Ëpisode166 堅忍(case:モイラ)
王都東区に位置する魔術師ギルドの本部。そこは魔法の調査・研究を通して文明の維持発展を目指す機能や、体系化された魔術を記録・保存する機能を担っている。
魔法大学のように教育機関として確立された施設よりも、その実態は不透明な部分が多い。
現状、王都が新種の魔力によって汚染され、厄災の渦中にあるにも関わらず、その対策を練られることもなく、ギルド内部はもぬけの殻になっていた。
「そうですか……ギルド本部の方針なら、この決断も納得です」
東区の中で最も高台とされるその屋上から、一人の黒帯が東区全域を見下ろしていた。
王宮騎士団のモイラ・クォーツだ。黒の片眼帯をつけ、黒髪に白い肌、黒い胴着姿で立ち尽くす様は、まるで死に神のそれである。
天候も不安定で風が吹き荒れていた。
肩までかかる黒髪が風に靡く。
魔眼のモイラは元々、魔術師ギルドの人間だ。
ギルドがどういった性質かは重々理解しているし、このような災害が起こった際、優先すべきは人命よりも魔法体系の保全であるという方針も、よく聞かされていた事だ。
内部がもぬけの殻になっている――すなわち、魔術師ギルド側が今回の新種の魔力の「保護」のためにできる事を検討し、まず事態が収拾するまで一時避難することを選んだのだろう。
「――では、私にできることをやらせて頂きます」
モイラは溜息をついた後、意志を固めた。
高台から確認した限りでは王都全域はすでに陥落したと見ていい。
黒い液状魔力を纏う"何か"は市民に襲い掛かり、襲われた市民は憑りつかれたようにまた別の市民を襲っている。その"何か"がボリスの報告のように虫の魔物なのかは今のところまだ分からなかった。
しかし、ギルド遠征時、辺境のどこかの国で似たような事象魔術を調査したことがある
信仰する神へ永遠の奴隷を捧げるため、アンデッドの群れを故意に生み出す儀式だ。
市民の豹変ぶりを見るに、それと似た現象が起こっていると判断した。
あまりに被害が大きすぎて、王都の防衛機関である王宮騎士団、メルペック教会、魔術師ギルドの救済が機能していない。モイラに出来ることはその保護下から撥ねられてしまった市民を守り、避難する手助けをすること。
屋上から跳び上がり、高台から一気に地上へ。
暴動で倒壊した家屋に、心象抽出による剣を鈎爪のようにして突き刺し、壁を滑り落ちた。道や壁面のところどころに黒い魔力がこべりついている。
モイラが降り立った場所には何人かの"綺麗"な市民がいた。
黒い魔力の陰りを感じない。
そういった者が次から次へと、襲われていくのだ。
モイラは迫り来る暴徒たちに峰打ちを食らわせて怯ませると、蹲っていた綺麗な市民に告げた。
「王宮騎士団、黒帯のモイラ・クォーツです。宮殿へ避難します。こちらへ」
怯え、逃げ惑っていた女子供の三、四人をまず保護する。
街を先導して駆け抜け、理由なく怒り狂う暴徒たちを叩き伏せる。転がるように石畳で身を翻すと、魔力生成した剣、そして足払いなどで"汚染"された市民を落としていく。
道が出来上がり、そこを助けた市民とともに駆け抜けた。
――モイラはそこでふと思う。
専属で仕えるボドブ殿下があのような性格で良かった、と。
もし国王陛下からの勅令を素直に受け入れるような子であれば、今のように身軽に動くことはできなかっただろう。
今頃は宮殿で、周囲に対する八つ当たりで忙しいことだろう。
子どもらしい王子のことを一瞬思い浮かべて、クスりと笑ってしまうほど余裕もあった。
○
ボドブ殿下はモイラの予想通り、苛立っていた。
それはこの非常事態にも関わらず、自分自身の扱いが蔑ろにされていることを不服に感じていたからだ。
「なぜ、私の傍に誰一人としていないのだ!」
王都は大混乱で王宮騎士団もその汚染の有無に関わらず、総出で街へ繰り出していた。
また、メイドとして仕える侍女や世話役の者も、とっくに黒い魔力に汚染され、街に戻って好き勝手なことをしている。
――宮殿はがらりとして静かだった。
それは既に王族の多くが殺害されているから、という事もある。
現状、王家で生き残っているのは、捕らえられたラトヴィーユ陛下と、今ここで何が起こっているかも知らずに吠え散らすボドブ殿下と、怪力屋のカイウスが保護するミディール殿下、そして大学で過ごすエスス王女殿下のみだった。
他は、専属で仕える黒帯の謀叛によって手を下されている。絶妙なバランスで機能していた王家と王宮騎士団の関係が、ここにきてその不安定さを露見させていた。
背信的な行為が裏で起こっている事を知らないボドブ殿下はまだ幸せだったかもしれない。
『殿下、私と一緒に東区へ向かいますよ』
『そんな低俗な地の土など踏むものか。一人で行け!』
王宮騎士団の黒帯会議から戻ってきたモイラは、ボドブ殿下のこの反応を最初から分かった上で"一応"伝えた。
モイラも、行動を共にするよりも宮殿内で過ごしてもらった方が安全で、かつモイラ自身も街で動きやすいだろうと考えていたので好都合だった。
我がまま王子の連れ添いは制限が多い。
ボドブ殿下は静かな回廊を、大袈裟に音を立てて歩いた。
わざと怒りを露わにしている。
モイラを単独で東区へ向かわせた張本人は自分自身であるというのに、モイラがいない事にも怒りが湧いていた。
「モイラ、どこにおるのだ! まったく専属の分際で必要なときにいないとは騎士としての任務も果たせんのか」
まだ若い声が廊下に響く。
小さな頃から王政学を学び、第二王妃から次期国王としての自覚ばかり子守唄で聴かされたボドブ殿下にとって、周囲へと中身のない威厳を吐き散らすことが唯一、王らしく振る舞う方法だった。
だからかもしれない。
ボドブ殿下は周りが見えていなかった。
「すみません、殿下……お呼びでしょうか」
白い肌に黒い髪。
モノクロの騎士が突然背後から現れる。
肩で息をして、何か仕事を一つ片付けてきた後のような雰囲気だった。
「今までどこで何をしておったのだ。まったく宮殿ももぬけの殻だし、父上は何をしておるのか」
「私は東区で街の住民をこちらに避難させていました……」
「市民を宮殿にぃい?! この高貴な桂殿に入れたのか!?」
「お言葉ですが……今は非常事態ですから」
普段通りの主君とその家来のやりとり。
ボドブ殿下は少し満足して表情が解れた。まぁいいと告げて、どこへと向かうわけでもなく宮殿の長い廊下を歩いていく。
"最強の騎士"を連れて歩く事こそが誉れと思いながら。
そしてそこでモイラが背後から言付けした。
「そうでした。王妃様も兄上様も、殿下を心配していましたよ」
「母上とオェングスが?」
メング第二王妃とオェングスが直系の母と兄だった。
いつも高慢ちきなボドブ殿下といえど、家族に対する人並みの情は持ち合わせている。むしろ、人並み以上のものだった。
この虚栄を支えてくれるのは肉親のみである。
こちらへ、と促されて辿り着いたのは第二王妃の部屋。
普段は息子でさえ無断で立ち入れないのだが、何故か部屋の前の臣下も存在しない。
「さぁ、入ってください」
「……ふん、私は忙しいのだ。呼んでいるのなら少しくらいは顔を合わせてやってもいいだろう」
――ぶわりと独特の臭気が鼻を刺す。
モイラによってゆっくり開けられた扉の奥は暗く、部屋のカーテンなども閉め切られていた。
何かがおかしい……。
さすがのボドブも違和感に気づく。
「待て、モイラよ。本当にここに母上とオェングスがいるのか?」
「……」
「この部屋は臭いぞ! 換気もなっておらん! 掃除係はどうなっているのだ! 王妃である母上に対する不敬である!」
「……」
「モイラ、なぜ黙っておるのだ。何か喋らねばお前は幽霊のようだから気味が悪―――うっ!」
ボドブ殿下は扉の奥へと蹴り飛ばされた。
第二王妃の部屋だった場所へ転がり込み、その場でへたれ込む。
ろくに体力のないボドブは今の一蹴りだけで、相当ダメージが加わり、体が痛かった。
「ピーピーうるさいガキねぇ。モイラのこと尊敬しちゃう」
「……!?」
ボドブが見上げると、そこには別の黒帯がいた。
暗がりで見えない。
しかしモイラとは違う雰囲気を醸し出す怖ろしい魔の存在がいた。
「ほら、ちゃんとお母さんもお兄さんもいるわよ、そこに」
魔法で灯された暗がりの奥には確かに母親も兄もいた。
ボドブはそれを見て驚愕する。
どちらも腹を裂かれて真っ赤に染まっていたからだ。
「ここなら寂しくないわよねぇ?」
それと同じくらい赤い肌の魔族がすぐ傍で口元を吊り上げている。
ボドブ殿下は悲鳴にならない声をあげて絶叫した。
第二王妃の間は魔族の処刑場と化していた。高貴な調度品や、鮮やかな絨毯が血生臭く染まり、悍ましさが際立っていく。
これが本来、残忍な魔族のやり方だった。
陣地を作り、誘い込み、拷問して処刑する。
再現された地獄だ。
○
モイラは東区の大通りを進む。
途中、何人かの一般人を保護して罵倒とともに襲い掛かる市民を蹴散らしながら進んだ。王宮に近づくにつれて霧が濃くなっていく。
視界が悪く、先の方まで見通しが立たない。
もう少しで王宮に、というところで霧の中から誰かが―――。
「……!?」
そこにいるはずのない男がいた。
モイラがかつて不慮の事故で殺してしまった冒険者の男だ。
「モイラ様、大丈夫ですか?」
保護した市民が背後から声をかける。
そうだ、今は任務中だ。市民の安全を守るためにここまで来た。もしそんな過去のトラウマが見えるのならば、それは白昼夢の類い。
「大丈夫です。さぁ、行きましょう」
佇む謎の男の脇を通り抜けようとしたとき、その男が口を開いた。
「連れないねぇ。古代幻想種を一緒に倒した仲じゃねえか」
「くっ……」
その男は寸分違わず、当時の口調でそう呟いた。
モイラは幻惑によるものかと頭を振った。片目に移る謎の男。
そしてもう片方、眼帯によって閉された魔眼には男の死に顔が浮かび上がった。魔眼は死へと誘う呪いの証だ。モイラ自身にかけられた呪い。
冷や汗が流れ落ちる。
――でも大丈夫だ。
今のモイラには真実が視える。
騎士団最後の英雄に救ってもらったのだ。
片目だけでもいい。
視界半分でも、いまが視えていればそれで。
「先に進みなさい。宮殿へ入れば騎士団の保護下です!」
男と対峙するため、他の市民らを先へ進ませる。
彼は死んだ。
その事実は変わらない。
ともすれば、目の前にいる男は――。
モイラはその相手の悪意を汲み取り、剣を生成する。
心象抽出で作られる魔術師の得物。
「意外と動揺しねぇんだな。まったく、冷淡なもんだ」
濃霧の中、まるで陽炎が揺らめいているようだ。
男も曲剣を構えた。
二本も。
それを見て、モイラは相手が誰であるのか理解した。
「そうですか。悪戯が過ぎますね、ガレシア」
「――あはは、劣ったものねぇ。簡単に見破られちゃうなんて」
ガレシアは『磨礪の幻影』を解いた。自ら見破られるように生半可な擬態をしていたのはガレシア本人だというのに……。
そんな粗雑な術で愛した男を真似された事に苛立ちさえ覚える。
ガレシアがどこでその男と接点があったのか分からない。しかし、その姿でこうして現われたということは、明確な悪意を持って接してきているという意思表示だ。
言わば、これは挑発だ。
「西区の警備はどうしたのですか」
「……あんな辛気臭いところ、警備なんて必要ないわよ」
「ふざけないでください」
今一度、モイラは魔力の剣を握る。
ガレシアはきっと"綺麗"ではない。既にあの黒いものに汚染されている。察したモイラは相手の挑発を汲み取った。
怒り、憎しみ――そんな感情に支配されているのだと。
「用件があるのなら聞きましょう。但し、貴方に正常な思考ができるのなら、ですが」
「ふ、ふふふ……ふふふふ……用件なんてただ一つよ」
ガレシアは曲剣の二本を構え、大仰に掲げた。
「その白い肌を、早く血に染めてあげたいの!」
――駆ける。
赤い魔族が、概ね魔族らしい乱雑な動きで大地を駆けた。以前の黒帯としてのガレシアの静かな太刀筋とは違う。
モイラは一歩身を引いてから振り被る。
その突進を、一刀で受け止めた。
剣戟の音が街中に響いた。
「いいでしょう。不要な戦闘ですが、立ちはだかるのなら容赦はしません」
「あはは! 綺麗な色に染まってね!」
モイラは力任せに弾き返した。
さて、ではこちらの番だとばかりに、後退するガレシアを追いかける。肉迫して剣を振るう。一手、また一手と防がれ、双剣と魔力の剣が素早くぶつかりあった。
曲剣の片方に注意を払わせ、その隙にもう一手で脇から――このやり口は北方の魔族や盗賊たちに伝わる剣技だ。
ギルドの研究員として旅を重ねてきたモイラには、その剣技は見極めるのに然程苦労はなかった。
「ハァ!」
「………あはっ!」
一歩踏み込み、懐に飛び込んで剣を振るう。
それが躱されると、素早く前転して相手の反撃を回避した。大地を這うように低姿勢で追いかけ、ガレシアへと剣戟を振るった。
間合いを取り、小休止――。
「深く追及はしません。しかし何故あなたが私を――」
「理由は、そうねぇ……貴方の肌が白いから?」
「何をふざけたことを」
「メング王妃の気まぐれに嫌気が差しただけよ。まぁ、もうそれに付き合わされることは無くなったのだけど」
「……っ!?」
ガレシアは嗤った。
それが意味することは、もう王妃がこの世にいないのだという事。
メング第二王妃はオェングス殿下やボドブ殿下の母親だ。それはガレシアやモイラが仕える王子の生みの母親であるという事。
モイラも懇意にしてもらっていた。
「王家に対する反逆罪……! 許されるものではありません」
「貴方もね、騙されているのよ、王家の連中に」
「……?」
「私たちはただのお飾り。模擬選もあいつらを楽しませるお遊戯会みたいなものよ。そんな見世物みたいな人生……疑問に思ったことはないかしら?」
この平和な時代において強さと誇りの象徴である騎士団の存在意義は至極、薄い。それ故、黒帯に対する扱いは酷くぞんざいであることは認めよう。
モイラも考えたことがある。
曰く、王宮騎士団は脅威を野放しにしないための収容所なのだと――。
魔術の発展によって生まれ落ちた逸れ者の見世物小屋なのだと――。
「だから解放するの。あのお方が、新しい世界を創るのよ」
「あのお方……?」
「だから王族はみんな邪魔。殺しちゃった」
「……!」
「王妃様だけじゃないわ。オグマもアリアンロッドもオェングスも、ボドブもね」
――王子や王女、それにボドブ殿下も。
信じられない。まさかあの子まで。
モイラは動揺した。
我がままだが、その実、背伸びをしているだけの健気な王子だった。
「許さない……!」
モイラは決意した。
ガレシアはここで打ち倒すべき相手だ。
この身を以て処刑する罪人。
「あは。ほら、貴方もここで選ばせてあげるわ。赤に染まるか、黒に染まるか――」
「その傲慢、魔眼の力が怖くないのですか」
モイラは左目の眼帯を剥ぎ取った。
怒りで心が打ち震えそうだ。
だが相手の挑発に乗って飛び込めば、何か罠が張られている可能性も考えられる。ボドブ殿下を喪った悲しみは今は押さえて、冷静に自分の戦いをする。
偽聖典によって封じられた魔眼。もはやこの場にいるのはガレシアとモイラの二人のみだ。封印を解いて、必殺の呪いを披露する。
「……ふふ」
ガレシアは目の前から消えた。
否、後退して濃霧の中に隠れたのだ。
見なければこの呪いは発動しない。身を隠し、目を見なければ死にはしないと踏んだのだろう。
「安直ですね。この状態で剣を重ねれば、いずれは追い込まれます」
モイラはガレシアを追いかけた。
濃い霧の中、影を追う。すぐそこにガレシアがいるはずだ。
影に向かって剣を振るう。
焦る必要はない。
守らなければならないものは……もういない。
背後に気配が――。
そこだと標的を決めて剣を投げ放った。
「残念。そっちは"黒"」
「!?」
切り裂かれた濃霧から広がったのは、巨大な闇の蠢動。
モイラの背丈の倍はあろう真っ黒な魔力が視界一杯に広がっていた。それがこの騒動の正体。憎しみや怒りといった感情がその奥から湧き上がっている。
悍ましさを感じた。
「チェックメイトね」
後ろから悪魔の囁きが耳に届く。
その直後、黒い魔力の大波がモイラめがけて倒れ込み、そのすべてが覆い被さった。ねっとりとした負の感情が泥のように体を纏う。
「ああああああ!!」
熱い。
体が熱い。湧き上がる憎しみ、恨み、怒り。
モイラの体の隙間という隙間、体表からも泥が内部に入り込み、世界が徐々に歪んでいく。
それは到底、心静かなモイラには信じられないほどに歪んだ感情だった。
視界に拡がるのは、愛した男の死に際の絶叫。
なぜ殺してしまったのか。
なぜこんな呪いをかけられたのか。
死にたいとも思った。
レナンサイル山脈で投身も図った。
もう二度と見たくない。何も……。
"よく立ち直ったな"
暗闇の中、ふと誰かに声をかけられる。
それは私を救ってくれた人だった。
"立ち直っていませんよ"
そうだ。私は最後まで弱かった。
死ぬこともできず、生きることもできず、ただ流れる時間の中、悲痛に耐えるだけの矮小な存在だった。剣術をいかに極めても、魔眼などという呪いを手に入れても、過去にずっと囚われ続けた。
そんな自分自身が憎い……。
モイラは憎悪の陰りが湧きあがるのを感じた。
だがその時、救いの声が心に届く。
"視えるようになるのか?"
"どうでしょうね"
"どうでしょうって、せっかく片方の魔眼がなくなったのに……"
"――しかし私は今日、貴方に救われました"
もう彼の絶叫の顔を見る必要はない。
視えるようになるのだ。片目だけでも……。
失われた右の魔眼がきらりと反応して赤黒い光を放つ。
モイラは神に遣わされた英雄の恩恵をその目に受けている。右目を斬られたときの反魔力の残滓が、まだそこに残っていた。
「えぇ? どうして……」
ガレシアは困惑の声をあげる。
黒煙が舞い上がり、モイラの体から黒い魔力が爆散して消えた。
――右目の"魔眼"が魔力を殺した。
英雄が残した反魔力が作用して、結果的にモイラの意志を守ったのだ。
「私はもう弱くない。この眼とともに未来を生きます」
「そんなことが……。チッ、つまらないわね」
「逃がしません!」
モイラは心象抽出で剣を造る。
両手で一本の剣を握りしめ、駆けた。
左目には『即死』効果を持つ魔眼――その石英状の瞳孔がガレシアを捉えた。
「まずい……!」
咄嗟にガレシアは背を向けた。
濃霧が漂う石畳の道を逃走する。
左目を見れば呪いが働いて即死するだろう。
予期せぬ事態に、慌てて街の中に逃げ込む
「ハァ!」
駆け抜けて剣を振るう。
しかし、ガレシアは無惨にも周囲の市民を利用した。
「あんたたち……壁になりなさい……!」
街を駆け抜けながら往来する汚染された市民を蹴散らし、モイラの前に放り投げる。街ゆく人々はまるで転がる駒のように意思なくモイラの前に群がって進行を妨害した。
「待ちなさい、ガレシア!」
モイラがそれらの住民を撥ね除けているうちに、ガレシアは王宮の方へと逃げてしまった。モイラを妨害する住民の中には、先ほどまで一緒に避難していた女子供もいる。
彼らももう先ほどモイラ自身も襲われた黒い魔力に捕らわれてしまったようだ。
「くっ……」
戦いには勝利したが、戦況としては敗北だ。
モイラは誰一人として守れなかった。
ボドブ殿下のことも……。
あの様子では、宮殿も奴らの手に堕ちているだろう。
このまま突き進んでも敵陣に単騎で飛び込むようなものだ。以前は自陣だったはずの王宮が、既に敵の牙城となっている事は物悲しさしか感じない。
概ね、今回の支持を出したアレクトゥスもとっくに敵に回っているかもしれない。
あるいはあれもガレシアが演じた擬態……?
モイラは陣営を立て直す必要があると考え、後退した。まず一番近くにいるだろう味方を集めることにする。
東区から一番近いのは南区か。
カイウス・サウスバレットは無事であればいいが。
もしカイウスも敵側に寝返っていたとなれば……。
誰が敵か味方かさえもわからないこの状況ではなるべく警戒を怠らないようにするべきだ。モイラは南区で一番大きな建物である闘技場を確認し、そこを目指す。
不安はひとまず振り払い、モイラは東区の住居の屋根を駆けた。
あと信頼できるのは、自分を二度も救ってくれたロスト・オルドリッジだ。まさか付き合いの一番短い黒帯が最も信頼できる存在になろうとは……。
不思議な人だ。
そう思って、モイラは絶望を振り払う。
殿下の弔いのためにもガレシアはこの手で倒す。
そう心に誓った。
※次回更新は2016/6/18~19の土日です。
次話で第4場―干戈騒乱―は終わります。
ちなみに第4幕全体としては六部構成となってます。最後までお楽しみください。




