001
東北の田舎。
そう言われて、普通の人が思い浮かぶのは農家をしながらのんびりとした暮らしをするというものだろう。
実際、それは決して間違ってはいない。
その地区によって慣習の類も若干は違うが、そのように暮らしている者が多いというのを、榊信也はよく知っていた。
信也が住んでいる場所も、ニュースでやっているような殺人や強盗といった物騒な事件は起きるようなこともない。
もっとも、事件は起きなくても事故は起きる。
信也の通っている高校で、クラスは違うが同学年の男が一人、数ヶ月前の夏休みの最中、商店街を通りかかったところで解体中の家の鉄骨が落ちて死ぬといったことがあったのだから。
ともあれ、信也自身はその事故で死んでしまった相手と話したことは何度かあったが、それでも特別親しいといった訳でもないので、多少の騒ぎはあったが、結局のところその程度のものですんだ。
本来なら、いくら話したことがあまりない相手とはいえ、小学校から一緒の相手だったのだから何かしらもっと思うところがあってもおかしくはなかった。
なかったのだが……信也は、それどころではなかった。何故なら……
「信也、急げ! 先生は待ってくれないんだぞ! お前のために用意した先生なんだから、遅刻するような真似をするなよ!」
「……分かってる。すぐに行くよ!」
東北の田舎について考えていた信也は、下からの声に一瞬だけ怒鳴りつけたいのを我慢しつつ、そう叫ぶ。
我慢しようとしても、声の中に含まれる苛立ちは完全に隠しきることは出来なかったが、幸いにも父親は気がついた様子がなく、用意をして家を出る。
秋から冬に移り変わりつつあるこの時季、当然のように周囲はすでに暗い。
家の明かりや街灯のおかげで道に迷うということはないが、それでも都会ほどに明るくはなかった。
そんな暗い夜の道を、信也は自転車で走る。
自分の中にある苛立ちを、そのまま前に進むための力として。
「名家、か。下らない」
榊家は、この辺では名家として名前が知られており、それなりに強い影響力もある家だ。
だが、しょせんは田舎の名家にすぎず、この辺りでしかその権勢を振るうことが出来ない。
一度父親に強引に連れられて行った会合では、普段は自分に威張り散らしている父親が、愛想笑いを浮かべておべっかを言っている光景が目に入った。
そんな田舎の名家に生まれたことが、信也の父親にとっては強い不満だったのだろう。
自分の跡継ぎたる信也には、榊家を大きくしていずれはより発展を……と、そんな風に考え、母親もそれには反対しなかったおかげで、信也はそれこそ幼稚園の頃から分刻みと呼ぶには多少大袈裟だが、それに近い習い事をいくつもしてきた。
ソロバン、習字、剣道、柔道、英会話、ダンス、生け花、ピアノ、水泳、体操。
それでいて、成績が落ちれば躾という名の暴力を振るわれるので、学校の授業の予習復習も欠かすことは出来なかった。
そんな毎日を送っている信也は、当然のように友人と遊ぶ暇もない。
いや、むしろ信也の父親は信也が学校で友人を作ることを許さず、ましてや携帯の類を持つことも許さず、家に電話をしてきた相手にも高慢な態度でもう二度と電話をかけてこないように怒鳴るような真似すらした。
小さい頃から自由の一つもなく、友達との時間もほとんどなかったのを思えば、信也の性格が歪に成長してしまうのも無理はない。
信也が自分の心を上手く隠すことには慣れていたのは、誰にとっても不幸だったのだろう。
とはいえ、そんな成長をした信也であっても、実際にその歪さが現れることはなく、端から見る限りでは普通の日々をすごしていた。
……高校が終わったあとで、分単位に近いスケジュールを親に決められ、自由時間は睡眠前の一時間足らずしかないのを、普通の日々だと表現してもいいのであれば、の話だが。
もっとも、それはあくまでも今だけの話だ。
高校を卒業したあとは、何としてもこのような田舎を出て父親の手の届かない場所に就職なり進学なりするつもりだった。
当然進学ということになれば、様々な費用もかかる。
だが、信也は貯金として用意した金……父親に恵んで貰った金を使うつもりはなく、それこそ奨学金なりバイトなりでどうにかするつもりでいた。
最悪、夜の仕事すらも視野に入れて。
「人は生まれてくる家を選べないとかよく言うけど……俺にとっては、まさにそれだよな」
自分の中にあるドロドロとしたものを意識しつつ、それを決して表に出さないようにしながら、信也は自転車で目的地に向かう。
今回は近い場所での習い事だったので自転車での移動だったが、もしこれが遠い場所で行われている習い事であれば、父親が車を出すことになる。
それは、別に父親が信也のことを思いやって……という訳ではない。
父親にとって、信也という人物は自分の代わりのようなものだ。
だからこそ、自分の思い描くような存在にするために、手間暇を惜しむような真似はしない。
父親が信也に抱く感情は、親子としての愛情……ではなく、どちらかといえば、代償行為に等しい。
自分の思い通りにならなかった人生を、自分の代わりに息子にそれを辿らせようと。
小さい頃から勉強漬け、習い事漬けだった信也だったが、それでも学校ではクラスメイトの話が耳に入ることはある。……信也の場合はクラスで、いや学校でも孤立していたので話す相手はいなかったが、それでもクラスメイトたちが話す声は聞こえてくるのだ。
そんなクラスメイトたちの言葉の中に、育成ゲーム云々というのがあったのを思い出す。
しっかりと聞いた訳ではないが、その名前から大体どのようなゲームなのかは理解出来た。
それを思えば、つまり自分の今の状況はまさに父親の育成ゲームというのに相応しい状況なのではないか。
そんな風に思った次の瞬間、不意に……本当に不意に、自分の今までの人生は何だったのかという、そんな思いが信也の中に浮かび上がる。
普段は決して表に出すようなことはない、強烈な思い。
いや、むしろ憎悪と呼んでも……もしくは、それ以上に粘着質な、どろどろとした何か意図せずに信也の中でうねり……それがいけなかったのだろう。
次の瞬間、信也は激しい衝撃と共に空を飛んでいた。
空を飛びながらも、信也は一瞬前に自分の中に存在した強烈な感情に流されるまま、自分のいた方に視線を向ける。
そこにいたのは……金属バットを持っている男。
月明かりや街灯に照らし出されている四十代ほどの男には、信也も見覚えがあった。
父親に金を借りに来たが、あっさりと断れた、そんな男。
そんな男の視線は憎悪に染まっていたが、空中にいる信也と視線が交わった瞬間、憎悪から心の底からの恐怖といった色に変わり、それを見た信也は満足そうに意識を途絶えるのだった。
結局、自分は父親の駒にしかすぎなかったことを後悔し……何者にも束縛されず、自由に生きたかったという後悔を残しながら。
「……ん……」
あれ? と、信也は自分の口から出た声に気がつき、違和感を抱く。
自分は……間違いなく死んだはずだった。
それこそ、金属バットで頭部をフルスイングされるような真似をされて生きていられるとは到底思えなかった。
(もしかしたら、病院?)
そんな風に思いながら、ゆっくり起き上がるが……目の前に広がっていたのは、到底病院とは思えない光景だった。
それこそ、どこまでも延々と広がっている、白い空間。
地平線という言葉がこの場合は正しいのかどうか分からないが、とにかく地平線すらその白い空間には存在していた。
そして、近くには一台のパソコン。
習い事の中にはコンピュータ関連についてもあったので、専門的な知識を持つ者には劣るが、それでもある程度パソコンを使いこなすことは出来る。
「何だ、ここ……」
何故このような場所に自分がいるのか。
そして何より、何故このような状況になっているのに、全く混乱しないのか。
そんな疑問を抱きながらも、信也は取りあえずパソコンに近づき……すると、パソコンはそんな信也の行動を理解しているかのように、起動するのだった。