Episode173 失うものと授かりもの
「姉さまがあんな風になったのは僕のせいだ」
気を遣ってそっとしておいた俺が馬鹿馬鹿しくなるくらい、ユースティンはあっさりしていた。
黎明の森に朝日が差し込み、太陽は目覚めゆく頃、俺たちは束の間の休息としてようやく眠りにつこうとしていた。
男子寮は使えそうにないため、とある教室を借りて寝床にする。
当面は大学も休校になるそうだ。
ランスロットとも並んで三人で川の字になって教室で寝た。
他二人とも寝静まったと思い、俺も目を閉じながら考え事をしていた最中だったから、その不意打ちに何と返していいか分からない。
……以前のユースティンだったらどうだった?
肉親に対する情と"正義の大魔術師"という理想の間で板挟みにあった時、ユースティンは何も出来なかった。何もできず、父親から言われるがままに行動し、最後は涙を見せた。
"……父様を、どうか止めてくれ"
頬を濡らすユースティンの悲痛な叫び。
あれからまだ一、二年程度か。
もしかして今の言葉は本心ではなく、俺に対する気遣いか。
「黒い魔力のせいだろ。疑いもせずにここまで持ち運んだ俺がいけなかった」
「姉さまがあんなものに足元すくわれる訳がない」
「……」
邪推だった。
そのはっきりとした口調は信頼感がある。
考察は姉弟だからこそ出来たもの――。
ユースティンは、自分の姉のことを教えてくれた。
イルケミーネ・シュヴァルツシルトはガルマニード公国の皇太子と、生まれて間もなく婚約が決まっていた。
いずれは大公の妃となっていたはずのイルケミーネが何故、別の大国の宮廷教師をしているのか。
そこには俺も無関係とは思えない理由が隠されていた。
シュヴァルツシルト家は公国随一の魔術師家系の貴族だ。
国家成立の当初から参謀として皇族に仕えていたため、歴史も深く、後継ぎも国中が気にするほど、厳しい目を向けていた。
アンファンも分家ではあるが、本家筋に近い血筋として厳しい環境で育っていた。
魔術先進国であるエリンドロワ王国の魔法大学に留学したのも、東流にはない先鋭的な魔法を取り入れるためだ。無事に卒業を果たしたアンファンだが、シュヴァルツシルト本家の後を継ぐことはなかった。
それは、己が魔術を究めるため。
世間を賑わせた同期の魔術師の背中を、どうしても追いかけたかったからだ。
それがイザイア・オルドリッジ……否、エンペドの存在である。
またその名前がここに……。
稀代の魔術師の誕生を目の当たりにしたアンファンは、ある条件のもとに本家との縁を絶った。それは次代の跡継ぎとして子どもを明け渡すという条件である。
もはや魔術のことで頭がいっぱいだったアンファンはその条件を呑むことにした。
第一子は女の子、イルケミーネだった。
幼い頃から卓越した魔術の才能を発揮し、かつ幼子とは思えないほどの見目麗しい美貌を兼ね備えたイルケミーネは既に当時から公国内で話題となり、同時期に生まれた皇太子との婚約が決められてしまった。シュヴァルツシルトもすぐに第二子の誕生もあるだろうと思い、皇族の申し入れを受けることにした。
しかし何故だろうか。
まるで運命の悪戯のようにアンファンが第二子は授かることはなかった。
五年ほど経っても第二子が生まれてこないアンファンはイルケミーネが惜しくなった。何といっても彼女は類い稀なる才能として『鑑定魔法』という能力を持っていたから。
そんな魔術は賢者クラスの御業だ。
『魔力探知』を究めたものしか成し得ない力量測りの極意である。それを生まれながらに備えていたイルケミーネに才能を感じていた。
――結果としてアンファンはイルケミーネを連れて亡命したのである。
イルケミーネを大学へ進学させる頃合い、偶然とは思えないタイミングでユースティンを授かった。アンファンはこの狙い澄ました気運に神の導きさえも感じ、己が道は魔術の世界にあると盲信した。
それが祖国を離れて王都で暮らすシュヴァルツシルト家の背景。そして、後に引き裂かれてしまう親子の最初のきっかけだった……。
"何組かの親子を犠牲にし、彼に家族に対する思いを想起させる必要が出てきます"
"よいよい……何よりも優先すべきはボルガの力よ"
ある陰謀の話。
仕組まれた因果はたった一つの目的のために幅を広げ、多くの人々を巻き込んだ。
「姉さまは完璧だった……いや、完璧じゃなければいけなかったんだ。父さまが本家を裏切ってまで連れ出したんだから、父さまの期待に応え続けなければならなかった」
「そうか。それで――」
イルケミーネ先生は責任感が強かった。
共同研究をしていても決して有耶無耶にはしない。分からないことは徹底的に調べ、考え抜き、そして的確に俺を導いた。
「僕はそんな姉さまに甘え尽くしだったが……でもそれ以上に……姉さまも僕に依存していた」
「依存? あんなあっさりしてるイルケミーネ先生が?」
「姉さまは世話焼きが過ぎるんだ。人の世話を焼くことで、姉さま自身も完璧である自分に陶酔する嫌いがある……。結局、姉さまもシュヴァルツシルトの人間なんだ。父さまや僕と同じように、自惚れや慢心で……本当に大事な、ここぞという所で失敗する」
まるで徹底された自己欺瞞。
イルケミーネ先生は確かに天才だが、この世に完璧な人間なんているはずがない。
少しは間が抜けてもいいものを、多少の失敗も許されない環境と、それを引き立てる"甘えん坊の弟"の存在が先生を追い詰めた。
だからユースティンは自責の念に駆られている。
「僕は大学に来てから姉さまを避けていた。僕が近くにいることは結果的に姉さまを追い詰めるから。世話を焼く相手がいない方が……姉さまは自由で幸せなんだ」
「……」
大学では問題児扱いだった彼だが、その扱いは本人も意図していたものではなかったようだ。
姉のことを放置していたのも、背の高い校舎や黄昏の谷へ出向いて実験を繰り返していたのも、すべては姉を遠ざけるため。
ユースティンはやっぱり父親の死を乗り越えて成長していた。
でもそれなら尚の事――。
「……」
先生があんな風になったのは俺のせいだ。
俺が"弟役"になってしまった。
「僕は姉さまを助けにいく。ロストの力も貸してくれ」
「……もちろんだ」
先生を一番理解しているのはユースティンだ。
余所者である俺が出しゃばるのは野暮というものか。
○
なかなか寝つけず、朝から研究室へ向かう。
学生で賑わい出す校舎も今は閑散としていた。
"黒い魔力に憑りつかれた者で、それぞれの様子が違うのは何故だと思う?"
ユーステインは寝つく直前、そんな質問を投げかけた。
ある者は魔獣のように自我を失って攻撃性を高める。
ある者は姿かたちを変えることなく、憎しみで言葉を荒げる。
ある者は姿かたちも言葉も正常のまま、思想だけに変調を来す。
そこに従来の闇魔法による精神汚染との決定的な違いがある。
"僕は……その人間の想いが悪い形で増幅される結果だと考える"
想いが悪い形で増幅される。
ヒトの形から逸脱するのは破壊衝動の表れ。
言動や思想が変貌するのは、己の運命に対する嘆きか。
『マナグラム改良研究所』という張り紙が目に付く。
先生の字で書かれたものだ。今や、この研究室には前世以上に思い入れがあった。
扉を開けて部屋を見回す。静まり返る部屋。いつもならここにイルケミーネ先生がいて、優しく微笑んでくれる。あれは反則だ。甘えるな、頼るな、という方が無理な話である。
先生がいつも座っていた壁際の机をなぞる。
引出しを開けると、そこには一冊のノートが入っていた。実験日誌兼日記のようなものらしく、読むのも気が引けたが、今はそれ以上に先生の心情が気になって読まずにはいられなかった。
『今日は手始めに研究室の掃除と魔力培地の作製。ロストくんは掃除に使う初歩的な魔法ですら驚いて、なんだか子どもっぽかった。ずいぶんと可愛い英雄ね』
『作製した魔力培地の正確さの検証。"迷宮都市"の話が出たときにロストくんはお父様のことを気にしてくれたみたいでちょっと萎縮してた。子どもっぽいようで変なところに気を遣う子みたいね。ユウにも見習ってほしいわ』
『私の血を培養して古典的な魔力測定。ちょっと凄いところ見せてあげようって意地悪しちゃったかな。小結晶の数をかぞえるロストくんの一生懸命な姿は健気で可愛らしかった』
そんな感じの手記が続く。
実験のことよりも実験中の俺の様子ばかりだ。
『本番の無詠唱術者の魔力測定開始。ロストくんの血も塗ってみたけど、培地をどろどろに溶かしちゃった。なんで!? と思ったら反物質的な性質を示す魔力だったみたい。私が知らない世界を知っててズルい。代わりにカレンから譲り受けたサンプルを試した。黒いってだけでロストくんも怯えてた。どうだ、参ったかっ』
黒いサンプル……。
例の黒魔力のことか。
この書き込みの辺りからイルケミーネ先生の筆跡が少し荒くなっている。
『ロストくんが勝手に研究を進めていた。心象抽出による魔力形成を魔石に置き換えて培地に利用しようとしたみたい。それじゃあ無理よ。魔石は長い年月で蓄積したから魔力結晶として安定してるけど、寄せ集めの魔力生成じゃすぐ消えちゃう。一言くらい私に相談してくれればいいのに……。でも良い発想だと思う。時間魔法が安定性を補うなら出来るかもしれない。ちょっと虐めてみたくなって時間魔法を何回か使ってもらった。魔力が枯渇しかけてるのに、それでも必死に魔力を捻り出そうとするロストくんが可愛い。滑稽ね。もっと虐めたくなっちゃう。……最近、ロストくんを虐めろっていう幻聴も聞こえる。疲れてるのかもしれない。でも言葉通りに行動すると気持ちいいからやめられない』
『ロストくんの魔術訓練を始めてみた。ロストくんは神様の力で体の半分が魔力結晶で構成されてるみたいだから魔力切れに弱そう。魔力切れで弱ったロストくんの顔を見るのが愉しい。悔しかったのは魔力総量が人智を超えてたくらいかな。でもそんな無尽蔵の魔力も枯渇させちゃうくらい滅茶苦茶なロストくんが滑稽だった。もっとやらせたい』
『マナグラム改良に一歩前進! 無詠唱術者の魔力は輝度が高くて測定不良だった可能性。なんだかロストくんは黒い魔力について気になっているみたい。なんでそんなこと気にするんだろう。私はロストくんの欠点が見えてくる方がこんなに楽しいのにな。いっぱい教えてあげることがあって困っちゃう。ロストくんの家庭教師が出来ていたらどれだけ幸せだっただろう』
『声の通りにしてるのに不愉快。ロストくんが魔力放出の調整をすぐに体得しちゃった……なんで……もっと苦戦してほしかったのに』
『魔力操作の訓練中にユウに邪魔された。ティマイオス様の雲海から落ちたときにロストくんに抱き締められてちょっと意識しちゃった。そのまま落ちてロストくんの体がひしゃげて可愛かった』
『……なんでロストくんはこんなに修得が早いの。オルドリッジの血筋ってだけでもなさそう。まるでずっと昔から魔法を使い熟してたみたいにどんどん吸収していく。やめて。これ以上成長してほしくないよ。私が必要なくなっちゃうじゃない』
それ以降の頁から俺の名前が延々と書き殴られている。
空白の頁に辿り着く前に日誌を閉じた。
過ごした日々は同じはずなのにその心情は想像を絶していた。書き込みから推理するにかなり前から先生は黒い魔力に憑りつかれていたように思う。
でも、これを見て偏見を向けるのは間違いだ。
黒い魔力の汚染で世話焼きが悪い方向に暴走しているだけ。
先生の良いところをちゃんと受け入れよう。
俺に魔法の世界を教えてくれた。魔術の使い方も。もし実家から勘当されず家庭教師とその生徒として先生と知り合っていたのなら――。
"知らないということは悪いことじゃない。家庭教師の私が教え損ねていただけの……ただそれだけのことだから大丈夫。大丈夫よ……ね?"
……あの日々に偽りはない。
先生は温かかった。
黒い魔力に侵されても尚、俺に温かい言葉をかけてくれたんだ。
"世話好き"で少し無理して疲れてしまったんだろう。その隙を突かれ、黒い魔力に感情を掻き乱されてしまった事が原因だ。
ユースティンならそんな先生を救ってあげられるはず。
あいつに任せよう。
俺は日誌を元の場所にしまい、研究室を後にした。
眠気はどこかへ飛んでいった。
まだ俺のやるべきことは沢山ある。
○
医務室へ顔を出そうとした所、直前で誰かが飛び出してくる。金属が擦れる豪快な音とともに仰向けで廊下を滑ってきたのはランスロットだった。
目を回している。
「放っておいてよッ!」
怒声はエススのものだ。
エススが突き飛ばしたのだとしたらお見逸れしたが、こんなに荒れている姿は初めてだ。
状況が状況なだけに仕方ないか。
「ぼ、僕はただ……王様を助けに……」
「黒帯になりたかっただけの人には分からないよ!」
ランスロットを跨いで医務室に入った。
六台もあるベッドの半分が埋められている。
一つはミディール王子が布団に包まって小刻みに震えていた。エススがそこにしがみつく様に項垂れ、泣いて顔を腫らしている。兄弟の中で唯一生き残った存在だ。
その向かいのベッドには片眼帯のモイラさんが枕を腰当てにして座り、気まずそうにその様子を眺めていた。
さらにその隣にはアルバさんも同じ姿勢で座り、遠くを見るような目で呆然としている。彼女にはシアが看病するように寝台近くの椅子に腰掛けていた。
ティマイオスも扉付近で俺を確認すると溜息を小さく吐いた。
俺はそれを無視し、エススに近づく。
「大丈夫か?」
荒れるお姫様を宥めるために声をかける。
エススは俺の声に反応して涙を拭い、腫らした目をこちらに向けてきた。
「ロスト……」
一度は冷静さを取り戻したように見えたが、込み上げる何かを隠すように、また兄へとしがみ付いて顔を伏せる。エススは今、この中の誰よりも動揺している。肉親のほとんどが突然いなくなってしまったのだ。
さらには尊敬する恩師にまで裏切られた。
十五の少女にとっては何よりも衝撃的だったに違いない。
「お父さんを……助けて……」
陛下のことは言われるまでもない。
俺は王宮騎士団の黒帯だ。王都が危機に瀕していれば――おそらくは王宮騎士団と無関係だったとしても乗り込む気でいただろう。
「お気の毒に。私が力不足なだけに……申し訳ありません」
モイラさんが改めて頭を下げた。
七人もいた王族の子息子女が無惨にも殺されたんだ。その中でこうして一人無事に連れ出せただけでも騎士の務めを十分果たしたと思うが――。
俺の視線に気づいてモイラさんは目を伏せた。
「ミディール殿下はカイウスが身を賭して守り抜いたのです。私は専属で仕えていたボドブ殿下でさえ、お守りすることができませんでした……。危険を察知できず、専属という身を弁えずに単独で行動した私の落ち度です……」
「モイラさんは悪くないだろう」
ボドブ殿下は俺も一度言葉を交わしたことがある。
高慢な態度で煽られたが、可愛いものだった。
「モイラさんは王都に戻るのか?」
「……当然です。私は復讐を誓いました。王妃や王子を何人も手にかけたガレシアをみすみす逃すわけにはいきません。ボリスのこともです」
「それが仮に……本人の意思じゃないとしても?」
「はい。意思ではないのなら尚の事――正気を取り戻した時に罪の重さに耐えられないでしょう? 介錯してあげるのが私の騎士道です」
敵に不覚を取って背信したのであれば引導を渡してやろうというつもりらしい。
王都の現状を知る彼女が攻め入る気ならば話が早い。
分からない事を色々と聞き出すことにした。
昨晩の魔法大学の騒ぎからも概略は想像できるが、敵の戦力を把握しておきたい。王宮騎士団以外の脅威はないか。王都に腕の立つ剣客や魔術師はいるのか。黒幕であるラインガルドの目的に心当たりはないか。
そんなやりとりの最中、突然にもエススもすくりと立ち上がった。
「ボクも王都にいく」
「え……」
思わず間抜けな声が出た。
「駄目だ、危ない……向こうの狙いも分からないんだ」
「危ないのは分かってる。でもボクはまだ宮殿のみんなを救う方法を知ってる」
「宮殿のみんな?」
「……『白の魔導書』があれば」
エススは"宮殿のみんな"と言った。その多くは故人を指していることはすぐに気づいた。死んでしまった存在をまだ助ける方法がある、と――。
『白の魔導書』は王の選定に使われている魔道具だ。
歴代の王位継承権はすべて白の魔導書が示す『ゲーボのお導き』によって決めていると云う。公に出来ない話だが、そのお導きによって次期国王は既にエススに決まっているという話さえある。
まだ幼子だったエススに降り注いだ白い雫の祝福。
それがエススを隠し子として育てるきっかけとなり、魔術に関心を示すきっかけとなり、そうして今エススが王都での叛逆を免れて生き残っているというのは皮肉な話だ。
「白の魔導書には人を生き返らせる奇跡の力があるんだ! こんな形で奪われた命なら、ゲーボのお導きでみんなを助けてくれる、きっと……!」
「王女殿下、白の魔導書の奇跡は伝承の類いです……」
「そんなことない! イルケミーネが言ってたよ。一人、友達を生き返らせる瞬間を見たって……!」
そのイルケミーネ先生も今はいない。昨晩の先生の裏切りを見ているこの場の人間にとっては余計に信憑性を欠く証言になってしまった。
……まるで根拠のない願望だ。
エススはそれに縋るように、希望を自ら植え付けるように……必死に主張した。そんな様子に誰もが心苦しくなって、それ以上の言葉をかけることは出来ない。
今のエススには希望が必要なのだ。
「白の魔導書は今どこに?」
エススの意を汲んだシアが問いかける。
シアなりの気遣いだった。
「それも……イルケミーネが……」
しかし、シアの言葉も裏目に出てしまった。
白の魔導書はずっと宮廷教師であるイルケミーネ先生が管理していた。昨晩の戦いから学園都市を離れるときにも、当然、先生が持ち去ってしまっただろう。
気まずい雰囲気が流れる。
医務室の戸口付近で仁王立ちしていたティマイオスが大袈裟に咳払いを入れた。
「……?」
なんだと思ってティマイオスを見る。
すると、顎をくいっと決って外の方を指し示した。
表に出ろ、と合図している。
俺がそれに従って廊下へ出ると、
「シアたんも!」
ティマイオスは医務室の中に向かって叫び、俺とシアを連れ出した。
少し離れたところまで歩くと、ティマイオスはぴたりと止まって振り返った。派手な貴族風のロングスカートがふわりと踊る。
もう日が高いというのに相変わらず静かな校舎だ。
違和感と寂寥感が漂う中、ティマイオスの声が静かに響く。
「賢者として助言させてもらうけど――」
その口調には普段の軽々しい雰囲気がなかった。重たく、これまで見せなかった賢者としてのティマイオスを初めて見せられた気がして、身が引き締まる。
「逃げた方がいいわ」
「はぁ……逃げる?」
思いも寄らないことで呑み込めない。
「そんなこと出来るわけないだろ。みんな苦しんでるんだから」
それは当然の思想だった。
俺がロスト・オルドリッジとして生きてきた中で至極当然のように根づいた行動原理。困っている人がいれば助ける。苦しんでいる人がいれば救う。理不尽があれば……この世の不条理に虐げられる人がいる限り、出来うる限りのことをして助け出す。
それがロスト・オルドリッジという英雄が果たさなければいけない義務だ。
ティマイオスは大きく溜息をついた。
「はぁ……やっぱりね~。そうやっていつもみたいに身を乗り出して戦うつもりなんだ?」
「いつもみたいに?」
「ロストくんの活躍を、賢者であるあたしが把握してないはずがないでしょう」
聞けば、これまでの俺の戦いについてティマイオスは取り上げた。
演奏楽団の誘拐事件。古代魔術師の復活阻止。そして世界を破綻させる陰謀を打ち砕く戦い。ティマイオスはそれらの戦いと今回は違うと断言した。
俺は何が違うんだと尋ねても、ティマイオスは呆れたように聞き返す。
「――じゃあ聞くけど、苦しんでるみんなって誰のこと?」
「それはエススとか、ミディール王子とか、陛下もそうだ。王都が荒らされたんだから」
「他には?」
「他は……モイラさんもアルバさんも……ユースティンだって」
「それ以外」
詰問されて言葉が詰まる。
それ以外には……どうだろう。王家が虐げられているのなら、みんな悲しいんじゃないのか。側近の連中は……でも王宮騎士団が王族を殺害したんだった。
王都で起こっている暴動も市民が自ら起こしたものだ。
「あれ?」
よく考えてみれば――。
「挙げてみれば六人程度――その六人のためにロストくんは一体どれだけの人に立ち向かうのかしら?」
「……」
挙げてみれば、みんなの範囲は極少数だ。
今この状況で悲しみに暮れるのは黒い魔力の汚染を免れた俺たち魔法大学にいる人間だ。すべてを解決するためには王都丸ごと一個を敵に回し、"黒"を駆逐して王都を奪還する必要がある――。
犠牲にするものが多すぎて、俺たちは少数派だった。
「今までの戦いは大勢を救うための戦いだったのよ。でも今回はどう? 王都中が黒い魔力に汚染されて、黒幕の思惑がそのまま市民の総意になるのなら、誰も今の現状を困ってない。それどころか、救い出したところで犯した罪の重さに耐えられなくなる人もいるって話じゃない。……だから、今はロストくんの方が"敵"なのよ。多勢を正義とするのなら、異端はこっち側なの」
より多くの人間を助ける。
その行動原理に従うのなら、これから王都に攻め入る行為はその信念に背く行為だ。
それを犯してまで……。
すべてを犠牲にしてまで身内を救うという行為は、身勝手なものだと云うのか。
その助言は酷く冷淡で、これまでの賢者達のようにいざという時に味方してくれないのかと一抹の不安が過ぎった。
「ティマイオスは……俺たちに味方してくれないのか?」
「ちーがーうー! あたしは可愛いものの味方よっ! もしこれを聞いてもロストくんたちが王都に乗り出すのならもちろん協力するわ――――でも、これは最良を考える上での一つの助言。みんなで一緒に逃げちゃえば、傷も少ないかもねってことー」
俺の不安を感じ取ったのか、ティマイオスは普段通りの軽々しい言葉を投げかけてくれた。なんだかその配慮が、今まで顔あわせた中で一番年長者らしくて尊敬の念が湧く。
ひとえに、視野が狭くなりがちな俺をこうして冷静にさせようとしてくれたのだ。
ティマイオスはそれどころか、これが本題だとでも言うように最後に一言付け加えた。
「それに、」
賢者はシアの方……特にお腹の当たりを眺めて溜息交じりに言葉を添える。
「ロストくんはもっと大切にしなきゃいけない存在ができたんだからね~」
「……?」
シアの方に振り向く。
彼女はお腹に手を当てて頬を赤らめていた。
「は……」
さすがの俺でも今の仕草で意表をつかれた。
愕然として固まってしまう。
まさか、昨晩の黒い魔力の消滅もそういう事か……。
"シアにも『反魔力』なんていう異次元の力を手に入れたとか?"
そうじゃない――シアが『反魔力』を宿したのではなくて、その魔力を持つ子を宿したんだ。
「ロストさん、子どもを授かりました」
報告が遅れましたけど、と添えてシアははにかんだ笑顔を向けた。唖然として、嬉しいとかそういう感情も湧き起らず、俺は何も言えなくなる。
俺にも子どもってつくれるのか。
※ 白の魔導書の蘇生のエピソードについては第四幕第一場「◆ 大人の恋愛トーク」でのカレンとの語らいで明かされています。
次回更新は2016/7/9~10の土日です。




