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天使が集う場所

助けられてしまった女性

作者: 夜久野 鷯

 波の音を、見下ろしていた。冷たい潮風が、二人の隣をそっと吹き抜ける。寂しく震えていた昨日の夜が、まるで嘘のようだ。今はただ、暖かなしあわせに満ちている。

 生きていることは、こんなにも素晴らしい、などとふと考え、それから自嘲にも似た思いを抱いた。覚悟を決めた十時間前の自分をもう一度見つめ返す。――大丈夫、わたしたちは、きっといけるはずだ。

 もう見慣れた右側の景色に安堵感を寄せつつ、彼女は大きく息をついた。怖くない、と言えば嘘になる。けれど、そんな感情よりも、愛しさや、将来の不安が消える喜びの方が圧倒的に心を占めていた。それは多分、彼も同じであると彼女は信じている。


「ユナ」


 彼が静かに微笑む。瞬間、二人の世界は完全に孤立する。穏やかに響いていた波の音も、凍えるようなあの風も、今はもう存在しない。包み隠していた感情が蘇り、身体が小刻みに揺れる。きつく唇を噛む。ゆるやかにカールした睫毛が伏せられる。


「後悔、してるか?」


 辛そうな彼の表情に、堪えきれなくなった彼女は頬を濡らす。顔が引きつっているのは、寒さのせいではないはずだ。彼だってまた、様々な感情が入り混じった複雑な心境に苦しめられているのだ、そう分かると、彼女は少しだけ安心した。

 大丈夫。この思いは、わたしだけのものではない。

 ――大丈夫、大丈夫。これからはもう、独りではないのだから。


「後悔、なんて、するはずがないでしょう?」

「ならよかった。俺のせいで、ユナが苦しむのは嫌だから」


 どこまでも優しさに溢れた声に、彼女の表情は緩やかになり、再び涙を流す。泣き虫だなぁと笑う彼に、今更分かったことじゃないでしょ、と詰まりながら返答する。

 ゆったりと垂れた彼女の黒髪が、潮風でふんわりと広がる。それを彼は、愛おしそうに指先で撫でた。


「そろそろ、時間だね」


 その言葉で、彼らは現実の世界へ帰還した。もう、夢想へ逃げることはできない。現実と向き合わなくてはならない。結婚どころか、付き合うことさえ許されなかった、過酷なそれと。何度逃げ出しても捕えられた、絶望に満ちたそれと。

 冷え切った二人の身体に、夜風が染みた。空に浮かぶ半月が、真っ暗な海を照らしている。黒く渦巻く荒々しい波が岩を打ち砕き、また帰っていく。水音が激しさを増し、もう音はそれだけだった。

 波音に耳をゆだね、瞳はただ彼だけを見つめて。そんな二人だけの世界に一瞬だけ違う声が聴こえたような気がしたが、彼女は幻聴だとその音から耳を背けた。


「覚悟はあるか?」


 彼の唇がそう動いて、それに確かな返事をして。

 さいごにもう一度だけ、彼の暖かさを実感して。

 九月二十日の夜、完全にその現実を振り切った。


          ◇


「大丈夫、君は、確かに今日試合に負けた。でも、勝負はそういうものだ。勝ちがあれば負けもある。大切なのは勝敗じゃない。その戦いから、何を学ぶかだ。ね、だから、まずこっちに戻っておいで」


 九月二十二日、白河慶二しらかわけいじは、ビルの屋上に立ち尽くす少女を必死に説得していた。

 ひとまず時間をさかのぼり簡単に説明をすれば、慶二が道を歩いているときに偶然今にも飛び降りそうな少女を発見、慌てて現場へ駆け寄り自殺しようとしている原因を追究、そして死んではいけないと懸命に説得――というわけだ。

 先に言ってしまえば、彼はこういう風に人を助ける仕事をしている。ただそれは、刑事や医師といった資格さえあれば誰でもなれる職業ではない。神より与えられし特別任務をこなす、『天使』という職である。

 天使といっても、某有名アニメに出てくるようなお迎えではない。彼らもまた天使だが、それは世界中の天使が集う天界の会社、〈エンゼルカンパニー〉の昇天部署というグループのものであり、慶二らとはまた違った存在だ。

 説得を繰り返す彼が所属する部署は、救出部署と呼ばれている。現在、天界は死者の魂で溢れ返っており、このままのペースで増え続けると死者の魂を眠らせ新たな生物として地上に送る、もう一つの役職・鎮魂部署の仕事が追い付かなくなってしまうのだ。

 そこで、神は考えた。何とかして、死者の数を減らさなければならない、と。

 そこで考案されたのが、従来の部署よりも少しだけ位の高い、この救出部署である。医者が救える患者の数にはどうしても限りがある。警察は、事件が起きてからしか捜査をしない。法の権力も、圧力に屈しありあえないような判決を下らせることもある。地上の人間では、あらゆる生命を助けることは不可能だ。というのが神の判断だった。

 だから、神は正義感の強い人間を選び出し、特殊な仕事を設けた。それが、現在進行形で彼が挑んでいる救出活動である。

 間違ってはいけないのが、彼らはごくごくありふれた人間である、ということ。地球上に生息する人間から選りすぐっているのだから、当然である。

 要するに、彼らは特命を受けた普通の人間だ。

 

 仕事の依頼は、天界より通達される。神の側近――エンゼルカンパニーの幹部が、天使に連絡を入れ心に傷を抱える人の氏名、住所、職業、現在位置などを教える。その情報をもとに、天使は彼らに近づき、心に潜む闇を排除するのだ。しかし、依頼がなくとも天使は本能的に人間を救おうとする。人が天使となるときに、神が無意識の中にその本能をすり込んでいるからだ。慶二の場合もそれは同様で、今回の救助は天界からの依頼があったわけではない。神が依頼するのは、対象が完全に死を決意している、急を要する場合だけだ。

 この救出活動を三千回行えばノルマは達成される。仕事が終われば、天使としての記憶もなくなる。職務中は仕事について語るのはタブーであるので、結果としてこの仕事は世間には知られていない。すべてを知るのは神と天使のみ、というわけだ。ちなみに、天使には「天使同士が会話をすると互いに天使であることを察知する」という仕掛けがある。

 人の闇を取り除く仕事をする天使だが、神とて生身の人間にそんな仕事を任せるほど薄情ではない。彼らには、「対話」することで引き出される特殊な癒し効果が与えられている。相手と会話を繰り返すことで、救出率が格段にアップするのだ。この能力は記憶と違い、天使の仕事を全うした後も残る。

 この部署の設立により、死者の数は三割ほど減少した。効果は抜群だ。


「戦いから何を学ぶか? そんなの所詮きれいごとじゃん! ってか、あんた誰だよ」

「白河慶二、十九歳」


 慶二はバシッと敬礼をすると、少女に微笑みかけた。特別目立つ顔ではなく、むしろ地味な部類に入るが、彼の全身からは慈愛に溢れたオーラが溢れている。髪はまだ一度も染めたことがなく、自然なままの黒さを保っていた。顔が地味なら服も地味で、よく見かけるような黒いパンツと秋らしいオレンジ色のパーカー。下に着ている白いTシャツは、スーパーの特売品だ。

 彼の笑みに対して、少女は眉間にしわを寄せた。何だこいつ、とでも言いたげな表情で慶二を睨みつける。彼女の様子を見て、慶二は内心ほっとした。こうして噛みついてくるということは、少なからずこちらに関心があるということだ。本当に死を決意した人間は、説得を無視する。死の影は、まだ完全にまとわりついていない。


「白河刑事? ケーサツかよ。ってか、自分で刑事って言っちゃうとかダッセー」

「あー、違う違う。ケイジっていうのは名前だよ」敬礼をしたせいもあり、妙な誤解を招いたらしい。「字は慶應大学の慶に、数字の二で慶二。以後お見知りおきを。で、君の名は?」


 ある程度の会話をしたことで、多少心は開いてくれただろうと信じ、名前を聞いてみる。慶二が少女について知っているのは、最初に話しかけたときに聞いた年齢だけだ。


「言う理由がないだろ」


 少女は不貞腐れたように髪を掻き上げた。黒のショートがさらさらと風に吹かれている。むっとして目を逸らした彼女の表情にはまだあどけなさが残っていた。服装も、英字のプリントされた黒いシャツにジーパンとかなりの軽装。いかにも、スポーツ少女といった風貌だ。

 この子と同じ十五歳だった頃、自分は一体何をしていただろうか、と慶二は思い返していた。ちょうどこの頃に天使の職を与えられて、同級生や後輩を救うことに命を懸けていた気がする。二年生まではテニス部に入っていたが、進級して受験生になると同時に部活を引退、以降は特別任務と勉強の日々を送っていた……と思う。今となってはもう、遠い思い出だ。嵐のように目まぐるしく過ぎ去る青春の日々にとって、四年の歳月は短いようで長い。正直、彼にはあまり思い出せない浅い人生の歴史だ。

 回想をしながら、彼はじっと黙っていた。少女にも、考える時間を与えなければならない。


「……坂田深雪さかたみゆき


 物思いに耽っていた彼の沈黙に耐えられなくなったのか、少女は名前を告げた。それを聞き、慶二はまた頬を上げた。光で少しだけ茶色みを帯びた髪を、左手で後ろに流す。相手と同じしぐさをすることで、心の距離を縮める作戦だ。カウンセラーを目指している彼は、心理学を専攻に大学に通っている。そこでの知識は、特命にも絶大な効果を発揮してくれる。


「教えてくれてありがとう。――僕も、中二まではテニスをやっていたんだ。だから、試合に負ける悔しさは僕にも分かる。でも、勝負に負けることは本当の負けじゃない、と僕は思うんだ。負けを認めれば、それは自分に勝ったことになるんだと思う。本当の負けは、現実から目を背けて逃げ出すことだ。今ならまだ、十分間に合う」


 慶二は真剣に、けれど力みすぎないよう注意を払って言った。中学生に説教じみたことを言っても、反抗心が高まるだけだ。説得をするときには、言葉で着飾るのではなく魂でぶつかっていくしかない。

 地上では、一人の少女が人生を悲観して死に寄り添っていることなど全く知らずに人々が忙しく行き交っている。仮に気付いたところで、人間たちは自分のことで精いっぱいだから。全く知らない誰かを気遣う、ましてやその人を救おうとする優しさも余裕も、持ち合わせてはいない。

 二人の沈黙の間を、風が通り抜けていく。少女が小さく息をついたのが、慶二には分かった。


「……でも、最後の試合だったんだよ! あたしは絶対に、絶対に勝ちたかったの。そのために勉強も友達付き合いも全部捨てて練習を重ねて挑んだの! なのに、……なのに負けるなんて、あまりにも酷すぎる……!」


 少女の鋭い眼光が慶二の心に突き刺さり、ひるみかけてすぐに持ち直した。今、少女は慶二に心境を吐露することで、救いを求めたのだ。助けてくれと、心から叫んだのだ。

 彼には、それに応える義務がある。

 そして、義務以前に応える優しさがある。


「羨ましいな、そこまで何かに一生懸命になれるのは」

「え?」

「僕は今、カウンセラーを目指して大学に行ってるんだ。暗闇で震えてる人を助けたい、なんて本気で思ってる。でも、君の勝利への情熱には敵わないな」


 彼は僅かに悔しさをにじませて話した。これは本心だった。

 少女の顔が、微かに緩んだ。少女の身体から、死の影がすっといなくなる。そこを、慶二は見逃さなかった。


「君はまだ中学生だ。受験までまだ四か月以上もある。僕の知り合いに、塾にも行かず、冬休みにゲーム三昧の日々を送っていたくせしてそこそこの高校に受かった奴だっているんだ。時間はたっぷりある。今から勉強しても遅くない。この悔しさをばねに、これから頑張ればいいんじゃないかな。絶対に大丈夫だから、深雪ちゃんなら」


 彼は、屋上に立つ少女に近寄り、そっと手を差し伸べた。

 ぎこちない手つきで、少女は俯きながら手を握り返した。

 地上十メートルから見下ろす景色は、彩りに満ちていた。




「おかえりー、レリック!」


 慶二が帰宅すると、同居している天使の先輩、鷹村玲奈たかむられなが小走りに向かってきて、からかうような声で叫んだ。ふんわりとした花柄のワンピースがひらひらと揺れ動いて、その下から白い足がのぞいている。

 彼女は、慶二よりも五つ年上の二十四歳。近所の動物病院で働く獣医だ。同居はしているが、彼と彼女はいわゆる恋人同士ではない。慶二の通う高校が実家から遠かったことや、彼の天使歴が浅かったことから一緒に暮らしだしただけで、その生活が今でも続いている、というわけだ。

 玲奈は、救出部署の若きカリスマと呼ばれている。ゆるやかなウェーブがかかった明るい茶髪と、深くに愛情をたたえた大きな瞳。実力だけでなく美貌も兼ね備えた、慶二にとっては自慢の先輩だ。しかし、現在は諸事情により天使としての仕事を休止している。



 ――事が起こったのは二日前、九月二十日の夜だ。彼女は、一人の自殺願望者の救出を試みていた。救出対象者は、藍川政和あいかわまさかず、二十五歳。大手株式会社、藍川グループの社長の二男だ。

 エリート一族に生まれた彼は近々令嬢との結婚が決まっていたが、彼には心を寄せ合う同い年の恋人がいた。政和は父親に女性との結婚を頼んだが、相手の女性は一般市民でしかも裕福でない、という血も涙もないような理由で却下されてしまったのである。二人は何度も許しを乞うた。そのたびに、父親は息子を殴り、女性を罵倒し、結婚を許してもいいのではないかという母親にも容赦なく手をあげた。

 もともと父親は仕事でのストレスや納得のいかない出来事が起こると、人もの問わずあたることが多かった。その一番の標的となっていたのが、彼の妻、絹世きぬよだった。部下や近隣住民からも嫌われていた夫に対し、妻は優しく偉大な女性だ、という評判である。その評価の差が、また夫を苛立たせ妻にあたるという理由の一つになっていたのかもしれなかった。

 絹世がまだ夫と同じ職場で働いていた頃は、社長にさんざん怒鳴られた後に妻である彼女に救いを求める社員も多かったらしい。

 彼女が退社してからは家にいることが多くなり、その分夫から嫌味を言われる時間は減った。だがしかし、人目を気にする必要がなくなったために、暴力がエスカレートしたようだった。そのときは天使の誰かが彼女を救うことに成功し、現在では滅多なことでは殴られなくなったらしいが、父親を恐れている長男との会話の機会まで減ってしまったらしかった。過程で唯一味方だったのが二男の政和で、だからこそ母親は息子の結婚の許しをそれこそ命がけで乞うたのかもしれない。


 政和は、父親に憎しみを抱いていた。彼は父親を殺そうと考えていた。ある意味、それは仕方のないことだと同情にも似た思いを抱きながらも、天界に送られる魂を増やすわけにもいかないので、なんとかその憎悪の感情を玲奈はかき消すことに成功した。

 だが、救出自体は失敗した。

 犯罪に手を染めるのは下劣な人間に成り下がることだと理解した彼は、恋人に心中を申し出たのだ。

 玲奈が気付いた時にはもう遅かった。止めようと駆けつけた彼女の目の前で、二人は漆黒の海に飛び降りた。

 救出失敗のショックに混乱しつつも、彼女は最善を尽くした。警察に人が海に飛び降りたと連絡を入れて、二人が海から発見されて病院に搬送されるまで付き添った。

 結論から言えば、男性は死亡し、女性は助かった。

 一人助かっただけでもよかったじゃないか、と慶二は玲奈を慰めた。ところが、玲奈は事実を知ると青ざめた。

 ただでさえ、政和の父親は女性を嫌っていたのだ。息子が死に、「政和を死に追いやった張本人」が生きているというのを、どうして遺族が受け入れようか。

 二人は、死者の国で安らかに過ごせるはずだった。ところが、女性は助かってしまった。それがどれだけの後悔となって、苦しみとなって彼女を襲うか。女性が――女性のみが助かったというのは、喜ぶべき事実である反面、ある意味で最悪の事態でもあったのだ。

 玲奈の予測は正しかった。翌日、目が覚めた女性を待ち受けていたのは、ただ一人の肉親である母親が真っ青になって震えている姿と、その母に暴言を浴びせる彼の父親であった。

 女性は、状況がつかめていなかった。何故、病院にいるのか。何故、母親が彼の父親に怒られているのか。

 最初に分かったことは、自分が助かったということだった。

 次に分かったのは、自分が助かってしまったということだった。

 目覚めた彼女に、担当医が玲奈を紹介した。女性の表情が、酷く険しいものへと変わった。憎悪に染まった眼光が玲奈の心を射た。「あなたが放っておいてくれたら、こんな目に遭うことはなかった」。その目はそう語っていた。

 空気に耐えられなくなった玲奈は、「助かってよかったです」と事務的な一言を残して、逃げるように立ち去った。

 異変が起きたのは、その日からだった。彼女は、人を癒す力を失ってしまったのだ。救えなかった、そして助けたが故に余計に苦しめてしまった、という自責の念が、彼女の力に蓋をしてしまったのかもしれない。

 エンゼルカンパニーの社員には慶二が説明をし、ひとまず玲奈は休職という扱いになった。力を失うという前例がなかったため、向こうも戸惑っているようであった。

 これは慶二なりの見解だが、やはり心に負った傷が原因ではないか。ショックから身を守るように記憶を失うように、彼女は悲しみから逃げるために力を失ったのだ。救助しなければ、苦しまずに済む。玲奈の脳は、そう判断したに違いない。

 こうなると、力が戻るかどうかは彼女自身の心にかかってくる。今は、時が経つに任せるしかない。焦っても仕方のないことだ。いつか必ず復活する日が来ると、彼は信じて疑わない。根拠は、今まで過ごしてきた三年間の日々だ。


「ただいま、玲奈さん」


 履いていたスニーカーを青い靴箱に戻しつつ返答し、整った彼女の顔を見据えるとすっかり言い慣れてしまったフレーズを口にする。


「それと、レリックってやめてくれない?」

「やだ」


 くすくすと笑いながら、彼女もお決まりの言葉を述べた。

 レリックというのは日本語で遺存種、過去に栄えた生物が衰微し、現在も僅かではあるが存在しているもの――という意味だ。シーラカンスやイチョウなどがこれにあたる。彼女曰く、「慶二は武将に命を捧げた侍みたいだよねー。今どきこんなに正義感が強い人がいるなんて珍しい!」らしい。侍が持っていたのは正義感でなく忠誠心だし、むしろ敵をズバズバと切り倒していたのだから正義があったなど彼には到底思えないが、彼女はこの渾名が相当気に入ったらしく、以来こう呼んでいる。


「今日は人生をかけてた試合に負けて自殺しようとしてた女の子を助けてきたよ。かなり急を要する仕事だったけど、天界からの通達はなかったみたい。多分、向こうが気付くよりも早く僕が救出を始めたんだと思う」


 慶二は玲奈の後輩だが、ともに暮らす中で互いにため口になり、唯一上下関係の面影が残っているのが「玲奈さん」という呼び名だ。それ以外は、敬いの気持ちなど皆無の口調である。彼女のカリスマ性には敬服するが、敬いの言葉を口にするにはあまりに長く一緒にいすぎたのだった。


「でも、こんなことで、なんで死を決意するのかなー」

「さあね。もう当人にしか分からないことなんだよ、きっと」


 慶二がそう呟けば彼女も「そうだねー」と応答した。ただでさえ、人の心理は複雑で完全には理解できない。自分自身でも、心の奥底で何を考えているのかをつかめていないことが多い。それが他人になるのだから、分からないのは当然だ。

 でも、人は互いに分かり合おうと歩み寄る。辛いことがあったときの心の拠り所を求めて、努力しあえる存在を探して理解に努める。

 誰かは、人間は独りで生まれ、独りで死ぬのだと言った。

 それは違う、と慶二は思っている。それでは、あまりにも悲しすぎるではないか。初めからそうやって否定されてしまっては、分かり合うどころか分かり合おうとする努力さえしなくなってしまうのではないか。慶二にはそう思えるのだ。

 信じることから、すべては始まる。彼は、それを信じている。

 純粋だね、と他人は彼を嘲笑った。慶二だって、この世の中にはどうしようもない真実があることを知っている。でも、その真実を受け入れれば、また違った道が開けるのではないだろうか……。


「玲奈さん」


 彼は、彼女に呼びかけた。「なぁにー?」と間延びした声で彼女が返事をする。白いソファに寝転がったままで、彼と視線を合わせようとはしない。細い足が左右に揺られて、一定のリズムを紡いでいる。彼が何を言おうとしているのか、察している。三年間もともに暮らしてきたのだ。そのくらいのことは容易に感じられる。


「壁にぶち当たっても、乗り越えることはできると思うよ」


 ぴたり、と玲奈は動きを止めた。力が抜けたように顔をクッションに埋める。一方で、スタイルのいい身体には力が込められている。

 彼女もまた、心で叫んでいるのだ。助けてくれ、と。


「僕は信じてるからね、玲奈さんのこと。どれだけ時間がかかってもいい。でも、……でも、絶対に、裏切らないで」

「裏切るわけがないでしょう」


 彼女がようやく返事を返す。その声は、普段の冗談交じりのものではなくて、か細く今にも消えてしまいそうなものだった。

 先輩のこんな姿を見るのは初めてだ、と彼は感じた。仕事に失敗しても、なんだかんだで乗り越えてきたのが鷹村玲奈という天使だった。それが、今や暗い闇の中でさまよい歩くか弱い人間になってしまっている。必ず助けてみせる、そう自分に誓って、慶二は右手を差し出した。

 それは弱々しかったが、彼女は顔を埋めたまま、確かにその手をつかんだ。


     ◇


 まだ夏の暑さが残る九月。少しずつ景色は色づき始め、赤や黄色に着飾った山々が町を取り囲んでいる。今日は、穏やかな秋晴れだ。

 翌日の二十三日、玲奈から場所を聞いた彼は、生き残ってしまった女性が入院している病院を訪れていた。

 玲奈も誘いかけたが、彼女自身がまだ区切りがついていない、対面させるのはもう少し後でもいいかな、と彼なりに判断した。

 慶二を見送る際、彼女は少しだけそわそわしていた。女性の様子はやはり気になるのだろう、と慶二は思った。

 病院は、診療所と言った方がしっくりくるような建物であった。生命の危機は脱して、家の近所の病院へ移転されたのである。だから、彼は玲奈から聞いていた大型病院でもう一度場所を聞き直さなくてはならなかった。

 結局、目的地にたどり着いたのは家を出てから三時間後だった。

 ナースステーションで病室を聞くと、ちょうど女性の家族が現れた。まだ五十代ほどだろうが、髪がすっかり白くなっている。看護師に愛想よく笑いかけているが、相当無理をしているように思えた。彼女に、自身のことを友人ですと偽りの紹介をすると、その母親は簡単に納得してくれた。


「僕は、白河慶二です」

「いつも結奈ゆながお世話になっています。わたくしは、結奈の母の翔子しょうこと申します」


 挨拶程度の会話を交わしながら、彼は翔子とともに病室へと向かった。プレートには六名の名前が書かれており、その中の一つに朝丘あさおか結奈という名前があった。

 軋んだ音を立てる引き戸を開けると、六つのベッドがあった。一つ一つが、薄いピンク色のカーテンで仕切られている。その中で、入って一番奥の右に生き残った女性、結奈は寝ているらしい。窓の近い、いい場所だ。


「あの、申し訳ないのですが……」


 カーテンを開く直前、翔子が恐縮した様子で彼に言った。何でしょうか、とやんわり尋ねれば、「頼まれていた雑誌があったことを思い出したので、売店で買ってきます」と走って行ってしまった。これは、彼にとってはラッキーだ。


「こんにちは」


 カーテンをそっと開け、慶二は優しく女性を見つめた。彼女の顔には、飛び降りの際の傷が生々しく残っていた。右腕と右足に包帯が巻かれている。

 怪我だけでも痛々しかったが、何よりも慶二を暗澹たる思いにさせたのはその表情だった。

 感情が、抜け落ちている。慶二は、「身体が自由になったらすぐにでも飛び降りて彼の後を追おう、早くしなければ間に合わない」といったような焦りや、「どうして助けたんだ」というような玲奈への怒りが彼女の中で渦巻いていると考えていたのだ。

 だが、事態はさらに深刻だったようだ。結奈は考えることに疲れ恐怖し、心を捨ててしまっているようだ。これは、早く救わなければ取り返しのつかないことになる。心を失ってしまった人間ほど、悲しい存在はない。


「誰?」


 無機質な声が問うてきた。母親がいたら、一発で友人でないことがばれてしまうところだった。雑誌のファインプレーに感謝しつつ、出来るだけ明るい口調で自己紹介をした。


「僕は、白河慶二って言います。あなたを助けた、鷹村さんの友人です」

「たかむら……」


 その名を口にした瞬間、僅かではあったが彼女の目に感情が宿った。感情を完全に失っていないことを確認できて、とりあえずは安心する。しかし、気を抜いてはいけない。彼の使命は、彼女を――彼女らを、救うことだ。


「結奈、元気?」


 メフィスト、と書かれたファッション雑誌を結奈は無言で受け取ると、気だるそうにぱらぱらとめくり始めた。礼くらい言えばいいのに、と一瞬思ったが、現在の彼女にはそんな余裕すらないのだろうと思い直す。彼女は別に、雑誌が読みたかったわけではないのだ。ただ気を紛らわせる何かが欲しかっただけで、今回はそれがたまたま雑誌だったのだろう。

 母親は、気まずそうにその場に立っていた。慶二も、来てみたはいいがここからどうするべきなのかが全く分からなかった。母親に友人と説明してしまったことを早くも後悔していた。いずれ正体はばれるし、何より罪悪感が半端ではない。

 皆、暫しの間沈黙を守っていたが、やがて母親が「白河さんと結奈はどういったお友達なの?」と質問してきた。

 う、と慶二は詰まる。ちらっと結奈に目をやると、彼女も視線を合わせた。


「この人とは初対面」結奈が面倒臭そうに説明をする。「わたしを助けた人の友達だってさ」


 ジーザス。心の中で慶二は呟く。


「すみません。友人と言わなければ中に入れてもらえないかと思いまして……騙すつもりはなかったんです」


 懸命に詫びると、翔子は「まあ、玲奈さんのご友人でしたか。お気になさらず。来てくださっただけでも、むしろ感謝したいくらいです」と述べた。柔らかな笑みを見せる翔子に、後光が差しているように彼には見えた。

 罪悪感が消えると、慶二はようやく来訪の趣旨を告げた。自分は、苦しんでいる彼女の心の闇を振り払いに来たということ、玲奈もまた政和が亡くなってしまったことで苦しんでいるということ、そして何より、元気になることが彼のためになるということ――。


「僕は大学で心理学を学んでいて、将来はカウンセラーを目指しているんです。だから、あなたの苦しみを、きっと少しは取り払うことができるのではないかと思っています。僕は、あなたに立ち直って欲しい。あと、これだけは言わせてください」

「…………」

「僕も、そして鷹村さんも、あなたの味方ですから」


 伝えるべきことは伝えた。あとは、時間をかけてゆっくりと心の鎖を断ち切っていくだけだ。

 心のケアは、焦ってもうまくいかない。

 慶二は二人に深々と礼をすると、静かに病室を出た。


     ◇


 妙な人だな、というのが第一印象だった。病室の外から母親の会話する声が聞こえていて、誰かが来ることは予測していたがまさか赤の他人だったとは。

 こんにちは、と声をかけてきた彼は、至って普通の若者だった。しかし結奈は、彼の内側に秘める優しさに気づいていた。だが今は、その優しさが、言葉で包容される感覚が辛かった。

 辛かったが、その感情すらもうどうでもいいと思えてきた。考えても無駄だ。彼女は助かってしまい、政和とは永久に会えなくなった。約束を破った彼女を、彼は許してくれるだろうか。

 細かく頭を振り、彼女は考えることを放棄した。今さら何を思ったところで、彼を裏切ったという現実が変わるわけではないのだ。


 ――僕も、そして鷹村さんも、あなたの味方ですから。


 他人のあんたに何ができる、と結奈は内心冷笑した。想いを寄せていた人に死なれ、空っぽになった世界で生きていかなければならない自分の泣き叫びたくなるような苦しみが、どうして理解できるのか。

 力になりたい、と心からぶつかってくる彼の姿は、正直とても眩しかった。あそこまで自分に素直に生きられたら、どれだけ幸せなのだろうと一瞬そんな思考に陥った。

 ただ……もう、幸せに生きる資格はない。結奈は立ち去る彼の姿を横目で見ながら、そう思うのであった。


「結奈」


 母親が、彼女に言葉をかけた。お願いだから、黙っていて欲しかった。せめて、現実を受け入れる時間が欲しかった。まだ彼が死んでしまったという事実を、結奈は受け止めきれていなかった。頭では分かっていたが、心がどうしても納得しないのだ。

 ろくに読んでいない雑誌から目を離して、彼女は母と視線を合わせた。急に老けてしまったようだ、と申し訳ない気持ちでいっぱいになる。ただ、その表情が顔に出ることはなかった。まるで、心と身体が分離してしまったかのようだ。

 どうせたいしたことは言わないだろうに、と思いながらも結奈は簡素な返事をする。


「何」

「白河さんの言うとおり、元気になることが一番の償いよ。だから、ほら、笑って」


 失敗しても、笑えばまた頑張れるから、と翔子はよく結奈にそう言っていた。小学校の運動会で、転んでしまったときからだ。懐かしさが、結奈の胸に込み上げてきた。

 病室の窓から、オレンジ色の光が差し込んでくる。夕日を見ると悲しい気分になるのは、どうしてだろうか。

 彼と過ごした日々が脳裏を駆け巡る。彼女は今でも、彼を愛していた。覚悟はあるか、という言葉が心で繰り返される。覚悟はあったよ、と今はもういない彼に無言で答える。

 どうして、現実はこんなに冷酷なんだろう。


「笑ってすむならとっくに笑ってるよ」


 娘の言葉に、母の顔が歪んだ。娘は正直になれないことで、母は娘の心情を理解しきれないことで、自分を責めていた。

 息苦しい沈黙が、親子の間を支配する。

 静寂を突き破ったのは、荒々しく開かれた病室のドアだった。姿を認める前に正体が分かり、二人の身体が一瞬にして硬直する。


「少しずつ回復してるようで何より何より。まあ、息子はもうお前と違って回復することもないんだがな」


 政和の父親――藍川良太郎りょうたろうは、冷たい口調で言葉を投げつけた。深い闇に沈んだ目には、混沌とした感情があった。ただそれは、怒りでもなければ悲しみや憎しみでもない……あらゆる感情がごちゃごちゃと混ざり合い、形容しがたい黒さを作り出している。

 彼の登場で、世界は一気に暗黒に染まる。


 最初に藍川が訪ねてきたとき、まだ結奈は手術中であった。海に飛び降り大量の水を飲みこみ、さらに全身を強く打ちつけていた二人のために、医師らは全力を尽くした。そのおかげで、彼女は一命を取り留めたのだった。

 結奈がまだ生死の狭間を行き来している間に、藍川とその長男は駆けつけてきた。彼の母親の姿はなかった。もう翔子は到着していて、医者の言葉を待つだけだった。手術室前の廊下は九月だというのに底冷えしていて、すべての存在を拒むかのようである。

 数時間ほど経って、手術室から薄緑色の衣装に身を包んだ担当医が現れた。翔子は反射的に立ち上がり、藍川親子は座ったままだった。


「藍川政和様のご家族の方は?」


 通報者の玲奈が、二人について大まかな説明をしていたため、医師の言葉も疑問形ではあったがその目はしっかりと正しき人物に向けられていた。


「我々がそうです」


 兄が答えた。医師の顔から、もう次の言葉は察していた。

 間を置き、担当医が真実を告げる。


「最前は尽くしたのですが……」

「そうか」医師の言葉を遮るように、藍川が言った。「君が……君は、気に病むことはない。ありがとう」


 あっさりとした口調で言うと、藍川は翔子の方に目をやった。彼女は、消えてなくなってしまいたい、とでもいうように身を縮こまらせた。藍川が鼻で笑う音が、しんとした空気に響く。

 医者は小さく一礼すると、「こちらへ」と藍川を誘導する。それに彼が無言でついていく。慌てて、長男が後を追う。

 政和は、穏やかな表情で横たわっていた。結奈と引き裂かれてしまうことなど、夢にも思わないといった表情で。ようやく愛する人と一緒になれた喜びに浸っていた。

 二人とも、言葉なくその遺体を見ていた。泣きもしなければ、なぜこんなことをしたんだと激怒することもなかった。文字通り、ただ見ているだけだった。そこには一切の感情が窺えず――唯一あるとするならば、藍川の名を汚すな、という嫌悪感だった。


「細かい手続きは明日、代理人をよこす。では今日はこれで失礼する」


 父親は小さく、礼と言えぬような礼をして足早に立ち去った。長男がそれに続く。

 愛情のかけらもない言葉に、医師は切なげに政和の遺体を眺めた。大手株式会社の二男だとは通報者から聞いていた。あの父親は、世間体を気にすると同時に死んだのが二男でよかったと思っているに違いなかった。兄は兄で、相続する遺産額が増えると内心ほくそ笑んでいただろう。

 お金があるからといって、必ずしもそこに幸福があるとは限らない。むしろ裕福な家庭ほど問題があることの方が多いのではないか。金の力に溺れ、本当に大切なことを見失ってしまう。だから家族はすれ違い、そこに愛が消える。

 医師は嫌な想像をかき消すように首を振ると、そっとその場を後にした。

 ――翔子は迷いなく帰っていく藍川に気付かず、ただじっと目を瞑って結果を待っていた。

 相手の男が亡くなった、という認識はあった。娘が助かる保証など、どこにもなかった。

 結奈がこの世からいなくなってしまえば、翔子は独りだった。家族を失い、それでもなお生きる希望があるかと問われればそれは否だった。これからあと数十年の日々を、孤独に送る勇気は彼女にはなかった。

 静まり返った空気の中で、彼女の激しい鼓動だけが聴こえていた。今、結奈は生命のリズムを刻んでいるのだろうか。それとも、死の淵に落ちて世界に永久の別れを告げてしまったのだろうか。

 確かめる術は、ない。


「結奈……」


 生きていてくれ、と切に願った。これほど神に祈ったことは、いまだかつてなかった。存在するかすらはっきりしないあやふやなものに、すべての運命をゆだねていた。

 パチッという音を立てて、緑色に光っていたランプが消えて扉が開かれた。母親は、顔をあげた。同時に、執刀医が機敏な足取りで彼女のもとへ向かう。


「むすめは、――」翔子は立ち上がり、震えながら尋ねた。「娘は」

「峠は越えました。だいぶん脈も安定してきましたし、直に目覚めると思います」


 安堵感で気の緩んだ翔子は、急に力が抜けてしまい椅子に座り込んだ。小さく嗚咽を漏らしながら、とめどなく溢れる涙をそのままにして恩人に精いっぱいの礼を送る。

 手術室から、一命を取り留めた結奈がベッドに乗せられて出てきて、そのまま病室へと運ばれていく。

 翔子は、まるで目を離したら娘が消えてしまう、とでもいうように医師らの姿を追った。

 その日、母は娘のそばを片時も離れようとはしなかった。



 藍川はわざとらしく溜息をつくと、親子を見下ろした。それから、心中事件騒動での被害を滔々と述べた。


「とにかくだな、『父親が結婚を許さなかったが故に若い二人は身を投げるしかなかった』などと、週刊誌とかいう屑どもが騒ぎ立てていてなあ。まあ? 藍川グループの二男が心中なんて恰好のネタだろうし仕方がないとは思うんだが、ねえ。この私より、息子を誑かした挙句死に追いやったお前の方がよっぽど悪人だとは思わんか。ええ?」


 藍川がベッドを蹴り上げる。他の患者さんの迷惑になります、と蚊の鳴くような声で翔子が注意する。知るか、どうせこんなところにいるのは低能で金のない連中だろう、と藍川が溜息交じりに吐き出す。そうして、結奈の方に視線を移した。


「この小賢しい悪女のせいで、我が藍川グループは世間様から冷たい視線を送られているのだよ。株価も大暴落だ。あーあ、一体どうしてくれるんだ」


 藍川はわざとふざけた口調で語りながら肩をすくめる。翔子は何も言えず、じっと顔を伏せることしかできなかった。


「何が目的――」


 無機質な声で結奈は彼に問おうとした。ふつふつと込み上げてくる感情を抑えながら、可能な限り冷静に振舞おうと努めた。

 だが、結奈が言い切る前に藍川は言葉を紡いだ。


「目的? そんなものはない」藍川は冷笑交じりに吐き捨てる。「第一、入院費用だけでも厳しいお二方に何ができる」


 鋭く尖った眼光が母娘に突き刺さる。

 藍川はでっぷりと太った身体を、ベッド脇の椅子に下ろした。座った刹那、椅子が悲鳴をあげた。


「私はただ、真実を言いに来ただけだ。息子は死に、お前はまだのうのうと生きている。私の会社には激震が走った。貴様は娘が生き残りさぞかし幸せだろう。……こんな薄汚れた場所、もう二度と来たくはないね」


 腹回りの肉を揺らして彼は立ち上がると、別れも言わずにさっさとその場から去って行った。

 翔子は娘に、「気にする必要はないわ」と微笑むと、やがて疲れたように肩を落とした。もう藍川の顔を見ることはないと思うと安堵感が心に影を落とした。

 結局、政和の母親の顔は一度も見ることがなかったな、と翔子はぼんやり思った。


「気にしているのは、お母さんの方じゃない」


 結奈は聞こえぬように呟いて、母親から顔を背けた。


     ◇


 辺りはすっかり黄昏色に染まっていた。紫雲が茜色に輝く空にかかっており、慶二に幸運の予感を与えていた。

 手応えは微かではあったがつかんでいた。彼女は、慶二に少なからず関心を向けていた。彼の正直さが、熱心さが、確かに伝わっていた。


「あとは、玲奈さんをどうするか、か……」


 結奈が立ち直れば、玲奈も自信と癒しの力を取り戻すかもしれない。だが、それだけでは足りないような気がした。彼女自身が立ち直ろう、と決意しなければいけないだろう。やはり、事件の当事者同士でなければ完全な解決は難しいように思われた。慶二は天使だが、あのことについて詳しい事情は分からない。部外者が口出しをするのは、常に危険が付きまとう。結奈の場合は、玲奈に対する敵意を取り除くという意味では彼が関与した方がいいのだろうが……。

 彼女を救う方法を模索しながら、慶二は帰宅した。


「ただいま、玲奈さん」

「おかえり! レリック」


 蜜柑色のカーディガンを翻して、玲奈は彼のもとに駆け寄った。今日は、チェック柄のショートパンツを穿いている。髪には、二年前に慶二がプレゼントした黄色のピンが付けられていた。大事にしてくれているのだな、と胸に喜びが込み上げてくる。

 相変わらずの彼女に、定型文を捧げる。


「それと、レリックっていうのやめ」

「やだよー」

「え、まだ最後まで言ってないんだけど」

「だってさあ、いっつも同じ台詞なんだもん」


 つまらないじゃない、と今更玲奈は頬を膨らませて、慶二の胸を小突いた。いつになく上機嫌の彼女に不信感と安心感を抱きつつも、彼は茶色のスニーカーを靴箱に戻す。

 インテリアにこだわりを持つ玲奈自慢の、青と白で統一されたさわやかな雰囲気のリビングに向かいながら、慶二は彼女に訊いてみる。


「何かいいことでもあったの?」


 元気な姿を見せようと無理をしているわけではなさそうだ、と彼は判断し、明るさの原因を探るために声をかける。昨日まであんなに落ち込んでいた人間が突然様変わりしたのには、必ず理由があるはずだ。

 疑問を持つ彼に、玲奈はくすくすと笑いながら返答する。


「実はさあ、会ってきたんだー」

「だ、誰に?」


 吹っ切れた表情で話を続ける玲奈に、疑問と驚きが混ざった声で問いかける。会ってきた、というのは事件に関する人だろうと慶二は筋読みしていた。となれば、結奈か翔子のどちらかだろう。藍川や長男坊に会って喜ぶとも思えない。

 相手の名前を聞いた彼は、一瞬思考が止まった。この事件の被害者は、結奈と翔子と政和、そして玲奈の四人だとばかり思っていたが――もう一人、絶対に忘れてはならない人物がいたではないか。

 玲奈は、ゆっくりと答えた。


「うん。藍川家の、母親に」


     ◇


 慶二が玲奈から聞いた病院へ向かっている頃、彼女は結奈が本当に入院している病院の前に立ち尽くしていた。

 多少の罪悪感はあった。慶二は、彼女の言葉を信じて総合病院へ移動しているはずだ。もう、そこに結奈はいないのに。

 病院が変わったことを、玲奈は翔子から聞いていた。そこのことを彼に伝えてもよかったのだが、そのときは彼に救いを求めるなんてできない、と考えていた。我ながら小さいな、と彼女は自嘲する。困ったときは、助け合わなければいけないのに。

 彼に正しい場所を教えなかった理由はもう一つ。時間稼ぎのためだ。

 慶二が結奈に会いに行くと言ったとき、一緒に行くと喉まで出かかった声を反射的に呑み込んでいた。そこまで頼ってはいけないと、先輩としてのプライドがそうさせたのだった。最初に運ばれた病院と現在地は、方向が正反対だ。玲奈が結奈に会う時間は十二分にあった。


「……会わないわけには、いかない」


 玲奈には、彼女を救う義務がある。

 けれど、今の彼女には人を癒す力はない。

 それでも、助けたい、という熱意はあった。

 慶二に手を取られたときに、何かが彼女の胸の中で弾けたような気がした。彼女は、心強い味方が近くにいることに改めて気づいたのだ。信じている、と彼は言った。頑張らなければならないと思った。こんなことでくじけるのは、先輩としてみっともない、と自らの心に鞭を打った。

 今日はせめて、顔だけでも覗かせよう。救出はもっと、心が落ち着いてからでいい。何か行動することが大切なのだ。信じることからすべては始まる。彼のその言葉を、彼女は信じることにしたのである。


「あの」

「ひょああ!?」


 不意に後ろから声をかけられて、玲奈は奇声を上げた。それを恥じるように、「な、なんですか」と声の主に訊き返す。

 やつれた初老の女性がそこに立っていた。高級感漂うスーツを身にまとっているが、目の周りには隈ができ、うっすらとではあるが頬の辺りが青くなっている。玲奈はもう、女性の正体を悟っていた。


「藍川さん、ですよね」


 女性はその問いかけを待っていたかのように早口で語りだした。彼女もまた、玲奈のことを確信したようであった。


「ええ。政和の母、絹世です。あなたは鷹村さん、ですよね」

「はい、そうです。……政和さんのことは、」

「それ以上、言わないで。息子は、わたくしの心の中で生き続けていますから」


 はっとしたように玲奈が口をつぐんだ。その様子を見て、絹世がゆっくりと首を振る。


「気に病むことはないわ。あなたには本当に感謝しています。息子は確かに助からなかった。でもね、あなたがあの場所にいなければ、息子の愛した結奈さんも一緒に旅立ってしまうところだった」

「え……」

「あの子はいい娘さんだったわ。よく分からない会社の社長の一人娘よりも、ずっと気立てのよい、清楚な女性だった……」


 絹世はただ一人、二人の結婚を応援していた味方であったことを玲奈は思い出した。彼女もまた、結奈のことを気にかけている人物の一人であるようだった。

 二人の間には、すでに絆が生まれていた。


「少し、お話しできませんか?」


 玲奈は彼女を誘った。絹世はそれを快諾した。

 ――二十分後、二人は病院近くのファミリーレストランにいた。藍川グループの夫人があまり立ち寄る場所ではない、彼女は不思議そうにメニューを眺めていた。

 もうランチタイムは終わり、人数は少ない。

 二人は店員に紅茶を頼むと、しばらく黙っていたがやがて絹世の方から口を開いた。


「夫が酷いことを言ったみたいで、本当に申し訳ないわ。あの人は、妙にプライドが高いから」

「いえ、私は大丈夫です」


 玲奈は柔らかい微笑みを浮かべて、彼女が謝るのを制する。謝らなくてはいけないのは、藍川本人だ。絹世は何一つ悪いことをしていない。彼女が謝罪する必要性は、ない。

 絹世と話している間に、だんだんと心が浄化されていくような気が玲奈にはしていた。

 誰かに似ている――と思索して、ようやくその人物に思い当たる。


「実はね、声をかけるかどうか迷ったのよ」絹世は苦笑しながら、「夫に病院には行くなって言われていて、政和とも葬儀の時にしか会わせてもらえなかった。けれど、結奈さんは生きている。だから一度は会っておきたいって思って来ましたの。でも、あなたがあまりにも辛そうだったから、放っておけなくて」

「え?」

「あなたは通報者で、わたくしたちと直接の関係はない。でも、片方だけが助かってしまったことできっと苦しんでいるって。わたくしにはそう見えましたの。もし間違っていて、勝手なことを言っているのだとしたらごめんなさい」


 彼女はそこまで言うと、愛情に満ちた視線で玲奈を見つめた。その眼差しで、玲奈は確信した。彼女が似ていると思った人物は、慶二だった。天使である彼には、当然癒しの力がある。彼がまとっている雰囲気と絹世の持つそれは、驚くほど酷似していた。

 天使は、職務を終えると天使としての記憶を失う。

 ただし、癒しの力が消えることは、ない。

 彼女に関するデータは、政和の第一救出のときにある程度収集していた。藍川に中傷的な言葉を投げつけられた社員が、こぞって彼女に救いを求めていたという。

 それは、彼女がほかでもない、天使だったからなのではないだろうか。

 彼女の持つ癒し効果に導かれるように、彼らは絹世のもとを訪れていったのだ。

 確証はない。けれどまず間違いはない、と玲奈は考えた。

 株式会社藍川グループは、日本でも屈指の大企業だ。そこの社員の人数となれば相当なものに違いない。だから、彼女が天使の職を終える日も通常よりかなり早かったはずだ。

 現在の彼女には天使としての記憶がない。天使同士なら話した瞬間に察知できるのでそれは確実だ。

 癒しの力は、「会話」によって引き出される。だから、父親を恐れて会話をしなくなった長男や、相手の言い分を聞かず自分の言いたいことだけを喚き散らす藍川には、彼女の力は発揮されなかったのだ。


「絹世さんの意見は正しいです」玲奈はゆっくりと頷く。癒し効果だけでない、傷ついた者同士だからこそ分かり合えるいたわりが、絹世の言の葉に乗せられていた。「なんだか、元気が出ました」

「よかったわ。顔つきも、かなり明るくなったみたい」


 心を覆い尽くしていた氷河が、徐々に解け始めているのを玲奈は感じていた。

 その後、二人は運ばれてきた紅茶と追加注文のケーキを楽しみながら談笑し、穏やかな気持ちで別れた。

 玲奈の瞳には、光が戻り始めていた。


     ◇


「レリックのおかげだよ。私はもう、誰かを救うことなんてできないと思ってた」


 ソファに腰を下ろして、玲奈は話し始めた。口調はいつになく真剣で、慶二も立ったまま相槌を挟むだけだ。


「でも、レリックは私のことを信じてくれた。裏切らないでって言った。立ち直らなきゃなぁって、そう思ったんだ。いつまでも落ち込んでたら、慶二も悲しむなぁって」


 久しぶりに呼ばれた名前に、慶二は驚いて彼女を見つめた。だが、玲奈自身は呼び名が変わっていることに気付いていないようだった。

 そのまま、彼女は語り続ける。


「ほんとはね、一緒に結奈さんのところに行きたかったんだけど……そうしたら、頼りすぎちゃうような気がして。だから一人で病院に行って、顔だけでも見せて、ちょっとずつ頑張っていこうって、そう思ってたんだけど」


 玲奈はここまで言うと、慶二の手を取り半ば強引にソファに座らせた。「片方が立っているなんて、フェアじゃないでしょ」とどこかで聞いたような台詞を口にして、話を再開させる。


「いざ病院に着いたら怖くなっちゃって。情けないよね、本当に。入れなくて立ち尽くしてたら、絹世さん……政和さんのお母さんに会ったんだ」


 それから玲奈は、絹世もまた被害者であること、そして彼女が元天使なのではないかということ、彼女と会話をしていく中で自信を取り戻してきたということを語った。

 彼女の言葉に耳を傾けながら、結局自分の力ではどうしようもなかったのだなと寂しい思いを慶二は抱いていた。

 その瞬間、視線を外したのが悪かった。玲奈は慶二の腕を突然つかむと、「もう、ちゃんと話聞いてよっ」と頬を膨らませた。


「逸らしたの一瞬でしょ、全部話は聞いてたから、痛い離してまじで」

「慶二、話し方が女々しいよ」

「玲奈さんも力は男以上……うわあ、ごめんなさい許して」

「そうじゃなくって!」


 玲奈は半分怒りながら慶二から手を放すと、「ふざけてるわけじゃないの!」と彼と再び視線を合わせた。


「こういうときふざけちゃうこととか、知ってるでしょ」やっぱりふざけてたんじゃん、と慶二は思ったが口には出さない。「そ、その、ちゃんとお礼言おうと思って。私が完全に落ち込まずに済んだのも、結奈さんのところに会いに行こうって思えたのも、全部レリックのおかげだよ! ありがとう!」

「レリックって、ふざけてるだろ完全に!」


 どちらかといえばこちらを名前で呼んでほしかったな、などと思いつつ、この方が彼女らしいなと内心微笑んで、玲奈の方を小突いた。

 女子に手をあげるなんてあいつと一緒だ最低だ、と喚く彼女に、「もう女子って年じゃないでしょ」とうっかり口を滑らせた慶二が、「酷いありえない女子は永久に女子なんだぞ理解しろ!」と殴られたのは言うまでもない。

 それから二人は結奈を救う方法を熟考し、久しぶりに笑いあえた記念だと出前の寿司を慶二の奢りでとって美味しく食した。

 とりあえず、二人で結奈のもとを訪れゆっくりケアしていこう、ということで話は落ち着いた。

 結奈の玲奈に対する敵意を取り除くこと、変わり始めた娘の姿を見せて翔子を救うことが明日の課題だ。

 それと、二人にはもう一つやるべきことがあった。天界と連絡を取り、確かめたいことがあったのだ。

 互いにすっきりとした気分で、その日を終えた。


     ◇


 カーテンの奥から、朝日が漏れている。病院ですることといえば寝ることくらいで、いつの間にかしっかりとした生活リズムが出来上がっていた。

 時計を確認すると、六時ちょうどだった。九月二十四日という日付も入っている。病人生活を送ってから、すでに三日が経っているのだった。

 もう少し寝ていようかとも思ったが、あと一時間もすれば朝食が運ばれてくるので起きていることにした。

 読み飽きてしまった雑誌を適当にめくりながら、結奈は今後のことを考えていた。怪我も治ってきたため、通院することを条件に明日明後日には退院できると医師から言われていた。

 怪我が治るのは、生きているからだ。

 現実が重く彼女にのしかかっていた。しかし、彼女が背負っていた十字架は、僅かに軽くなっていた。


(白川さんが来てからだ……)


 結奈はぼんやり思う。後悔と絶望の海で溺れている彼女に、救いの手を差し伸べたのが彼だった。

 生きてしまっているのに、生きようと一瞬でも思った自分がどうしようもなく嫌だった。

 助けて欲しい、とは思った。足掻いても現実は変わらない。だったら受け入れるしかない。そんなことは、とうの昔に分かっていた。

 でも、そんな勇気はなかったから、二人で決意を固めたのだった。それが間違っていたとは、今でも思っていない。

 ただ……。


(また私は、現実から逃げようとしている)


 分かっているから辛かった。だったら、理解しなければ苦しくないのか。それも違う、と彼女は知っていた。現実逃避は、根本的な解決にはならない。その場をやり過ごすための、ツケに過ぎない。

 あのときもそう言えばよかったのだろうか。そうすれば、固める決意の内容は違っていたのかもしれない。

 でも彼だって分かっていたはずだから。その上で、二人は心中という道を選んだのだ。

 もう、結奈にはどうするべきかが全く分からなかった。生きることは彼に対する裏切りとなり、死のうとすれば医師や母親への裏切りとなる。


(ああ……どっちにしても、私は、裏切り者なんだ)


 雑誌を閉じて息をつくと、そのまま目も閉じた。

 ――来客があったのは、午前九時のことだった。足音ですぎに分かる。母親だった。

 すっと自分の顔に仮面が貼り付けられるのを結奈は感じた。これから前を向いて歩いていくよ、と一言でも告げれば、翔子は安心するに違いなかった。ただ、それを言ってしまうのは負けになるような気がしていた。だから、何の感情もない、何も考えなくていい、機械のような人格を意識した。

 このままロボットのような人間を演じ続ければ、いつか本当に綺麗さっぱり苦しみが消えてなくなる日が来るのではないか、という淡い期待を抱いていた。生きながら死んでいる、そんな人生を送ることができるのではないか――。


「おはよう結奈」


 申し訳ない気持ちを抱きながらも、結奈は無言を貫いた。そっけない態度の娘に、母親は愛想を尽かすだろうか。それならそれでいい、と思った。見放されてしまえば、どうしようと勝手だ。


「もうすぐ退院ね。まだあんたは若いんだから。いくらだってやり直せるわ」


 並べられるのは、きれいごとばかりだ。

 結奈はだんだんうんざりとしてきた。謝りたいという気持ちなど、どこかに吹き飛んでいた。

 ふつふつと込み上げてくる感情を、彼女は投げ飛ばした。


「もういい加減放っておいて――」

「おはよう!」


 彼女の言葉を遮るように、慶二は挨拶をした。予想外の出来事に思考が置いて行かれていた。同様に驚いている母親にも彼は丁寧にお辞儀をして、「今日はもう一人いるんだ」と言って手招きをする。


「お久しぶりです」

「あら玲奈さん。来てくださってありがとう」


 こいつが電話をしたばっかりに、と結奈の胸を黒い感情が渦巻いていく。

 ちらっと玲奈の方に目をやり、彼女に対する嫌悪感を露わにしたが彼女の姿にどことなく見覚えを感じ、頭の中をフル回転させる。すぐに思い出した。玲奈が着ているのは、メフィストに載っていた服と同じなのだ。

 妙な偶然もあるものだな、と自然に笑みがこぼれる。

 翔子の動きが止まった。瞳を潤ませながら、娘を見つめる。ようやくその理由が分かった。

 結奈が、少しとはいえ笑ったからだ。


「よかった……やっと笑ってくれた」感無量といった様子で翔子が呟く。「よかった」



 感激している母の姿に、娘は複雑な気分だった。

 何とも言えない表情をしている結奈を見て、玲奈は救うなら今だと直感した。

 癒しの力は完全には戻っていないかもしれない。けれど、そこに熱意があるのなら。想いは必ず伝わるはずだから。


「ごめんなさい!」


 玲奈は深く頭を垂れた。先ほど慶二が現れたときの様子から、突発的な出来事に弱いと判断しての行動だった。

 案の定固まっている結奈の隙をついて、一気に言葉を紡いでいく。


「昨日ね、政和さんのお母様に会ってきたの。あなたのことを、とても気にかけていた」


 結奈の脳裏に、絹世のことが甦っていた。殴られながらも、ともに結婚を頼んでくれた強く優しい人だ。


「私は、そこまであなたのことを知っているわけじゃないから何とも言えないのだけれど……立ち直って欲しい。この先、生きていれば辛いこともあると思う。でもね、やっぱり生きていて欲しいの。あなたがこうして助かったことには、きっと意味があると思うから。私も白河も、誰よりあなたのお母様も、結奈さんのことを応援してる。見守ってる。あなたは、決して独りじゃないから」


 玲奈の言葉には、確かな力が、愛情があった。真剣な言葉に、思わずまじまじと彼女の顔を見つめる。


「出来る限りのことは僕たちもしようと思います。何か出来ることがあったら言ってください」


 会話をするには、質問をするのが一番だ。

 柔らかい表情の二人に心をゆだねそうになっている自分に気付いた結奈は、吐き捨てるように呟く。


「そうやって偽善者ぶらないで。本当は私のことなんてどうでもいいって思ってるんでしょ」


 そんなわけがない、というのは彼女自身が最も理解していた。二人は、本気で結奈のことを考えてくれている。でも、彼のことを考えるとこうして救われていくのは罪になるように思えた。

 一方で、かかったと二人の天使は顔を見合わせた。内面を晒すということは、心を開き始めている証拠だ。


「思ってたらどうするの?」玲奈は問い返した。「そうやって聞くけれど」

「……別にそのときはしょうがないでしょ」

「しょうがないって言うってことは、少なからず私たちのことを信じてくれてるって思っていいかな?」


 すっと玲奈の目に光が宿った。彼女が救われ始めていることで、玲奈もまた心に光が差し込んだのだ。

 若きカリスマの完全復活だ、と慶二は大きく頷いた。


「信じているわけじゃない」本当にそうなのだろうか、と自問しながら結奈は小さくつぶやいた。明らかに、強がりだった。「信じているわけじゃないから」

「そっか……」


 慶二は寂しそうに息をついた。溜息とともに投げ出された思いに、結奈歯を食いしばって顔を逸らした。

 彼女は今、自分と闘っているのだ。となれば、二人の言葉はさしずめ援護射撃といったところか。

 彼女を苦しめる檻に、玲奈は照準を合わせる。


「逃げることは、簡単だとは思う」


 力強い口調で。彼女自身、苦しみから逃げるために力に蓋をしてしまっていたのだから、現状、誰よりも結奈の心を理解できるのは彼女なのかもしれなかった。

 魂からの叫びに、結奈は顔をあげて玲奈と視線を合わせる。


「逃げちゃえば相手も見えなくなるし、安心するし。でも、敵は諦めずにずっと追いかけてくるんだよ。闘う日が延長されるだけで、いつかはちゃんと向き合わなきゃいけない。もしかしたら、そのときその敵を独りで倒さなきゃいけないかもしれない。でもさ、結奈さんにはこんなにたくさんの味方がいるじゃない。高い壁も、みんなが支えていれば乗り越えられる。壁を壊したっていい。やり方はたくさんあるから。それは自分で決めればいいと思う。結奈さんが進むって決めたのなら、私たちは絶対に後押しするから」


 ふっと、結奈は後ろを向くと震える息をゆっくりと吐き出した。じんと胸が熱くなっていた。その熱で、仮面も溶けていくようだった。


「きっと、政和さんも喜んでるよ。あなたが立ち直ってくれてね。いろんなものを見てねって、そう思ってると思う」


 玲奈は満面の笑みでそう言うと、彼女の肩を優しく叩いた。

 昨日の夜、二人は天界に連絡を入れて、鎮魂部署に「藍川政和と会話をさせて欲しい」とお願いしたのだ。

 すべての天使と霊の行動を把握しているエンゼルカンパニーは、快く承諾してくれた。

 政和は、玲奈だけが生き残ってしまったことを少しも恨んでなどいなかった。むしろ、自分のせいで一生を棒に振ることがなくてよかったと安堵しているくらいだった。彼女の様子を伝えると、彼は二人に伝言を頼んだ。

 天使の仕事は一般人には秘密だ。だから、彼がこう言っていたよと伝えることはできない。でも、代弁するくらいなら許されるのではないだろうか。そう二人は考えたのだ。

 結奈は滲んだ世界に三人の味方の姿を認めた。笑えば、また頑張れるから。その言葉を肯定するように、精いっぱいの笑顔を浮かべた。心を閉じ込めていた檻が、音を立てて崩れた。あやふやだった大地がくっきりと見えてきた。自分自身をしっかり見つめられるようになった。

 前へ、進んでいこうと思えた。


「こんにちは。元気そうでよかったわ」


 凛とした声が四人の耳に飛び込んできた。あ、と玲奈が声を上げる。絹世だった。


「初めまして。わたくし、藍川の妻の絹世と申します。挨拶が遅れてしまい、大変申し訳ございません」


 静かに頭を下げる絹世に、翔子は慌てて「とんでもないです」と継ぐと、「頭をあげてください」と懇願した。


「優奈さんが早く元気になってくださることを、祈っております。出来る限りの支援はしたいと思いますわ」


 絹世は淑やかに言うと、「夫にばれると大変なので」と苦笑しつつ帰って行った。明るい結奈の姿を見て、彼女もまた元気をもらったようだった。


「味方が一人増えたみたいだ」慶二は機敏な足取りで帰っていく絹世を見送りながらそう述べた。「心強いな」

「はい」結奈は首肯して、「ありがとうございました」


 表情はとても晴れ晴れとしていて、本来の自分をようやく取り戻したといった感じだった。

 翔子も悩みの種が消えて、心の底から安心したようだ。


「これから頑張って生きていく」


 慶二は政和の伝言を思い出しながら、自身の言葉のように語った。


「覚悟はあるか?」


「彼」の言葉に、結奈は泣いているような、笑っているような声で、「覚悟はあるよ」と返答した。


     ◇


 十一時を少し回った頃、慶二と玲奈の二人は朝丘母娘に別れを告げて病院を後にした。

 そろそろ昼食を食べよう、と二人の住む家の近くのファミレスに向かっていた。

 十二時ちょっとすぎに、二人は食事場所へと到着した。


「あれ、白河さん?」


 いざレストランに入ろう、というときに、背後から少女の声がして二人は振り返った。

 やっぱりそうだ、と深雪は笑顔で叫んだ。四緒に立つ友人が、「誰、誰」と連呼している。


「命の恩人だよ」


 深雪は友人にそう答えた。ドラマや小説でしか聞かないような言葉に、友人は目を輝かせて「その話詳しく!」と肩を揺さぶっている。


「あとでね」深雪はくすっと笑って、「今日は中間テストだったから、学校が早く終わったんだ」と慶二に教えた。

「出来はどうだったの?」


 慶二が尋ねる。うーんと悩みながら、深雪は言った。


「そこそこかな。でも、八十点は取れると思う」

「えー、全然そこそこじゃないじゃん! 八十点はとってもだよ、とっても」


 友人が深雪は冷やかす。彼女も、「あんたは万年学年一位だろー、ずるいぞ!」とやり返している。

 玲奈がくすっと笑った。助けて本当によかったよ、と慶二は玲奈に目で語る。


「でも、本当に白河さんのおかげで勉強頑張ろうって思えたんだ。この子に負けないくらい勉強して、高校で頑張ろうと思う」

「応援してるよ」

「高校受かったら、何か奢ってね」


 深雪は明るく笑いながらそう言って、「感謝してます!」と真剣な口調で叫んで敬礼をした。


「自分を信じて頑張ってね」


 慶二も敬礼を返すと、二人の少女に手を振った。

 希望を打ち砕かれる出来事は、人生の中で必ずやってくる。それを乗り越えるから、喜びという感情は存在するのだ。

 少女たちは、楽しげに話しながら帰っていく。


「人を助けるのって、やっぱり清々しいねー」


 大きく伸びをしながら、玲奈は彼に笑いかける。


「あそこまで立ち直らせるなんて、さすがは私の後輩! 優秀だねー、レリックは」

「……もう、レリックでいいや」

「えっ、何で?」


 反論してこない慶二に、彼女が戸惑ったように訊く。

 その姿に、彼は頬を緩ませながら「ほら、やっぱり」と呟いた。


「やっぱりって何が、ねえ、何が?」

「玲奈さんは僕をからかいたいんじゃなくて、僕に反論してもらいたいだけなんだよ」

「はぁ、意味分かんないし」

「僕は意味分かるよ。玲奈さんは構って欲しいだけなんですよー、ねえ」

「う、うるさいっ!」


 顔を赤くした玲奈が、慶二の背中を拳で殴る。「いたっ、」と悲鳴を上げる彼に、「天の裁きだ!」と訳の分からない理由で容赦なくもう一発お見舞いして、「今日は慶二の奢りなんだからね!」と口角を上げた。先輩のプライドはどこへ行ったのだろう。


「レリックって呼んでいいなら、もう呼ばないから!」


 小学生のような言葉を口にして、鷹村玲奈二十四歳はファミレスに入ると、「二人です」と店員ににこやかに告げた。


「玲奈さん、勝手に入らないでってば」


 慶二は慌てて彼女の姿を追った。玲奈は一度だけ振り返ると、「早く早くー」と手招きして席に着く。

 相変わらずの彼女に、慶二は心底安心した。

 と、心では思うが絶対に表情には出さない。


「ステーキセットとチョコレートサンデーにしようかなあ」

「高い、そして太るよ」

「今日は晴れてるからいいの」


 玲奈は答えになっていない謎の理屈を述べて、店員を呼ぶベルを押した。

 軽やかな音色が、店内に響き渡る。


「え、まだ僕決めてないんだけど」

「じゃあ、早く決めなきゃね」

「まったく、誰のせいでこんなに焦らなきゃいけないんだ」

「誰のせいだろうねー」

「ねー」


 彼女がこうして元気でいてくれるなら、多少の出費や焦心も問題ないかな、と慶二は内心微笑む。

 優秀なファミレス店員はすぐにやって来た。


「ステーキセット二つと、チョコレートサンデーとヨーグルトアイス、お願いします」


 慶二は店員の女性に告げてから、玲奈に笑いかける。彼女の口が、小さく「太るよ」と動いた。

 今日は晴れてるからいいんだ、と慶二は頷いて笑顔を返した。

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