Prologue 詠唱
「かつて世界を救い賜いし神、戦火の……戦乱の……うーん」
白銀の少女が一人、暖炉の灯る部屋で口遊む。
焚きつけた薪の焦げる臭いが漂っていた。
外界は真っ白な雪景色だ。
真夜中の白い雪を月明かりがひっそりと照らしている。
――きっと世界は平和になる。
そう信じて、彼女自身の魔術詠唱を紡ぐ。
詠唱を考えながら歌声に乗せて夢中になっていると、ノックの音が届いた。
部屋の戸を開けて別の少女が顔を覗かせた。
「お姉ちゃん、まだ起きてたの?」
「あぁ、マウナ……なんだか嫌な予感がして」
マウナと呼ばれた少女は、歌を歌っていた少女の容姿と瓜二つだ。
違いと云えば、少女が赤い瞳を持つのに対し、マウナは蒼い瞳をしている。
彼女たちは双子だった。
「もしかして魔族がもうこの村まで……!」
マウナが怯えて少しだけ肩を縮ませる。
紅い瞳の少女と比べ、妹は臆病な一面があった。肩を震わせた拍子に白銀の髪が胸元へ垂れかかる。
それを見て、紅い瞳の少女は長い銀髪を後ろに振り払った。
双子の妹を見ていると、まるで鏡を見たように反射的に反応してしまう。
「大丈夫よ。ここはエリンでも最北の国境の森なのよ。まさかこんなところまで、ねぇ……?」
「じゃあ、嫌な予感っていうのは?」
「ん――」
紅い瞳の少女は、怯える妹を宥めるための言い訳を考える。
確かに"嫌な予感"はしていた。
災いが起こるような予感。そして、これから身の回りの平和が脅かされるのではないかという予感だ。それは胸騒ぎの域を超え、未来視にも近い幻覚となって頭を悩ませる。
「明日のリア先生の試験が全問不正解になる気がして……」
「えぇ! それは怖ろしいね」
「マウナ……私の分のおやつの確保、頼んだわよ」
「もう! 自分で勉強して確保しなよ」
笑い合う双子の姉妹。
紅い瞳の少女には興味や趣味以外の事は疎かにする癖があり、村でひっそりと学ばされる魔族言語のことなどどうでも良かった。ただ、落第点の罰則として決められた「おやつ抜き」が嫌で、なんとか合格ラインぎりぎりの点数を取って満足している。
一方で、マウナは勤勉な性格で勉強熱心だ。
養子は瓜二つでも、性格は正反対だった。
――彼女の興味は『詠唱』にある。
魔法の才能は生来のものであり、生まれながらに魔法を使えない限り、生涯通じて使えないと謂われている。
しかし、紅い瞳の少女は『詠唱』に可能性を感じていた。
双子の少女二人には生まれながらに魔法の素質があったものの、近親の者には魔法が使えない。
しかし、『詠唱』の力があれば……。
紅い瞳の少女は、魔法の素養次第で身分差が生まれるエリンという国に嫌気が差していた。
才能のない者の嫉妬や妄執の類いを感じて気が滅入る。
もし、平等に魔法が使えれば、きっと争いの要素が一つ消えて平和な世界が訪れるのではないか、そんな希望を胸に抱いていた。
魔法詠唱とは一つの魔法の術――『魔術』である。
そんな術式が完成すれば、魔法が使えない者でも神秘の力を行使できるのではないか。優劣が一つ減らせるのではないか。
すべての民が平等たれと願う紅い瞳の少女の、一つの夢だ。
「マウナ、大丈夫よ」
少し目を伏せて退室する妹に、少女はもう一度、安心させるために一声かけた。
「今夜は『ケルベロスの宵』なんだから、不吉なことが起こるわけない」
「うん。お姉ちゃん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい、ゆっくり休んで」
白銀の髪が流れる背中を見送った。
冬――凍えそうなほど寒空の、青い満月の夜『ケルベロスの宵』は魔性のモノでさえ鎮まると云われている。月光は大気中の魔力を活性化させ、魔性のモノも活発化させると言い伝えられているが、青い満月の日だけは特別だった。
それは地獄の番犬ケルベロスが年に一度目覚めるとされているからだ。
魔力が一番滾る日に魔性が鎮まるとは皮肉な伝承だった。
紅い瞳の少女は戸を閉め、再び自室に籠って歌を紡ぐ。
その声に願いを込めて。
「――あぁ、目覚ましくや。魔性の進攻を嘆く歌」
それは己が宿命を嘆いての『詠唱』。
魔法の素養を持つ特別な人間が双子として生まれてしまった。
「――草木も枯れた大地を前に、なぜ我が神ヘイレルは救わぬか」
彼女たちに与えられた運命は、ロワ三国同盟の結託を再び強く結ぶことである。
魔法が扱える『巫女』である彼女らは、その人柱となる運命だ。
「この祈りや届かねば、ついぞ巫女の……玉座は……」
そのとき、紅い瞳の少女は窓の外の光景を見て、驚きのあまり目を見開いた。
魔力を最大に滾らせる青い月光の狭間、突如として赤黒い穴が大きく開闢した。それはあまりにも巨大な渦で、天変地異の予兆にも思えた。
赤黒い大穴は渦巻くごとに大きくなり、空が一面赤く染まっていく。
「ケルベロスの宵が赤く……」
紅い瞳の巫女――エトナ・メルヒェンはその日、戦士と出会う。
○
少女は不吉な光景に大慌てで外へ飛び出した。
雪の悪魔の毛皮で作った白いコートを羽織り、家主に告げることなく、一人でその赤黒い穴の正体を確かめに向かう。
凍てつく空気が肺腑を刺激した時、一人で飛び出した事を若干後悔した。
だが、見る見る空は赤黒く染まっていく。
「……大丈夫、魔法があるもの」
エトナは怠惰だが、魔法には自信があった。
神秘の御業と謳われる火や氷魔法を使いこなせる。体力に自信がなくとも、魔法の力を借りれば魔物なら倒せるだろう。
降り積もった雪原に足を取られながら、森の奥へと入っていく。
村のリア先生が知れば叱責ものだが、もしかしたら村全体の窮地かもしれないのだ。村人全員を起こして回っている合間に魔族進攻の餌食になるかもしれない。
ひとまず村の一戦力である『巫女』のエトナ自身が、颯爽、脅威の駆逐に駆り出すことは間違った選択ではないはずだ。
「あっ――!」
刹那、空がより一層、紅く輝いた。
見上げると、大穴から流星の如く赤黒い帯を引いて墜落する隕石のようなものが視界に入る。
それは森の奥へと高速で落ちていった。
大地に着地したのか、轟音と爆風が吹き荒れて、森の動物たちが慌ただしく空へ飛び立ったり、地を駆けずり回って逃げ惑う。
エトナは悍ましい光景に足が竦んだ。
想像以上の事態かもしれない。
ケルベロスの宵が赤く染まり、不吉な空となった。
まさか下界の騒乱を聞きつけたケルベロスが、本当に番犬としての機能を果たしに空から飛来したのだろうか、とエトナは一瞬怖気づく。
……しかし、今の轟音で村人も起きただろう。
怖気づいて引き返すことに何ら意味はない。おそらく妹のマウナも目覚め、エトナが家におらず、コートも無くなっている事に気づけば、外の様子を見に行ったと分かるはずだ。
「確かめに行こう」
あるいはただの隕石の可能性だってある。
エトナは竦んだ膝を何度か叩き、自身を鼓舞させて墜落地を目指した。
…
エトナは赤黒い彗星の墜落地に辿り着き、違和感を感じて首を傾げた。
周囲一帯の木々が薙ぎ払われているものの、地形は変わっていない。あれほどの衝突であれば、大地が抉られていない方が不自然である。
さらには薙ぎ払われた木々は、爆心地に向けて倒れている。
爆風が上がれば普通なら外側へと倒れるはずだが、これではまるで墜落した"何か"に吸い寄せられて倒れたようにも見える。
「……」
異様な光景に固唾を飲んだ。
さらには爆心地の中心――そこは雪が溶けるどころか、反り上がり、氷の壁のようなものが形成していた。そのおかしな自然現象を前にしても、エトナは逃げなかった。
何故なら――。
「うっ……ぐ、こんなのってありかよ……」
その氷の壁の中心に男がいた。
「うぁあああ! くそっ! ちくしょう! ちくしょう!」
男は情けなく泣き叫び、大地を拳で叩いている。
まるで巨人族が跳びはねているかの如く、大地に地響きが轟いた。
凄まじいパワーで大地を叩いているようだ。
少しすると、男は身に纏う襤褸の黒衣から何かの紙を取り出し、眺め始めた。
「……」
黙って何か考え込んでいる。
突如静かになったかと思えば、涙を拭い、すくりと立ち上がった。その立ち上がる動作一つ一つが力強く、まるで洗練された戦士のような素振りだ。
背が高く、屈強な体をしている。
エトナは木の陰からその様子を眺め、何故だか声をかけようと思い至った。
黒衣の男は真っ直ぐ前を見て、周囲に反り上がった氷の壁を意図も容易く破壊――まるで紙細工でも破くような動作で指先で破り壊し、森の奥へと歩こうとする。
「あの……」
「――――っ!」
エトナは勇気を出して声をかけた。
すると、男は振り向き様に凄まじい形相で睨んできた。
その容貌、魔族特有の体表紋章を宿した頬、浅黒い肌から、エトナはその男が魔族だと気づいた。しかし、現在エリンを侵略している魔族は体表が青い『青魔族』だ。
浅黒い肌の魔族など聞いたこともない。
エトナは対峙する魔族が温厚で、知性に溢れ、友好的な種族であると確信して対等な立場で話す事に決めた。リア先生と同じように友好的な魔族の雰囲気を漂わせている。
それ以上に、その男の瞳は何処か――。
「怯えてる?」
世界すべてを怖がっていた。
相当な怖ろしい体験をして此処に来た。そんな印象を受ける。
黒衣の男はエトナの顔を見て一言つぶやいた。
やけに流暢なロワ言語で、むしろエトナが驚いたほどだ。
「え……メドナさん……?」
知らない他人の、似た名前。
まるで幽霊にでも再会したように男は困惑していた。




