アルバイト募集革命
作業服に着替えて階段を下りる。厨房にお袋はいなかった。さして気にする事もなく暖簾を潜ると、いつもの強面の常連客が飯を食っていた。
「おう俊喜、おはよう」
「おはようございます」
また今日も朝、一番最初に話したのは男だった。お袋でも気分が悪いから、俺は朝に誰と話せば気分がよくなるんだろう。起きたら女(お袋は論外)が隣にいるとか、女(お袋は論外)が俺を起こしに来るとか、俺はどれくらいご無沙汰しているんだろう。
小さく溜め息をつきながら、お袋がいないのをいい事に厨房に戻って冷蔵庫からオレンジジュースを出した。コップに目一杯注いで一気に喉へと流し込む。
お袋がいると麦茶と牛乳以外、金を出さないと飲めないのだ。息子から金を取るなんてどういう事だ。水で綺麗に底に少しだけ残ってしまったオレンジジュースの証拠隠滅を図り、何食わぬ顔で暖簾を潜った。
自分でもやってる事がガキ臭いのは承知の上だけど、俺の心は永遠に少年のままなのでいいという事にしておいた。
矢田さんの隣に置かれた俺の朝飯の前に腰を下ろした。
「今日も作業服で行くのか?」
「はい、現場今近いんで」
あれから三か月が経って、4月。俺はまた一つ老けた。晴れて結婚できる年齢になったけど、相手はいない。悲しい。でもこんな年で結婚するのもどうかと思うからもうどうでもいい。
高校を辞めた後、バイト先の都合との兼ね合いで二週間だけバイト生活を送ったけど、すぐに就職した。時夫の親父さんが親方をやってる土木の仕事だ。時夫は毎日毎日疲れたと言っていたけど、俺はそうでもなかった。学校で黙ってじっとして勉強しているよりも苦痛じゃない。働いている方が向いていたのかもしれない。
鮭の西京漬けに箸を付けて、オレンジジュースの後の西京漬けってどうよ、と自分でした事に首を傾げたくなる。意味不明なセンスだ。
矢田さんの前に座る弁護士バッチを付けた豊橋さんは親父の後輩だ。豊橋さんは付け合わせの大根の漬物を口に入れながら、やけに真面目な表情で俺を見てきた。
「お前、女いなくてどれくらいだ?」
え、どれくらいだろう。数えた事もなかったが、女と付き合ったのは一回目の高校一年の冬に付き合っていたサリナが最後だ。
「一年以上前……」
自分で言いながら苦笑いしてしまった。豊橋さんが目を見開く。
「お前……男が好きになったのか?」
「なんでそうなる!?」
思わず突っ込むと、隣の矢田さんが爆笑し始めた。これこそ意味不明だ。
「いやだってお前……、女に飽きたのか?」
「飽きてない!俺はノーマル!」
豊橋さんに必死に首を横に振ると、矢田さんが俺の肩を掴んだ。
「おま、一年以上女いなくて、どうすんだ」
「いや女と最後に付き合ったのが一年以上前ってだけだから、それだけですから」
矢田さん達は意味を理解してくれたらしい。なんだよ、とつまらなそうに言われた。俺はあんたらの暇潰しの道具じゃないんですけど。
それから飯を食って歯を磨いて、タオルと作業服の上着を持って家を出た。また見送りはおっさん達だ。溜め息をつきつつ、後ろ手にドアを閉める。
すると、ドアのすぐ横にお袋が立っていた。少し驚いて肩を揺らすと、お袋が俺に気付く。相変わらずの金髪が朝から眩しい。
「あ、おはよ」
「あーうん。何してんの?」
お袋は貼り紙を剥がして見せてくる。お袋は二週間くらい前からバイトを募集していたのだ。年だから一人じゃやりくり出来ないらしい。ババアになったな、と言ったらケツを思いっきり蹴られたのを思い出す。
「もうバイト募集はいいかな」
「なんで?」
首を傾げると、お袋が貼り紙を畳みながら宙を見た。
「この前、バイトの女の子が入ったって話したでしょ?その子が凄くよく働いてくれてて」
お袋が思い出し笑いを浮かべる。どこを見ているんだろう。控えめに言っても気持ち悪いババアでしかない。
「へー、良かったな」
「すっごい美人さんなの!あんたはいっつも仕事終わってから遊んで夜中に帰ってくるから会えないけどねー残念だねー?」
「うるせーよクソババア」
「なんだとクソガキ」
一触即発の空気が流れた時、おはようございます、という大きすぎる声が響いた。声の方を見るといつもの後輩、聖がいた。
聖は二個下の後輩で、今は高校一年の代だけど、馬鹿すぎて高校に落ちまくって就職したのだ。まだ就職して二週間くらいだけど、毎日足繁く家まで俺を迎えに来る。お前は俺の彼氏か。
お袋とは無言の休戦協定を結んだ。作業服の上着を羽織る。
「んじゃ行ってくる」
「はいよ!気をつけて」
お袋は朝からテンションが高い。俺よりも若い。なんでだろう。その元気を分けてほしい。そんな絶対に口にしない事を思いながら、聖と現場に向かって歩き出した。
今の現場はここから徒歩10分。
タオルを巻いた頭の襟足から出る聖の髪は一年前からちっとも変わらない紫色だった。紫色は欲求不満の色だと、どこかで聞いた事が頭を過った。
「聖、お前って欲求不満なの?」
「いきなり何を言い出すんですか!?」
今は朝です!まだ朝ですよ!と聖が叫ぶ。俺は高校一年の頃、こんな感じだっただろうか。もうちょっと疲れ切っていた気がする。
前髪を掻き上げてオールバックにすると、聖と同じようにタオルを頭に巻いた。俺の髪は相変わらずの黒だった。染めるのが面倒になったし、もう好青年のままでいたい。
「だって紫って欲求不満なんだろ?」
「そういう固定観念やめましょう!ただ好きなだけですから!」
「……お前、固定観念の意味分かってる?」
聖は閉口し、前を向いた。分かってなかったんだな。そうだよな。名前を書けば受かるらしい、悟と久人が通う馬鹿高校も落ちたんだもんな。その頭脳は重症だ。
無言で聖の肩を叩いた。
「優しくしないで下さい……泣きたくなるから……」
「大丈夫だって。生きていけるって」
苦笑いを浮かべて聖から目を逸らした。よっぽど高校に落ちた事を引き摺っているんだろう。自主退学するしかなかった俺はどういう反応をすればいいんだろう。俺も落ち込むべきなのだろうか。最近の聖は傷心で、空気が重い。
現場の工事途中の道路に着くと、時夫がトラックの荷台で転がっていた。お袋よりも抜けた金髪を掻き毟りながらダラダラとしている。そのケツを思いっきり叩くと、時夫が飛び上がった。
「痛い!痛いよ!?」
「おはようございます!」
戸惑う時夫に聖が挨拶して、時夫はおお、と返す。時夫は手に持っていた煙草を傍らに置いてあった灰皿で消しながら、はぁ、と傷心丸出しの溜め息をついた。どいつもこいつもどうしてこう面倒臭いんだ。
「どうした?」
面倒臭いと思いつつも聞いてしまう。どうしてこんな性格になってしまったんだろう。男に対して紳士でも意味がない。時夫は遥か遠くの方を見るような目で口を開いた。
「俺、昨日八木ちゃんと遊んだ訳よ、そしたらさ……」
「なんだよ早く言えよ」
「八木ちゃんに俺が何回やってもクリア出来ないゲームを……あっさりクリアされちゃった訳よ……」
「それだけ!?」
怒鳴った俺に、時夫はユーアーデーッド!と叫んだ。なんてうるさい幼なじみなんだ。怖い。
午前中の仕事が終わって昼休憩に入る前、近くの公園の流しで綺麗に手を洗う。俺の隣でダラダラと手を洗う時夫はまだゲームを引き摺っているらしい。
「あー俺しょうが焼き定食が食べたいなーしょうが焼き定食食べたらもう全部忘れられる気がするー」
「駄目ですよ時夫さん……忘れちゃいけない記憶もありますって……」
なんて面倒臭い二人なんだろう。どうしてこうもタイミングが重なったんだ。今まで聖の一人だけだったからよかったものの、時夫にまで混じられたらどうすればいいのか分からなくなる。さっさと手を洗ってヘルメットを外すと、手を拭いてからケータイを取り出した。
リダイヤルの上から三番目を押し、耳に当てる。でも、今日も繋がらなかった。大人しくケータイを閉じて、作業服のポケットに入れた。
「俊喜、いつも誰に電話かけてんの?」
時夫が首を傾げる。なんとなく、目を逸らした。
「教えない」
「えー、ひど!」
本当にひどいっすね!と聖が時夫に同意した。好きな女がどうしてるのか知りたくて、毎日繋がらない電話をかけていると言ったら、俺はストーカー扱いされるのだろうか。本当にもうストーカーだけど、一言聞ければいいのだ。なんて言葉が欲しいのかは分からないけど、ただ、一回だけでも繋がれと祈っている。一回繋がれば、俺はもう満足して、何もしないで好きなままでいるんだろう。
俺を差し置いて、二人はいつものコンビニとは反対の方向に歩き始めた。
「ちょいお前ら!どこ行くんだよ!」
「俊喜ん家ー!しょうが焼き定食!」
次々とついてくる職場の後輩や同僚達のお陰で一気に五人にまで増えた。溜め息をつきながら後を追った。
さっきまでダラダラしていた五人は飯となると早かった。誰も食欲には勝てないらしい。家のドアを開けると、豊橋さんが座っていた。豊橋さんは三食ここで食べていく。弁護士なんて給料のいい仕事をしているんだから、こんな安い店で食べなくてもいいんじゃないかとよく思う。
ドアの右手の喫煙席の方を指差した。
「ちょっとそっち適当に座ってろ。皆しょうが焼き定食な」
「すいません俺はレバニラです!」
聖に舌打ちすると、聖はしょうが焼き定食です!と言い換える。最初から黙ってしょうが焼きと言えばいいんだ。俺は全員の注文を伝票もないのに聞けない頭の持ち主だ。
作業服の上着を脱いで聖に渡すと、厨房に顔を出す為に禁煙席に出た。豊橋さんは朝と同じ席でぼんやりしている。あの人は大丈夫なのだろうか。仕事で何かあったんだろうか。
その時、目に入った伝票の文字に首を傾げた。お袋の字じゃない、でも俺がどこかで見た事がある気がする字。お袋が美人だと言っていた、バイトの女のものだろうと推測する。
客席にお袋はいない。この時間帯だししょうがない。厨房の暖簾を潜った。
「お袋?しょうが焼きて、」
流しを見て固まった。そこにいた女と視線が交わったからだ。俺を見た女も動きを止めた。
俺の耳には、水が流しの中にぶつかる音しか届かない。規則的な音は女が食器を洗っていない事を示している。女は洗い物を放置して、俺を目を見開いて凝視している。俺が、女から目を離せる訳がなかった。
「あれ、あんた帰ってきてたの?」
お袋が家がある二階に繋がっている暖簾を潜って厨房に入ってきた。お袋は女を見てにっこりと笑う。
「まっち!一人にしてごめんね!」
女は、真知だった。緩いサイズのダークグレーの長袖のプルオーバーパーカーを着た真知は、お袋の言葉に俺から目を逸らした。斜めに流した前髪、肩につかないくらいのボブに髪は切り揃えられていた。最後に見た時と変わったのは、前髪が少し伸びた事くらいだろうか。
「まっち!これがこの前話した一人息子の俊喜!」
俺の腕を掴んでそう言ったお袋に、真知は訳が分からないとでも言うように視線を泳がせていた。お袋はそんな真知に気付かずに俺の方を向く。
「で、俊喜!バイトのまっち!あんたの一個下なのにしっかりしてるの、あんたも見習いな!」
お袋に返事をしなかった。いや、出来なかった。真知は俯いて、洗い物用の赤いゴム手袋を外す。そこから出てきたのは、肌色のゴム手袋に包まれた手。色つきのせいか、第二関節のひび割れは見えない。
真知はお袋に頭を下げる。
「智子さん申し訳ありません、今日でお暇を頂きます」
「え?暇?」
お袋が首を傾げた。真知は階段の暖簾を潜ると、あの黒いリュックを持って戻ってきて、俺に頭を下げた。
「緒方先輩のご実家とは存じ上げず、智子さんのご厚意に甘えてしまいました。金輪際、関わる事はありませんので、」
追いかけ続けている女が目の前にいるのにも関わらず何も言えなかった。何か月も毎日電話をかけても、絶対に繋がらない電話の先に出てほしいと願っていた女が目の前にいるのに。失った。何もかも。
「まっち、暇って?俊喜の事、知ってるの?」
お袋が真知の腕を掴んだら、真知はやんわりとお袋の手を外した。それに違和感を覚える。サチコの時と同じ違和感を持った。俺は、何かがおかしいとずっと思っているのに、答えを見つけられていない。
「申し訳ありませんでした」
真知は俺の横をすり抜けて行く。二度と会えなくなったら困る。そう慌てて暖簾を潜って、真知の腕を掴んだ。
「真知、」
その瞬間、手を振り払われる。真知は俺に土下座でもしそうな勢いで頭を下げた。それに、常連ばかりで賑やかな店内が少し静かになる。
「本当に存じ上げていませんでした。申し訳ありません。もう二度とここには近寄りません」
真知が俺の手にウェットティッシュを落として去っていく。真知の纏う悲しい匂いが辺りに充満するような気がした。一言で満足できると思っていたのに、何という言葉が欲しかったのかも分からないのに、このままでは終われないと思った。
真知の背中を追いかける。
「ちょ、待てよ、」
俺は言っていない。会いたかった、とか、ずっと俺はお前だけが好きだ、とか、そういう本音を、まだ言っていない。
その腕を掴むと、振り払われた。
「移るからっ、」
一瞬だけ俺を見た真知の目が、自分に菌があると言っていた時の目と同じだった。やっと真知が本性を現した。真知の目はやっぱり、怯えていた。もしかしたら、ずっと長い間。
そう思った時、やっと全部が繋がった。
さっきの伝票の字は真知の字。俺があの字を見た事があったのは、留年してすぐに廊下で拾った願い事の紙に書いてあった文字と同じだったからだ。まだ、あれは財布の中に入っている。真知は、死にたかったんだ。
真知は俺なんて見ていなかった。それは分かっていた。だけど、やと知った。真知はずっと、死だけを見つめていた。
真知が焦ったように小走りする後ろ姿に、怒鳴った。
「真知!」
真知が肩を揺らして、立ち止まった。その背中に大股で近付いて、腕を掴むとまた振り払われた。真知は慌ててポケットの中を漁る。どうせウェットティッシュだろう。
もう一つの違和感の正体がそこで明らかになる。真知は、俺だけを消毒しようとする。サチコの時もお袋の時も、真知はその手を離そうとするだけで、俺のように消毒させようとはしなかった。
その事実に、泣きそうになった。なんて残酷で悲しい、分かりづらい愛情表現なんだろう。真知は、最初からずっと、俺だけを特別視していた。
真知の首で髪の隙間から、俺があげたネックレスのチェーンが光る。
「お前さ、マジでふざけんな」
その腕を強引に引っ張って引き寄せた。こんな所じゃ話にならない。抱き締めて、そのまま持ち上げる。その途端に、真知は別人みたいに暴れ出した。
「っ、離してっ!移るから!移るから!」
離れようとする真知を抱き締めたまま、足早に厨房の暖簾をくぐった。
「暴れんな!」
「移るから!移るから離してください!」
肩を押して必死に距離を取ろうとする真知を力任せに抑え込んで、暖簾の奥の階段を上る。
後ろでお袋が俺に怒鳴る声が聞こえたけど、もう関係ない。暴れる真知を落とさないように気を取られていて、返事すらできない。細い体が折れそうなくらいに力任せで、本当はこんな事したくないから、辛くなる。でも、真知の暴れる度合いは普通の状態じゃない。
片手で真知を抑えながら階段の先のドアを開けた。真知を玄関に下ろすとの一緒にしゃがみ込むと、真知が後退りする。俺の後ろでドアが閉まった。
細身のブラックジーンズを穿いた細い脚が俺の脚に触れていて、真知はもっと縮こまる。
玄関にぺたりと座った真知は床に手をついて俯いた。
「ごめんなさい、本当に申し訳ありません」
違うのに、違うと言いたいのに、声が出せない。
「毒を盛ったりなんてしていませんし、包丁も持っていませんし、食材には触れていませんが、食器には触れてしまったので、弁償させて頂きます」
どうして真知は、こんなに自分を平気で傷付けるんだろう。まるでそれが当たり前のように。
「もう二度とここには近寄りません。賠償金は郵送させて頂きます」
「真知、」
「それでもご心配なようでしたら、弁護士を通して誓約書を書かせて頂きます。もう二度と近寄りません。緒方先輩にも智子さんにも、このお店にも近寄りません」
俺にはもう分からなかった。分からなかったけど、必死で探した。真知に菌がないと信じさせる方法を、真知にこれからも生きて貰える方法を、必死で探した。
出来る事なら、俺の傍で。
真知が『菌』と呼ばれた六年間を飛び越える言葉が欲しい。でもそんなの、俺のボキャブラリーじゃ思い浮かばない。『俺を信じろ』と言うのは酷く簡単な事だ。でも、本当に信じさせるのは、そんな簡単な事ではない。
だから俺は、俯く真知の顔に見えるように、名前を呼びながら手を差し出した。
手のひらに、一滴の水が落ちてきた。真知が泣いた。テンポが遅れてその水を涙だと判断した瞬間、玄関のドアに頭と背中をぶつけた。
「いった、」
真知に思い切り押されたらしい。いきなり過ぎて状況が理解出来ない。真知に涙が落ちた方の左手の手首を掴まれた。
真知はパーカーの袖で俺の手に落ちた涙を擦り始めた。パーカーの袖に真知の涙がぽつぽつと落ちて、模様になる。真知は泣いていた。すぐに水分は消えたのに、真知は執拗にそこを擦る。異常だった。
摩擦で手が熱くなる。真知の手は、こびりついた汚れを取るような手付きだった。一気に鳥肌が立った。不気味だと思った。気持ち悪いと感じた。
でも、その感情を抱えたまま、真知を掻き抱いた。駄目だと思った。このままこんな事を続けさせたら真知が壊れてしまう。
もうとっくに、真知は壊れているのに。
俺はもう、いくら異常で不気味で気持ち悪くても、真知が好きだと思ってしまうくらいになっていた。
俺の剥き出しの首に真知の顔がぶつかったのか、冷たい涙がついた。その瞬間に引き剥がされて、真知に俺の首についた涙を擦られる。俺の首を見ているせいか、ボロボロと涙を流す真知の顔が見えた。
それが、ただ単純に愛おしかった。これが愛しているという事なのかと実感した。
真知の顔を両手で包んで、引き寄せた。視線が絡んで、俺の首を擦っていた手は止まる。
頬に流れた涙を親指で拭って、目だけを見た。真知の茶色い瞳は微かにゆらゆらと揺れている。俺だけがその視界の中にいる。
掴まえた。もう、絶対に逃がさない。
目を開けて絡め取ったまま、真知の唇に自分のそれを近付けた。
初めて好きになった女とキスする寸前なのに、頭に過ったのはサリナだった。サリナが恋しい訳じゃない。ソープ嬢のサリナとキスする時は、微かにイソジンの匂いがした事を思い出したのだ。
でも真知の唇からは微かなんてものじゃなく、もっと濃く、イソジンの匂いがした。真知はソープ嬢じゃないし、ソープ嬢にはなれない。真知は自分にあるはずのない菌をあると信じて、菌を殺そうと消毒を繰り返している。
喉がじわじわと焼けていく感覚をそのままに、真知の唇に自分のそれを重ねた。
真知の唇は想像以上に柔らかい。舐めたら、濃いイソジンの味がした。
ここまで至近距離で目を合わせたままするキスを今までにした事があるだろうか。絶対にない。目を逸らしたら逃げられそうな相手にした事なんかない。
後頭部に手を回して舌を唇に捩じ込んで、呆然とする真知の舌を舐めた。馬鹿みたいに鳥肌が立った。唇を合わせた瞬間でもないのに、これが好きな女とするキスらしい。
視界が歪んだ瞬間、真知が唇を離した。真知は俺の唇をパーカーの袖で拭う。自分の唇はそのままなのに、俺の唇だけを擦る。
泣くな、泣くな。言い聞かせるのに、何もかも衝動が思考を先回る。真知が泣けなくなる。俺が泣くのは間違っている。そう思ってるのに、俺の涙腺はついに制御が利かなくなってしまった。
真知の六年間が痛くて、視界は滲んで、真知の顔が見えなくなる。
情けないけど、目から涙が溢れたのが分かった。親父の葬式の日にこっそり一人で泣いた以来、もう八年ぶりの感情から流れた涙。
俺の唇を擦っていた真知の手が止まった。涙が流れたせいではっきりとした視界の向こうに泣きながら呆然と俺の顔を見る真知がいた。
探した。真知に俺を信じさせる言葉。菌なんてない、と言って真知が納得する訳がない。探して探して、最終的に頭に浮かんだ台詞を口にした時、それが終わる訳じゃない事を、俺は知っていた。
知っているから、始めるしかない。真知に刷り込まれた常識を覆すことがどれだけ不可能な事か分かっていた。それでも、俺はここから、始めるしかない。
真知を抱き寄せて、耳元に唇を寄せた。俺の声以外聞こえないように、聞かないように、聞かせないように。
「お前の物がこの世に一つもないなら、俺がお前の物になってやる。お前にだったら全部くれてやる」
俺が持っているもの、俺にあるもの全部、月岡真知の物にしてやる。
「もう世間なんて信じなくていい。俺の事だけ信じろ。誰になんて言われても、お前は俺だけ信じるんだ」
声は情けないくらいに揺れていた。俺の涙が真知の髪を濡らす。
「俺をお前の物にしろ、頼むから」
線香の匂いしかなかった。唇に真知の余韻が残っている以外、それしかなかった。まるで、世界に二人だけしかいないみたいだった。
「お前が死ぬとき、俺も一緒に死んでやる。お前が死にたくなったら、俺がお前を殺してやる、だから、」
馬鹿な俺がやっと見つけた、始まりの言葉。
大袈裟だと言われたって、俺にはこれしかなかったのだ。
これが、始まりの常套句というのだろうか。
「俺と結婚して、真知」




