Episode136 女神再臨・証
「私が誰かって顔をしているわね」
薄暗くも薄明りに照らされる大司教。
祭壇の前に立つ薄紫の髪の少女はそう言った。
純白の法衣を纏っていてもその背格好を見間違うはずがない。その異質な雰囲気は女神そのものだ。
そいつが心を見透かすように俺の疑問を代弁した。
不思議に思うのも無理はない、と言うかのように。
それもそのはず――。
だってもう女神は俺たちとの戦いに敗れて消えてしまったのだから。
「まずは自己紹介をしましょう――私はメルペック教皇 リピカ・アストラル」
「リピカ?」
嘘だ。
だってその容姿すべてが酷似している。
パウラさんの服の裾を握る、女神の抜け殻である少女と。
それに今、久しぶりねと言ってのけた。
それはエンペド・リッジを倒したあの日以来"ぶり"という意味ではないのか。
「なんでお前がここに……」
「言ったでしょう。私はメルペック教皇。教会の最高位にして神の代理者。その私がなぜ此処になんて……相変わらず不思議なことを聞くのね」
俺が混乱している事に興を感じたのか、大司教の女は悪魔っぽく笑った。少女ケアと瓜二つの容姿だが、その邪悪な仕草はかけ離れている。だが、抜け殻になる以前の少女を彷彿とさせた。
その口ぶりは俺もよく知っている。
間違いなく、こいつは女神ケア――。
「私を誰かと重ねてくれているのかしら?」
俺の心を読むかのようなタイミングで、リピカと名乗る大司教はそう問うた。
「誰かも何もお前はケアだ。間違えるはずがない」
「違うわ」
「さっき久しぶりって言っただろう」
「………」
すっと、吊りあがっていた口元が下がる。
詰まらなさそうな、それでいて何処か寂しげな目で、リピカと名乗る大司教は俺を見下ろした。
しばらく無言で視線を交わす。
その青い眼で何を訴えているのか理解できない。
目を逸らすこともできない。
どれだけの間そうしていただろう。
先に口を開いたのはリピカの方だった。
「赤い瞳、か――いいわ。少し、昔話でもしましょうか」
「……?」
リピカは俺の瞳の奥を覗きこんだかと思うと諦めるように溜息をついた。そして今一度、俺を見定めてこう告げる。
「私にとって貴方と会うのは実に千年ぶりよ、イザイア・オルドリッジ」
旧来の知人と偶然に顔を合わせたとばかりに。
女神に酷似した大司教はしれっとした顔でそう告げた。
「尤も、私が過去へと戻る前の現在での話だから時系列上では三ヶ月前に会ったと言うべきかしら」
「三ヶ月前……」
「そう、貴方にとっては忘れることのできない日。貴方の第二の誕生日。時の支配者として現世に蘇ったその日」
「……」
それはエンペドを葬った日だ。
俺は仲間やメドナさんに助けられた。
魂が肉体から離れかけていたのを、この胸に食い込む"Presence Recircular"が引き留め、結果的に生き返ることができたのだ。
そして新たな生を受け、時間を止める能力も手に入れた。
――と同時に女神が死んだ日でもある。
「お前はあの時、"舞台から身を引く"って……」
「ああ、敗北した女神はそんなことを言っていたわね」
リピカはまるで他人事のように淡泊に語る。
別の人物の話だとでも言うかのように。
「でも、それでは筋が通らないのよ」
「は……?」
「そもそも、このメルペック教会は、勝利した女神が創り上げた依り代のようなもの。過去へと戻ることに成功した女神は、片腕であるエンペドが参謀を務める傍ら、隠れ蓑となる母体を必要としていた。そうして創り出された教会が、このメルペック教会。そこに蓑隠れし続けた女神が教皇となったこの私。――私の記憶では、貴方から肉体を奪ってエンペドに渡したのは、もう千年も前の出来事よ」
「……」
――愕然とした。
ぞわりと背筋が凍る。
この大司教なる存在は現在から過去に戻り、そしてまた現在まで過ごした女神ケア。俺の肉体を奪うことに成功し、エンペドと共に過去へと戻れた勝者。
こいつは千年もの間、この教会にずっと潜んでいたというのだろうか。
"――久しぶりね、イザイア・オルドリッジ"
大司教は数か月ぶりという気軽さで先ほどそう言った。でも実際は、彼女の体感時間で千年ぶりに俺に会ったということになる。
「待て。それはおかしい。まず理解ができない……あの日、確かにエンペドもお前もこの世から姿を消した」
「……」
またリピカは口を閉ざす。
祭壇の前からゆっくりと移動し、俺を冷徹な目で見下しながら、一段、すとんと降りてきて俺たちに近づいた。俺とパウラさんはあまりの恐ろしさに、思わず身構える。
いつ何をし始めるか分からないその緩慢な動作が恐ろしくて堪らない。
「彼らが消えたあの日、この世界の調和は崩壊した」
「崩壊……?」
突然、何を言い出すかと思えば。
崩壊したどころか、むしろ崩壊を阻止したと言っても過言ではない。
確か、奴ら二人の陰謀では俺の肉体とリゾーマタ・ボルガを手に入れた後は時間魔法を使って過去へと戻り、そして戦争を繰り返す予定だった。
そうして出来上がるのは、未来や過去といった時間の概念が存在しない、事象を反芻するだけの再現世界。その無間地獄の中で、ケアが神として崇められ続ける理想の世界を創ろうとしていた。
そんな世界では"今"は存在していなかっただろう。
「今こうして滅亡もせずに成り立ってるだろ」
「崩壊したのは世界自体じゃない。世界の調和の方よ」
「……?」
俺は理解できずにパウラさんの方に目配せした。
パウラさんも眉を顰めて首をふるふると震わせるだけだ。
二人揃って理解ができない。
「もうこの世界には生命の潮流を司る『命の|統禦者《かみ ケア』が存在しない。残った 『星の統禦者リィール』も既に剥製と成り代わってしまったわ」
大司教は悲しむように目を伏せた。
それは旧き友人を喪った少女のようにも映った。
「統禦者が亡き今、この世界は各々が内包する『起源』のもとに絶妙なアンバランスさで時が流れ続けていく。因果の調整も、因子の配分も、誰の監督も受けつけないまま野放しにされた混沌――それがこの世界よ」
「大司教様……」
パウラさんが首を突っ込む。
腕を組んだまま、眉を顰め続けて頭を悩ませていた。
俺自身、納得がいかないままだ。
「つまり、この世界にはもう神様の思し召しがない、ということかしら」
「そうよ」
神が死んだ世界。
見捨てられたわけではない。
俺たちが見放してしまったから、とでも言いたいかのように。
でも……。
「神が俺たちに何をしてくれたって言うんだ。女神だって自分の欲望のために俺たちに牙を向けた。それに抵抗して何が悪い?」
「悪いことではないわ。神と人類の違いなんて役割の差に過ぎない。どちらが偉いというものでもないの。舞台監督か舞台役者か、どちらが上の立場と聞かれても判別がつかないでしょう?」
――じゃあ、私は舞台から身を引くわ。
女神ケアが消え去る前、あの時のケアは俺を激励するようでいて、どこか諦めたような……そんな達観的な様子だった。あれは"もうこの世界を見放すわ"と言いたかったのだろうか。
大司教の言葉は当時のケアを彷彿とさせた。
でも何処か刺々しい。
まるで神のいない世界に不満があるかのようだ。
「ふふ、でもね、イザイア……本来、監督に勝てる役者なんて存在するはずがないのよ」
大司教は邪悪に嗤う。
「なんだと……」
「貴方はあの日、神を超えてしまった。時の支配者として降臨し、事前に用意された因果を捻じ曲げた――そうした神殺しの果てに私のようなイレギュラーが生まれてしまったの」
大司教は虚ろな目で、ようやく自分自身のことを話し始めた。
静まり返った大聖堂は、それ自体が魔術として拍動するかの如く、圧迫感を感じる。俺もパウラさんも、そして連れてきた少女ケアも、黙ってその大司教を眺めていた。
「あらためて自己紹介するわね」
大司教が静かに口を開いた。
「私はメルペック教皇リピカ・アストラル。三ヶ月前まで貴方たちの云う女神と存在を同じくしていた者よ」
そこにいたのは紛れもなく女神ケアだった。
リピカという偽名を使っていても、彼女自身がはっきりそう告げた。
女神ケアと同一の存在だったのだ、と―――。
「ケアと同じ存在……だった……?」
「考えてもみて。あの日、もし貴方の肉体がエンペドに奪われていたとしましょう。その後、女神とエンペドは千年前の過去へと至る―――そこで戦争を繰り返し、未来を無いものにしようとした。でも未来が無かったら、その二人は一体どこから来たというのかしら?」
「………」
原因と結果だ。
二人は未来から過去へと飛ぶ。
だが未来がなかったら――イザイアが存在せず、ミーシャも存在せず、俺が生まれなければ、どうやってエンペドは肉体と時間魔法を手に入れた?
「――つまりはそういうこと。貴方が生まれた"現在"は確実に存在する。それを無くすことなんて出来はしないの。だから、この時代は一つの特異点として隔離されるはずだった」
「特異点ってのは?」
「貴方が生まれ、戦士に憧れ、そして力を手に入れる。その一つの物語は確実にあったものとして残される。その最期はエンペドに肉体を奪われる悲惨な結末を迎える予定だったけれど」
固唾を飲む。
この陰鬱で重たい空間が俺をまた窮地に立たそうとしているようにも感じられて、少しだけ吐き気もした。
リピカはゆったりと歩み寄り、"少女ケア"の腕を取った。
この二人の容姿は双子以上に似ている。
模造品どころか、同じ存在が二つに分裂したかのようだ。
そしてリピカは片目の下瞼を指で押さえ、その眼球を見せつけてきた。
「女神は神性の魔力を持ち、瞳もその魔力と同じ色相を放つ。もう違和感には気づいてるでしょう? 私が女神ならこの瞳も赤黒くなければならないって―――」
確かにその通りだ。
今こうして、かつては女神だったと話すリピカの目の色は青。
そこに寄り添ったケアと同じ色だ。
俺があの日対峙した女神は赤黒い瞳をしていた。
「異変が起きたのは三ヶ月前。目覚めた私の瞳は赤ではなく青だった。そうして千年という歴史を無理やり用意され、現代に顕れた。過去ではエンペドと共に絶望を蒐集していたはずのこの私が……」
リピカは嘆くようにそう語る。
ケアから手を離し、俺とパウラさんへと向き直った。
「私はもう女神ではなく別の何かに成り果てている――女神が過去に戻ることに失敗したこの世界では、私が女神であるはずがないのだから。まぁそれも当然よね」
「待ってくれ。じゃあ、お前は結局誰なんだ?」
「分からないわ。女神だった頃の記憶も持ちつつ、女神であるはずがない私が何者かなんて……そんなもの、答えが得られるはずがないでしょう。だから、この世界の調和は崩壊しているの」
訳が分からない。
でもリピカの説く言葉も理解できる。
メルペック教は過去に戻ったケアが創り出した宗教だと云う。
しかしケア本人は過去に戻っていないし、それならばメルペック教なんてものが存在しているはずがない。そしてそれが無ければ今の俺がいるはずもない。もちろん、隣で口を半開きにして惚けた顔するパウラさんも、こうして教会の聖堂騎士団に在籍しているはずがない。
――すべては矛盾している。
「この世界はアンバランスで不確かなものよ。元々の設計図通りにいかなかったら、過去と未来で矛盾が生じても仕方がないわ」
虚ろな青い目のまま、口元が再び吊りあがった。
怪しく、悪魔のように。
それは勝利した邪神の名残なのか……。
最後は改心して離別したであろう女神は死に絶え、こうして目の前で嗤う邪神は生きている。
その結末はどこか理不尽だ。
「それで、お前はまた俺の身体を奪って過去に戻ろうとでも……?」
「そういった欲望はない。私はもう女神ではなく代理者―――信仰を集める役目はあっても、それ自体を欲してはいないわ」
それを聞いて安心した。
また裏で陰謀が動いているのかと思うと警戒のあまりに心が休まらない。
「でも抑止力は個別に働いている」
「抑止力?」
「生じてしまった矛盾……因果の捻れを強制的に解消させる『深礎』の力よ」
深礎の力?
リピカはまた祭壇のある段へと上がると、俺たちの方へと振り向いた。
「それは今日の本題の中で話すわね。さぁ、パウラ・マウラ―――」
「へっ!?」
パウラさんがいきなり話しかけられて体を大きく震わせた。
かなりビビっている。
「封印指定を持ってきてくれたのでしょう? こちらへいらっしゃい」
「し、承知いたしましたわ」
「イザイア、貴方も来なさい」
リピカは祭壇の奥へと歩いていく。
その虚ろな雰囲気はまるで亡霊のようにも見えた。
成立しない時間の跳躍が生み出した、女神の亡霊だ。




