Episode185 妖精の狩猟者
序盤はシア視点から。
中盤から三人称に変わります。
弓を構えていても、特に敵影らしきものはなかった。
王都で起こった厄災は学園都市ロクリスにまで拡がってこない。まだ油断は出来ないけれど、そう感じられて少しだけ気が抜けてきた。
校舎の屋上からの『狙撃銃』の構えを解除する。
これを維持するには相当な集中力を要するため、少し休憩しようと持ち場を離れた。私以外にも狙撃班はいるから問題ないだろう。
校舎の中に戻り、休憩を挟む。
お腹を擦ってみた。
この中には、ロストさんとの愛の結晶がすくすくと育っているのかと思うと、それだけで幸せな気分になる。
もう離れたくない。
戦いばかりの彼は、すぐふらふらと何処かへ消えてしまうのだ。そういう人を好きになってしまったのだから不満を垂らしても仕方がないのは分かっているけれど。
それに、もう今回が最後だ。
ロストさんを送り出す前に約束した。
"――わかったよ。これで最後だ"
そうして戦場へ赴いた。
だからロストさんは必ず戻ってくる。
戻ってくれば、あとは平和の時間が待っているだろう。私と、そしてこの新しい命と一緒に、平穏に暮らしていくのだ。
ロストさんの戦いは最後になる。
――だから、今が踏ん張りどき。
写し絵が収められたロケットを開き、その顔をもう一度眺めた。ティマイオス様も素晴らしい発明をしたものだ。こうやって近くにいない人物も、すぐ傍に感じられる。
「シアさんっ」
校舎に飛び込んできた女学生に声をかけられた。
声色から、いよいよ敵襲かと判断した私はすぐにロングボウ片手に腰を上げた。しかし、女学生の雰囲気は敵に怯えて駆けこんできたというよりも、何か驚きの発見をした、というような雰囲気だった。
「大図書館の司書室に、光りが……」
それを聞いてはっとなる。
そういえば、私たち籠城部隊には、緊急時に王都と連絡が取り合えるように、大図書館の転移魔法陣を利用したメモ書きのやりとりも任務の一つだった。
もしかしてロストさんたちが大聖堂に到着し、何かしらのメッセージを送ってきたのかもしれない。
私は急いで図書館へ向かった。
図書館は、今は魔法学生たちの休憩所としても使われている。
先ほどの女学生もきっとここにいたのだろう。
司書室に入り、送りつけられたメモを手に取った。
紙切れ一枚だ。壊れてしまった転移魔法陣ではこんな小さなものしか転送できない。こんな小さなものだけど、されど極めて重要な情報源だ。
極めて重要な――。
その短い文章を読んで少しの眩暈がした。
立ち眩み、そして力なく床にへたり込む。
なんというか……あの人らしいと云えば、あの人らしいけれど。
「まったく、赤ん坊もいるというのに……」
浮気性な人ですね、と嘆いて口を噤む。
ぽたぽたと涙が零れ落ちた。
「そうやって私よりも"世界"を選ぶんですから」
そんな彼を愛してしまった私の自業自得か。
英雄稼業はもう終わりだと言って、向かった先でそのまま消息を絶つというのだから、よほど難儀な人だ。普通なら付き合いきれないと愛想を尽かすところだが、まぁ今更、知れたこと。
その性分を知っても尚、一緒に生きていくと決めたのだ。
尤も、ロストさんだって望んでそうしたわけじゃない。
これはきっと苦渋の決断だ……。
そんな仕草も素振りも、文面ですら出していないが、私と同じようにロストさんだって苦しいに違いない。
皆から忘却される末路なんて、あまりにも可哀想だ。
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シアへ
ごめん、約束守れそうにない。
皆のために、また名前ごと消える。
落ち着いたら逢いに行くから、
それまでお腹の子と待っててくれ。
名無しより
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――無責任な言葉。
バーウィッチでは貴方を探すために、どれほど苦労したかも知らないくせに。
待っててくれ、とは彼なりの気遣いだろうけど……私を舐めないでほしい。忘れていても探し抜いたのだ。またこちらから探し出して、今度は手錠でも掛けて、おまけに首枷や足枷も嵌めて絶対に逃がさないようにしてやるんだから。
「う……うっ……」
涙はずっと流れ続けた。
写し絵入りのロケットを強く握りしめる。
今度は顔も分かってる……。
名前も存在も忘れていようが、地の果てまで追いかけてみせよう。
◇
ラインガルドは焦っていた。
憎き彼らが目指す先は大聖堂。尻尾を巻いて逃げたかと高を括っていたが、ロストがそんな弱々しく、自棄になるような男ではないことは重々承知していた。
――であれば、目指す理由は他にある。
こちらも意図していなかった打開策が残されている。
そう確信して追いかけた。
商店街が立ち並ぶ王都の南区から大通りを駆け抜けて自然と調和する西区へ向かう。元々、街の高低差も激しく、霧が立ち込めやすい土地だった西区だ。濃霧も南区よりも一層と濃くなっている。臣下のペレディル・パインロックも引き連れて、そんな視界不良の道を往く。
黒の瘴気を振りまいたのはラインガルド自身である。
それが大気中の魔力を飽和状態にさせ、溢れた魔力は粒子化してこのような薄暗い霧となるとは予想だにしていなかったが……。
右も左も分からない白い世界は、ラインガルド自身を陥れた。
これも自業自得の極み――。
探知機のボリスは付いてこなかった。
どうにも、この髭の男一人では心許ない。
あれだけ勝利を確信した、気分も清々しく華やかな、自己快楽に浸れた舞台もいつの間にか打ち切られ、増やしたと思っていた同志は一人しか残ってていない。
詰めが甘いと言われればそれまでだった。
しかし、ラインガルドの目的はイザイアに対する復讐だけだ。
それ以外のことに対策を講じる余力はあっても、そもそも興味がなかった。だから、その短絡的思考が見落としを生んだ。
己が古代に仕立てた陰謀の副産物。
それが大聖堂に封印されているとは思いもよらず、まさにその毒牙にかけられようとは、因果応報も良い所であった。
ようやく大橋に辿り着く。
大聖堂へと至るための唯一の経路だ。巨大な白銀の塔が高々と上がる大聖堂は、切り立った崖の傍に建てられており、その周囲も川や湖が囲っている。
ここ以外に通れるルートはなかった。
「……斧鉞……斧鉞の音……」
ごろごろと大斧を引き摺って現われた脅威。
ラインガルドには、ここに来て再三に渡る戦いが待っていた。陥れた黒帯のうちの一人――かつて快楽主義者と嘲けたリム・ブロワールが、今や脅威となって立ちはだかっている。
黒魔力による汚染もなく、狂気に堕ちた憐れな女だ。
「ペレディル……! 早くその女を殺せっ!」
「御意」
二度目の戦いと同じ布陣。
教会を目指すラインガルドとペレディルに対峙するは地獄耳のリムだ。
それは聖剣と魔剣を求めた際にも在った戦いだが、今回はリムの塩梅が異なる。
現在の彼女は、初めから狂気を振り撒いていた。
ブリギット王女殿下を守りながら戦っていた前回とは訳が違う。庇護する存在もなく、殺戮の限りを尽くす彼女は、狩猟者としての能力に特化していた。
元来、木こりとして森で育ったエルフである。
狩猟もお手の物であり、故郷の村に攻め込んできた悪党も殺戮した経験のある彼女にとって、自身の領域に踏み込む者に制裁を与えることに躊躇いがない。
俊足で駆ける長耳の女。
その手には大斧鉞。切っ先には鉾と、側面には鉞がついた彼女の愛刀である。ぶわりと周囲に風圧を撒き散らし、軽々と可憐に舞いながら、ペレディルを翻弄した。
――その在り方は、"抑止力"と似ていた。
世界のバランスが立ち行かなくなった時、災害や疫病、何事かの文化潮流によって調和を乱す存在を抹消する。それは時として自然現象でなく、神の啓示を受けた人間や魔獣として顕現することもある。
もし現在の乱れた王都を、世界の調和の為に破壊する抑止力が働いたのだとすれば、その役目はリム・ブロワールに割り振られたのであろう。
それは彼女自身も意図していない事だ。
だが、特異能力『不倶の種子』は元より先天的に《統禦者》から授かった盗聴能力。
その副作用で狂化に至ったのなら、その道理も筋が通る。
何より、今のリムは只々、強かった……。
他に類を見ないほどに。
超人的な力を発揮する時の支配者も、つい先ほど押し留めたほどに
「ぐっ……!」
ペレディルも聖剣を手にリム・ブロワールを討たんと迫る。
しかし、押し込まれ、その重たい一撃に顔を顰めた。
彼は西方の騎士家系の貴族であり、リムと比べると力も技も遥かに劣っていた。それを補うのは握りしめる聖剣リィールブリンガーの力と特異能力『念動力』だった。
だが、所詮はその程度のもの――。
ペレディルはよたよたと覚束ない足取りで後ずさりし、狩猟者と間合いを取った。
「ラインガルド様……この女、以前より強くあります」
「知れたこと! 今のこいつは死も怖れぬ狂人だ。貴様が命を賭けずに敵うものか」
「私に死ねと仰るのですか」
「その覚悟で挑めッ! アレが起動したらお前諸共、僕も破滅だ」
ラインガルドは目を見開き、怒鳴り上げた。
既にラインガルドに余裕は無かった。
この戦い、この防衛線を突破できるかどうかが鍵だ。
大聖堂に至り、リゾーマタ・ボルガの起動を止められればラインガルドの勝ち。先に起動されれば、敗北だ。
その状況は前回のオルドリッジ家での戦いとは真逆である。
――イザイアとエンペドの戦い。
イザイアは仲間の信頼によってエンペドの陰謀を打ち止め、起死回生に至った。
しかし、現在のラインガルドに仲間の信頼などはない。
王都で培ったものは、ただ恐怖と魔力で屈服させ、支配するだけの主従の力。
その何処にも救いは無かった。
そう……英雄は愚直に友を助け、陰謀にかけられても我が身を削って世界を救おうとした。その姿に仲間は憧れ、聚めた信仰で敵を打破した。その一見して救いようのないほどに間抜けで恍けた善人を、嘲笑っていたからこそエンペドは負けたのだ。
しかし、そんなラインガルドにも一つだけ救いの手が現われる。
「やれやれ、どうにも敗走待ったなしってやつだな」
大橋の入り口。
現われたのはまだ残された街灯の支柱の上に犬のようにしゃがむ半獣痩身の騎士。
叛逆の騎士は、現在の主君の末路を見届けるために現われた。興味本位というものだ。決してラインガルドを助けようと思って登場したわけではない。
獣人族の冴え渡る直感で、この叛逆は破滅を迎えると気づいていた。
ならば、最後は華やかに潔く、事の顛末を興じて悪を貫こうとする。そんな脱力した姿勢である。
最後の最後に、疑問だった古来の大英雄と同一の名を持つ男に鎌をかけてみたが、興醒めも良い所の死に様だった。
存外、この世界には面白いものが足りていない。
「ボリスか、よく来た……っ! 早くあの女を止めろ」
「へいへい……」
頭を掻き、気怠そうに生返事をする。
やる気は微塵もなかったが、元黒帯の同僚の差し止めだ。ましてや抱いたことのある女の後始末なら、この手にかけてやるのも任侠と云うものか。
ボリスは身軽に街灯から飛び降りると、懐から短刀を取り出して両手に構えた。
その敵意に気づいたリムも、標的をペレディルからボリスに移す。
ペレディルは幸いにも傷一つ負っていなかった。これだけの戦力差がありながらも無傷で済んだのは、ひとえに聖剣の恩恵である。
聖剣リィールブリンガーは《星の統禦者リィール》が遺した剣だ。
その持ち手を星のもとに庇護する力が働き、抑止力として猛威を振るうリムの打撃を和らげていた。
ボリスは試しに短刀を投擲してリムを挑発した。
両手で計五本に渡る飛び道具による攻撃だ。それをリムは大型の斧一つで鮮やかに、そして最速の一閃ですべてを払い落とした。
「……」
それを見てボリスも、今のリムには敵わないと確信する。
主の命とあらば、戦わなければと作動する黒魔力の指令系統。それがボリスを戦いに挑ませたが、彼の意志ではリムと本気で殺り合うつもりは毛頭なかった。
ましてや、渡り合えるものでもないと――。
ボリスは体裁では戦いに挑みながら守りと逃げに徹する。
痩身の騎士は力こそ劣れど、敏捷性で云えば黒帯随一を誇る。それは狂化されたリムでも捉えられないほどの速度だ。
その彼が逃げに徹したとき、完璧な耐久戦が完成する。
ボリスがやっている事は殲滅ではない。
ただの時間稼ぎだ。
「くっ……時間がないのだ……」
ラインガルドは焦っていた。
ボリスの俊敏ながらももたついた立ち回りに苛立ち、ついに彼は臣下の二人を捨てて駆け出した。大聖堂へ至る大橋を急いで駆ける。
――ねっとりと残る黒魔力の軌跡。
間抜けた蛞蝓のように、ラインガルドは自身の痕跡を残して教会へと向かった。この時点で彼は既に敗走していた。
駆ける最中、両腕に宿る黒魔力の湯気に気づいた。
これは闘志の滾りではない。
「……霧散している」
自身の依り代である黒魔力が徐々に消えかけていた。
それは自己消滅の反応だ。
魔力昇華を果たし、黒魔力と一体化したラインガルドは魔力が枯渇したと同時に消え去る。
本来、魔力は大気中にも振り撒かれて環境中を巡回するものであるから、仮に霧散したとしてもラインガルドが消滅することなど在り得ず、彼は本質的に不老不死を手に入れたはずだった。
――しかし、黒魔力の正体は『イザイアが憎い』が具現化したもの。つまり、彼が存続し続けるには、『イザイア』という憎悪の対象がいなければ成立しないのだ。
それだけ依存してしまった。
憎い憎いと依存してきたが故に、依り代がなければ消滅する。
片方が消え去れば共倒れする末路だ。
「くっ……僕がそんな呆気なく――」
――憎い!
――憎イぞ、イザイア!
――イザイアガ、ニクイ!
またしても湧き上がる憎悪。
そのすべてが、彼に向けた負の感情に帰着する。
ラインガルドはよろけ、まだ教会に辿り着く前に滑り転げた。
頭から倒れ、教会の入り口付近で四つん這いになる。
力が弱まっていた……。
顔を起こすと、視線の先にはその憎悪の対象が真っ直ぐな眼差しでこちらを見ていた。扉は破壊されて、外からでも教会内部を見渡せる。
教会の最奥――そこには自身が悪行の限りを積み重ねて作り上げた神の羅針盤が浮遊していた。その球体の空洞には、徐々に神性の魔力が満たされていた。
赤黒い、禍々しさに満ち満ちた魔力だ。
その前に立つのは、かつての共謀者の女神。
そして、その隣には依存し尽くした宿敵イザイア・オルドリッジの成れの果て。
「……エンペド」
その男が、仇敵であるはずの自分自身を憐れむように見下ろしていた。
そんな不当な扱いに余計に苛立ちを覚える。
「お前とは色々あったけど、もう終わりにしようぜ。俺たちの争いに周りを巻き込むなんて、やっぱり間違ってる」
「グ……グヌヌ……グ、ガァァア!」
獣の咆哮だ。
怒りに囚われて、ラインガルドはついに理性さえも失っていた。
「消えるんだ。俺も、お前も――それで世界は救われる」
女神が呼び寄せた、たった一つの異界の魂。
それがすべての始まりだった。代理者も静かに目を閉じて祈っていた。彼女の懺悔はリゾーマタ・ボルガに向けている。
世界を掻き乱した罪を、清算するために。
「解セヌ……! 解セヌゾ、貴様ラァァァァ!!」
ラインガルドは全身が黒く染まっていた。
怒りが増幅されればされるほど、黒魔力は膨れ上がって肥大する。しかし、それはもう極限まで薄まっていた。存在意義が希薄した黒魔力は、いくら増殖しようとも薄まる一方である。
「ぐぁ……っ」
刹那、ラインガルドの背後から短い叫び。
それは先ほど嗾けたボリスが、とうとうリムに薙ぎ払われた声だった。そして間髪入れずに壮絶な速度でラインガルドへと迫る、世界の抑止力と化した狩猟者――。
先ほどのうるさい憎悪の声を『不倶の種子』で聞き届けたリムは、一番大きな"声"をまず消すため、標的を諸悪の根源へと定めたのだ。
跳びあがり、大斧鉞の尖端の鉾を真下に向け、ラインガルドめがけて突き落した。
「ギャアアアア!」
まるで断末魔の叫びのようだった。
鉾が背中に直撃したラインガルドは、既に存在すら消えかかっているというのに、背後から串刺しにされて地面に射貫かれた。
抵抗することもできず、身体が一切動かなくなった諸悪の根源。
足掻いても足掻いてもその鉾は抜けず、ただ荒廃した床でじたばたと暴れるしかない。顔を上げ、呆気なくも空虚な己の末路が出来上がるのを――断頭台が完成されていくのを見届けることしか出来なかった。
因果応報。
この運命を作り出したのはラインガルド自身である。
狩猟者として完成されたリム・ブロワールも、これから断頭台として機能するリゾーマタ・ボルガも、いずれも自らが生み出した代償だ。




