Episode145 イザヤの受難Ⅲ
入学式が終わった後、校庭から立ち去る王女一向の後を追う。
彼らは要人だ。
普段お目にかかれないお姫様の入学に浮かれきった学生らが一斉に押し寄せる可能性もある。ましてや「仲良くしてください」なんて言われたら尚更だろう。そんなこともあってか、お披露目会のような形で入学式は終わり、護衛に守られるようにいそいそと行ってしまった。
歓迎式用に横断幕なんかを作っていた学生らは「もう終わりかよー」と文句を垂れていた。
俺はそのギャラリーを押しのけ、物陰で魔法を展開する。
聖属性上級魔法≪インテンス・レイ≫――のオリジナル改良版。
小型の≪ウィスダム・レイ≫を放つ。
インテンス・レイは自立遊走型の追尾魔弾。
それの小型版で火力を最小限抑え、追走速度も落としたものだ。
これは尾行に使える。
標的はエスス王女殿下に設定して光の球を放つ。
光を追いかければ、自然と標的を追うことが出来るというわけだ。
彼女らは校舎に入って、三階まで吹き抜けになっている廊下を歩いていく。天井から太陽光が一階まで届く幅の広い廊下だ。
ここは講義棟。
廊下の側面には講義室が所狭しと並んでいるのだ。
そこの三階まで一気に上がって隅の休憩スペースで立ち止まった。
俺はウィスダム・レイを解除して、階段の影に潜めて観察した。
「はぁ……緊張した」
鎧の男がようやく兜を脱いだ。
汗ばむ黒髪の男を見て、エスス王女は笑顔を向けた。
「ありがとう、ランスロット。おかげで何とか入学式を乗り切れたよ」
「……っ! 王女様の為なら、がっ、頑張ります!」
ふふふ、と王女が笑い、護衛の兵士は頬を赤らめた。
あれがランスロット・ルイス=エヴァンスか。
名は立派だけど、中の男は大したことなさそうだ。
そこに浅黒い男は呆れるように肩を竦めた。
「俺たちは脇に立ってただけじゃん」
「だ、だって、あんな大勢の前に立つなんて初めてだったから……」
「せめて顔見せのときくらい兜を取っておけよ。あれじゃあ、ランスロットという男はいつもフルアーマー姿の……というより、フルアーマー自体がランスロットと思われたかもしれないぞ」
「これはお守りみたいなものだから大勢の前で外すなんて無理だ……」
「まったく臆病だな」
汗を拭うランスロット。
それに声を掛けたのがロスト……あれが弟か。
ロストは想像していたよりも普通だった。
凶悪な魔族のような威圧感があるわけでもなく、騎士としての凄みも感じない。あの様子だと力で王家を脅迫したというより、うまく取り入ったという感じだ。
俺と同じオルドリッジの血を引いているのだ。
力強さだけじゃなくて知略家の側面もあるのか?
「ランスロットが緊張してたおかげで、逆にボクの緊張が解れたからね。もしロストとシアだけだったら、二人とも落ち着き過ぎててちょっと不安だったと思う」
「あるあるですね」
「でしょ? でも二人も一緒に来てくれてありがとうっ」
物静かな雰囲気で一言添えたのは青い髪の女。
どうやらエルフのようで、なかなかの美人だった。
四人揃って仲良く廊下を歩いていく。
一体どこへ向かうというのだろう。
「お疲れ様~。四人とも大変だったわね」
奥の曲がり角から現れたのは、銀髪の女。
イルケミーネだ。
俺が狙いをつけていた女である。
最近見かけないと思っていたのに、なぜこんなところで?
この四人と知り合いなのか―――と考え、すぐに気づいた。イルケミーネの本業は宮廷教師だ。それなら他の三人と知り合いなのではなく、王女と繋がっているのだろう。
「イルケミーネ~!」
エスス王女がイルケミーネにしがみつく。
ふわりと純白の髪が舞い上がり、よしよしとイルケミーネは受け止めた。
「でも初日はまだまだやることがあって忙しいわよ」
「イルケミーネ先生、この後は何かあるんですか? 確か新入生のオリエンテーションは明日だったような……」
ロストがイルケミーネのことを"先生"と呼んでいる。
そこはかとない違和感を覚えた。
あの二人の接点は何だ?
「そうなんだけど……ほら、みんな入学試験受けてないでしょ」
「えっ、試験あるんですかっ!?」
動揺したのは鎧の男だった。
「あ、貴方たちは特別免除されてるから安心して。王様のコネだから他の新入生には内緒よ? そうじゃなくて―――普通の子たちは入学試験のときに大学仕様のマナグラムで測定を受けるの。魔力適性の検査のためにね」
「あぁー……マナグラムか」
国王のコネ入学か。
道理で奴らには魔術師としての聡明さを微塵も感じないわけだ。
ロストが厭そうに眉を顰めている。
奴には魔力測定にトラウマがあるはず。
「だからエススとシアちゃん、ランスロットくんの三人はこの後測定検査と、理事長の前で直々に魔術実演をしてもらいます!」
「えーっ! 面白そう!」
「じ、実演!? 僕、基本の三属性くらいしか使えないよ」
「私は風魔法と他を少々……」
王女だけ目を輝かせている。
鎧の男とエルフの二人は不安そうだ。
「俺はやらなくていいんですか?」
「ロストくんも別に受けてもいいんだけど……ほら、あなたの虚数魔力はまだ測定できないから。無詠唱術者の血液サンプルも調べないとだし」
「あ、それもそうでした」
「理事長からも後日直接話があると思うわ。あなたの魔力はこれからゆっくり私と二人で鑑定していきましょう、ね?」
なに……。
イルケミーネと二人で?
片目を瞑って合図するイルケミーネを見て衝撃を受ける。
俺が狙いをつけていた女が既に取られている……!
これからゆっくり何を鑑定するっていうんだ?
虚数魔力ってなんだ?
主席の俺ですら知り得ない魔法の世界があるというのか。
「あ、でも入寮の説明会も夕方あるから、それには一緒に参加してもらうからね」
「入寮? 俺たち寮に入るんですか?」
「ええ。エススはそうしたいって言ってるけど―――」
イルケミーネが王女の方を見る。
「ロスト……事前に相談してなくてごめん。ボク、どうしても寮で暮らしてみたくて……」
「ほら、そうなるとお世話役のシアちゃんも寮に入らないわけにはいかないし、ロストくんもランスロットくんも護衛として近くにいないと―――ってなるでしょう?」
「はい。私は構いません」
「そんな……じゃあこれまでみたいにシアと一緒に暮らせなくなるのか」
ん……今、奴は何と言った?
奴はあの美人エルフとも一緒に暮らすほどの関係なのか。
「ボクはロストにも傍にいて欲しいって思ったんだけど、女子寮は男子禁制らしいからね」
王女からも慕われている。
あの情けなかった弟が、俺以上に上玉の女たちに囲まれてハーレムしていたと言うのか。
信じられない。
いや、信じたくない。
「まぁいいか。ランスロットもいるしな」
しかも、鎧の男ともデキてる?
まさかの両刀使いだと……。
何がそこまで弟を変えた。
あるいは、十歳まで書斎に監禁していたことが奴の情操に何かしら悪影響をもたらしたのか。捨てられて自由を手に入れた瞬間、それを爆発させて様々な経験を積んだのかもしれない。
すわ怖ろしい。
力も未知数だが、性格や人柄も未知数だ。
それから五人は待ち合わせを決めて、ロスト一人と他四人に分かれることになった。
「夕方までどこか暇潰しできる所とかないですか?」
「うーん……大学だから何でもあるけど、新入生が立ち寄れる場所って言ったら大図書館くらいかな。他の図書館とは比べものにならないくらい大きいよ」
「あぁ、そういえば図書館があるか―――昔から本に囲まれて育ったので、興味あります」
ひっ―――やはり奴もあの日々のことを覚えているんだ。
俺たち家族がしてきた仕打ちと虐待の数々を……。
そしてロストは単独行動に移った。
他四人はそのまま三階の奥の方へと向かい、理事長室へと行くようだ。
ロストは俺が潜む階段とは向かいの階段を降り始めた。
まだ張り込みを続けよう。
○
一階まで戻り、ロストはきょろきょろと周囲を見回す。
案内板を見つけては大図書館の位置を確認していた。
広大な敷地だ。
講義棟から大図書館までは二棟を渡らなければ辿り着けない。
「大図書館……そういえばここだったか」
何やらぼそぼそと呟いている。
場所を確認しただけでなく、校内全体図を執拗に眺めていた。
「俺が生まれたのが十六年前……ということは学生だったのは二十数年くらい前? こんな場所あったかな……」
そういえば奴は親父が体を乗っ取る前のイザイア本人だった、と兄貴の手紙に書いてあった。乗っ取りの時期は不明だが、口ぶりから察するに大学に来てからだろうか。
想像以上に大学の事情に精通している可能性もある。
「駄目だ、全然覚えてない。魔法も含めて全部勉強し直しだな」
それからロストはふらふらと敷地内を行ったり来たりして寄り道しながら大図書館を目指していった。一番長々と見て回っていたのは研究室棟だ。
履修を終えた学生が最後、魔術師として自らの偉業を残すために魔術研究をする施設だ。研究室は魔法の属性から手技、法則、術式まで研究分野が細分化されているため、無数に存在した。
ここが大学で一番大きい棟である。
「こっちだったかな」
あまりに右往左往するので俺も見つからないか冷や冷やだ。
そうしてロストが向かったのは今はもう使われていない研究室。
兄貴が最後の研究生だった。
―――"魔術詠唱時間学研究室"。
二年前を最後に、この研究室に所属する学生が居なくなり、今は埃まみれの空き部屋となっていた。
元々は詠唱時間の短縮について研究する地味で不人気な研究室だったが、イザイア・オルドリッジが"時間自体を魔法で操作する"というトンデモ理論を提唱してからは研究の幅が広がり、一世を風靡した研究室でもある。
兄貴もそんな親父の意志を次いで、同じ研究を始めたが――。
「ペテン師揃いの偏屈研究室?」
ロストが扉に掘られた落書きを読み上げた。
そう……結局"時間魔法"なんてものは机上の空論だった。
兄貴が「第四次元を超えた第五次元的魔力iが存在したと仮定して……」と法則だけが出来上がり、「しかし、実現は不可能」と卒業論文をまとめて終わってしまったのだ。
仮定の話で数式を作り上げたという功績は残せたものの、実現不可能と分かれば皆、興味は薄れていく。一番その"i"の要素に近いとされる≪ 重力魔法 ≫が人気を博している現状だ。
結局はトンデモ理論はトンデモ理論のまま、一つの魔術の夢は潰えた。
よくある話だ。
―――だが、そんな可能性が潰えたはずの魔法を使う存在がここに現われた。
「うおっ!」
ロスト・オルドリッジ。
その張本人である奴は、鍵が掛けられた部屋を無理やり開けようとして扉を破壊した。扉の取っ手を片手で掴んだまま、軽々と持ち上げている。
なんて怪力なのだ。
「これでセーフセーフ……」
それを元に戻して嵌めこんだ。
そのまま開いた部屋の奥へと足を踏み入れる。
野蛮な奴だ。
俺は後を追って扉から中の様子を覗きこんだ。
「………」
ロストは研究室の中の実験器材を手で撫でながら呆然としている。
何か思うところがあるのだろうか。
「時の支配者か……」
聞いたこともない単語を呟いた。
その刹那。
―――ロストの輪郭が二重にぶれた。
どくんと鼓動が高鳴って、気づいたときには部屋の隅から隅へと奴は移動していた。
なんだ今のは……。
いつの間に動いた……。
動いた過程を無理やり切り取って瞬間移動したように見えた。
まさかアレが時間魔法?
「やっぱり図書館で時間潰そう……」
踵を返してこちらに向かって歩いてくる。
すぐに俺も引き返して見つからないように動いた。
○
ロストは真っ直ぐ図書館に辿り着き、大きな扉を潜った。
俺も頃合いを見計らって後を追う。
すぐに脇の本棚に隠れて観察する。
「―――なんでお前が!」
直後、ロストの戸惑いの声が耳に届いた。
何に困惑しているのだろう。
本棚から覗き込み、中央の読書机が立ち並ぶ方を見た。
ロストと司書のリピカが向かい合っている。
「あら、イザイア。先日はどうも」
リピカはロストを見て、旧来の知人でも見かけたように声をかけた。俺や他の学生には見せないような素振りである。
やけに親しげだ。
なぜ奴は大学の司書とも繋がっている。
というか、またしても俺が目をつけていた女の一人だ……!
「教会に潜んでるんじゃないのか? それともまたお前は別の存在か?!」
「図書館では静粛に。マナーを守りなさい」
今日は入学式の日で講義は休みだし、午後の時間帯で他の学生もいないようだった。
「瞳の色は青、か……女神の再来ってわけでもなさそうだ」
「ふふふ、安心して。私はリピカ・アストラル。こないだ教会で会った私と同一人物の私よ」
「その言い方は気色悪いからやめろ。余計に混乱する―――それで、そのお前がなんで大学に?」
「私は確かに永久的に教会に身を隠し続けることも可能―――」
教会で会った?
永久的に身を隠す?
何の話をしているんだ。
奴が誰かと会話する内容は俺の頭でも理解できない。
「"昔の私"と一番関係が深かった貴方ならよく知ってるでしょう。私にはヒトとしての生理反応なんて起こらないわ」
「あぁ、お前の体のことならよく知ってる」
体のことならよく知ってる?
リピカ・アストラルはロストの昔の女だったのか。
混乱する頭をなんとか押さえながら観察を続けた。
「でもそれだけじゃつまらない。日々進化する魔力の"種子"がどう変化していくのか、それをこの積み重なる篇帙を通して知りたいの。我が子の功績を遠くから見守る母親のようにね。だから図書館で情報を蒐集しているのよ。もちろん、貴方がイザイアだった頃から司書としてここに居たのだけど?」
「生憎、当時のことはよく覚えてない……。というか、お前は世間のことなんて調べなくても何でもお見通しかと思ってた。得意の予定調和ってやつで先々まで見通せるんだろう?」
ロストが煽るような口調で問いかける。
それに対してリピカは冷たい目を向けながらも、丁寧に答えていった。
明らかに俺との会話のときとは雰囲気が違う。
同じ世界で生きてきたような、そんな通じ合った関係を感じる。
「―――だから、言ったじゃない。今この世界は野放しにされた混沌の渦中にある。それに今の私にはもう神性は備わっていないわ。予定調和を仕組むには限度がある上に、目的もなくわざわざそんな事をする予定もない。目的もない陰謀なんて愉快犯のすることよ」
「お前も愉快犯みたいなものじゃないか」
「……ふふ、貴方からすればそうかもしれないわね」
あの無機質な司書が笑っていた。
イルケミーネのときと同様、衝撃が奔る。
弟の復讐と侵略は既に始まっていたのだ。
俺が気にかけていた女から取り入って、徐々に領域を侵していく。
知らないところで着実に……。
「移動手段は? どうやって王都からこっちまで移動している?」
「よくある手法だけど―――それをここで明かしてしまうと第三者に私の正体が知られてしまうわ」
「第三者?」
「そこにいる貴方の次男に――いえ、兄というべきかしら?」
そう言うとリピカは俺の方に向いてきた。
「ひっ―――」
がたりと音を立て、本棚に足をぶつけてしまう。
本がばらばらと落ちていった。
その拍子にロストがこちらに振り返った。
目が合う。
見つかった。
「え……誰だ?」
「彼はイザヤ・オルドリッジ。熱心に図書館に通う優秀な学生よ」
「イザヤ……?」
ロストが首を傾げた。
まずい、まずいまずいまずい。
殺される!
「イザヤってもしかして兄貴……か?」
「ひ、ひぃいいっ! うわぁあああ!!」
慌てて逃げ出した。
重たい扉を開け放ち、飛び出る。
まだ死にたくない!
○
要塞に戻ろう。
顔は……見られただろうか?
一応フードを被ってはいたが、目は合った。
とにかく奴の侵略は既に始まっていることは分かった。
イルケミーネ。リピカ。
元々俺が好意を寄せていた人物は既にあちら側に回っている。もしかしたら、既に俺の知人はすべて懐柔されている可能性すらある。
「あれ、イザヤ様?」
俺が大学を走り回り、外に飛び出たところで取り巻きの女の子Aに見つかった。
待て、もしかしたらこいつも既にロストに懐柔されている密偵か。そういえば王都での事件の記事を持ってきたのは彼女。
あの時点で既に俺の精神を揺さぶる策を打っていた?
「今日はお家に籠って勉強される予定だったのでは……?」
「うるさい、どけっ!」
「きゃ―――!」
突き飛ばし、駆け出す。
もう誰も信用できない。
早く要塞に戻らないと……!
日々体を鍛えてはいるが、家路をずっと全速力ではさすがに息が切れる。
大学の敷地を出て学園都市のメインストリートを走る。学生が大勢住む集合家屋の路地裏へ入り込んだ。
一度呼吸を整えるために立ち止まる。
「はぁ……はぁ……くそっ! 俺の順調な学生ライフが……!」
日陰になっていて少し涼しかった。
冷たい空気を取り込んで、少しは冷静になれたかもしれない。
あとは歩いて家まで帰ろう。
さすがにここまでくれば奴も追ってくるはずはない。
「―――兄貴?」
「は……?」
しかし恐怖は真後ろにいた。
振り向くとそこには戦慄するような赤い入れ墨が刻まれた男。それが復讐の炎を象徴するようにも見える。その男が平然と立っている。
「わぁあああ! やばい、やばい……!」
咄嗟に懐に携える杖を取り出す。
そこから咄嗟に魔術を詠唱。
最初から最大火力でぶっ放そう。
「ぐ、紅蓮の螻が大地を這う。ソエルの導きにより、カノの力よ、ここに……!」
赤の魔力が杖の先端へと凝集される。
詠唱時間は極限まで短縮し、杖の先端に魔力を収束させることで瞬間の点の威力を高める。それを接射すれば、王宮騎士団と云えど、ただでは済まないだろう。
「ブレイズガスト!!」
火炎が放射される。
剛炎が吹き荒れて路地裏で暴れた。
それがロストの体を包む。
火属性の上級魔法だ。
まともに喰らえば一溜まりもないはずだ。
「……うぇ、げほげほ。なんだよ急に。俺だよ、サードジュニアだ」
ロストは埃でも払うように纏わりついた火をあっさり払った。
あっけらかんとしてる。
最大火力の魔法が一切効いていない……。
血の気が引いた。
「うわぁぁああ!!」
今の攻撃魔法が効かないなら、あとは回避手段しかない。
俺はすぐさま治癒魔法を足に付加した。後々の反動が大きいが、一時的に脚力を維持させ、全速力で走り続けることができる。
「我が肢に甦生の力を、ゲーボの癒し!」
足が軽くなるのを感じた。
あとは走り続けるのみ。
走って走って、これまで経験したこともない速さで道を駆け抜けた。
高級住宅が立ち並ぶ通りまで来る。
あともう少しで要塞に着く。
―――というところで、目の前の障壁とぶつかった。
「うっ……!」
尻餅をつき、見上げる。
そこにはまたしても恐怖が立っていた。
魔法を使わなければ成し得ない速度で走ったはずなのに、その男は平然とそこに立って俺を見下していた。
いつの間に目の前にいた?
しかも衝突したというのに一方的に弾き飛ばされたのは俺の方だ。
男は微動だにしなかった。
それに扉を壊して持ち上げる怪力。
魔法も効かない。
打つ手がない。
「ひ、ひぃ……」
「確かに見た目はだいぶ変わっちゃったのは認めるけど、その反応はさすがに傷つくな」
無様ながらも四つん這いで家を目指す。
あそこまでいければ時間も稼げる。
さらには転移魔法のトラップがあるから家の中までは追ってこれないだろう。
「そうだ。これ、アイザイアから預かった小切手があるんだけど、イザヤに会えたら渡してくれって。実家からの仕送りだよ」
「小切手だと……?」
なぜ金の話をここで――。
そうか、揺さぶりをかけているのだな。
軍門に下るならば金を渡す、と。
その手には乗らない。
兄貴は敗北したかもしれないが、俺にはまだ名高い魔術師貴族オルドリッジ家としての誇りがある。
「屈するものか!」
立ち上がり、振り切って要塞の庭へと飛び込む。
あとは罠を潜り抜けて家の中にさえ入れれば―――。
そこでぐらりと体が重くなった。
なぜここで……。
真下を見ると足元の光源が弱まっていく。
先ほどかけた治癒魔法の効力が切れたようだ。
まずい、こんなタイミングでは反動で足が鉛のように……。
「あっ――――」
しかし、時既に遅し。
体を支えきれずに庭へと倒れ込む。
その先には炎が吹き出る魔法陣。
「ぎゃぁああああ!!」
「あ、兄貴!」
全身に火を浴びせられた。
熱すぎて身がよじれる。
本能的に転げ回ったその先には、電流が奔る魔道具の縄があった。そこに体を引っ掻けて、お次は電撃が体を駆け巡る。痛烈な痛み。
「ぎぇぇえええ!!」
「なんなんだ、この家!? 大丈夫か!?」
「な、何のこれしき……!」
ぼろぼろになりながらも何とか玄関まで辿り着いた。
「ふ、ふふふふ……お、お前も……こうなりたくなかったら……俺に近寄るんじゃない―――って、何だと!?」
ロストは魔法陣で吹き荒れる炎や電流が流れる縄に触れても何らダメージを負うことなく、ずいずい玄関まで近づいてくる。
力が強いとか時間を止める以前に、いかなる攻撃も効かないのか。
なんという超人になって舞い戻ってきたんだ。
その超人は庭の真ん中で立ち止まると、唖然として手を伸ばしてきた。
「おい、後ろに何かいるぞ」
「え―――?」
背後を見ると最後の砦として設置した魔法植物の蔦が俺の腕に絡みついてきた。凄まじい力で締め付けられ、ぶんぶんと振り回される。
「うおおおお!!」
「ここはモンスターの棲家かよっ」
上下左右が目まぐるしく変わり、意識を失いそうになる。
まさか対ロスト用に張り巡らせた罠に、まんまと自分でかかってしまうとは……。
何たる不覚。
蔦は勢いづいて俺を振り回した後は、そのまま家の壁に打ち付けてきた。
ベシーンと豪快な音が耳朶を打つ。
「しまった、壁には転移魔法が―――」
魔法陣が発動し、光を帯びる。
転移先は……そうだ、"茨ロード"だ。
町の外れには荊棘で茂る森があって"茨ロード"と呼ばれている。注意して歩かないと全身に傷を負う。ましてや茂みの多い密集地に突然転移させられでもしたら、串刺しになって即死してもおかしくはない。
そうか、俺はこんなところで死ぬのか。
ロスト……我が弟ながら強敵だった。
過去の罪によるものとはいえ、こんな復讐で身を散らすとはな……。
完敗だ。
弟にしてきた虐待の数々が、走馬灯として浮かび上がった。




