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!!!!  作者: 七瀬
第一章 常套句
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二つの行方不明




親父が撃たれた。


そう矢崎組の現舎弟頭のタマさんから連絡があったのは、二週間以上前の事だ。親父というのは組長の事で、タマさんの父親という意味ではない。


組長が撃たれるというのは、他の組からの宣戦布告だった。


そんな厄介で末恐ろしい暴力団絡みの事件ばかりが起きるこの街で、珍しい事件が起こったのは二週間程前の事だ。ソープが建ち並ぶ、矢崎組の事務所の近くの路地裏で、金持ちの夫婦が遺体で発見されたのだ。


あの日は雪が降っていた、ホワイトクリスマスイブ。路地裏はメッタ刺しにされた夫婦から流れた血で真っ赤に染まっていたらしいが、その上に雪が積もったのだ。ピンクに染まった雪が桜の絨毯みたいで、それに埋もれた血染めのサバイバルナイフが綺麗だったなんて話を聞いた。


状況を考えてどう考えても殺人事件。金持ちを殺したわりには、金品は一切盗まれていなかったようだ。犯人を目撃した人は誰もいない。犯人は未だ逃走中。


滅多にマスコミなんて入らない、人間の欲が剥き出しのこの街にマスコミが集結した。テレビの影響力というのは凄い。暴力団同士の争いは何かがあれば報道される程度で一切マスコミが関わったりしないのに、殺しとなると話は別らしい。ニュースでコメンテーターが憶測の論争を繰り返す。


しょっちゅうチンピラが殺されてはまた新参者が現れる、一向に柄の悪さが消えないこの街で、カタギの人間が殺されるのは滅多にない事だった。


まだニュースではその話題が取り上げられている。近所の人の評判じゃ、その夫婦は、絵に描いたような仲のいい夫婦だったらしい。


話によるとその夫婦が住んでいたのは真知が住んでいるマンションだった。世間は狭い。俺には一切関係ないと思っていたけど、この街に住んでいる限り、そうでもないらしい。


この冬のニュースは、矢崎組の組長が撃たれた事よりも、その事件で持ちきりだった。


異様な空気が街を包む、始業式翌日の1月が今日。要からの電話があって、俺は慌てて泊まっていた時夫の家を出た。風呂から慌てて出たからか、時夫の親父さんに、俊喜!パンツ穿いたか!?と心配されたけど、忘れる筈もない。時夫の親父さんは俺の親父の幼なじみだけど、あのおっとりな親父と性格だけお袋に似すぎた俺を重ねられる才能でもあるんだろうか。


なんて思った、日付を跨いだ真夜中の話。今はもう、朝だ。


電話から聞こえた要の声が、今でも頭に残っている。


『清春が消えました』


コンビニの前でスタバのシアトルラテをストローから啜る俺の横で、要はひっきりなしに電話をかけている。制服姿で真夜中の街を駆けずり回って先輩やら知り合いに清春の行方を探っていた。朝の光が眩しくて、目を開けていられない。


時夫も久人も悟も、別ルートで清春を捜索している。あいつらも俺と同じように目を開けていられない感じになっているのだろうか。疲れてどうでもいい事を考えてしまう。


俺が清春と会ったのは、清春が女を連れ込んでいた時が最後だった。あれから何度か連絡は取っていたけど、会ってはいなかった。まさか消えるなんて思ってもみなかった。


要の話によると、清春からメールの返事が来なくなったのは大晦日を過ぎた辺りからだったらしい。元々清春はメールの返事をしない事で有名らしい。俺の連絡には必ず返事が来るから初耳だった。正直に驚いた。そんな感じで、要達も連絡が取れない事を全く気にしていなかった。


要が清春のケータイに電話をかけたのは昨日の昼間。学校で俺と昼飯を食っている時だ。電源は入っていなかった。おかしいと思った要は、友達に清春と連絡が取れないと言ったら、周りの奴等も清春と連絡が取れないと言う。


要達は清春の家に行った。それが昨日の夜中。そしたら清春の家はとっくに引き払われていて、次の住人を募集していた。そして、俺に連絡が来た。


俺の吐いた真っ白い息が太陽の光に当たる。ダウンジャケットのポケットに片手を突っ込んで、落ち着かないのか立ったままで電話をしている要を見上げた。


「そうか、分かった。何か分かったら俺に連絡してくれ」


要は俺を見て首を横に振る。また不発だ。目の前のビルからくたびれたサラリーマンのおっさんが出てきた。パンパンに膨れるバッグの中には、ビルの中に入っている裏ビデオ屋の商品でも入っているのだろうか。


「なんでだろう、もう俺分かんないですよ。清春の考えてる事なんて分かった事ないですけど、こんなの分かるはずない」


俺の隣にしゃがみこんだ要が大きな溜め息を吐いた。要の綺麗に染まった金髪の髪がいつになく乱れていて、それから目を逸らす。


もうそろそろ学校が始まる時間だ。でも、学校に行く気になんてなれない。


「なぁ、旅行とか、そういうのじゃねーのかな」


「清春に放浪癖があると思います?」


「思わない。ごめん、俺の願望だった」


足元にシアトルラテを置いて、ダウンのポケットに手を入れた。ポケットの裏地のフリース素材がやけに暖かく感じる。おかしさに寒気がする。地元ネットワークが全く役に立たない。清春の情報が一切出てこないのだ。


その時、要のケータイが鳴った。要は間髪入れずにケータイを耳に当てる。


「津田?……え?」


要がやけに真剣な顔をする。俺は途方もないこの一件に疲れ果てていて、宥めるように笑ってやる事しかできない。要は黙り込んで電話の向こうに耳を澄ませている。



「分かった、サンキュな、」


要がケータイを閉じる。その途端に出た大きな溜め息が白く空気に浮かび上がった。


「どうだった?」


「清春、高校自主退学してたらしいです」


「は?」


無意識に眉間が寄るのが分かった。


「清春経由で知り合った津田って奴がいるんですけど、そいつ清春と同じ高校で。昨日学校に行ったら自主退学したって聞かされたらしいです」


「マジで?」


「清春と学校ではよくつるんでたらしいんですけど、理由は全然分からないって」


要が膝に顔を埋めた。マフラーの隙間からはみ出た金髪が心許無く揺れる。要の肩を軽く叩いて、何も言えない自分を呪った。要がここまで落ち込む理由を俺は知っているのに。


要は清春の幼なじみで、生まれた時からほぼ一緒だった。心配するのもおかしくない。俺だって、何だかんだ、時夫や久人や悟がいなくなったら絶対に心配する。今だってこんなに不安なんだから、よく分かる。


「どうしよう、清春、どこ行っちまったんだろう」


要の呟きが空気に溶けた。清春には家族はいない。身軽すぎる天涯孤独で、親戚との付き合いも一切なかったそうだ。


制服のスラックスのポケットに入れていたケータイのバイブが鳴った。サブディスプレイには優多の文字が表示されていた。清春には一切、関係がなさそうだと素直に思った。多分、学校来ないのかとかそんな感じだろう。とりあえず、電話に出る。


「なに?」


俺の声は思った以上に疲れた声だった。電話口から騒がしい声が聞こえた。教室だろうか。


「緒方さん、学校、大変な事になってますよ」


優多の切羽詰まった声が夜中の要の声に被る。意外とお人好しな俺の次の台詞は、考えるよりも先に決まっていた。


「どうした?」


「緒方さん、月岡真知って人と仲良くしてました?」


優多の言葉に首を傾げる。昨日も優多は真知に気付いていなかったはずだ。どうして、真知の名前が出てくるんだろう。仲良くしていたというか、あれは、なんなんだろう。掃除仲間?いや、その関係性だとしたら真知の方が俺よりも先輩で、と返事に困って。


「してたけど、なんで?」


肯定すると、電話の向こうで、優多の唾を飲み込む音が聞こえた。ガチャガチャと音が鳴り、まだその向こうは騒がしいままだ。


「もしもし、俺、誠司です」


「はいはい」


「緒方さん、月岡真知との写真がばらまかれてますよ」


「は?」


意味が分からない。俺と真知の写真がばらまかれていたとしても、何の問題もないはずだ。大変な事になる理由がない。だって何もないんだから。自分で悲しくなるくらい、俺達の間には、何もない。


「緒方さん、電話で事情説明するのもあれなんで、学校来て下さい。今、その騒ぎで大変な事になってるんですよ」


どうして騒ぎになるんだろう。俺はモテていただろうか。俺が真知といるから嫉妬されたんだろうか。なんて話はない。自分で考えて嫌になった。それに、本当に真知と俺には何もない。騒がれる理由が全く見えてこない。だから、優先順位は。


「悪いんだけど、こっちも忙しいんだよな」


要に視線を向けると、顔を上げてこっちを見ていた。電話口の誠司が焦れたように小さく唸るような声を吐き出す。


「緒方さん、月岡さんの事、何も知らないんですか?」


「……何が?」


「お願いですから、学校来て下さい。このままだと、月岡さん、」


誠司が口を噤んだ。今更になって、嫌な予感がした。電話を切って立ち上がると、要が驚いたように俺を見上げる。


「要、俺学校行く」


「え?」


「なんか知らねーけど、学校騒ぎになってるらしい。俺関連で、」


そう言うと、要が立ち上がった。要はグレーのピーコートのポケットに手を突っ込む。


「俊喜さん関連の事なら行きます」


本当に要は俺が好きなんだけどその辺はどういう事なんだろう。好かれるのはいい気しかしないけど、本当にこの子はいい子ですね。心の中でそう思いつつも、そのまま、どちらともなく走り出した。


月岡さんの事、何も知らないんですか。


誠司の声が頭をぐるぐる回っている。何も知らない。誕生日と家と、後は何を知ってるだろう。触ると振り払われるとか、な?と首を傾げると渋々納得してくれるとか、顔を近づけると顔を背けるとか、全部、些細な事でしかない。むしろ俺、嫌われている感じが満載な事しか知らない。


夜はあんなに明るかったソープが立ち並ぶの通りは静まり返っていた。冷たい風が頬を切っていく。一晩中歩き回ったブーツを履いた足が悲鳴をあげていた。それも構わず走る。


ここから学校までは、走って15分。


学校に着いて階段をかけ上っていると、八木と会った。八木は俺に目を見開く。途中で八木や東野や坂口からも電話があったけど、学校に行くのが先だと判断して出なかったのだ。


「なぁ、大丈夫?」


「知らね。何が起きてんの?」


階段を上っていて、いつもと違う空気に包まれている事を肌で感じて実感する。もう授業の時間なのに、学校は騒がしかった。四階まで上がると、B組の前の廊下は人がごった返していた。俺の姿を確認するなり、人が勝手に道を開ける。


人の間を走って教室に飛び込む。教卓の前に群がるクラスの連中の真ん中で、優多と誠司が怒鳴り声を上げている。なんなんだ、これ。疑問は大きくなっていくばかりだ。


「おい、」


要が怒鳴ろうとするのを止めた。要は俺の後ろで黙り込む。


「あ、」


近くにいた女が小さく声を上げると、その声に気付いた奴等が一斉にこっちを見た。勝手に人が捌けていく。優多と誠司が俺に気付いて、目を見開いた。


「緒方さん、」


辺りを見渡しながら二人に近付いた。教卓の上には大量の写真がばらまかれている。それを適当に掴んで、一枚一枚確認していく。全部、真知と俺の写真だった。教室、廊下、真知の家に送る途中の道。アングルから考えて、隠し撮りだろう。


何の変哲もない、ただの健全な高校生のツーショット。キスの写真も、ましてやセックスの写真もない。だって、俺達の間にはそんな事は一切なかったのだから。距離はずっと同じまま、もしかしたら一生交わらないんじゃないかというくらいの平行線上に縛り付けられているみたいに。


顔を上げて、二人を見る。


「真知は?」


「先生に連れていかれました」


「なんで?」


こんな写真だけで、教師に呼び出される訳がない。絶対におかしい。教室は静まり返っていた。この写真だけでこの空気が出来上がる訳がない。


「これ、」


優多の声と一緒に差し出されたのは、束になった新聞の切り抜きだった。新聞の一面を飾るような大きい見出しから、順番になぞっていく。


書いてあったのは、俺が知らない真知の事。俺が踏み込む勇気も持てずに足を竦ませた、俺を拒むような真知を、遠くから、表面だけを見たもの。


見出しには、『総裁選直前の大惨事』。


今日未明、議員の長原氏と和田部氏の遺体がそれぞれの自宅で発見された事が明らかになった。和田部氏は胸に刃物で刺された状態で発見され、長原氏は首を吊った状態で発見された。両人には争った形跡があり、和田部氏の胸部に刺さった刃物からは長原氏の指紋が発見されており、長原氏の衣服には和田部氏の血液が付着していた。和田部氏の死因は胸部に刺さった刃物による失血死、長原氏は頸部圧迫による窒息死であると見られている。発見当時、既に二人は死亡しており、警視庁は二人が口論をしている所を見たという目撃者の証言から総裁選出馬予定だった二人に何らかのトラブルがあり、その末に長原氏が和田部氏を殺害し、その後自殺したものとして捜査を進めている。


堅苦しい言葉で書かれている新聞の内容に、一つの引っかかりがある。でも咀嚼できないまま、次の切り抜きを見る。それも同じような内容が書かれている。ほとんどニュースなんて見ない俺だって知っている事件だった。六年ほど前の梅雨、テレビはこの事件で持ちきりで、一日中このニュースが流れていたのだ。


でも、警察がどれだけの捜査をした所で、この事件の真相は明らかにされなかった。メディアには知らされていないだけで本当は分かっていたのかもしれないけど、被害者も加害者も既に死んでいるのだから、容易に明らかにできるものじゃないだろう。この議員二人の間にあったトラブルは、もう二度と分からない。


俺には全く関係のない事だと思っていた。でも、なんでこれがここにあるんだろう、と不思議になった。視線を泳がせると、黒板に文字が書いてある。


『有名な人殺しの娘が留年生と密会』


サチコが言っていた『長原さん』がやっと繋がる。長原という議員は真知の父親らしい。でもそんなのは関係ないだろう。密会なんて言われるような事はしていないし、娘だからとこんな風にされる意味も分からない。


真知の席に目を向けた。真知の机の端で、俺があげた一等賞のシールが光っている。俺の横に立った要が、恐る恐るといった風に写真を見た。


「こんな可愛い女、このクラスにいましたか?」


「いたよ。俺の隣の席」


要が目を見開いている。真知の存在感の無さは常軌を逸していた事を、表情が証明していた。


黒板に書かれた字を黒板消しでただの粉に戻した。人殺しの娘だとかいって、つけられて隠し撮りされて言い訳がない。こんな事した奴は誰だ。


腸が煮え繰り返るようだったけど、やけに頭の中だけは冴えていた。寝ていないせいなのか、怒りすぎているせいなのかは分からない。


俺は分かっていた。真知に何か秘密がある事くらい、分かっていた。聞こうとして躊躇って、いつか真知が話してくれるんじゃないかという淡い期待さえ抱いていた。1センチすら縮まらない距離を恨みながら。


「お前らが真知に気が付かなかっただけだ」


呟いた声が教室に響いた。


『真知は透明人間になりたいのか?』


自分が真知に言った台詞が蘇って、泣き出してしまいたい衝動にかられた。あいつになんて事を聞いてしまったんだろう。それが一番いいと言った真知は、どんな気分だったんだろう


真知はこの事を隠す為に、透明人間でいたかったのだろうか。


俺は、生きている上で最も難しい事は、人間と一切触れ合わない事と、人と一切関わらない事だと思って生きてきた。でも真知は、それをやってのけようとしていた。俺は真知のそれを、無謀だと言えない。誰にでも隠したい事があって、暴かれたくない事がある。


無責任で、酷くデリカシーにかけた自分が嫌だった。知らなかったからといって、投げかけていい台詞じゃなかった。自分で自分に苛立って、消えていなくなってしまいたいと強く思った。どうして俺は何の考えもなしに、あんな事を聞いてしまったんだろう。


「緒方さん、月岡さんの事いつ気付いたんですか?」


「5月」


誠司へ返事をした声は酷く低かった。黒板消しを置いて、写真に目をやった。俺は幸せそうに笑って真知を見ていた。


俺は、馬鹿だ。自分ばっかり楽しんで、真知に近付いて、もし、俺がいなければ、真知は。


「今日は一日自習にする」


担任の山崎は疲れ切っていた。たった今、山崎は教室に入ってきたらしい。どんよりとした表情を浮かべている。それに、無性に苛々した。


「真知は?」


「事情を聞いて、……帰らせた。緒方、お前もだ。来い」


それに思わず笑ってしまった。山崎に写真をひらひらと見せる。


「なんで事情なんか話さなきゃいけねーんだよ。ここで聞けよ」


真知は何もしていない。むしろ真知は、良い事ばかりしてきた。真知と過ごした時間に、図々しく踏み込まれたくない。


山崎は小さく息をついた。


「お前はこの事を知ってたのか?」


「知らなかった、今知った。でも、この事に何の問題があるのか分からないんだけど。真知自身とは一切関係ないだろ」


これは真知の親の話で、真知には関係ない。真知の父親は議員で、人を殺した。それは変わらなくても、真知本人の何かに関わりのある事じゃない。


ふとその瞬間、真知がスイカバーやかき氷を知らなかった理由を知る。真知が元お嬢様だから知らなかったのだと。


「緒方は月岡と交際していたのか?」


「してない」


即答すると、山崎が大きな溜め息を吐く。ライトグレーのダブルのスーツのポケットから俺と真知の写真らしきものがはみ出ていた。


「俺はお前の女癖が悪い事くらい知ってるんだぞ、正直に言え」


「だから、正直に言ってるだろ。真知と俺は付き合ってない」


俺は山崎から目を逸らさなかった。山崎の濁った両目は、真知の目とは真逆だった。俺の女癖が悪いなんて、誰がそんな話をこいつに聞かせたんだろう。ここ一年くらい彼女がいない俺のどこにその要素があるのか分からない。


「じゃあ、肉体関係はあったのか?」


うんざりした。女のそんな事を探ろうとするなんて頭がおかしいとしか思えない。真知の人権をなんだと思っているんだろう。


「ない。手を繋いだ事もない。この写真で分かるだろ?」


もし仮にあったとしたらなんだというんだろう。しかもあったとしても絶対に言うつもりもない。山崎の回りくどい言い方が俺の怒りを増幅させる。あまりにも俺の価値観と今の状況がかけ離れていて、何もかもが分からない。


「山崎だって、自分のクラスの生徒なのに真知に気付いてなかったじゃねーか」


「何を言ってるんだ、俺は、」


「真知が休んでた日に、真知に気付かないで出席簿に出席してるって書いたよな。今まで気付かなかった癖に、こんな事になってから気付いた癖に、一端の教師ぶってんじゃねーよクズ」


山崎が目を見開いたのを見て笑ったまま、再び口を開いた。


「まあそうだよな。教室の掃除当番がずっとサボってるの気付かないくらいだもんな。お前さ、教師辞めた方がいいんじゃねーの?」


「おま、教師を」


「『教師をなんだと思ってるんだ』ってか?なんとも思ってねーよ。お前らみたいにガキの中にずっといて、ガキと一緒に噂話するような連中の事なんて考えるだけ無駄だ」


優多が教卓の上に散らばる写真をかき集めて俺に手渡してくれる。受け取って、ダウンのポケットの中に押し込んだ。山崎に視線を戻して、軽蔑と一緒に笑う。


「人の不幸は蜜の味、ってか?」


暴力以上の最大の攻撃を口にした。その瞬間、山崎にダウンの胸ぐらを掴まれた。



怒り狂ったような目をする山崎が随分と滑稽だ。そのちんけな頭で考えているであろう事を言ってやったまでなのに。間に割って入ろうとした要が、山崎の胸ぐらを掴む。


「俊喜さんになにしてんだ」


「要、いい」


「でも!」


「いいから離れろ!」


怒鳴ると、要が後ろに下がる。クラスはもっと静まり返った。それでも俺は山崎を直視した。逸らす事なんか許さない。


「俺と真知が放課後の誰もいない教室で何やってたか分かんない?でもそんな言い方したらエッチな方で考えるんだろうな、山崎は」


「おま、」


「掃除だよ、二人で教室掃除してた」


山崎が閉口した刹那、絶望を感じた。振り返る一瞬一瞬の中で、俺はまだ、どうすればよかったのか、答えを見つけられない。


「教室の掃除当番がサボるから、真知と二人で教室掃除してたんだ。俺はバイトの時以外しかやってないけど、真知は毎日やってた。文化祭の時の教室も真知がほとんどやった」


山崎の手から徐々に力が抜けていく。反比例するようにダウンの右ポケットの中で写真を握り締めていた。拳が震える。ここまで人を殴ってやりたいと真剣に思ったのは初めてだった。


「真知は誰にも気付かれないように毎日掃除してた。まさに透明人間。でも、お前が透明人間にしたんだよ?分かってる?お前が掃除当番が教室掃除サボってるって気付かないから、真知は透明人間になったんだよ」


俺が、言ってしまえばよかったのか。でも、真知に言わないでほしいと言われた事だって、ちゃんと覚えている。山崎の手が俺から完全に離れて、要に視線を移す。


「要、清春探しに行くぞ」


「え?」


「こんなクズの顔見てるの、胸糞悪い。だったら、人に面倒ばっかりかける清春探す方がマシ」


要に笑うと頷いてくれた。


「優多、誠司、連絡ありがとうな」


「いや、」


「俺達は何も、」


二人の返事を聞いて、教室を出た。さっきの人混みが嘘のようになくなっていた。ぐらぐら、腹の中で怒りが煮込まれている。それを堪えて、拳を握り締めた。


学校を出て、夜の繰り返し。清春の行方を探った。結局、何も掴めなかった。俺の頭の中では、真知と清春の事が渦巻いていた。でも、口には出さなかった。


俺は初めて真知の家の番号に電話をかけたけど、電話線から切られているのか、電話は繋がらなかった。もしかしたら、元々電話線を繋いでいなかったのかもしれない。


真知も清春も、行方不明。真知のマンションに行くにも、俺は真知がどこの部屋に住んでいるのかも知らない。


心の中で蠢いている嫌な色を掻き消すように、ずっとケータイに残っていた番号に電話をかけた。約一年ぶりに聞いた声は前と何も変わっていなかった。夕方に会う事を約束して、電話を切った。


清春を見付ける為の、俺の最後の切り札。


夕方5時過ぎ、家から徒歩5分のファミレスに一人で訪れた。話し掛けてきた店員に連れがいると言って、辺りを見渡す。


すると、窓際の席で煙草を吸いながらひっきりなしにケータイを弄っている女が視界に入った。女に近寄って、口を開く。


「サリナ」


サリナが顔を上げて、綺麗にマスカラが塗られた睫毛に囲まれた目を真ん丸くさせた。サリナの向かいに腰を降ろした時、目の前には既に飲み物が置いてある事に気付いた。ミルクの入れすぎで白っぽくなったアイスミルクティー。趣味を押し付ける癖は変わっていないらしい。


ダウンを脱いで、傍らに置く。中に広がる着ていたカレッジロゴの入ったダークグレーのスウェットの袖を少し捲った。店内は暖房が効いている。


「俊喜、黒髪にしたの?最初気付かなかったよ」


サリナがにっこりと笑うと、ホワイトニングされた歯が見えた。胸元にかかる、あの頃から一つも変わっていないマロンブラウンの髪をサリナが払うと、大きく胸元が開いたトップスから胸の谷間が見えた。


それから目を逸らして、ミルクティーのストローに口を付けた。ガムシロが二つ入った甘いミルクティーが口の中に広がる。飲み込んで、口を開いた。


「出勤前にわざわざごめんな」


「ん?全然大丈夫」


サリナは煙草の灰を灰皿に落とす。いつも思うけど、女が吸ってる煙草はどうしてチャラチャラしているんだろう。フィルターの部分に艶が入っていたり、匂いが甘かったりして、普通のそれとはまるで違う。


俺が煙草を見ている事に気付いたのか、サリナが俺にピンク色の煙草の箱を開けてすすめてくるから、首を横に振った。


「禁煙したし、俺、今は制服ですね?」


制服で煙草を吸ったってこの街じゃ何も言われないけど。サリナは首を傾げて、テーブルの下を覗き込んだ。制服なのかどうか確認したかっただけのようで、すぐに俺を見て笑う。


「俊喜、留年したんでしょ?まだ高校行ってたんだ!」


「情報遅すぎ。お前だってまだソープだろ?」


サリナは頬を膨らませた。


「今はソープじゃなくてファッションヘルス」


「あっそ、」


サリナに笑うと、煙草を消してテーブルに乗り出してくる。


「ねー俊喜、今日あたしの誕生日だって覚えてる?」


「あ、忘れてた」


両親の刷り込みで誕生日を大事にしていたけど、一年も会っていないと忘れてしまう。そうだったっけ、と苦笑いするとサリナは口を尖らせてから肩を竦める。


「そうだと思ってたよ、別れてから一度も会ってなかったもんね」


「そうだな」


元ソープ嬢、現在ヘルス嬢らしいサリナは俺の元カノ。四つ年上の女。サリナとは一年前に二週間だけ付き合っていた。珍しく妊娠したなんて言ってこなかった。後腐れがなくていい女。別れる時も大してもめなかった。


サリナはにっこりと笑って、会ってくれて嬉しいよ、と首を傾ける。営業スマイルが上手い。付き合っていた時から思っていたけど、俺もどうやったらそうやって笑えるんだろう。


「聞きたい事があるって言ってたでしょ?なぁに?」


「あー、お前、最近清春と会った?」


「え、キヨちゃん?」


キヨちゃんと可愛く清春を呼ぶのはサリナくらいだろう。俺は名前の関係なのか、あだ名で呼ばれた事なんか人生で一度もないかもしれない、そんなどうでもいい事を考えつつ、テーブルに頬杖をついた。


「だってお前、清春を気に入ってたじゃん?」


「でもたまにキヨちゃんを買ってただけだよ?」


うん、そうだな、とサリナに頷いた。清春はサリナに気に入られてた。清春がサリナに買われ始めたのは俺と別れてかららしい。女遊びが上手い後輩の将来を心配したくても、本人がどこにもいない。


「最近は全然会ってないけど、キヨちゃんがどうかしたの?」


サリナは何も知らなさそうだ。気が付いたら小さく溜め息を吐いてしまったら、顔を覗き込まれた。


「清春、消えたんだよ」


サリナに一から事情を説明した。サリナは珍しく真剣な顔で聞いている。サリナが相槌をうつ度に、安っぽいボディーソープの香りが漂った。


清春の事を話せば話す程、俺の中の真知が増幅してくる。清春の話をしているのに、真知の顔ばかりが頭に過る。今何してるかとか、どんな気持ちでいるのかとか、会いたい、とか。


真知が住んでいるマンションを知っているのに、部屋まで知らないと意味がない。その上、個人情報保護も大事だ。万が一、マンションの管理人か誰かに聞いて教えてもらえたとしたら、真知の個人情報を大事にしてくれと叫びながら大泣きしてしまいそう。


サリナが二本目の煙草に火を付けた。一口目をピンク色の唇から吐き出しながら頬杖をつく。


「誰も知らないんだ」


「うん、知らない」


そっかぁ、とサリナは言った。


「あ、そういえばこの間、事件あったでしょ?殺し」


「あー、うん」


「あそこね、あたしの店のすぐ近くなんだよ?」


物騒で安心して歩けないよ、と上目遣いで甘える視線を向けられた。ナチュラルな上目遣いはさすがヘルス嬢だと思いつつ、サリナに笑う。


「殺されたの金持ちじゃん。サリナじゃ狙われねーよ」


「ひどぉい!あたし結構溜め込んでるもん!」


知ってるからわざわざ言うなよ、と心の中でサリナに言う。そういう事を外で話す方が物騒だ。誰も彼も、自分の会話に夢中で聞いていないだろうが。サリナの横の壁に煙草を消した跡があるのが目に入った。


「お前そんなに溜め込んでどうすんの?」


「将来はのんびり過ごしたいの!」


ふーん、とミルクティーを飲む。


「だからソープで働いてんの?」


「勿論!」


初耳だ。付き合っていたけど、サリナの金について話したのは初めてだ。付き合っているからこそ聞かない事もある。ただでさえ、高校生と社会人だったのだから。


サリナが身を乗り出して俺の顔に顔を近付けてきた。


「俊喜がソープやめなって言うならすぐにやめてあげるよ?」


にっこりとサリナが笑う。溜め息をついて、サリナの額を小突いた。痛い、とサリナが唇を尖らせる。


「やだよ。そんな事を俺が言ったら一緒に住もうとかお前言い出しそうだし」


「絶対言うよ?」


「ふざけんな」


「ふふ、だって俊喜面白いんだもん」


年上におちょくられるのはもうしょうがないんだろうか。自分が優位でいたいと思った事はないからいいけど気になって、どこが、とサリナから目を逸らして窓の外を見た。


「俊喜はなんだかんだ優しいもん」


「なんだかんだってなんだよ。俺は全世界で一番優しい男だぞ」


「それはない」


は?と眉間を寄せると、サリナがケータイを開いた。


「あたしもう行かなきゃ、俊喜どうする?」


「んー、俺も出るわ」


サリナがムートンコートを羽織った。外に出る為に脱いだダウンを着込むと、立ち上がったサリナが伝票を取る。


とっさにサリナの腕を掴んで、立ち上がった。


「俺が呼び出したし、払うよ」


「いいよ。俊喜が来る前にご飯も食べたから」


本当に大丈夫、とサリナが笑ってくれるから、渋々頷いた。俺の財布には500円入っているか入っていないか。飯を食ったなら払えるはずもない。バイト代はキャッシュカードがないと数字のままで物体にはなってくれない。


「ゴチです」


「いいえ」


レジに向かって歩き始めたサリナの背中を追う。フリンジのついたスエードのバッグに、パッチワークのマキシ丈スカート。センスが変わっていない。俺も変わっていないけど。高校生と社会人の時の流れは違うんだろうな、とぼんやり思いながら、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。


会計をしてくれたたサリナと一緒にファミレスを出ると、冷たすぎる風が顔に当たった。さみ、と俺が肩を竦めると、右腕にサリナがしがみついてくる。


「寒いよー」


ムートンコートを着ていてもその下がそんなに胸元の開いているトップスを着ていたら寒いだろうよ、と思う。すぐ腕に胸を押し付ける癖みたいなものも変わっていない。


「離れたくないよー」


「お前は俺の彼女か」


「え、彼女に戻っていいの?」


「無理です、ごめんなさい」


笑いながら冗談のように本音を言うと、えー、と非難の声を上げるサリナの後ろから高校生のカップルが出てきて、どちらともなく歩き始めた。


「送ってってやるよ」


「いいの?」


「物騒で心配なんだろ?金を溜め込むヘルス嬢は」


前のソープでもナンバー1だったから、どうせ今でもナンバー1なんだろう。今はどの業界も不景気なのに、ナンバー1が殺されでもしたらどこのヤクザが出てくるか分からない。矢崎組の仕切っているヘルスじゃなかったら、こうして同伴でもなくただ一緒にいるだけの俺も殺されるかもしれない。サリナがもっとくっついてきた。歩きづらい。


それを放置して5分ほど歩くと、サリナがここだよ、とにっこりと笑った。ネオンピンクとネオングリーンの電飾。サリナはいつも店の外見を重視するらしい。確かに、他の店と比べるとよっぽどセンスがいい。


腕から離れたサリナは、目の前に立って俺を見上げた。長い前髪が睫毛に引っ掛かっていてそれを取ってやると、サリナが俺の頬を両手で挟む。


俺の顔が冷たいからか、サリナの手が暖かく感じた。サリナが引き寄せてくるから、背を屈める。


「やっぱり俊喜って綺麗な顔してるよね。黒髪の方が似合ってるよ」


「そんなの言うのはサリナくらいだよ」


嘘でしょー、と笑ったサリナの手は、俺の頬を撫でた。



「俊喜、優しくなったね」


「そう?」


「うん、だって前はもっとツンツンしてたもん。まあ、元々ずっと優しかったけど、もっと優しくなったよ?」


さっきは優しくないって言ってなかったっけ!?と突っ込みたくなったけど、サリナの言葉にはもっと、俺が確信している事実がある。


「年取ったからかも」


それあたしに対しての嫌み?とサリナが頬を膨らませる。それに笑うと、サリナが真面目な顔をした。


「でも今日の俊喜、元気ないね」


「気のせいだろ」


「ううん、絶対なんかあった。寝てないでしょ?疲れた顔してる」


俺の頬をすり抜けて腕を首に回される。一気に顔が近寄ると、視線がかち合った。


「あたしがお金出してあげるから、お店寄ってかない?お客さんじゃないから、本番してあげる」


サリナの目をじっと見る。サリナの目は潤んでいて、涙の膜がキラキラ光っていた。真知の目とは全然違う。もし、サリナの目が真知に似ていたとしたら、すぐに頷いてしまっただろう。


でも、誰かに誰かを当てはめて寝るなんて、最低だ。


「今日はやめとく。制服だし」


そう言うと、サリナは俺から離れた。面白くなさそうな顔をされたけど、わざとらしくないのが不思議だ。


「もう、俊喜はつれないなぁ。あたし俊喜に会ってちょっとムラムラしてたのに」


「勘弁して。俺って何なの」


思わず苦笑いしてしまった。会っただけでそうなるって俺はそんなセックスの象徴みたいに思われているんだろうか。なんか恥ずかしい。と考えていたら、サリナが再び真剣な顔をした。


「俊喜、気を付けてね。最近、俊喜を嗅ぎ回ってる女がいるって噂だよ?」


「は?」


「気を付けてね?女の名前とかは……忘れちゃったけど」


心配だから、とサリナが俺の顔を覗き込む。女に心配されるなんてよっぽどな事なんだろうか。サリナにとっての俺は、元カレでも弟みたいなものなんだとも分かっているけど。


サリナはにっこりと笑って店のドアの方に歩いていく。ドアを少し開けて、振り返った。


「キヨちゃんの事、あたしも調べてみる!ついでに女の事も!」


頷くと、サリナはドアを開ける。


「サリナ!」


呼び止めたら振り返った。俺はどうしてこの女を好きにならなかったんだろうと不思議になるくらいに、綺麗な顔をしているサリナの顔が見えた。


「ありがとな」


「ううん、またね、俊喜!大好き!」


大好きってなんだよ。好きの安売りバーゲンの匂いを否めない。半ば呆れていると、サリナがノリノリで店に入っていった。結局、サリナからも清春の事は分からなかった。


でも、清春の事はいくらでも調べられるのに、真知の事は全く調べられない。共通の知り合いもいない。


とりあえず、一人だと孤独で寒い。時夫と合流しようかとケータイを開いた。


ケータイを持っているだけで人間は電波を飛ばしまくっているのに、俺は真知の電波を受信できない。真知はどうしてケータイを持たないんだろう。自分の居所を特定されるのが嫌いなんだろうか。何かに縛られる事が窮屈なんだろうか。


時夫なんかとは、どうせ歩いていたら合流できる。歩きながら溜まったメールを一つ一つ確認した。知り合いからの清春の情報、出会い系のメール。出会い系の会社は全部繋がっているんだろうか。一つ送られてきたら違うアドレスからもどんどん送られてくる。


送られてきたって出会い系は使わないのに。真知に出会いたい。本当に俺はそれだけ。


「セイヤ君大好きだよぉ」


聞こえてきた声に、セイヤ君か、そういえばサチコの彼氏もセイヤ君だな、と思った。ホストみたいな名前だ。聖夜とかいう漢字だったらもうまるでホストだ。ホストはクリスマスなのだろうか。聖夜。


ん?サチコ?と慌てて振り返ると、あのツインテールがリュックを背負ったおっさんみたいな男と一緒にゲーセンから出てきた。


そうだ。サチコは真知と知り合いだった。


「サチコ!」


ツインテールが振り返った。サチコだ。慌てて走り寄ると、サチコはぽかんと口を開けて驚いた顔をしてこっちを見ていた。


サチコが俺を見上げる。それと同時にセイヤ君にも見上げられた。私服のサチコはヒールのブーツを履いていて、セイヤ君よりも背が高かった。


「緒方ぁ?どうしたの?」


どうしてサチコはこんなに普通なんだろう。八木でさえもあんな顔をしていたのに。


「サチコ今日学校来てねーの?」


「うん、今日はセイヤ君と新発売のゲーム買いに行ってたのぉ」


デートだよぉ、とサチコが笑った。おいサチコ、それデートじゃなくてただの付き添い。


白いAラインのコートを着たサチコは首から下は女子大生みたいなのに、ツインテールのせいで全部台無しで空気感がいまいち読めない。相変わらずコートの胸元がパツンパツンでコートが可哀想だった。


「今日、真知の事で学校で騒ぎがあってさ、」


「え?」


サチコが途端に顔の筋肉を硬直させた。


「俺、前にお前と真知が話してるの見かけた。あの時は聞けなかったけど、お前、真知の何を知ってんの?」


「緒方、」


「俺に全部話してくれよ」


しばらくの沈黙の後、サチコがそれを破った。ここじゃ話せないから場所を移動しよう、とサチコが言って、訳が分かっていなさそうなセイヤ君と三人で歩き出した。


正直に言って、ちょっとここはおかしい。だけど、俺が思っていた以上に色んな店がある地元の街の奥深さに感動しているのも事実だ。


「なんでここ?」


「萌えぇぇぇぇぇ!」


俺の疑問と被ったセイヤ君の感情の吐露が耳をつんざく。俺は、萌え萌えイチゴミルク、という名前のどの辺が萌えるのかはよく分からないふざけていても味は悪くない飲み物が入ったコップを掴んだ。ストローがハート形になっていて、普通のストローよりも吸引力が必要だった。パフェを食べるサチコに苦笑いする。


サチコ達についてくると、メイド喫茶に連れ込まれた。メイド服を着た女がいる白っぽい店内には、セイヤ君みたいに好きな事に一直線で、真知に好きの一言も言えないような俺を全力でぶん殴ってくるような男で賑わっていた。その中には女もいたけど、カップルでここに来ているのはサチコとセイヤ君くらいだ。


場所を変えるにしてもここは真面目な話をするには違うんじゃないか、と思うんだけどどうなんだろう。女のアニメ声が駆けずり回る店内に、未だかつて感じた事のない疎外感が募った。


「長原さんの事で騒ぎになったなら、何か聞いたんでしょ?」


ぽつりと、サチコが本題の欠片を転がした。小さくて消えそうな声。白いソファーの背凭れに体を預けた。


「新聞は、読んだ」


真知と一緒にいたサチコを思い出した。土下座しそうな勢いで頭を下げるサチコが言った、『あの事』。


どこから話せばいいのかな、と言ってサチコが俯いた。それから目を逸らす。こんなサチコを見たのは初めてで、見ていられなかった。


「私と長原さんは、私立の学校の初等部で一緒だったの。お金持ちが通う学校」


サチコの声は騒がしい店内には不釣り合いに暗い。


「長原さんは、政治家の娘で親戚は茶道の家元で、お金持ち学校の生徒の中でも屈指のお嬢様だったの。明るくて勉強が出来て、よく笑う女の子。皆に人気だったよ」


今の真知からは全く感じられない要素だった。勉強はできそうだけど、明るくもないし笑いもしない。人気があるどころか誰にも気付かれなかった。


「お金持ちの学校って、家柄だけでその人のランクが決まっちゃう所があったの。私のお父さんの会社はそこまで大きくない会社だったけど、長原さんは私とも仲良くしてくれてたよ。長原さんは私の一個年下なのに、高嶺の花みたいな存在だった」


でもね、とサチコが顔を上げた。潤んだ目から目を離せなくなった。


「長原さんのお父さんの事件があって、長原さんを見る周囲の目は一気に変わったよ」


あの、今日のクラスの連中みたいな目という事だろうか。今まで見向きもしなかった癖に、一気に真知は噂の中心にいた。


叔母に引き取られたから今は月岡さんだったね、とサチコが小さく呟いた。


「長原さんはお父さんの遺体の第一発見者で、お母さんの遺体の第一発見者でもあるの。お母さん、マスコミに耐えられなくて事件から数日後に首を吊ったんだ」


想像するだけで状況が惨すぎて、ただ、無言で頷いた。


「長原さんは酷くいじめられたよ。言葉の暴力。人殺しだって、散々言われてた。でもね、長原さんと一緒にいてくれる女の子がいたんだよ。湯野さんっていう大手おもちゃメーカーのご令嬢」


でもね、とサチコが小さく息をついた。


「湯野さん、お父さんを刺しちゃって、学校から居なくなったの。それから長原さんが、なんて言われてたか分かる?」


「……なんて言われてたんだ?」


「Fungus、菌って意味。長原さんは人殺しの菌を持ってる、って」


鳥肌が立った。人の残酷さを実感した気がした。真知が何かをしたという訳ではないのに。


「お金持ちには先生でさえ逆らえなかった。Fungus、Fungusって毎日ずっとそれ。もう拷問だよ」


「でも、金持ちがそんなの、」


俺の中にあった、金持ちは余裕があるという勝手なイメージにはそぐわなかった。腰抜けだから人を苛めたりするんだろうが、そんな事をするとは思えなかった。サチコは首を横に振る。


「お金持ちだからこそ、だよ。生まれた時から将来が決まってて、親の期待を背負ってて、行き場のないストレスが腐る程あるの。それの捌け口が長原さんだった。それに皆無駄に頭がいいから、」


何も言わなかった。金持ちだからこその逃げ道が沢山あるらしい。人生の三分の一くらいを母子家庭で育ち、ビンボー寄りの庶民の俺にはいまいち曖昧だったけど、きっと金だろう。


「凶器を持ってるかもしれないって言われ始めて、持ち物は中身が見えるような透明なビニールにしろって、先生に言われて、」


真知はいつも透明のビニール袋に物を入れていた。


「いつの間にか長原さんは笑わなくなってた。それは中等部になってからも続いてたんだ。長原さんは叔母に引き取られたんだけど、一族の恥だって、離れに一人暮らしさせられてたんだって。だから、月岡さんには逃げ場所なんてどこにもなかったんだよ」


そういえばあのマンションも、叔母がどうのこうの、と言っていた。


「でも私、ちょうどその頃、お父さんの会社が倒産して、長原さんが酷い目にあってるって分かってたのに、自分の事ばっかりで、何も出来なかった」


サチコは、静かに泣き出した。ぼろぼろと涙を溢す。店員の女が訝しげな表情で俺を見たけど、気にならなかった。俺の頭の中で、サチコの声がぐるぐると回っていたのだ。


『何があっても、守ってあげて』


『緒方にはそれが出来るでしょ?』


やっと繋がった。それはサチコが真知を守れなかったが故の、懺悔。何もできなかった。サチコはできると言ってくれたのに、俺は、何にも。


「ごめっ、ごめんなさいっ」


サチコのマスカラ混じりの黒い涙が白いテーブルに模様を作る。セイヤ君は隣であたふたとしていた。サチコの腕を擦ったり、背中を撫でたりしている。たったそれだけの事に愛を感じた。それでも、サチコは肩を震わせて泣いていた。


「俺に謝るなら真知に謝れ」


「分かってるっ、分かってるよぉっ」


嗚咽混じりで、サチコが言う。まるで、親に物を買って貰えなくて駄々をこねて泣きながら訴える子どものようだった。


「サチコ、お前、真知と会話噛み合ってなかったよな。なんで?」


前のあの変な光景は、どうしても気になった。サチコは謝っているのに真知はどうしてだと言っていた。あの異常さ。気持ち悪さ。真知はわざと、サチコに忘れたふりをしたんだろうか。でも、俺にはそんな風には見えなかった。


「分からないっ……忘れるはずない、のに」


「だよな、」


そんな悲惨な記憶は頭に焼き付いて一生残っていくようなものなのに。少なくとも俺が真知の立場にいたとしたら、サチコに殴りかかっているだろう。どんな理由があったにしても、知っていて見捨てたのは見捨てたんだ。


そう思う俺は、冷たいんだろうか。俺だって真知を守れなかったのに、都合のいい話だ。


イチゴミルクを口に含んで飲み込んだ。慌てふためくセイヤ君の着たネルシャツはくたくたにくたびれている。着る人がよければ洒落た古着に見えるんだろうが、残念ながらセイヤ君が着るとそうは見えなかった。


「真知は昔からゴム手袋をつけて歩いてんのか?」


「ううん、初等部のっ六年の頃、くらいっ、からっ」


なんでだろう。どうしてゴム手袋なんてつけ始めたんだろう。過度の潔癖症だったら、掃除なんてしないだろう。


医者が手術する時に付けるような透明のゴム手袋、それから透ける第二関節のひび割れから滲み出た血。綺麗な顔に不釣り合いの、傷だらけで血だらけの手。


しゃっくりと苦しそうな息を繰り返すサチコの目の前にある、食べかけのパフェに乗ったバニラアイスはどろどろに溶けていた。波を打つガラスの容器の縁から溢れ、歪に表面を伝い、テーブルにまでも流れている。真知はバニラアイスが好きだと言っていた。


記憶の真知がちらつく。消えない。消そうとなんて思わないし思えない。やるせなさが拭えない。


真知を、俺はまだ何も知らない。


「緒方ぁ、長原さんを助けて、」


人は皆、自分勝手だ。自己中心的で、自分だけで手がいっぱいだ。どれだけサチコが泣こうが、どれだけセイヤ君がサチコを慰めようが、どれだけ俺が落ち込もうが、メイド喫茶にいる人間はメイドと一緒に楽しんで笑っている。サチコの悲痛な叫びはその中に掻き消された。


そのままサチコ達とは別れた。それから俺はずっと考えていた。


全部知って愛でるのが正真正銘の愛というのなら、全部知らないで愛でるのは一体なんなんだろう。そんなものに名前はないのだろうか。何もできなかったけど、でも、俺のそれは正真正銘の愛だった。


気付いたら真知の住むマンションの前まで来ていた。ほんの三週間前、終業式の日。俺はいつも通りに真知をここまで送って、真知がマンションに入る背中を見ていた。なのに、今はその幻ばかりが浮かぶ。


会いたい。謝って許される事じゃなくても、ごめんな、とだけでも言いたい。


俺のせいだ。もし俺が真知と一緒にいなかったら、真知はこんな事にならなくて済んだ。何度も過った模範解答が俺を苛む。


俺のせい。真知は、透明人間になりたかったのだ。誰にも気付かれずにいたかったのだ。でも、俺は会いたかった。もし真知と出会った日に戻って、こんな事になると分かっていたとしても、教室に向かう足を俺の意志で止める事はきっとできない。


俺は真知に会いたいから。俺は真知を透明人間になんてしたくない。誰が否定しようが、俺は真知に会いたかった。俺は真知を好きになりたかった。


全部、俺の勝手だ。どうすればいいのか分からない癖に欲求ばかりがある。俺は、やっぱり馬鹿だ。


ダウンのポケットからくしゃくしゃになった写真の束を取り出す。俺は真知を見て、心底幸せそうに笑っている。馬鹿みたいに、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい。俺の親父はいつもこんな顔をしていた。それはきっと、こうやって切り取られなければ本人すら気付く余裕もない事だったのかもしれない。


優多の話によると、この写真は全学年の教室にばらまかれていたらしい。異常な程の嫌がらせへの気持ち悪さを感じた。


守れなかった俺に出来る、ただ一つの事は、俺が犯人を見付ける事だけだ。絶対に、許さない。




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