◆ オルドリッジⅢ
腰の曲がった初老の男が、杖の先端を両手で握り締め、よたよた歩きでその廊下を歩いていた。身のこなしは既に老人のそれだが、身に纏う衣装は綺麗な執事用スーツ。この男は決して年老いているわけではない。だが度重なる魔力酷使の末、年齢以上に身体の老化が進んでいた。腰は曲がり、顔の皺は増え、乾いた眼瞼は深く窪み、目がぎょろりと浮き上がっている。
彼は仕える主人の元へと急ぎ、歩を速めていた。
エリンドロワ王国北東に位置する貿易の中心街バーウィッチ。
そこにはその界隈で知らない者はいないほど有名な貴族が鎮座している。
―――イザイア・オルドリッジ。
イザイアの経歴については一つ、謎に包まれた部分がある。
彼は代々魔法の名門貴族オルドリッジ家の次男として生まれた。
オルドリッジ家のルーツは遡れば非常に歴史の深い家系がある。仕来たりにも小うるさく、5歳になったら魔力鑑定をするというのが慣わしだった。やがて、それが鑑定士、家庭教師を通じて幅広い階級の国民に広まったようで、今ではどの家でも子どもが5歳になったらそうしている。
イザイアの幼少期は特に特筆すべきことはない。
代々引き継がれた優れた魔力は兄弟たちの中でも同格だった。
強いて挙げるとすれば、叙事伝や神話、英雄譚を読み漁るのが好きな読書家だったと云う。また、小さい頃からコレクター癖が強く、くだらない魔道具を集めるばかりで、何かの魔術に特化して打ち込むといった事もしていなかった。それが原因で一つの魔術に特化して修練を積む兄弟たちから遅れを取っていたという話もある。
兄弟たちとの本家継承権を巡る争いの中、一人だけのんびりな平和主義者であったとも……。
そんな彼が富や名声を手に入れたきっかけとなったのは西の魔法大学に在籍した時の事だ。
大学で博学を極めたイザイアは、かつて机上の空論といわれていた"時間魔法"を提唱、実演して見せた。その功績により、当時有力候補だった長男を差し置き、オルドリッジ家の本家跡取りとして屋号を継承したのである。
単なる書面上での略歴を見ればおかしい点なぞ無い。
だが彼の謎というのは、"時間魔法"を提唱するその前後の性格の豹変ぶりにあった。
それ以前までは温厚で争いを嫌う平和主義者だった彼だが、それ以降は野心家で狡猾な性格が露わとなり、時には大胆に、時には緻密にオルドリッジの地位を向上させた。
この足早に長い廊下を歩く初老の男は、その"豹変"の原因を唯一、知る人物である。
屋敷の本館最上階である3階に辿り着いた初老の男は、額に汗を浮かべながらその両開きの扉の前に立った。この大きな扉が主人の書斎兼寝室である。
彼は事前に示し合わせていたノックで、合図を送った。
――――トトトン、トトトン、トトトン、トン。
主人からは「1本締め」という名前のサインだと聞いている初老の男だが、異国特有の合図のようだ。なかなかこのリズミカルなノックの仕方を気に入っていた。
このノックの仕方を知ってるのはこの初老の男だけなのである。
「入れ」
短いその声だけを聞き届け、男は慌ててその部屋に駆け込んだ。
部屋に駆け込むと同時に広い書斎が目に入る。正面には大きなデスク、背もたれの高いチェアーがこちらに向いていた。このデスクもチェアーも特注のもの。イザイアが職人に注文をつけて作らせたものである。腰掛けて背を預けると、背もたれに仕組まれたバネが背中を支え、リクライニングして楽な姿勢に変動できる優れものだった。
イザイアはそのデスクで書類にサインをしながら、男に一瞥をくれた。
「旦那様……その、現れました……」
「なんだ、その慌てようは? 貴様少し見苦しいな、オーブリー」
初老の男―――オーブリーは言われてはっとなり、急いで額の汗をハンカチで拭い取る。
「失礼いたしました……」
「まぁ良い」
暴君と謳われる主人から許しを得られ、ほっと肩をなでおろすオーブリー。だが焦っているのか握り締める杖は忙しなくぐりぐりと地面に押し付けたり、両手で擦ったりしている。
落ち着きがなかった。
「そ・れ・で? 貴様、そんな見苦しい姿を見せるために"一本締め"を使ったんじゃあるまいな」
「い、いえ、そうではありません。旦那様、ご報告が……」
「一本締めは、九拍子に最後の一拍子が大事なのだ。"九"とはつまり私の祖国の文字で、こう書くのだ」
空中を指でなぞるイザイア・オルドリッジ。
「そして最後の一拍子、この点が加わることによって、"丸"という意味を表す文字に置き換わるっ」
「は、はぁ……」
「つまり、すべては丸くおさまる、という縁起の良いメッセージが隠されているのだっ」
オーブリーには全く理解できなかった。
イザイアのそのこだわりも、そしてその説明も。
何故なら彼には"漢字"という異世界文字に触れる機会などなかった。九拍子と一拍子あわせて、合計の十拍子がなぜ"丸"なのかが理解できない。
「私が貴様に何故この合図をさせているのかというとだな―――」
「サードジュニア……がやってきたのでございます」
いちいち説明が長くなる主人の言葉を無理やり遮るように、オーブリーは捲くし立てた。
その報告を聞いて、イザイアも喋るのをやめて一呼吸おく。
「………ほうほうほう! もちろん追い返したのだろうな?」
「はい、勿論でございます」
「な・る・ほ・ど……素晴らしい。予言の通りだ」
満足げにニヤリと笑ってみせるイザイア・オルドリッジ。既に四十半ばを迎え、使い込まれたはずの身体はまだ現役並みの屈強な身体をしている。その大柄な図体は相手を威圧させるのに十分だ。
サードジュニアとは彼が勘当した三男である。イザイアは、息子のサードジュニアが5年の歳月を重ねてこの屋敷を尋ねて来ることを知っていた。
―――ある予言にて。
「うむ、良い知らせが入ったぞ! つまり、ヤツは絡み合った因果の中からこちらの計らい通りに行動し、そして無事にリゾーマタを"掘り起こし"て持ち帰ってくれたというわけだ」
「然様にございます」
「ミーシャに命じて"アザリーグラードの迷宮"を毎晩読み聞かせておいて良かった」
三人いる息子たちの中で、三男のみが野に放たれた。
なぜ三男だけ捨てられなければならなかったのか。「息子に魔力がない事が世間に知れるとオルドリッジの評判が落ちる」というのは単なる建前だ。そもそも三男に魔力が無いわけではないということはイザイア自身も認識していた。
―――測定できない魔力を持つ子が生まれたら。
予言ではそう教えられた。
既存のマナグラムでは測定できぬ虚数の魔力を持つ子ども―――その子は確実に生まれると"ある者"に告げられた。その子どもが生まれたとき、10歳の誕生日に捨てろとも助言されている。
斯くして三男は、指示通りに野に放たれた。
"ある者"が用意した駒の数々―――それぞれ紡いだ因果の果てに、サードジュニアは無事にアザリーグラードへと辿り着き、彼が待ち侘びていたもの「リゾーマタ・ボルガ」の原型を手に入れた。
「"複雑系"を証明してみせたな、ケアよ」
オーブリーは、イザイアの右隣のソファに視線を移した。
そのソファシートを全面に使い、ふてぶてしく足を投げ出して横になる女がいた。その女は名前を呼ばれたのに反応して面倒くさそうに上体を起こす。―――この女こそいくつもの駒を用意し、彼に予言を託した"ある者"である。
「そうね。敷き詰めた予定調和ではあと10日後のはずだったのだけど……まぁ誤差の範囲かしら」
「それも所詮は神が仕組んだ計画――単なる"予定"に過ぎん」
「………」
女は後ろ髪を掻いた後、手櫛でその絡まる毛先を払った。薄紫色の癖のある長い髪は、少しでも横になるだけで寝癖が着いてしまう。彼女は不機嫌そうにその長い髪の先端をいじり始めた。その瞳の虹彩は禍々しさの象徴のように、赤黒く渦を巻いていた。
「現世に受肉するといろいろと不便だわ」
「不便だと? 神の分際で、なかなか人間味というものが板についてきたではないか」
「そういう貴方も貫禄が板についてきてるわ。肉は腐るから大切に扱いなさい」
皮肉を言い合う2人のやりとりはいつものことだった。
身体のことは他人事。それもそのはず。この2人にとって肉体とは単なる器に過ぎない。
「旦那様………坊ちゃまの卒業記念式典は予定通りで、問題はございませんか?」
「す・べ・か・ら・く、問題なかろう。なぁ、ケアよ」
「……この世界軸の場合、演奏家の手配を76時間早める方がサードジュニアの接触が容易になるわ」
「聞いたか、オーブリー。そうしろ」
オーブリーは今一度、額の汗を拭った。オーブリーは彼是20年近くイザイアの執事として仕えている。しかし未だにこうして謁見のたびに息が詰まるのだ。その理由は単にイザイアが主人として怖ろしいからではない。
転生者と女神。
片や古代の大魔術師と呼ばれた者、片や元より肉体など持ち得ない神という存在。
エンペド・リッジとケア・トゥル・デ・ダウ。
アザレア大戦の戦犯と恐れられた存在二人を相手にしていると考えたら当然の反応だった。
「承知いたしました……エンペド様」
「抜かるなよ、いよいよ大詰めだ」
オーブリーは慌てて部屋を出ていった。平静を装うように扉はゆっくりと閉めたようだが、閉め切った後に逃げるように廊下を走り出したことは主人も気づいていた。
デスクに頬杖をついて溜め息をつくイザイア・オルドリッジ――否、それはただの器だ。その器にはエンペドの魂がいるのだからエンペド・リッジと呼称したほうが適している。
エンペドに、女神はふと問いかけた。
「このまま長男に実権を譲るの? 権力を明け渡すなんて珍しいわね」
「そもそも私は権力になぞ興味はない。いや、むしろ毛嫌いしているくらいだ。……我が探求にそれが必要だったというだけの話さ」
「そう……。もう必要ないということかしら?」
「リゾーマタ・ボルガとサードジュニアの肉体さえ手に入ればな」
女神ケアはエンペドの顔を飽きれたように一目見やると、また気だるそうにソファで横になった。その様子を見送り、エンペドは然して興味を失ったバーウィッチの官公関連の書類へのサインを再開させた。
―――要らぬさ、こんなつまらぬ権力など。
○
エンペド・リッジは屋敷の庭先を散歩していた。
彼は散歩が好きだった。昔から文明の利器に頼ることを嫌い、転生前の世界でも電気系統の機器というものをなるべく使わず、徒歩の移動を好んでいた。
そんな変わり者の堅物だった彼は、転生先のこの世界のことを不便に思ったことはない。むしろ魔法という自然界に密接に交わる力に大いに好感が持て、さらに利便性も感じていた。
しかし一度目の転生ではその魔法に対する探究心が災いし、最後にその魂は"封印"という名の永久監禁に処されてしまう。
その監禁地獄から救い出してくれたのは何を隠そう女神ケアである。
「お父上さま……!」
シンメトリー式の庭園を進むと、そのティータイム用に作らせたガーデン空間に座る息子から声をかけられた。
「なんだ、ジュニア―――いや、失礼。もうアイザイアと呼んだ方がよいか」
「そんな改まるのはやめてください」
エンペドは長男のアイザイアに敬意を表してそう呼んだ。これまで"ジュニア"と呼ばれ続けた長男だが、魔法大学での功績によりイザイアの名を継承することが決まった。イザイアとの区別のために発音を変えてアイザイアと呼ばれている。これで後追いの次男坊がどうなるか次第では、アイザイアがそのまま本家を継ぐ。
「お父上のおかげです。時間魔法は体得が難しいですが、基盤がしっかりしているので応用研究に繋げやすい」
「そうか。そうだな。実際に使うとなるとな……うむ、なかなかできるものではない」
エンペドはつまらなさそうに返事をする。
転生者である彼に、もはや血縁関係の情などは持ち合わせていなかった。彼にとって息子3人、布いては未来永劫の子孫というものは自らの魂を置く"器"の存在でしかなかった。
エンペドは立派に成人した長男の姿をもう一度見納めた。
立派にと言ったが、母親ミーシャ・クライスウィフトの血が濃い。だから決して戦士向きの身体ではなく男にしては貧相で華奢な身体をしていた。おそらく長年、学問中心の生活をさせていたからだろう。質実剛健がモットーのエンペドにとっては軟弱そうなその肉体はあまり好ましいとは思えない。歳の差があってもこれならばイザイアの肉体の方がまだ生命力や筋力が高いだろう。
真面目なアイザイアは実践術よりも座学と論文で功績を評された。そのデスクワーク向きな体ならば、あの退屈な事務仕事も任せられそうだ、とエンペドも妙に納得した。
「お父上、もしよろしければここで時間魔法を拝見させてはいただけませんか?」
「なに?! 時間魔法だとぉ?!」
「え、は、はい……。大学では父上が時間制御を実践してみせたと伺ってまして……」
エンペドは目をこれでもかというくらい見開いて長男を睨んだ。
「うーむ、あれは無闇やたらと使ってよいものではない。時空にねじれが生じ、過去や未来、はたまた別の時空へと放り出される危険性がある。あるいは2人そろって死という未来も、な」
エンペドはそれらしい理由をつけてその羨望の眼差しを振り払った。
「そ、そうですね……! 申し訳ありません、お父上……私がまだ魔法に対する認識が未熟でした」
「分かれば良い。好奇心とは危険なものだが、オルドリッジの男がそれを怖れてはならない」
「はい!」
「そ、それよりもいよいよ来月はお前の誕生日と卒業記念式典パーティーだっ! その日はお前が主役なのだから存分に楽しみにしておれ」
「お父上さま……ありがとうございます! お父上のような尊敬できる当主を目指します!」
事なきを得たエンペドはこっそりと安堵の吐息をもらした。
時間魔法―――いわゆる、時間制御スキルを使える存在は、神々を除けば、この世に"イザイア・オルドリッジ"ただ一人しかいないのである。