031
「シンのお頭、敵が進軍を始めるようです」
崖から少し離れた場所。
ガストロイ軍が陣地を張っている場所ではなく、崖の方を見える場所で、シンはサンディからの報告を聞いた。
「ようやくか」
サンディの報告に、シンはそう言って視線を崖の方に向ける。
シン以外の面々……サンドラ、マルクス、ジャルンカの三人も、シンと同じような視線を崖の方に向ける。
当然だろう。崖の向こう側に反乱軍が到着したのは、かなり前だ。
シンの体感的な感じでは、二時間近くは経ったのではないだろうか。
てっきり崖の上に誰もいないと見れば、すぐに崖に突入してくると、そう思っていたのだが、その予想は完全に外れた形だ。
そうして待っていたシンたちは、二時間近くもの間ずっとここでこうしていたのだ。
それこそ、退屈で暇潰しをするのにも困るほどに。
そんな時間のあとでようやく崖の中を進み始めたのだから、シンたちとしては待ちくたびれて、いっそのこと自分たちから攻めようかという考えすらあった。
……実際、マルクスはそうした方が面白くなるからそうしようと言い、具体的にどう攻めるのかを考え、サンドラやジャルンカに相談すらしていたのだ。
「ちっ、もう少し時間があれば作戦は纏まったのにな」
マルクスが残念そうに呟く声が、シンの耳に入ってくる。
本気で自分から攻めようとしていたことをマルクスは示していた。
そんなマルクスの様子に若干の呆れと頼もしさを感じながら、シンは口を開く。
「取りあえず行くぞ。……サンディ、スティーグと蛇王の連中にもこの情報を伝えてこい。敵が動き出したから、俺たちも動くとな」
「分かりました、シンのお頭、皆、気をつけて」
そう言うと、サンディはシンたちの前から去っていく。
大人しいサンディの口からでた気遣いの言葉に、どこか心が暖まるものを感じるシン。
いや、それはシンだけではなく、他の面々も同様なのだろう。
サンドラ、マルクス、ジャルンカの三人も、それぞれ笑みを浮かべていた。
それこそ、これから戦いに参加するとは、とてもではないが思えないような、そんな笑み。
……ただし、そのような笑みを浮かべていたのはほんの数秒。
崖のほうに視線向けたときには、既にこれからの戦いを予見したような、獰猛な……獲物を目の前にした狩人のような笑みを浮かべていた。
「さて、じゃあ行くか。とはいえ、崖崩れに巻き込まれないようにする必要はあるから、あまり近づけないけどな」
ハクの能力によって、崖はいつ崩れてもおかしくはない。
だが、問題なのはその崖崩れが一体どこまでの規模で起きるかどうかということだろう。
崖崩れを起こして敵を埋めるというのは既定路線だが、実際に起こした崖崩れが具体的にどのようなことになるのかは、まだ分からない。
……まさか、試験として一度崖崩れを起こすような真似は出来なかったのだから、ぶっつけ本番になるのは仕方がない。
ここ以外の場所で同じように確認してみるという方法もない訳ではなかったが、それはあくまでも他の場所であって、ここの崖ではない。
他の場所で出来たことがここで出来るとも限らないし、他の場所で出来ないことがここで出来る可能性もある。
そうである以上、結局のところはぶっつけ本番でやるしかないのだ。
そのような事情を知っていても、シンは特に緊張した様子はなかったが。
それはハクなら問題なくそのようなことを出来るだろうと予想していたからというのが大きい。
また、もしハクが失敗しても、自分の持つ石化の魔眼を使えば崖と崖の間にある狭い道を進んでいる者たちは容易に倒すことが出来るという確信があったのも大きい。
「よし、それじゃあそろそろ行くか。……いつまでもハクを待たせる訳にもいかないしな」
すでにハクは崖の中で待機しており、シンからの合図があればいつでも崖崩れを起こせる。
あとは、敵が……反乱軍が来るのを、待つだけだ。
「敵の数はこっちもよりもかなり多いんすよね? だとすると、出来るだけこの崖で数を減らしておきたいところっすけど……その辺、どうなってます?」
ジャルンカの問いに、シンは少し悩みながら口を開く。
「そうだな。出来るだけここで数を減らしておいた方がいいのは間違いない。だが……正直な話、崖崩れをまともに食らえば、その時点でもう勝負は決まると思ってるけどな」
士気の有無にかかわらず、いきなり左右の崖が同時に崩れて、自分たちに大小様々な岩が降り注いでくるのだ。
とてもではないが、そんな現状のあとでまだガストロイを取り戻そうと考える者がいるとは、思えなかった。
それこそ、すぐにでもその場から逃げ去っても、シンは納得出来るだろう。
「シンのお頭がそう言うのなら、正しいんでしょうけど……」
シンを強く尊敬しているジャルンカだったが、それでも今回の話は完全に信じることが出来ないらしい。
そもそも、本当に崖崩れが起きるかどうかというのも、不明なのだから。
「お、来たぞ。……そして戻っていったな」
崖から偵察役と思しき一人の男が姿を現したかと思うと、すぐに戻っていく。
その偵察役の男は、間違いなくシンたちの姿を確認した。
そうして確認したからこそ、今なら崖を通ることが出来ると、そう判断したのだろう。
「俺でも、崖を出た先に数人しかいなければ……っと!」
マルクスが偵察の男の行動に納得した様子を見せながら、持っていた巨大な斧を振るう。
軽い音を立て、崖の上にいた反乱軍の兵士が射った矢が叩き落とされる。
「どうする? 向こうもこっちを本気で儂らを攻撃する様子はないみたいだが」
斧の柄を肩に乗せ、マルクスが呟く。
実際、崖の上にいる反乱軍の兵士は、左右双方合わせて十人を超えている。
そのような状況である以上、本当にシンたちを攻撃するつもりがあるのなら、もっと連続して矢を射ってこなければおかしい。
にもかかわらず、こうして矢を一本だけ射ってきたのは、シンたちにたいする警告の意味が大きかったからだろう。
少人数のシンたちがここにいるのは邪魔だ。
だが、たった数人を相手にここで本気を出すような真似をすれば、それこそ離れた場所にいるガストロイ軍を刺激する可能性があった。
そうならないようにするために、今は自分たちの前から消えれば、それで十分だと思ったのだろう。
だがそんな敵の攻撃は、シンにとってみれば敵の油断を誘うという意味でむしろ喜ぶべきものだった。……もっとも、喜ぶべきものではあっても、矢で攻撃されて怪我をするようになれば意味はないのだが。
「シンのお頭、反撃するっすか?」
蛇王の中では弓の名手として知られているジャルンカが尋ねてくるが、シンは首を横に振る。
「いや、少し距離を取る。ここで下手に反撃して敵に警戒されるようになったら面倒だしな」
そんなシンの言葉に、全員が納得して後ろに下がる。
一定の距離を取ると、崖の上にいた兵士たちも警戒はしているようだが、矢で射ってくるのはやめた。
そのような境界線において、シンはじっと崖の様子を伺う。
いつ来ても、すぐに対応出来るように意識を集中し、準備を整えながら。
そうして一体どれくらい経ったのか……崖の方から金属の鎧が擦れて鳴る金属音が聞こえたシンは、素早く叫ぶ。
「ハク!」
大声ではあったが、それでも崖の中にいるハクには聞こえるかどうかは微妙なところだろう。
だが、それはあくまでも普通ならの話だ。
ハクはシンの魔力によって産まれてきた存在であり、その魔力でしっかりと繋がっている。
そして……当然のようにシンの声はハクに届き、その時が訪れるのだった。




