今のプリクラは詐偽だよな。全然顔が違って見える。俺と真知はそうでもなかったけど、化粧が濃い女とかは別人になってしまう。


「ほら、次だって」


口をパクパクと動かす真知は何かを言いたいみたいだったけど、何せ時間が限られている。俺は黙って真知の手を引き寄せた。そのまま笑ってピースをする。



真知の無表情とバカ面の俺は対称的だった。ただ俺の顔が自分でも恥ずかしいくらいに幸せそうで、これが恋ってやつの恐怖なのかと思い知った。


それから撮ったものも、真知は無表情で、少し悲しかった。真知はやっぱり笑わない。インテリ風の俺の隣の真知は、無表情で人形みたいだった。今は人形でも笑ってる時代だというのに、それなら真知は何なんだろう。


沈みそうになるのを堪えて真知の顔を覗き込んだ。


「真知、変な顔してみ?」


元カノと撮った時、誰とでも絶対一枚は変顔を撮っていたのを思い出したのだ。こんな所で元カノとの記憶が役立つなんて思ってもみなかったが、首を傾げた真知はレンズの方を見た。


その真知の顔が映った画面が目に入ってしまって、俺は隣で笑ってしまう。その瞬間にシャッターが切られてしまって、画面の中に写ったのは笑う俺と真知の変顔。


真知の綺麗な顔は原型を留めていなかった。ここまで本格的な変顔をされるとは思っていなかったから、俺は思わず笑いを堪えて実物の真知を見る。


もう無表情に戻っていて、そのギャップが凄かった。


「っ、真知、この顔は駄目だろ、」


「変な顔との注文でしたので、駄目でしたか?」


いや、全然いいんだけどな、と俺が言うと真知は画面を見る。


「ははは、」


真知の横顔は無表情。声も棒読み。鳥肌が立った。笑わないんじゃなくて、笑えない人間が本当にこの世に存在した。笑うほど面白くないから笑わないんじゃなくて、どれだけ面白くたって、笑えないのか。


まだ俺達は始まってもいなかった。感情を出す一つの方法を失った女を俺が選んだのは、俺が笑わせてやりたかったから、なんて独占欲に近い感情からだったのかもしれない。


俺はその真知に笑いかけて、機械が話すブースに移った。字が下手くそな俺と落書きの仕方を知らない真知は、そのブースを早々と出て、プリクラを機械から出した。


落書き無しのプリクラ。笑えない真知が笑うようになるには、一体どれ程の時間がかかるんだろう。


馬鹿な俺には到底計算出来なかった。


でもそれで良かったんだと思う。途方もない時間を待つよりも、早く笑わせようと頑張る事の方がよっぽど大事な事なんだと思うから。


俺は馬鹿で良かったんだ。小賢しい事は一切分からないから、俺は隣で手を繋いでいたいとだけ思った。




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