◆ アルターⅤ
ある日、お母さんと喧嘩した。
気持ちは前からすれ違っていた。
それがたまたま表面化したんだ。
シア・ランドールという一人の女性として見れば、彼女はまだ二十五歳。母はエルフの血が半分入っている為、時間感覚が人間族のそれと少し違う。
悠久の時の中ではまだ子どもだった。
私はもっと子どもだったが――。
いつもの様に母が屋敷を訪ねてくれた。
午前の仕事を済ませたあとの昼だ。
庭先で私はお母さんを出迎えた。
お母さんは最近ちょっと小洒落た格好をするようになり、リンジーおばさんのお下がりを着て外出していた。今日も鍔に『氷の薔薇』をつけた幅広帽子を被って訪れた。
長くて鮮やかな青髪も三つ編みにしている。
こうして見ると魔術師のような風貌だ。
「リア、最近調子はどうですか?」
「まぁまぁです。強いて言えば剣の腕前が上がりました。いつお父さんを探しに出ても役に立つと思います。あ、それと――領主通達で官庁さんから警報が出てます。旅人を襲う盗賊団が最近いて、街道に検問を敷くらしいです。お母さんも気をつけて早めにお帰り下さい」
「……」
「どうかしました?」
「私はリアが元気か聞いているんですけど」
質問の意味が解らず、小首を傾げた。
調子については答えたつもりだ。
「だから、まぁまぁです。剣術はトリスタンさんに教えてもらってけっこう上達しました」
「違くて――体を壊してないか。嫌なことはなかったか。日頃の様子が気になってます。母的に」
「体を壊すことはありません。この身は父譲りで頑丈みたいですし。……不満は、ご当主様や奥方様にはよくしてもらってますので、特にありません。強いて言えば、そろそろ父の行方について教えてほしいと思います。最果ての地にいるとしても、私にしか行けないという理屈がよく分かりません」
父を追うことが母の望みだと思っていた。
むしろ私は、こう言ってあげることでお母さんが喜ぶと思っていたのだ。
でも実際はそうじゃなかった。
思い返せば、いつだってお母さんは複雑な顔して私の成長を不安そうに見守っていた。
望まぬ成長だとばかりに……。
私自身、人間味を欠き始めていた。
影真流という暗殺術を知り、オルドリッジで街の仕組みを学び、子どもらしさの欠如に拍車をかけていた。
――否、元より父のような生き方をしてしまっていたのがいけなかった。
まるで人の願望器のような有り様だ。
「お父さんよりも、まずリアのことを……」
「何を言ってるんですか。お母さんだって会いたいでしょう? お父さんの捜索は私の使命です。可能であれば早く私を使って連れ帰しましょう。もしかして何処かに捕らわれてるのですか。危険地帯に遠征するなら自分で下調べしますので教え――」
「そうじゃないのっ!」
「ぅ……」
声を張り上げた母を初めて見た。
子どもながらに戸惑い、そのとき初めて自分が見当違いなことを言っていると気づき、そして母を傷つけてしまったことに、自分自身も傷ついた。
「私は……私はリアのことが――」
震える声で何か言いかけ、お母さんは自ら目尻を濡らしていることに気づいて慌てて踵を返した。そしてそのままオルドリッジの庭園を跨いで小走り気味に去ってしまったのだ。
どうしていいか分からなかった。
お母さんに見放されたような気になって、背筋が凍るような想いをして身動きが取れなかった。
でも本当は分かっていた……。
お母さんにとってかけがえのない存在。
それは父だけでなく私自身も含まれていたのだ。
…
その日の晩、私はどうにもトリスタンの剣の稽古を受ける気になれず、ただ無目的に屋敷の廊下をふらふらと徘徊していた。
部屋で独りになるよりも、少しでもこうして普段から働いている場所を歩き回っていた方が平常心を保てる、というか……世界に見放されずに過ごせている気がして止められなかったのだ。
ある廊下の角を曲がった時。
その人は煌々と照らす月明かりの中、窓辺から空を見上げていた。グノーメ様から寄贈された車輪付きの移動椅子に座ってぼんやりとしていた。
――大方様のミーシャさんだ。
ミーシャさんのお世話役はベテランのメイド長が務めていたため、私はあまり触れ合ったことがなかった。
噂によると、気鬱の病で喋れないらしい。
齢五十を超えてもうご老体だ。
私はてっきり寝室から抜け出して深夜徘徊を始めたものだと思った。せめて体が冷えないように部屋へ戻してあげるのが使用人の役目だろうと思い、声をかけた。
「ミーシャさん、メイドのリアです。夜は冷えますからお部屋に戻りましょう」
そう言って移動椅子を後ろから押した。
「――」
虚ろな目をしていて、私が声をかけた事に気づいたのか気づいていないのかさえもわからない。
ただ、声は掛けた。
すぐにでも部屋へ戻してあげた方が体の為だと思って動かした。
「待って」
「え?」
普通に声を発したことに驚いた。
思わず、こちらが惚けた声があげた。
「もう少し……ここにいさせて」
「あ、はい」
皺枯れた声だが、はっきりと喋っていた。
喋れないというのは単なる噂だったのか、私は特に何も言わず、大方様が満足するまでそこで待つことにした。
「イザイアくんは可哀想にね」
「イザイアくん?」
「あの人は頑張り屋さんだから」
「……?」
「一体どこにいったのかしら」
呆けてるのかと思った。
まるで単なる独り言のようだ。
特に口を挟まず聞き流すことにした。
でも次にミーシャさんが喋った言葉は断じて独り言などではなく、明らかに私への問いかけだった。
「――リアちゃんもそんな所はそっくりよね」
間違いなく私の名を呼んだ。
そっくりだと言った。
別人の名前かと思って確認を取る。
「ミーシャさん? 私のことですか?」
「ええ、そうよ」
ミーシャさんは振り向いて私を見た。
その眼は先ほどの虚ろな瞳ではなく、はっきりと意思を持つ人の目をしていた。
「イザイアさんというのは?」
「知らないの? 貴方のお父さん」
「え? え!?」
「私の旦那さんで息子でもある大切な人よ」
「は……え? ええ?」
意味が解らず混乱した。
イザイアという名はご当主様と似ている。
ミーシャさんの旦那様という事は先代のご当主様という事だ。
しかし、息子でもあると言った。
さらには私のお父さんだとも言った。
冷静に整理しようと努めても意味不明だ。
「今はシアちゃんの旦那さんだけど――」
奥さんも娘もほったらかして何処へ行ってしまったのかしら、とミーシャさんは呟いた。
大混乱だ。
人間関係が複雑すぎて整理が追いつかない。
ただ、私のお父さんがオルドリッジ家の人間なのだという事は理解できた。
「待ってください。ミーシャさんは私の……お婆ちゃんなのですか」
「はい。お婆ちゃんです」
ミーシャさん――もといお婆ちゃんは優しく微笑んで見せた。
思わず息を呑む。
それは父がこの屋敷の人間であるという事で。
ご当主様も伯父さんであるという事で。
グレンも従姉弟だという事で。
「お、お婆ちゃん……」
「よしよし。リアちゃんが頑張ってる姿を、婆やは見てましたよ」
「そんな……そんな話は誰も……」
「ふふ。そうだわ。お父さんの話をしてあげる」
そう言って、ミーシャさんは私をある部屋へと案内した。移動式の椅子をそちらに向かわせるように私を指示して、二人で月光の廊下を進んだ。
お父さんのことは母以外、誰も知らなかったはずなのに一体どういうことだろう。理解も追いつかなければ、突然知った衝撃の事実に実感も湧かないまま、その部屋に辿り着いた。
――古い書庫だった。
開けた瞬間、埃が舞って咳き込んだ。
ミーシャさんの方が埃を吸ったら大変だろうと思って背中を擦って上げたが平然としていた。
椅子を押して二人でその部屋に入る。
静かな……暗い書庫だ。
丸型の窓から少しだけ月光が差し込む。
本棚から溢れた書籍が床に山積みだった。小さな机もあり、汚い字の落書きもある。机の隣には簡素な骨組みのベットがあった。
まるで誰かが暮らしていたようだ。
きっと、私のお父さんだろう。
「お父さんは小さい頃、ここに閉じ込められて可哀想な日々を過ごしていたの」
ミーシャさんは机の前に自ら移動して、その落書きをなぞった。
そして懐かしむように語り出した。
せめて夢を見させてあげられるようにと、ミーシャさんは隙を見つけ、ここでお父さんに物語を読み聞かせていたそうだ。
数多の冒険譚、数多の英雄叙述詩。
そしてお父さんは『戦士』を目指した。
机の落書きには、
――俺は戦士になる!
と汚い字で書かれていた。
父の記録がほとんど残ってなくても、それは確かに机へと刻まれている。
「親は子どもの夢を応援したいと思うものよ。貴方のお父さんも賢者になるとか、戦士になるとか、大きな夢があったわ。可愛かったなぁ」
ミーシャさんが振り返る。
「リアちゃんには、どんな夢があるの?」
「私の夢、ですか……」
そこで何故こんな話をしたか理解した。
きっとミーシャさんは昼間の私とお母さんの喧嘩を見たんだ。
母の想いを伝える為にこんな話をしたんだ。
「……私は、家族三人で暮らしたいです。お父さんとお母さんと三人で暮らしたいです。お父さんに一度でいいから負んぶしてもらいたかった」
それだけの、ほんの些細な夢。
お父さんの大きな理想に比べれば、誰もが簡単に叶えられそうな小さな夢。
それさえ叶えられないことが切なかった。
――昼間のことを反省した。
私は家族三人で過ごしたい。
それなのにお母さんの気持ちを無下にした。
きっとお母さんは、私自身の願いを聞きたかったんだ。
なんだか涙が出てきた。
気づけば、お婆ちゃんの膝にしがみついていた。
お婆ちゃんは私の頭を優しく撫でてくれた。
「それを、お母さんに伝えてあげて」
「うん……ありがとう、お婆ちゃん」
しばらくそうして温かい膝に顔を埋めていた。
もっと他にもお父さんの話を聞きたいと思い、私は顔を上げた。
――ミーシャさんは虚ろな目に戻っていた。
「お婆ちゃん?」
「……」
それっきりお婆ちゃんは何も言わなかった。
今のやりとりが嘘のように瞬き一つせずにミーシャさんは車輪付の移動椅子に呆然と座っていた。
――何だったんだろう。
私は小さい頃からこんな不思議な経験をたくさんしていた。
でも今のやりとりはすべて真実だ。
親子喧嘩を見兼ねたお婆ちゃんが少しだけお節介ほ焼くために無理をしたのかなと、私は思うことにした。
次の日、屋敷を出てソルテールに向かった。
もちろん、ご当主様には断りを入れてある。
すぐ謝りに行きたかった。
リベルタのアジトの庭で洗濯物を干してるお母さんを見かけ、私は歳相応の女の子らしく、その胸に飛び込んだ。
「リア、どうしたのですか」
「お母さん……ごめんなさい。ごめんなさい……私はお父さんとお母さんと、三人で暮らしたくて……早くお父さんに会いたくて……」
「……」
お母さんも私を強く抱きしめた。
「私も、ごめんなさい……リアに、リアちゃんに負担をかけているのを負い目に感じてました。リアちゃんに母親らしいことを何一つも出来ていなかった……もっと普通の女の子として、お願いをいっぱい聞いてあげればよかったと後悔してました……」
私はお母さんに夢を語り、お母さんは私にどう成って欲しいのか涙ながらに話してくれた。
お父さんを連れ戻せるのは私しかいない。
それは間違いない。
だが、それはそれとして大事な娘一人を送り出してしまうのが怖かったのだそうだ。
私がいなくなれば母はすべてを失う。
それはとても怖ろしいことだ。
いっそ、お父さんを諦めて私だけでも大事に育てていこうと考えていたほどだ。私と父が日増し似ていくから、その葛藤も徐々に大きくなっていたようである。
――そのとき初めて聞いた。
お父さんが『古代』にいるのだという事を。
○
色々と納得した事がある。
先代のオルドリッジの悲願は『時間干渉』の魔法体現。
お婆ちゃんに教えてもらった書庫を色々と調べたら、歴代オルドリッジの魔術研究が如何なるものだったか調べることが出来た。
時間干渉に必要な要素は『虚数i』の魔力化。
それを追い求めた先代のイザイアは追究の果てについぞ女神の力に触れた。
時を巡る戦い。
実情を知るお母さんに全て聞いたことだ。
その果てに父は神を超越する力を手にした。
――そして英雄となった。
その系譜は私へと受け継がれているのだ。
だから私にしか出来ない。
古代に送られたお父さんを連れ戻す為には同じ能力を有する私の力が必要なのだ。
そこで、お母さんと約束をした。
私はやっぱりお父さんを助けたい。
でもお母さんとの時間も大事にしたい。
だから一般的に成人と扱われる十五歳までは一緒に暮らすと決めた。
そう決め、オルドリッジ家での雇われ生活は九歳で幕を閉じる事になるのだが、辞めるスケジュールに合わせてトリスタンから免許皆伝のために影真流の奥義『ソニックアイ』を伝授された。
時を同じくして私たち親子に転機が訪れる。
それは一通の手紙だった。
差出人は、この国の女王様から。
エスス・タルトゥナ・ド・エリンドロワ。
なんと母は女王陛下とも懇意の仲だった。
仰天した私は手紙の内容を読み返しながら何度もどういう経緯か尋ねたのだが、それもまた父の功績らしい。
私がかつてドウェイン先生やリナリーお姉ちゃんと王都を訪れた際、「復興三周年記念」というお祝い事をしていたが、そのとき聞いた王都の大逆事件も父が解決したものだった。
何から何まで……。
隅を突けば偉業ばかり出てくる父親だ。
尊敬の念は膨れ上がる一方である。
さて、手紙の内容というのは、王宮警備の為に力を貸してほしい、という旨の内容だった。
レナンサイル山脈より北側の国境では紛争が起こっている。古代から続く獣人族の内乱が激化し、エリンドロワ領土にまで及んでいた。
その防衛線の主戦力『北方十字軍』へ戦力を回すため、王都や王宮の警備が手薄になってしまう。そこで狙撃手としての手腕を買い、女王陛下直々にお母さんへ手紙を寄越したようだ。
○
転移魔術を使うでもなく一ヶ月の旅を終えた私と母はようやく王都へ辿り着く。
初めての王都旅行とは雲泥の差だ。
延々と続く野外生活に不満を漏らした程だ。
自力で歩けばこのザマである。
市街に入り、そのまま迷いもせずに王城へと進む母の背を見て、私がいかに小さい存在かを思い知らされた。
いくら強くなろうと所詮、まだ九歳。
私はまだまだ未熟な子どもだった。
お母さんは王城へ気軽に足を運ぶほどの経験も過去に積んできたのだろう。
「待て!」
重鎧を身に纏う城門の兵士に止められる。
王都の近衛兵より少し装飾華美な鎧を着てる。フルフェイスの兜も被っていて顔は見えなかった。
声も少し高かった。
……女の人?
「シアか! シアなのか!?」
「あら? その声はアルバさん」
知り合いだったようだ。
アルバさんと呼ばれた女の人は兜を取って顔を見せた。
褐色の肌に凛々しい顔立ちの美人だ。
「お久しぶりです。元気そうで何より」
「うむ。私は元気でナニヨリだ! シアは十年経っても何も変わらないな」
「アルバさんはだいぶ露出が減りましたね」
お母さんはアルバさんの頭から足先まで眺めた。
女騎士は重鎧に身を包んでいる。
逆に武骨な姿だった。
「乙女たるもの、慎ましく、強かに、な!」
「気づくのが十年遅いですよ」
「そうか? ところで今日はどうしたのだ。城に何か用か」
「エススさんにお呼ばれしました」
「女王陛下様か。よければ私が案内しよう。そのガキもか」
アルバさんが私に視線を移す。
お母さんの知り合いと思えないほど長身で少し威圧感があった。大人のヒト特有の気遣いを見せるでもなく、あくまで対等に接してるようで悪い気はしなかった。
「この子は私の娘です」
「ふむ。シアに似て小さい。路上で馬車に轢かれて潰れてそうなほど小さいな」
「蛙じゃないので大丈夫ですよ、多分」
独特な表現をする人だな、と思った。
でも表情から察するに悪意はなさそうだ。
黙って聞き流した。
…
謁見の間は閑散としていた。
人手が足りないというのも頷ける。
玉座に坐していたのは派手な純白なドレスに包まれた綺麗な人だった。
純白の髪に蒼い瞳。
童顔で、まるで人形のような風貌だ。
あれが女王のエスス様。
そしてその隣に仕えていたのは同じく白を基調とした銀鎧に身を包んだ一人の騎士だった。
「シア……!」
びっくりした。
お人形さんが突然、母の名を呼んだ。
形振りも構わず、ドレスをたくし上げてエスス様が玉座から降りて駆け寄ってきた。そして飛び付くように小さな体へ覆い被さる。
お母さんは身動きせずに受け入れた。
「会いたかったぁ……!」
「何年ぶりですかね。最後に会ったのはソルテールでしたっけ」
「うん! そう、そうだよ。忙しくて全然会えなかったもんね。来てくれて嬉しいな」
およそ女王陛下と思えない素振りだ。
「ボクたちが東方視察に行ったとき以来かな。リアちゃんも大きくなったね」
異様な光景だった。
拝謁してるのはこちらだというのに、まるで女王の方が私たちの来訪をさぞ貴重なものだとばかりに歓迎してくれた。
――というか私は女王様と会った事があるのか。
「あ、そっか……覚えてないよね。ボクはエススだよ。お母さんの友達の。その服はお母さんのお下がり? 可愛いね」
女王様は私の古い旅装を指摘してきた。
……肩書きが間違っている気がする。
私の頭をぽんぽんとソフトタッチで撫でる純白の女性は、母の友達以上に大きな肩書きがあると思うのだが――。
困惑の最中、後ろの騎士も近づいてきた。
「シア、久しぶりに会えて嬉しい。歓迎する。"その子"も元気そうで良かった」
「ランスロットさんもご立派になりましたね」
純白の騎士『ランスロット』。
この人が、かの有名な救国の英雄……。
女王様と同じく、まだあどけなさすら残る童顔の顔立ちだった。
琥珀色の瞳が優しげな印象だ。
だが、その視線から感じたものは芯の強さだ。
私がこれまで出会った多くの人たちと同じ、強者の灯を宿している。お父さんを知っている人は漏れなくそんな眼をしていた。
この英雄こそ、私の聖心流剣術の師だ。
アルターⅥに続きます!
次こそ過去編最後です。
本日夜(2016/12/18日)に更新します。




