Ëpisode164 狂化(case:リム)
ラトヴィーユ国王陛下より勅令。
王宮騎士団騎士団長アレクトゥスから伝令。
街中を駆け巡る黒いものの正体は森で魔物化した"虫の大群"であり、王都全域で発生している模様。王宮騎士団の黒帯下位四名――ガレシア、カイウス、リム、モイラは北区から南区にかけての四区へ分かれ、大群の殲滅に当たるべし。
ボリスを王城内の警衛任務に就ける。
既にガレシアは先んじてメルペック教会大聖堂のある西区へ向かっている。
他三名は北区、東区、南区へ急ぐこと。
尚、王城内の警備が手薄となるため、主君として仕える王家子息とともに行動するように。
王の間においてアレクトゥス本人からそんな伝令があった。
それを受けたカイウスは怪訝な顔で宮殿へ向かう。命令そのものは不可解だったが、事態を重く見て、ひとまず主君として仕えるミディール王子と合流しようと考えたからだ。
機動性の低いカイウスは最も狭い南区を担当することになった。
闘技場や剣の道場が立ち並ぶエリアである。
回廊を歩きながら、はて、とカイウスは思い耽る。
今回の勅令で不審に思っている点はいくつもある。
一番おかしいと思ったことは上の判断が、急進的で過激なことだ。
普段だったら陛下は議会を重ねに重ねて貴族院の総意をなるべく汲もうとする。さらには打ち出す対策案も、そのほとんどが保守的なもの。――否、そのような判断を陛下が下すこともあるだろう。
しかし今回のように性急に殲滅へ向かうという決断はこれまであっただろうか。長年、王家の騎士として仕えるカイウスだからこそ感じた違和感だった。
ましてや王族の人間を宮殿から離れさせ、戦闘が起こりうるかもしれない黒帯と同行させるとは。
魔物の虫の大群……。
敵陣が分散しやすいが故に王城内も危険と判断したのだろうか。
――おかしい。きな臭い。
カイウスはそう感じながらも、急いでミディール王子の守りに向かう。
訓練場にいるであろう娘のことも気がかりでならなかった。
○
「に、逃げましょう……!」
リムが主君のブリギット王女に勅令を伝えると、王女は開口一番にそう答えた。
ブリギットの部屋内は他の王女たちと同様に豪華だが、ぬいぐるみが多数置かれてファンシーな雰囲気を醸し出していた。寂しさを紛らわすように大きな天蓋付きベッドにも、一級の人形師が作ったぬいぐるみが山ほど敷き詰められている。
ブリギット王女殿下は根っからの臆病者だ。
リム・ブロワールを専属として選んだのも可愛さと強さの二点を兼ね備えたこのエルフに魅了されたからだ。
リムもそんな無邪気で臆病な王女を慕い、親友のような関係を築いている。
王家の兄弟たちと比べると専属騎士との関係性は最も良好だった。
森に潜む黒い気配を真っ先に感じ取ったリムが、夜な夜な殲滅に向かったのも、ブリギットを守りたいという一心で行ったこと。
――そう、リムは今回の黒の魔力の発生源と一度邂逅している。
今回の異変の原因が虫ではなく魔獣の類いだと知っていた。さらには、あのときの異形の犬を自分が狩り損ねてしまったからこうなった、という事も……。
リムは王女に知っていることを包み隠さず伝えた。
真実を聞いたブリギットは肩を震わせる。
王女は視線を落として絶望するように呟いた。
「そんな、魔獣なんて怖いわ……」
「安心して」
私が守るから、と静かにリムは王女の頬に触れる。
それを握り返してブリギットは今一度考え直した。
「ねぇ、リム。ここにいた方が絶対に安全よ。命令なんて無視して二人でここにいましょうっ」
「……」
冷や汗を浮かべて必死に訴えるブリギット。
その刹那――。
――――憎い。
――憎い。
憎い。
「……!」
王女の言葉が勝手に別の言葉に変換されて耳腔に反響する。
『不倶の種子』の能力は偽聖典によって封印しているはずだった。しかしそれでも感じ取れてしまうほどの強烈な悪意が王都では蔓延している。
「どうしたの……?」
王女の問いかけにはっとなり、首を振った。
今ここで自分がしっかりしなければブリギットを守ることができない。
リムも王の勅令のことなど、実際どうでも良かった。一応、殲滅型の戦術を得意とするリムが人口が多いことを理由に東区エリアを任された。
だが、王都の市民以上にリムはブリギットのことが大切だ。
こんな呪詛の言葉に振り回されている場合ではない。
能力が暴走でもすれば、以前、故郷の森で暴漢を葬ったときのように、見境なく斧鉞を振るう狂人と化してしまう事だろう。
まずはこの呪詛の言葉を完全に遮断し、意志を固めなければ――。
「教会……」
思い立ち、ぼそりと呟いた。
耳を封印するこの偽聖典を作ってくれたのは教会の大司教だと聞いている。一度そこで偽聖典を強化し、そのまま教会に立て籠もるのも一つの手だ。
今ならガレシアも西区にいるから守りも固い。
さらに大聖堂へは川を渡る大橋を通らなければ辿り着けない。
籠城にはこの宮殿よりも持って来いだろう。
「そ、そっか……女神様の加護を受けにいくのね! 魔獣なら教会にも入ってこれないものね」
リムの意図するものとは異なるが、ブリギットも同意してくれた。
二人でメルペック教会の大聖堂に向かうことにした。
○
使用人らに命じて身支度を整え、ブリギット王女は準備を整えた。
荷物の中にお気に入りのグリズリーぬいぐるみを手放さなかった事は、リムから見ても微笑ましく思えた。
"怖い……でもリムがいるから大丈夫……"
『不倶の種子』を通じて感じ取る純真無垢に安心する。
"リムさえいれば……リムさえいれば……"
――が憎い。
―――が憎い。
――――が憎い。
「ぐぅ……!」
堪らず耳を押さえる。
今の王都は混線する悪の思念で飽和状態だ。
音嫌悪も加速していく。
「大丈夫?!」
その悪意を受け流す。
リムは険しい表情で冷や汗を流していた。
力なく流れる浅葱色の髪が、樵として生きていた頃の故郷の森を思い出す。
早く、早く教会へ逃げ込まなければ。
あそこは建物そのものが封印魔法の体を成し、外界から隔離されていると聞く。そんな結界と偽聖典の強化さえあれば、きっとこの悪夢からも解放されるだろう。
大斧鉞を握りしめる。
これは己の過ちに対する罰だろうか。
暴漢を見境なく斬り伏せた殺戮の……。
大斧を両腕で持ち上げ、音を立てずに王城から脱出する。
後ろでたどたどしく付いてくるブリギットを支えながら西区へと降り立った。
西区はそもそも自然が多く、人口も少ない。
そそり立つ崖やそこから生える木々、大きな川が特徴的だった。
それらと調和するように鎮座する巨大な白銀の塔。
あれがメルペック教会本部の大聖堂だ。
様相は神殿のそれに近い。
――西区は静まり返っていた。
ガレシアが既に到着していると聞いたが、一切見かけなかった。この一帯の道は入り組んでいるわけでもないからすれ違わない方が不自然である。
いったい彼女はどこへ行ったのか。
一瞬そんなことを考えたが、今は教会へ逃げ込むことが最優先だ。
濃霧漂う道を抜け、大聖堂目前の大橋に到着する。
普段であれば大橋と大聖堂の荘厳な光景に観光として訪れる者も多いのだが、なぜか静かだ。
橋の両端には街灯も仄かに灯る。
霧が濃いため、昼間だというのに薄暗い。
これら街灯も薄暗さを考慮して点灯したのだろう。
「リム、もうすぐだよっ」
橋の半ばまでたどり着いたとき、ブリギットも明るく声をかけた。
安全な地へと到着する喜びを感じているのだろう。
しかし――。
「……!」
気配を感じ取り、リムは立ち止まる。
それに気づき、後ろからついて走るブリギットも続いて立ち止まった。
リムは斧鉞の柄を握りしめて構え、気配を探る。
「どうしたの……早く教会にいこうよ!」
気配は後ろからだ。
自分たちが駆け抜けた橋の入り口の方から感じる。
尾行されていた……?
「魔獣……」
リムは濃霧の先から現れる人影二つを見定めた。
ゆっくりと現われ、元凶が姿を現す。
――外套を羽織った魔術師のような男。
目深に被ったフードの奥には野獣の眼光がこちらを覗いている。
そしてその後ろにもう一人。
王都に毒を吐き散らした男だ。
「ほう――誰かト思えば、この間の快楽主義者か」
「くっ……」
リムは下唇を噛み、その二人を睨む。
あれは憎悪の塊。
大聖堂にきたのは失敗だった。
最悪のカードを引いてしまった。
「リム・ブロワール……能力は『不倶の種子』。索敵と盗聴に特化した能力で、こちらの打ち手も読まれます。あの大斧を軽々と振るう怪力も持ち合せてます」
背後の髭の男が黒い外套の男に口添えする。
あれは王宮騎士団に入ったばかりの新米騎士だった。
リムにとって名前すら思い出せないような男だが、その二人のやりとりを見たとき、彼はそこの元凶が送り込んだ刺客だったのだと気づいた。
まるでこちらと同様な主従関係を感じさせた。
「知っている。この女は人ノ起源を盗み見ル覗き屋だ。覗きという行為が好きであるのに、そこから垣間見る人の内面は嫌う矛盾した存在――」
口元を歪ませて黒い男は嗤った。
好きでやっている……それは心外だった。
リムは生まれてこの方、この能力を好んで使ったことなんて一度たりともない。
その直後、リムの耳に強烈な耳鳴りが奔る。
――憎い。憎め。怨み。そして殺せ。
「弱点もわかりヤすい。その矛盾を突けばいい」
「うぅ……!」
リムは溜まらず耳を押さえる。
彼女は耳が良すぎた。
「さて、僕ノ内部で潜む暴漢たちが騒いでルぞ。そこの女は復讐ノ対象だ、と。異国の森では世話になったそうだな」
「それ……を……」
なぜこの男がリムの過去を知っているのかは謎だった。だが、今ここで打ち倒すべき敵であることに変わりはない。
今一度、得物を構え直す。
「リム……怖いよ! 早くやっつけてっ」
後ろには怯えて目に涙を溜めるブリギットがいた。
守らなければいけない存在だ。
「好都合だ。ここで第二ラウンドといこうか」
黒い男が口の端を吊り上げた。
かちゃりと凶器の擦れる音が橋に響く――。
…
駆け出したのはラインガルドではなかった。
背後にいたペレディル・パインロックが表に躍り出る。
その手元には長槍を一本。
動きはそれほど俊敏でもない。
リムの実力なら容易く捌ける程度の緩慢な動き。
ペレディルは槍を地に突き立て、高跳びするように跳びあがった。
それを冷静に大斧で迎え討つ。
振るわれた槍の大振りは、見た限り、軽そうな一撃だ。
斧鉞の大円刃で得物ごと真っ二つにしてやろうと、斧を振り被った。両者の武器がぶつかるとき、黒い火花が散り、攻撃が弾かれる。
その刹那――。
――死ね……! 殺す……! 死ね……!
強烈な呪詛の言葉が耳朶を叩く。
ペレディル自身と長槍に纏う黒の魔力は、ある種の武装のようだ。
接触する度、リムへと精神攻撃をかける。
「きゃあっ!」
後ろからブリギット王女が悲鳴を上げた。
戦士二人の壮絶な討ち合いを間近で見て、絶叫したようだ。
幸いにもその"声"がリムの意思を正常に保つ。
王女を守る……!
そう決心して今度はリムから踏み込んだ。
鉞を引き摺り、低姿勢で駆け出す。
弾き飛ばされたペレディルは四つん這いで身を伏せていた。今なら薪割りのように斧を振り下ろし、彼を一刀両断できる。
そう確信して、大斧を軽々と持ち上げた。
あっけない……。
新米騎士を見下して、その刃を向ける。
――リムは渾身の力で斧を振り下ろす。
だが、またしても弾かれた。
何に……?
宙を仰ぐと、そこには街灯の支柱。
それがまるで意思を持ったように空中でくるくると踊っていた。
「――っ!」
見た事もない現象にリムは驚愕する。
その街灯の支柱が素早く動き回り、持ち手もいないのにリムへと襲いかかってきた。主軸のない無茶苦茶な動きで間合いも読めず、乱暴に振るわれる支柱を斧で捌きながら後退する。
「――さすがに初めてか。『念動力』なんてものは」
ペレディルが身を起こして無機質な目を向けてきた。
リムは斧を振り上げ、ふわふわと浮かぶ街灯をようやく両断した。
「ふー……ふー……」
リムは息を深く吸い込み、対象を睨む。
不可思議な現象に戸惑いが隠せない。
ペレディルと、そしてその背後に浮かび上がる石橋の残骸、飛礫、抜き取られた街灯の支柱の数々。まるで無数の魔力弾を携えた魔術師のようだ。
「イヤぁああ!」
ブリギット王女はそれを見て、半狂乱で頭を抱える。
彼女の目には念動力が怪奇現象のように映った。
臆病な彼女には今のこの状況はすべてが怖くて溜まらない。リムは王女の様子を見て、早く殺してあげないと――――否、助けてあげないと、と感じた。
「……?」
今、いったい何を考えた……。
リムは己でも到底理解できない発想を一瞬でも抱いたことに戸惑う。佇むラインガルドは彼女の心境の変化を読み取り、不敵に笑った。
「クックック……覗き屋は覗き屋らしく、見るだけで満足すればいいものを」
頬を伝う冷や汗。
濃霧が張り付き、寒気すら感じた。
なにかが自分の身にも起こっている。
異常をきたす前に早く決着を――。
「調子に乗って前線に出るから気が触れるのだ、愉快な木こり風情が」
ペレディルの後ろの黒い外套の男が笑い続ける。
その男は狂気に満ち満ちていた。
――憎い。
―――愉しい。
――死ね。
―――可笑しい。
「いやあああ! 早く……リム、助けて……助けてよ!」
――……が憎い。 何が憎い?
守るべき対象の悲鳴と、悪意の塊が混線して同じもののように思えてきた。
リムは混乱していた。
大橋の上にいるはずなのにリムは自分自身がどこに居るのか分からなくなってきた。
ここは故郷の森だっただろうか。
追放されて彷徨った荒野だろうか。
宮殿の叙任式の最中だっただろうか。
"――ほら、見ろよ。こんな上玉連中、みんな高く売れるぜ"
"―――木こりなんて性に合わねぇことやってんじゃねぇよ。何匹か俺の女にしてやろう"
"――ぎゃああ! 鬼だ! こいつ、鬼だ!"
"―――申し訳ないが、この子は村から追い出そう。危険だ"
"――この能力は……耳だけじゃない。筋力も爆発的に進化してる"
"―――決めた! あなたが一番可愛い! 私を守ってね!"
数々の幻想の中、迫り来る無数の石つぶて。
街灯の支柱の数々。
無機質な目でペレディルはそれらを放ち続ける。
リムは一心不乱で斧を振るった。
大斧で弾く。叩く。壊す。
――カン、と木霊する乾いた薪割りの音。
「私……は……」
何者なのだ。
人々の欲望と悪意は際限がない。
飛来するこの飛礫のように。
リムの頭にはそれらの悪意がすべて焼き付いている。
汚染などなくとも……。
耳を通じて人の闇を視続けたリムに魔力汚染など必要なかった。
何故なら彼女は――――。
「もうやだぁあ! 助けて! 助けて!」
――死ね! 殺せ! 殺せ!
「薪割り……薪割り……斧鉞の音……」
大斧鉞が振り下ろされる。
壊れた人形となったリムの手で――。
「きゃぁああ………がっ! ぐぶっ!」
反響し続けた悲鳴が鳴り止む。
振り下ろされた鉞はブリギット王女の頭を叩き割り、彼女を即死させた。
"――カン、と木霊する乾いた薪割りの音"
それに伴って消える混線した声。
不協和音が一つ消え、リムは思考が停止する。
一体自分は何をした。
殺した。
王女を殺したのか。
「ああ……! あああああ……うぁあああああ!!」
泣き声が次第に狂い叫ぶ声へと豹変する。
リムは、守ると誓った王女の頭蓋に何度も斧を振り下ろした。
薪割りだ。耳鳴りは止まない。
何度も何度も薪を割っても。
でも愉しい。
賑やかで愉快だ。
「ああ……アアアア!」
「ほらな。この女はただの快楽主義者だ」
ラインガルドは壊れた人形を眺めて言った。
その女は狂ったように斧を振り回し続ける。
ペレディルも『念動力』を解除して石つぶてを落とした。
「余興は終わりだ。いくぞ、ペレディル」
「はい」
「世界の再建のため、聖剣と魔剣をこの手に……」
二人は平然と聖堂への歩みを再開した。
傍らの狂人を横目で流しながら――。
リムは橋の上で独り、虚構に向かってひたすら斧を振り回す。
ただそれだけの、壊れた人形と成り果てた。
彼女は黒い魔力による汚染を一切受けていない。
そもそも幼い頃から異常な"声"に苛まれ続けた彼女にとって魔力汚染など必要なかった。
何故なら彼女は、とうの昔からヒトの憎悪に汚染されていたのだから。
※解説:リムの特殊能力『不倶の種子』は人々の深層心理を"声"で感じ取る能力です。
王都中が黒魔力に染まったことで様々な憎しみの声がリムに募り、精神崩壊寸前の状態でした。そんな条件下でラインガルド、ペレディル陣営と一戦交えたことで糸が切れ、黒魔力の媒介なしで闇堕ちした、という事です。
そのため、敵陣営に回ったわけではなく、独立した脅威となりました。




