Ëpilogue 端境期
一つの幕が下り、とある陰謀は終わる。
葬られたのは、古代の大魔術師、魔道の祖と謳われたエンペド・リッジである。彼は異界から転生し、そして奇抜な魔法をその生涯を通じて篤と編み出してきた。
親が子に読み聞かせる絵本には彼を悪とする物語も山ほどあるが、未だに魔術師界の中ではそのスター性を買うものは沢山いた。魔術ギルド、魔法大学ではもちろんのこと。
彼のようなカリスマがいれば、さらに魔法は発展しただろう。
魔法の発展は国家の繁栄だ。
王家でさえも"エンペド"の再来を望んでいた。
だが、現在のエンペドにはカリスマ性など微塵もない。
あるのは、執念と憎悪のみ……。
『イザイア・オルドリッジが憎い』という、たった一つの負の感情だった。
魔導書≪黒のグリモワール≫はあの世とこの世を繋ぐ冥府の扉。
その門へと投げ込まれた"エンペド・リッジ"だった憎悪の肉片は、冥界に至ることなく、その執念のみで現世の狭間にしがみついていた。
エンペドが肉片から解離できたのは、強烈な憎悪が瘴気となって放出されたためである。
彼は実体のない思念体として未だ現世に残留していた。
その事実は、媒体として憑依された"青年"以外、誰も知る由はない。
思念体は、現世に残留するための媒体を求めて彷徨っていた。そして『イザイア・オルドリッジが憎い』思念体は、好適な媒体をたまたま近辺で見つけてしまったのである。
それは同じ憎悪を抱く青年だ。
異形の黒妖犬として地下牢に閉じ込められていた青年。
青年は親和性の高さでいえば、生体憑依の水準には達していない。
しかし、イザイア同様にエンペドの血を受け継ぐこと、同じ負の感情を強く持っていたこと、それらが適合し、『イザイア・オルドリッジが憎い』思念体は青年と融合を果たした。
斯くしてエンペドから解離した思念体は新たな肉体を手に入れたのである。
まだ戦いは終わっていない……。
その日、オルドリッジ家では帰還した三男の誕生日パーティーを行っていた。彼らが忘れていたのは地下牢にいたはずの黒妖犬である。件の戦いで牢屋から解放された異形の犬は、バーウィッチ郊外へと逃げ延びていたのだった。
―――月夜が煌々と照らすバーウィッチ郊外の平原に、淀んだ遠吠えが鳴り響く。
◆
(因縁の戦いの日。ラインガルド視点)
破壊された地下牢から、三叉の腕の赤黒い怪物と浅黒い肌の男が過ぎ去ったのは一瞬のことだった。
気づけば、一緒に幽閉されていた高貴な衣装に身を包んだ男もいない。
視界が黒いオーラで霞む……。
冷え込む牢屋とは相反して、肉体は熱いままだ。
熱を帯び、全身の拍動が憎悪の念を加速させていく。駆けろ、と命じてくる。
僕はただただ、地下から這い上がり、一心不乱に外へと飛び出した。
重たい意識に反して体はやけに軽かった。
まるで悪夢でも見ているようだ……。
狂った頭の中に描くのは、繰り返される死の精製。
人の世とは悍ましいもので溢れている。
意味のない螺旋構造。殺し、憎み、戦い、そしてまた殺す。誰かが誰かを喰い、喰った側がまたいつかは喰われる。そんな連鎖の繰り返し――。
昔、楽器を教えてくれた魔女が同じようなことを言っていた。
魔女でも聖女でもいい。
こんな僕を、誰かに助けてほしかった。
…
市街から離れた後は平原でひたすら動物を狩った。
八つ当たりをするように、魔力で伸びる黒い爪を振るう。
斬り払い、血潮を撒き散らし、肉を喰らう。
いくら当り散らしても紛れないこの感情。
憎い。
憎い憎い憎い。
憎いのは動物でも、世界でも、人の世でも、なんでもない。
僕が憎いのはこんな運命に陥れたあの叔父―――イザイア・オルドリッジだ。
あいつさえいなければ。
あいつさえいなければ僕はこんな存在にはなっていなかった。
こんな黒の異形の怪物に成り果てることなんてなかったのに―――!
魔力の滓が漂う両手を眺める。
身体中を見回してももはや人間族だったとは思えないほどに肉体が変質していた。胴体は細く伸び、脚の骨子についても、腿が短く足先が長い。直立時はつま先で立つのが自然体。
これでは闇の魔力を漂わせるだけの犬系統の獣人族だ。
憎々しい。
爪を振るう矛先もなく、僕は自分の肉体を切り裂いた。
腸を爪で抉り、黒い魔力を振り払う。
だが、飛び散るのは粘り気のある魔力の残滓のみだった。めちゃくちゃに掻き毟るも、肉体はすぐに自己再生し、元の形状に戻ってしまった。痛みも感じない。
今の僕は怪物だった。
こんな身体になったのは確か女神が、
―――イザイア・オルドリッジが憎い。
オルドリッジの屋敷に向かったのは確かアルカナ・オルクスが、
―――イザイア・オルドリッジが憎い。
支離滅裂になっていく。
何を思考しても、結論はこんな憎悪に帰着する。
そんな折、広大な平原に揺らめく、透明の靄が視界に映った。透き通っていて何もあるはずがないのに、人の形をした陽炎のように見える。
僕が透明の靄を眺めていると、なぜかその靄がイザイアのように思えてきた。それが鍵刺激となって本能を刺激するように、ただ「殺したい」という衝動が沸き立った。
平原を四つん這いで駆け抜け、透明の靄へ向かって一直線に進む。
爪で切り裂こうと腕を振り被った、その刹那。
"生体憑依……"
―――人型の靄が、ニタリと笑った気がした。
◆
融合後の肉体の組成変換は難しいことではない。
イザイアだった頃にはいくらでも筋繊維の隙間に魔力の繊維を通して肉体強化魔術を行っていた。
専門は物理工学だが、生理学についても学識がないわけでもない。一本一本の筋フィラメントを少しずつ魔性のものに置き換えていくことで完全代謝するまでに半年の期間で筋組織は魔性のものに置き換わる。
そうして出来上がるのは機械でも、人肉でもない、魔造の有機体だ。
奴に敗北したときに突貫工事で作りだした血肉の泥人形では神経回路が不十分で思考も億劫だったが、今この新鮮な媒体を手に入れた時点では正常な思考も保てていた。
この不便な体を少しずつまともな人間のものに戻していきたい。
しかし、この肉体はどうにも闇の魔力が蹂躙してくる。
魔力による骨格の変型を試みても自動修復によって人間族の姿には戻れない。
それに≪死の精製器≫という概念が心情を乱してくるのだ。
……ケアのやつめ、小僧を瘴気に浸して遊びおったな。
そもそも獣人の形態をしているのはこの瘴気によるようだ。転生者として有象無象の闇を見てきた私には問題ないが、オリジナル人格との"融合"の弊害か、多少は悪影響を及ぼす。
エンペドだった頃の人格とはだいぶ異なる。
エンペドでもあり、ラインガルドでもあるという経験の二重写しだ。
融合した人格の方が厄介だった。
……慣れるまでは時間を置いてこの状態のまま過ごすしかない。
なにより目的は『イザイアを殺す』ということに他ならないのだから。
人格が乱れていようが関係はないだろう。
自己分析で一度、心を鎮めよう。
私が得意とするのは闇魔法。
―――の中でも、とりわけ、契りを交わして霊体を魔力に写し取る召喚魔法か。他の魔法が使えないのは不便だが、これが使えればイザイアを殺せないこともない。それに身体能力も申し分ないようだ。十分戦えるだろう。
ひとまず、少しは準備期間が必要だ。
私の記憶の中にある者どもを頼りに、少し物資の補給といこうではないか。
◆
何日か掛けて、水の都ダリ・アモールへと辿り着く。
ここにはあまり馴染みがないが、ラインガルドの記憶を辿るに裏組織"アルカナ・オルクス"のアジトがあるようだ。川沿いのアパルトメントの一室がそうらしい。
戸を乱暴に開け放ち、その一室へと入っていく。
埃臭く、黴臭く……下賤な臭いが鼻を刺す。昼間だというのに、締め切られた仄暗い部屋は静まり返っていた。
俺の侵入に気づいた巨漢が大声をあげ、その静寂を破る。
「おい、テメェ何者だ! ―――って、まさかラインガルドか?」
「………」
目深に被ったフードを剥ぎ取られそうになった。素早くその豪腕を掴んで、ぎりっと力を込める。
こいつは盤石のウーゴ。
アルカナ・オルクスのボスだ。
入れ墨だらけのスキンヘッドが目立つ。
そんな見た目のわりに意外と慎重な男だったという覚えがある。
「お……? おぉう、まぁいいが……」
私に腕を掴まれたのが気に食わないのか、ウーゴは眉を顰めた。
「曲がりなりにも心配してたんだぜ。お前ェは期待の星だからよぉ……へっへっ……」
私の雰囲気の違いに気づいたのか、どうもウーゴは煽るような口調だった。
距離をあけて部屋の中央の方まで歩いていく。
警戒しているのか……?
「オルドリッジ家での"戦利品"は仕方ねぇ。今回ばっかしは不問にしてやるよ。どうやら黒い犬が暴れまわったって大混乱だったらしいからなぁ?」
ウーゴはいつもの下卑た笑みを浮かべながらこっちをちらりと見た。口調な余裕ぶっているようだが、やはり私を警戒しているようだ。動きも落ち着きがなく、視線も合わせようとしない。心理的優位に立っているのはこちらのようだ。
これなら物資の入手も楽だろう。
「ボス、僕はしばらく組織から離れる」
「……あぁん?」
「だから金と食糧をよこせ。事が終わったら倍にして返す」
こういう輩にはごちゃごちゃと理屈を並べるよりもシンプルに要求を言い渡した方がいい。
だが、ウーゴはそもそも私がこの組織から出ること自体、気に入らないようだ。
「―――ラインガルド、誰がドブネズミだったお前をそこまで育ててやったと思ってんだ」
ウーゴが怒りの表情を露わにする。
やはりそうなるか。
「久々に顔だしてきやがったと思ったら………一から調教し直さねぇとダメみてぇだなぁ、おい!」
巨漢が声を張り上げる様子は威圧感がある。
私はそれを冷静に眺めた。昔いた平和な世界では暴力は確かに怖ろしいものだった。だがこの世界は暴力よりも怖ろしい力がある。
それが魔法だ。
「大目に見てやろうってときにふてぶてしい野郎――――ガッ……!!」
ウーゴの足元に"黒沼"を作りだす。
巨漢が床下へと徐々に嵌っていった。
闇魔法といえばなんだったか……。
イザイアの頃に使えた闇の魔法はそれほど多くない。修得だけして奴はあまり好きこのんでいなかったようだから、乗り移った後にも能力を引き出すことはできなかった。
私の記憶にあるグレイス・グレイソンはこんな仕掛けを作っていた。
平面魔法陣を対象の三分の二の直径で床下に展開し、闇の魔力を敷き詰める。その上に立つ者を床の魔力に落とし込み、あとは魔力に浸していく。"黒沼"と呼んでいるそうだ。
腰の半分まで浸った巨漢が大きな悲鳴をあげた。
「うぁぁああああ!!」
闇魔法では物理的な攻撃は出来ない。
火や氷や雷のような魔力の結晶は直接当てることができても、光や闇といった実体のない粒子では通過してしまう。だから基本的に"浸食"して効果を発揮する。
"ポイズン・キャプティブ"がまず基本だ。
精神汚染させて、標的を傀儡にする。
―――オーブリーが中々好んでこの技を使っていたのもこうして実際使ってみると頷ける。半身だけ床から突き出た巨漢の様子は滑稽だった。血管を通して黒々としたものに汚染されていく。
「……ぎぇ……ぐ…………ぶ………!」
そして次に試すのが"召喚魔法"、"使役魔法"と云われるもの。
この辺りは無詠唱者の私でも最低限の詠唱が必要となってくる。冥界の死者に声をかけ、契約を交わすためだ。闇の魔力自体を器として、霊体を憑依させる。
契りを交わす、序文は決まっている。
「―――サタンよ、我が僕を遣わせ」
それぞれの属性の魔法にはフレーズというものが重要になる。
火はカノ、水はラグズ、氷はイース、雷はパース、光はオセル、闇はシャイタンまたはサタン、治癒はゲーボ。どんな詠唱魔術でも一句の中にこの言葉がなければならない。
「出でよ、"黒妖犬"」
呼びかけに応じて、半身だけ床から突き出たウーゴの傍らに凛々しい黒犬が出現した。
やはり使いやすい。
冥界への呼応から魔力への霊体憑依はとてもスムーズだ。あの父親も、なかなか息子にはしっかり魔術を教えていたのだな。
「ひぃい……! だ、誰か助けてくれっ……!!」
私の実験の最中、ウーゴは引き攣った声を上げて仲間を呼んだ。
その声を聞きつけ、隣室や集合住宅の至るところからアルカナ・オルクスの団員たちが雑踏交えて部屋に踏み込んできた。部屋の様子を一頻り見てから、蛮族どもはなんだなんだと動揺していた。
「ふむ、頗る面倒だ。す・こ・ぶ・る・な……」
もう交渉などどうでもよい。
必要な物資を掻っ攫ってこんな輩とはおさらばだ。
それに、慣れない闇魔法の練習台としてこの状況は非常に都合が良い。
幸いにも魔術の手練れはいないようだし、組織ごと潰してやろうではないか。
―――僕も、こいつらにはいつかのお返しをしてやりたいと思っていた。
更新再開日(1/30)より前に、別エピローグを入れておきたかったので更新しました。




