天気の軽薄
最近の若者が車や家に興味がないのは、満たされる気持ちの命が短いからだ。維持費が高いくせに、自慢できるのは一度だけ。しかもインターネットが身近になって今も刻々と大量のデータが飛び交う現代において、そんな一度かぎりには何の価値もない。
小出しに、更新し続けなければならない。映画を観に行った。旅行に行った。外食をした。小説を読んだ。ソーシャルゲームに課金をした……ちっぽけな充実を大量消費し、一生ものに一生手が届かない。まさに百円均一の店で本当は必要もないものを買って部屋を散らかす貧困層のごとし。あとは消費税のカウントアップにしたがって少しずつ看板の百円が嘘らしくなるのを待つだけだ。
そんなことを、上司の腕時計を見ながらに考える。
「雨森くんほどできない人は初めてだよ」
「それねえ、とっても同感します。僕も僕以上にできない人を見たことがありません」
こいつめ、と少し本気で羽交い締めにされるのを軽い笑いで受け流す。腕時計がまた目に入る。これがまたぎらぎらしている。そばに見える指毛の醜さから逸らす形で顔をあげる。上司の頬が脂でてらてらしている。過労で内臓を壊したからなのか肌がとにかく汚いし息が臭い。持ち主がこれじゃあ権威を失うのも仕方ないでございますねと、腕時計に同情する。
「こういう言い方は悪いかもしれんがね、同期の目黒くんとずいぶん差をつけられているよ。本当に」
「目黒は良い男ですよ。頑張りやさんですし謙虚ですし口答えもしないし笑顔がかわいい」
「努力したくないからって、過剰に持ち上げるんじゃないよ」
そんなことないですって、と笑って書類の角を揃える。
そんなことが、あったかもしれない。
昼休みに目黒と出会い、近くのファミレスで食べようという話になった。じりじりと焦げる信号待ちのがやがやとした中で、目黒はひそひそと切り出した。
「会議中に寝たって本当?」
「それぐらい信じたまえよ。入社一年目の夏、客先でうとうと眠り姫になったんだぜ、僕は。この雨森日傘に不可能はないってわけ」
信号が青に変わり、僕たちは進み、反対方向からやってきた人とすれちがい、目黒の声のトーンが一段落ちた。
「飛ばされちゃうって、雨森。入社二年目にして、僻地に一人だ」
「いいさ。僕という人間はどこに住もうとも関係ないからね。田舎の人間が、都会にさえ出さえすれば本来の力を発揮できるなどと思いこんで無意味な憧憬を抱くことがあるそうだが、まあ幻想。孤独についても問題ない。多寡にかかわらず僕は僕だ」
扉を開けると涼しげに歓迎された。しかしファミレスの座席らは僕たちを歓迎しなかったらしく、空席が出るまで待たされることになった。昼休みの間はどこも本当に混む。電車が混むのと同じ理由だ。始業時間が同じだから、昼休みの始まりが同じだから、こうなる。暮らしたことはないが、刑務所での生活もきっとあらゆることが混雑するのだろうと想像がつく。
目黒が僕の顔をじっと見ているのに気が付いた。
「さっきの続き、しないの」
「あー。おまえね、真面目なのはいいけど、疲れない? あのね、人の話を聞き流している時ってもっとも想像が繁殖するのよ。湿った場所のカビみたいにね」
「流しちゃだめでしょ」
「流しちゃうのよ。流れてゆくのよ。家に帰ったら何をしようとか休日はどこに行こうとか巨乳に挟まれる枕が欲しいみたいな近日中の悦びに」
店員が僕たちとはまったく別の名を呼んでいる。何度も何度も呼びかける。近くのレジで会計を済ませようとする列が出来ている。一名様のお客様。二人の料金を割って計算してほしいとババアが苛立っている。喫煙席の近くのカウンターが空いておりますが。カタカナで記された、その名の漢字を想像する間もなく、読んでいる。あえぐように、こぼす。
「同時多発生命みたいな、なんか死にそー」
名前を呼ばれた僕たちは、店員に案内された禁煙席に座った。僕の同級生で煙草を吸っていたやつは一握りしかいなかった。これは文化の問題だ。今では健康でいるとお金がかかるという共通認識が蔓延っているため、人は虚栄で健康になろうとする。昔は不健康こそが高級だった。ただそれだけの違いだ。一時間に一回は喫煙室に向かって十分から十五分程度の休憩をするおっさんたちと、僕たちの差異とは。本質に触れるものですらない。
「四年目の先輩が退職してさ」
「あの人、頭がよかったからね。あんなに激務じゃ続いても続かないって分かったんだろうよ」
やってきたお冷に追従した店員を、日替わりランチの注文で席から追っ払う。
「三年目の先輩も来なくなって」
「あの人、仕事ができたからね。こんなにも仕事を任されるんじゃ続いても続かないって絶望したんだろうよ」
外は晴れている。窓から見える。暗雲が立ち込めている。外は晴れている。
「先輩の同期の人も辞めちゃった」
「上司が真面目なやつだと評していた。真面目は人生を台無しにする傾向にあるようだな」
テーブルに張り付けられたラミネートメニューの角っこを爪で弄んでいる、僕がいる。
「上司に叱られた。ちょっとは目黒くんを見習ったらどうだって。ぐうの音もでん。ぐー」
「雨森はなんて答えたの」
「いい男ですよ。謙虚だし、頑張るし、始業時間の三十分前には来るし、いつも笑顔だし、目黒だし、マグロだし」
「ふうん。で、どこまでが嘘なの?」
「目黒だし、の部分までが嘘」
「僕はマグロじゃないよ」
泳ぐことをやめたマグロは窒息するという。泳ぐことをやめれば緩やかに死ぬが、泳ぎつづけても急速に死んでしまう人間よりはるかに優しい構造をしている。人間の嫉妬を受けてバクバクと食われてしまうのも仕方がない。
目黒の不味そうな、いつの日よりか少し痩せ細ったその輪郭を辿る。
「上司のオキニな目グロテスクはやっぱり付き合いとか忙しい?」
「貯金が出来ない」
「いっぱい残業してるのに」
「みんな、部下の貯金額なんて考えないんだ」
「いつかおまえも同じことを繰り返すさ」
「雨森も少しは参加してよ。雨森がきちんとやらないから、俺の方に溜まってゆくんだ」
「お金は貯まらないのに、悪いことだけ溜まってゆく。いやはや僕たちは貧困の渦潮に巻き込まれていますよ。飲めども干せども、潮ったら潮」
「真剣な話なんだって」
高校生の時、仲のよい女の子に昼のファミレスで告白した。ポテトをつまみながらぽつりと呟いた好きは、しょっぱさに還元されて終わった。真剣な話は女子どもの笑い話になってしまい、しかし卒業間際に二人で耳打ちしあって確かめ合ったことは、笑えなかった。
本当は本当だったが、嘘の現場が嘘にした。
「頼られるのは悪くないんだろ?」
「それは、だれだって信頼されたら嬉しいよ」
「そんなもん、爪楊枝にもならんと思うね」
日替わりランチが店員を持ってやってくる。腕時計がさっと視線を誘う。会計時に五分は並ぶ。執務室に戻るまで十分は掛かる。始まる逆算に心が追い立てられる。あと八分で食べねばならない。犬のように。
「世の中には、苦難によって初めて生の充実を感ずる人がいて、彼らの犠牲が今を作っている。真面目とはその犠牲を尊いと考えることで、不真面目とはその犠牲をただの孤独と考えることだ。僕の立場が分かるかい。おまえの苦心は、非常に個人的なものだ」
「みんなが不真面目なら、みんなで死ぬだけ」
急いで食べて並んで払ってかきわけて進み、立ち止まる。
大地に打ち付けた力が白い靄となって跳ね返るのを見て、裏切られたのだと知った。
「目黒、天が不真面目になる機会をくれたようだが、濡れていくかい?」
「濡れたらどこにも入れないよ」
「されど濡れねばどこにも入れない」
僕たちの人生において、天気が軽薄だったことは未だかつてない。
ただ、軽薄な天気予報が流れている。