◆ アルターⅣ
五歳。
体が五歳にしては小さいままだ。
半分は魔造体で出来ているので、著しく肉体の成長が遅い反面、寿命が半永久的なものになっているらしい。
誕生日は特別盛大にお祝いされた気がする。
五歳という歳が魔術界では節目だそうだ。
魔術師の家系ではこの歳から教育を始める。
私の"教育"もまた、この歳から始まった。
リベルタ邸の庭で一人でボール遊びしているとき、お母さんがふと声をかけてきた。
そのときの冷たい声を忘れない。
「――リア、お父さんに会いたいですか?」
無垢な私は大きく頷いた。
会いたい。肩車して欲しい。そんな歳でもないのは分かっていたから、せめて背中に負んぶして欲しい。大きな背中で、広い世界の、奥底に眠る秘密を見せてほしい。
そう思って力いっぱい返事をした。
「うん!」
「実は、お父さんに会いに行けるのはリアだけなのです。連れて帰ってこれるのもリアしかいません。これからお父さんに会いにいくために……リアはちょっとだけ――いえ、わりとすごく頑張らないといけなくなります」
この時、お母さんもかなり躊躇っていた。
断ってもいい。そんな寛大さを曇った表情に隠しながら、私にこう尋ねた。
「それでも、頑張れますか……?」
「うん!」
期待に応えたかった。
それから先、どんなに辛い未来が待っていたとしても、お父さんを連れて帰ることが私の使命なんだと感じた。
何より、お母さんの笑顔を見たかった。
父に会うのが母の願いだと気づいていた。
○
まず教えてもらったのは魔族語だった。
お母さんもこの言語をお母さんのお母さんから教えてもらったらしい。世界中を旅する上で言葉の壁は取り払わないといけない。
魔族語を覚えるのはとても楽しかった。
私が「エギ」
あなたが「フウ」
おはようが「ゴゥアン ダーギン」
さよならが「ブレッセ」
魔族語をいくつも覚える度に、私は世界に隠された秘密をまた少し知ってしまったような気分になり、少女ながらに興奮していた。
物覚えは早かったと思う。
もう一つ、母に教わったのは弓術だ。
最初はダイアーレンの森で練習した。
木の幹を的にして射る練習から。
「もっと背筋を伸ばしてください」
「弓は構えた時点で軌道が決まります」
「角見を利かして、握りの角度をしっかり定めてください」
お母さんは厳しいのを覚悟してくださいと言っていたが、普段のお母さんより少し真面目なだけで、私はそれを厳しいとは思わなかった。
「弦を引くときは力いっぱい――」
言われるままに本気で力を込めた。
するとバキっと弓が容易く折れてしまう。
「うあっ」
自分でもこんなに力強かったのかと困惑した。
「ですよね……あの人の子ですし」
「なーに?」
「いえ、代えの弓を用意します」
そういってお母さんは毎日毎日新しい弓を買ってくれたのだが、どうにも力加減が難しくてほぼ毎日と言っていいほど弓を壊した。
悲しくて泣いてしまったことがある。
でもお母さんはそれでも叱りもせずに新しい弓を用意してくれた。
――ある日の晩、家の中で弓術のイメージトレーニングをしていたとき、その魔法をあっさり体現してしまった。
それが『心象抽出』だ。
腕から紫電が奔り、変な色の靄が寄り集まる。気づけば、手には反り返った長物を握りしめていたのだ。
怖くて怖くて溜まらなかった。
あの赤黒い色した靄だ。
子どもながらに邪悪さを感じた。
半狂乱になってお母さんの部屋に駆け込んだ。
「うわぁぁぁん!」
「……そ、その魔法は」
世界の終わりが訪れたと思ってひたすら泣きじゃくったと思う。その色は物心ついた頃から見慣れた孤独の色だった。世界を変えてしまうほどの秘密の力だ。
それからだ。
魔族語と弓術に加え、魔法も教わった。
○
魔法の講義はお母さんとリンジーおばさんから代わる代わる教えてもらったのだが、どうも要領を得ない。魔術の基礎が炎や氷、雷といった三属性であるのに対し、私が使える魔法は今のところ二つしかなかったからだ。
世界を一変させてしまう時間静止魔法。
武器を創り上げる心象抽出。
この二つだ。
弓を作り上げてしまった時のように、基本属性の魔法も自然界にある何かをイメージすればいいと聞いた。でも私は炎や水、雷をイメージしても何一つ創り出すことは出来ない。
――対して、武器なら何でも作れた。
弓矢に始まり、短剣や大剣まで、何でもだ。
最初は凸凹の不出来な物しか創れなかったが、実際にその武器を手に取り、触り、構造から使い方までもしっかりイメージしておくことで徐々に精度が上がった気がする。
昼間の弓術の練習では、私が二ヶ月であっさり『心象抽出』を使えるようになったので新しい弓を買う必要はなくなった。
練習中、森でお母さんが褒めてくれた。
「リアは器用です。お父さんはその魔法で剣しか創れませんでした」
「そうなの?」
「はい」
「……あのねっ、剣だけじゃなくて鈍器も造れるよ。イメージすれば何でもっ」
子どもながらに父を超える魔法を使えることが誇らしくて必死に主張した。
もっと褒めてほしい。認めてほしい。
そう思った。
その日、ちょっと無理を言って、お母さんに初めて野鳥狩りに連れていってもらった。
いつまでも木の幹相手では面白くない。
『狩り』となると固定標的から移動標的に変わるから弓の扱いも変わるのだと、お母さんは教えてくれた。
「事前に弓の軌道と標的の軌道を予測して、二つが交わる瞬間をイメージしてください」
「うん!」
私は張り切っていた。
自分は凄いんだともっと認めてほしい――いや、きっと十分すごいと認めてもらっていたと思うが、それでも満足できなかった。
ここでばっちり野鳥を射落としてみせたら、お母さんはもっと喜んでくれるかもしれない。
そう思い、本気を出した。
左手に長物。右手に短物。
赤黒い魔力は私の手元で凶悪な形状を示して具現化した。
刺々しい形状。
鋭利に突き出た末弭。
螺旋状にうねる鏃。
この赤黒い魔力の根源は、さぞ邪悪なモノから発生したのだろう。
野鳥が森から飛び上がるのを確認する。
――照準を合わせた。
既にこのとき視界は拡張し、私の視線はその野鳥の"生"を追うことに執着していた。遥か遠くで飛び立つ野鳥の心音から羽ばたく羽根の開閉、腕の筋肉のうねりから息遣いまで、全てを追跡して逃さまいとして他が見えなくなっていた。
「り、リア……魔力が……」
感覚を研ぎ澄ますと他の事は頭に入らない。
お母さんの声も聞こえない。
周辺に漂う邪悪な魔力の渦も見えていない。
ただ、私は野鳥を穿つ弩砲兵器のように、ただそこで弓矢を構えていた。
最大の力を込めても魔性の弦なら耐え得る。
そこだ、と狙いをつけて矢を放った。
――轟音とともに矢ではない何かが翔けた。
赤黒い弾頭はおよそ丸太ほどの大きさで空気を切り裂き、野鳥一匹どころか鳥の群れすべて、そして森の木々ごと薙ぎ払って天高く打ち上がった。
そのまま雲を突き抜け、霧散して消えた。
まるで赤黒い流星が星空へ打ち上げられたような綺麗な光景だった。
城でさえ一撃で破壊する特大弩砲。
方向を間違えればソルテールも消滅していた。
「……」
「……」
母子揃って唖然とした。
一瞬の静けさが森を支配する。
「ママ、ごめんなさい」
「……さすがに引きました。さすがに」
母はその一撃を『魔砲銃』と名付けた。
普段は絶対に使用禁止とも注意された。
○
それから弓の技をいくつか教えてもらった。
『散弾銃』
『機関銃』
『狙撃銃』
習得は早かったものの、何かと加減を覚えるまでは時間が掛かり、ようやく普通の人間らしい弓術を扱えるようになったのはずっと後のこと。
粗方、半年足らずで弓の使い方や魔族語の会話、魔法の基礎を覚えてしまった私は、"教育"も次の過程へと進んだ。
このとき私はまだ六歳。
まだ六歳……。
違う、もう六歳だった。
お母さんは既に何年間、お父さんと会っていないのだろう。私の記憶では取るに足らない期間だったが、お母さんがお父さんと出会ってから過ごした年数を振り返ると、ちょうど同じ年数が経過したことになる。
……この歳から親元を離れることになった。
片田舎で教えられることには限界がある。
連れられたのは東方でも貿易の中心街にあたる都会バーウィッチ。
ここで教わったのは世間の"常識"だ。
高貴な――それでいて街の中枢にあたる地方領主の傍に身を置けば常識も学べるだろうと見越して、私は雇われた。
そう。送られた先はオルドリッジ邸。
訪れたその日、私は屋敷に雇われた。
あの怪しい修道女の助言通り、お母さんは私をオルドリッジに送ったのだ。
最初は嫌がった。
お母さんもきっと嫌だったと思う。
でもその悲しそうな顔を見て、お父さんの写し絵を見せてもらった日のことを思い出した。
この苦行も両親の為なんだ。
そう言って自分自身を押し殺した。
私は当時、お父さんのことが気になって色んな人にどんな人物だったか尋ねたことがある。
だが、大抵の人は父を知らなかった。
お母さんは父の凄さを沢山知っていた。
優しい人だった。
強い人だった。
人の困り事を背負った上で、体一つ投げ出して不遇をすべて受け入れるような究極のお人好しだったと云う。お母さんはきっとそんな人を救ってあげたかったんだと思う。だから私も、そんな不器用な夫婦の為に一肌脱ごうと決意を固めたのだ。
私はやっぱりませていた。
そして父親譲りの、お人好しだったと思う。
親への甘え方も忘れてしまった。
直接オルドリッジ邸で当主様に挨拶したときも大人しすぎて奇異の目を向けられたほどだ。
「やぁ、君がリベルタの子か」
「リア……と言います」
「私は当主のアイザイアだ」
細身で髪をオールバックにした人だった。
何一つ裏のなさそうな爽やかな印象だ。
「リベルタの方々には一昔前に世話になったことがあってね。君のお母さんも一時期ここで副メイド長をしていたんだ。雇うといっても過度な労働はさせないから気構えなくていい」
「……よ、よろしくお願いします」
私に対する扱いは使用人というより、まるで親戚の子を預かった程度の甘い待遇だった。
事前に、ここで住み込みで働いて多くのことを学んできなさいと言われたはずなのに……。
それに、母は週一で様子を見に来てくれた。
厳しい躾を覚悟していたのに拍子抜けだ。
あとで気づいた話だが――。
王都で会った修道女が、私にオルドリッジへ行くように指示した意図は三つあった。
○
意図の一つ目。
のちに私が、名も無き英雄と千年前に接触したであろう人物へ近づきやすくするためである。
メルヒェン姉妹へ取り入る為にはここで貴族の暮らしというものを知り、侍女らしく振る舞える教育が必要だった。
オルドリッジの生活は騒々しかった。
私以外の使用人たちは朝から晩まで慌ただしく動き回り、広大な屋敷の隅々から庭先まで隈なく掃除をし、その上で当主と奥方のお世話までしていた。
当主のアイザイア様は優しい人柄だ。
私にはあまり関わってこなかったが、メイド長を通じて様子を間接的に尋ねていたらしい。
――雇われた私の役目は屋敷の掃除が主で、それ以外にはご子息の遊び相手をさせられた。
当主様には一人だけ息子がいた。
私より一つ下の子で『グレン』という名だ。
グレン・オルドリッジ。
奥方のアリサ様と同じく頭から双角が渦を巻いて生えているような可愛げのある男の子だった。
グレンは臆病ながらも好奇心旺盛な子だ。
私が朝の日課である掃除を終え、食器洗いと庭掃きを済ませた後は、昼過ぎまでグレンと遊ぶ時間を与えられていた。
遊ぶといってもグレンが中庭で駆け回る様子をぼんやり眺めるだけだ。
ここでの暮らしにも慣れてきたある日、そのグレンの好奇心が私に向けられた。
「リアちゃんはなんで大人と同じ服を着てるの?」
尋ねられながらメイド服の裾を引っ張られる。
友達感覚で"ちゃん"付けされていた。
グレンはつぶらな瞳で純真無垢な顔をしている。
「雇われの身なので、これが普通です」
「そうなの? 僕の友達じゃないの?」
「多分、違うんじゃないかと……」
きっとグレンからすれば私という同世代の存在は、一緒に遊べる友達程度にしか思っていなかったのだろう。
「変なの! もっと違う服を着ればいいのに」
「違う服、ですか」
「我慢して同じ格好しなくてもさぁ――」
我慢して……?
そう考えたことは一度もなかった。
言われてみれば、私は無個性な気がする。
子どもらしくない事を気にもせず、ただ両親のために使命を真っ当する自分を、すんなり受け入れてしまった。時間魔法の力で数え年以上の経験をこの時点で既に積み重ねていたからだろうか。
…
グレンの教育も五歳から始まった。
オルドリッジといえば魔法の名門なので魔術指南はもちろんだが、それと同時に『剣術』の稽古も行われることになった。
ご当主様曰く「魔法だけでは守るべきものも守れない。剣も学ぶべきだ」という考えだ。
ご自身の経験談らしい。
朝食の時間、教育方針の違いでアリサ様と口論になっていたのを見た。
「今の時代に剣は要らないと思うの」
「しかし危険な魔物はそこかしこに居る。戦うためには不要でも、守るための剣は必要だ」
「アイザイアくんは剣がなくても生きてこれたじゃない」
「アリサ……それは私がたくさんの人に守られてきたからだよ。魔法だけでは役に立たないこともある。イザヤも今はガルマニード公国で体術と拳闘術を学び、対魔術戦に取り入れているそうだ。大事なのは生き抜く力だ」
「うーん……」
アリサ様は不本意なようだ。
眉間に皺寄せて我が子の未来を考えている。
あと一歩で折れると思ったアイザイア様は畳みかけるように付け足した。
「それに、この屋敷には剣の達人がいる。稽古には絶好の環境だろう」
「それもそうだけど……」
「アリサも彼に任せるなら安心じゃないか?」
剣の達人。
これこそ修道女が私をオルドリッジへ送りつけた意図の二つ目だ。
私も戦いを学ぶ必要がある。
古代における魔獣・魔物、好戦的な魔族、その他あらゆる豪傑と対峙しても渡り合える力を手にする必要があった。
○
オルドリッジに雇われて三ヶ月目。
私はグレンとともに剣術の稽古を受けることになった。アイザイア様の計らいで、競争心を駆り立てるためにも同世代で剣術を学ばせた方がいいだろうということだ。
庭園の隅に昔からあるという剣の修練場。
そこで昼間の数時間、剣術の稽古が行われた。
「俺はトリスタンだ。普段は警衛係をしている」
土場で仁王立ちして彼は私たちを見下ろした。
平然と私たちを視ているように話すが、トリスタンと名乗る人は目が白く濁り、既に瞳の光は喪われていた。
失明しているのだろう。
しかし――。
「ふむ。君と顔を合わせるのはリナリーの進学祝い以来か。あれからだいぶ経ったと思うが、母親譲りで随分と背が低いな」
トリスタンは私の容姿を指摘した。
視えているんだ……。
そうだ。私はこの人と会ったことがある。
リベルタの家に居た頃、何度か顔を合わせた。
無愛想な人で、家に訪れる度に怖いと思ったことがある。
「当主殿からはグレンの稽古を中心にと仰せつかっているが、俺は手を抜くつもりはない。二人とも、厳しいのは覚悟してくれ」
「はい!」
「……」
意気揚々とグレンは返事をした。
男の子特有の"強さ"への憧れがあるらしい。
私は、なんとも返事ができなかった……。
トリスタンは表立っては優しそうな素振りだが、どこかに影がある雰囲気だ。
きっと生半可な世界で生きていない。
壮絶な……それこそ平和な時代では考えられないような悪の所業を目の当たりにしてきた。
そんな気配を感じたのだ。
影真流の剣技はここで習った。
結論から言うと、私は剣の才能もあった。
基本の型である上段・中段・下段の構えは三日で理解し、一閃の振るい方も一週間足らずでトリスタンから褒められたほどである。
私の上達が目を見張るものである一方、グレンには才能がなく、目に余るものだった。
それもそうだ……。
私は父譲りの魔性の血を受け継いでいる。
そもそも性能が規格外なのだ。
剣の重量を重いとも感じない時点で、素振りすらやっとなグレンとでは練習回数も変わってくる。
見兼ねたトリスタンは、あまりに差が開く姿を見せるのは競争力を駆り立てるどころか、グレンを失意のどん底に叩き落としてしまうことになると考え、稽古時間を分けることにした。
「僕は……なんでリアちゃんみたいに上達しないのかな……」
「グレン、それは違う。君にも才能はあるが、世の中には『大器晩成』という言葉がある。上達が早いより、じっくり力を蓄えた方が後々は大成することもあるんだ」
「そうなの!?」
「ああ。グレンには特別、大器晩成プランで稽古をつけよう。悪いが、リアの稽古は夜の時間帯に変更してもいいか?」
トリスタンはそう尋ねてきた。
上手い言い回しだ。
不思議と――こんな風に相手の受け取り方を考えて喋る口ぶりに、ドウェイン先生と同じ、未熟な存在への敬意と優しさを感じた。
二人は師として似た者同士な気がする。
私は黙ってこくりと頷いた。
…
私の稽古を夜にした理由は別にあった。
すべての仕事を終えた後、夜更けに庭園の隅の修練場を訪れた。
闇夜の中、月明かりばかりが影を落とす。
こんな幻想的な夜に、その存在は殺意を振りまいていた。
――……。
姿は見えないのに、暗闇に誰かいる。
誰か――とは言うまでもない。
こんな夜更けに其処にいるのは警衛係兼指南役のトリスタンを置いて他にいるはずがない。だというのに、姿の見えない彼の雰囲気は昼間と打って変わり、私は唖然とした。
「影斬り……――」
低い声が聞こえた。
地底から這い出た死者の声のようだ。
身の危険を感じた私は、直感的にその場から離れて攻撃を回避した。
――刹那、空を切り裂いて影が現われた。
月明かりに反射する銀が狂気を振り撒く。
彼は真剣を手にしていた。
「ドップラーアイを躱したか。見事だ」
「と、トリスタンさん……なんで」
「昼間の稽古は導入編だ。君には特別指南を施すように言われていてな」
「誰に、ですか?」
「君の母親からだ」
お母さんは定期的にオルドリッジに出入りしている。様子を聞いたり、誰かと話したりする姿を見たが――まさかトリスタンとも話していたとは。
「君は歳のわりに才能がズバ抜けている。俺も、かつて君くらいの歳からふざけた修行をしていたものだが、当時の自分を思い出して年甲斐もなく奇襲をかけてしまった。すまない」
「こ、怖かったです」
「ふむ、怖い……か。本当にそうか?」
「え――」
「君は何処か、現実感が乏しい」
黒髪に隠された瞼の奥から"視線"を感じた。
目の視えないはずのトリスタンは心の眼で私の何かを感じ取っていた。
「凶器を本能的に怖がるのではなく、凶器は誰もが怖がるものだから怖れるフリをしているかのようだ。それは世界の基準"で"我慢しているからこそ、そう振る舞っているように思う」
我慢している……。
"我慢して同じ格好しなくてもさぁ"
グレンにも言われたことだ。
「生き物というものは元来、生や死に執着する。赤子も、大人も、動物も、虫でさえな……しかし、君はどうにもそういった器官が未発達だ。それでは真の力が発揮できない。勿体ない」
「勿体ない?」
「――ああ。影真流は生と死を分かつ剣技だ。命の尊さとその奪い方を識ることは表裏一体であり、この剣術を会得することは君の生き方をより良いものに変え、そして強くするだろう」
トリスタンは雄弁に語った。
そこには昼間の優しさに加えて、彼の中の信念が見受けられた。
諭され、気づいたことがある。
トリスタンが昼間教えていたものは形としての影真流だ。
一方で、宵闇の中に説くのはその真髄。
この道に生きた歴代の暗殺者が受け継いだ文化や技術を、その末裔直伝で教えてくれるというのだから、これほど恵まれた稽古はない。
私は"強くなりたい"と思った。
お父さんを超える強靭な戦士になって、いつかお母さんの幸せな顔を見たいと思った。
自然と私も熱を持って応えていた。
「影真流を教えてください!」
「いいだろう。ならばこれからも夜は此処を訪れてくれ。――そも、影真流は夜にこそ真髄を発揮するものだ。技のすべてを伝授してやる」
その日から本当の稽古が始まった。
トリスタンがまず教えたものは真の恐怖だ。
命の削り合いを身近に感じさせることで、剣の道がいかに辛辣で、過激で、死と隣り合わせなのかということを教えてくれた。
……傍から見れば壮絶な光景だっただろう。
大の大人が六歳児の子を真剣で傷つけているのだから。しかし、私の体は普通の人と造りが違うようで、いくら傷つけられても、ついぞ死の恐怖というものを感じることが出来なかった。
ただ、その一方で私は、生身の人間であるトリスタンが、技量一つで私のような人外的な力を押し返す姿に魅了され、剣の世界にのめり込んだ。
虫がざわめく夏の夜も――。
空気が凍りつく冬の夜も――。
私はトリスタンのもとで影真流を究めた。
あっという間に二年の時が流れた。
オルドリッジ家のもとで世間を学び、暗殺者のもとで剣を学び、もちろん弓も独学で究め続けた。
そんな私の成長をお母さんは喜んでくれると思いきや、全くそんなこともなく、顔を合わせる度に辛そうな表情を向けてくる。その意味を知ったのは、オルドリッジ家を出て王都へ向かうことになった日のことだ。
そして――。
私はその日になってようやく、己の出生がオルドリッジにあることも知った。
修道女の意図の三つ目も其処にあった。
アルターⅤに続きます。
次話でリアの過去編は終わると思います。
「グレン」の名付け親はアリサです。
グレイスの名前をどうしても取りたかったのでしょう。




