Episode188 忠義を尽くす
体が熱い……。
これが戦士特有の闘気のようなものならば、身体の方も分かっているのだ。
今こそ戦いのときなのだと。
「音……が……声が……」
剣戟を交えるリムも呼吸を乱し始めた。
それは、この橋の門番として現われた彼女が初めて漏らした苦艱の声だった。音が、声が、と戸惑うリム。その戸惑いを、十に及ぶ連撃を放ちながら感じ取れるほど僕には余力がある。身体は闘気が滾っておかしくなっていた。
不調なのはいつものことだが、今回はやけに強烈だ。
だって、血だって体力だってすり減らされているというのに、僕の方はどんどん研ぎ澄まされていくんだから。
それを不調と云わずして何と云う。
差し迫る存在が矮小なものに見えていく。
騎士団に入隊したばかりの頃、鉞を引き摺って街を徘徊するリムに悩まされ、夜も眠れずに怯えていた。黒帯は身体能力だけでなく、その性質も異端だった。
僕はそれがどうしようもなく怖かった。
だが、目の前にいる存在はどうだろう。
得物を弾き返す度に苦しく吐息を漏らす。
僕は、リム・ブロワールの少女としての側面を垣間見た気がした――。
ぴたりと剣の手が止まる。
しかし、それは単なる僕の油断だった。
「―――っ!」
手を止めた隙を突き、確実にリムは鉾を突き出して僕の体を串刺しにした。鉞が腹に抉り込み、穿たれた胸から腹は確実に背中へと貫通して。
――カン、と音を立てた。
それは腹から食い込んだ鉾が、僕の背中の『白の魔導書』に辿り着いた証拠。
間違いない……。
今、僕は間違いなく臓物を抉られた。
死んだ、確実に。錯覚でも何でもなく激烈な痛みが体を駆け巡る。僕の全身にばちばちと紫電が奔る感覚。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^⑥――
しかし、また記号や数字の羅列が浮かび上がる。
直後、僕を串刺しにしたリムの大斧鉞は、勝手に押し返されて腹から引き抜かれた。そして腹を触ると……。
僕は無傷だった。
「…………」
気のせいなんかじゃない。
これまでも僕は死んでいた。
腹を擦り、何事もない身体の"不調"を確かめる。相手の刃は僕が背負う魔導書にまで達したのだから、この胴を貫通していなければ不自然なのだ。
"いつか蘇生魔法が使えたらいいなって思ってるんだ"
あの日、エスス王女は夢を語った。
死んだ人間を蘇らせる奇跡が存在する。魔法ではまだ到達し得ない神秘の力『白の魔導書』のみが、それを可能とさせるんだ。
その夢を――その奇跡を僕は疑わなかった。
「そうか」
僕は『白の魔導書』に選ばれた?
この時のために……。
そう感じた途端、僕にも勇気が湧いてきた。
世界が僕を後押ししている。お前が守れ、と――。
消えていった名前の無い英雄の姿が浮かぶ。
まるでその彼が、僕に語りかけているような気がした。
今一度、力強く剣柄を握りしめる。
踏み込んで、今度は僕から斬りつける。対するは地獄の狩猟者リム・ブロワール。己の意志とは無関係に殺戮の限りを尽くす彼女は、僕が早々に打ち倒さなければならない障壁だった。
「っ……声が……聞こえない……」
瞬息の動き。
呼吸も力みも必要なく、僕はまるで空でも翔けているのかと思うほど、身軽にリムへと差し迫ることができた。
少しでも前へ向けて剣を突き出す。
左手の鉄製のロングソード。右手には魔製のグラディウス。
両側からのこの攻撃をリムは器用に鉞や鉾、鋼鉄の柄を操り、防ぎ切った。
しかし、遅い。
遅すぎて次の手が――すべての太刀筋が見通せる。
連撃に対する連撃。
いつまでも続く雨霰のような攻撃の連打に、ついに終わりが見えた。今そこだ、と"終わり"を与えることができた。僕自身が――!
「あぁぁあ!!」
「……っ!」
次の次の手まで読み切った上で、僕はその鋼鉄の鉞の付け根を切り上げた。
ガン、と強烈な音を立てて弾かれた大斧鉞は、くるくると宙で弧を描くと、橋の奥に落下して突き刺さった。
まだ終わりじゃない。
最後までとどめを刺さないと、敵は敵で在り続ける。
「ハァァ――――っ!」
僕は魔製の剣でリムの体に一突き、喰らわせた。
肉を穿つ感触はない。
ただ、すっと何かを通り過ぎ、水の流れに棒を宛がっただけのような静かな反動だけは指先から感じた。
「…………」
リムは、今までの豪傑の動きが嘘のように、ぴたりと体を止め、少しすると後ずさりした。橋の際に辿り着くと、背中から倒れるように谷底までゆっくりと落ちていく。
まるで糸が切れた人形のように。
ふわりと舞い落ちる細い枝葉のように。
浅葱色の長髪を靡かせて川へ落ちた。
「リムが……負け……た……」
背後の観衆の気配を感じた。
それはいつも気怠そうな声を出す男の、張り詰めた驚愕の声だ。
――でも、僕にとってそれは瑣末な事。
どうでもいい過程に過ぎない。
為すべきは追走、ただ一つ。
"壁"を崩して道が開けた。
僕はようやく駆け出した。ついにその影を追うことが出来る。振り向きもせずに一直線に橋を渡り切った。そこにはこの熾烈を極める戦いの最中でも、おとなしく主人を待っていてくれた愛馬の姿。
蹈鞴を踏み、すぐさま彼も駆け出したいと僕に勇ましさを見せつけてくれる。
「いくぞ、トニー! ペレディルを追え!」
馬跳びしてトニーに跨った。
体が身軽で動きやすい。
殺されても殺されても、何度でも蘇ってやる。
僕が為すべきことをやり遂げるまでは。
エススをこの手で助けるまでは。
○
視界が開けている。
ペレディルがエススを連れて何処へ向かったかなど――そんなことは分かるはずがない。分かるはずがないのだが、僕にはその道筋が見えた。
騎馬で街中を疾走している最中、開けた視界には"敵影"が浮かび上がる。
それは文字通り、陽炎のように道標べとなった。
街に散った塵。空気の流れ、家の外壁の様相。
そんな様々な情報から、ペレディルが乗った馬の駆けゆく軌跡が頭にイメージできる。こんなことを感じ取ったことなど今までない。明確な足跡が残されているわけではない。しかし、視界に収まる多くの情報が、僕に"ペレディルはエススを抱えてこっちへ向かった"と示している。
王都の西区から小路や大通りを抜け、西区の正門へ駆ける。
正門と云えど、南区や東区と比べると小さな門だ。
王都の西側には『黄昏の谷』という渓谷地帯が広がっていて、あまり人の往来が少ない。その谷を越えても、エマグリッジ地方という田舎の西方領土が広がるのみ。
東区のように海の境にあるわけでもなく、特産品はあれど貿易は栄えてない。
赤茶けた荒涼な大地を馬で駆け抜けた。
近づいている。
つい先ほど付いたであろう蹄の跡も、荒野には残されていた。
差し込むは赤い太陽。
気づけば日暮れが近く、太陽が黄昏時を示している。まさに『黄昏』の名に相応しい光景だった。僕はそこを一心に、夕陽に向かって進んだ。
"はっ……はっ……"
"むぐっ……ぐう……!"
耳を澄ませば、荒々しい蹄の音とともに荒い呼吸音も伝わってくる。後にはエススのもがく姿も目に浮かび上がった。
近い……。
ペレディルは真っ直ぐ、黄昏の谷を進み、西方を目指していた。
それは彼が西方貴族の出身で、本能的にそちらを向かったのか、あるいは渓谷地帯が身を隠すためにはぴったりであると踏んだのかは分からないが、しかし逃亡にしては粗末だ。痕跡を残し過ぎている。
馬の足跡も残り、何処に行ったかはすぐ分かる。
「トニー、もっと飛ばせ!」
手綱をこれほど強く叩いたのは初めてだ。
僕のその乱暴な物言いに、トニーも待ってましたとばかりにぐんぐんスピードを上げた。この馬がこんな抜群の脚力を持っていたのかという事も初めて知った。その力をこれまで無下にしていた事に少しばかり申し訳ないとさえ思う。
でも僕もそうだが、この馬も今が一番力を発揮すべき時だ。
今こそ存分に奮え……!
荒野の先、その影が見えた。
そしてさらに遠くには中央領土と西方エマグリッジを分け隔つ深い崖があり、そこに架かった橋を渡ればパインロック家の故郷だ。
小さな砂漠や湿地帯も跨り、それを過ぎ去ってようやく西方の土を踏める。
やはりペレディル・パインロックは故郷を目指している。
王女を誘拐したまま――。
これはいつかの焼き増しだ。
魔法大学でも王女様は誘拐された。在籍する主席が黒魔力に汚染されて。
そのときもこの『黄昏の谷』の付近まで連れられ、エススは危うく殺される所だった。
あのときは無様に気を失って助けられなかった。
でも、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。
今は僕が守る側なのだから。面倒をかけ続けた"君"はもういないんだから。
――僕は叫んだ。
「ペレディル・パインロック!!」
「む――」
「ランスロット!」
僕の追走を確認すると、ペレディルは短く返答してまたすぐ前を向いて駆け出した。この後に及んでまだ逃げようというつもりらしい。
エススは涙目だった。
僕の姿を見て目を丸くして喜んでいる。
まさか公式の馬上試合で負けた相手と、こうして実戦の騎馬戦を交えることになろうとは――!
「ヒハハハッ、雑魚が出てきたところで!」
「きゃあ!」
ペレディルは黒馬の手綱を引く傍ら、聖剣を振り回した。
それに驚いてエススが身を竦める。
ガタガタと地鳴りが響き、奴が過ぎ去る度に荒野を転がる大岩が粉々に砕かれていった。それらが振動して宙に浮かび上がると、僕とトニーめがけて弾丸のように放たれた。
手綱を引く。
進行方向を逸らす。右脇と石飛礫を対面させる形で進ませる。
僕は飛来する弾丸をロングソードで斬り捌いた。
「……こっちだ!」
荒野を駆け続ける。
土地の勾配が激しく、複雑に上下左右が入り組んでいた。敵の牽制を防ぎながら進むと、小さな渓谷の崖上に迷い込んだ。見渡しても切り立つ丘や地割れのような谷が広がって、一瞬ペレディルを見失いそうになる。
でも今の僕なら――!
進んだ先の谷底にペレディルとエススが駆け抜けていく姿が見えた。僕はそこに崖上から追走するように追いかける。
蹄の駆動音に気づいたのか、ペレディルは僕を見上げて舌を打った。
「ちっ――しぶとい男め」
見下げた先は崖下になっている。
このまま並走し続けても近づくことは出来ない。
ならば、と意気込んで僕はトニーに跨る形で立ち上がり、得物を手に取ってそのまま崖下へと飛び込んだ。
「ああああ!」
手段を選んでいる場合じゃない。
一刻も早くエススを助け出すのなら馬という移動手段に拘る必要はない。
「馬鹿な男だ!! 自ら退路を断つとは!」
しかし、ペレディルはそれを狙っていた。
またしても聖剣を振り回し、無数の岩肌を細切れにしていく。僕が谷底へと落ちていく側面。その近くから石飛礫の弾丸を創り上げ、僕に向けて放った。
狭い谷を落ちゆく中、四方八方から僕を串刺しにせんと鋭利な岩が迫る。
「このっ――!」
宙で体を翻し、避けたり剣を振り払ったりしながらその弾丸の雨霰を切り裂いていく。数にして五十の斬撃を振るった。それでも取りこぼした弾丸の数々が僕の体に直撃する。
残された装備のうち、篭手とブーツが破壊されて削ぎ落とされた。
今の僕は胸当て一つで他は下地の服しか着ていない。
あとは背中の『魔導書』くらいか。
――それが最後の砦である。
僕に、≪肉体≫という最後の装甲を提供し続ける奇跡の力だ。
ペレディルは僕の無茶苦茶な剣戟を見届けて驚愕の表情を浮かべていた。しかし負けじと聖剣を何度も振るい、今度は石飛礫だけでなく、大岩さえも『念動力』で動かして叩きつけてくる。
荒野は元来の自然の造形美の姿を消し、文字通り、荒れ果てていく。
ごごご、と大地が叫び、抉られた大岩が僕に迫った。
「―――!」
宙返りしながら飛来する大岩に着地する。僕はそれを蹴り、空中で進行方向を変えるのに利用した。今一度、勢いづけてペレディルに追いつくためだ。
あと少し……!
あと少しでエススを助け出すことが出来る!
手を伸ばし、谷底を疾走するペレディルに迫り、その背後に捕えられているエススの手を掴もうとする。エスス王女も僕に手を伸ばして助けを求めていた。
「エス―――!!」
そこで、ぐさりと胴を穿たれる。
ペレディルが歪曲剣を高々と掲げていた。
聖剣リィールブリンガーが僕の脇腹に突き刺さった。もう幾度も味わった、金属が体内を浸食する感触が脳髄を刺激して身震いする。
「ぐっ……く……う……」
「きゃああっ、ランスロット!!」
エススの悲鳴が耳朶を叩く。
ふん、とつまらなさげにペレディルは剣を振り払い、僕を力任せに空中へと放り投げた。
後方へ吹き飛ばされていく最中――。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^⑦――
白い光が僕を覆う。
僕を包み込むような温もりに安堵する。
まだだ……!
まだエススを救えと、世界が僕を再起させる。
「トニィィイイ!!」
叫んだ。
愛馬はその呼び声に応え、崖上から飛び込んできた。見上げると、ちょうど谷底が浅くなっていたようで、トニーは谷底へ着地すると同時に僕を拾い上げた。
僕はその太々とした首元を掴み、くるりと周って鞍へと跨る。
およそ人間離れした曲芸的な動きに僕自身も困惑した。
でも今はそんな芸当に感激している暇はない。
意志を強く持て。
まだ負けてたまるか。
駆け抜ける。目指すは赤い夕陽。
荒野は土埃を舞い上がらせ、僕もトニーもその黒い幻影を追いかけた。蜃気楼のように、もう少しすれば消えてしまいそうだ。
あの地割れに架かる橋を渡られたらタイムリミット。
ペレディルが逃げ遂せる確率も高まる。
そんなこと、あってはならない。
敵との距離は目測、例えるなら闘技場の端から端程度の距離だ。
僕は最後の手段に出ることにした。
「アイスドロップ……!」
小さく、今に太陽の熱で消えてしまいそうなほどの氷魔法の魔力弾を生成する。こんなものは魔法学校に通う幼児でも作れるような粗末な魔法だ。
でも奴の"足"を止めるだけなら十分だろう。
僕はその小さな魔法を放った。
狙いはペレディルが跨る黒馬の太腿。魔力操作は並の腕前だが、あんな大馬だ。脚部も大きいし、的としては当てやすい。
――放つ。
氷魔法が当たり、ヒヒィンと驚いた黒馬が足を止め、前足を上げた。
「なんと!」
ペレディルが体勢を崩し、エススも落馬しそうになっている。
そこに僕とトニーが迫る。もう一度手を伸ばし、落ちかけるエススを拾うために強くその名を呼んだ。
「エスス! 僕の体に捕まれ―――っ」
「う……うん!」
駆け抜けるその刹那。
僕はしっかりとエススの脇に腕を回し、体を拾い上げて背後に乗せた。
乗せることが出来た……!
そのまま荒野を駆け抜ける。
背中にしっかりと王女の存在を感じ取り、僕は彼女を――無垢な少女を守り抜くことが出来たことに安堵した。
「ランスロット、ありがとう……! 怖かった……」
僕に涙を流しながらしがみつく王女様。
騎士としては誉れ高い状況だが、僕はまだ臨戦体勢を解除していない。直感が告げている。ペレディルはまだ襲ってくる。ここで打ち負かし、葬らなければならない敵なのだと――。
トニーを大回りさせて、敵と相対するようにターンする。
「ん、これは……『白のグリモワ――」
「待ってください。まだ終わってません」
「……!」
背中にしがみつくエススを制し、僕は最後の敵と対峙した。
その男は黒馬の傍らに立ち尽くし、こちらを冷徹に眺めていた。殺気立っているのに無表情な視線。それが夕陽が差し込む逆光の中でも、ただ白くギラついていた。
"――焼き付いている心象は荒野。
巨大な太陽が沈みゆく赤い大地。そこを馬で駆ける。
その先にいたのは誰だろう。
西日の逆光がその正体を隠す"
かつて見た心象風景にこの光景は酷似していた。
荒野を追いかけた先には黒い影。
正体の掴めない靄が僕に語りかける。
「脇役は大人しく田舎暮らしでもしていれば良かったものを……」
それは僕に向けた言葉か。
彼自身に向けた言葉なのか。
西方エマグリッジから王都へ来た彼、そして北方クダヴェルから王都へきた僕。その境遇は似ても似つかないものだが、しかし、これだけは共通していた。
お互い、騎士として生まれ育った。
その性が、本能が、両者の中で告げていた。
アレをその名に賭けて倒せ、と――。
「英雄譚の主人公にでもなったつもりか、ルイス=エヴァンス?」
彼はそう問いかけた。
きっとペレディル・パインロックも同じだ。
一度は敵対した身――誇りと信念を以て、最後まで僕と彼は敵対し続けなければならない。
それが己に忠義を尽くすということ。
僕はトニーから降り、鞘から剣を引き抜いた。




