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!!!!  作者: 七瀬
第一章 常套句
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殺される瞬間




真知と清春の事で頭を悩ませていたら、ほとんど眠れなかった。睡眠時間二時間でも、遅刻する事なく学校に来た。教室は昨日の事もあってか、俺が入った瞬間に静まり返った。溜め息をつきつつ席につき、すぐに突っ伏した。優多と誠司の声が聞こえたけど、あえてのスルー。狸寝入りを決め込んだ。


眠くない。頭は冴えている。でも、真知が来るまで時間をやり過ごさないといけない。真知には、犯人の心当たりがあるかもしれないからだ。今度は直接聞くしかない。


それでも、真知は3限が終わっても姿を現さなかった。4限の途中に真知の家に電話をかけたけど、やっぱり繋がらなかった。ここまで来ると俺はストーカーになってしまう。辛抱強く待とうと思ったけど、あんな事があって、学校に来る気持ちになれるのだろうか。


4限が終わって、昼休み。便所から戻ってくると、教室のドアの前に要が立っていた。キャメルのカーディガンをシャツの上に着た要は壁に寄り掛かっていて、俺を見た途端に慌てて姿勢を正した。礼儀正しいのにも程がある。


「俊喜さんお疲れ様です」


「うん、」


声は掠れていた。思えば、今日初めて発した声だった。朝、お袋に熱心に見つめられていた事の真相を知る。要の手にはいつも通りにパンが握られていた。要がいた後ろのドアが人でいっぱいだったから、前のドアから教室に入った。後ろから要がついてくる。


その時、視界に見慣れたものが映って足を止めた。廊下側の一番前の席で固まる女の集団の真ん中にいるトモミが首から下げたネックレス。俺が真知にあげたものとそっくりだった。


「俊喜さん?」


後ろから要の声が聞こえたけど、返事をしなかった。その代わりに、トモミに近寄って声をかける。


「なぁ、トモミ」


トモミは驚いたように顔を上げた。周りにいたトモミの仲間の女も皆、一斉に俺を見る。トモミの大きく開いたシャツの胸元にあるネックレスの為に、背を屈ませた。


チェーンまで俺が持っていたものと同じだった。このブランドは、チェーンとトップが別売りで好きな組み合わせに出来る。綺麗とは言えないデコルテから目を逸らして、ペンダントトップだけを見る。


「緒方さん、どうしたんですか?」


トモミの高い声が妙に頭に残る。トモミの胸元から顔に視線を移した。


「これ、どうした?」


「へ?」


トモミがすっとんきょうな声を上げる。


マスカラの塗りすぎで一本一本がぶっとくなった睫毛は下手したら付け睫よりも重たそうだ。ちょっと見せて、とトモミに言って、トモミのネックレスのトップに手を伸ばした。


トモミの首にチェーンがついたままで顔が近い。インカントチャームの匂いが鼻を掠めた。トモミが顔を真っ赤にしているのが視界に入る。


手元のペンダントトップに意識を集中させた。俺が持っていたものと似ている。というか、同じ商品だろう。


「これ、どうした?」


「え?前に落としちゃって、月岡さんが拾ってくれてたんですよ」


「ふーん」


真知が拾った。有り得る。でも、少しの違和感があった。真知なら自分で持ってないで教室の目立つ所に置いておくと思ったからだ。誰の物だか分からない物を自分で持っているなんて事は、真知はしないだろう。


何も知らないけど、それくらいは分かる。一緒にいて、真知を見てきたから。


それに、どうしてトモミは真知と話した事があるんだろう。


「ちょっとこれ外して見せて」


「あ、はい」


トモミがネックレスを外して俺がそれを受け取った時、スラックスのポケットに入っていたケータイのバイブが鳴った。


ネックレスを片手にケータイを取り出すと、サブディスプレイには『サリナ』の文字。清春の事で何か分かったのかもしれない。ケータイを開いて、耳に当てた。


「俊喜ー!ヤッホー!」


鼓膜を突き破るようなサリナの声に、一旦ケータイを離す。うるさい。でもしょうがなく、ケータイを再び耳に当てた。


「もしもし俊喜ー!大好きだよー!」


酔っ払っている様子が瞼に浮かぶ。うんざりしながら溜め息をつく。


「おい、酔ってんの?まだ昼だけど?」


「んー、今日オフなの!中野君達とオールで飲んでるぅ!」


イベントのオーガナイズをやってる中野先輩。あの人はザルだから、いつまでも付き合わされる。ねー俊喜大好きー、というサリナの声の奥で、中野先輩の笑い声が聞こえた。勘弁してほしい。


「ねー、俊喜もあたしに大好きって言ってー!」


「お前ちょっと飲み過ぎ」


「だって俊喜がエッチしてくれないんだもんー!酔うしかなーい!」


後ろから中野先輩の大爆笑が聞こえる。どうして一年ぶりに連絡を取った元彼にこんな事を言えるんだろう。その精神はなんなんだろう。要をちらりと見ると電話が駄々洩れなのか、苦笑いを浮かべていた。大きく溜め息をついたら、酷い、とサリナが叫ぶ。


「サリナちゃん、俊喜君はさっさと用件を話してほしいなって思っています」


「そしたらエッチしてくれるー?」


「時と場合による」


手元のネックレスのトップを見ながらそう言うと、えー絶対にして、とサリナが叫ぶ。黒い石を見ている俺を、トモミは見ていた。


何となく目を逸らせば、サリナの声が聞こえてくる。


「俊喜エッチ上手なんだもーん」


「黙れ?」


エッチエッチって、お前は発情期のネコですか。そうなんですか。と、言いたいのを堪える。中野先輩の大爆笑が止まらないからだ。ついでに要の視線が痛すぎる。


「そんな酷い事言うなら教えてあげなーい!俊喜がエッチ下手くそだって噂流しちゃうよー!」


「エッチの事はいいから早く用件を話せよ」


ペンダントトップをひっくり返すと、俺が持っていたものと全く同じ傷があった。


あれ。なんかおかしい。首を傾げると、サリナの声が聞こえてきた。


「昨日言ったでしょー?俊喜を嗅ぎ回ってる女がいるって!」


「ああ、そうだな」


どうして、同じ商品でも全くの別物なのに、俺が何かに引っ掛けてつけてしまった、買った時には何もなかったのに、同じ所に傷があるんだろう。それを撫でたら、俺のものと同じ感触がした。同じ素材だから当たり前だろうけど。


「その女ねー、『トモミ』って言うんだって!」


とっさに目の前のトモミに眼球を動かした。視線が交わって、サリナの声が遠くなる。頭に過ったのは、俺に告白してきたトモミが言っていた台詞。


『あたし、緒方さんの事、ちゃんと知ってます!』


なんだ、と気が滅入っていく。真知の事は、全部が全部、俺のせいだったのだ。要にケータイを渡すと戸惑った顔をされたけど、渋々ケータイを耳に当てた。


自分の心臓の音が、止まってしまいそうな程に静かになっていた。


「これ、俺のだ」


「えー?じゃあ月岡さん、緒方さんのをパクってたって事ですか?」


トモミの胡散臭い笑顔が突き刺さって痛い。さっきまで自分のだって言っていた癖に。朝飯が逆流してきそうだった。それをなんとか飲み込んで、トモミに笑う。


「これ、俺が真知の誕生日にあげたネックレスなんだけど」


トモミが自分の失態に気付いたのか、俺から顔を背ける。全部、俺のせい。俺がトモミを振って、話を聞かなかったせいだ。だから、真知は巻き込まれた。こんな事になるなんて、思わなかった。


「お前、真知に何した?」


俺の声は、自分でも聞いた事がないくらい、低かった。


いきなり教室が静まり返った。他の連中の視線を追った先、後ろのドアから真知が入ってきた。真知の綺麗な茶色のストレートロングの髪は、肩につかないくらいのボブにバッサリと切られている。


いつもの黒いリュックに、白い紙袋を持っていた。真知は俺に目もくれずに真っ直ぐに席に向かって歩いていく。教室には要が俺のケータイでサリナを宥める声だけが響いていた。


トモミを放って、真知の方に歩き出した。真知は机の中身を出して、白い紙袋の中に詰めている。


「真知」


真知はいつもの無表情を俺にくれる。表情からは何も読み取る事ができない。


「緒方先輩、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」


「いや、だって俺が、」


「自主退学をする事にしました。今までお世話になりました」


真知が深々と頭を下げた。なんで自主退学なんてするんだろう。理由がどこにも見つからない。それに俺はもう、真知に会えないのだろうか。頭を上げた真知に、とっさにネックレスを見せる。


「なぁ真知、これ俺があげたやつじゃん。なんでトモミにあげちゃうんだよ。これは真知の物だから真知の勝手にしてもいいんだけどさ、」


「それは、」


珍しく俺の声を遮った真知に閉口したのに、真知が口を噤んだ。黙って続きを待った。真知のゴム手袋に包まれた手は、紙袋を掴んでいる。


「それは、緒方先輩かもしれない誰かが、私のポケットに落としていった物です」


「は?」


「鈴木さんが自分の物だと仰ったのでお返ししたまでなのですが、どうやら間違っていたようですね。申し訳ありません」


こいつは一体、何を言っているんだろう。


「真知、だってこれ、」


「この世の中に、私の物など一つも存在していません」


その瞬間、なんでもなかった記憶が蘇ってきた。


『私の家ではなく、私の叔母の家です』


『私はただここに住んでいるだけで私の家ではありません、私の所有物ではありません』


喉がカラカラに渇いていた。じゃあ真知は何を持っているというんだろう。全部、誰かの物で、自分の物は一つもないなんて、そんなのは悲しすぎる。


真知が俺から目を逸らして、荷物をまとめ始めた。窓から入ってきた窓の光に真知が照らされる。消えそうだった。このまま、真知は光に飲み込まれて融けて、二度と戻ってこないような気がした。


思わず一歩近付くと、真知が弾かれたように顔を上げる。その目は、俺が今までに見たことがない目で、固まってしまった。



「私に近寄らない方がよろしいかと、」


「何言ってんの?」


「人殺しの菌が移りますよ」


『人殺しの菌』、真知が自分で言ったそれが、どうしても信じられなくて、言葉を失った。


でも、その時、真知の瞳が揺れるのを見た。冷たい、感情を持たない目の奥に、怯えた真知がいる事にやっと気付いた。


閉鎖的空間でひとりぼっち。ずっと、同じ言葉を浴びせられる。逃げ場所なんてどこにもない。菌、きん、キン。私は菌を持ってる。俺は、菌を持ってる。自分にあるのはそれだけ。


無理矢理にでも、受け入れざるを得なくなる。そうじゃないと、逃げられない。それ以外の道が無くなる。


いつかテレビで観た、洗脳だ。『別人のようになる』『記憶の改竄で不当な扱いを受けた事さえも記憶から無くなる』。


真知がサチコの話を理解していなかったのは、とぼけていたんじゃない。真知は、いじめられた記憶さえも無くしている。


真知は、本当に自分に人殺しの菌があると洗脳されている。


真知の目は、俺を見ていた。でも、俺を見ているんじゃない。


「なぁ、お前、どこ見てる?真知、俺を見てないだろ?お前は何を見てんの?」


視線を逸らされた。真知は教室のドアに向かって歩いていく。俺の前を通った時に香った悲しい匂い。線香の匂い。


親父を思い出した。お袋がしがみついた銀色の扉が頭を過る。最後に笑って家を出て行った親父の顔が、頭に乗った親父の手の感触が、大きな親父の背中の体温が、一気に押しかけてくる。真知が死ぬわけじゃないのに、怖くてしょうがない。


もしかしたらこのまま、一生会えないかもしれない。


無意識だった。真知の腕を引っ張って掻き抱くように、抱き締めた。真知から香る、いつもより濃く感じる線香の匂いが真知を責めているみたいだった。細い体に柔らかい髪を初めて知った。俺はほとんど真知に触れた事なんてなかった。何か言わなきゃいけないのに、言葉が浮かんでこない。


なんて言えばいいのか、分からない。真知の耳元に口を寄せる。


「好き、だ、」


勝手に口から溢れた。掠れた、真知にしか聞こえないような小さい声だった。その途端に泣きそうになる。


俺の中にあるのはたったこれだけだった。これだけしか残っていなかった。馬鹿な俺は、真知を引き留める言葉が思い浮かばない。俺のボキャブラリーの中にあった、最も簡単で重い言葉。声に重さなんてないのに、言葉には重さがある。


「何をやってるんだ、君達は、」


その声に我に返ったと同時に、真知が俺の肩を押して離れた。線香の匂いが遠ざかる。俺達に声をかけたのは、スーツを着たおっさんだった。謹慎の言い渡しで会った事がある。確か、この高校の教頭だ。


教頭は俺に目もくれずに真知を見下げた。真知はブレザーのポケットからウェットティッシュを出している。そこに大きくプリントされた文字に、俺は今までどうして気付かなかったんだろう。


『殺菌・消毒』。真知は俺に何度かそれを渡してきた事があったのに。


「月岡真知さん、君はもうこの学校の生徒ではないだろう。早く帰りなさい」


「ちょ、おま、」


「はい、申し訳ありませんでした」


真知が教頭に頭を下げて、俺の手にウェットティッシュを落として、教室を出ていく。ウェットティッシュを捨てて真知の腕を掴んだ。その途端、反射のように振り払われる。


その瞬間に、手に持っていたネックレスが真知の紙袋の中に滑り込んでいった。真知はそれに気付いていない。なんなら俺も、ネックレスになりたかった。


「緒方先輩、今までお世話になりました。本当にありがとうございました」


真知がウェットティッシュを袋ごと俺に押し付けて階段を下っていく。それを追いかけようと走り出そうとした。頭で考えるよりも早かった。でも、後ろから腕を掴まれる。


振り返ると、教頭がいた。


「私は知っている。君が中学二年の時に薬の売人のヤクザを殴って鑑別所に入った事を」


「は?」


「それを知っていたけど入学させた。運がいいとは思わないか?留年したとはいえ、君はここにいられる」


何を言いたいんだろう。腫れぼったい瞼の奥の瞳からは何も読み取れない。


「彼女は運が悪かったんだ、君と違って」


「おま、」


「あっさり自主退学をしてくれたよ。君も、良かったとは思わないか?」


「……何がだよ」


「だって彼女は、人殺しの娘だ」


人が生きながら殺されるのは、こういう瞬間だと思った。心が殺される瞬間を、真知は今まで何度迎えてきたんだろうか。元々の自分がかき消されたのだ。それは、途方もない事だ。


洗脳で、真知は殺されたんだ。そして、この教頭にも、この学校にいる奴等にも、殺されたんだ。


ふざけるな。なんだそれ。吐き気がする。朝飯が一気に逆流してきたような気がして、息が出来ない。


教頭の腕を振り払って胸ぐらを掴んだ。焦った顔をする教頭を壁に押し付けて、右の拳を振り上げる。


「俊喜さん!」


要の声を振り払うように、俺の拳は教頭の頬にのめり込んでいった。中指の骨に教頭の頬骨が当たる。その途端に俺は要に前から押されて教頭から引き剥がされる。教頭は頬を押さえながら崩れ落ちた。


「俊喜さんやばいですって!俊喜さん次問題起こしたら少年院じゃないですか!」


「んなことかまってられっか!どこでも入ってやるよ!」


要の手を振り払って、教頭の髪を掴んで無理矢理立たせる。教頭は戦意が喪失したのか、怯えた目で俺を見ている。


「人殺し人殺しって、人殺しはテメーだろ!」


「なんでそこまでしてあんな女を庇うんですか!?」


その声に教頭から目を離すと、トモミが立っていた。眉間を寄せて、泣きそうな顔をしている。そんな顔をする権利もない癖に、憎らしくてしょうがなかった。


「あんな女をどうしてそんなに構うんですか!?毎日教室掃除してたのだって、緒方さんの気を引く為に決まってるじゃないですか!あんな姑息な女、どうしてそんなにっ」


「お前が真知の何を知ってんだよ」


教頭の髪を手離すと、手のひらに数本抜けた教頭の髪が張り付いていた。それに構うことなく、トモミの方に足を進めていく。トモミは俺の顔を見て後退りする。


何も知らない。トモミも俺も、誰も、真知の全てを知る事なんて不可能だ。


でもあいつは、透明人間になりたいのかと聞かれて頷く。ただのかき氷を綺麗だと言うし、ただのシールを永遠の憧れだとも言う。


トモミが自分の足に引っ掛かってその場に倒れた。トモミのブレザーのポケットから、長い髪の毛の束が床に落ちる。トモミが慌てて拾おうとする前に、先にそれを拾い上げた。


茶色の綺麗なストレート。


真知の短くなった髪を思い出した。



「お前、これ、」


「一昨日の夜、マンションの前で待ち伏せして切ってやったの!今までの盗撮だって、あたしが全部やったの!だって、あたし、緒方さんが好きだった!入学する前からずっと知ってた!ずっと好きだった!」


その場にへたれこんだまま、俺を見上げる目からは黒い涙がボロボロと落ちていた。昨日のサチコの涙とは比べ物にならないくらい、汚い涙。


「なのに緒方さんはあの女が好きで、意味分かんない!あんなのただ顔が綺麗なだけじゃん!」


「俺が真知と一緒にいるからって、真知になんかするのはおかしいだろ!?それに俺はお前の告白断っただろうが!」


「そんなので諦められない!諦められる訳ないじゃん!」


俺はしゃがみ込んで、トモミの胸ぐらを掴んだ。トモミの顔には灰色の涙の後が無数にある。


「女だからって調子こいてんじゃねーぞ」


びくりと肩を揺らしたトモミに、俺はあの日、どうすればよかったんだろう。


「お前が真知の何を知ってんだ?」


さっきの言葉を繰り返したら、喉が狭まって苦しくなった。言葉が、息が詰まる。鼻の奥が痛くなって、目が熱くなった。


「俺だって何にも知らねーよ!真知が何を考えてんのかなんて、何を見てるのかなんて、さっぱりわかんねーよ!」


怒鳴った声が教室に響いた。段々目の前が歪んでくる。泣くな。親父の葬式みたいに、お袋の代わりに堪えなきゃいけない。だって真知は、泣いていなかった。


俺は真知の苦しみを一つも分かっていない。俺が泣くのは間違っている。でも、今までの真知の人生を考えただけで、真知を思い出しただけで、俺のせいでこんな事になったと思うだけで、勝手に視界が歪む。


「あいつがどんな気持ちで透明人間になりたいなんて言ったかお前に分かんのかよ!俺にはわかんねーよ!」


トモミの表情が全く見えなくなった。


「お前が真知を殺したんだよ。お前が人殺しだろ!」


その途端、後ろから引っ張りあげられた。トモミの泣き声が一気に響く。振り返ると、数人の教師がいた。その中には山崎もいた。俺はその手を振り払って、俺を掴んだ教師の服を握り締めた。


「お前だって真知を殺したんだよ!人殺し!」


「緒方離せ!」


数人の教師に囲まれて、もみくちゃになりながら手当たり次第に殴った。要と優多と誠司が俺を止めに入ったけど、それさえも振り払う。感情の制御が出来なかった。


教師に向かって怒鳴り散らす。声が枯れそうになるまで怒鳴ったのは人生で初めてだった。こんな怒りを感じたのも、人生で初めてだった。


「お前らが真知を殺したんだろ!お前ら全員人殺しだろ!何が教師だよ!お前ら何の為に教師やってんだよ!生徒一人守れないで何が教師だよ!」


「俊喜さんっ!」


「俺だって何にも出来なかったよ!こんなの全部俺のせいだよ!でも真知に寄ってたかって捨てて、言葉で真知を殺したのはお前らだろ!」


廊下は野次馬と教師でいっぱいだった。B組の連中は教室の端で俺を見ている。それにさえも苛立った。


それに向かって叫んだ。


「お前ら全員人殺しだろ!」


俺は情けなかった。情けなくて、死にたくなった。死にたくなったのは人生で初めてだった。


頭には最後に見た真知の背中が焼き付いていた。あの小さい背中に、どれだけの酷い言葉が投げられたのか、数えたくもなかった。


真知が俺を何とも思っていないのは分かっている。でも、守りたかった。本当は、真知を傷付けるものから、自分勝手でもいいから守りたかった。今度はちゃんと、全部じゃないけど、知ったから。


真知に腕を振り払われたって、真知の手を掴んで離さなければ良かった。真知に暴れられたって、真知を抱き締めて離さなければ良かった。


無理矢理にでも、真知を引き留めれば良かった。真知を引き留められる言葉を、見付けられたら良かった。


何度後悔したって遅かった。いつだって俺は馬鹿で、何もできない。終わってからじゃないと、気付けない。


その後は早かった。男の教師十人がかりで取り押さえられ、生徒指導室にぶちこまれた。出入口のドアに三人の教師がいて完全に封鎖されている。校長と並んで座る教頭は、頬を氷で冷やしていた。


もうどうなったって良かった。学校を辞めるのも、少年院に入るのも何も怖くなかった。真知を引き留められなかった後悔は俺の中で増幅を続けていたけど、自分がやった事に対しての後悔は一切なかった。


真知の為じゃなく、自分の為にやった事。俺はやっぱり自分勝手なのかもしれない。


乱れた制服をそのままに、ソファーの背凭れに寄りかかって窓の外を見た。意外と清々しい気分だ。人生がきっと吹っ飛んだ。その感触よりも、真知へ懺悔したい欲求だけがある。


ドアが開いて、山崎に続いて生徒指導室に入ってきたのは、お袋だった。いつも真っ直ぐに下ろしている金髪の前髪が乱れていて、急いできたという事を無言で俺に伝える。お袋を急がせるのは何度目なんだろう。


お袋は朝見た通り、ダウンベストにチェックシャツ、細身のジーンズ姿。足元はダサい学校のスリッパを履いている。店を閉めてから出てきたんだろうか。


「俊喜の母です。いつも息子がお世話になっております」


頭を下げたお袋を山崎が俺の隣に座らせた。お袋は俺を一切見なかった。怒っているのか、呆れているのか。勘当されるのかもしれないと思いつつ、居心地が悪くてお袋から目を逸らした。


「今回お呼びいたしましたのは、単刀直入に言わせていただきますと、息子さんが学校で暴力行為をしたからです」


生徒指導部長が淡々と話し始める。俺が殴ったのは教頭を含めた八人の教師。皆、軽傷だったが暴力は暴力。俺は今までに二回謹慎になっているから、今回の事で退学。


生徒指導部長のそんな言葉をお袋は黙って聞いていた。真知の名前は一切出てこなかった。卑怯者の集まりらしい。


溜め息をついた生徒指導部長は、眉間を寄せながら口を開いた。


「教師に暴力行為をするなんて前代未聞です。ご自宅ではどのような教育をされているのでしょうか」


「は?これは俺の勝手でお袋は関係ねーだろ!」


「あんたは黙ってな」


お袋の強い口調で遮られて口を閉じる。お袋は俺を何の感情もこもっていない恐ろしさしか感じられない目で見てから、教師ににっこりと笑った。


「俊喜が先生方に暴力を振るった原因は、教えていただけないんですか?」


「……と、言いますと?」


教頭が太い眉を上げる。その白々しい顔を殴りたくなった。でも今手を出したら、お袋が悪く言われるだろう。赤くなりながらも力の入れすぎで白っぽくなった震える拳を、スラックスのポケットに隠した。


「息子は、見た目通りの馬鹿息子です」


お袋を睨んだけど、視線は交わらない。教師達だけを見ている。


「ですが、人様を理由もなく殴るような馬鹿ではありません。そんな子に育てた覚えはありませんし、息子がそんな事をするような子じゃないって事は、あたしが一番よく知ってます」


「私達教師に非があると言うんですか?」


「はい」


この数人の教師達と丸腰で戦おうとしているお袋に思わず苦笑いした。笑うシーンじゃないけど。


「それは酷いですね、私達は警察に通報する事なく穏便に済ませようとしているんです。息子さん、次に警察に捕まったら少年院に入るとかなんとか小耳に挟みましてね。私達は緒方君の将来を考えて、警察には言わないつもりでいたのですが……」


脅しだ。随分と姑息な事してくるらしい。俺はもうどうでもいい。少年院に入ったらもっと丸くなって好青年になれる気がする。それも悪くない。


でも、お袋はなんと言うか分からない。縁を切られるかもしれない。


「どうぞ勝手になさってください」


お袋は表情を変えずに言った。でも、と続ける。


「先生方が警察に通報するというのならば、名誉毀損で先生方を訴えます。女の子の生徒さんに人殺しだと言ったそうですね。当人の女の子が訴えないと言っても、あたしは訴えますよ」


「そんな、」


生徒指導部長が焦った顔をする。というかこの話、なんで知ってるんだ?俺の心を読んだようにお袋が俺を見た。


「昇降口に要が立ってて、聞いた」


そうですか、と言うしかなかった。要も頭が回る。お袋がいきなり立ち上がって、うお、と叫んでしまいそうになった。


「あたしはそういうのがだいっきらいなんだよ!こんな学校こっちから辞めてやる!俊喜、行くよ!」


「えぇ!?」


お袋に腕を掴まれて半ば無理矢理立たせられる。呆然とする教師の間を縫って、お袋と二人で生徒指導室を出た。


廊下を途中まで歩くと、前から要が走ってきた。それにお袋は足を止める。


「どうでしたか?」


「もうこっちから辞めてやった!本当にムカつく!一発殴ってもいい?俊喜を」


「やめて下さい」


要が苦笑いしてお袋に言った。その後に俺を見てケータイとダウンを差し出して来て、それを受け取った。


「トモミって女も教師に連れていかれました。多分退学だと思います」


「そうか、」


トモミは真知の髪の毛を切った。男相手ならまだしも、真知は女だ。まず髪の毛は体の一部。それを強引に切るなんて、暴力行為と同じだ。


お袋は溜め息をつき、俺を睨んだ。


「いきなり呼び出されるもんだから、店を矢田さんに任せてきたの。あんたもお礼言うんだよ」


「分かってるよ」


「本当にあんたって生意気!誰に似たんだか!」


「確実にテメーだろ」


馬鹿みたいなお袋に毒気が抜かれた気がした。ポケットの中の拳に籠っていた力は、いつの間にかなくなっている。


お袋が俺を掴んでいた手も離れていた。


「とりあえず店に帰らないと!要、また店においで」


「はい、ありがとうございます」


お袋に続いて歩き出すと、後ろから要のお疲れ様です、という声が聞こえた。相変わらず礼儀だけはきっちりしている。


下駄箱で靴を履き替えて、その辺のゴミ箱に上履きを捨てた。教室に俺の荷物は教科書以外は何もない。真知に借りたままのペンは胸ポケットの中に入っている。もう二度とここには来ない。


お袋がニューバランスのスニーカーに足を入れる横で、ブーツに足を入れた。お袋と昇降口を出ると、ダウンを着ていない制服姿には冷たすぎる空気が肌に刺さる。そこには見慣れた背中があった。


ブレザーの肩に雪が降っていてベタベタの髪。過激なSMプレイの挿し絵が入った文庫本。記憶から抹消したいけど強烈すぎて消せない、忌々しくも学校のトイレでアレをしていた男。俺の前の席の岩田が振り返って俺を見た。


「僕は、ちゃんと知っていました」


「は?」


「僕は、入学したての頃に学校で迷子になっていて彼女に助けられたんです。僕なんか誰も助けてくれなかったのに、彼女は助けてくれました。だから、知っていました。これからも忘れません」


岩田は破裂しそうに熟れたニキビまみれの頬をしている。今思えば、岩田の顔を前からちゃんと見たのは初めてだった。


岩田は笑った。綺麗な歯がニキビ肌と不釣り合いだったけど、俺が今までの人生の中で見てきた色んな笑顔の中で、一番綺麗な笑顔だった。


「ここからチャリで5分の、智子食堂」


「え?」


「俺ん家。一回目は俺が奢ってやるから、来いよ」


笑うと、岩田が頷いた。岩田に背を向けて歩き始める。良かった。俺以外にも真知を知っている人間がいて良かった。今更、そんな事を思った。


お袋の足が目に入る。今まで何回、お袋はこの足で学校や警察に来たんだろう。未成年だと何かと親が責任を取らされる。迷惑をかけるのは、もうこれで最後にしたい。


「お袋、ごめんな」


ぽつりと溢すと、お袋が黙り込んだ。許したくもないのかもしれない。でも、なんでもいいから返事くらいしてほしい。お袋の顔を見たら、驚いた顔をしていた。


「明日大雨になったりしない?」


「テメーそれどういう意味だ」


俺がこんな事を言うのは珍しいからだろう。俺がこんな事を言うのは初めてだ。だからといって急な大雨なんて冬には有り得ないだろう。


「ま、今日のあんたは馬鹿じゃないね。随分とかっこいい事したんじゃないの?」


「キモいから黙れよ」


にやにやと人を小馬鹿にするように笑うお袋から目を逸らして先に歩き出すと、背中を思いっきり叩かれた。いてっ、と口からこぼれる。服の上からなのに患部がひりひりしている腹いせに、手に持っていたダウンでお袋に軽く抵抗した。


「さすが!あたしと政喜の息子だね!」


「……あっそ、」


家に帰ると、矢田さんがせかせかとテーブルの上を片付けている所だった。昼過ぎくらいで常連客ばかりがいたけど、初めて来たような客は矢田さんのガラが悪すぎる顔に怯えていた。


学校を辞めてきた、と言ったら矢田さんに殴られそうになったけど、それはそれで仕方がない事だ。常連客は皆笑っていた。親父の先輩も後輩も同級生も、皆。


一緒に昼飯を食ってから部屋に戻った。


ブレザーの胸ポケットから、真知から借りたままのペンを取り出した。サランラップのような透明のフィルムで綺麗に包まれているそれの意味を、俺はやっと知った。


それがどれだけの痛みを伴う事だったのかは、考えなくたって想像を絶するのは目に見えているから、考えるのをやめた。


制服はハンガーにかけていつもの場所に置いておく。わざわざしまうのは面倒だったし、わざとらしいからやめた。


それからバイトに行って、帰り道で真知に電話したけど、やっぱり繋がらなかった。俺と真知は、学校で繋がれなければ二度と会えない二人なのだろうか。どうすればいいのかは、まだ見えない。


その足で時夫の家に行って、学校を辞めてきた、と話した。時夫に理由を追求されたけど何も言わなかった。時夫は面倒臭いから黙っておくのが一番だ。


二回目の高校一年の冬、1月。三学期が始まってから三日目、俺は何もできないまま、高校からずっこけた。




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