029
シンたちが崖の前に到着すると、ガストロイ軍を率いるスティーグは、すぐに部隊を展開して陣形を整える。
ただし、このときに重要なのは崖のすぐ前に部隊を展開するのではなく、崖から少し離れた場所に部隊を展開した。
当然だろう。
もし崖のすぐ前に部隊を展開した場合、反乱軍は崖の向こう側に部隊を展開する可能性が高い。
そうなれば、敵を出来るだけ多く引き込んで崖崩れを起こすといった真似は出来ない……訳ではないだろうが、中途半端な結果となって、最大効率を求めることは出来なくなる。
可能な限り戦力の消耗を少なくして戦いたい以上、やはりここは敵を懐に……崖のこちら側に引き込むように部隊を展開するのは当然だった。
そうして部隊を展開している中で、シンは護衛代わりにマルクスとサンドラ、サンディの三人を連れて、早速崖の上にやって来ていた。
「で? ここが例の場所か。……これはまた、凄いな。儂でもここから落ちたら、生き残るのは難しいぞ」
崖の上から下を見ながら、マルクスが呟く。
その内容とは裏腹に、マルクスの表情にあるのは笑みだ。
見たことのない景色を見るためシンの部下となったマルクスにしてみれば、崖崩れを起こすというのは、楽しみなのだろう。
「そうだな。だから、落ちないようにしろよ。マルクスには蛇王の戦力として、しっかりと働いて貰う必要があるんだからな」
何だかんだと、蛇王の中の直接的な戦力という意味では、やはりマルクスが一番強い。
元々が少数精鋭の武闘派の山賊団を率いていたのだから、その実力は当然のように特筆すべきものがあった。
「おう。儂に任せておけ」
男臭い笑みを浮かべるマルクスを一瞥すると、シンはサンディに視線を向ける。
「サンディ、敵の偵察を頼む。反乱軍が現在どこまで来ているのか、近ければあとどれくらいでこの辺りまでやって来るのか。その辺を調べてくれ。ただし、敵に見つかりそうになったら、すぐに撤退してくるように」
「分かりました、シンのお頭。僕、頑張りますね」
そう言い、サンディは崖を降りていく。
……そう、崖に通じる道ではなく、崖の斜面を降りていったのだ。
それも全く躊躇することなく、そして危なげもなく。
シンも身の軽さには相応の自信があったが、それでも当然このような真似は出来ない。
そんなサンディの姿を見て驚いているのは、シンだけではない。
マルクスとサンドラの二人も、目の前で繰り広げられた予想外の光景に、大きく目を見開いていた。
「凄いな」
「凄いわね」
「……そうだな。予想以上に凄いと思う」
呆然と呟く二人に、シンもまた同意するだけだ。
とはいえ、いくらサンディが凄いからといって、いつまでもこうして見ている訳にはいかない。
現状で自分たちがやれるべきことを、まずやる必要があった。
「よし」
一言呟き、それだけであっさりと気分を切り替えたシンは、右肩にいるハクを地面に下ろしてから、話しかける。
「いいか、ハク。お前の能力を使ってこの崖の中を歩き回って、ある程度削っておくんだ。そして、俺が合図を出したら、一気に崖崩れを起こせるようにな。……幸い、ハクが穴を掘っても、反乱軍がそれを見つけるのは難しいし、もし見つけてもそれがどんな理由で出来た穴なのかは、分からないはずだ」
崖の上にある穴。
普通ならそれを怪しんでも、おかしくはない。
何しろ土にある穴ではなく、崖の上……石にある穴なのだ。
少し考ええる頭があれば、それを怪しむなという方が無理だ。
もっとも、じっくりと時間をかけて崖の上を調べるといったことをした場合は、やはり色々と怪しいと判断してもおかしくはないのだが。
しかし、反乱軍が崖の上に兵士を派遣しても、その周辺を調べるような時間はほとんど存在しないはずだった。
つまり、怪しいと思いはするだろうが、それが具体的にどう怪しいのか……というのを、考えるような暇はないはずだった。
「しゃー!」
シンの言葉に短く鳴き声を上げたハクは、次の瞬間今までの小さなハクから、瞬く間に大きな……それこそ何も知らない者が見たら、え? これがハク? と思えるくらいの大きさに姿を変える。
「……ハクが何度か大きくなる光景は見せて貰ったことがありますけど、何度見ても驚きですね」
大きくなったハクを見て、サンドラがしみじみと呟く。
サンドラにしてみれば……いや、蛇王に所属している者にしてみれば、ハクというのはあくまでも小さな白蛇というイメージが強い。
実際にシンの右肩にいるハクは、多くの者にその姿の白蛇だと認識されている。
そんなハクしか知らない者にしてみれば、この大きくなったハクは、ハク本人――人ではないが――ではなく、ハクの両親や兄、姉の類ではないかと思っても、不思議ではない。
「そうだな。けど、これもハクだ。それは分かってるだろう?」
「ええ、それは分かってるんですけどね。……それでも、やっぱりどこか違和感があるんですよ」
そう告げたサンドラの意見に、いわゆるファンタジー世界の人間なのだから、このくらいのことは慣れていてもおかしくはないのでは? と、シンは若干の疑問を抱く。
ともあれ、そんな様子に構わず、ハクは『しゃー!』とシンに行ってきますと鳴き声を発すると、そのまま地面に潜っていく。
「こちらも相変わらずですね」
まるで水の中を泳ぐように地面に潜っていくハク。
穴を掘るといった仕草はせず、それでもこれだけの速度で泳ぐことが出来るのは、純粋にハクに特殊な能力があるからだろう。
まだ子供――今は大きくなっているが――のハクであっても、これだけの力があるのだ。
もしこのままハクが大きくなった場合、一体どれだけの実力を持つのか。
ハクが消えた穴を見ていたサンドラは、そんな疑問を抱く。
もっとも、今はそんなことよりも別のことを……これからこちらにやって来る反乱軍の対処を考える方が先だと、そちらに思いを馳せるが。
「それで、この崖をすぐに落とせるようにしたら、次は向こうの崖ですか?」
「そうなるな。ハクの力で限界まで削ったら、あとは反乱軍が来るのをまってどかん、と。
「……どかんとやりたいのは分かりますけど、ハクがそこまで考えてどうにか出来ると思いますか?」
サンドラの言葉に、言葉に詰まるシン。
ハクが生まれてから、まだ一年も経ってはいない。
だが、ハクは卵から孵ったばかりの頃から、シンの言葉をしっかりと理解していた。
だからこそ、シンが頼んだ今回の行動もしっかりとやってくれるだろうと、そう思っていたのだ。
だが、言われてみればシンが考えているのと同じ認識をハクが持っているとは限らない。
それでも、恐らくは大丈夫だろうと判断し……それでも少し心配になり、シンはハクの潜っていった穴に視線を向ける。
すると、まるでそのタイミングを計っていたかのように、ハクが穴の中から姿を現す。
ハクは地面を……それが岩だろうが土だろうが、まるで水のように泳ぐことが出来るのだから、別に最初に入った穴から出てこなくてもいいとシンは思うのだが、そこにはハクの考えがあるのだろう。
「ハク、戻って来たということは、終わったのか?」
「しゃー!」
シンの問いに、ハクは元気よく鳴き声を上げる。
……小さいときと比べると身体が大きいので、その鳴き声もかなり迫力あるものになっている。
「そうか。なら、次は向こうの崖だ。頼めるか?」
「しゃー!」
シンの言葉にハクは再び元気よく鳴き声を上げ……こうして、反乱軍が来る前に戦いの準備は整えられるのだった。




