Episode186 抑止力
ランスロット視点から始まります。
額に何かが触れた。
それは優しく僕を撫でて、荒い鼻息を吹きかけた。
続いてぶるぶると鼻を鳴らす。
聞き覚えがある、慣れ親しんだ馬の愛撫だった。
「がはっ……げはっ……」
詰まった喉が咽せ返る。
僕は――いったい、どうなってしまっていたのか。
朧ろげな記憶を思い返そうと、一度起き上がった。がしゃりと音を立てる服装。今の僕は鎧姿だ。そして鎖や縄も巻かれて、背後には四角い鞄が括りつけられている……。
そうだ、と思い出した。
これは『白の魔導書』だ。
続いて思い出したのは、死に際の光景。突然現れた半獣の騎士ボリス・クライスウィフトの投擲によって致命傷を喰らった。
「はっ――」
慌てて胸や腿を触る。
血は噴き出していない。ちゃんと確認したわけではないけど、傷がついているようにも思えない。それどころか、むしろ力が湧いてくるような気がした。
ここは、闘技場観客席直下の地下室に当たる場所だ。
さっきボリスの襲撃を受けるまでは、湿気と生臭い瘴気に当てられて頭が重かったというのに、今はそれもなく、空気が澄んでいるように感じる。
体を起こした衝撃で、覆いかぶさっていた瓦礫もごろごろと落ちていったが、重そうな瓦礫のわりに感覚がなかった。
「……?」
まるで世界が変わってしまったかのような錯覚。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^①――"
そして、その暗号が頭に残っていた。
これまでにない現象に戸惑いが隠せない。
「……それよりも……」
エスス王女殿下を助けにいかなければ。
せっかく取り戻した『白の魔導書』だ。これは王家の象徴。救世の証。これさえあれば喪われた王家の人たちを救うことだって出来るかもしれないんだ。
起き上がり、背中に括りつけられた鞄が落ちないかを確認する。
我ながらちゃんと保定できたようで、身体を何回か回転させて振り回しても落ちそうになかった。
トニーに勢いよく跨り、部屋を後にした。
どれだけの時間が経ってしまったのだろう。
外に飛び出して、一度振り返る。――闘技場内から湧き出ていた毒気は消え去り、すっかり静寂していた。あそこには黒魔力に汚染された市民が集まって、まるで群れを成した虫のように犇めき合っていたというのに、そんな気配が微塵もなくなっていた。
そんなことに構う余裕があったか?
以前はこんなに冷静に現況を分析する余裕があったか?
――普段と違う自分の調子に困惑し続ける。
「……」
"大人しく、あいつらの向かった教会に行くか"
それは僕を殺した痩身の騎士の声。
白い肌に灰色の髪――半人半獣の俊足の男だ。恐怖で足が竦み、すぐ後には成す術なく攻撃をしかけられ、僕は間違いなく死んだと思った。
死んだなんて怖ろしい場面を、僕は何故か、何度も反芻した。
死ぬのは怖いはずなのに死に際の光景に恐怖を感じない。
「いくぞ、トニー」
考察は後だ。今は王女様のことを最優先に。
僕は黒帯でも専属騎士でもない。
ただの新米の白い胴着を羽織る無力な男だ。
でも僕が成すべき事は、そんな肩書きなど関係なく、ただ一つだった。
最初から――。
手綱を握る手に力が籠る。
トニーは南区から西区へ濃霧に怯えることなく駆け抜けた。それは騎手である僕自身が、真っ直ぐに教会を目指したからだろうか。迷いなく、自信を持ってこっちだと手綱を引いたからだろうか。
すぐさま西区のエリアへ至る。
街中の木々が増え、道も石畳から土道に変わる。
丘を駆け上がり、切り立った崖の道半ばを疾走した。
早く……早く……!
エスス王女はこの先にいる。教会に。
ロストが連れ出してくれたのだろう。彼は真の英雄だ。誰にも負けない力と、身を呈する勇気があった。そんな姿に、僕は憧れたのだ。
騎士である必要なんかないと教えてくれたのはそんな彼自身。
形振りなんて構う必要がどこにある。
黒帯になりたいと拘り続けた僕の頭を叩いてくれた。
"傍にいられただろ"
"お前がエススを守りたいって、それだけの想いがあればいい"
濃い霧が立ち込める西区。
その目の前に広がる白い幕間に、彼の英雄の背中が映った気がした。
ロストはいつだって僕の前に立っていた。
……僕は、守られる側だった。
その時点で僕の負けだ。この身に賭けて守るのなら、その大きな背中を乗り越えて、僕自身が誰よりも前に居なくちゃならないんだ。
エスス王女を守りたいのなら……!
そうだ、願いだけでは何も成し遂げられない!
「――――」
その幻影を振り払う。
騎馬を叩き、より前へ。駆け出した先には視界が広がった。
辿り着いたのは巨大な大橋。
崖の傍に聳えるメルペック教会本部大聖堂が目に映った。
大橋が掛けられた手前で、トニーの脚が止まる。
――重たい斬鉄の音が鳴り響く。
そこでは壮絶な騎士二人の戦いが繰り広げられていた。
僕のような見習いの白帯騎士同士のチャンバラじみた手合せと雲泥の差だ。王国が抱える王宮騎士団の最高位の称号、通称"黒帯"同士の戦いだ。
僕を射殺した獣人族のボリスと、大斧を振り回すエルフのリムが橋の上で己が武器を打ち合っていた。
機動力を活かして動き回り続けるボリスに対し、地獄耳のリムは大斧のリーチを活かして、その狂犬を薙ぎ払おうとしていた。
振り回す斧の速度を、目で追うのがやっとだ。
ボリスの動きも、同じように目で追うのが――。
「……?」
違う……そもそも目で追うことさえ出来なかった。それが今は見ることが出来る。二人の動きをしっかり捉えることができる。
死にかけた経験で、眼に異常を来したのか?
魔眼でも手に入れたとでも?
まぁいい。目で追えるなら……。
そう思い、今一度トニーを進ませる。あんな人間離れした戦いの合間を掻い潜って、教会に辿り着くことが出来るのではないか。エスス王女に『白の魔導書』を届けられるんじゃないか。
恐ろしいという感情は毛頭ない。
ただ、この身を捧げて王女様の期待に応えたい。
――ルイス=エヴァンス家が代々受け継ぐ騎士としての性だ。
二人の戦いの合間を縫うように馬を操って逃げ果せる。
彼らと殺し合う必要はない。僕の目的は王女様に『白の魔導書』を届けること。彼女の騎士として――いや、騎士になれなかった身でも、彼女の願いを叶えたいと思った。
一人の女の子の、綺麗な願いを叶えたいと思ったのだ。
僕は一人の男として、あの子に希望を与えたかっただけなのだ。
「お、お前は……何で生きて――!」
ボリスが僕の存在に気がつく。
それを横目で眺めて馬を走らせ続ける。リム・ブロワールがどうしてボリスの足止めをしてくれているのかは分からなかったが、もし内部分裂なら絶好の隙だ。
ひたすら真っ直ぐ、大聖堂を目指す――。
――ドシンと何かが体当たりした衝撃。
僕の視界は突然ぐらつき、横からの攻撃で体を吹き飛ばされた。落馬した。
無様に石橋の上を滑り、がりがりと背中に括りつけた『白の魔導書』が削れて音を立てる。顔を上げて、その突進の主を見ると、大斧鉞を振り回すリム・ブロワール。
刹那、彼女という存在を理解した。
ボリスを足止めしていたわけではない。
地獄耳のリムはこの橋の門番として機能していた。ここより先に進むもの全てを薙ぎ払う狩猟者だ。斧にも衣類にも返り血だらけだ。殺戮の限りを尽くした妖精が、目の前にいる。
恐怖心で足が竦――まない。
竦まない。いつも戦士と対峙したときにカチャカチャと、鬱陶しく僕の意志に反して奏でていた足の竦みはピタリと止まっている。
僕はその狩猟者を見て思うことはただ一つだった。
――邪魔をするな。
エスス王女に希望を届けるためにはこの存在が邪魔だ。
腰に据える愛剣を引き抜く。それは何の心構えもいらなかった。決闘をしたり、戦いに挑んだり、魔物を狩るときみたいな以前の心構えなんて、何の必要もなく、僕はすんなりと臨戦態勢になれた。
迫り来るは狂気の妖精。
目で追える――振り被り、思いきり振り抜かれたその大きな横一閃は、僕の生首を刈り取ろうと迫っていた。
"生首……生首……"
幼い日、ある屋敷での出来事。屋敷の庭の鉄柵に生首が突き刺さっていた。
はぁ……はぁ……。
視界がぶれる。あの日のトラウマは鮮明に残っている。
ガンという壮絶な音とともに、降り切った愛剣ごと腕が薙ぎ払われる。
「あぁぁ……っ!!」
ぐしゃりと腕が変な方向に曲がった。そしてその一撃の重みに耐えきれず、僕は後ろへ吹き飛ばされた。いくら目で追えるようになったからとはいえ、その攻撃に耐えられるわけではなかった。無様に石橋を囲う壁に背中を打ち付けた。その衝撃で兜が外れ、防具の内の一つを失った。
胃液が逆流する。
その衝撃で頸が折れた。ありえない方向に曲がり、視野も体の重心とは異なる角度で世界が映る。
死んだ……。
これは確か死ぬという感覚。
つい先ほど経験したものと全く同じものだった。
だが、また白い光が僕を包む。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^②――"
「がはっ……ぐぇ、げぇえ……!」
盛大に異物を吐き散らし、呼吸を荒げる。
――また変な暗号が頭に浮かんだ。
いや、まだ死んでない。
僕はまだ死ぬわけにはいかないんだから。
首があらぬ方向に曲がったなんて錯覚だ。ただ激しい攻撃に僕自身の体がそう錯覚しただけ。不幸にも剣は折れてしまったけれど、僕にはまだ英雄から託された『魔力剣』がある。
「なんなんだ、あいつ……?」
ボリスの戸惑いの声が、遠いはずなのにまるで近くに聞こえた。
うるさい声。視界もよりクリアに、鮮明に敵影が映る。
すくりと立ち上がる。ダメ―ジを追ったはずだというのに体も軽くなった。胃液を吐き散らしたことかで幾分か体も軽くなったのだろうか。
「……」
リム・ブロワールは僕に向けて得物を構えた。
息を飲む音。狂気に支配された地獄耳のリムでさえ、何かに困惑して一休止置いていた。
そう感じられた。五感は徐々に鋭く、見据える敵はより矮小な存在に思えてくる。僕はこんなにも非力なのに。いや、非力故に、もはや相手との戦力差など気にする必要がなくなったのかもしれない。
――隙を見逃さず、僕は『魔力剣』片手に駆け出した。
以前なら十歩の間合い。
それが何故か今は一呼吸の合間に駆け寄れた。
剣戟の手も軽い。
リムの斧による一閃で一時は引き千切れたと思った右腕もしっかりと機能していた。
しかし、熟練した騎士の戦術は狂化されていても尚、洗練されている。真っ直ぐ駆け抜ける僕に対し、斧鉞の騎士は、鉾の切っ先を真下に向けて規律の取れた動きで、僕を掬い上げるように下段からそれを振り上げた。
ガツンと鎧が砕けた音。
その後には体が縦に切り裂かれたような感覚。
肩と胸が分離しかける。
また白い光が……。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^③――"
いや、錯覚だ。
そんなことは起きてない。まだ胴体はしっかり繋がり、五体満足。戦える。まだ僕は足を踏ん張れる。そう思って力を込めようとしたその刹那――。
頭上から振り下ろされた鉞。
リムは振り上げて攻撃した斧を、そのまま上段に構えて即時に振り落とした。下からの攻撃の直後に真上からの薪割りの攻撃だ。
容赦がない。
その容赦のない一撃を僕は脳天で受け止めた。
脳髄が飛び散る。
――即死だった。
リム・ブロワールは森生まれの樵一族。生業としたその攻撃は一寸のブレもなく、僕の脳天を貫いた。さすがに死んだ。頭が地面に叩きつけられる感覚。後頭部を叩かれたのは間違いなく、穿たれた頭は再起不能である。
しかし、白い光が僕を包む。
"――en; Converge lim{x→0} 1/x^④――"
また暗号が……。
一体なんなんだ。ああ、苛々する。
身を起こして、授かった『魔力剣』を構えると、リム・ブロワールは虚ろな目をして僕を眺め、そしてついには跳び上がって間合いを開いた。
興味が失せたとばかりに僕から視線を外し、次の標的に目を向ける。
その先には僕の無様な抵抗を傍観していたボリス・クライスウィフトがいた。大斧鉞を構えると、間髪入れずに狩人となって半獣の騎士に襲いかかった。
「おいおい……意味がわかんねぇぞ……ッ!」
ボリスは困惑の中でも卓越した身の熟しで、リムの一撃を躱した。
どうやら僕のことは見逃してくれるらしい……。
偶然にも何とか生き長らえた命だ。
背中の『白の魔導書』も相変わらずしっかりと括りつけられていることを確認して、僕はトニーを呼びつけた。ヒヒィンと嘶いて僕のもとへと駆け寄る愛馬。
ハッとなって頭を抑えると兜がない。
振り返れば、無惨に後頭部が破壊されて大きな亀裂が入っていた。自身の頭を撫でるも、傷一つついていなかった。それどころか髪の毛さえ斬られていない。
まぁいい、兜なんて……。
"生首が……生首が……"
少しだけトラウマが呼び起される。
でももう教会はすぐそこ。戦いとは無縁だろう。鎧もぼろぼろだが、あとは橋を通り抜けて教会を目指すのみ。
僕はトニーに馬跳びする勢いで飛び乗り、歩みを進めた。
教会の扉が見えるや否や、その黒い影が見えた。
断末魔の叫びにも聞こえる。
「解セヌ……! 解セヌゾ、貴様ラァァァァ!!」
ぶわりと黒い体を膨れ上がらせる。
それは黒魔力の心臓部に当たる存在だ。きっとそうだと確信した。この王都の厄災をもたらした諸悪の根源だ。
その先、男が睨みつける教会の最奥にロストがいた。
隣には司祭服に身を包んだ女。さらに鮮明になった視界が捉えたのは、さらにその奥で怯える王家の二人。ラトヴィーユ陛下とエスス王女だ。
良かった……。
まだその二人が無事であれば、僕は僕の役目を果たすことが出来る。
黒い人影はよたよたと這いつくばるように、怒りを入念に振りまくように教会の司教座を目指して歩いていた。
その直後。
「ぐぁ……っ」
僕の背後から悲鳴が一つ。
ボリスのものだった。先ほどリムと交戦していたが、押し負けてしまったようである。突き飛ばされたボリスは石橋の壁に背を打ち付けて、その衝撃で瓦礫を溢した。
妖精の狩猟者は疲れ知らずで、虚ろな目をしたまま、きっとこちらに目を向ける。また僕を狙おうというのかと思ったのも束の間、瞬息の動きで僕とトニーを通り抜け、先ほど断末魔の声をあげた黒い人影に向かって軽々と高く跳び上がり、得物を振り落とした。
「ギャアアアア!」
撃ち貫かれた体はぐにゃりぐにゃりと肢体をざわめかせ、悍ましさを引き立てる。黒魔力の塊がそこで暴れている。
僕は唖然としてその姿を眺めた。
その先の教会の祭壇付近にいるロストや司祭服の女性は、ただ冷静に、決意を固くしてその異形の悪意を見ている。
◇
ほとほと、この因縁にも懲り懲りだ……。
俺はその脆くも崩れ去る"諸悪の根源"を眺めて溜め息をついた。悪足掻きが過ぎるのはお互い様だが、先に仕掛けてきたのは向こうである。
そこまでして縋り付く執念は何処から来るのか。
ケア曰く、元から執念深い男だったというのだから、この腐れ縁さえなければ元から関わりたくない男だった。
断末魔の悲鳴が上がる。
リム・ブロワールがラインガルドを床へと磔にし、とうとう身動きが取れなくなった。破壊の限りを尽くす狂人でも、まずは何を破壊すべきかは分別がつくらしい。
――しかし、彼女もまた脅威の一つだ。
それが教会内に侵入してきたのなら、残された時間が僅かであることを示唆していた。
俺は今一度、片手に抽出した『魔力剣』を握りしめる。
"リゾーマタ・ボルガの起動には何をすればいい?"
"あの盃を魔力で満たして"
"魔力で満たす?"
"いつも魔力の塊を振り回してるでしょう。あとは私が操作する"
準備が整った後のリピカとの会話だ。
心象抽出で捻り出した『魔力剣』は、俺の意志に関係なくリゾーマタ・ボルガの空洞内部へと吸われていった。それを何回も繰り返し、ようやく円月輪が象る空洞に赤黒い魔力が満たされ尽くした。
あと残り一本――。
この『魔力剣』を送り込めば、神の羅針盤は完成する。
俺がそれを眺めているのを躊躇いと感じたのか、エススが、
「ロスト……本当にいいの?」
と問いかけた。
エススもこれから何が起こるのか理解している。
俺がまた名前を失うという事を。そしてそれによって皆から存在を忘れ去られるという事も。
きっと最後の『魔力剣』を突き立て、リゾーマタ・ボルガが起動された後の世界では、誰も彼も、俺が誰かを認識することなく、赤の他人がそこにいるだけだと思うのだろう。
これまで俺がやってきた行為も、功績も、すべての英雄譚は別の誰かの物語に置き換わる。
誘拐された子どもたちを演奏楽団の魔の手から救い出したのは、俺ではなく、"名無し"という何処かの少年の活躍として語られる。
迷宮都市アザリーグラードで魔術師の陰謀を止め、ボルガの力の復活を阻止したのも、"記憶喪失者"という一冒険者の物語に置き換わる。
バーウィッチでのオルドリッジ家の大混乱は、そもそも何の事件性もなく、魔獣が一時現われただけの騒動としか認識されないだろう。
リピカがそう書き換える訳だが、俺自身にとっては思い出を自ら葬る行為。
歴史に名は刻めない。
それが俺の運命だ。
――後悔しないか、と問われれば素直に頷けない。
でも、その過程で産み落とされた、こんな歪な"泥"を拭えるのなら。
「皆に恨まれる世界なら、消え去るのは俺自身だ」
そうやって無名で生きてきた。これまでも。
それで救われた人たち、生まれてきた命……リナリーもそうだけど、それがちゃんと残るっていうのなら迷う必要はない。
シアとは一から恋愛し直しになるのかな。
それも楽しいかもしれない。……なんて、楽観的すぎるか。
でも死ぬわけじゃないんだ。一からやり直しでも、また巡り合せがあれば皆と仲良くなれるさ。
「だから、惜しむ必要はない……っ!」
その言葉とともに、俺は最後の『魔力剣』をリゾーマタ・ボルガの空洞内に放り投げた。弧を描いて回転し、剣は崩壊するとともに羅針盤の内腔に吸われていく。
「ヤメロォオオオッ!!」
磔にされた諸悪の根源の雄叫びが空しく響く。
リピカは宙に浮かぶ球体の盃に手を翳した。
「アアアアア!! アアアァァ……!」
無情にも消滅していく黒い影。
リピカが神の羅針盤に何かを念じている。
今、彼女は改竄しているのだ。『俺』が存在しない世界へ。
それはエンペドという存在が消え去る事を意味していた。
磔にされた黒い影だけではない。周囲を漂う霧も徐々に晴れ、教会の壁や床に飛び散ってこべりついていた黒魔力も、すべて霧散していく。
俺自身も皆から忘れ去られていく。
すべての思い出が……。
――――……。
呆気ない。
黒い気配は完全に消え、俺自身も廃墟となった教会に残っていた。肉体の方は何ともない。死んだってわけでもないし、至って正常だ。
変わったのは世界の方……。
今振り返れば、きっとエススもラトヴィーユ陛下も口を揃えて「誰だ?」と問いかけてくるだろう。それもそれで滑稽だった。俺という存在の曖昧さを暗示していた。
「待って、この反応は……!」
だが、イレギュラーな事態が起きた。
困惑した声はリピカのもの。女神の代理者がそんな焦った声をあげるなんて珍しい。
その直後――。
「……!?」
教会の祭壇上空に浮かぶリゾーマタ・ボルガの、球体を象る円月輪がぐるぐると高速で回転し始め、異常な反応を示していた。
その空洞を満たす赤黒い魔力が蠢いている。
それが激しくなると同時に、陰圧的に周囲を喰い始めた。
凄まじい力で体を引っ張られる。
まるで吸引力を持った転移魔法のようだ。
「――あれ?」
違う、吸い込もうとしているのは周囲のものじゃない。
リゾーマタ・ボルガは俺の体だけを引っ張っている。
見渡すと、ラトヴィーユ陛下やエスス、パウラさん、リピカ。そして教会入口付近に佇むリムも平然と立ち尽くしていた。少なくともこの状況に困惑して悲鳴を上げているが、しかし、神の羅針盤に吸い込まれようとはしていない。
「ぐっ……引き込まれる……!」
「ごめんなさい、私は――こんな事が起こるなんて」
隣を見ると、リピカも狼狽していた。
「本当に知らなかったの。ごめんなさい」
その焦りから、彼女の意図せず作動したものである事は伝わった。でも同時に、この事態が何かの悪夢の始まりである事も暗示している。
ついに体が地面から離れ、浮かび上がる。
踏ん張る大地を失った俺は、軽々とリゾーマタ・ボルガへと吸い寄せられ、その狭間へと放り込まれた。
「あぅう~!!」
同時に、暢気な悲鳴も上がる。
こんな声を上げるのは俺の知る限りでは一人しかいない。
女神が抜け殻として残した少女だ。
俺だけじゃなかった。
ケアも俺と同じようにリゾーマタ・ボルガへ吸い込まれる。
――その先は闇だ。赤黒い魔力の中に漬け込まれた俺とケアは、その先にある暗い暗い通路をただひたすら滅茶苦茶に掻き回された。
その時、すべてを悟った。
"抑止力は因果の綻びを修正する『深礎』から派生した強制的な力。私という大司教となりうる少女を、そして『ハイランダーの業火』の雛形となる男を、過去に用意する力が既に働いているかもしれない"
"理不尽だな"
"可能性の話よ。抑止力がどう働くかは判った話ではないわ"
大聖堂に初めて来たときの会話。
そうか、これが――。
羅針盤の内部はトンネルになっていた。
そこを転がるように落ちていく。
そのトンネルは、万華鏡のように現在から過去までの情景がすべて浮かび上がった。俺が経験してきた世界。過ごしていた時代も超え、凄まじい勢いで時が遡っていく。
魔法大学で過ごした時間。
王都で過ごした時間。
迷宮都市で過ごした時間。
冒険者シュヴァリエ・ド・リベルタで過ごした時間。
オルドリッジの屋敷で過ごした幼少期。
そこからさらに時間も飛び越え、イザイアとして過ごした魔法大学の日々。さらにオルドリッジの家系を辿る。時代が遡り、俺は自分自身が過去へと送られているのだと気づいた。
「う……ぁあああああ!」
皆から忘れ去られるだけだと思ったのに。
これはあまりにも酷すぎる。
ごめん、シア……。
逢いに行くなんてメモを送ったけど、もしかしたらそれさえも難しい。
『第4幕 第5場』終了です。
主人公の次なる舞台は過去(第5幕)へ。
※ 回想での台詞はまた『Episode137 女神再臨・銘』より。
王都の騒乱は『第4幕 第6場』に続きます。
(まだ戦いが残されてます)
※次回更新は2016/8/20~21の土日予定。




