Ëpisode160 始動(case:ボリス)
宵が深まる。
下弦の月が黒い森を仄かに照らし出す。
黎明の森の名で知られるこの場所が以前より瘴気を深めていることに誰も気づいていなかった。浄化で濾されることもなく、木々は確実に黒くなっている。
ラインガルドは森の中でひっそりと機を待っていた。
エンペドとの魂の融合は、確実に彼の精神を正常化させ、異形の黒体となった自身の肉体を日に日に馴染ませた。伸縮する腕や駆動性の高い獣の脚。そういった本来ヒトの機能とかけ離れた体を自身のものとして受容していく手助けとなった。
そして知能もまた同様に向上した。
現世に生きている限り、知り得るはずのない知識もある。
もはや彼はエンペドと呼ぶのが適しているのかもしれないが、肉体面や精神面ともにオリジナルはラインガルドであるため、彼もそう自称していた。
――ぞくぞく、ぞくぞく。
ばらまいた分身がまた増殖していくのを感じる。
今度は強烈な反応である。
その気配を探り、ラインガルドは「オルドリッジの血筋を捉えた」と感知した。
遠い場所だ。
分身を散りばめ、ようやく――。
「セカンドジュニアか……」
学園都市にて黒い魔力にイザヤが囚われた瞬間である。
それをラインガルドは感知し、魔法大学にも手が届いたのだと判断した。
しかし、次男の行く末など知る必要もない。
イザイアだった頃、母体に産ませた失敗作に次いで少しは見込みがあると感じたが、これもまた失敗作だ。今更、失敗作に精神汚染をかけて配下に加えておこうなどとは微塵も考えていなかった。
重要なことは、材料の黒魔力が"魔法大学に届いた"ことである。
「そうか、ようやく……ククク」
目的は魔導書『白のグリモワール』。
――王位継承権を決める選定の書だが、その本質は次代の創成にある。
死者を蘇らせ、強制的な未来改変をする導きの力。
生者を亡者へと変える『黒のグリモワール』と似た世界の抑止力の一つだった。それを手中に収めれば、イザイアの千年に渡る物語も消滅するだろう。
ラインガルドは嗤う。
復讐の舞台は整った。
そろそろ第一の駒に働いてもらおうか。
これから始まるのは、ただ一人の英雄を抹消するための国取りだ。
駒たちには盛大に盛り上げてもらおう。
まずは、音や匂いに敏感な奴から。
○
王宮騎士団の修練場。
日頃、遠征に出ている部隊や王国の警備に出ている隊以外はここで修練を積んでいる。
しかし、今日の修練場の毛色は違っていた。
闘技場として使われる広い土場。
そこで対峙するのは王女二人とその専属騎士二人。
長女アリアンロッド・メイベル・ド・エリンドロワと、その専属騎士ボリス・クライスウィフト。
次女ブリギット・モリガン・ド・エリンドロワと、その専属騎士リム・ブロワール。
この対峙する王家の二人は似ていない。
前者の姫は嫉妬深く、そして色欲が強い。
後者の姫は臆病で、依存性が高い。
なぜ、その二人がお互いの騎士を引き連れて睨み合うのか。
それは、遡ればアリアンロッドの隣に佇む痩身の男に原因があった。
「貴女のとこのエルフちゃんが、うちのボリスを誑したそうじゃない」
「違うっ! リムはそんなことしないもん!」
痴情の縺れだった。
吠えかかる長女の罵声を浴びて、次女のブリギットも怖がって地獄耳のリムにしがみ付く。リムは何を言われているのか何一つ聞いておらず、恍けた目を向けてアリアンロッドを見返した。
アリアンロッドは獣人のボリスがお気に入りだ。
それはお気に入りの域を超え、将来的には婿として宮殿に迎え入れたいと考えるほど恋愛感情に満ち満ちたものだった。
しかし、当のボリスにその気は一切ない。
アリアンロッドの執拗なまでの束縛に嫌気が差していたからだ。黒帯の同僚であるリム・ブロワールに手を出したのも、そういった日頃の鬱憤が主な原因だったこともある。
せっかく実家から離れて王家の騎士に認められたというのに、最終的な役目が、歳を重ねただけの精神の幼い王女の面倒ともなればストレスも溜まる。
自由な時間がほとんどないのだ。
彼は犬部族の長の末子として生まれたが、すぐに西方貴族へ引き取られた。
そのまま長年、騎士として育てられ、特殊な幼少期を過ごした。
周囲の世話役との体格差、雄々しく立つ獣の耳や運動能力の違いからすぐに自分の故郷は別の所にあるのだと気づいた。
それと同時に、自分が利用されるために引き取られたという事も――。
「……もうこの際どっちでもいいの。今日はただの模擬戦のお誘いなんだから」
アリアンロッドが冷酷に告げる。
模擬戦と言ったが、それはあくまで名目上の話。
王家の間で黒帯同士を戦わせることは一つの興となっている。
アリアンロッドの狙いとしては疑わしい二人に刃を向け合わせ、私情を確認しようという意図があるようだ。
ボリスはそのことも察していた。
王女のそんな嫉妬深い所は心底嫌いだ。
どこへいっても利用されるだけの存在。
そして、それに感けているうちにいつしか獣人族としての誇りも見失っていた。それに気づいたのは、突然現れた従兄弟に二度も負けてからだ。
「いいよ。リムの無辜を証明することにもなるし――リム、いいよね?」
リム・ブロワールは大斧を引き摺り、こくりと頷いた。
実際のところ、ボリスもリムに恋愛感情なんて微塵もなかった。一番身近な存在で、ストレスも発散できそうで、かつ、事後が面倒臭く無さそうな女と条件を絞っていったところ、リム・ブロワールが一番適していたというだけの話。
鈍らになっていた肉体に鋭気を取り戻すためには対人戦も都合がいい、とボリスは思った。
――そう思いでもしなければ、こんな茶番に付き合わされる心労を耐え抜けなかった。
「お互い、苦労すんねぇ……。なぁ、地獄耳?」
ボリスも得物を携える。
腕には投擲用のナイフが何本も忍ばせている。
それを一本だけ手にとり、気怠そうに前に踏み出た。
――相手に不足なし。
あの女は敏捷性も破壊力も桁違いだ。
それに迷いがない。ボリスは不敵な笑みを浮かべてナイフを掲げた。
だからこっちも最初から本気で挑める。
○
観衆は集まっていた。
白帯・茶帯の連中の波に合わせて、ペレディル・パインロックもその黒帯の模擬選の様子を遠巻きから眺めていた。
くだらない、と思いながら――。
あのお方のこれから用意する舞台に比べたら茶番にさえならない、と眺めていた。
早く……早く早く早くにもショータイムを。
そんな思念に囚われて焦燥感で歯をかちかち鳴らす。
―――"イザイアを殺す"。
その刹那、嘔気がペレディルを襲う。
腹のうちにしまった黒いものが咽返る。
これはあのお方の合図だった。憎悪の念を膨らませ、一斉に沸き立たせるために忍ばせた眷属の印。腸が煮えくり返る、という表現がまさに適する症状だった。
「失礼……」
「あ、おい新人。貴重な模擬試合だぞ。見ておけ」
「すみませぬ。吐き気が……」
「大丈夫か? あまり無理するなよ」
「すみませぬ……すみませぬ……」
彼は慌てて修練場を後にする。
早く早く早く……。
歯をかちかち鳴らす。
腸が飛び出る。この憎悪が。この喜びが。至高の舞台の主役として最後を飾る大役を仰せつかったこの至高の瞬間が。
早く早く早く。
ペレディルは青ざめていく背筋を我慢しながら書けていた。
そのまま修練場から街の裏路地へ。
その最低限の排水設備の溝へ。
腹も背ももぞもぞと蠢いて膨れ上がる。
まるで胎動のようだった。
それが腹から胸へ。胸から顔へ。
口を経由して盛大に溢れ出た。
吐き出てくる。止め処ない量の黒い塊が、ねっとりと落ちてゆく。まるでペレディル自身が排水路となったように、人間の溜め込める胃液の限度量をはるかに超えた黒い塊を延々と垂れ流し続けた。
「おぅぇええええ」
その溝から街を流れ、排水路に沿って黒い魔力は出ていく。
ようやくペレディルからの吐き出しが終わった頃には、路地裏の一画に伝う溝はびっしりと黒い魔力で覆い尽くされていた。それが突然、意志をもったかのように凄まじい速度で溝を駆けていく。
俊敏に蠢き、まるで蟲の大群が駆け回っていくようだ。
「ぐぇっ……ごぶっ……おご」
ペレディルは嗚咽を垂れ流してその場で跪く。
すると、吐き出された黒い魔力がまた彼の口や耳から再度体へと侵入した。
気色の悪い音を立て、吐き出した分のほんの少しがペレディルの体に戻ると、彼は平然とした顔で立ちあがった。
そしてぐちゃぐちゃに崩れた笑みを浮かべながら叫んだ。
大通りを歩く民衆は気が触れた男だと思って気に留めようともしない。
「始まっ……始まった……! ついに始まった……ッカッカッカ!」
○
大振りのはずの相手の武器が想像を絶する速度で迫る。
ボリスは地面を転がり、その一閃を躱した。
豪快な音が頭上を通り過ぎる。
だが、リムの戦術はそれだけでは済まない。
その空振った大斧の勢いを殺さずに一度地上でくるりと身を翻すと、リムは軽々と跳び上がり、今度は斧を縦に振り下ろす。
ボリスの転がっていた大地は容易に抉れ、大きなひびが入った。
「ちっ……夜もそれくらい踊ってくれりゃあ楽しかったんだが」
「……ふっ」
大地に食い込んだ大斧を素早く引き抜くと、間合いを取るために駆け出したボリスの後をリムは追いかける。得物を引き摺っているので、騒々しい音と粉塵が舞い上がり、闘技場は視界不良になった。
土埃が高々と舞い上がる中、ボリスはその煙の中からナイフを二本投擲する。
彼は鼻が利く。
『悪魔の証明』。
視覚などに依存せずとも、リムの居場所が正確に把握できた。
――ナイフが空を裂き、煙幕の中に二点の円が浮かび上がる。
その高速の凶器を、くるりくるりと軽々、ゆらりゆらりと緩慢に斧を回すだけでリムは弾いた。
追撃の五、六本も同様に。
元からどこからナイフが飛んでくるのか分かっていたリムは、虚ろな目をしたまま何の造作もなく大斧の刃や柄で弾ききった。
彼女は耳が良い。
"そこだ!"
"そんなデカブツ二つも垂れ下げてんのに何でそんな速いんだよ"
"もう一度くらいは揉みしだきてぇもんだ"
ボリスの思考が声となってうるさく聞こえてくる。
『倶有の種子』もまた敵の位置を探るのに適していた。
お互いのそんな特殊能力のことなど分かりきっている事なので、この派手に上げた煙幕は特にどちらの利にも働かなかった。
リムも気にせず大斧を引き摺って移動が出来る。
観衆の白帯や茶帯からは何が起きているのか分からない、という不利益があった程度である。
"今度はこっちからいくぜ"
右からボリスの声を感知したリムは、不意打ちに不意打ちを重ねるために駆け出した。相手の間合いに入る前にこちらから振り落としてやろうという思惑だ。
そもそも森で暮らしていたリムにとって野犬狩りなど――。
振り被り、前傾になって駆け出す。
煙も晴れてボリスの姿も肉眼で捉えたところで斧を振り抜いた。
それをボリスは片手のナイフで受け止めた。
「……!」
「力任せに振るだけなら俺だって負けねーから」
背筋に悪寒を感じたリムは受け止められた大斧を棒術のようにくるりと回し、態勢を立て直そうとした。しかし、既にボリスのもう一方の手にはナイフが――。
鳩尾に突き立てられようと、真っ直ぐ腕を伸ばしてきた。
刺される。
――そう思った刹那。
"――イザイアを殺す"
"――この国を滅ぼす"
"――イザイアを殺す"
"――この国を滅ぼす"
予期せぬ声が耳を支配する。
反響が頭をかき乱す前にリムは能力を偽聖典で封印した。
何事かと固まっていると、ボリスの鼻もその異様なものを捉えたようで動きを止めていた。
目を見開いて驚愕している。
「ちょっと、なにやってるの! 事後処理は治癒魔法で何とでもなるんだから早く刺しちゃいなさい!」
ボリスが冷静さを取り戻したとき、アリアンロッドの声が聴こえた。気持ちを確かめたい嫉妬の王女が焦って吠えているのだろう。
その後に顛末を見守る騎士団の歓声。
そして珍しく目を見開くリムの顔が確認できた。
「お前も気づいたか?」
口の動きで察したのか、リムはこくりと小さく頷いた。
これまでもこの二人は王都周囲に漂う怪しい気配に感づいていた。そういった類いの異変は珍しいことじゃない。新種の魔物や怒り狂った魔族はよく出没する。
それを察知する監視塔の役回りは主に、ボリスとリムの二人が担ってきていた。
しかし、今回の異変は従来の非じゃない。
この二人には異変どころか厄災の始まりにも思えた。
○
ボリスはすぐにラトヴィーユ陛下に報告した。
そして、状況を把握するためにボリスの率いる隊が偵察隊として編成され、その気配の大元を辿ることとなった。
指令を受けたとき、彼は"大元"という言葉に違和感を覚えてならない。
その異臭は明らかに複数箇所から同時に湧き起ったからだ。陛下は、しかし発生源はあるはずだとあまり気にしていなかったものの、ボリスはずっと引っかかっていた。
『悪魔の証明』という言葉は揶揄的な意味合いが強い。
存在証明が不可能に近いことを指摘するのがこの言葉の由来である。
しかし、ボリスの能力『悪魔の証明』は対象が在るか否かを明らかにしてしまう――悪魔が存在を証明してしまえる能力だった。
彼は死んでいるか。
彼女は死んでしまったのか。
魔王となるような存在がこの世にいるかどうか。
索敵に特化したこの能力は単なる人探しだけでなく、敵戦力を探る上でも役に立つ。
進攻中に敵の遊軍が控えているかどうかも感知できる。
偵察の役回りを引き受けることが多いのはそれ故だった。
その能力を以てしても、今回の"異臭"には実体を感じない。特定の人や物というより、『現象』そのものに思えてならなかった。
「ねぇ……今夜も添い寝してよ」
偵察の前日の夜、アリアンロッドは己が騎士にそう告げる。
王女の部屋の入り口に佇むボリスは、言われるがままにベッドサイドに移った。王女は布団の隙間から顔を覗かせる。
王女は期待の眼差しを向ける。
騎士は無表情なまま。
もう何の感情も起こらない。
この主従の間柄に信頼関係は結ばれなかった。
まだ正統な叙任式を行なったときのアリアンロッドはこんな潤んだ目をしてこなかった。羨望とそして叡知を秘めた眼差し。聡明な一国の王女の姿にボリスも忠誠を誓ったのだ。
しかし今は嫉妬に狂い、低劣な姿だ。
王女としての気高さをすっかり失ってしまっている。
「不安なの。また怖い魔物が現われたんでしょう」
「そんなものはいねーよ」
「じゃあ証明して。私を安心させて……」
アリアンロッドは足を絡ませた。
ボリスはそれに応えるように身を崩してベッドに入る。
溺れているのはどっちだ。
二人ともども堕落の海に溺れていく。
――獣人族としての誇りは何処へいった。
――俺は何のために生まれた。
――クライスウィフト家はこんなことのために俺を……。
ボリスの心の泥濘がベッドの中で掻き回される。
彼は己が弱くなったと自覚していた。心も体も。平和な国に誇りなど不要だった。故郷の父や兄は今頃なにをしているのだろうか。戦いに身を投じて、犬部族のリーダーとしての誇りを掲げて魔族に挑んでいるのだろうか。同じ末裔である俺は一体何をしているのだろうか、と今の有り体を恥じた。
偵察に向かう前日、ボリスの心の闇が増長した事は敗因の一つとなった。
○
偵察隊にはいつもの小隊に加え、ペレディルという新人も連れていくことになった。
パインロック家と言えばボリスもよく知っている。
西方では親交がほとんどなかったものの、騎士御三家の一つだ。
王宮騎士団の幹部であるボリスが知らないわけがない。
「あっちだ」
ボリスは口数少なく、引き連れる白帯たちに指示を出した。
王都郊外の平原を進む。
遠出用に馬を連れてきたが、存外近くにその"大元"を確認した。
それは王都を横断するように流れる川の、郊外に位置する下流だった。
王都の排水路はすべて郊外へ集められてから川に合流するように造られていた。市街地内で川へと排水してしまうと、神聖な地が汚れるとメルペック教会大聖堂の不平を受けてそのような構造となった。
川辺に近づくと腐敗臭が鼻を刺す。
ボリスは白帯たちに指示を出し、川の周囲を慎重に探索した。
どうやら浅瀬に何か潜んでいるようである。
しかし"何か"の実態が掴めない。
『悪魔の証明』ならこのようなとき、明確にそれが"人"なのか"魔物"なのか、あるいは"魔法"や"魔法陣トラップ"といった術の一種なのかを見極められることができるというのに、なぜか今回ばかりは霞がかかったように判然としない。
「……ボリス様、いったい今回は何なのですか?」
サブリーダーの茶帯の一人に声をかけられる。
――"分からない"とさえ言えなかった。
以前のボリスであれば、分からないものには"分からない"と言えた。自信があったからこそだ。しかし、今は落魄れた自分を自覚している。もし発見された"異変"が些細なものであった場合、それが分からなかった自分自身の衰えを露見させる事になる。
だから答えることが出来なかった。
なぜ実態が掴めないのだろうか。
まるで天候の変化のような……。
自然災害の類いにも思える異変だが、リムとともにこの異変を感知したとき、明確な"悪意"を感じたのも事実である。
「ぎゃああ!」
突如、白帯の一人が悲鳴を挙げる。
川の浅瀬に足をつけ、杖で水底を掻き回していた隊員だ。
はっとなってそちらを見やると、浅瀬であるはずの川の中に白帯の一人が引きずり込まれた。そこに慌てて駆けつけたのは今日初めて引き連れたペレディル・パインロックという男だった。
同じように水底を掻き回し、引き摺りこまれた白帯の一人を探すも見つからない。なぜか危機感を感じさせない動きだが、ボリスは彼なりの勇敢さを示したのだと思って疑問に思わなかった。
「消えました」
ペレディルの反応も淡々としていた。
いったい何が起こっているのか分からないまま、また次の悲鳴が上がる。
「ぎゃっ!」
別の白帯が川辺に引きずり込まれた。
そしてまた次。その次。どんどんと偵察隊のメンバーが引きずり込まれていく。焦って川から引き上げようとして岸に足をつけたはずの隊員まで引きずり込まれた。
岸辺まで何かが迫っている。
「なんだってんだよ……!」
ボリスは臨戦態勢に移り、川に向けてナイフを一本投擲する。
隊員が引き摺りこまれた直後に投げつけたはずなのに、川の水面には何の反応もない。
そこでボリスは一つ、違和感を覚えた。
川の浅瀬に足を入れて異物の捜索をしていた隊員はすべて飲み込まれてしまった。だというのに、たった一人だけ平然とした顔で立ち尽くしている者がいる。
――ペレディル・パインロック。
今回初めて偵察隊に連れてきた男だ。
その男が特に不安げにするでもなく、怯えるでもなく、しれっとした顔で川の中に足を踏み入れているのだ。
そこから感じるのは勇敢さでも、危機感の欠如でもなく、言い知れぬ悍ましさだった。
「……っつぁ!」
気を取られていると、額に激痛が奔る。
先ほど水底に投擲したナイフが川の水底から返ってきた。
手を当てて確認すると、額には黒い粘ついた何か――ボリスが"異臭"と感じていたものの正体だった。それがぶくぶくと気泡を立てて膨れ上がる。
「どうかされたのですか」
川辺のペレディルは平然と声をかけてくる。
こいつが主犯だとボリスは確信する。瞬発的な動作で跳びあがり、袖から取り出した多種多様な短剣を投げつけた。
しかしそれがペレディルに届くことはない。
水面から突然這いあがった部下たちが障壁となって攻撃を防いだのだ。突然飛び出してきた黒い瘴気をまとう部下たちに、ボリスは混乱した。
「なんだ!? お前たちは――」
急所に刃が突き刺さった部下の白帯はそのまま盛大に倒れて水底に沈んでいく。
それを冷徹な目で見送るペレディル・パインロック。
「カーッハッハッハ! アハッ! アハハハッ!」
異常な事態だった。
これはボリス個人でどうにかなる話ではなかった。
咄嗟にそう判断したボリスは踵を返す。
しかし、そこには先ほど声をかけてきたサブリーダーの茶帯が立ちはだかる。
彼も足元から黒い粘性の何かに囚われていた。
「何をしている! 非常事態だ、王宮へ――ぐっ!」
茶帯はボリスの首を絞めた。
黒帯であるボリスからすれば大した力ではなかったのだが、何故か抵抗できない。それどころか額にこべりついた黒い泥が徐々に膨れ上がり顔面を覆い尽くしていく。なぜこんなものにすら抵抗できないのか。それはボリス自身が弱いからか。なぜ黒帯になった。故郷の父や兄は――いや、憎い存在がいる。俺を辱める存在。違う、王宮への報告を――王家が憎い。そうだ、獣人族の誇りが。そんなものもくだらないと思えるこの宮殿生活は自堕落に満ちたもので、俺は次から次へと現われる同僚にすら勝てない非力な……。同僚? ロスト・オルドリッジには二度も負けた。どうして、あんな奴に。勝てばいい。憎ければ殺してしまえば? クライスウィフトは。アリアンロッドは――。
思考が滅茶苦茶に切り裂かれていく。
黒の魔力がボリスの顔を覆い、目や耳、口まで覆い尽くすとボリスはついに抵抗しなくなった。
整然となって地に足が着いた。
気づけば、ボリスは黒い魔力とともにある事が爽快に思えてきた。
「王族を殺せ。まず身近なものから。次は黒帯の連中を引き込め」
背後にそっと立つペレディルが耳元に囁く。
それは傍から聞けば呪詛の言葉だった。
しかし、ボリス・クライスウィフトにとっては祝福の賛辞に聞こえていた。
満たされた。
ボリスが昨晩掻き回された心の泥濘は黒い魔力によって固まり、落ち着いて自分が成すべきことが見通せた。
最初から殺せば良かったんだと、これまでの忍耐を悔い改める。
○
――はっとなる。
悪夢を見ていたようだ。
自分には到底抱けない思想。
殺せばいいなんて破滅的な思想。
獣人族には誇りがある。
後退はない。
戦陣において後退などしない。
ただ突き進み、そして信条に反する存在を平伏していくのだ。
ボリスは微睡みの中でベッドから這い出る。
昨晩はなにをしていただろうか。
またアリアンロッドに言い寄られ、添い寝をしていた。
――じゃあ証明してよ。私以外いないって。
証明……。
悪魔の証明だ。
今後アリアンロッド以外に好意を抱く女が現われるか否か、そんなものは悪魔の証明。
俺の能力を以てしてもそんなものを証明することはできない。
いつまでも俺の特殊能力を取り上げて、そうやってお前は証明できないものを証明しろと無理難題を押し付けてきた。
永遠の愛と忠誠を誓えと要求ばかり突きつけてきた。
――証明してみせてよ。
ふと隣の枕を眺める。
そこには赤い、赤い鮮血が飛び散っていた。
ベッドは赤黒い血でべたつき、壁には血飛沫の痕。
その鮮やかな花弁の中心に頸が裂かれたアリアンロッドが目を見開いて絶命している。
「これが、『お前の求めた答え』だ」
床に降り立ち、ボリスは事も無げに黒帯を着込む。
"――イザイアが憎い。イザイアを殺す"
耳鳴りはやまない。
その感情が付き纏う。
浮かび上がる顔はロスト・オルドリッジだった。
あいつを殺すための舞台を整える。
その信条を邪魔する者は容赦なく斬り捨てる。
それが獣人族としての誇り。
ボリスは誇りを取り戻した。
気分が昂揚して抑えが効かない。
これを共有してやれば、同僚も喜ぶだろう……。
血の臭気が漂う主の部屋を後にした。
ここから王都が荒れていきます。
※次回更新は2016/5/28~29の土日です。




