Epilogue 古より愛を込めてⅠ
時代が一つの円環を成した。
覡歴628年から先、メルペック歴997年の、ちょうど千年の刻。
この途方もない歳月はまるで紐の両端を結んで輪にしたように繋がってる。
とある女神と、とある転生者の男の陰謀と、
それを阻止した一人の戦士の暗躍によって。
エリン東部の湿地帯。
そこに建造された女神の祭壇にやってきた。
魔族によって建造され、されど彼らは故郷に帰ってしまい、いまや蛻の殻となった、無縁仏ならぬ無縁神殿。
――ギャラ神殿。
いずれ忘れられる神殿に、その最後を飾ろう。
トドメと言ってしまえば言葉が悪い。
言うなれば、"お供え"だ。
輪廻を巡る千年の妄執、因縁、宿願の類いが決して成就することがないように。
あの"正史"が正夢にならないように。
千年後、ここに足を踏み入れた俺が、変わらず夢を追いかけ、あの理想に辿り着けるように。
骸を抱え、外側の階段を一歩一歩登る。
階段の先には薄紫色の髪をした司教。
「お前はやっぱりその格好がお似合いだよ」
見慣れた黒の修道服を着て佇んでいる。
「そうかしら。まぁ、旦那様が遺した財産だもの。大切にして余生を慎ましく過ごすってのが未亡人らしい生き方でしょう?」
「……メルペック教会のリピカ・アストラルか」
「いずれそう名乗るらしいわね」
リピカは湿地帯に差す日差しを眩しがるように手を添えて、青空を眺めた。
異教に殉教した神に、想いを馳せている。
メルペック教会はこの時代から始まった。
神からの独立を目指す異教。
神を敬遠し、その恩恵の魔法を秘匿とする教会。
彼らの信仰するものは己が精神である。
その後ろ盾が、神代の全能神リィールであることを知る者は数少ない。
それがメルペック教会。
数年後、ロワ三国は国家統一を果たす。
クーデターを引き起こしたとされるハイランダー軍はその責を逃れられず、彼らの解散により、軍事力を誇るペトロ皇国も勢力を落とす。
その折、最も人徳が高く、人脈が広いメルペック教祖が国を一つにまとめた。
教祖の名はオーガスティン・メルヒェン。
王家の血縁でもあり、エリンで外相を担っていた彼がロワ三国最上の国の法王に君臨することになろうとは誰も予想はしなかった。
そこから『エリン・ド・ロワ史』と『メルペック歴』が始まり、俺の知る盤石な大国が長い歴史を積み重ねていくことになるそうだ。
いずれ教会と王家は分離し、教皇の後釜にはこの女が抜擢される。
俺が見たエリンドロワ王城と聖堂の、両者見劣りしない建築の出来にも頷ける。
二大勢力は程よいバランスで存在し続けるが、俺の知る限り『聖堂騎士団』の方は酷く荒れていた。
「将来はもう少し親しみやすさを学ぼうぜ。……教会の信仰者を集める為にもさ」
「あら。もう十分、親しみやすいでしょう」
「どの口が言うか。胡散臭さが突き抜けてるぞ」
「貴方に言われたくないわね」
リピカは俺が抱える亡骸に一瞥くれた。
そのまま"機械の右手"を凝視している。
これはグノーメに作らせた魔導義手だった。
もしかしたらトカゲの尻尾のように右手も自己修復して元に戻るかと思ったが、それはなかった。
致し方なく義手を嵌めているが、土属性の魔力がこの身に備わってない為、可動しない。
だが、飾りかと言われるとそうでもなく、生成した魔力剣が自然と手から突き出せるようになり、弾丸のように手の平から射出されるように改良した。
結果、前より戦闘がスタイリッシュになった。
――その分、俺の戦闘兵器化は進んだのだ
まぁ、そこを指摘されたら元も子もない。
俺とリピカは神殿の内部に入り、亡骸を祭壇に捧げた。
用意されていた棺に納める。
リピカはその上に、牛皮紙の『アーカーシャの系譜』を折り畳んで静かに入れた。
「まるで埋葬するみたいだな」
「結果的にはそう言えるわ」
「でもこれは"イザイア・オルドリッジさん、頑張ってくださいね"って千年越しの応援メッセージだろ」
「……統禦者である神の命題でもあるけれど、私たちがやっていることは卵が先か鶏が先か……情報の二律背反ともいえる不可思議な現象よ」
俺たちは経験則に基づき、神殿に亡骸をアーカーシャの系譜とともに封印する。
イザイア・オルドリッジという何も知らない男をこの結末に導く為の計略だ。
だが、その経験則というのが俺自身が見てきたことなのだから、時の流れを一本の線で辿ればループが発生することになる。
故に、二つの時代が円環を成したということ。
「どの世界でもこんな現象はきっと初めてよ。『時の支配者』なんて存在が生まれてしまったことによる初めての二律背反」
「ああ……」
変な二つ名をつけられた時の事を思い出した。
時の支配者はそういう由来か。
「じゃあ尚更、埋葬なんていうべきじゃない。世界初を祝して"お供え"と呼ぼう」
「はぁ……供えられる身にもなりなさい」
「はは、それは自業自得だろ」
棺には一人の魔術師の亡骸。
こいつは別の世界からやってきた。
または、ハイランダーの業火で一騎当千を果たした"俺自身"でもある。
「名前も体も乗り越えて、それでも確かに存在した無名の戦士。――無銘を起源にしているとはいえ、さすがに自己にこだわりが無さすぎるわね」
リピカは棺の中の亡骸を眺めてそう呟いた。
そんなこと言われても……。
確かに、名前だけじゃなくて体まで変えられるなら、もはや此処にいる俺の存在証明はどう果たすというのか。
俺にもよくわからない。
でも、だからだろうか。
棺の亡骸を見て込み上げる思いは、ざまぁ見ろとか、二度と復活するなとか、その手の憎悪じゃなく、ただの労いの挨拶だった。
――お疲れさま。
◇
戦場に向けた、あの揺るぎない眼差し。
それを決して忘れまいとエトナ・メルヒェンは筆を取り、『詠唱』を綴った。
エリン王都の郊外、旧メルヒェン邸。
その高貴な屋敷の一室で机に向かっている。
北の森で出会ってから色んなことがあった。
彼の強さ、弱さもすべて見て、その最後は清らかで尊いものだったことがエトナは嬉しかった。
あの日見た名前の無い戦士は、最後に救われたのだ。
カリカリと音を立てて筆を走らせる。
アザレア王国で貰った魔道具『万年筆』は滑りが良い。
『第一楽章』
あぁ、目覚ましくや、暴君の侵攻を嘆き姫。
草木も枯れた大地を前に、なぜ我が神ヘイレルは救わぬか。
屈して祈りを捧げ、ついぞ戦士や舞い降りる。
漆黒の衣纏いし豪傑。瞳の色や、まさに万物の理を見えん。
――北の森で出会った日を綴った。
『第二楽章』
城や宴や、夜ふけて時。忍ぶればこそや姫の恋。
夜風が星屑から舞い降りて、乙女の髪を揺らして囃す。
夢見る乙女は、風に誓う。
此度の戦乱、乗り越えん。すなわち我は結ばれよう。
勝利と栄光は約束の大地でいずれ、咲き誇る。
――王城パーティーから山岳遠征の日々だ。
その恋は叶わないと知っても夢に見た。
『第三楽章』
暴君は戦火に油を注ぎ、大地は焦がれて民は塵となる。
侵略は許せぬ。彼の戦士に女神の祝福よ在れ。
いつか帰る場所は血に染められた。
彼の戦士は駆け抜けた。その時代、その歴戦。
斯くして民は救われん。姫は待ち侘び、戦士を迎える。
しかし何ゆえと神に問おう。
戦火を沈めた彼の英雄、幻影を残してその灯は儚く散る。
――アザレア大戦。血塗られた歴史。
暗躍した英雄の死を綴った。
『第四楽章』
かつて世界を救いし者、孤高の大地で何を愁う。
幾度の戦火に抱かれよう、無数の剣戟に晒されよう、
彼の者の揺るぎなき眼差しは屍の山にてその意を貫く。
果たして民は彼の戦士を認めたか。
偽善と欲望に苛まれ、疲弊した戦士を、
ヘイレル・イースの太陽は眠りにつくまで見逃さなかった。
――ハイランダーの業火。最後の戦い。
戦士は復活を遂げた。
丘から望む孤高の戦場を前に、報われた。
ヘイレル・イースとは女神のことだ。
七施の精神で、イースは氷を意味する。
彼を戦士にし立てた冷酷な女神も、最後には彼を優しく見守った。
その女神の名はケア・トゥル・デ・ダウ。
こうして名も無き英雄譚は幕を締める。
いつか幼い彼がこの歌を聴くことを祈って。
エトナは筆を置き、伸びをした。
窓辺に吹くそよ風を眺め、もうすぐかと憂いでいる。もう少しでお別れだ。
もう少しで――。
「お姉ちゃん、もうすぐ準備できるって」
「……」
「ちゃんと見送ってあげなきゃ」
「わかってるわよ」
椅子から立ち上がり、支度する。
マウナが部屋にやってきてその時を告げた。
あの戦いから一ヵ月ばかり過ぎた今日、ジェイクとリア・アルターがリゾーマタ・ボルガを通じて未来へ帰る日を迎えた。
当初から知ってたことであり、何度も心の準備をしてきたことである。
旧メルヒェン邸には必要最低限の使用人を置き、エトナとマウナと今日旅立つ二人だけが暮らし、見送りはメルヒェン姉妹と、メルペック教会の司教リピカの三人だけである。
寂しい送迎だが、それは彼本人が望んだことだ。
廊下を歩いて中庭へ向かう。
そこには準備を進めてきた、神の羅針盤『リゾーマタ・ボルガ』が怪しく赤黒く輝きを放っていて、廊下の窓際からでもその輝きは確認できた。
彼らを見送った後、リピカが責任もってアザレアへ持ち運ぶと云う。
そして、あの羅針盤は封印される。
彼らとこの時代を繋ぐ門は閉じられてしまう。
「ねえ、旅に出るって本当?」
「――え?」
廊下を歩く中、マウナは姉の憂慮も厭わずに話しかけた。それ故にエトナは反応が遅かった。
「あ、ええ……まず北の森にいって、森伏の儀でお世話になった使用人に御礼に行って……そのまま、北の国を目指すわ」
「それじゃあ、しばらく会えないか」
「そうね。ふふ、もう帰ってこないかも」
マウナは姉の冗談に面食らって目を瞬かせたが、すぐに笑顔に戻った。
「お姉ちゃん、社交の世界、嫌いだもんね。これからまたメルヒェンの時代が来るって分かったら、逃げ出して当然か」
送別の相手は別の二人だというのに、マウナは姉のことばかり話をしている。――いや、敢えてそうしている、とエトナは気づいた。
今日の別れの、その先を話して気を紛らわせてくれているのだ。
妹はそんな気遣いをする気立ての良い女の子なのだ。
エトナは姉として鼻が高い。
これから妹に言い寄ってくる貴族連中を追い払ってあげられないのが一つの心残りである。
ジョゼフのこともある。
盲目の恋に捉われた男の執念というのは、時に大勢を巻き込んで害を成すときがあるものだ。
ちなみにジョゼフ=ニコラ=パンクレスはペトロ皇国に戻り、療養中だと云う。
少しずつ回復に向かっている、という話を耳にするが、本人は城に引き籠り、外出することはなくなってしまったそうだ。
自慢のハイランダー軍も解散され、"九騎"も居た自国のエリート兵のうち、二人を死傷させてしまったのである。
ペトロ皇国が誇る兵力は衰退の一途を辿った。
代わりに脚光を浴びたのが、ラーダ兵士長ランスロット・ルイス=エヴァンス。
人間離れした身体能力で、今も成長中だとか。
まぁその兵士も、淑女の扱いはどれほどのものかを知る由もないか。――エトナは妹の将来を憂いで溜息をついた。
でも、きっとこの子なら大丈夫だろう。
心配されるのは自分自身の方かもしれない。
◇
綺麗な中庭に浮かぶ、不釣り合いな羅針盤を眺めて茫然とする。
「だいぶかかってしまいましたね」
「そうだな」
羅針盤にはリア由来の神性魔力が注がれた。
というか、これの準備はほとんど任せた。
……未来へ帰る気がなくなった訳じゃない。
エンペドの亡骸のお供えや、ボルガ・シリーズの賢者への返却、黒い宝玉の然るべき場所への献納など、奴が荒らし放題やってくれた後始末のために奔走していたのだ。
俺も早く、帰りたい。
シアとももう一年も会っていない。
向こうで流れた歳月は十六年だそうだから、こっちの比じゃないだろう。それでも待ち続けてくれて、愛娘もこっちに送り込んでくれたというのだから、俺はその恩は一生返すことができないかもしれない。
「"今さらどの面下げて帰ろうかなぁ"?」
「……なんだよ?」
リアが俺の口調を真似て顔を覗き込んだ。
俺があまりにも恍けた顔をしているものだから、腹の内を読もうとしたのかもしれない。
「そんなことは思ってない」
「じゃあ何ですか、浮かない顔をして」
娘は俺のことを勘繰っている。
せっかく念願の帰還を果たせるのだ。
もっと嬉しそうにしてほしいんだろう。
まぁ、エトナのこともあるし、娘としても不安に思って当然だ。
「……リアの話によると、シアの外見はほとんど変わってないんだろう?」
「まぁ、半妖精ですから。魔族の平均寿命が二百歳に対して、エルフの平均寿命はさらに倍の四百歳と言われてます。……エルフは稀少種なので誤差は大きいですが、半妖でもお母さんの寿命は人間の五倍ほどあるでしょうね」
ということは人間族換算で三年間か。
それでも長い。
「もしかして歳の差を気にしてらっしゃる? 二人とも見た目が若い上に、お父さんも前世を踏まえれば精神年齢不詳でしょう。ちょうどいいじゃないですか」
まぁ、それを言われればその通りだ。
でも俺が気にしているのは根本的に違う。
シアの外見が十六年間ほとんど変わらなかったということは、あいつは若々しいまま、周囲の人間がどんどん年老いていくのを見ていたってことだ。
エルフ同士の友達なんていない。
そもそもシアには身内もいなかった。
その中でどれだけ孤独を味わったことか。
リアはそんな風には見えなかったというが、子供の前で弱みを見せないのが親ってもんだ。そんな日々を想像してしまうと、最初になんて声をかけたらいいか分からない。
待たせて悪かった? 本当にごめんな?
どれも軽く思えてしまう。
正直、気まずい。
こっちが古代で賑やかな面々に囲まれていたら尚更だ。
「ほら、噂をすれば影です」
リアは中庭に現れた双子の魔術師を見ている。
「噂なんかしてないけど……」
「心の中を読んでますから」
「またそういうことするか」
ベンチから立ち上がり、片手を挙げて迎えた。
先にマウナが駆け寄って、エトナがゆっくり歩いてくる。
二人が揃ってから礼を告げた。
「二人とも、本当にありがとう」
この時代に不時着したその日、二人に会っていなかったら俺はリゾーマタ・ボルガまで辿り着けなかっただろう。
助けられたのはお互い様だし、どちらの苦労が大きかったかなんて比べるものではない。でも、巻き込んでしまった事件の大きさを考えたら、明らかにメルヒェン姉妹は被害者である。
「……その、いろいろと悪かった」
「何言ってるの。私たちもジェイクさんがいなかったら、今こうしてこの家で暮らせてないよ?」
この家……。
郊外のメルヒェン邸は火を放たれた。
その家は修理され、こじんまりだが、同じ家で暮らせた。
報復がなければお屋敷は健在だっただろう。
だが、元を辿れば、青魔族問題を解決しなければ、エトナはペトロ皇族に政略結婚させられる予定だったのだ。
その意味では二人一緒なのは俺のおかげか。
「でも、また別々の道を歩むんだろ?」
「まぁね。私は魔法を勉強する為にロクリさんを招いて都暮らしする予定だし、お姉ちゃんは――」
マウナがエトナの方に振り向いた。
エトナは困った様子ではにかむばかりだ。
「――ま、無理やり引き離されるんじゃなくて、お互い納得して別れるんだからいいの。めでたしめでたしってね」
「そりゃあ良かった。魔法の勉強、頑張れよ」
「うん。いつかお姉ちゃんを超える凄い魔術師になってみせる」
姉の結界魔法『三千世界』のことだろうか。
ひたむきに頑張ろうとする姿は未来の王女様と重なった。
マウナが一歩、足を退いた。
そして姉に目配せしている。
エトナは遠慮がちに俺の傍へやってきた。
「……」
「……」
なんだろう。これから会うシアとも気まずいが、エトナとの別れも気まずい雰囲気が漂っている。
エトナは目を泳がせた。
捻り出すように言葉を探している
「その、皆にお別れ言わなくていいのかしら?」
ようやく出てきた言葉がそれらしい。
自分とのことよりも、他の人を気にする辺り、やっぱり俺とエトナは似た者同士だと思う。
皆ってのは賢者たちのことだろう。
「ボルガを返しに行ってから会ってないじゃない。突然、貴方がいなくなったら寂しがると思うわ」
「ああ……皆とはまた会えるしなぁ」
これから千年後に会える。
"久しぶり。あのジェイクって俺のことだよ"
そう言ったらなんて顔されるか。
「そ、そうよね!」
「それよりも――」
ほら、と左手を差し出す。
生身の手だから、こっちの方がいいだろう。
「……?」
「最後に握手しよう」
「はぁ……握手……?」
落胆したようにエトナは肩を落とした。
気を悪くしたか、眉間に皺を寄せて仕方なく、という感じで左手を取った。
カチ、と銀の環が手の中で触れ合う。
こんな指輪をつけ合っていても、最後のお別れは握手。
エトナはそれが残念だと思ったらしい。
だから俺は、せめて――。
「わ……わぅっ!」
エトナの左手を引き、その体を抱き寄せた。
ハグだ。これくらいならまだ友情の範囲。
「じ……ジェ、ジェイク……ちょっと!」
腕の中で赤面して暴れるエトナを包む。
リアやマウナが「あらあら」と言っている。
無視だ、無視。好き放題、言わせておこう。
俺だって別れが恋しいに決まってる。
もちろん未来では妻帯者で、シアを随分と待たせていて、悪いという気持ちはある。でもこの感情を塞ぎ込んだまま、さよならを告げるのは嫌だ。
この行為だけなら友達の範囲内だろう。
恋愛感情が伴って、完全に浮気心があっても貞操だけは守った。
未来で落ち着いたら、シアにも正直に話す。
そして地に頭をつける勢いで謝る。
だからこの瞬間は許してほしい。
しばらくしてエトナは動かなくなり、体の力が抜けたように身を委ねた。
「俺は……エトナのことが好きだ」
「……そ、そう」
「でも俺たちはここまでだ。だから最後に焼き付けておきたい」
「仕方ないわ。生きてる時代が違うんだもの」
エトナが震えていた。
胸の中でその微弱な変化に気づいた。
俺は体を放してエトナを見た。
「……仕方ないのよ」
それは自分に言い聞かせているようだった。
目を赤く晴らして、エトナは泣いていた。
アガスティアの星空の下、彼女の願いを聞いた。
"私も未来へ行ってみたいな、なんて"
"あれね、実は本気で言ってた"
"私、ジェイクとずっと一緒にいたいのよ"
その願いはすべて夢でしかない。
エトナは未来に行く術もなく、俺たちの訣別はあらかじめ分かっていたことだ。いつかその日が来るのを感じながらも目を背けていた。
「ね、ねぇ……私からもお願いしていい?」
泣き腫らしながらもエトナは気高く告げた。
「なんだ」
「私も最後に胸に焼き付けたい。だから」
エトナは目尻に溜まった涙を拭く。
唇をぎゅっと引き締め、気持ちばかりのお色直しをしている。
「最後くらいジェイクから、キスをして」
「……」
キス。――その一線を超えたら駄目だ。
俺から、と言うのは既にエトナから『血の盟約』でキスをしたからだろう。言ってしまえば、俺たちは既にその一線は超えている。
だったら、いいのだろうか……?
いや……。
シアの顔が浮かぶ。
十六年待ち続けた夫が遥か遠くの地で浮気していたら最低すぎる。
「いや、それだけは絶対に……」
「あー、意気地なしーですねー」
「あぁ?」
振り向くと背後からリアが茶々を入れていた。
なに言ってんだ、あいつ。
「今生の別れでそれは甲斐性なしの烙印を押されますよ! 『名も無き英雄』は最後まで甲斐性なしを貫き通したと伝説に傷がつきます! ほら、さぁ、ここはずずいと! お母さんへのフォローは任せてください!」
「うるせーなっ」
リアは棒読みのような声で応援していた。
だが、意地の張り方も考え物かもしれない。
エトナはこの一年、ずっと俺を支えてくれた。
最後にその子の願いを叶える"願望機"を全うしても――。
自分が最低に成り下がっても、それは叶えるべきものだ。
「……っ」
腕を引き、その細い顎を上げて、近づいた。
エトナのきめ細かな白い肌が視界を覆う。
俺はその薄い桃色の唇に、軽くキスをした。
「……」
「……」
やってしまえば呆気のないことだった。
エトナは愛しそうに微笑んでいる。
蕩けたような目を向けて、口を開いた。
「貴方が戦士として生きる未来を……私は祝福してる。しっかりやりなさいよ」
「ああ。頑張る。導いてくれてありがとう」
エトナから離れ、ゆっくり腕を放した。
彼女の温もりは消えたが、この手に宿る灯火は消えることはない。
その後、リピカが頃合いを見計らうように現れ、羅針盤を操作した。
円月輪の内部の魔力が、拍動を始める。
リアは暗記していた座標通りに円月輪を回転させていた。
準備は整った。
俺とリアは、せーのっ、で飛び込んだ。
後ろの三人に見守られながら――。
「え……!? あ、ちょ、ちょっと……!」
「お姉ちゃん!?」
なんだろう。何故か後ろが騒がしい。
だが、振り向く余裕はない。
俺とリアはやってきた時と同じように、リゾーマタ・ボルガ内腔のトンネルを転げ落ちていく。
万華鏡のような幾重にも重なる異空間。
すべての時間を巡っていく。
やがて光に包まれ、その先の"教会"が見えた。
Ⅱに続く。




